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『次の生き方』(抄)

プロローグ 清豊を求めて

◆三つの啓示

 早くから手を着けておいてよかったと思っていることが私にはある。「エコライフガーデン」と呼ぶ循環型の庭作りを、サラリーマン生活と両立させながら四十数年も続けてきたことだ。どうやら私は、生きながらにして天国で暮らす夢を追い求めていたのかもしれない。今道友信さんの『ダンテ「神曲」講義』によれば、天国とは働かずにぐうたらに過ごせるところではなく、やりたい仕事がいっぱいあって、好きなだけ(いそ)しめるところだという。もしそうならエコライフガーデンは私にとってはまぎれもなく天国である。

 そこは、母の真似から始めた農作業が切り開かせた庭だが、次第に遠き未来を見つめる空間になっていた。当初は、生活の一部として始めた庭作りだが、いつの間にか私たちが庭の一部であるかのような立場へと逆転し、私たち夫婦はいつしか「庭宇宙」と呼ぶようになった。とりわけオイルショックを啓示と受け止め、環境問題や資源枯渇問題などと矛盾しない生き方を目指すようになり、この庭を一つの小宇宙とまで見るようになっている。

 こうした生き方のきっかけとなったのは、一九歳の時に聞いた知的障害のあった農民、源ちゃんの一言だ。人類最初の人工衛星が打ち上げられた夜に聞いた「そうやって石油なんかボンボン抜いてたら、湯たんぽと一緒でいつか(から)になるな」である。翌春、私は二年前から開墾し始めていた山裾の荒れ地に植樹を始めた。地下資源が「有限」であったことに気づかせたこの一言が、オイルショックを私に啓示と感じさせたのだろう。大学へはインダストリアル(工業)デザインを学ぶために進んだが、キャンパスはこの小宇宙とは対極の空間で、自然を疎外したり化石資源を無尽蔵と考えたりする意識が支配していた。

 振り返れば、源ちゃんの一言やオイルショックを私に啓示とまで意識させたのは、幼児期の体験だと思う。伯母からゼンマイなどの山菜採りを通して村の「捉」を諭されたが、翌年も同じように収穫できるようにする村の不文律は、私に「自然の摂理」を教え、得心させた。この生涯最初の記憶に残る得心は、子どもの直感が働いたに過ぎないのだろうが、「自然に対する畏敬の念」を心に刻ませている。私にとって、これが人生最初の啓示と見てよいだろう。

 荒れ地は今、約二〇〇種一〇〇〇本の木が、燃料、果樹、薬木、香木、生け垣などの役割を担いながら入り交じって茂り、小さな森をなしている。シュロやモチ、ヤツデやアリドウシなど小鳥の糞から育った大小さまざまな木もある。小鳥が増やしたヤツデやアオキは、移植されて目隠しの役目を担ったりする。それら個別の役割の他に、樹木はすべてが揃って空気の浄化や気温の調節、あるいは燃料や腐葉土作りなどに役立つ。

 菜園ではいつも二〇種類ほどの野菜が、野草と入り交じるようにして育っている。他に、ウド、フキ、ミョウガ、カンゾウなど元々から一帯にあった植物に加え、オオバ、ミツバ、ツワブキなどの持ち込んだ植物が一緒になって自生しており、食材や薬草やハーブとして活躍する。立木に交じるようにして竹も茂っているが、竹はエンドウなどのつる野菜やトマトなどの背が高くなる野菜の支柱や吊るし柿の軸に使えるだけでなく、(たけのこ)料理とか竹酒を楽しむ爛酒の竹筒やお猪口にも生かせる。

 

◆二四時間監視員

 早春は庭で採った七草粥から始まる。ウコギ飯や杜仲茶(とちゆうちや)やお茶の葉を炊き込んだ茶飯の季節を経て、色とりどりに紅葉した柿の葉を使う柿の葉寿司で晩秋を迎える。その間に、入浴剤にする野草やハーブを刈り取ったり、苗から育てた(ホウ)の木の葉と妻が仕込んだ味噌を使った朴葉味噌を楽しんだりする。

 この庭は、野生動物にとってもオアシスであってほしい。ヤモリやカエル、クモやバッタ、ミミズやモグラなどが自生し、キジバトやイタチが縄張りにして住みつき、キジやタヌキが餌場にすることもある。今流にいえば、エコライフガーデンとは、人間も自然の一員だと自覚して住む一つのビオトープ、といってよいだろう。

 こうした庭を目指したわけを振り返ると、収入以上の豊かな生活を夢見たからだと気づかされる。勤め先を大阪の商社に得ていながら、通勤に便利なところに住もうとはせず、当初は水道も電気も、いわんや下水道も通っていない土地に小さな家を建てたのだから。そして不便を覚悟で住みつき、菜園や植樹などに勤しむ道を選び終の住処にしてしまっている。

 二十歳(はたち)やそこらの若者には下水道はもとより水道などを引いたりするゆとりはない。そこで思いついたのが排水の分別や二四時間監視員制度である。屎尿(しによう)は有機肥料にし、雨水や風呂の残り湯は庭や畑の水やりに活かす。その他の排水は庭の一角に小さな窪地を作って流し込み、地下水に戻す。

 問題は地下水に戻す排水だ。それを流す小川や沢にサワガニやドジョウなどを住まわせ、自分たちが犯しかねない失策を命懸けで監視してもらうことにした。磨き砂の代わりに洗剤などを使うとドジョウなどの二四時間監視員を死地に追いやりかねない。

 この小倉山の麓にある庭は、元はといえば、戦時中に食料増産の畑として開発された赤土の傾斜地だった。今でこそ村には一〇〇軒以上もの家屋があるが、当時は常寂光寺や落柿舎(らくししや)という(いおり)も含めて一六軒しかなく、過半を水田が占める隠れ里だった。病身だった父は生い先が短いものと自覚して、この地目「山林」の開発地を伯母のつてで三反(約三〇〇〇平方メートル)手に入れ、妻子に農業で生き延びさせようとした。

 その後、世の中は豊かになり、父も八年間の闘病生活の末に一命をとりとめた。わが家の生活も楽になり、畑は放置された。一帯の田畑は次々と切り売りされ、宅地化した。戦後の農地改革で小作農家は田畑をただ同然で手に入れながら、現金化してしまったわけだ。村にいた二〇人足らずの子どもは、私を除いてすべてが都会を目指して去っていった。

 地価が坪五〇〇〇円だった一九六三年、社会人となった翌年の私は、「(会社に)もっと近いところに引っ越そう」と両親に勧められたが、この土地から離れることに反対し、住宅金融公庫に申し込んで九四万円の小さな家を建てた。水道や電気さえ来ていないのに家を建て始めた私は笑い者にされた。その後も、週末に畑仕事をしていると子連れのハイカーによく教材にされた。「ぼく見なさい。勉強せんと、日曜まであんなことせんならんよ」と。

 もちろん私はくじけていない。むしろ源ちゃんの一言で覚醒した私は、世の中で生じるさまざまなことを一つの仮説と照らし合わせて見つめるようになり、有限性を人為的に煽ったオイルショックを第三の啓示にして確信に近いものを心の中で固めた。

 誰だって、身近な小川や水田からタニシやメダカなどが次々と姿を消す現実を目の当たりにすれば、社会で生じる些細な現象やニュースにも敏感になるだろう。いわんや、自然への畏敬の念を刻み込んだ心で受け止めたら、それら現実の背景を検証したり、洞察力を働かせて世の潮流を読み取ったりして、決断や決意に結びつけたくなるに違いない。

 その後、西ドイツが一九九四年に循環経済廃棄物法を連邦法として成立させ、循環型社会への移行を(うた)いあげたが、そのときは喝采を贈った。わが国が二〇〇〇年に循環型社会形成推進基本法を制定し、未来に備え始めた時は胸をなでおろした。

 ウイークデーはファッションを手掛ける猛烈商社マンだったが、週末は三反百姓になり、誰にでもその気になればできる野良仕事に夢を見出し、ゴルフやスキー、マージャンやちょいと一杯などにはまったく関心を向けなかった。そして商社の喧騒と静寂な庭を行き来している間に、私は過去に戻ろうとしているのではなく、確かな未来社会の一つのモデル、循環型の理想の生き方を、つまり新しい豊かさを創りだそうとしている、と自覚をするようになった。

 

◆新しい豊かさ

 この生活に妻が加わり、家族が一つになって助け合う生き方になった。たとえば、佃煮の作り方やお正月の迎え方も家族が役割を分担して取り組む。佃煮は、私が畝を作り、妻がトウガラシの苗を植える。草抜きは妻が担当し、私が水やりをする。母が葉をちぎって汚れを取り除くと妻が炊く。お正月は、母と妻がお節料理を分担して作る。父は庭掃除をし、私は裏山から採ってきたウラジロや庭のミカンなどを使ってしめ縄を作る。餅つきは、父が竃番(かまどばん)を担当し、家族総出でつく。妻が年越しソバを作っている間に、私は庭のダイダイを使ってお鏡餅を飾る。そのころには、近所の常寂光寺から除夜の鐘が聞こえてくる。その梵鐘を一つずつ突くために寺を訪れ、近隣の人たちと新年の挨拶を交わし、寺が振る舞うおぜんざいを御馳走になってから帰り、自家製の入浴剤が入った風呂につかって残りの鐘の音に耳を傾ける。

 当初から私の散髪は妻がしていた。いつしか妻の髪を私が切り、続いて妻が父の、ついには母の髪も切るようになった。妻は菜園で採れる種類が限られた野菜を日々の調理に生かすことに情熱を傾け、私はそうした創意工夫を家族と一緒に味わうことを最優先する。社会では生活の営みを次々と外部化し始めたが、わが家では逆に内部化に努め、地域通貨さえいらない家族共同体の力を蓄えていった。

 妻はいつしか自己流で人形を創り始め、寸暇を惜しんで創作活動に立ち向かうようになった。両親は雑多な用事までいいつけたが、妻が人形を創り始めると「あの子にしかあの人形はできない」といってそっとした。妻は好きな趣味の世界に浸れるようになると家事も楽しくなったのか、味噌も漬け込み始めた。気がついたら創作人形作家と呼ばれるようになっており、仲間が増え、アトリエが必要になった。

 アトリエに併設した茶話室を近隣の主婦から喫茶店にしようと提案され、わが国初といわれる禁煙喫茶店を誕生させ、これを好機と見て私は庭の一般開放にも踏み切った。いずれは相続税に泣かされそうだと予測していた私は、土地を小割りにして売り払うことも考えたが、思い止まった。広い土地の独り占めもいけないが、小割りにすれば一帯の景観や心地よさなどアメニティはどうなるのか。そこで、両親の賛同と妻の協力を得て庭を一般開放することにしたのだ。手入れは嫌いだが散策は好き、という人も多いはずだ。

 妻は忙しくなった。主婦、年老いた私の両親の世話人、家庭薬園や日曜大工の助手、二匹も三匹もの犬の飼育係、人形作家、人形教室の主宰、数名の女性と共に守ることになった喫茶店の経営など、一人何役にもなる。

 私には塾ができた。「ポスト消費社会の旗手たち」(朝日新聞社・一九八八年刊)との副題がついた拙著が題材になった。バブルが流行語になる直前の、消費社会の真っ最中であっただけに無視する人が多かった処女作だが、興味をもつ人もいたわけだ。ポスト消費社会に焦点を絞った勉強会は、すでに一五年が経過し、今では家族連れのパーティーや合宿もする仲間になっている。

 こうした生き方や考え方を通して、今では風呂を沸かす薪やストーブにくべる割り木、庭で使う水とかお惣菜に用いる野菜などは自給を旨とし、自分たちが出す有機物をすべて肥料に還元したり水を循環させたりする生活空間・エコライフガーデンができあがった。

 心に秘めた夢に向けて、自由になる時間やお金や情熱を集中的に注ぎ込むことによって人生に彩りを添えようとしたわけだが、家族が手分けをしてお互いの居場所を確保しあい、感謝の言葉や達成感を報酬とする生き方を手に入れていた。

 老子は、「足ることを知れば、辱められず、止まることを知れば、(あや)うからず」と教えている。エコライフガーデンという天国のおかげだろうか、私はいつの間にか世間とは異なる豊かさを求めるようになっていた。

 二五〇年ほど前に、豊かさとは収入が多いことだとアダム・スミスが語り、その一〇〇年後にジョン・S・ミルは豊かさとは消費が多いことだと指摘しており、最大の収入や消費が最大の豊かさに結びつくかのように教えている。しかし私は、こうした意識から解放されることが次の時代が求める新しい豊かさを手に入れる秘訣だと思うようになっていた。

 これまでの私たちは、地球上のすべての人が真似たらたちまちにして地球環境を破綻させかねない生き方をしていた。なぜなら、工業文明圏の人口は地球人口の二割に過ぎないのに、世界が毎年産出する地下資源やエネルギーの八割と食料の五割を消費し、炭酸ガスの六割を放出している。これからは、自分たちが豊かになるにしたがって世界が平準化され、自動的に空気や水がきれいになり、四季の花が咲きほこり、蝶が舞い、小鳥がさえずるような生き方を編み出し、そこに新しい豊かさ、清豊を見出さなければいけないはずだ。

 

◆三分割法で新境地を

 この過程の七九年に、商社を辞めていた私は再就職先を神戸に得て、社長室長を拝命している。思えば商社に在籍した一七年近くは、終始「開発」という二文字がついた部門に配属されていた。立場を変えた私は、社内ローンで新居を求める社員と面談する役割も担い、多くの若人が神戸の沖合に開発された新島・ポートアイランドのマンションを求めていることを知った。そこには新本社ビルも誕生していた。バブル以前のことだったが3LDKで三七〇〇万円もした。

 私は「同じ大金を使うなら、もっと有効な使い方がある」と、若人に持論の三分割法を開陳した。たとえば、三七〇〇万円を、一〇〇〇万円、一〇〇〇万円、一七〇〇万円と三つに分けて使う方法である。「まず最初の一〇〇〇万円で、なるだけ広い土地を買う」。通勤に片道二時間ほどかける気なら坪一万円で買えた。路線バスも走っていないところを選び、最寄りの駅まで自転車やバイクなどを使って三時間ほどかける気なら、居住地としては未開発だが、坪一〇〇〇円の土地もあった。

「そこに一〇〇〇万円で小さな家を建てる。そして、日曜は奥さんと二人で木の苗を植えたり、畑にしたり、池を掘ったり、と自分たちの未来を語り合って理想の住処にしていくんだ」

「残りのお金で、会社の近くにワンルームマンションを買い、ウイークデーの基地にする。奥さんに時々来てもらったらいい」。これを私は実践し、週に一度は妻に掃除や冷蔵庫の整理などのために泊まりがけで来てもらっていた。その後、大垣に勤め先を変えたが、そこでも小さな根城を用意していた。

 これまでは、三分割法を語っても実践する人は現れなかった。無理もない。私にも循環型の庭作りを途中で投げ出したくなったことが一度ならずある。それは、社会通念のもどかしさや国家のありように対する疑念からでもある。

 多くの若者は、とりわけ女性は、土や昆虫を忌み嫌う人間に育てられている。「虫めずる姫君」を奇妙な目で見たり、田舎の学校では、子どもたちがカエルと遊ぶとか(ハチ)の子や栗を生で食べるなど土の匂いがしそうなことをしていると、先生は「そんなことしてたら町に出てええ生活でけへんぞ」と脅かしたりした。

 妻も当初は蛇を見ると鳥肌を立て、引きつけを起こしかねない人だった。だが、庭に住みつくキジバトや山から来るタヌキなどと触れ合っているうちに、庭に住む蛇の顔が見分けられるまでになった。ムカデに咬まれても以前ほど腫れなくなった。だが、社会では食べず嫌いを打破する気概に欠けた人が多い。

 木が一本も生えていない地目「山林」の荒れ地が、家を建てると「宅地」に地目を変えられ、固定資産税が急増した。現実は逆に、樹木のなかった土地が地目通りの山林のようになったのに、税率が跳ね上がったわけだ。また、自分たちの出す生ゴミや屎尿はすべて庭で還元し、誰にも負担をかけていないのに減税されず、下水道ができると上水使用量にスライドして下水料金をとられてしまう。

 私がこの隠れ里では戦後最初の新築を試み、隠れ里の宅地化に先鞭をつけたようなものだが、美しくて住みやすいところに変えていけば自分の首を絞めることも知った。その景観や環境に憧れて移り住む人を増やす。その時に小割りにされて高値で売買された地価が一帯の課税評価額になってしまい、売却を考えない人には威嚇になる。

 わが国は土地の位置づけ方を間違っている。土地は長年にわたって慈しみ、アメニティの高揚のために生かすべきものだ。ニュージーランドなどは道行く人のために庭をきれいにする。かつてオランダ人はチューリップの球根を投機の対象にしたが、土地はその対象にはせず、利ざやを求めた土地の売買を架空の取引(ウインドートレード) と見ていたことは『人と地球に優しい企業」(講談社・一九九〇年刊)で紹介した。

 その後、地価はバブルで急騰し、父は相続問題で不安を抱いたが、「一〇〇歳まで生きてくれれば地価はきっと元の値に戻る」といって私は安堵させた。このエピソードは『このままでいいんですか もうひとつの生き方を求めて』(平凡社・一九九四年刊)に収めた。もし今も父が生きておれば一〇〇歳を幾つか超えた勘定だが、偶然とはいえわが家の一帯はバブル以前の地価まで下落している。

 やがて社会は、コンクリート砂漠や不健康な空気を問題にするようになり、きれいな空気を提供したり気温調節に寄与したりする樹木に、あるいはそうした樹木を茂らせている庭には、補助金を出したり相続税を減額したり免除したりするなどの保護の手を差し延べ、景観の保全などに努めざるをえなくなるに違いない。

 

◆エコビレッジ

 四年前のことだった。私は新たなところで三〇〇〇坪の土地を購入する夢を妻に語ったことがある。これまでの三反(約一〇〇〇坪)の土地で野菜や薪をまかなう程度ではあき足らず、「もう一〇〇〇坪で穀物を、さらにもう一〇〇〇坪で山羊や鶏を飼い」と、蛋白源の自給まで夢見たからだ。古墳時代の墳墓が点在する人里離れたその茶畑は坪一万円だと聞いた。妻は「できあがるのはいつですか」と完成時期を尋ねた。

 エコライフガーデンは、誰にでもその気になればいつからでも作れるが、完成までには相当の時間と努力を要してしまう。つまり、質実な機能を優先するエコライフガーデンは、見かけを大切にする「イングリッシュガーデン」や「枯山水の庭」とは違い、資産家でなくとも作れるが、土地柄を知り、そのエコシステム(生態系)を計算に入れ、野生の動植物の自生と歩調を合わせるなどの気配りと時間が必要である。だから、作り直すには、年齢的に二〇年ほど遅きに失したわが身を嘆き、三〇〇〇坪計画はあきらめた。

 それにしても、私が提唱した三分割方式に何組かの夫婦が取り組み、しかもその幾組かが近しい関係で取り組んでいたら、今ごろはそれぞれの家庭が得手不得手とか好き嫌いなどを話し合って役割の分担や補完をしあって「エコビレッジ」を誕生させていたに違いない。あるいは、二〇人ほどいた村の幼友だちの幾人かが村に踏みとどまっていたら、私はエコビレッジを提唱し、三〇〇〇坪計画など夢見る必要はなかったことだろう。

 こうした私の意見や心境を、大垣市主催の一〇回連続市民講座、「女性アカデミー クオリティ・オブ・ライフ(QOL=生活の質)を求めて」を通して知ったある女性は、二人の友人に呼びかけ、次年度の講座を揃って受け、お互いにご主人や子どもと語り合い、エコライフガーデン作りに手を着けることになった。それぞれが数百坪の宅地化できる農地を買い入れ、近隣関係になることにした。彼女たちはこれまでの消費生活には便利であった住居を捨て、循環型の生き方ができる生活空間を手に入れ、創造的な生き方に挑戦することにしたようだ。

 こうした生き方を目指すなら、そのための土地なら日本にいくらでもある。今ならとても安く手に入る。日本は狭いといわれるが、全国土三七万平方キロメートルを人口割りにすれば一人当たり約三〇〇〇平方メートル・一〇〇〇坪だ。少なくとも国土の三割程度はエコライフガーデン作りになら生かせそうだ。それは三人世帯で三反・一〇〇〇坪の計算になる。農林水産省によれば過去一〇年で五〇〇〇の廃村が出たし、向こう一〇年で二〇〇〇もの村が捨てられるとの予測もある。そこは電気や水の便もある。要は見捨てられた土地、見捨てられようとしている土地を安く手に入れ、多くの人が憧れる土地に生まれ変わらせればよい。

 私は三〇〇〇坪計画を年齢的に断念したが、今では庭で採れた筍や野菜、トウガラシやフキの佃煮などは北や南にも発送され、逆に南や北から塩鮭やタン柑、著書や訳書、ハマナスのジャムや灰汁(あく)巻きなどが送り返されてくるまでになっている。コミュニティ(共同体)とは「お互いに」とか「皆で」という意味を表す「COM」と「贈り物」を意味する「MUNUS」から生まれた造語「Community」だといわれる。

 三人の女性は年齢なども配慮し、三家族で助け合って今の私たち夫婦のような生き方を目指すのだという。要は、何を捨て、何を大切にするのか、選択の問題だと思う。

 

◆潜在能力の触発

 ある夏、妻は庭掃除をしていてイラガという毛虫に初めて触れた。妻はとっさに畑に走り、ゴーヤの実をもぎとって割き、患部にその汁を塗りつけ、激しい痛みを治めたという。以後、私もこの直感にいざなわれた無意識の治療法を真似ている。これは、本来人間が備えている潜在能力の触発だろう。野生動物は今もそうした世界で生きている。潜在能力があるのに発揮する機会がない生き方では物足りない。妻はそうした自分の潜在能力に気づくたびに心が解放されるのか、生きる自信を身につけるのか、人形創作の意欲も湧かせている。創造活動も、いわば潜在能力の触発活動、本来の心を自由に解き放つ活動、いわば人間の解放といってよいだろう。少なくとも妻は、ムカデと同様にイラガも恐れないヒトになり、イラガの季節を迎える前に自然生えもするゴーヤを夏の主要野菜とするようになった。

 父はインフルエンザがもとになり脳梗塞で死んだが、火曜日が命日となり、母と妻は父の配慮に感謝した。初七日から始まる七日刻みの法事が、妻たちが守っている喫茶店「アイトワ」の定休日に当たっていたからだ。母は、父の七回忌の日に大腸ガンがわかり、手術をした。その後、希望にあふれた日を一年余り送った後、転移がわかった。最後は自宅での闘病を希望して二ヵ月余り過ごし、主治医に「あと、よくもって二日か三日」といわれてからさらに一月半も頑張った。医者は妻の看護に舌を巻いたが、私は母の配慮にも感謝した。喫茶店が一ヵ月間の冬休みに入った最初の金曜日の夜に、その日は私が勤め先のある大垣から帰る日だったが、母は目を見開いて私を迎えた後、父と同じように二人に看取られ、思い残すことがない様子で息を引き取った。

 妻の多忙を母が一番よく知っていた。きっと喫茶店が冬休みに入ってから息を引き取りたかったのだろう。当時、勤め先の短大は定員割れや廃科問題、リストラをして教員に訴えられるなどの窮地に立たされており、やむなく私は学長の任を受けた直後であった。母のおかげで、休講もせず、休暇もとらず、葬儀で学校関係者を騒がせるようなこともいっさいせずに済んだ。母が残した最後のメモは延命策不要、あとは二人に任せる、であった。

 両親は、激動の時代に生まれ合わせながら、自己責任のもとに、独自の生を営もうとする態度や姿勢に終始していた。その生涯は、身のほどをわきまえ、慎ましやかなものであったが、妻の人形創りなど個性の発露と気ままを峻別し、主体性を見失わず、自然に逆らわず、自然に誘われるようにして静かに世を去った。

 自然の中で起こることはほとんどがその場での一回限りのことが多い。だから自然を恐れる人もいるのだろうが、私たち人間もその自然の一部であり、やり直しがきかない一回限りの生を営んでいる。この認識のもとに、他の誰とも交換のできない独自の尊厳・個性をおおらかに解放しあえる社会や主体的な生き方を目指したいものだ。

 妻は、母から「鬼嫁じゃ」となじられることさえあったが、最後の数十日間の看病を通して心が通じたようだ。母の好物が手に入ると、まず仏壇に供えるようになっている。

 私たちは自分が心からやりたいことには労を惜しまない。時には寝食だけでなく命さえも惜しまないことさえある。そうした心境にする生き方や社会を求めたい。そう考えて、私は皆に馬鹿にされたり皆が捨て去ったりした生き方を選んだようなところがある。その人生は、過半が一つの土地に閉じ込められたものであり、土まみれになるものであった。しかし、そこは誰にも自由を奪われず、自分に正直になり、信じるところを貫き通し、自らを振り返って検証もしやすい空間である。

 これまでの私たちは、ともすれば所得や消費の増大に幸せを見出す傾向にあり、それが地球を破綻させかねない生き方に走らせたり、身勝手や不信感を蔓延させたりしていたおそれがある。これからは逆に、すべての人が真似たら次第にいろいろな問題や矛盾などが解消するような生き方に切り換えたいものだ。その根本は、環境破壊は全生物にとっての共通の敵だと位置づけることではないか。

 貧困とは、「自由を奪われた生を営んでいる状態」といってよいだろう。でたらめとは、「生きる礎を破壊するような自由の謳歌」といえそうだ。次の生き方にとって大切なことは、自由をはきちがえないことが第一だろう。これまでは生きる礎である自然を破壊しかねない生き方をしてきたが、それは心の貧困とでたらめを助長し、わがままや得手勝手を許すことを愛だと見まがう傾向にあったからだと思う。次の生き方は、身のほどをわきまえ、与えられた生活環境の中で、貧困やでたらめに陥らなくても済む独自の生の営み方を編み出し、それをいかに彩らせるかが課題だと思う。もちろん人それぞれだろうが、私たちは庭作りなどの手作業に創造的に取り組み、お互いの潜在能力を解放しあうことに人生の彩りを感じてきた。

 そうした彩りを鮮明にするために、私たちは愛のあり方を見直さなければいけないようだ。そこでわが家ではエコライフガーデンに、「愛とは」「愛と環」「愛永遠」の三つの意味を込めた「アイトワ」という名前を与え、近所の主婦たちの協力を得て一般に開放した。私たちは、愛とは何かと問われても答えられるわけではないが、幸いなことに、この空間を守る数名のメンバーは一八年前のオープン時と今も変わっていない。

 愛とは、同じ課題に意義を見出し、役割を分かち合い、心をくだきあえる同胞と共有したくなる空間に芽生えやすいものではないか。

 

 

1 幸せな家庭

 

◆希望を抱く

 昨年(二〇〇三年)の夏、一八年ぶりに訪韓し、釜山(プサン)から江陵(こうりよう)を経てソウルに至る半島縦断の旅をしたが、山の様子がすっかり変わっていた。かつての山という山が地肌を剥き出しにした国との印象を一変させられた。もちろん市街地には超高層ビルが林立しつつあったが、そこでも巨木を配した緑化が積極的に進められていた。食文化など守るべき文化は守られており、社会が目指している方向が理解しやすかった。礼儀正しく、目を輝やかす若者が大勢いた。旅行者と同じ食べ物を口にほおばりながら南北統一の夢を語る若者さえいた。大道に座り込むジベタリアンを目にしなかった。

 誰しも心に夢を秘めて生きたいし、夢がかなって一緒に喜びあえる家族や同胞が欲しい。そうした夢を描くのが正常であるはずの若者までが、わが国では希望を見失っている。

(財)日本青少年研究所と(財)一ツ橋文芸教育振興会が二〇〇一年七月に公表した共同調査によれば、アメリカ、フランス、韓国、日本の調査対象四ヵ国にあって、「二一世紀は希望に満ちた社会か」との質問に対して、わが国の若者は極端に悲観的な回答をしている。「とてもそう思う」と「まあそう思う」の肯定的な答えの合計は三四パーセント未満である。最高のアメリカは八六パーセント強、韓国七〇パーセント強、フランスも六四パーセント近くあった。

 きっとわが国の若者の目には確かな未来が見えていないのだろう。それは私たち親や教師や社会人が明るい未来を見失い、社会や家庭や学校などが目的喪失感や閉塞感を漂わせているからではないか。

 その点でいえば、私は幸せな道を歩めた一人だろう。多くの人が高度経済成長という時代の流れを満喫していた時代に、ささやかとはいえ独力でかなえることができる夢を心に秘め、情熱を傾け続けることができたからだ。それは、三つの啓示のおかげだろう。先に触れた自然の摂理を学んだ体験と、知的障害のある年上の友がポッリとつぶやいた一言、そしてオイルショックである。

 受験浪人をしていた一九五七年の秋、夜間に勉強をしていた私は気晴らしの散歩に出かけ、野良小屋を訪ねた。農民がイノシシから米やイモを守るために徹夜で見張っていたが、案の定、源ちゃんがいた。彼はいつも誰かの代わりに夜番をさせられていた。ひとまわりほど年上の源ちゃんに、私は人類初の人工衛星スプートニクについて知る限りのことを話した。彼は「見えるやろか」といって小屋を出た。二人で夜空を見上げていると、源ちゃんは今も忘れられない一言をつぶやいた。「そうやって石油なんかボンボン抜いてたら、湯たんぽと一緒でいつか空になるな」

 欲のない友の一言に、浪人の私は真理を感じた。人間は、人間が創出したわけではない有限の資源を、ただ同然で盗んでいる「自然ドロボウ」に過ぎない、との気づきである。そのころの私は、中学生のころにわかった肺浸潤がいっこうに好転せず、大学を出ても就職できないのではないかとの不安で神経を昂らせていたようだ。だから、この小さな真理を大げさに受け止めたのだろう。

 翌春受験が終わると、さっそく荒れ地に立ち向かい、母が用いていた農具と農法で植樹を始めた。それは、お金がなくとも可能な農法であり、土と水を大切にして自分たちが出す屎尿や生ゴミや灰を肥料に生かし、木の苗や野菜を育てる野良仕事である。それが次第にゴミだけでなく排水の分別まで気づかせ、果樹や燃料にする木だけでなく薬木や香木などさまざまな樹種まで加えさせた。

 その後商社に勤め、少しは世界の情勢や仕組みに明るくなったころにオイルショックを体験した。それが、人間は自然ドロボウよりも巧妙な「自然強盗」ではないかと私に感じさせ、三つ目の啓示にさせたのだろう。人為的な枯渇感によってパニックに陥れられるような生き方はしたくない、と思った。その後、しばしば人生の岐路に立たされ、厳しい選択を迫られたが、やけくそにも保守的にもならず、もちろん落胆もせず、むしろそのつど「足るを知る」心を育み、次第に希望が細部を明らかにするのを実感している。

 

◆画一化を警戒

 近年、画一的な人が多くなったと嘆く声がよく聞かれる。どうやらそれは、便利さや快適さ、あるいは効率性やスピードなどを求めた結果らしい。私たちは便利で快適な住居を求めて莫大なお金を投じながら、自らを没個性にしていたおそれがある。

 この傾向は、衣料や弱電気製品だけでなく住宅までがフォード方式の工場で生み出されるようになってから顕著になっている。住宅は「住むための機械である」とかつて建築家のル・コルビュジェは語ったが、一九五一年にアメリカのロングアイランドのジャガイモ畑に出現したレヴィットタウンはまさにその典型だろう。

 開発者のウィリアム・レヴィットにちなんでレヴィットタウンと呼ぶこの建て売り住宅は、自動車を大量生産するためにフォードが考え出したベルトコンベアー方式の専用機械が生み出した。この二万戸近いプレハブ方式の画一的な住宅には、おもに新婚組が住んだ。太平洋戦争などの戦場から帰還した兵士も多く含まれていた。やがてアメリカはハンバーガーなど食品までフォード方式で生み出すようになる。

 夫の多くは給与所得者に憧れて専業化・分業化された仕事についた。市場はフォード方式が生み出した複製品(コピー)であふれるようになり、お金さえ出せば誰にでもまったく同じものが手に入るようになった。妻の多くはスイートホームを守り、次々と工場から送り出される既製服や家電製品あるいは調理済み食品などコピー(複製品)を購入する生き方に憧れ、次第に流通の末端で消費を担当する者として組織されたような立場にはまり込んでいく。それは指先のタッチ一つで沸くような風呂に入り、同じようなベッドに転がって同じようなテレビ番組を見ながら、同じような冷蔵庫から同じような飲物を出して飲むような生活に結びつき、家屋の画一化だけでなく生き方まで画一化した。

 お金さえ出せば誰にでも同じものが手に入る生活は、お金さえあれば何でも欲しいものが手に入るかのような錯覚をさせ、拝金主義をはびこらせた。逆に、お金がなくなれば水さえ飲めなくなる生き方、つまりライフラインまで他人任せにする生き方に不安を感じなくさせた。それは衣食住のすべてをコピーで済ませる生き方に誘い、各人固有の創造力はもとより生きる力や機転まで不要にしがちで、生活を画一化しただけでなく、人間まで画一化したおそれがある。

 やがて、工場で作られたコピーを粗末にすることが豊かさだと錯覚したかのようにゴミを増やす生き方になっていく。それはモノを粗末にする社会にしただけでなく、ついには、人間まで粗末にする社会にした。豊かに見える憧れの住宅は、住むための機械であっただけでなく、住む人間までも機械のようにしていたのかもしれない。

 逆にわが家は、時代遅れだとか時代に逆行と笑われたが、家族が手分けをし、足並みを揃えなければ風呂一つにも快適には入れないような生活を目指し、その生き方に合わせて住処を改造した。こうしたオリジナルを尊重する生き方は、人並みの幸せは期待できないかもしれないが、家族がめいめいの役割と居場所をそこに見出し、心を一つにしてあたれば、他とは比較しにくい独自の幸せや安らぎを感じさせる。

 

◆大きな子どもにならない

 住む人を機械のようにする生活は親子関係を希薄にするのだろうか。二〇〇二年一月一六日付けの読売新聞は、「一〇代は親を尊敬せず五六パーセント」の見出しで、同社の全国世論調査結果を伝えた。その主因として、次の三つをあげていた。家庭できちんとした(しつけ)が行われていない。社会全体のモラルが低下している。親子のコミュニケーションが足りない。

「日本の親子 心離れてるヨ 『子は宝』五二パーセント 『親を尊敬』 三七パーセント」との見出しをつけた記事を京都新聞が二〇〇二年に報じた。東洋大学の中里至正教授がアメリカとトルコの親子とわが国を比較するために行った前年の調査結果である。

 結論をかいつまめば、「子どもが自分の宝だと思うか」との設問に「大いにそう思う」と答えた父親は、日本の五二パーセントに対してアメリカは九一パーセント、トルコは七九パーセント。「かなりそう思う」を合わせても日本は七九パーセントにとどまった。母親も「大いに」は日本では五八パーセントに過ぎず、アメリカの九三パーセントやトルコの七九パーセントに差をつけられた。「子どもを愛しているか」との設問に「大いに」と答えた割合も、日本は父六八パーセント、母七一パーセントだったが、アメリカは九五パーセントと九六パーセント、トルコは父母ともに九三パーセントと高率だった。

 一方、子どもに「父を尊敬しているか」と尋ねたところ、「大いに」と「かなり」の合計はトルコ九四パーセント、アメリカは八三パーセントに対して日本は三七パーセント、母親への尊敬もトルコ九四パーセント、アメリカ九一パーセントに対して日本四二パーセントと大差をつけられた。中里教授は「日本の親子関係の異質さに気づき、子どもと喜怒哀楽を共有してほしい」と話していた。

 かつての家族は風呂一つでも、薪作りや風呂焚き、あるいは追い焚きや使用後の掃除などを家族で分担しあっていた。村の幾軒かが交代で風呂を沸かし、もらい湯をしあう習慣さえ見られた。誰しもが、お互いにかけがえのない役割を担いあって生きていた。

 ほんの五〇年ほど前までのわが国では、農家をはじめ八割の家族が、それぞれの道具や設備を家屋に備えて生業(なりわい)を営んでいた。和菓子屋や魚屋、漬物屋や豆腐屋、あるいは自分専用の道具を持つ大工や左官などが、独自の商品や工夫を自分の頭で考えながら創造的に生み出し、「畳屋さん」とか「表具屋の奥さん」あるいは「八百屋さんのお嬢さん」などと生産者あるいは生産サイドの人として呼び親しまれ、子どもに尊敬されていた。その内儀(かみ)さんは魚を三枚に下ろして家族好みの刺し身や焼き魚、吸い物やあら煮を作った。子どもが怪我(けが)でもすれば祖父母が薬草を採ってきて母の見守る前で治療をした。それぞれの人が役割を心得て独自の生の営みを守り、転勤や左遷がなく、定年(隠居)も自分の判断で決めた。

 子どもは親や祖父母から見よう見まねで学んだ役割を分担しながら次第に大人の仲間入りをし、小さな大人になった。工業社会となった今の日本では、逆に八割の家庭が給与所得で生きるようになっており、その多くは核家族である。親は手ぶらで仕事場に駆けつけ、マニュアル化された仕事の一部分に携わる。貧しい国の人々から見れば妬みの対象にされかねない収入や自由時間を手にしているが、反面では、失業やリストラの恐怖におびえる生き方でもある。

 働く親の姿を見なくて済む子どもは、いつまでも子どものままでいられるようになったが、一方では大人の方も大きな子どもになった。欲しいものを選り好みして買えば済むような生き方なら子どもにでもできる。

 

◆土地柄の創出と継承

 かつて世界に雄飛したことがある小国ポルトガルを旅した友人が、観光案内のマイクロバスの運転手に招かれた。海が見える小高い丘の中腹に重厚な石造りの家があった。何代か前の祖先が建てた庭つきの家だった。室内には何代もかけて買い揃えたというマホガニーの家具が並び、その一つであるテーブルで、祖父母の代が買い求めた磁器の食器を用いて紅茶が振る舞われた。そのたった一杯の紅茶に、友人は本当の豊かさを見たような心境となり、その旅で一番印象深い思い出になったという。

 私もアメリカで多くの民家に招かれ、投宿することもあった。その多くは郊外の居住区にある中古の木造家屋だった。歴史の浅いアメリカだが、毎年、新築家屋の数倍もの数の中古家屋が時には値を次第につり上げながら売買されており、いずれもが補修や改装をしながら大切に使われている。特に古い家屋や家具は大切にされており、どのような人がいつごろ建てたものか、あるいは作ったものかなどのいわれを伝承しあい、自分なりに改装したり生かし方を工夫したりしながら歴史を刻み込み、大切に用いている。

 歴史に富むポルトガルと歴史のないアメリカだが、家庭生活を大切にする人たちが住まう地域では、ともに家並みを美的に全体調和させようと努める傾向にある。また、そこで繰り広げられる幸せな家庭の営みにも継続性や一貫性を維持したり、それをより充実したものにしようとしたりしているかのように見受けられる。

 私は京都と大垣で二股生活をしたが、ほんの三〇~四〇年ほど前までの大垣は水郷で、水害に備えて人々が編み出した知恵とでもいうべき輪中(わじゆう)集落や、田植えに田舟が必要なほどぬかるんだ堀田などで有名であった。人々はほんの三〇センチも掘れば吹き出す自噴水、今日流にいえばミネラルウォーターで生活していた。他方、京都は坪庭や裏庭、吹き抜けや天窓、土間やタタキなどがある独特の家並みで有名であった。三方の隣と、家屋の裏に配した裏庭を連結しあって防災にも供する工夫も見られた。蒸し暑さや底冷えで知られる土地柄や気候風土が生んだ知恵、居住文化の結晶である。

 仮に今も、こうした家並みや水郷を街ぐるみ村ぐるみで継承する生き方を選んでおれば、もちろん大垣では洪水対策の手などは打たなければならないが、ともに歴史的な文化遺産に指定され、それ自体が観光資源となり、観光客で賑わう街や村になっていたことだろう。

 

◆フューチャー・プル志向

 欧米で、自分の意見に聞き耳を立ててもらおうと思ったら、「私は夢をもっている(I have a dream)」と叫べばよいぐらいだ。わが国では、そんなことを叫べば場が白けかねない。少なくとも私が接してきた学生は、未来や未来への立ち向かい方を具体的に語ろうとするほど懐疑的になる傾向にあった。来年のことをいえば鬼が笑う国の特色かもしれないが、それは欧米の若者とは大きく異なる態度や姿勢である。

 かつて未来学という言葉が流行った時に、未来学についてアメリカで調べたことがある。そういう学問はアメリカにはなかった。たとえば、日本では未来学者と紹介されたアルビン・トフラーさんは、アメリカでは歴史学者と呼ばれていた。

 トフラーさんを「このテーブルに迎えた時に」とある学者が語ったことがある。ある学者とは、わが家で一年間ホームステイをしたことがあるエリザベスさんの父親で、アメリカではよく知られたアリストテレス研究家である。この家族を、『沈黙の春』の著者、レイチェル・カーソンが別荘地に選んだメイン州に訪ねた時に、彼は「このテーブルで未来について話し合った時も、トフラーさんは二〇〇〇年前のローマで生じたことを懇切に説明し、当時と対比しながら自説を展開した」という。

 リズ(エリザベス)さんの父は、同じテーブルで食事をしていた孫の中学生に話題をふった。双生児の孫は、その日に習った授業を例に引いた。兄の方はアメリカの人口について学んでいた。教師は過去の人口推移を教えたうえで、五〇年後のアメリカ人口について生徒の意見を求めた。授業は生徒間の意見の交換と先生への質問に終始した。その孫の印象では、今日の工業国の中では五〇年後も人口が増えている唯一の大国はアメリカであり、その増加はヒスパニックなどに支えられ、白人の比率は五割を切る、というものであった。かくアメリカでは、授業は未来を志向して進められる傾向にあり、歴史学者は研究している過去と同じぐらいのスパンで未来を語れる人と見られる傾向にあるようだ。

 プレゼント・プッシュとフューチャー・プルという考え方がある。フューチャー・プルとは、目標とする未来像を見定め、その未来に向かって言動を収斂していく生き方や事の進め方を表している。対してプレゼント・プッシュは、現状に立脚し、その延長線上で事を対症療法的に処していくやり方や生き方を示している。

 一九歳のリズさんがわが家でホームステイをしていた時は夕食時にしばしば夢も語った。ご両親をわが家に迎えた時に、ご両親は日本からの帰途、部屋を個別に暖める石油ストーブを買って帰り、自宅では家族が順番に湯を使うわが家の風呂に似せたバスルームを作っている。オイルショック後間もなくのことであった。

 リズさんの父は教職者だが、新婚時代にへんぴだが広大な手つかずの森林を安く買い求め、敷地内の泉で水を得る開拓者のような生活を繰り広げている。森林のほんの一部・一エーカ余り(約四〇〇〇平方メートル)を切り開いて木造平屋の家を建て、芝地には三面に網を張った夏用の離れを手作りして生活している。小型トラクターや自動薪割り機などが入る大きな野良小屋や菜園もある。もちろん雪が降れば陸の孤島になる。だが、それが家族の見据えた夢であり、家族が手にしたゆとりの時間やお金を注ぎこみ、心を一つにして夢を形にした幸せな小宇宙である。

 

◆国の形を創る

 私は仕事でしばしば欧州を訪ね歩き、定点観測もした。おしなべていえることは、すべての街が太陽の向きを意識して作られながら、そのやり方がことごとく異なっていたことである。同じイタリアでも、フィレンツェやローマ、ミラノやトリノ、ナポリやベニスと都市ごとに街の景観やあり方を大きく異にしていた。

 わが国の新しい街は皆よく似ており、どの街にも和風やスペイン風など多様な建物が混在しており、独自の文化を感じられない。逆にイタリアは今も都市ごとに個性を強く感じさせるが、その点ではドイツも負けていない。ミュンヘンなどは爆撃で徹底的に破壊された後に、爆撃前の中世の趣をもった他とは異なる街並みの再現に努めており、今や観光都市としても繁栄するまでになっている。この美しさは第11章の個と全体の調和で詳しく触れる(編集部註:割愛)。

 かつてオランダはバブル期の日本のように世界の富を一手に集めたかのような時代があった。もちろんチューリップ事件と呼ばれるチューリップの球根を投機対象にして生じさせたバブル現象もあったが、国が最も華やかなりしころに今の国の形を創りあげている。テーマパークとして真似たくなるような家並みや運河。ドッシリした風車には今もマスタードを挽く風車守がいる。多くの人が生花や球根の栽培など花を慈しむ仕事を生業としている。国の安全面にも力を注ぎ、女王も自転車に乗ってデパートに買い物に出かけられる国にしている。すべての人が上下の分け隔てなく接しあえる国を創りだした。ワークシェアリングではオランダ方式と呼ばれる常雇いの方の人件費を抑えるモデルをいち早く編み出し、常勤者を解雇する場合は、企業に一年間にわたって給与の七〇パーセントの支払保証をさせている。また、世界に先がけて尊厳死を認めたり、大麻や売春を合法化したりするなど、国民の自己責任能力に大きくゆだねられる国にしている。こうした社会や豊かな環境や穏やかな生き方を守るために、今日では環境など社会的な投資には年間四五〇万円までは税を控除したり、預金額の七〇パーセントを環境プロジェクトの融資にあてる「グリーン預金」では金利への所得税を免除したりしている。

 イタリアも古きよき時代に国の形を固めた一つと見てよいだろう。今も九八パーセントもの企業が従業員五〇人以下の主としてファミリーの中小企業で占められているが、それぞれの都市が特色のある産業を伝統的に守り、社員数名の企業であれ世界を相手に生業を守っている。近年、ボローニャ市は都市改造に手を着けた。歴史的市街区の景観を保全しながら都心での職人の仕事場を優遇しており、次代の豊かな生き方を予見させるような都心再生に成功している。

 各家庭がそれぞれ個別に努力をしても、調和のとれたよい郷土は作れない。家族がそれぞればらばらの幸せを求めても、幸せな家庭になるとは限らないのと同じだ。郷土や国も、住人が気候風土や動植物相などの土地柄を尊重しながら、心を一つにして創出したいものだ。そこに、独自の文化を育みながらそれらを創出する方向が見えてくるはずだ。

 欧米では、二一世紀はオリジナリティに富んだ職人技の輸出やエコ製品を生み出す技術の輸出、あるいは観光収入などで成り立つ時代だと読む人が多く、それにあわせて国の形を見定め、家庭や個人のあり方も改めつつあるように見受けられる。

 

◆観光の世紀に備える

 今日、日本人は年間一七〇〇万もの人々が海外に出かけているが、日本へはその四分の一程度しか訪ねてもらえていない。世界観光機関(WTO)によれば世界の年間海外旅行者は世界総人口の一割を大きく超えているが、今後も観光市場は年率四・二パーセントの高成長を続け、もう一〇年もすればその率は二割に達しそうだ。

 多くの先進地域は観光収入がGDP(国内総生産)の八パーセントほどに達しているが、わが国は〇・五パーセントに満たない。東京は東洋一の都市といわれながら観光収入では台北より少なくソウルの三分の一程度だ。

 わが家は、かつては最も貧しい農家とされた「三反百姓」が、土地から離れられずに土地柄を重んじて、家族で手作りしたような空間だが、今では観光案内書で観光のスポットとして選ばれることさえある。それは近隣に騒音や騒色などの原因がないことにも負っている。こうしたスポット(点)が増えてエコビレッジ(面)になることを夢見ている。

 アメリカのデーヴィス市では三〇年ほど前から二二〇軒が街ぐるみで、イギリスやフランスでは一世紀前から国をあげて面や空間作りに努めている。パリに行けば誰しもがオープン・カフェでくつろぎたくなるはずだ。見渡せば、建物の高さや形状に統一感や調和を感じる。パラソルや窓の日除けは三色旗の色で統一している。こうした配慮や意気込みが、世界に冠たる一二〇〇年の古都である京都が、国内外から集める二倍近い観光客を、海外から集めているのだろう。

 世界の人々は、調和のとれた空間を創出し、そこで人々がなごやかで幸せそうな生を営んでいるところや、いにしえの生き方を営々と守っているところなどへ出かけたくなる傾向にあるようだ。観光都市の多くは、こうした空間を維持している人々の姿に引きつけられて多くの人々が集まるところ、と見てよいのではないか。

 世界に冠たるGDPを誇りながら、また海外旅行者数では世界五位を占めながら、わが国は観光客など外国人の受け入れ数では世界の三五位に甘んじており、国際収支に占める観光赤字は昨年度で三兆六〇〇〇億円近い巨額に達している。現内閣は二〇一〇年度の海外からの旅行者数を二〇〇二年の五二四万人から一〇〇〇万人へと倍増計画を立てているが、私の目には二〇年とか三〇年かけてパリ並みとはいかないまでも、三〇〇〇万人とか四〇〇〇万人を迎える国にする方が現実的に見える。小手先の改善や見せ掛けの媚や厚化粧では後が続きにくい。たとえば緑化一つにしても、苗や種から時間をかけて育てれば極端に安くつくだけでなく誇りを伴ったストーリーまで生み出せ、作りだした人々だけでなく外来者の心まで潤すことになる。

 わが家・アイトワでは宣伝広告にはいっさい力を入れておらず、そこで生じる経済的、時間的なゆとりはエコライフガーデンの維持管理や、人形教室などの整備、私の調査研究や人形の創作などに注いでいる。巧みな誘致に精力を降り注ぐやり方は、それだけ失望を大きくしかねない、と心配するからだ。

 わが国は持ちあわせている平和憲法を全面に打ち出し、世界の人々が見習いたくなるような次の生き方・自然ドロボウにならずに済ませられる生き方を編み出し、それを観光の目玉にしてはどうか。循環型社会の形成を法的にも打ち出したわけだから、官民が一体となって世界の人々が微笑ましく見守る清楚な国にしてみせる方が、資源小国にとっては安全保障上でも望ましいはずだ。もちろん、観光に出かけるのも楽しいが、来てもらえる個性的な空間造りに貢献する生き方も、充実した幸せ感を日々与えてくれるはずだ。

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2018/10/29

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森 孝之

モリ タカユキ
もり たかゆき 1938年兵庫県西宮市生まれ。伊藤忠商事を経て大垣女子短期大学学長、同大名誉教授。著書に『京都嵐山 エコトピアだより 自然循環型生活のすすめ』(2009年、小学館刊)ほか。

掲載作は『次の生き方─エコから始まる仕事と暮らし』(2014年4月、平凡社刊)よりの抄録である。

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