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深夜のビルディング

 ぼくは推理小説の翻訳の下請けなどで暮らしているいささか風変わりな中年男である。ぼくの昼間の時間は、殆んど翻訳の仕事でつぶされる。ぼくはTOKYOという大都会の裏町に、亡くなった両親から引継いだ古びた一軒の家を持ち、昼間はそのなかに閉じこもって翻訳の仕事を続ける。ぼくは世間の人たちから変わり者と言われても仕方がないと思う。なにせ、もう鬢に白いものが混じる年齢だというのに妻を娶らず奇妙な暮らしをしているのだから。つまり、昼間は蟄居していて、辺りが暗くなると、夜行性の動物のように外を出歩くのだ。なぜ昼ではなくて夜出歩くのだろうか。人にそう問われたとしても、ぼくはその訳は言うまい。訳を言ったところで、どうせ人には理解してもらえないだろうし、ぼく自身にもひと口では説明できない複雑な気持ちが潜んでいるからだ。夜や闇が好きな変わり者だということにしておいてもらおう。

 これから物語るのは、そんな夜の彷徨のなかで、最近ぼくが出会ったある出来事についての話になるのだが、それはひと口に言って、奇異なる体験の部類に入るのだろうか。しかし、もともと体験とは、人それぞれによって捉え方が違うはずであるから、ぼくが奇異なる体験と言ったところで、人にはそのように映らない場合もあるかもしれない。がそれはひとまず措くとして、ぼくの奇異なる体験のいくぶんは、夜の彷徨でぼくが梯子して飲むアルコールの影響によるものであることも指摘しておいていいだろう。この殆んど毎夜のアルコールの摂取が、ぼくの躰をおもむろに蝕んでいることは自分でもわかっている。が反面、その天来の魔力が昼間鬱屈していたぼくの魂を開放し、闇の奥のいまだ知られざる領域にぼくを運んでくれていることも確かなのである。ともあれ、前置きはこのくらいにして、話の本流に分け入るとしよう。

 

 それは春とは名のみで北風の痛いように肌に突き刺さる夜だった。例によって二、三軒酒場(バー)を飲み歩いた挙句、ぼくがその町の西のはずれに出て、そのビルディングにふと眼がとまったときは、もう深夜の午前二時に近い時刻であったろうか。昨今のビル建設のラッシュで、町のどこかでビルの建築工事が行われている光景はざらに見ていたし、どこかでふっと新しいビルが誕生したところで、別に目新しい出来事には映らなかったろう。で、このときも、ふつうならぼくも通り過ぎてしまうところだが、それがそうならなかったのは、そのビルの外観が怪しいくらいに他とは異なっていたからであった。それはどういうことかというと、一階の出入口の扉から光が氾濫し、路上にまで溢れでていて、内部のいとなみについて好奇心をひととおりでなく刺戟するものがあったからだ。

 だいたい深夜営業の店だって、この時刻ともなれば、それとなくまわりの寂莫に遠慮してか、灯火が外に派手に洩れないように控え目にしているのではないか。事実、通りに面した商店や雑居ビルなどのあらかたは、鎧戸をおろし、あるいは広告灯を消して、死んだように沈黙を守っていた。だから、その一階の光の氾濫も妙であったが、更に上の階はどうなっているのかと仰ぎみると、闇空を背景に各階の窓々は、ある光の原則に貫かれ、ビル全体はまるで夜を知らぬ巨大な城のようにその方角に当たって聳え立っていたのである。

 ある光の原則とは、一階が明るいとすると二階は闇に包まれていて、三階が明るいとすると四階は闇に包まれているといったふうの気になる明暗の配列が上層にまで続いていたことである。

 ≪これは変わってるな≫とぼくは思わずつぶやくと、躊躇せずに一階のガラス扉を押して、ビルの内部に足を踏み入れていた。

 途端にぼくは自分の眼を疑ったのである。そこには百貨店らしい売場の光景が展開されているではないか。回転軸木にネクタイやベルト類が吊るしてある売場、ガラスのショー・ケースのなかに宝石の指輪やペンダントが並んでいる売場、紳士靴やカバン類が陳列してある棚等々、と眼を追っていったらきりがない。当然ながら売場には制服を着た女子店員や背広に腕章を巻いた男子店員のかしこまった姿が散見される。買物客と話を交わしている者や客を待たせて品物を包装している者ら。いや、更に驚いたことには、買物客だか冷やかし客だかわからんが、フロア面積をかなりの人数のさまざまな身なりの老若男女が埋めつくし、ぶらついている模様だ。

 腕時計を見ると、長短の針はまさしく真夜中の二時を指しているのだ。だのにまるで真昼の午後の百貨店のにぎわいが、そのまま切りとられて、眼の前で進行している体なのだ。

 とっつきの所に「ご案内」の囲い(コーナー)があって、制服制帽の、マネキン人形そっくりの顔の女の子が立っている。で、ぼくは咄嗟に口から出まかせに、

 「ここは深夜の百貨店ですか」と尋ねてみた。多少のユーモアを混じえたつもりだったが、失敗った、ゆきすぎたかなという思いも。と、案内嬢は、待っていたように、

 「当店の創立×十周年記念を祝って、二晩オール・ナイトのバーゲン・セール営業を行っています」とまるでテープに吹きこんだ声さながらに喋ったのである。

 なるほどそういうことなら理にもほぼ適っている。が、それでもなお、なにかしっくりいかない気持ちが残った。それは恐らく感覚的なものだったろう。先刻来、躰に染みこんでいる深夜の感覚、深夜の百貨店という言葉が触れてくるものなのだ。この視点でみると、照明の明るさも白昼のそれとは違うようだ。ぼくは気のむくままにぶらりぶらりと歩きだした。むろん、酔った気分のひやかしにすぎない。が間もなく、ある光景を見て、というより、ある光景に出会って、足が止まってしまった。

 それはふつうの見方では、ある光景なんていう代物には入らぬかもしれない。ぼくから三メートルほどの距離にハンカチーフ売場があり、そこにひとりの藤色のコートを着た婦人客が立って品物を吟味しており、その脇にもうひとり連れらしい黒い服の男が立っているというだけのことにすぎないからだ。

 けれども、相手の人をひと目みた瞬間、魂の奥底から揺さぶられおののくという機会があるものなら、それは人間の一生においてまたとない深い印象として記憶の襞に刻まれるだろう。特に相手が女であってみればのことだ。その藤色のコートの女の出現は、まさにそうした衝撃の瞬間だったと言ったら、おおげさに聞こえるだろうか。とにかく、ぼくはその藤色のコートの女にただならぬ感情を覚えた。こちらに向かってゆっくり歩を移す人、人、あいだに立っている人などもあって、ぼくは気づかれずに女のおおよその様子を窺い知ることができた。

 ≪そうだ、まぶたの上が腫れぼったい女性だった。憂わしげな表情で、黒い眸の色が玻璃のしずくのように、きらきら濡れ、俯き顔で歩いていた。……≫朧な闇の奥から記憶のひとひらがきらめきよみがえり、声にならぬ声がそうつぶやくのだった。

 遠い幼少の頃、ぼくは両親の都合でN県のある山里の親類の家に預けられて育った。親類の家の近くに山懐の奥深い竹林を背にして、地主の大きな家屋敷があった。ひとりの少女が、そこから、セーラー服姿で手携げカバンを持ち、汽車に乗って、十数キロ離れた町の女学校に通っていた。時折見かけるその年上の少女の往復する姿が、小学校に通うまだ幼いぼくの心には、いつしかその頃馴染んでいたグリム童話の女主人公に対するような憧れの映像に変わっていった。……なぜか少女の記憶はそれきりで途切れてしまっていた。若くして死んだのか、他へ移住したのかわからない。映像だけが時折夢に浮かぶのだったが。……

 眼前の女は、歳は三十前後だろうか、鮮かに見ひらいた黒い双眸はなぜか哀愁を湛えながら、一方で豊かな黒髪や白くて高い鼻すじや赤い薔薇色のふっくらとした唇やすんなりした撫で肩なぞに、成熟した女のはなやかさとゆとりを浮き立たせていた。あの少女が大きくなればこういった女になるのだろうか。そんな気を起こさせるほどどこかに相通じる面影がにじんでいるのだ。もっとも少女はぼくよりも年齢が上だったから、たとえ生きていたにしても、眼前の女がそうであるはずはなかったろう。

 ところで、気になることがあった。傍らに連れそっている黒い服の男にまつわる空気であった。女とは一、二歩離れた所に立っているにもかかわらず相手の男からは眼には見えない細い糸のようなものが無数に女のまわりに繰りだされ、それが壁となってこれ以上ぼくが女に近づくのを阻んでいるふうに思われてならぬことだ。女とほぼ同じぐらいの中肉中背で、歳の頃は四十前後か。特徴といったら、ときどき辺りを盗み見る眼つきが凄くいやらしいのと、鼻が糸瓜のように垂れているので顔がのっペりとし、ちょっと喜劇役者風でもある。こんな男がどうしておよそ人品の卑しからぬ麗しい女に同伴しているのかぼくには()せなかった。女の歳かっこうからして彼女が夫ある身だということも考えられなくはない。だが、この男が、女の夫のような間柄だとはそれこそ噴飯もので、想像したくもなかったし、だいいち釣り合いのとれる相手ではなかった。黒い徳利スウェーター、黒い背広の上衣とズボン、黒い短靴――そういうすべて黒ずくめの身繕いから見ると、ぼくには、男がせいぜい女の護衛役を買ってでてるのだろうとぐらいにしか思えなかったのだ。

 藤色のコートの女は用事を済ませたのか、ハンカチーフ売場から離れて歩きだした。黒い服の男は女の背後から往き交う人とぶつからぬように着かず離れずの関係で従っていくようだ。ぼくも彼等の跡を四メートルほどの距離を保ちながら、追うことにした。行く手に上の階へ昇る階段が迫ってきた。階段の前の空間だけが、なぜか人影がなくがらんとしていた。と、男は女の傍らに寄っていったようだ。二人は階段のほうへ進んでいく。

 ≪他にエレヴェーターがあるだろうに、階段を利用しようというのかな≫

 ふとそう思った。がこのとき、ぼくは、二人が階段を利用することにさほど不審の念を持ったわけではない。階段が眼に入っていたから、ただ無邪気にそう思ったにすぎない。まさか、この階段から深夜のビルディングの外から見ただけではわからぬある奇妙な内部構造の一端へ導かれるようになろうとは、このときは、ゆめ思ってはいなかったのだ。むしろぼくは、階段に差しかかる直前、黒い服の男が、ついに女と肩を並べるのを見かけたとき、男に対して、なにか羨ましさ、あるいは多少の妬みのような感情が芽ばえるのを覚えたようなのだ。

 ここまで見とどけて、ぼくが引き返したならば、これから先の出来事を物語ることはできなかっただろう。ところが、ぼくは引き返すわけにいかなくなった。主観的と言われるかもしれぬが、ぼくにとっては、ある重要な出来事が生じたからだ。ぼくはどんなことが起ころうとも、このまま女を見失いたくないと思った。どういうことかというと、階段の下まで跡をつけてきて、ぼくは、昇っていく姿勢の黒い服の男が、なにやら女のほうを向いて話しかけ、それに対して女がひと声返事をしたのを耳にした。いやそれは耳にしたというよりは、耳にしかと響いたといったほうがいい。

 「そうね」良質の銀の鈴が軽やかに振り鳴らされたふうの声だった。――高くも低くもない柔らかな女の声。そのひと声だけがなぜ宙に放たれたようにぼくの耳までとどいたのかわからない。女のその声がまずぼくの魂を魅了してしまった。それから吃驚するようなことが起きた。女がひょいと振り向いてぼくのほうを見たのだ。階段の上から下にいるぼくを見おろす感じで、女の眼がぼくの眼とぴたりと合い、ぼくを捉えたようだった。その一秒か二秒の束の間、耀きを増した女の豊麗な映像、星の女王かと見まがう白金色の容姿の煌めき、ぼくの驚き、歓び、――その女のイメージはあとあとまでぼくの脳裡に灼きついていた。そのときの心の状能はまさに法悦のそれに近いものであったろう。

 

 正直言って、女がなぜぼくのほうを振り向いたのか、本当のところは掴めないまま、事は進行したのである。黒い服の男がぼくのことでなにやら女に囁いたからこちらを振り向いたのか、それとも階段から一階の売り場を最後の見おさめに――といってもこの<最後の>には再び訪れるかもしれぬ意味が含まれるのであるが――何気無く振り向いて、偶然ぼくの眼と合ったのだろうか――憶測はいろいろ成り立つであろうが、そういうことは、この話を進めるうえで実はどうでもいいことなのかもしれない。大事なのは、女とぼくがまともに顔を合わせ得たこと、女の眼がぼくがいるのに気づき、ぼくの存在を捉え得たこと、――その事実をぼくが体験したことのほうなのであろう。これは、あとで女がぼくと関わる時点において重要になってくるのでやや冗漫のきらいはあるが、この際に触れておくのである。

 さて、このあと、ぼくは女の跡を追って階段を昇っていったのであるが、――話はいよいよここから本筋に入るわけである。そのときのまわりの状況などから少しく詳しく述べていくことにする。

 ぼくは階段を昇った。階段は当然ながら踊り場を中継ぎにして階上へと折れ曲がっている。その踊り場まで来て、方向を転じ上の階を振り仰いだとき、ぼくはおやと思った。藤色のコートの女と黒い服の男の二人の姿が視野に浮かんでこないのは、二人とももう上の階の通路に出て、彼等の行く先へ向かって歩いているのであろう。それは想像できることだからいいとしても、妙なことに気づいたのだ。階段の先端から上の階の辺りにかけて、照明がいちだんと暗くなっていたのである。

 悪い予感がした。ひょっとしたら彼等は早くも自分の手のとどかない所に行ってしまったのではなかろうか。ぼくは階段の後半を駈けるようにして昇った。

 昇りきると、驚いたことには、辺りの様相が階下のそれとはまるっきり一変していたのである。まず暗い照明がゆきわたっていた。階段はそこで尽きていて、眼の前に幅二メートルと五十ぐらいはありそうな通路というよりは廊下が伸びてい、両側はおおむね扉付きの部屋部屋が連なっている模様なのである。

 ≪これは深夜のホテルの内部の光景じゃないか≫

 咄嗟にぼくはそう判断した。廊下に人影は見えず、部屋はみな睡りこんでいる感じである。むろん、二人の姿は忽然と消えてしまったわけである。

 ≪深夜の百貨店が変じて深夜のホテルとなるか≫

 それもまた変わっていて悪くはないと思った。が、ぼくは二人の行方を諦めてはいなかった。どこかその辺の部屋に潜んでいるに違いないと思った。ぼくの足はおのずと廊下を歩きだし、ぼくの眼と耳のアンテナは、それとなく廊下や部屋の気配にそそがれていった。ぼくをそのように振舞わせたのは、言うまでもなく、つい最前仰ぎ見たぼくの瞳に映った女の目差しの深い色への執着であった。もうこの機会を逃がしたら二度と遇えなくなるのではないかというつのる思い。……だが歩いていてすぐ気づいたのは、すべての部屋が宿泊用の客室ではないということ――ガラス戸の入った理髪店があるかと思うと、化粧室があり、またグリル風の店が混じっていたりする。ただ店がまえの所は殆んどみな扉が締まり、灯が消えているし、客室の上部には鈍い照明がともっているけれど、まさか扉をノックして相手を確かめるわけにもいかない。こりゃあ、駄目かなという徒労感がこみあげてくる。と、そのときだった。ちょうど廊下の一つの曲がり角まで来て、その分岐した廊下の奥のほうをふと見ると、十数メートルほど前方にピンク色のはなやいだ光が、ひときわ目立ち輝いているではないか。

 もうそこしか手がかりになるものは他にないので、ぼくは行ってみた。間近に見るピンク色の光は酒場(バー)の小さな軒灯で、縦にしるされた文字は「酒場(バー) パラダイス」と読めた。上部に赤と青の色ガラスの嵌った観音開きの扉があった。ぼくは躊躇わず扉を押して店のなかに入っていった。と、ピンク色の照明はいちだんと暗くなった。室内は三メートル四方ぐらいの大きさで、手前はがらんとした空間だけが広がり、奥に止まり木が並び、カウンター台があって、その向こうに瓶棚を背景にして二人の男女が立っていて、ぼくが入ってくるのを眺めている様子であった。

 照明が暗いのでまだ相手の人相は掴めない。が二人ともなんとなくぼくが来るのを待っていたような気配があった。双方で顔を見合わせると、男のほうが「いらっしゃい」とぼくに声を掛けた。男は更に追従笑いを顔に浮かべた模様で、ぼくに止まり木の一つに座るようにと指さした。その声音は押し殺したように低いがこちらの腹の底に妙に響きわたるふうの勁さがあり、ぼくをしてこれは油断できないぞと思わせ、身がまえさせるものがあったのだ。

 指示されたとおりぼくは止まり木に腰をおろしはしたものの、なぜか気になってカウンター台の向こうの相手の様子をそっと窺ってみた。すると先ほどとは違って、照明にもいくぶん慣れ腰も落着けたせいか、相手の身なりや顔かたちがだんだんと見えてきて、ぼくはおやおやと驚かされた。

 男は店の主人(マスター)兼バーテンダーらしく白い服を着、女は真赤なドレスや化粧の仕具合でホステスらしい。が、二人ともどこか似ているのだ。ぼくが求めているあの女と黒い服の男に。まずホステスのほうだが、中肉中背の撫で肩の三十ぐらいの歳かっこうのところや、やや愁いを湛えた眼つきなどが、いくぶんか似てはいる。が残念ながら別人であることは間違いない。濃く白く塗った化粧の顔全体に荒廃した翳がゆきわたり、特に紅い唇が片方にひん曲がって面相を卑しくしている。別人であって幸いなのかもしれない。むしろ白い服の主人(マスター)のほうが、あの男により似ている。四十ぐらいの歳かっこうもそうだが、眼つきがぞっとするほど凄くいやらしく、またこちらの心の底を盗みみている奸智にたけた舌の動きが感じられる。しかし、顔のひとところだけは、あの男のものと食い違っていた。それはなにかというと鼻であって、あの男の鼻は糸瓜のように垂れて顔をのっペりと見せ、それが喜劇役者風でもあったが、この男の鼻の形ははっきりと違う。段鼻である。この段鼻は男の眼つきのいやらしさをいっそう際立たせるのに役立っているようなのだ。

 「ウイスキーのみずわりでいいですかい」男が注文を訊いた。ぼくがいつまでも沈黙をまもっているので声を発したものだが、別に焦れている空気も見られない。

 ぼくは頷いてOKの合図を送ると、もうここまできたからには相手がどういう振舞いに出ようとやってみるしかあるまい、と内心踏ん切りをつけて、話を切りだしたのだ。

 「ふたりの男と女が来ませんでしたか。妙齢の婦人と黒い服を着た中年の男なんだけど……そのご婦人は藤色のコートを着てるんだがね。……」

 途端に主人(マスター)の態度が大きく変わった。目玉が道化師のようにくるりとむきでると、えへへへへと下品に笑うのだ。

 「あのカップルさんねぇ。……頗るつきの乙にすました美しい奥方ですねぇ。それともうひとり黒い服の粋な旦那さんか。……おふたりの跡をつけてられる、というと、なにか特別の用事でもおありなんでしょうねぇ。……」

 「いや――」ぼくはあとの言葉に窮してしまった。痛いところを突つかれたものだ。相手はやっぱりぼくが女の跡をつけてきたことまで関知している。おまけにあの女と黒い服の男の間柄を夫婦に見たてて、ぼくが抱えこんだ想念をぶち毀しにかかっている。

 ≪畜生、こいつはなにものだろう。これからなにをたくらんでるんだろう。……≫

 そう思うと、ぼくは迂闊には喋れなかった。ちょうどタイミングよくあの女にいささか似た感じの例のホステスが、注文のみずわりウイスキーをこしらえてカウンター台に廻してよこしたので、ぼくはそのグラスを手にして、あらぬほうを見たりしながら飲む行為にふける恰好で、相手を無視することができたのだ。だがその間にも、ぼくはあの女を諦めてしまってるのではないのだから、全神経を張りつめて、情報が飛びこんでくるのを待っていたのだ。

 

 この酒場(バー)主人(マスター)=段鼻の男は――だんだんぼくの頭にはそういう観念がとりついてきたのだが――この深夜のビルディングの内部事情に通じているうえに、なにやら魔術師のごとき異常な力を匿しもっているのではないのか、またその魂の奥底にぼくに対する悪意のようなものを秘めているのではないのかという意識が脹らんできた。だから間近に顔を合わせていると、なんとも言えない恐怖感におしひしがれそうになる。対抗するためにも、いきおいぼくはホステスに頼んで、みずわりを何杯かお代わりしないわけにいかなかったのだ。

 そんな及び腰でいるぼくの姿勢を見てとってのうえだろうか、段鼻の男は妙なことを言いだした。それもこちらを嘲笑うか揶揄うか知らぬが、口もとに引きつるような笑みを浮かべて、―― 「無言劇をいつまで続けてたって、なにも出てはきませんよ。それよりこれから劇場で面白いショーが始まるんだから……どうです。鑑賞券(チケット)を買いませんか。あの奥方も旦那も、先ほどから、あちらで開演を待ってるって寸法なんで、ね。……」

 ≪これがどうやらこの男の本領――たくらんでたことらしいな≫とぼくは胸のうちでつぶやいた。

 男の指さすほうの壁にその劇場とやらへ通じると思われる別の扉が作ってあった。扉の上部には黒い色ガラスが嵌まっていた。その向こうで、この男に言わせると、あの女と黒い服の男の二人がショーを見るつもりで待っているとか。それが果たして本当かどうかは、いずれそこに行ってみればわかることなのだ。

 「よーし、一枚貰いましょう」

 ぼくははっきりとそう返事した。男がなにをたくらんでいるかは知り得ようがないけれど、ともかくこの挑戦を受けて立つことにしたのだ。

 ホステスがよこした鑑賞券(チケット)は、セピア色の一枚の紙片で、それには活字で「舞踏ショー<Love is the Best.>」と印刷してあった。飲み代と合わせて勘定を支払い、相手のたくらみに身を任せる不安を覚えながらも、ぼくは黒い色ガラスの嵌った扉を押して狭い通路を抜け、劇場側の扉をくぐった。が不安の念と同時に、期待を寄せる気持ちが動いていたことも確かである。

 打ち見たところ、そこは――劇場と男は呼んでいたが――むしろ小劇場と呼ぶに相応しい規模のこじんまりとしたホールで、最初に戸惑ったのは、照明がこれまでのどの場所よりも暗くしてあり、ぼんやりとしか辺りが識別できない点であった。それでも幅よりは奥行の長い空間を、正面にせり上がった舞台目がけて、座席の層が幾重にか緩やかに下降している有り様が察しられるのは、舞台の緞帳に一箇所だけ内部から鈍い光が当たっていて、それが発光源になっているせいかもしれなかった。そしてそんなに視界が暗くて見極めがたかったけれども、ぼくはひとわたりホール内に眼を遣るうち、あの二人らしいもののいる場所にそれとなく気がついたのだった。それがあの二人だとはっきり証拠だてられるものはなにもない。舞台に近い前方の座席の一角に、人の頭のような黒い物がぼんやりと二つばかり少し浮きあがって見えるぐらいの目当てなのだ。でも、他に人らしい姿や動きは見られない。ぼくの直感が、あの二人があそこにいると思わせたのだ。そう思った途端、ぼくはホールの壁に沿ってその方向へ歩みだしていた。暗がりのなかをゆるゆると足を踏みしめながら、一方ではあの星の女王のような女に再び会えるという熱い情念に胸を揺すぶられながら。しかし、さすがに二人の傍らまで赴いて顔を覗きこんで相手を確かめるという野放図な振舞いに出るわけにいかなかった。二人の間柄を結婚しているもの同士だなんて微塵も思ってはいないけれど、一方的に跡をつけてきた後ろめたさは充分に意識していたから。で、ぼくは二人の座っている位置より二列背後の座席に、悟られないように身を置いたのだった。

 女も男も後ろを振り返ることはなかった。二つの黒い頭が座席の椅子の上方に異物然と張りだしているのが、暗がりのなかに朧ではあるが存在を主張しているようであった。やがて、二、三分も経過したろうか。開演のベルが鳴り会場がいったん闇に包まれるとすぐ舞台の緞帳をスポット・ライトが捉え、緞帳はするすると上がって、内側に待機していたものを露にしたのだ。それは黒い壁を背景にして、一人は赤い照明の光を、もう一人は青い照明の光を、それぞれ全身に浴びながら、怪異な姿で登場した。二人とも眼と鼻の上だけを仮面で覆い、頭には円い帽子を被っていた。が、そのうちの赤い光を浴びた一人は、白い仮面に金粉の帽子、首から下も金粉をまぶしたシャツ・タイツの舞踏スタイルであるが、尻の出っぱりや胸の二つのなだらかな隆起は、はっきりと女身であることを告げていた。青い光を浴びたもう一人は、黒い仮面に銀粉の帽子、首から下は銀粉をまぶしたシャツ・タイツの出で立ちで、これはごつごつした牡牛のような逞しい躰つきが、間違いなく男であることを誇示していた。続いて、破調風の音楽の遠雷に似た響きがホール内にひときわ大きく轟きわたると、それが合図とみえて、この異様な服装をした女と男による舞踏ショーは、それから動きだしたのだった。

 ぼくは、最前の酒場(バー)主人(マスター)が「面白いショーが始まる」と言っていた科白を憶えていたから、この舞踏ショーはどのように演じられ展開されるのかを単なる観客としての立場でなく、ある特別の関心と注意をもって見まもるようになったのは当然だろう。つまり、主人(マスター)がぼくに対してどういう手を打ってくるのだろうかを見とどける必要があったのだから。だが他方で、自分以外にも前方の座席で、あの藤色のコートの女がもう一人の男とそれを眺めている気配も察しられるので、よもや自分だけが捲きこまれるような不測の事態は起きないだろうと、たかをくくることもできたのであるが。

 さて、この舞踏ショーであるが、ショー自体は仮面などの凝った見かけのわりにはぼくの期待に応えるほどのものではなかった。それはどちらかというと、中年の酔客どもをくすぐる程度のものであったろう。

 赤い光と青い光がめまぐるしく交錯し、音響が高まるかと思うと低まる――その間に黒い仮面を着けた銀粉男は、黒い長めの棒を車輪のように振りまわし、白い仮面を着けた金粉女を一撃しようと突きたてるが、女はその都度巧みに身をかわし男を空転させるのである。この男と女による単純な舞踏演技の繰り返しがそういつまでも続かないこと、そしてその終結部がどのように締括られるのかは、ぼくにはもうなんとなく予想できるのであった。というのは、男の繰り出す棒のひと突きを、巧みに女はかわすと見られるのは表向きであって、本当は女が棒に突かれたがっていて、男は見事な棒の操作でそうなるのを避けていること、女はそれを不満に思い感情が激してきていることなどの様子が、ある性心理学者の一構図のようにぼくには汲みとれたからである。こうして終局が訪れるのにさして時間はかからなかった。終局――それは落雷を思わせる一大音響とともに始まった。男の繰りだした棒の先がついに女の胸の脹らみのあいだを突いたからである。とその瞬間、これまでになく激烈な赤い光が、金粉女の胸を中心にいくつも花をひらいたかに点滅しだし、女はというと、いったん大きく上半身をのけぞらせ、そのあと全身を波打たせながら舞台を大仰に駈けめぐり、挙句の果ては力尽きて後方に倒れていくのだった。と、それを待ちかまえていて、床に落ちる前に抱きとめたのは、銀粉男であった。

 この舞踏ショーも、この終局の段階までくると、――二人の男女の舞踏演技を眺めている途中でふと疑いが兆し昂じてきたのであるが――舞台の男と女は、もしかすると、あの先刻の酒場(バー)主人(マスター)とホステスが仮面に匿れて演じているのではないかという想像が脹らんできた。あの酒場(バー)は、このホールと隣接していたし、あの二人を除いて深夜にこんな莫迦げたショーを演じる者が、他にいるのかどうかという疑いだ。だとするとこの主人(マスター)はなにを意図して……とぼくがあることに気がついたときは、すでに遅かったようだ。

 舞台では、青い光の輪のなかに、銀粉男が、失神してぐったりした金粉女を両手で悠々と抱きあげながら、仁王立ちのポーズをとっていた。と見たのは一瞬のことで、それまで鳴り響いていた音楽が止んだと同時に、舞台だけではなく観客席を含めたホール全体を巨大な闇が蔽い隠してしまったのだ。

 

 全き闇の支配がそんなに長時間続いたわけではない。舞台の暗転ぐらいのいっときののちに、闇はさっと薄れて、視界はぼくがホールに入ったときよりも、いくぶんか明るい状態に回復したのだった。その明るさは、逆に言うと、前後左右の事物が近い所では一応識別できるくらいの暗さであったろうか。そのため、ぼくはすぐ次の二つのことに気づいたのだった。その一つは、舞台の正面に緞帳に代わって映画を写すのらしい白っぽいスクリーンが現れていることだった。もう一つは、もっと大事な点であるが、ぼくより二列前の座席に頭を並べながら先刻までショーを眺めていたはずの、あの藤色のコートの女と黒い服の男のそれらしい姿が消え失せているのだった。そして更に視線を移すと、その座席に近いホールの壁には、劇場から他の場所へ通じるらしい扉が一つ口を開けているのだった。

 ぼくは、失敗ったと思い、直ちに二人の跡を追おうと腰を浮かしかけた。が、そのとき、場内は再び暗くなって、正面のスクリーンに映画が写しだされ、その画面がいやでもぼくの気持ちを誘ったので、また腰を据えてしまったのだ。その画面というのは、カラーの映写で、先ほどの舞台での最終場面がそっくりそのままもう一度現れつつあった――と見えたのは錯覚で、仮面を剥いだ(六文字傍点)銀粉男の顔が俄に大写しで迫ってきて、それがにたりと笑ったのを見ると、あの酒場(バー)主人(マスター)=段鼻の男であった。目玉を道化師のようにぎょろりと回転させると、なおもにたにた笑いながら両手で抱きあげていた金粉女の仮面の取れた顔を画面に突きだすようにひょいと持ち上げてみせた――とそれはぐったりと眼を閉じてはいるものの、あの藤色のコートの女に似た酒場(バー)のホステスの顔に間違いないのだった(これらの動きはすべてサイレントで進行していた)。

 ≪やっぱり……≫とぼくは胸のうちでつぶやいた。

 段鼻の男は、ぼくをとことん虚仮にしてやった、と画面で声にこそ出さないが嘲笑っているようであった。舞踏ショーは、言ってみれば、なんてことはない、仮面の裏で、あの黒い服の男の化身みたいな段鼻の男が、あの藤色のコートの女の面影をいくぶんか宿す女を自分の魔力で惹きつけ征服するといった筋書きが仕組まれていたんだ。

 ≪こいつは手が込んでて、底意地が悪いな≫とぼくは思う。

 ところが、このあと画面では、なんとも薄気味悪い光景が生じていき、眺めているうち、ぼくはぞくりと鳥肌が立ったのである。

 青い光の揺らぐなかに、段鼻の男は妙な動作へ移っていった。仁王立ちの姿勢のまま、男は両手で抱きあげていた女の伸びた躰を小脇に抱え直すと、片方の手で女の上半身の衣裳を引っ張って脱がしていく。まるで果物の皮が剥かれるように、たちまち黒髪や白い肩、白い乳房、白い腕が現れる。と今度は男はぐったりと仰いた女の裸になった上半身を後ろ向きにして肩に担ぎあげると片手で落ちないように支えながら、もう一方の手で前に垂れた腰から下のタイツを脱がしていく。白くまるい尻、白くむっちりとした太腿、白くすらりとした二本の足。無造作な仕草だ。だが、それくらいまでならばまだ良かったろう。それから演じだした男の行為は、なにか悪夢のなかの出来事のようで、現実離れがしていた。

 男の両手が機械のように動いて、テーブルに横たわった女の躰から腕、足、頭、胴体という順に次々ともぎとっていくのだ(不思議なことにその間に血が滴るなんてことはなかった)。これだけでも驚くべきことだが、男は続いて、それらのばらばらになった躰の諸器官をご丁寧にも一つ一つ食べはじめたではないか。両手で腕を一本口へ持っていき、指からもぐもぐと食べだす。が、それは食べるというよりは、くわえていた上下の顎が動きだすと、そのものは透明になって喉の奥へ吸いこまれていくようだ。……これが、あの男の魔術なんだなとぼくは察しながら、やはり見ていて気持ちのいいものではなかった。……

 ……ぼくは、先ほど舞踏ショーが終わってすべてが闇に包まれた僅かな隙に、あの藤色のコートの女と黒い服の男が出ていったと思われる壁の扉をくぐり抜けて(そのあと新たな狭い通路を辿り)、見慣れた広めの廊下――それは両側に睡っている部屋部屋の連なりが深夜のホテルの内部を思わせるのであったが――に入ったのだ。ところでぼくの足は、時間の遅れを取り戻すために急いではいたものの、心のほうは、この階に上がりたてのときに覚えたふうの――女を見失うかもしれないといった焦りや不安からは少々遠のいていられた。ただこの先なにが起こるかわからないという油断ならぬ気持ちだけは維持していたが。ではどうしてそういうことになったのだろうか。というと、それには次のような事態が更にからんでいたからだ。

 ホールでのカラー映画の映写は――ホステスの躰をすっかり食べ尽くすと、段鼻の男がにたりと笑う――光景が最終だったらしく、画面はたちまち空白となったが、どうしたことかそのあとすぐ白黒の映写がそれにとって代わったのだった。そしてそこに写しだされた新たな白黒の画面に、ぼくはいやでも意識を集中しないではいられなくなった。というのはその白黒の画面は、ベッドの見えるホテルかなにかの一室らしいが、そのなかに妙なことに一台の脚立付きのテレヴィの画面が映っていて、それには二人の人物が浮かんでいたからだ。画面は暗い色調で映りは悪かったけれど、あの藤色のコートの女と黒い服の男であるとぼくにはすぐ見極めがついた。この深夜のビルの廊下を歩いているらしい二人の動きなのだ。録画なのか、いま実際に行動しているものが映っているのかを見極めるだけの余裕はなかったが。さて、階上へ向かう階段が現れて、いま二人の姿は段を昇っていく。すると階段が曲がる踊り場の壁に3Fの標識と矢印が浮かびあがった。二人の動きは三階を目差しているらしいことがわかる。と画面は変わって、視界が俄に明るんだ。百貨店らしい陳列棚やショー・ケースの並んだあいだを移動する二人の顔が浮かんできた。買物客の婦人に応待している制服姿の女子店員の顔や二人とすれちがう中年男の顔。三階は百貨店の売場のようだ。と、画面はまたもや変わって、二人の姿は上へ向かう階段の途中にあるのだった。曲がり角の踊り場の壁に4Fの標識と矢印が浮きあがり、二人が階上に近づくにつれて辺りは再び暗くなっていくのだ。こうして画面は完全に暗い色調に戻り、深夜のビルの四階だろうか、その廊下を二人は歩いていくらしかった。廊下を何度か曲がったようだ。と挙句に二人が行き着いた場所は、とあるなにか店屋風の部屋の前であった。部屋の扉の真上に、横に小さな長方形の軒灯が鈍い光を放ち、なにやら文字を浮きだしているのだ。その文字は、見まもるうちにようやく「変容館」とつづってあるのがわかった。ところで、そこがどうやら彼等が究極に目差す所らしかった。その店の前に彼等が佇んでいたのは束の間で、たちまちその得体の知れぬ店の奥へと二人は扉を押して入っていったのだが。……これが最後の場面であって、このあとテレヴィの画像はすうっと消え、同時に白黒画面の映像も途切れてしまったようである。

 「変容館」――そう、妙な名前だが四階の変容館という標的を白黒映画のテレヴィの画面から教えられて、ぼくの足の赴く方向はすでに定まったようなのである。だから、廊下へ出てからは、ぼくはひとまず上へ向かう階段を見つけさえすればよかったのだ。だが、反面、ぼくは心のどこかで、こういうこちらの行動はすべてあの酒場(バー)主人(マスター)=段鼻の男のもくろみに乗せられているのではないか、と疑う気持ちが全くなかったわけではない。そして更に廊下で階段を探しているときだが、ふとあることに気づいて、ぼくは考えこんでしまったのである。

 それはなにかというと、酒場(バー)主人(マスター)と黒い服の男は同一人物ではないかという疑惑であった。二人は顔つきや感じがあまりにもよく似ていた。あのぞっとするほど凄くいやらしい眼つきやこちらの心の奥底を凝っと窺っている感じ。鼻の形だけが段鼻と長く垂れた鼻とで違ってはいたが、それも変装用の付け鼻だとしたら可笑しくはないのだ。

 ≪いや、待てよ≫とここで一つ思い返されることが浮かんだ。もし二人が同一人物だとすると、先ほどのホールでぼくより先に舞踏ショーの開幕を待っていたのは、いったい何ものだったのだろう。ぼくは酒場(バー)主人(マスター)と話を交わしていたのだから、あのものは別種の人間か、あるいは見せかけの人形ででもあったのだろうか。とすると、これもまた酒場(バー)主人(マスター)、いや黒い服の男の魔術の仕業だというふうに思われなくもないのだ。

 こうしてぼくは、この同一人物が、この深夜のビルの到るところでおのれの魔術のあらゆる力を駆使し、ぼくがあの藤色のコートの女に接近するのを阻止しようとしている事実、またはその気配を認めないわけにいかなかった。

 だが、こういう想念の最後にきて、ある重要な活力の復活へと導かれるような発想の継ぎ目を啓示されようとは、ぼくは思ってもみなかったことなのである。そこで、このときぼくは思わず、

「あっ」と驚きの声を発したほどだった。

 どういうことかというと、酒場(バー)主人(マスター)、あるいは黒い服の男のぼくに対する魔術による妨害が、これまでのところ、なにか徹底せず中途半端に終わっているのはどうしてなのだろうと、ふと思ったときなのである。ある考え方が不意に閃いたのだった。

 ≪ひょっとすると、あの女が、このおれの追跡しているのをすでに知っていて、おれに対して、多少の好意を抱いてくれたからではないだろうか≫

 廊下を歩いていて、この最後の考えが不意に浮かんだとき、ぼくは、これは妄想であるかもしれないし、虫がよすぎるかもしれないなと思いながらも、女が自分に好意を抱いてくれているという意識を持っただけで、眼の前に突如明るい光が射したような気持ちになれたのは、――これはあとになって思いあたることに出会うわけだが――不思議と言えば不思議な気がしたのだった。

 踊り場の壁に3Fの標識と矢印のある階段は間もなく見つかり、ぼくは三階に出て久しぶりに明るい照明を仰いだのだった。といっても、深夜のことで、その明るさにはどこか輝ききれない翳のようなものがにじんでいたのは確かだ。三階を占めているのは、再び百貨店の売場と思われる光景の広がりで、居並ぶショー・ケースや陳列棚にはカーディガンやブラウスや靴下などの衣料品が花を咲かせ、買物客の婦人が制服姿の女子店員に話しこんだりしている。あの先刻のテレヴィ画面と同じ光景なのだ。が、さすがに最初の階ほどの客足はないようだった。ぼくは四階への階段がある方角におおよその見当をつけてはいたが、たまたまとっつきの売場に客待ち顔のぽちゃっとした女子店員がいたので、念のために尋ねてみた。すると、

 「売場の真ん中をまっすぐに行きますと、紳士服売場がありますから、右へ曲がってください。すぐ階段が見えます」ほぼ予想どおりの返事だった。ついでに、ぼくは、百貨店で気になっていたことを訊いてみた。

 「この百貨店の売場だけど、妙なんだなあ。各階に設けられてないんですか」

 「はい、そうなんです」小肥りの眼のくりくりした女子店員は、歯切れよく答えた。「一階、三階、五階、七階、九階の奇数の階が、売場になっています」

 「じゃ、偶数階は、なにになってるの」

 「あいだの階――つまり、二階、四階、六階、八階、それに最上階は、ホテルになっています。それから地下は食堂と機械室ですわ」

 「ホテルと言っても、内部はどうなってるのかなあ。客室ばかりじゃないんでしょう」これがぼくの知りたいところだった。

 「さあ、わたくし、全然知りませんわ」女の子は変な顔をした。「お客様のほうこそ、ご存じなんじゃないですか。わたくしたち店員は、ホテルへの出入りは禁じられてますから。客室への用は、すべて地下の受付(フロント)をとおすことになっていますの」

 深夜のビルの三階で知り得たことは、はぼこれぐらいであった。やはり、並みの百貨店、並みのホテルではなさそうな印象であった。深夜のビルの存在の仕組みそのものに秘密が潜んでいるのかもしれないという気が、ぼくにはしたのである。が、いまはそのことには関っていられない気持ちだった。それで間もなくぼくは四階への階段に差しかかり、階上へと昇っていったのである。

 

 妄想であるかもしれない、妄想に過ぎないかもしれない。だが、ひとたび暗中をまさぐりすすむ者にとって行く手に蝋燭の火が一つともっただけでもたいへんな救いとなるように、<女が自分に好意を抱いてくれている>という言葉の閃きが頭をよぎってからは、この言葉はひとかたまりの希望のほむらとなってぼくの胸にめらめらと燃えあがり、そのなかにおのずから女の哀愁を湛えた白い豊麗な姿を浮きあがらせてきたのは、この深夜のホテルの四階の暗い廊下にぼくは立って歩きだしたときであり、このビルに迷いこんでからいままでこれほどあの女への期待に胸を脹らませたことはなかったろう。(あとで考えたことだが、あるロマンチックな男というのは、魂ごと女に惹かれてしまっている場合、絶望と紙一重の極めて薄い可能性であっても、そこから夢を限りなく紡ぎ追求していくという習性をそなえているのではないかと。あのときのぼくはよほどあの女に参っていたのであろうか)。

 睡ったような部屋部屋の続く暗い廊下を二度ほど曲がったろうか。探し当てた「変容館」という店は、こちらから来た廊下が切れて他の廊下と合流するちょうど正面に、鈍いオレンジ色の軒灯をともして輪郭を現したのだ。しかし、外から見たところ、正面の三文字をしるした軒灯と扉を除いたすべての部分を、チョコレート色の壁が蔽っているだけの変哲もない造りであり、装飾もなければ、店の種類を示す標識も出てはいなかった。店屋というよりなにか得体の知れぬ屋形という感じだった。がぼくはそんな程度の外観にこだわってはいられない気持ちだった。ぼくは白いペンキで塗られた扉の取手をまわして「変容館」の内部に入っていった。

 さて、「変容館」の内部は――というと、まずあの軒灯と同じ鈍いオレンジ色の光が、なにか暗い色調を帯びて館内に行きわたっているのであった。そしてやや奥行のあるかなりな広がりの方形の空間に、椅子付きの円テーブルがあちこちに散在していて、それだけ見ると、そこは喫茶店かなにかのように受けとれた。が、そうではないという判断は、館内の奥の天井近くに掲げられた大きな横書きの文字の看板によって得られたのだ。それには「変容館・薬用植物展示場」と書いてあった。看板の下というか、奥は出札所と売店になっているようだが、人影は全く見られなかった。人影といえば、館内のどの円テーブルにも誰もいないのだった。

 ≪なるほど、変容館、つまり、薬用植物展示場というわけか。ここの植物を愛用すれば、心身ともに変容し、生まれ変わるということかな。しかしそれにしても、誰もいないとは、どうしたことだろう。あの女はどこにいるのだろう。ここのどこかにいないはずはないが。……≫

 そんなふうに思ったのは、ぼくにはなにか気配のようなものが感じられたからだ。ぼくは注意深く辺りを見まわした。すると、扉にいちばん近い手前の円テーブルの上に、珈琲かなにかを飲んだ跡らしい紙コップが二つ残されてあり、吸殻がいっぱい詰まった灰皿も置いてあるのが眼にとまった。右側の壁寄りには珈琲などの自動販売器が三台並んでいる。なにやら燻っている感じだ。で、ぼくはその円テーブルに近づいていき、灰皿の中身をテーブルの上にぶちまけた。すると吸殻のうちの一つからけむりがひとすじ立ちのぼり、穴の奥に赤い火が仄見えた。

 ≪やっぱり、そうか≫とぼくは察した。≪あの女は、ここにいて、珈琲かなにかを飲みながら、いっときを過ごしたのだ。この煙草の吸殻は、黒い服の男が吸ったものだろう。この吸殻の火がまだ消えてないところ、彼等はこの近辺に潜んでいることになるだろう≫

 ぼくの胸は、あらためて熱い期待の波に揺れ動くのがわかった。

 ぼくの眼は、おのずと館内の左側を塞いでいるガラス板のほうにそそがれた。そこは天井に近い部分は壁であったが、残りは透明なガラス板で仕切られていて、隣接した薬用植物展示場のかぐろい緑の光景が、そこから見渡せる仕掛になっていた。そのガラス仕切りの中央に展示場への入口があって、その戸がいま、開いているのが、こちらからも見えた。

 「あそこだ、展示場のなかだ」ぼくは思わず快哉に似た声を放っていた。それは恐らくぼくの彼等に対する半ば無意識の_到着宣言_であったろうか。

 ガラス板一枚を隔てたこちら側にいったん入りこむと――薬用植物展示場は、どうやら人工を施した屋内植物園らしいとわかったのだ。最初の印象は、全体に暗い翳を宿してはいるものの黄色い光の柔らかな波と温室らしい暖もりのある空気がふわふわとたゆたう点で、居心地の良い別世界に入った感じであった。ところが、歩みはじめると様相はだんだんと変わってくるのであった。まわりは、身の丈を越える樹木類が幅三メートルほどの通路の両側に群落となって続き、――そのなかには鉢植の草木も混じっているのだが――その通路は途中で曲がっていくので、奥へ進むにつれて、なにか_八幡の藪知らず_の迷路(ラビリンス)のなかを歩んでいるような薄気味悪い感じがしてくるのである。むろん、展示場なのだから、それぞれの植物にはカナ文字やローマ字でしるした名札が付いているようであるが、このときのぼくには木の葉や草や花類とさして変わらないものに映っていたのだ。更に付けたすと、この迷路めいたビルの人工林のなかを自分ひとりがいまのところ影を曳いて歩いているが、いつなんどきあの黒い服の男が待伏せしていて、現れるかもしれないということへの恐れに似た気持ちがあったことは否めない。彼はこれまでずっとなんらかのやり方でぼくがあの女に接近するのを阻んできているのだから。でも、それに対しては、だから、ぼくはある程度覚悟していなかったわけではない。ただ彼の不意の出現の仕方を怖れていたことはほんとうなのだ。それで人工林の通路を四回も折れ曲がっていった挙句であったろう。背後に当たってなにか鋭くそれでいて不気味な空気の密度が迫るのを覚えて、ぼくは思いきって後ろを振り返ったのだ。そしてあの男が目玉をむき、歯をむいた凄い形相でこちらに迫ってくる姿を見たときは、ぼくは思わず背筋を凍らせて、身がまえ、三、四歩あとじさりした。その僅かな一瞬だったろう。ぼくは、相手の顔の鼻が糸瓜のように垂れていないのに気づいた。それは段鼻でもなかった。がしかし、もう相手の顔を見まもっている余裕なぞなかったのだ。次の動作で、男は目玉をむき、歯をむいた凄い形相のまま、短剣様の刃物を逆手に振りかざして、ぼくに襲いかかってきた。ぼくはそれを跳んで避けようとしたが足を滑らせて仰向けに倒れてしまった。その伸びたぼくの躰の上に男は素速くのしかかるように跨ったのだ。とそのとき、ぼくには次のことがわかってしまった。相手の体力や膂力の勁さが、もはやぼくのどんなあらがいをも無益にしてしまうような人間離れしたものであることを。例えば、男はぼくの胸にゆっくりと刃物の先を向けてくるのであったが、その刃物を持つ相手の手を下からぼくが両手で掴んだうえ、差し止めるかあるいは捩じろうとしても、相手の手は鋼鉄に化したかのように微動だにしないのだ。それはまさに悪夢をみているような時間であったろう。

 悪夢をみているような時間。まさしくそうであったろうが、よく耳にするのは、夢をみる者が悪夢から逃れるためにその悪夢が現実のものではないと思いこもうとする例である。しかし、ぼくの場合は少しく様相が違っていた。ぼくは悪夢のような時間のさなかにいて――それは微かな霧のよぅなものでしかないのだが――絶望とは逆のものを感じていたようだ。それは――意識の微かな底で救済を求めていたのだろうか。そしてその救済はやはり彼方から訪れてきた。それはふりそそぐ光とともに天来の声のように天上から降ってきた。銀の鈴が軽やかに転がるふうの涼しい声で。

 「おやめなさい、けだものよ。あなたがそのように振舞うことは許されません」

 のしかかられていた悪夢のような意識の底で、

 ≪ああ、あの声、以前に聞いたあの女の声だ≫とぼくは思った。途端に悪夢はすうっと遠のき躰は急に軽くなり、ぼくは視野のはずれに、これまで自分にのしかかっていた黒い服の男が、去っていく後ろ姿を見た。男は刃物を棄て、頭を両手で抱えこむようにして走ったが、すぐこんもりした樹木の暗い影の奥へ飛びこんで消えた。一方で、ぼくは――というと、救済の実現があの女の庇護によるものであると知ったときの胸を衝きあげてくる歓びは、いかばかり大きかったろう。ぼくは続いて飛び起きると、声の降ってきたと思われる彼方を振り仰ぐようにして見た。ぼくは驚き、かつ、感激した。

 人工林の通路の曲がり角でもある突きあたりの正面は、こんもりとした樹木類が密集しているのだが、その樹木類の上の彼方から女は豊麗な立姿をくっきりと浮きたたせ、同時に白光が背後から輝きでて、こちらまで達していた。その彼女のいる位置までかなりの距離があっただろう。そこは――天井が急角度に高く遠のいた奥の壁に張りでたテラス風の所に女は立っていたから――かなり離れていたはずであるのに、眺めるうち、なぜか女の容姿は至近距離からのように、ぼくの眼に映ってきたのだ。しかも、女の容姿は別の角度からも――斜め前方から白光が射しこみ燦然と浮きでていた。女は藤色のコートを脱いでいた。それに代わる女の衣裳はこざっぱりした枯葉色のツー・ピースで、女の細い頸すじからすんなりした両肩の前に垂れたエメラルド色に輝くネックレースが、それによく調和していた。女は哀愁を秘めた黒い双眸を大きく見ひらいてぼくのほうを眺めていた。白い形の良い鼻すじ。赤い薔薇色の唇。ぼくは女と視線を交じわり得たと思った瞬間、あるいずこへとも知らぬ遠い昔の追憶へ誘われるふうの感情がふっと胸の底から涌き起こり、それはなにか喉の乾きに清涼飲料水を授けられるふうの快さを覚えはするものの、同時にその快さのなかへやおら融け入りひろがっていく哀しみの霧を伴うようであり、あまつさえ、涙すらうっすらとにじんでくる始末であった。しかし、時間でみれば、女がぼくのほうに顔を向けていたのは、数分にも満たなかったろう。その間、女は終始ひと言も話しかけてくるわけではなかった。いや、不思議なことには、途中で、女の容姿は微妙に変わっていったのだ。それはこのようにであった。最初ぼくの視界に入った女の姿かたちは、白光の照射を浴びながらも(なま)の現実の女としての肉身を極上の美しさにまで顕現していたように思われていたのだが、分秒の時間を刻むあいだに、女の躰はだんだん輝きを増してくるようになり、ある飽和点に達したと思われる瞬間、ついに女の容姿はみずから発光して白金色の煌めきを放ったのである。これがぼくの主観的な眼のレンズの歪みによるのでなければ幸いなのであるが。その窈窕として華麗な女の美しさといったら、全くあの星の女王を想像したところで、ぼくは決して気恥ずかしいなぞという気持ちにはならなかったのだ。

 

 忘我の状態というのか――それほどかの変身した華麗な女の容姿に意識を奪われていたのか、あるいは法悦の感情にそれほど打たれていたのか。どうにも動きようもなかったことは確かであった。ぼくの足が動きだしたのは、女が後ろを向き、それまで輝いていた白光とともに、壁の暗い凹みの奥へ吸いこまれるように歩き去ったからである。

 ぼくはすぐ女の跡を追いかけていった。ひたすら女とともにありたいと願いながら。正面の樹木類にぶつかって、通路を右へ曲がると、人工林はそこで尽きて、天井高くまでビルの内壁が立ち塞がり、左方へ壁に沿う形で手すり付きの細い階段が現れた。ぼくはその階段を踊り場を経て階上へと昇っていった。昇りきった所は、最前女が立っていたテラスの端らしかった。ぼくはその幅狭いテラスの途中で、女が抜けていったらしい通路が壁に口を開けているのを見てとり、同じく跡を辿ることにした。が、通路は少し行くと下降する階段に変わり、階段を降りきると、一台しかないエレヴェーター室の前に出た。左右に壁が迫っている迷路の行きどまりのような空間である。エレヴェーター室は扉が開いていて、扉の右脇に次の文句をしるした掲示板が立っていたのだ。

 

   四階←→屋上 専用エレヴェーター

    第二展示場は屋上に設けられています

 

 この掲示を見るなり、ぼくの脳裡には、このエレヴェーターに乗って屋上へ向かっていった女の姿が、ありありと浮かんできたのだ。ぼくはエレヴェーターに飛び乗ると、女の跡を追ってまっしぐら、屋上へと昇っていった。

 エレヴェーター室から屋上の外へ出る戸口は開いたままだった。

 屋外に出た途端、夜気が長時間の不在をなじるかのようにまとわりつき、<春とは名のみの>冷たい北風をもろに受けて、ぼくは思わず着ていたコートの襟を立てながら周辺を見まわした。

 第二展示場といっても、屋上の片隅を一応金網で囲ったなかに植木鉢の棚が金網に沿ってしつらえてある程度のお粗末なものだった。なかに人影がないのを見さだめると、ぼくは金網の囲いに付属した出口から場外に出て、屋上の他の所を探しはじめた。屋上は、なべてがらんとして人の気配はないようだった。数段昇った先に広場が広がっていた。夏場はビヤ・ホールになるのか、作りつけの円テーブルが広範囲にわたって矢鱈に置かれていて、屋根付きのレスト・ハウスも設けてあったが、人影はどこにも見あたらないのだった。外灯は屋上の周囲をはじめ、あちこちに立っていたが、すべて灯は消えていて、これらの施設を白と黒のまだらにぼんやりと浮きあがらせているのは、暗い闇空にかかった冬の名残りのような片割れ月のせいだったろう。そしてぼくが闇空に幻視したものは、冴えわたる蒼白い月の暈ばかりではなかったように思われる。ぼくの網膜の暗い闇には大小無数の星々が目映く煌めき、光芒を放っていたのではなかったろうか。

 レスト・ハウスの裏手にまわっていくと、子ども用の回転木馬(メリー・ゴオ・ラウンド)を収容してある建物などの(ミニ)遊園地があった。無人の売店があり、縁台がいくつか置いてあり、ベンチも処どころに見かけられた。が、どこもかしこもがらんとして廃墟のようだった。(ミニ)遊園地を通り過ぎる頃、なにかぼくはもう殆んどあの女はここにはいないだろうと思いこみはじめていた。こんな場所を深夜ぶらついていることで苦笑のようなものが涌いてこなくはない。が、不思議に絶望感は伴わないのだった。素晴らしい女を見失ったという残念な気持ちだけが尾を曳いているようなのだ。手足の先が夜気ですっかり冷たくなっているのに、いまさらのごとく気づき、ぼくは短い階段を降りた。と、向こう正面にこのビルの内部に再び入れる戸口が開いていて、その脇に誰やら人影らしいものが立っているのを見つけて、ぼくは、はっとなった。どうも女性らしい人影なのだ。ぼくは、まさかと思いながら戸口に近寄っていき、相手の様子を窺うと、それは残念ながら、やはりあの女ではなかった。頭髪をネッカチーフで包み頸で結んだ顔の長い女の媚を含んだ笑顔が、月明かりに仄白く浮かびあがってきた。背丈も一メートル六十五ぐらいはありそうだった。女は声を掛けてきた。「少し飲んじゃった。酔いを醒ましてたの。ごいっしょにお茶でも飲みませんか」

 ぼくは女の顔をまじまじと眺めた。眼と眠が離れて愛嬌のある顔だが、上まぶたを青く塗り、唇の色もピンクに濃い感じだった。≪こりゃあ、夜の天使だな≫とぼくは胸のうちでつぶやいた。女は近づき、ぼくのコートの片方の袖を軽く両手で押さえると、もう一度声を出した。

 「ねぇ、ごいっしょにお茶でも飲みましょうよ」

 このとき、ぼくの脳裡には、一瞬だが、これが最後であるかのようにあの素晴らしかった華麗な女の顔や姿がふっと浮かびあがり、打上花火のように大きく点滅すると、闇空に散っていったのだった。……

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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上田 周二

ウエダ シュウジ
うえだ しゅうじ 詩人・作家 1926(大正15)年 東京市下谷区(現台東区)に生まれる。2011(平成23)年没。

掲載作は1985(昭和60)年、沖積舎より刊行された『深夜のビルディング』のタイトル作品である。

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