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閉ざされた言語空間―占領軍の検閲と戦後日本(抄)

第二部アメリカは日本での検閲をいかに実行したか

第一章

 昭和二十年(一九四五)九月、逐次占領を開始した米軍の前で、日本人はほとんど異常なほど静まり返っていた。

 連合国記者団の第一陣として、東京に乗り込んで来たAP通信社のラッセル・ブラインズは、「全国民が余りにも冷静なのに驚いた」と告白している(1)。

 だが、「驚いた」のはなにもブラインズだけではなかった。実は占領軍自身が、すべては「巨大な(わな)(a gigantic trap)」ではないかと、疑っていたのである(2)。この沈黙が解けたとき、にわかに血の雨が降り、米軍は一挙に殲滅(せんめつ)されてしまうのではないか、と。

 その恐れを裏書きするかのように、〝ブラックリスト〟作戦命令書の諜報附録は警告していた。

 

《……狂信的な民衆との接触によって、一般諜報活動の困難は飛躍的に増大するものと思われる。そこにいるのはニュ-ギニアの場合のような従順な原住民でもなければ、フィリピンの場合のような親米的民衆でもない。あらゆる日本人は潜在的な敵である(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)。したがって、一切の諜報活動は作戦諜報の性格を帯びる可能性を有する。サポタージュや地下抵抗運動の脅威は、複雑な言語と人種心理のために倍加される。一切の諜報機関はこの邪悪な状況に直面し、状況に合わせてその活動方針を修正しなければならない。語学要員が極度に不足しているので、言語関係諸機能相互の調整が必要である(3)。……》

 

 あらゆる日本人は「潜在的な敵」であり、そういう人間が住んでいる日本という国は、本来「邪悪」な国である。この固定観念は、〝ブラックリスト〟作戦が中止されたのちになっても、いつまでも米軍当局者の念頭を去らなかった。それどころか、それは時とともに深く彼らの意識に浸透して、ほとんど日本と日本人を見るときに自動的に作動するフィルターのようなものになった。

 一方、無気味な沈黙を続ける日本人には、何等自らの「邪悪」さを反省するような形跡が認められなかった。米軍検閲官が開封した私信は、次のような文言で埋めつくされていたからである。

 

《突然のことなので驚いております。政府がいくら最悪の事態になったといっても、聖戦完遂を誓った以上は犬死はしたくありません。敵は人道主義、国際主義などと唱えていますが、日本人に対してしたあの所業はどうでしょうか。数知れぬ戦争犠牲者のことを思ってほしいと思います。憎しみを感じないわけにはいきません》(八月十六日付)

《昨日伊勢佐木町に行って、はじめて彼らを見ました。彼らは得意気に自動車を乗りまわしたり、散歩したりしていました。

 橋のほとりにいる歩哨は、欄干に腰を下して、肩に掛けた小銃をぶらぶらさせ、チュウインガムを噛んでいました。こんなだらしのない軍隊に敗けたのかと思うと、口惜しくてたまりません》(九月九日付)

《大東亜戦争がみじめな結末を迎えたのは御承知の通りです。通学の途中にも、ほかの場所でも、あの憎い米兵の姿を見かけなければならなくなりました。今日の午後には米兵が何人か学校の近くの床屋にはいっていました。

 米兵は学校にもやって来て、教室を見まわって行きました。何ていやな奴等でしょう !  ぼくたち子供ですら、怒りを感じます。戦死した兵隊さんがこの光景を見たら、どんな気持がするでしょうか(4)》(九月二十九日付)

 

 これらのうち、八月十六日付と九月二十九日付のものは、いずれも戦地に在る肉親に宛てられた国外郵便と覚しいが、ここで注目すべきことは、当時の日本人が、戦争と敗戦の悲惨さを、自らの「邪悪」さがもたらしたものとは少しも考えていなかったという事実である。

「数知れぬ戦争犠牲者」は、日本の「邪悪」さの故に生れたのではなく、「敵」、つまり米軍の殺戮と破壊の結果生れたのである。「憎しみ」を感じるべき相手は、日本政府や日本軍であるよりは、まずもって当の殺戮者、破壊者でなければならない。当時の日本人は、ごく順当にこう考えていた。そして、このような視点から世相を眺めるとき、日本人は学童といえども「戦死した兵隊さん」の視線を肩先に感じないわけにはいかなかった。つまり、ここでは、生者と死者がほぼ同一の光景を共有していた。

 いうまでもなく、私信の検閲は、占領軍当局が日本人の沈黙に投じた一つの測深鉛にほかならない。彼らは、この沈黙のなかに充満している情念と価値観を破壊し、死者を生者から引き離さなければならなかった。

 早急にこの〝作戦〟 に着手しなければ、彼らはいつあの「巨大な罠」にかかり、逆に殲滅されてしまうかも知れない。それは、彼らの眼から見れば、文字通り時間との競争であった。

 九月二目、ミズーリ艦上の降伏文書調印によって、国際法上の戦闘行為は停止されたが、それに替って超法規的な隠れた戦争が開始されたのである。日本における民間検閲は、この眼に見えない戦争で、ほとんど原子爆弾に匹敵する猛威を振うはずであった。

 

 ところで、この〝作戦〟の実施責任者に任命されていたマッカーサーの諜報部長、E・R・ソープ准将は、九月四日に〝静かな〟日本に到着し、麾下の四四一支隊長ギャロウェイ中佐を帯同して、直ちに東京に向った(5)。

 このときソープ准将に随行していたのは、日系二世の通訳で、対敵諜報部隊(Counter-Intelligence Corps CIC)の諜者のアーサー・S・小森である。小森は、FBIによって訓練された二世諜者の一人で、昭和十五年(一九四〇)にハワイからフィリピンの在留邦人居住地域に送り込まれ、のちに脱走した人物であった。

 フィリピンに開戦前から二世諜者を潜伏させておくというのは、マッカーサーの参謀第二部長、チャールズ・A・ウィロビー少将の着想だったといわれている。いずれにせよ小森は、最初に東京入りを果したCIC諜者になったのである(6)。

 ソープ准将の当面の仕事は、占領軍総司令部の東京移駐に備えての、徹底的なセキュリティ・チェックであった。総司令部に予定されていた第一相互ビルその他の接収施設の点検はいうまでもなく、現地要員として雇用される予定の日本人の身上調査もまた、ゆるがせにはできなかったからである(7)。

 その任務遂行のために、ソープ准将は麾下に二つの実施部隊を擁していた。その一つは前出の敵対諜報部隊(CIC)である。CICの本部所在地は、最初は第一相互ビル、のちには帝国相互ビルであった。

 これに対して、CIC の耳目として日本全国各県に散開し、諜報活動に従事した配下の部隊、四四一支隊本部は、竹橋の旧憲兵司令部に設けられた。防音装置のある訊問室、拘置所、無線・写真の設備などが整っている点を評価されたためである(8)。

 このように、占領開始と同時に活動を開始したCICに比べると、ソープ准将麾下のもう一つの実施部隊、民間検閲支隊(Civil Censorship Detachment CCD)の編成は一歩遅れざるを得なかった。

 すでに第一部で述べた通り、支隊長フーヴァー大佐の一行は、九月一日頃横浜に到着して、直ちに横浜税関内に仮司令部を設けた。しかし、司令部要員の主力は未到着で、大佐の手許には九月三日に横浜に上陸した、第八軍第十一軍団所属の民間検閲支隊第二先遣隊の一個部隊があるにすぎなかった(9)。

 それにもかかわらず、フーヴァー大佐の前には、九月三日付でソープ准将がサザランド参謀長の許可を求めた一通の命令書の写しが置かれていた。そして、その第二項には、

 

《現地における新聞および放送の検閲は、最高司令官の定める政策にしたがい、対敵諜報部長の指揮下において、太平洋陸軍民間検閲支隊がこれを実施する》

 

 と記されていた。

 これが、七月十日付「日本における民間検閲基本計画」第一次改訂版の、再改訂を意味することはいうまでもない。従来の「基本計画」によれば、新聞・放送の検閲はCCDの所管ではなく、広報担当将校(PRO)の所管と規定されていた。しかも、米軍当局は、空爆による被害を受けていたとはいえ、新聞・放送・出版等々のマス・メディアが、そのままに機能を続けている日本を占領するという事態を、一度も想定したことがなかったのである。

ソープ准将の命令書は、次のように規定していた。

 

《一、口頭訓令にもとづき、小官は日本における現地新聞および放送検閲の責任を担うことになった。ここに略記した計画を御承認いただきたい。

 二、現地における新聞および放送の検閲は、最高司令官の定める政策にしたがい、対敵諜報部長の指揮下において、太平洋陸軍民間検閲支隊がこれを実施する。

 三、新聞検閲は事後検閲(post-censorship)とする。即ち新聞に予め禁止事項を通達し、発行された新聞を検閲して禁止事項違反の有無を確認するものとする。禁止事項は少数とする。違反は相当期間の発行停止によって処罰するものとする。

 四、簡潔かつ平易な“遵則”の用に供するために、天皇が次のような詔勅を発出することが望ましい。詔勅の文言は慣例に従うものとする。

 

 連合国最高司令官は、今後言論の自由に対して最小限度の規制を加える旨を告示した。連合国は日本の将来に関する言論を奨励するが、公共の安寧を妨げる一切の記事を厳禁する。最高司令官は公共の安寧を妨げる記事を伝播し、それによって新生日本が敗北から立ち直り、世界の平和愛好国の一員となろうとする努力に悪影響をあたえる一切の出版社と放送局に業務停止を命じることがある。

 

 五、〝公共の安寧を妨げる情報〟とは曖昧な定義であるが、しかもなおこの定義は、検閲違反を犯した一切の出版社と放送局の取締を可能にし、同時に日本人の福祉に対する配慮を優先させているという印象を与える。

 六、合衆国から語学専門家が到着するまでの間、新聞その他の刊行物の〝精読者〟 はやむを得ず日本人、もしくは現地で調達可能な日本語熟達者に求めざるを得ない。〝公共の安寧を妨げる情報〟とは何かについて、これら要員を注意深く教育すること。それは究極的には、最高司令官が望ましくないと判断する事項、ということになろう。

 七、同盟通信社を厳重に管理すること。同盟の配給するあらゆる記事は、同社に常駐する将校によって厳しく検閲されなければならない。検閲不要の記事は下記の通り。広報担当将校を出所とするもの。現地あるいは合衆国の戦時情報局、戦時捕虜局、軍政局を出所とするもの。国務省を出所とするもの。他の連合国を出所とする記事は、最高司令官の判断に応じて検閲を行うものとする。

 八、ラジオ放送は、当初前記詔勅の条項にもとづき、占領各部隊に配属されている検閲支隊先遣隊により管理可能である。放送関係者に検閲当局の要求を周知徹底させたのちは、放送のスポット・チェックのみで充分な場合も想定される。

 九、上記計画の承認を待って、在京の出版放送界代表者を召致し、〝公共の安寧を妨げる事項〟の概要を通達するよう提議する。検閲規定について遠隔の地に通達する場合には、同盟通信社の諸施設を利用すること。

 十、ここに略記された政策は、あらゆる国における新聞の自由を擁護するアメリカの新聞界指導者に容認され、この問題に関する(合衆国)国内世論の好感を得られるものと思料される(10)》

 

 一読して明らかなように、これは極度の語学要員不足を前提とした暫定命令であり、そのなかには占領軍当局の高度の政治判断によって、実施に移されなかった条項も含まれていた。

 たとえば、〝遵則〟を詔勅の形式で発布するという案は、実現しなかった。また、フーヴァー大佐の直面した日本の言論機関からの抵抗は想像以上のもので、CCDが新聞の事後検閲を維持できたのは、十月八日までにすぎなかった。それ以後、主要新聞は、いずれも事前検閲(pre-censorship)の対象となった(11)。

 だが、それにもかかわらずこの九月三日付の暫定命令の結果、フーヴァー大佐は、「基本計画」に規定された管理関係の三部門と、郵便部、電信電話部、旅行者携帯文書部、特殊活動部、情報記録部の五部門のほかに、新聞・放送等のマス・メディアの検閲を担当する一部局を、CCD内部に新設しなければならぬことになった。さらにまた大佐は、かりに詔勅の形式を避けるにせよ、何等かの形で占領軍当局の検閲方針を提示しなければならなかった。

 この前者に応じて即日設置され、九月十日から活動を開始したのが、新聞映画放送部 (Press, Pictorial and Broadcast Division PPB)である。これはやがてCCD部内で最大の組織になった(12)。一方、検閲方針の提示は、九月十日、詔勅の形式によってではなく、日本帝国政府に対する最高司令官指令(SCAPIN-16)の形式で行われた。これは、九月下旬に発出された一連の指令との関連で考えると、きわめて重要な決定といわざるを得ない。つまり、占領軍総司令部は、日本の言語空間管理に当って、一切日本政府を利用しない方針を採用したのである。

 九月十日の最高司令官指令は、次のように述べている。

 

《 連合軍最高司令官官房

SCAPIN-16 一九四五年九月十日

日本帝国政府に対する指令

経由・横浜終戦連絡事務局

発・連合国最高司令官

 

 一、日本帝国政府は、新聞、ラジオ放送等の報道機関が、真実に合致せずまた公共の安寧を妨げるべきニュースを伝播することを禁止する所要命令を発出すべきこと。

 二、最高司令官は、今後言論の自由に対して絶対最小限の規制のみを加える旨告示している。 連合国は日本の将来に関する論議を奨励するが、世界の平和愛好国の一員として再出発しようとする新生日本の努力に悪影響をあたえるような論議は取締るものとする。

 三、公表されざる連合国軍隊の動静、および連合国に対する虚偽の批判もしくは破壊的批判、流言蜚語は取締るものとする。

 四、当分の間、ラジオ放送はニュース、音楽および娯楽番組に限定される。ニュース解説および情報番組は、東京中央放送局制作のものに限定される。

 五、最高司令官は、真実に反しもしくは公共の安寧を妨げるが如き報道を行った新聞・出版・放送局の業務停止を命じることがある。

 

                最高司令官に代り

                      ハロルド・フェア (署名)

                      陸軍中佐 高級副官部

                      高級副官補佐官(13)》

 

 この「新聞報道取締方針」は、翌九月十一日付で日本政府から各地方総監、地方長官に通達された。しかし、日本の報道機関は一向に服従する気配を見せなかった。なによりもその根幹に位置する同盟通信社が、世界の通信社をリードして連日スクープを続けていたからである。

 占領軍の東京移駐の詳報も、マッカーサーの東京到着(九月八日)の時刻さえも、すべて同盟の特ダネであった。「ニューヨーク・タイムズ」は、占領開始当初、日本関係のニュースをほとんどすべて同盟の発信する短波放送に頼っていた。マッカーサーは、九月三日、一切の外国語放送の禁止を命令したが、同盟の英語放送は知らぬ顔をしてこの禁止命令を読み上げ、そのまま平然と放送をつづけた(14)。

 これに対して、厳重な軍事検閲を課せられていたAP、UP、INSなどの米国通信社特派員たちが、不満の声を上げたのは当然である。彼らは、総司令部の広報担当将校補佐官、リチャード・パウエル中佐に詰め寄った。

「われわれがこんな不自由な目に遭わされているのに、同盟ばかりが自由にやっているのはどういうわけかね」

「同盟はわれわれ広報担当の所管じゃないんだ」

 と、パウエル中佐は弁解した。

「……対敵諜報の連中の仕事なんだが、なにしろ連中はまだ一部しか東京に到着していない有様で、部隊の編成が完了していないんでね」

「そんなことをいったって、中佐、奴等は総司令部の禁止命令を無視して、アメリカ向けの短波放送をつづけているじゃないか。UPのサンフランシスコ受信所が、毎日受信しているぞ」

 パウエル中佐は、困惑の表情を浮べた。

「いまのところ、日本政府と報道機関を切り離すてだてがないんだ。それに、ステイツで傍受しているという放送は、あれは国内向けの中波放送だよ。出力が大きいので、アメリカまで聴えるんだろう」

 特派員たちは、顔を見合わせた。日本の国内放送の出力が小さいことは周知の事実であり、また英語で国内向けの放送が行われるはずもなかったからである。一人の特派員がぼやいて見せた。

「自前のニュースを同盟さんに抜かれて、世界中のお笑い草になっているんだから、おれたちもいい面の皮だ(15)」

 いうまでもなく、同盟通信社は、各日刊新聞社と日本放送協会を加盟社として、昭和十年(一九三五)十一月設立認可、翌十一年(一九三六)一月から業務を開始した日本の代表的通信社である(16)。

 それまで競合関係にあった二大通信社、新聞連合社と日本電報通信社通信部(電通)が、国策的見地から合併して設立されたもので、社団法人として組織されていたが、事実上の国営通信社といってよく、極東随一のニュース取扱い高を誇っていた(17)。

 契約通信社としては、AP、ロイター、中央通訊社(中国)、タス、アヴァス(フランス)をはじめとする世界の代表的通信社が網羅され、開戦後はAP、ロイターに代って、ドイツのDNS、イタリアのステファニが主要なニュース提供源となった(18)。

 同盟の国内支局は六十八を数え、戦時中を通じて中国に二十一、欧州に六の支局を擁し、そのほかマレー、シンガポール、スマトラと北ボルネオまで傘下に収めていた。さらに重要なのは、当時海外への無線通信と国際短波放送が、同盟通信社の独占事業として認可されていたという事実である。その出力は強力で、前述の通り米国西海岸に達して余りがあった(19)。

 このように世界にまたがる通信網を有し、スイス、スウェーデン、ポルトガルなどの中立国にも支局を置いている同盟の機能が存続する限り、バイロン・プライスの構想した「全世界的な対日情報封鎖」が実現不可能なことは自明であった。同盟通信社は、あの隠れた戦争の最初の標的となるべき宿命を担わされていたのである。

 

 ところで、同盟の短波放送は、占領軍の動静をスクープするのみならず、占領軍将兵の行動についても詳細に報道しつづけた。

 米海軍水兵の婦女暴行事件が、いち早く全世界に伝えられたのは、ミズーリ艦上の降伏文書調印式以前である。以後米兵の非行は連日のように報じられたが、三業地から拉致された少女の下働きが、実に二十七人の米兵によって輪姦されたという事件が報じられたときには、さすがの米陸軍と海兵隊当局者も、事実無根を声明せざるを得なかった(20)。

 いうまでもなく、同盟通信社以下の日本の報道機関が、このように果敢な活動をつづけられたのは、連合国と日本の地位は対等であり、相互の関係は双務的であって、その契約はポツダム宣言および降伏文書によって保障されている、と確信していたためである。換言すれば、彼らは正当にも、ポツダム宣言第十三項が明示する通り、「無条件降伏」したのは「全日本国軍隊」のみで、政府と国民は同宣言の提示した条件を受諾して降伏したのだと解釈していたのである。

 これについて、実は当の連合国最高司令官たるマッカーサーすら、占領当初の一時期には同様の解釈に傾き、「ポツダム宣言にはアメリカの行動に対する制約が黙示されている」と理解していたことを示す証拠がある。

 それは、九月三日付で彼が陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャルに宛てて発信した極秘電報で、のちに「降伏後における初期対日方針(Initial Post-Surrender Policy for Japan)」として知られるようになった政策文書、 SWNCC一五〇/四の草案を内示されたのに対する意見書の一節である。そのなかで、マッカーサーは述べている。

 

《特に内示された指令は、いくつかの点において降伏文書とポツダム宣言に規定されている諸原則を著しく逸脱していると思われるので、小官は所見を貴官に上申しておかなければならないと感じるのである(21)》

 

 マッカーサーその人すらこう考えていた以上、日本側が官民の別なく、敗北は合意による(ヽヽヽヽヽ)敗北であり、決して征服による敗北(ヽヽヽヽヽヽヽ)ではないと解釈したのは、余りにも当然といわなければならない。

 そして、もしそれが合意による(ヽヽヽヽヽ)敗北であるならば、敗者たる日本側には、勝者たる連合国批判の自由を留保する権利があるはずである。しかも、ポツダム宣言第十項が「言論、宗教及思想の自由」を明示的に保障しているのを見れば、占領軍兵士の非違非行を黙認すべき理由は何一つない。

 日本の報道機関の立場は、あらましこのような立場であった。九月十日付の「新聞報道取締方針」が発効したのは、同日午後四時十五分(EWT 、米国東部戦時標準時午前三時十五分)であったが、それから四時間余を経過したEWT午前七時四十分、UP通信社の短波放送受信所は、依然として電波を出しつづけている同盟の海外放送を傍受した。その放送は、「新たに一万名の米軍部隊が、近日中に東京地区に移駐する予定である」ことを報じていた。

 最高司令官指令として発出された「新聞報道取締方針」は、こうして完全に無視されたのである。そののちも同盟の短波放送は、米陸海軍部隊の動静を報じ、米兵の非行を報じつづけた。その電波がプツリと跡切れたのは、九月十四日正午であった(22)。

 

 同盟通信社は同日同時刻に、英語、フランス語、スペイン語および中国語で行われていた海外放送の、即時中止命令を接受した。そして、同日午後五時二十九分、同社は「公共の安寧を妨げるニュースを伝播した」廉により、重ねて一切の機能を停止するよう厳命された(23)。

 これこそCCDが、日本の報道機関めがけて振り下した最初の斧の一撃であった。

 翌九月十五日午前、民間検閲支隊長ドナルド・フーヴァー大佐は、同盟通信社社長古野伊之助、日本放送協会会長大橋八郎、情報局総裁河相達夫、日本タイムズ理事東ヶ崎潔らの日本報道関係代表者を総司令部に召致し、次のような声明を読み上げた(24)。

 

「諸君をここに召致したのは、新聞とラジオが日本全国に配布しているニュースの検閲について、命令するためである。

 最高司令官は、この件に関する九月十日付指令を、日本政府と新聞放送関係者が実行に移した態度について満足していない。

 マッカーサー元帥は、今後言論の自由に対して絶対最小限の規制のみを加える旨告示している。また日本の将来に関する論議が行われるべきことをも明らかにしている。最高司令官の設けた制限は、その論議が真実に反するものであってはならず、また公共の安寧を妨げるものでもなく、更にまともな日本人の国家再建の努力に水をさすものであってはならない、というものである。新聞の自由は、最高司令官が最も尊重するものである。またそれは、連合国がそのために戦ったもろもろの自由のうちの一つである。

 しかるに諸君は、指令の定めた寛容さに反するような態度を示した。諸君は協力して責任を果そうとはしなかった。降伏以来諸君はニュースの取扱いにおいて誠意がないことを暴露した。したがって最高司令官は一層厳重な検閲を指令したのである。同盟通信社は昨日 (十四日)十七時二十九分、公共の安寧を害するがごときニュースを頒布した廉で業務停止を命じられた。右の指令に違反するものは、いかなる機関といえども同様に業務停止を命じられるのである。

 マッカーサー元帥は、連合国がいかなる意味においても、日本を対等と見なしていないことを明瞭に理解するよう欲している。日本はいまだ文明国のあいだに位置を占める権利を認められていな敗者である。諸君が国民に提供して来た色つきのニュースの調子は、あたかも最高司令官が日本政府と交渉している(ヽヽヽヽヽヽ)ような印象をあたえている。交渉というものは存在しない(ヽヽヽヽヽ)。国民は連合国との関係においての日本政府の地位について、誤った観念を抱くことを許されるべきではない。

 最高司令官は日本政府に命令する……交渉するのではない(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)。交渉は対等のもの同士のあいだで行われるのである。日本人は、すでに世界の尊敬を獲得し、最高司令官の命令に関して〝交渉する〟ことのできる地位を得たと信じるようなことがあってはならない。ニュースのかかる偏向は即刻停止なければならない。諸君は国民に真実を伝えず、そのことによって公安を害している。諸君は日本の地位を不正確に描写している。

 諸君が公表した多くの報道は、真実に反していると知るべきである。今後日本国民に配布され記事は、一層厳重な検閲を受けることになる。新聞とラジオは引続き一〇〇パーセント検閲される。虚偽の報道や人心を誤らせる報道は許されない。連合国に対する破壊的批判も然りである。日本政府は直ちにこの方針を実施に移す手続きをとらねばならない。もし日本政府がやらなければ、最高司司令部が自らこれを行う。

 同盟通信社は本十五日正午を期して、日本の国家通信社たるの地位を回復する。同社の通信は日本国内に限られ、同社内に駐在する米陸軍代表者による一〇〇パーセントの検閲を受け、電話、ラジオおよび電報によって国内に頒布される。海外放送は依然禁止される。また海外に在る同盟支局からのニュースは、この禁止が緩和されるまで使用してはならない(25)」

 

 フーヴァー大佐のこの声明は、二つの意味できわめて重要な問題点に触れていた。その一つが対日基本政策に関するものであり、他の一つがその一翼を担う検閲政策に関するものであることはいうまでもない。

 対日基本政策についていえば、この声明はポツダム宣言の規定する双務的・相互拘束的な日本と連合国との関係を、真向から否定していた。即ち合意による(ヽヽヽヽヽ)敗北の全称否定であり、征服による(ヽヽヽヽヽ)敗北の一方的な宣言である。したがって、それは、内示された指令が「いくつかの点において降伏文書とポツダム宣言に規定されている諸原則を著しく逸脱している」と判断した九月三日現在のマッカーサーの見解をも、同様に否定していた。

 実施部隊の一部隊長にすぎないフーヴァー大佐が、独断でこのように重要な声明を行い得たはずはない。もとより大佐は、九月六日付で米大統領トルーマンがマッカーサー に交付した指令、JCS一三八〇/六の、次のような文言に立脚して日本報道関係者に声明していたのである。

 因みに、この指令の第一項は、「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立っているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである」と規定し、第三項はさらに重ねて「われわれがポツダム宣言を尊重し、実行しようとするのは、日本との契約関係に拘束されていると考える」からではなく、同宣言が「日本に関して、また極東における平和および安全に関して誠意を以て示されているわれわれの政策の一部(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)をなすもの」だからである、と述べている(26)。

 これに関連して注目すべき事実は、それよりおよそ六週間前の同年七月末現在、米国務省がポツダム宣言について、JCS一三八〇/六に示されたものとは全く正反対の見解を示していたという事実である。

 これについては、すでに第一部でも触れたが、便宜のために次にその一節を引用して置きたい。これは通常米国務省第一二五四文書 (『合衆国外交関係文書』一九四五・ベルリン会議・所収)と呼ばれているもので、「一九四五年七月二十六日の宣言と国務省の政策との比較検討」と題され、日付はないが、国務長官スタッフ会議第一五一回会議の議事録に添付され、昭和二十年(一九四五) 七月三十日に開催された同会議第一五二回会議に提出されたものである旨が、脚注に記されている(27)。

 

《第一、問題(ヽヽ)

 一九四五年七月二十六日の宣言は、どの程度国務省の政策と一致するか。

 第二、討議(ヽヽ)

(一)この宣言は、日本国 (第一項)および日本国政府 (第十三項)に対し、降伏条件を提示した文書であって、受諾されれば国際法の一般遵則によって解釈されるべき国際協定となるであろう。国際法では国際協定中の不明確な諸条件は、それを受諾した国に有利に解釈されて来た。条件を提示した国は、その意図を明確にする義務を負っている。(Harvard Research, Draft Convention on Treaties, American Journal of International Law, Supp., 1935,Vol.29, p.941 参照。この点に関して若干の仲裁裁定をあげている)

 国務省の政策は、これまで無条件降伏とは何等の契約的要素(contractual elements)をも有しない一方的な降伏(a unilateral surrender)と解釈して来た。

(二)この宣言が想定している降伏の契約的な性質は、第十三項における「誠意」という言葉への言及とあいまって、降伏条件の履行がある程度日本国政府の誠意に委ねられていることを示している。

 国務省の政策は、降伏の初期の段階では一切の要求は連合軍によって遂行されるべきであり、 日本当局の誠意に依拠すべきでないとしている。

(三)この宣言は、無条件降伏が「全日本国軍隊」にのみ適用されるものと解している。

 国務省の政策は、無条件降伏が日本国(つまり軍隊のみならず天皇、政府および国民を含む) に適用されるものと解し、これらすべてが連合国が政策遂行のために適当と考える一切の行為に黙従すべきものと解している。 (下略)》

 

 つまり米国務省は、発出されたポツダム宣言について、日本側とほぼ同一の見解を保持していたのである。それは双務的・相互拘束的な契約文書であり、もし受諾されれば従来の国務省の政策に大幅な修正を迫るような性格の協定にほかならない。しかもそれは、降伏文書に採り入れられて、講和条約締結までのあいだ、日本と連合国との関係を規定すべき基本的文書とならざるを得ない。

 換言すれば、このとき米国務省は、ポツダム宣言が米国の「政策の一部をなすもの(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)」などではあり得ず、逆にその対日政策の全部(ヽヽ)を規制すべき文書であることを、充分に、かつ正確に理解していた。そして、実際ポツダム宣言は、日本の受諾によって、現実に米国の対日占領政策の大本を拘束する協定文書となったのである。

 すでに明らかなように、JCS 一三八〇/六とは、占領の開始と日本陸海軍の復員の進行を背景として、この拘束を力ずくでかなぐり捨てようとする米国の、一方的意思表示にほかならなかった。

 そして、民間検閲支隊長フーヴァー大佐がこの力の最初の行使者の一人になったのは、検閲というものが本来力と言葉との接点に位置するものだからであり、力は言葉に影響を及ぼし、そのパラダイムを組み替えることができなければ、そもそも力の要件を喪失してしまうからである。

 たとえば、フーヴァー大佐は、参集した日本の報道関係者に向って、「諸君は国民に真実を伝えず、そのことによって公安を害している。諸君は日本の真の地位を不正確に描写している」といった。

 この場合、大佐のいわゆる「真実」が、米国、あるいは占領軍にとっての「真実」であって、日本の報道関係者にとっての「真実」でないことはいうまでもない。逆に、日本と連合国側が基本的に「対等」であり、「交渉」が可能だというのは、日本側にとってこそ「真実」であるが、占領軍側にとっては「虚偽」でしかない。

 このように、二つの相互に矛盾する「真実」が提示されたとき、もし自由な判断が可能な状況に置かれていれば、人は自ら検証してそのいずれかを取るか、そのいずれもが「真実」ではないという立場を取るかの、どちらかの態度を選ぶにちがいない。しかし、検閲は、その性格上自由な判断を許さず、一方にとって「虚偽」でしかないものを、唯一の「真実」と認めることを強制するのである。

 これはいうまでもなく、言葉のパラダイムの逆転であり、そのことをもってするアイデンティティの破壊である。以後四年間にわたるCCDの検閲が一貫して意図したのは、まさにこのことにほかならなかった。それは、換言すれば、「邪悪」な日本と日本人の、思考と言語を通じての改造であり、さらにいえば日本を日本ではない国、ないしは一地域に変え、日本人を日本人以外の何者かにしようという企てであった。

 そのためには、占領軍当局は、あの「巨大な罠」が作動するのに先んじて、日本人を眼に見えぬ「巨大な檻」に閉じ込めてしまわなければならなかった。九月十四日の同盟通信社に対する海外業務停止指令につづいて、十月二十五日に在中立国日本公館の財産および文書引渡が指令され、十一月四日、在京中立国公館との正式関係が停止されるに及んで、日本の言語・情報空間は官民を通じてついに全く閉鎖されるにいたった(28)。

 第二次大戦中、カリフォルニア州マンザナの日系人強制収容所には鉄条網が張りめぐらされ、監視塔が設置されていた(29)が、眼に見えぬ戦争の戦場となった日本本土には、それに類する虜囚の象徴はどこにも見当らなかった。監視哨の役割を果すべきCICとCCDの活動は、いずれも細心に隠蔽されていたからである。

 九月十五日午前、日本報道関係者の前で声明を読み上げたのち、フーヴァー大佐の動静は一度も日本の新聞に報じられることがなかった。ワズワース大佐、パットナム大佐、サイクス中佐、グローヴ大佐というような後任者にいたっては、その名前が活字に表れることすらなかったのである(30)。

 

1「朝日新聞」昭和二十年九月十四日付。

2 Operation of Military and Civil Censorship, USAFFE/SWPA/AFPAC/FEN,pp.57-58.

3 Operation of the Civil Intelligence Section, GHQ, FEN & SCAP, Vol.Ⅸ,Intelligence Series,(Ⅰ)p.8.“Blacklist” Annex 5d,Sec.1,par.2.

4 G-2 Daily Intelligence Summary Nov.45, Nov.4,1945,p.6.

5 Operation of the Civil Intelligence Section,p.5.

6 ibid. p.5. note (15) 7 ibid. p.5. 8 ibid. p.7. 9 ibid. p.16.

10 Operation of Military and Civil Censorship Documentary Appendices (1),Vol.Ⅹ, Intelligence Series, Appendix 23.

11 Operation of the Civil Intelligence Section,p.24.

12 Operation of Military and Civil Censorship,p.59.

13 ibid. Documentary Appendices (1) Appendix 22.

14 William J. Coughlin, Conquered Press, The MacArthur Era in Japnese Journalism (Pacific Books, Palo Alto, California,1952), pp.16-19.

15 op. cit., p.18.

16 日本近現代史辞典編集委員会編『日本近現代史辞典』(東洋経済新報社刊、昭和五十三年)四六一頁。

17 Operation of the Civil Intelligence Section,p.23.

18 ibid.p.23. 19 ibid.pp.23-24.

20 Coughlin, Conquered Press,p.16.

21 National Archives, Washinton, D.C.,RG 165, Record of the War Department, General and Special Staffs, War Department Message Files.

22 Coughlin, Conquered Press,p.20.

23 op.cit.,p.20.

24 「朝日新聞」昭和二十年九月十七日付。

25 Manual of Press, Pictorial and Broadcast Censorship in Japan,30 September 1945,pp.3-4.

26 江藤淳編『占領史録』第四巻 (講談社刊、昭和五十七年) 解説、三六六頁。

27 前掲書、三六七―三七〇頁。

28『占領史録』第二巻、三〇七、三一五頁。

29 Harry H. L. Kitano, Japanese Americans,(Prentice-Hall,1976)p.72.

30 Operation of Military and Civil Censorship, Documentary Appendices(Ⅰ) pp. i-ii.

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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江藤 淳

エトウ ジュン
えとう じゅん 文芸評論家。1932年12月25日~1999年7月21日。本名、江頭淳夫。慶應義塾大学在学中に発表した『夏目漱石』で従来の漱石像を一新し、以後、自死するまで漱石研究を続けた。文芸評論家の小林秀雄没後の一時期、日本の文芸評論の第一人者と目された。文芸評論以外の論評にも熱心で保守派の論客としても知られた。特に、敗戦による時代と国家の喪失を自らの戦後体験と重ねるという視点に立ち、戦後の体制の解体と主体性の回復を主張した。戦後のリベラリズムがリードする言論状況にも違和感を抱き、それがGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の検閲に淵源すると主張するとともに、リベラリズムへの批判を続けた。『小林秀雄』で、新潮社大賞(1962年)、『漱石とその時代』で、菊池寛賞、野間文芸賞(いずれも、1970年) などを受賞。芸術院会員。

掲載作は「閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本」(1989年、文藝春秋刊)から抄録。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による戦後日本のマスコミへの検閲が、作為的で痕跡を残さぬような巧みな検閲だったことから戦前日本の検閲と比較検証した。その結果、日本のマスコミは占領終了後も、GHQやアメリカ政府の意向を忖度した自己検閲を続けたと主張し、戦後日本の民主主義とGHQとの関係を検閲を通して象徴的に記述、批判した。

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