雪嵐の夜オオカミは恋をする
………つい先ほどまではあたたかい春の
「
と、
舞はやっと七つになったばかりの幼い女の子です。父は高津屋銀右衛門といい、大きな米問屋で両替商もやっていました。この
雪はしだいにはげしくなり、舞の頬に突き刺すように吹きつけてきました。舞はこごえる手に息を吹きかけながら、それでもじっとしているのが
と、その時、舞は突然、目の前に木の
その時、舞は
「待って!」
大声で舞は呼び止めました。狼の子どもは振り向き、心細そうな眼差で舞を見ました。
「おいで! こっちへおいで。だいじょうぶ、まだ入れるよ」
まさか、人の言葉が通じた訳ではないでしょうが、気持ちは通じたのでしょうか。狼の子どもはおそるおそる戻ってきたのでした。寄ってきて舞を見上げる目が意外にかわいらしかったので、舞は狼の子どもの頭を撫で
雪嵐がヒューヒューとうなり声をあげています。外はもうすっかりまっ暗になっていました。しかし、舞がふと気づくと、
狼の子どもは寒いのか、舞に体をすり寄せてきました。
「お前も親にはぐれてしまったの?」
舞は狼の子どもの体に手を回し抱きしめました。初めは雪で濡れていたため冷たかったのですが、しっかり抱き合っているとだんだん体温が伝わってきて舞の体はあたたかくなってきました。それはおそらく狼の子どもにとっても同様だったでしょう。あたたまってくると、舞はまたしだいに眠くなってきました。そして、深い眠りの中におちていったのです。
どのくらいの時が経ったでしょうか。舞はふと自分が呼ばれたような気がして目をさましました。
「舞! 舞!」
「お嬢さま! お嬢さま!」
「あ、
舞はぱっと目を輝かせ起き上がりました。
舞が急いで
「
舞は大声で叫び、手を振りました。銀右衛門の方でもやっと舞に気づき、笑って手にしていた杖を高く振りました。銀右衛門は若い時足を怪我したため、それ以来杖を手放せないようになっていました。しかし、それ以外は大柄で頑丈な
お久は、舞が
この後、その狼の子どもを飼うかどうかが大問題となりました。狼の子どもを飼うことに反対するその筆頭は、高津屋に長く働いている大番頭の忠兵衛でした。忠兵衛は髪が白くなりはじめた初老の男です。忠兵衛はきびしい口調でいいました。
「子どものうちはいかにかわいらしくみえても、狼は狼でございます。大きくなれば、いずれその本性をあらわしましょう。狼を飼うなど危険きわまりません。特に銀色の狼は
銀右衛門も忠兵衛の忠告を聞き入れ、初めは狼の子どもを山へ返そうと思いました。けれども
結局、狼の子どもは
こうして、舞と狼の子どもしろがねは順調に育っていきました。
舞はなかなかお転婆でした。舞はよくしろがねの背にまたがって、どこまでも遠くへいきました。しろがねも舞を背に乗せ、野を山を
また、しろがねはとても
その日、銀平は庭に敷いたゴザの上で、一人で日向ぼっこしていました。少し離れた縁側にお久が座っていたのですが、ついうとうとと居眠りをしてしまっていました。突然火のついたような銀平の泣き声が聞こえました。驚いてお久が目を開けると、大きな熊が銀平に襲いかかっていました。思わずお久は悲鳴をあげ、素足のまま地面に駆け下りると、とっさに近くにあったほうきを取り上げ熊に殴りかかりました。熊は怒って「ウォーッ」とうなり声をあげ、お久の方を向き仁王立ちになったのです。お久は恐怖の余りその場に失神してしまいました。
と、その時でした。しろがねが現れ、矢のような速さで、自分の倍以上の大きさの熊に
銀平が手足に軽い怪我をして泣いているのをみると、しろがねはその傷口をなめてあやしてやりました。一方、お久はすぐに気を取り戻しました。
この頃からか銀平は、しろがねを「
そして、何年かの歳月が流れました。舞は十五歳となり、三国一と噂されるほど美しい娘に成長していました。また、しろがねはますます力強いりっぱな
大番頭の忠兵衛の心配していたことが、しだいに現実味を帯びてきていたのです。忠兵衛は舞を早く
この頃、銀右衛門のような豪商の娘の場合、同じような豪商の息子のところへ
銀右衛門は、お久、忠兵衛とともに、舞の縁談について話し合いました。その結果、例年行われている集団見合いの場に舞を参加させることにしたのです。それは大きな客船を借りきって、豪商の息子や娘たちが泊まりがけで瀬戸の海を旅行するというものでした。
舞はその集団見合いの場に参加することに、余り乗り気ではありませんでした。いつも一緒だったしろがねと離れることも気がかりでした。けれども、この頃十五歳という年齢は、娘はそろそろ結婚を考えねばならない時期だったのです。舞はしろがねが人間の若者だったらと、思わずにはいられませんでした。しかし、それはどうしてもかなわぬことだったのです。また、この頃、親が娘に見合いしろといえば、それはまず
舞は中番頭の喜作に連れられ、銀右衛門やお久たち皆に見送られ家を出ました。喜作は三十代前半ですが、熱意を認められ先年中番頭に昇格したのでした。まだ独身でした。
その時、しろがねは見送りに参加せず、小屋の中でふて寝していました。舞は後ろ髪をひかれる思いで出かけたのです。
舞は中番頭の喜作とともに船に乗り込みましたが、余り気は晴れませんでした。豪商の息子や娘たちには皆、番頭などが付け人としてきていました。船にはその他、船頭や料理人なども乗り込んでいました。
広い船室に集まり、皆で夕食です。夕食は白米の御飯に
「雪嵐恋唄」
雪嵐の夜
私たちは
雪嵐の夜
私たちは出会った
夜は冷たく
雪は吹きつけ
風はすさまじく
私は一人
あなたも一人
でも
私たちは出会った
すぐそこにみえた
出会わなければ私たちは
でも
私たちは出会った
だから
雪の日も
嵐の日も
二人でいこう
どこまでも どこまでも
一緒にいこう
いつまでも いつまでも
一通り歌い終わった
舞にもいい寄ってくる若旦那がいました。材木商河内屋
「舞さん、あなたの顔は
舞は思わずぷっとふき出してしまいました。しかし、栄太はいたって
「どうです? 私のお嫁さんになってくれませんか。私と一緒なら必ず
「でもね、私にはもう好きな
この頃、庶民の間では、自分の恋人のことを
「でもね、好きとはいってもどうせたいしたことはないのでしょう? そうでなければこんなところにはこないはず」
「いいえ、そんなことはありません。親のいいつけでしかたなく」
「ということは、どうせやっぱりその男とは
「そんなに簡単にあきらめられるようなありきたりの
「どんな
そう聞かれ、舞は少し当惑してしまいましたが、すぐに、
「その
「ふーむ……? 素手で、そして
栄太はいぶかしそうに舞をみつめました。
「お嬢さま、もうその辺で……」
喜作でした。喜作は舞を連れ、船底への階段を下りていきました。栄太は舞の後ろ姿を未練げに目で追っていました。
その後、娘たちは娘たちで、また息子たちは息子たちで、別々の寝室で寝たのです。
娘たちは娘たち同士で、「私はあの若旦那が……」などといって、皆楽しく話が盛り上がったのでした。しかし、舞はなかなかその輪の中に入れませんでした。
夜はだんだん
次の日、空が白々と明るみかける頃、銀右衛門はしろがねのうなる声と、表門をどんどんと
物音を聞きつけて、お久や番頭たちも起きてきました。銀右衛門はその脅迫文をお久や忠兵衛にみせ、どう対応するか一緒に考えました。一万両といえば千両箱で十箱分のかなりの大金です。しかし、それは銀右衛門にとって払おうとして払えない額ではありません。
また、銀右衛門は他の豪商たちとも連絡をとった方がよいだろうと思い、すぐに店の
するとやはり、他の豪商たちのところへも同じような脅迫文が届けられていることが分かりました。おそらく一味の者が脅迫文を配ったのでしょう。他の豪商たちに対する要求も、皆一律一万両でした。他の豪商たちにとっても一万両は大金でした。しかし、我が子の命にはかえられません。ともかく各一万両ずつを支払わねばなるまいということに話はおちついたのでした。
朝日が東の空からぐんぐん昇り始めていました。
「みんな、これから俺の話を聞いてもらう。まず、俺たちの名を名のろう。俺は
次に隣は……」
太郎丸に
その後、太郎丸と名のった男がまた続けました。
「お前たちは皆、俺たちの人質になっている。お前たちが裕福な大商人の息子や娘たちだということはすでに調べて分かっている。他に店の番頭たちなどもいるようだが……。お前たちの
舞など皆、青くなりました。太郎丸はふっと笑って、
「だが、心配しなくていい。我が子の命のために
太郎丸の話が一通り終わった
船は小島や大きな岩の間をすりぬけ、波をかきわけぐいぐいと進んでいきました。
その日の昼下がり、情報を
銀右衛門など豪商たちは中庭の白砂に敷かれたゴザの上に座らされ、時保から直接話を聞かされることになりました。周りには屈強の武士が控えていました。一体どんな大切なことが話されるのだろうと、銀右衛門は緊張しました。時保は四十代後半の背の高い
「皆の衆、わざわざ御足労願い誠に御苦労である。本日ここに来てもらったのは他でもない。皆の子どもたちが
皆、しんとして聞いていました。
「身代金を払うことは、断じて相ならぬ」
豪商たちはおどろいて顔を見合わせ、またため息を
「なぜ!? なぜでございます?」
銀右衛門は叫ぶように、また
「
豪商たちは皆、食いいるように時保をみつめていました。
「御家老さま! お願いでございます!」
それまで黙ってじっと聞いていた豪商の一人、材木商の河内屋栄三郎が時保の前にぱっと飛び出してきて両手をつきました。
「御家老さま、五千両、いえ、一万両藩へ献金いたしましょう。昨今は藩の財政も
栄三郎は時保の返事を待たずに、すぐに他の豪商たちの方を振り向き、
「な! 皆の衆、みんなもどうか藩へ一万両ずつ……。頼む」
豪商たちは銀右衛門をはじめ、皆
「たしかに今、藩の財政は苦しい。だが、そなたたちからの筋の通らぬ
豪商たちは皆、青くなって聞いていました。
「しかも、今回要求してきた身代金の額は、前回の隣国の時より増えておる。奴らに味をしめさせてはならぬ」
「御家老さま、それではわしの息子は一体……………!?」
と、いいながら栄三郎はその場に泣き崩れました。時保はふうっと大きなため息をつき、
「やむをえぬ、あきらめてくれ。そなたたちの子を思う気持ちは尊い。わしにも子があり、親としてそなたたちの心情は痛いほどよく分かる。だが──」
時保は厳しい眼差で豪商たちをみつめ、
「だが、断じてならぬものはならぬ。
と、きっぱりと言い切ったのでした。銀右衛門は自分の気持ちを抑えながら
「御家老様、ではどうするおつもりですか? 身代金を払わずに、どのようにして我が子たちを?」
「どうするかはこちらで考える。そなたたちは何もしなくてよい。また余計なことをしてはならぬ。これは藩の命令である」
と、時保はきびしく申し渡したのでした。
その後、銀右衛門たちはとぼとぼと帰ってくるより他ありませんでした。
その頃、舞たちをのせた船は
その時、「あ、助けだ!」という声があがりました。栄太でした。舞は思わず立ち上がり栄太の視線のほうを見ました。小舟がかなりの速さで近づいてくるのが見えました。舞は自分たちを救出しにやってきてくれたのか、と思いました。小舟は近づいてくると、ますますその速さを増すように思えました。小舟には数名の男たちがのっていて力強く
舞も皆、やっと気づきました。小舟の男たちは
男たちは、脅迫文を豪商たちの家に投げ込んだ
「おいら、十郎丸ってんだ」
甲板の手すりから海をながめていた舞に、監視役の十郎丸が話しかけてきました。
「さっき聞いたわ」
「そうかい。お前の名は?」
「舞。蝶が舞う、の舞よ」
他の
「ねえ、十郎丸」
舞は自分よりも年下にみえ、人のよさそうなこの少年から色々聞き出してみたいと思いました。しかし、十郎丸はそくざに、
「呼びすてにすんなよな。お前なんか人質のくせに」
「ふうむ……? そんなこというんだ。じゃあ十郎丸
「まあ、さまはちょっと………」
「本当の名前教えて」
「………え!?」
十郎丸は少し慌て、
「本当の名前はちょっといえないけどな」
「そう……。私は本当の名前いったのに」
舞はしばらく海をみていましたが、
「ねえ、どうしてこんなことするの?」
「どうしてって、お前たちは自分たちは別に何も悪いことなんかしてないって思ってるだろうけどな」
「…………」
「兄貴がいってたけど、お前たちの親はみんな悪党なんだ。本当は大悪党なんだってさ」
舞は少しカチンときて、
「どうして大悪党なんていうの?」
「お前たちの親は、米や材木を買い占めて、値段を高くつりあげたりして大もうけしてるっていうじゃないか」
「それって、そんなに悪いことなの?」
「決まってんじゃないか。兄貴がいってたけどな。
自分の父親もそんなことをしているのだろうか、と舞はふと思いました。しかし、一方こんな
「でも──」
と、舞はいいました。
「でも、何だよ!?」
「でも、それじゃあ、あんたたちのやってることは、
「そりゃあ、」
と、十郎丸は少し口ごもり、ちょっと考えてから、
「でも、それはそんなに悪いことじゃないと思うよ。お前たちの親の悪さに比べたら。お前たちはそんなにいい着物着て、うまいもの食ってんだろうけど、俺たちはこんなことでもしなけりゃあ、ちゃんと食っていけねえんだぜ」
「一体、どんな暮らししてるの?」
「俺たちはふだんはここから遠く離れた小島で暮らしてるんだけどな。田畑で稲や野菜つくったり、海へ漁へいったり………」
「陸地と海とで両方で稼いだら、普通の人たちの倍もうかるんじゃないの?」
「ばか。もうからないから両方やるんじゃないか。田畑のしごとっていったって、山の斜面、切り開いて段々畑にしただけだから、狭いし、土地はやせているしよ。海に漁へいってたくさんとれる場所めっけても、遠けりゃあ、もってくるまでに腐っちまう」
舞は実際のことはよく分からないので、そんなものなのか、と思いました。
「それに」
と十郎丸は続けました。
「俺たちは自分たちが食べるためにだけで、こんなことをするんじゃないんだ」
「どういうこと?」
「俺たちの夢はもっとでかいんだ。兄貴がいってたけど、世の中を変えるんだってさ。たくさんの
「今の世の中って、そんなに悪い世の中なの?」
その時、
「十郎丸!」
と、鋭く
「人質とべらべらしゃべってるんじゃねえ!」
十郎丸は首をすくめました。次郎丸がぞっとするような限差で、二人を
銀右衛門は城から戻った
と、その時でした。偵察に出していた
「旦那さま、大変です。御家老やお侍たちが………」
「どうした?」
「いま、
「何だと!?」
銀右衛門は時保が下した決断が分かりました。時保の決断は即ち、大砲を撃って船ごと
銀右衛門は急いで杖を手に外へ飛び出していきました。銀右衛門は杖をつき足をひきずりながら、必死に
坂崎時保を先頭に、馬には大砲をのせた台車を曳かせ、何十名もの武士たちが
銀右衛門は時保の前へ出ると、杖を捨て道端に土下座し、
「御家老さま………!」
と、呼びかけました。時保は厳しい表情で銀右衛門をみて、
「何だ、高津屋」
「一体どうなさるおつもりですか?」
「見れば分かろう。
「しかし、御家老さま、それでは娘の舞が、いや人質の皆が死んでしまいます。高津屋一生のおーいでございます。何とぞ船に砲弾を撃ち込むなどということは……」
「やむをえまい。高津屋、お前は自分のことしか考えていないのか。
「…………」
「お前にとって娘の命が大切なのはよく分かる。だが、そのために悪党どもを生かしておけば、
「御家老さま、そこを何とぞ」
「くどい。急がねばならぬ。そこをどけ」
側にいた武士が刀に手を掛け、銀右衛門を
その後、銀右衛門は家へ戻ると、再び店の者を全員集めました。そして、今の状況を話した
「みんな、お願いだ。舞を無事助け出してくれ、そのためには手段を選ばぬ。どんなことをしてでもいい」
皆、熱心に聞いてはいましたが、率先して救出にいこうとは誰もいい出しませんでした。しろがねも隅のほうで熱心に聞いていました。銀右衛門は皆を見回し、
「そうだ、若い者たち皆で力を合わせ助けにいってはくれまいか。武器は知り合いの商人にかけあってなんとかしよう」
そういわれても、若い衆たちは皆尻ごみしました。武士とちがって刀、槍などの扱い方をしりません。また、これから十分な武器を準備できるでしょうか。しかし、他の豪商たちの所の若い衆なども集めれば人数はかなりのものとなるでしょう。銀右衛門はわらをもつかむ思いで必死になって話しました。
「舞が無事戻ってきたら
日頃は
「いや、
店の若い衆の中には何人も舞にあこがれている者がいるということを銀右衛門はしっていました。ですから、それを聞いて目を輝かせる者もいました。
「そればかりではない。この店からのれん分けし、自分の店を出させてやる。その後も、この高津屋銀右衛門が、ちゃんと面倒をみてやろう」
店に奉公にきている若い衆たちの夢は独立して店を出すことでした。あこがれの舞を嫁にでき、その上、のれん分けまでしてもらえるというのです。それは若い衆たちにとっては願ってもないことでした。しかし、それは殺されるかもしれない命がけの危険と隣り合わせでした。いったんは目を輝かせた若い衆たちも、また目を下へ落としたのでした。その時、突然お久が叫ぶようにいいました。
「このいくじなし!! 全く、どいつもこいつも………。日頃は大旦那に面倒みられっぱなしで、この大事を引き受けようっていう
しかし、若い衆たちは皆、肩をすぼめ、ますます下を向いてしまうばかりでした。
「こんな良い条件なんて二度とないんだよ。情けないったらありゃしない」
いい終わると、お久は目をむき失神し、その場に倒れ込んでしまいました。銀右衛門は少し驚きましたが、どうせいつものことなので、その場にお久を寝かし、その場にあったざぶとんを、枕のかわりにお久の頭にあてがいました。
と、その時でした。低いうなり声がしました。それはしろがねでした。銀右衛門はぎょっとなりました。しろがねは一生懸命しゃべろうとしているのでした。ですが、なかなかそれは人の言葉とはならず、くぐもった聞きとりづらい声でした。けれども、それはしだいに人間らしい声になっていったのです。
「俺が……俺が舞を救い出す。俺が命がけで舞を必ず救い出してみせる」
初めくぐもったようだった声は、しだいに聞きとりやすい声になっていきました。それは若い男の張りのあるりりしい声でした。ついに
「俺は
銀右衛門は日をむいたままじっとしろがねをみつめていましたが、背に腹はかえられません。すぐに、
「分かった。もし、舞を無事救い出してくれたら、舞をお前の嫁にやる。男の約束だ。
といいきったのでした。その言葉を聞くと、すぐにしろがねは呆然としている皆をしりめに、
一方、坂崎時保の一行は、
こうして時保一行は、客船が来るのを今か今かと手ぐすねひいて待っていたのでした。
しろがねは丘を越え野をぬけ
坂崎時保一行はすでに浜辺に到着し、大砲を海に向け、客船がくるのを待ち受けていました。砲手はまだ若いのですが、南蛮人の専門家から直接大砲の操作を教わった名手でした。
時保は舶来の望遠鏡を目に当て、じっと海の彼方を見ていました。皆、無言で緊迫した時が流れていきました。
「来たぞ!」
時保が小さく叫びました。はるか彼方の小島のかげから客船が、小さくですが確かにその姿を現したのでした。時保は何が何でも
「届くか」
「いましばらくお待ち下さい」
砲手が答えました。
その頃、銀右衛門はお久や忠兵衛たちと一緒に、
「撃て!」
時保は頃合いを見計らって命じました。すさまじい音がしたと思うと、砲弾は客船をめざしシュルシュルッと一直線に飛んでいきました。
しかし、砲弾は客船をわずかに飛び越え、その後方へ落ち水しぶきが上がりました。時保は唇をかみしめ、
「もう一度!」
「はい!」
砲手はかなり腕はよいはずですが、客船はかなり遠くの沖合いを進行し、またその速さも増していました。
夕闇の迫る中を、客船はその速さを増し進んでいきました。
と、その時、シュルーッという音がしたとみると、何かが船の上を飛び越し、後方の海面に大きな水柱が立ちました。舞は一瞬、何が起こったのか、分かりませんでした。
「もっと帆をあげろ」
帆が高く上げられ速度がまたいっそう増しました。
舞は立ち上がり
「やったぞ!」「万才!」など、時保たちからは歓声が上がりました。砲手は二発目が命中したのでほっと胸をなでおろしました。船の進む速度が落ちました。そうなれば三発目、四発目を命中させるのが容易になります。時保は砲手の肩をたたき、
「よくやった。この調子でどんどん撃て」
砲手は晴れがましそうに
一方、銀右衛門は砲弾が船に当たるのを見て、思わず悲痛なため息を
その頃船の方では、着弾した時転んでいた次郎丸が起き上がり、すさまじい形相で叫びました。
「殺せ! 人質たちを殺せ!」
それを合図のように、
「待て! 殺すな! 殺すんじゃない」
大きな声で叫ぶ者がいました。太郎丸でした。
「太郎丸、こういう場合は人質を殺さねばしめしが……」
次郎丸はそういうと、なおも人質を斬り殺そうと向かっていきました。太郎丸はその前に立ちはだかって、
「待て! 次郎丸。いまさら人質を殺す必要はない。もう人質としての意味がないのだ」
船尾から上がった火の手は、風にもあおられしだいにその勢いを増していました。太郎丸は続けていいました。
「もういい。縄を切ってやれ」
こうして、人質たちは船の中では解放されたのでした。しかし、もちろん状況が好転した訳では決してありません。このままいけば海賊たちばかりでなく人質も全員、海のもくずと消える他ないのです。
舞は結局もう自分は死ぬのが
またしろがねは? あの
舞はとりとめもなく、そんなことを考えていました。
その頃しろがねは海峡を見渡せる高い崖の上まで来ていました。彼方に舞たちの乗っている船が燃えているのがみえます。また崖の遙か下の方の浜辺には、数十名の藩の軍勢が集まり、大砲の筒先からは白い
「ウォーン!」
しろがねは自らを奮い立たせるため、
しろがねは勢いをつけてから飛び出そうと、少し後戻りしました。それから、崖へ向かって一直線に走り出しました。しかし、崖の手前で急に止まってしまいました。しろがねは
その頃、船の中は大混乱におちいっていました。火はしだいに燃え広がっていき、船は少しずつ沈み始めています。舞は他の豪商の娘や息子たちと一緒にひとかたまりとなって甲板の上で震えていました。
栄太は
「俺は泳ぎが得意なんだ。必ず助かってやる!」
と、舞たちにいうなり、甲板を駈けぬけ手すりを飛び越え冷たい海へ飛び込んだのです。
太郎丸の「やめろ! やめるんだ!」という制止の声も間に合いませんでした。舞は急いで甲板の手すりの方へいきました。下を見ると、栄太はすぐに海上へ浮かび上がり、早く船から離れようと抜き手をきって泳ぎ始めたのです。栄太は少し船から遠ざかりました。しかし、速い潮の流れが再び栄太の
「南無阿弥陀仏」
太郎丸は手を合わせました。それから誰にでもなく、
「もはや俺たちは助からない。覚悟しておくように」
と、はっきりいいました。それは自身に対する覚悟だったのかもしれません。
風が強くなってきたせいか、火の勢いもますます強まっているようにみえます。雪もちらちらと降り始めてきていました。舞も含め皆、炎からできるだけ離れたところへと移っていきました。けれども、どうせ間もなく船全体が炎に包まれ、海にのみ込まれてしまうのは明らかでした。
ドーンと大きな音がして、船が激しく揺れ、舞は危うく甲板から海へ投げ出されそうになりました。砲弾がまた船に命中したのでした。今度は船腹の下の方でした。しばらくすると、そこからも水がどんどん浸水してきました。その時、舞はしろがねの遠吠えを聞いたような気がしました。
しろがねは高い崖の上から、船が燃え上がり
その時、しろがねは船の方から混乱におちいり逃げ
しろがねは覚悟を決めました。後方へいき、勢いよく助走をつけ崖へ向かって駈け出しました。そして、夜空へ、燃え上がる船の方へ、思いきり飛び出したのです。
「舞!」
しろがねは叫びました。しろがねは本当に宙を飛んだのです。舞に対する想いが遂に天にも通じたのでしょう。しろがねの飛ぶ勢いは増しこそすれ、決して衰えることはありませんでした。まさにまた
船がどんどん沈んでいく中で、炎は強い風にあおられますますその勢いを増していきました。人質たちも
と、その時、舞は「舞!」と自分を呼ぶ声を聞いたような気がしました。夜空を見上げると、小雪のちらつく月光の中をしろがねがこちらへ飛んでくるのがみえました。舞はただ呆然と、矢のような速さで飛んでくるしろがねをみつめました。しろがねは船に飛び下りると、すぐに舞の所へ駈け寄りました。
「舞! 俺の背中に乗れ」
舞はしろがねのしゃべる声を開いたのは初めてでしたが、別に違和感はありませんでした。むしろ昔からしゃべりあっていたような気さえしたのです。
舞はしろがねの背に乗ろうとして、ふと周りの視線に気づきました。豪商の息子や娘たち、また
「お嬢さま」
と、呼ぶ声がしました。振り向くと喜作でした。
「お嬢さま、私たちに構わず早くお逃げ下さい」
また、十郎丸とも目が合いました。十郎丸は
「俺の本当の名は……」
と、いいかけた時、
「舞! 何してるんだ、急げ!」
しろがねが叫ぶようにいいました。舞が慌ててしろがねに飛び乗ると、しろがねはすぐに
しろがねと舞が崖へ着き振り返ると、荒れる海の上で船は
こうして舞は無事、高津屋銀右衛門の元へ戻ることができたのでした。けれども、
そうした或る晩、銀右衛門は奥座敷で
一方舞は、自分はしろがねと
「旦那さま、約束などというのは互いに借用できぬ者同士が、かりそめの安心を得たいがためにするものでございます。世の中には約束よりも大切な
「…………」
「また世の中には守れない約束、いやもっといえば守らなくともよい約束というものもあるのではないでしょうか。約束など破ってこその約束」
お久が顔をひきつらせながらいいました。
「いっそのこと、しろがねを亡きものに」
「亡きものとは……!? 一体どうやってあのしろがねを?」
銀右衛門は驚いてお久をみました。
「トリカブトを用いてみては………」
トリカブトと聞いて銀右衛門ははっとなりました。トリカブトというのは草の一種ですが、その根には猛毒が含まれていました。それを食べ物に混ぜ毒殺するということが、十数年前にこの領国内でもあったということです。忠兵衛がいいました。
「しかし、奥様。狼は味覚、嗅覚にすぐれております。それではとても無理かと……」
「それに、お久。殺害しようとして、もししろがねに暴れられれば、こちら側にも死傷者が出るかもしれぬ」
「…………」
「また、もし毒殺、あるいはその他の手段での殺害に成功したとしても、それを舞がしったらどうなる?」
舞がそれをしったら大問題になることは間違いありません。何らかの方法で舞をだましたとしても、いつかは分かってしまうでしょう。それにしろがねには大恩があるのです。
銀右衛門はつぶやきました。
「しろがねが人間になれば、しろがねがりっぱな人間の男になってくれればなあ」
三人の話し合いはいきづまってしまいました。三人とも黙り込んでしまい、ただ
やがて忠兵衛が口を開きました。
「旦那さま、ここは私にお任せくださいませぬか」
「忠兵衛………?」
忠兵衛は世間をよくしっている聡明な男です。
「世の中には単なる約束以上の大切な
「できるのか?」
「必ず……」
銀右衛門は忠兵衛に任せてみようと思いました。
「そのかわり、うまくいった暁には……」
「分かっている」
「ありがとうございます」
忠兵衛は深々と頭を下げました。うまくいけばのれん分けしてくれるということです。
次の日の朝、縁側に銀右衛門、お久、忠兵衛、高津屋の若い衆たち、そして舞が居並び、その前の中庭にしろがねが呼ばれていました。空は晴れていましたが一際寒く、中庭には霜柱が立っていました。しろがねは状況をうすうす感じ、庭の中を白い息を吐きながら荒々しく走り回っていました。パリパリッという霜柱の踏みつぶされる音が響きました。一方、舞はよけいなことをしゃべらぬよういい含められていたので、ただじっと下を向いて縁側に座っていました。
銀右衛門が大きなよく通る声でいいました。
「しろがね。わしの話をよく聞いてくれ」
しろがねはようやく走るのを止め、不信の眼差で銀右衛門を見て、
「約束は約束だ。まさか約束を破るつもりじゃないだろうな? 命がけで舞を救ったのは誰だ? 俺は誰よりも舞のことを想っている」
「しろがね、お前には本当に感謝している。二度までも舞の命を救ってくれた」
「ごたくはいい。守れ、約束を!」
舞はじっと目をつむっています。銀右衛門は唇をかみしめました。
その時、銀右衛門に代わって忠兵衛がしろがねに語りかけました。
「しろがね、お前が真心からお嬢さまを
しろがねは疑い深そうに忠兵衛を見ていました。
「だが、世の中には守ろうとしても、どうしても守れない約束というものがある。また約束以上に大切な世の中の
しろがねはうさんくさそうに聞いていました。
「好きだというだけでは
「…………」
「お前はお嬢さまの立場で考えたことがあるか? もし、お嬢さまがお前と一緒になったら、お嬢さまは明るい日の下を
「ウォーン!」
と、しろがねは怒って吠えました。忠兵衛はさらにたたみかけるように、
「しろがね、お前はそれで本当にお嬢さまのことを大切に想っているといえるのか!? 結局、お前は本当は自分を一番大切に考えているだけではないのか?」
舞はそういうやりとりを涙を浮かべて聞いていました。忠兵衛は
「たしかにお前は並の狼ではない。
しろがねは下を向きました。忠兵衛はさらに、
「どうしてもお嬢さまと一緒になりたいなら、人間になることだ。お前が人間になれば旦那さまも承諾するといっておられる」
忠兵衛のその言葉に銀右衛門も
その時でした。
「
銀平でした。ふだんならまだ布団の中でしたが、
「しろがね! 人間になって! そして一緒になろうよ」
目にいっぱい涙をためた舞が、しろがねを見つめていました。
しろがねは大空を仰ぐと、「ウォーン!」と、天地をゆるがすような激しいうなり声をあげました。しろがねの
銀右衛門も舞も皆、しろがねがりりしい若者に変身することを期待しました。そうなれば全てがうまくいくのです。しろがねはこれまでも二つの大きな
しろがねは
と、見ると──
しろがねの白銀色の
ところが──
結局、そこまででした。しろがねはなおも人間になろうと、地べたをのたうちもがき苦しみ続けました。けれども、しろがねの
しろがねは「クォーン!」と悲しみにあふれた泣き声をあげると、皆に背を向けとぼとぼと去ろうとしました。
と、その時でした。ことの成りゆきを一心に見守っていた舞が、
「しろがね!」
と、叫び、目からぽろぽろと涙をこぼしました。振り向いたしろがねの目にも涙が浮かんでいました。舞は声にもならない悲痛な叫び声をあげました。と、どうでしょう? その叫び声は人間のものではないような声に変わっていったのです。それは狼の叫び声でした。
と、見ると──
舞の
しろがねに三度目の奇蹟は起こりませんでしたが、そのかわり今度は舞の身に奇蹟が起こったのです。
美しい
舞は途中で一度振り返り、皆の方へ軽く頭を下げました。
山にはまだ雪が残っていましたが、空には心なしかすでに春の匂いがただよってきているようです。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2017/09/13
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