「ふゆくさ」より

この三朝(みささ)あさなあさなをよそほひし睡蓮(すいれん)の花今朝(けさ)はひらかず

白楊(どろ)の花ほのかに房(ふさ)のゆるるとき遠くはるかに人をこそ思(おも)へ

夕ぐるるちまた行く人もの言はずもの言はぬ顔にまなこ光(ひか)れり

伊那(いな)の谷は冬あたたかき南向(みなみむき)の崖下水(がけしたみづ)に生(お)ふるふゆくさ

旱(ひでり)つづく朝の曇(くもり)よ病(や)める児(こ)を伴(ともな)ひていづ鶏卵(たまご)もとめに

ひるすぎてなほ下(した)つゆの乾(かわ)かざる落葉の中(なか)のりんだうの花

 

「往還集」より

ただひとり吾(われ)より貧しき友なりき金(かね)のことにて交(まじはり)絶(た)てり

青松山(あをまつやま)しらゆきふりて静かなるこのふるさとにいつか帰らむ

かはるがはる幼(をさな)き二人(ふたり)おぶひつつ登る峠に夏雲雀(なつひばり)なく

父死ぬる家(いへ)にはらから集りておそ午時(ひるどき)に塩鮭(しほさけ)を焼く

 

「山谷集」より

幼(をさな)かりし吾(われ)によく似て泣き虫の吾(わ)が児(こ)の泣くは見るにいまいまし

亡(な)き父と稀(まれ)にあそびし秋の田の刈田(かりた)の道も恋(こほ)しきものを

代々木野(よよぎの)を朝ふむ騎兵(きへい)の列みれば戦争といふは涙ぐましき

地下道(ちかだう)を上(のぼ)り来(きた)りて雨のふる薄明(はくめい)の街(まち)に時の感じなし

三月(さんぐわつ)の尽くらむ今日(けふ)を感じた居(を)り学校(がくかう)教師(けうし)となりて長きかな

朝日影(あさひかげ)あつき朝(あした)に屋根(やね)にいでて心はなぎぬ植ゑし山草(やまくさ)

己(おの)が生(よ)をなげきて言ひし涙には亡(な)き父のただひたすらかなし

新しき国興(おこ)るさまをラヂオ伝ふ亡(ほろ)ぶるよりもあはれなるかな

木場(きば)すぎて荒き道路(だうろ)は踏み切りゆく貨物(くわもつ)専用線(せんようせん)又(また)城東(じやうとう)電車(でんしや)

左千夫(さちを)先生の大島(おほしま)牛舎(ぎうしや)に五(ご)の橋(はし)を渡りて行きしことも遥(はる)けし

小工場(せうこうぢやう)に酸素(さんそ)溶接(ようせつ)のひらめき立ち砂町(すなまち)四十町(しじつちやう)夜(よる)ならむとす

 

「六月風」より

老眼鏡(ろうがんきやう)買ひ来て何をするとなく掛(か)け外(はづ)しして二日(ふつか)三日(みか)すぎぬ

年々(としどし)に頭(あたま)きかなくなる時にゆきて息(いこ)はむ地(つち)の上(うへ)にただに

おそれつつ世(よ)にありしかば思ひきり争(あらそ)ひたりしはただ妻とのみ

さまざまの木(こ)の実(み)いろづく一隅(ひとすみ)に吾(われ)は立ちよるゆづる葉(は)の黒き実に

西の海の雲の夕映(ゆふばえ)いつくしき光(ひかり)の中(なか)に妻をみにけり

ありありて二十何年(にじふなんねん)か吾(わ)がこのむ山に老いたる妻を率(ゐ)て来つ

 

「少安集」より

貪(むさぼ)りて読みまた読みし日本(にほん)戦史(せんし)去年(こぞ)の夏より手にすることなし

文学を尊く思ひはじめし頃(ころ)の心理が容易に思ひいだせず

午後六時煙(けむり)たえたる工業地(こうげふち)に今日(けふ)の光(ひかり)のてれる静まり

山中(やまなか)に病(やま)ふ君等も目を上げてこの澄む空に向ひたまへよ

説(せつ)を更(か)へ地位を保(たも)たむ苦しみは君知らざらむ助手にて死ねば　

国の上に光(ひかり)はひくく億劫(おくごふ)に湧(わ)き来(く)る波のつひにくらしも

この海を左千夫(さちを)先生よみたまひ一生(ひとよ)まねびて到(いた)りがたしも

幼(をさな)かりし心この石にまつはりき一生(いつしやう)の考方(かんがへかた)を支配するごとく

松山の中(なか)なる古き道ありて大伴家持(おほとものやかもち)思(おも)ほゆるかも

蓙(ござ)の上の吾(われ)をあはれと人やみる背骨いたむまで選歌つづけて

歌よみが幇間(ほうかん)の如く成(な)る場合場合を思ひみながらしばらく休む

父の後(のち)寛(ゆた)かに十年(じふねん)ながらへて父をいひいづることも稀(まれ)なりき

この母あり父ありて吾ぞありたりし亢(たか)ぶり思ふべきことにもあらじ

すすみ寄りその白きをば吾(わ)が抱(いだ)く清(きよ)らに今はなり給ひたり

幾百(いくひやく)かあるいは幾千(いくせん)か授業して四五人(しごにん)が今に交(まじ)はる

一生(ひとよ)の喜(よろこ)びに中学に入りし日よ其の時の靴屋あり吾(われ)は立ち止(どま)る

耕(たがや)して大根(だいこん)の葉も捨てざりし農(のう)の生(お)ひ立(た)ちを子等に訓(をし)へつ

 

「山の間の霧」より

まがつ火(び)は焼くといへども友あれば吾は坐る日に殖(ふ)ゆる本(ほん)の中(なか)

君等あまた国の境(さかひ)に立つ時にただ読む万葉集を少しづつ

 

「韮青集」より

馬(うま)と驢(ろ)と騾(ら)との別(わかち)を聞き知りて驢(ろ)来(きた)り騾(ら)来(きた)り馬(うま)来(きた)り騾(ら)と驢(ろ)と来(きた)る

さし来(きた)る海の潮(うしほ)を見るごとし草に切り入る民族(みんぞく)の力

ああ白き藻(も)の花の咲く水に逢(あ)ふかわける国を長く来けり

さびなどを日本(にほん)の文学と思ふなよただ仮声(つくりごゑ)と身振(みぶり)なきのみ

戦(たたかひ)の後(のち)大きなる平和あり驢馬(ろば)にのり驢馬を引き民(たみ)絶ゆるなし

湖(うみ)のへの古(ふ)りたる寺の学校に米(こめ)を持ちより生徒学ぶなり

 

「山下水」より

朝(あさ)よひに真清水(ましみづ)に採(つ)み山に採み養(やしな)ふ命(いのち)は来(こ)む時のため

山の上(うへ)に吾(われ)に十坪(とつぼ)の新墾(あらき)あり蕪(かぶ)まきて食はむ餓(う)ゑ死ぬる前に

垣山(かきやま)にたなびく冬の霞(かすみ)あり我(われ)にことばあり何か嘆かむ

吾(わ)が言葉(ことば)にあらはし難く動く世になほしたづさはる此の小詩形(せうしけい)

日本語(にほんご)の抑揚(よくやう)乏(とぼ)しきを思ひ知りさびしみし北京(ぺきん)の夜(よる)も忘れむ

風なぎて谷にゆふべの霞(かすみ)あり月をむかふる泉々(いづみいづみ)のこゑ

にんじんは明日(あす)蒔(ま)けばよし帰らむよ東一華(あづまいちげ)の花も閉ざしぬ

農(のう)に育ち土地(とち)持たぬ兄弟(はらから)三人(みたり)にて山の上にもしみじみと語り合ふ

わき流るる山下水(やましたみづ)のとこしへに一時(ひととき)うつるうばゆりの花

 

「自流泉」より

疎開人(そかいびと)かへりつくしし春にして泉の芹(せり)を我(われ)独占(どくせん)す

ここをしも吾が住むところと帰り来てかび匂ふ本(ほん)の間(あひだ)に坐(すわ)る

上衣(うはぎ)ぬぐ暖き日をいきほひて今日は三十二首注しをはりぬ

正岡の升(のぼる)さんあり子規あり就中(なかんづく)我が命(いのち)寄る竹(たけ)の里人(さとびと)

 

「青南集」より

うから六人(ろくにん)五(いつ)ところより集まりて七年(しちねん)ぶりの暮らしを始む

能登の海の莫告藻(なのりそ)食ふもはげみにて日に読む万葉集巻十七

年々に若葉にあそぶ日のありてその年々の藤なみの花

農に堪へぬからだなりしを長らへて伝へ聞く農の友多く亡し

滅びたる詩形といふな相寄りて古き友新しき友と三日を過す

老いさらぼひさまよふと言ふな生きてあれば生きて通へる魂(たましひ)の為

朝市の車に並び馳(は)せたりき地下足袋の触感は今に力を与ふ

青き上に榛名(はるな)をとはのまぼろしに出でて帰らぬ我のみにあらじ

生みし母もはぐくみし伯母も賢からず我が一生(ひとよ)恋ふる愚かな二人

 

「続青南集」より

大雲取越えて苦しみを残す二人定家(ていか)四十茂吉(もきち)四十四

足腰のいたみに梅雨(つゆ)の近づけり夕べ閉ぢたるゑんじゆの下蔭

青山に三十五年住みつきて面(おも)知るは今十人足らず

住み変る家は五(いつ)たび数ふれど戦火一夜(ひとよ)に残るものなし

人々の心あつまりし家成れば此処(ここ)に終らむと移り来たりき

行きつまる歌かとまどひまどひつつ心うつろなりき並槻(なみつき)の蔭

はじめより迷ひ迷ひて歌をよむ迷ひのはての青山南町

立ちかへり立ちかへりつつ恋ふれども見はてぬ大和大和しこほし

仄(ほの)なる三日月立ちて夕紅(ゆふくれなゐ)九十九里の方をまたかへりみる

 

「続々青南集」より

憶良(おくら)伯耆に守(かみ)たりし四年万葉集空白に等しきかへりみて知る

左手の痛む寒きに出でて来ぬ長き思(おもひ)のむろの木を見む

遠き代(よ)の旅人(たびと)が鞆(とも)に見しむろを今ぞここに見る大瀬のむろの木

あり布をはぎて真白の窓掛は老いたる妻の我への年玉

 

「青南後集」より

地震にてまた戦争にて滅びたる東京立ち栄ゆ隅田(すみだ)河口(かはぐち)月島

読み下さる読み下さらぬかたじけな買ひ下さるを第一として

我が歩みかくの如きか骨折りし五十年前の誤(あやまり)に逢着(ほうちやく)す数々

かへりみて来(こ)し方(かた)遠きいのちとも一つ言葉のありてつなげり

命あり万葉集年表再刊す命なりけり今日(けふ)の再刊

乏しきを励(はげ)まし怠(おこた)りを耐(た)へ耐へてかすかなる命ここに留(とど)めむ

厳(きび)しく育て何を求むとはあらざりき我より先に煙(けむり)と立ちゆく

本読まず過ぎた来(こ)し方(かた)を今思ふ表紙はげしはただ字引の類

足引きて何を求めむと出で来しや拾ひためれば皆是(これ)短歌

十といふところに段のある如き錯覚持ちて九十一となる

さまざまの七十年すごし今は見る最もうつくしき汝(なれ)を柩(ひつぎ)に

終りなき時に入らむに束(つか)の間(ま)の後前(あとさき)ありや有りてかなしむ

九十三の手足はかう重いものなのか思はざりき労(いたは)らざりき過ぎぬ

 

 

群馬県立土屋文明記念文学館