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女と戦争

目 次

1)神と共寝する女

2)現代島痛びの女

3)戦争にみる女の被害と加害

4)女が笑えば ──救世の武器として──

 

1)神と共寝する女

 女はすべて神であった

 「そこは碧く澄んだ海と虹色のサンゴ礁にかこまれた夢のように美しい島でした。フクギやユウナの並木が続き、炎色のデイゴの花や青紫の昼顔が咲き乱れ……」──御獄(ウタキ)のしじまの中に佇んでいると、こんな書き出しでお伽語がつぎつぎわき出てくる感じである。樹木の生い茂った中に小さな空地があり、木もれ陽がかすかに落ちる。そんな何気ないところが、聖地、御獄である。御獄は沖縄本島などでは一般にウタキと呼ばれていて、大きさもさまざまだが、一様に樹木の中にある。そこは、ニライカナイ(東のはるか彼方、天と海の交わる先の楽土)から神が訪れる場所であった。そのお通し神(案内役)はカマドの火の神で、火の神を司るのは女であった。個々の家、村落から宮廷まで、沖縄の女はすべて司祭者、おなり神であった。沖縄では姉妹兄弟のことを「おなりえけり」といい、「めおと」妻夫、「いなぐいきが」女男、「ふあーふじ」祖母父など、女性を男性の上に置く呼称を使っている。

 伊波普猷の『おなり神の島』(昭和十三年)によれば、最近まで妹姉(女)には兄弟(男)の身を守る霊力があると信じられており、それは琉歌の中で、日常の暮らしの中で生きているという。一方、柳田国男は、その問題を日本の側から照射した。彼は『妹の力』(昭和十五年)の中で言っている。

「女性が世のために目に見えぬ障碍を除き、厄難を予告することによって、いわれなき不安を無用とし、男たちの単独では決しがたい問題に暗示を与えるなど大切な役目を果していたことは、もうわが邦ではわかりきった歴史である。沖縄では最近までその習俗が残っていた」

 「日本の女はその後軽しめられるものの列に入ってしまい、一度も試みられたことのない可能性が柔かな胸の中にねむっている。……名もない昔の民間の婦人たちが備えていたという『さかしさ』と『けだかさ』を取返すことも、ほんの今一歩である。いかなる無に生きても私が失望しないのは、そういう時代のやがて到来すべきことを信ずるからである」

 沖縄の母系制について記した書物は多く、とりわけ柳田国男の調査のスケールはずば抜けている。しかも彼は、女の時代が到来すると予言しているのだが、果たしてこの予言はいつ実現するのだろうか。

 わたしも女の時代の到来を信じてはいるが、しかし、おなり神たる女たちが、抑圧され続け、特に太平洋戦にまきこまれ、無残に命を絶たれていった現実を忘れることはできない。女の感性が高く評価されつつ、一方力の論理によって強引に圧しつぶされてしまった事実を見落とすと、女の解放は、また幻想に終わるのではないか。今度こそ女の本性を生かすすべはないか。女がおなり神であった時代をなつかしむだけではなく、本来的な女の力を再生し病み衰えた現実を救うことはできないものだろうか。

 それをするのは民俗学の偉い先生ではない、名もないただの女たちである。わたしは柳田国男に代表される先生方の学問のスケールの大きさに驚きつつ、それは結局は女にはあまり役立たなかったのではないかという疑問を抱いてしまう。しかし今はその疑問を批判にかえる力をわたしたちは持っていない。男の文化遺産に敵対するのではなく、それを受け取りながら、それとは異なる新しい女の原理を創ってゆきたいのである。自分自身が解放されるために、女の本質を肌でつかみ直したい。その思いをばねに、わたしは沖縄に吸いよせられるようにやってきたのだった。

 

 傷だらけの島々

 石垣島の登野城部落だけでも、いくつもの御獄が点在していた。それらを巡りながら、わたしは絶望と希望の間を揺れ動いていた。急速に破壊されてゆく沖縄をまのあたりに見て、ショックが甚しく、しかしその現実を逆転させる何かがほの見える感じでもあった。

 先にまわった沖縄本島では、海岸線や山肌は赤土をむき出し、コンクリートや金属を打ちこまれ、物価高はあきれるばかり、東京で予想していたよりはるかに無気味な空気がただよっていた。

 沖縄戦で地面一平方メートル当たり九十トンもの砲弾を撃ちこまれ、二十五万の命を散らした小さな島は、緑の再生も待たず、コンクリートの巨大な基地で呼吸をさまたげられ、三十年後の今またさらにダイナマイトやパワーショベルで傷つけられている。本土復帰後も基地はなくならず、多数の自衛隊まで駐屯し、鉄条網はとげとげしく住民をはばんでいる。平安座(へんざ)島を銀色におおうガルフ石油のタンク群、CTS(石油備蓄基地)の埋め立て工事。特に祖先を大切にするこの地で、墓まで破壊され、小さく規格化したコンクリートの墓のアパートに変わってしまった。そして、ニライカナイにつながる青い海は、大量の石油ボールの漂う汚染水域になりつつある。

 南部戦跡の地下壕を巡った時は、そこで無惨に息絶えた人々の苦悶の声が地中からもれてくるようで耐えられなかった。人々が断崖から身を投げて玉砕した摩文仁の丘では、涙をこらえきれず、あの極限の体験は一体何だったのだろうかと、茫然と立ち尽くした。三十年もたったから、もう忘れてよいという問題ではない。言っても言っても言い足りはしない。今こそ死者の声に耳を傾けるというならわしを大切にしないと、大変なことになる。わたしは危機感で身震いしたのだった。

 疲れて石垣島にやってきた。そして御獄を訪れ幾分安らぎを覚えた。裏通りの御獄では、おばあさんが一人昔ながらのカスリの着物に細帯一本の姿で祈っていた。クネンボやガジュマルの樹々が強い陽ざしをさえ切り、汐風が吹きぬけてゆく。ふとわたしは、この地の神と親しくなれるのではないかと感じる。

 だがこの島も今、本土の情報や人間が押しよせ、土地の買い占めが急速に進んでいる。隣の竹富島も同様である。夢のようにのどかな光景は、近代化に名をかえた魔物と隣り合わせである。

 何やらおそろしく心は重いが、考え直してみると、そこに緑の木立があり、祈っている人間がいるというだけでも貴重な風景であった。日本の国策、皇民化の押しつけで鳥居が立てられ、かしわ手を打つことを命じられたはずなのに、なおも、うずくまって固有の仕草で祈る人がいる。権力が犯そうとしても犯しきれなかったものを、かいま見た気がした。

 平安座(へんざ)島でも広大なガルフの石油基地の中に御獄だけぽつんと残った。緑を一点与えて大事な先祖伝来の土地や海を奪ったのだが、この期に及んでは、木一本なりとも捨ててはならない。

 御獄の拝所(ウガンジョ)から出てきた老婆に声をかけると、おばあさんは人なつこく、打ちとけた笑顔で接してくれたが、「昔話はみんな忘れた」としか言わなかった。戦争体験は息子を失くしただけ(ヽヽ)という。そして、わたしが本土からきたと知ると、孫も大和(ヤマト)に行っている、自分はまだ沖縄(沖縄本島)にも行ったことがないと言った。日本国沖縄県の石垣市という図式をこの人は持っていないらしかった。それなのに、こちらに通じる日本語を使った。八重山での標準語教育のためか、親切なのか、よくわからないが妙な感じであった。

 「おばあさん、今、お幸せですか」「ああ?……はいそうです。わたしは何もわからないよ。戦争の時、マラリヤで一度死んで、生きたのだが、今でも頭いたくて、耳の奥で蟬がグウグウ鳴いている。いっぱい夜も昼も鳴いているよ」「それは辛いですねえ」「頭バカだから辛くはないよ」と、彼女はゆったり歩いていってしまった。

 おばあさんの後姿を見送りながら、「あなたは本当に幸せなのですか」と問い続けたが、堂々めぐりするばかりだった。過去は忘れたと言いながら、マラリヤの後遺症を今もひきずって、耳の奥で蟬が鳴くという。だが、その笑顔は妙にきれいで、行きずりの者を用心している様子ではない。

 怨みつらみを原動力に女の解放を……などという発想では、とても通じ合えない感じであった。その笑顔の中には、この地特有の精神構造があるのかもしれない。忘れたという言葉の陰に、わたしの想像を越える重い重い現実があるようにも思う。だが今わたしはそれをすっきり整理することができない。つかみにくいのだが、それだけにじわりと背に残る何かがあった。

 

 男女平等、共生の神

 御獄巡りのあと立ち寄った桃林寺という重要文化財の寺で面白い話をきいた。

 この臨済宗の寺の入口には、筋肉隆々たる仁王像が立っている。金剛力士(吽一閉口)と密迹金剛(阿一開口)の一対は、男性神一体の分身であるが、沖縄本島では口を開いた密迹のことをマカー、八重山ではニールムイと呼び、女神像として信じている。お坊さんが経を唱える前で、人々は平然と御獄の拝所でのやり方で祈り、女の子が生まれると「アー」の方に、男の子が生まれると「ウン」の方に詣でるという。

 この地の庶民は外来の仁王を追い出さず、同時に、自分たちの伝統の思念も大切にした。この柔軟さは「共生」こそが自然の摂理だと察していたためではないだろうか。政治権力やこましゃくれた人間の知恵など通じないふりで、宇宙の自然摂理を信じて生きてきたのではないだろうか。

 この地の神は大自然と女であった。この神々は上からの繁栄を与えなかったし、人々もそれを求めなかった。大自然の神は人間の傲慢さをいましめ続けた。自然の中に神を感じとれる女は、我が身も神の分身であり、男にとっては、神(女)との共存であった。それは謙虚で自立的な発想を生んだにちがいない。

 この神々のイメージこそ女性原理に根ざしたものである。女性原理とは、性を重んじ生命を生み育てるもの、いのちを媒介に個(人間)と宇宙(自然)を結びつけるもの、弱いものをいつくしみ、楽しいことを好むもの、直接的で手づくりのもの。男性原理とは、力をもとに、我を中心に宇宙(自然)を操作し、有効性を重んじるもの。従って役に立たない弱者や快楽を切り捨てるもの、間接的で機械的なもの。これはわたしの中の男女のイメージを正負に分けてみたにすぎず、現実の女と男の姿には必ずしも当てはまらないのだが、今までおとしめられてきた女性原理こそ、病める時代を救うにちがいないと、この島でわたしは改めて思った。

 

 神女と酒場のマダム

 石垣島の汐風がほどよく届くあたりに、バーRがある。そのバーのママさんは西表島の神女(ツカサ)の(かしら)である。画家で博物館員の石垣さんに各地の豊年祭の写真を見せてもらった時、その中にこの美人が祭事を司っている写真があった。どの祭もスケールが大きく、女も男も表情が生々とし、祭がまだ生活の中に生きている印象であった。祭の情景を説明して下さった石垣さんの話し方が、絵画的で、しかも哲学的で、故郷に対する愛と誇りに満ちていたせいでもあろう。わたしはそれらの祭にすっかり魅せられ、神女なる女性に直接会いたくなった。

 安い店ではないが、二夜訪ねて彼女と話した。「私はツカサですけど、正直なところ霊感はありません」と彼女ははずかしそうに言い、客のサービスに追われていた。「血筋のため叔母から姪の私へと頭の役がまわってきただけで、特にツカサになりたかったわけではないのです。でも祭の時は必ず村に帰り、神さまと仲よくしなければ」

 彼女は神女を肯定も否定もせず、ママになったのも自然のなりゆき、好きでも嫌いでもない、と醒めた目で客に微笑しているのだった。カスリの着物、帯を和風に着こなし、祭の清楚な写真の彼女とは別な印象であった。「素肌に丈の短いカスリ一枚、ミンサーの細帯一本の方が、潑剌としたエロスがあるのに、なぜ和風の窮屈な着物を着るのでしょうか」とわたしはたずねた。この二十代のママさんは困ったように笑い、「この方が似合うと思って……」と話題をそらした。

 しきたりによれば、神女は他家へ嫁入りしないのだが、彼女の気持ちではどうなるかわからないと言った。彼女を見る男たちの目や冗談口は、東京のバーでのそれと大差なく見えた。だが彼女は媚びるでもなく、無愛想でもなく、当たり前のこととしてマダムと神女の両方を務めている風であった。

 わたしの郷里の信州では、旧家の娘が水商売をすると不評を買う。それがこの地では、職業の質にこだわりがなく、尾類(ズリ)などと呼びながらも、娼婦をあまり蔑視しない風潮があったという。

 谷川健一氏の『沖縄の時間と空間』に、

「神女たちは神と共寝し、特定の男性のもとにはかえらず、みずから自由を確保する。私は巫女がなぜ売笑婦となるかを理解したと思った。つまり神のものである女は本質的にどの人間にも属していないのであった。そこから、どの権威にも属しない遊女の力と気位が生まれてくる」

とある。

 これは娼婦というものを美化しすぎているように思われるが、神女が神にひれ伏すのではなく、神と交合し、特定の男の所有物にならないということは、この他数々の文献に見られる。この地の性のイメージは聖と結びつく。そして、女の性は根源的には自由そのものであった匂いが、今もかすかに漂っている。

 

 性は聖なるもの

 性を美しいものとしたこの地では、フリーラブやコレクティブの原型がいたるところにあった。例えばヤガマーヤという女の共同作業所兼寝所が各部落にあり、十二、三歳以上の女たちが毎夜寝泊りした。多くは後家の家を選び、そこで、オナベ(よなべ、与那国ではドナビ)をする。そこへときどき若い男もやってきて、話したり歌ったりして雑魚寝をし、定められた日に幾組かの男女はモー(野原)や杜、浜辺に行って歌い踊り興じてセックスを楽しむ。この毛遊(モーアシビ)の情景を詠った歌詞やリズムからは、おおらかな開放感、みずみずしい情感が伝わってくる。おそらく女と男の間で、野に吹く風にのせて唱い交わした即興の歌は、組合せごとに多様な情緒がかもし出され、楽しく味わい深いものだったにちがいない。そして霊感的一目惚れが、ごく自然に肉体的にも深められてゆくプロセスは、厳しい労働の疲れを忘れさせたであろう。

 男女が相愛を確認すると、男は女の家に通い、やがて女の家の仕事を手伝い、女側の親も気に入れば世間に公表する。ところが子どもが一、二名できると女が男の家にひきとられてゆくニ―ビチ(結婚)をする。近世になり日本本土の支配が強まるにつれ、招婿婚から嫁入婚へと徐々に変化したといわれる。

 古代母系社会(女性尊重、性肯定)は、鉄器の使用、国家の成立とともに零落し、父権社会(女性蔑視、性否定)が強まってきたというのが定説であるが、沖縄の島々はそれとはだいぶ異なった道を辿ったのである。

 伊波普猷の『をなり神の島』によると、

 「最近モーアシビは禁止されたが、自由結婚だけは破壊することができず、依然として行なわれている。首里、那覇などの一部上流の者が、本人の重大事を親が勝手に決めるのを、村の者はいぶかしく思っている」

 本島北部の村の区長がいうのには、ニービチ(嫁入婚)をしても、式が簡単なせいか離婚が多い。儀式を複雑にしたらそれを防げるだろうか。そこで伊波氏が調べたところ、離婚は若いうち二、三回すると、もう落着いて、大抵は生涯続き、平和だというので、彼はなまじ都会の真似をせず成り行きにまかせる方がよいと答えた。これは未開部落ではなく、内務省から表彰された真面目で協同精神に富んだ部落の実態であるという。

 また、伊江島で儒教の感化を受けた人が、夜這いを恥ずべき陋習だと言い、家の内から鍵をかけた。すると若者たちがいも蔓を刈り取ったり、人糞をまいたりして反撃したので、ついに若者の力に屈服したという。

 この地では性は神聖なもので、特に女の性は悪霊、悪者をやっつける力をもつものと信じられてきた。そこで為政者は、性エネルギーが体制をつき破るエネルギーに昇華することをおそれ、王府成立後は、度々弾圧をくり返した。この八重山でも、四百年前、性的宗教を邪教として禁じたため赤蜂(アカハチ)の叛乱が起こっている。だがその時は機動隊とゲバ棒ではなく、双方とも神女が戦の先頭に立ち、女の霊威をもって威圧し合ったというからまだ夢があった。軍船には多数の神女が乗って、呪術と祈願をし、八重山側の神女数十人も枝葉(タグサ)をもって陣頭に立ち、王軍が上陸しても少しもおそれることがなかった。結局王軍側の神女の代表チンベーに八重山オモト嶽の男神が臣服したので、やむなく赤蜂も降伏したと伝えられる。

 二百年前にモーアシビを禁止した時、百姓で女詩人の恩納なべ(ウンナナビ)がそれに抗する歌をつくったのは有名である。

「恩納松下に禁止(ちじ)の牌の立ちゆす、恋忍ぶまでの禁止やないさめ──村役場の松の下に禁札が立ったが、忍び会う恋を禁止できるものでしょうか」

 「よかさめ姉べしのぐしち遊で、わすた世になればおとめされて──姉さんたちはよかった。シノグ(男女の交わりを象徴する呪術的な舞踊)して遊んで。わたしたちの世になると禁止されて(残念だ)」

 その後も儒教道徳で抑えようと、禁令、取り締りをくり返したのだが、その都度空文になり、性の自由は脈々と受けつがれてきた。また、女を尊ぶ習慣もすたれず、男が女の持ちものをまたぐことや、女に手を振りあげることも許されなかった。船に魂を入れるのも女であり、男が旅に出る時、女の肌につけたもの(手拭いなど)や、うなじの毛を持たせる習慣はごく一般的、日常的なことであった。

 

 新しい性解放との違い

 この伝統は強固な同族組織、血縁共同休の基礎があったゆえに守られた側面がつよいから、新しい性解放と同一視することはできない。ただ、日本本土の縦系列の強い家制度と、沖縄の横関係の強い門中(一門)制度とは、やや異質のものであり、門中は相互扶助(協同化)のために欠くことのできない制度であった。貧しく弱ければ一層個では生きにくいゆえ、しぜんと助け合うのだが、一方、連帯は排他につながりやすい。そこで、農村のヤガマーヤやモーアシビは同じ部落内ではフリーに行われても、他部落の者に対しては、貞操観念でしばられており、互いに監視し合う習慣があった。また、複数の関係が見られないのは、嫉妬の問題が解決されず、葛藤を避け、共同体の秩序を保持するためではなかったろうか。ホモ、レズなどの関係がないのも、快楽の性と生殖の性を分離させていなかったためと考えられる。

 王府が成立し、身分差ができてからは、違う階級の者同士の愛は悲恋に終ることが多かった。役人や士族は農民の娘を自由にできても、その逆は不可能であった。沖縄芝居の『奥山の牡丹』では、勢頭(非人、賎民)の娘と里之子(侍の子)が対等に恋をしたための悲劇を描いている。士族階級には、政略結婚、蓄妾、尾類(娼婦)買いの風があり、時代がくだるにつれ、また上流階級ほど大和風俗の影響がつよまってゆく。

 石垣のバーで、ちょうど結婚式の帰りだという人に出会った。その結婚は見合いであり、披露宴は門中二百人余りを招いたので、公民館で行われたという。よぶ人数は昔ながらに二百人、三百人というのは当たり前だが、場所は戸外ではなく、ホテルの宴会場でする例が多くなった。また最近は花嫁のお色直しやお返しの品など、東京式になってきたと言っていた。お色直しや三々九度は室町時代から始まったもので、お色直しは嫁側の婿側に対する隷属を示す習俗である。そのことを話すと、そう言えば嫁だけが、立ったり座ったりして着がえるのはおかしい、昔はそんな奇妙なことはしなかったのに……と、その人は苦笑していた。

 那覇の写真館で幾度も見かけた結婚写真はすべて打ちかけやウェディングドレスで、琉装は見当たらなかった。食堂や土産物屋などで話した若い女性は、「おなり神」という言葉も知らず、かと言って、「ウーマン・リブ」という語も手近にない感じで、役所や病院勤めの人との結婚を希望していた。二重まぶたの大きな目に更に水色のアイシャドウを塗っていたり、薬局では陽焼けどめクリームの大宣伝、また太陽光線を遮断してシミをかくす化粧品の看板が、ひなびた田舎道や漁村などの方々で目についた。東京の原宿や青山のファッションに憧れている人もいた。本土の人と接するような職場、例えば航空会社や船会社の窓口などでは何度もショックを受けた。不親切、高飛車、荒々しい表情の人がいて、その都度こちらの甘さを反省させられた。しかし、もとはそんなではなかったはずである。日本復帰前後から心までショベルローダーでならし、リトル東京を続出させ、金と物で支配しようとした結果が、方々にあらわれはじめたのであろう。

 

 風呂屋でみたエロスの化身

 わたしは旅に出ると、その土地の公衆浴場に入るのを楽しみにしているので、沖縄でも実行した。その石垣島の浴場はタバコ屋の横の狭い通路を入った場所で、フリの客では見つけにくいところにあった。そのせいか旅人はわたし一人らしく、他の女性たちは顔立ちも身体つきも似ていすぎるほどだった。どの地の女性もその地特有の美しさがあるが、この八重山ほど強烈な個性を発散するところを、わたしは他に知らない。

 彼女たちは小柄なわたしよりも背丈は低いのだが、肉づきよく特に胸の豊かさは見事なものだった。衣服でかくされている部分の肌は白く、陽焼けした部分とのコントラストが鮮やかで、濡れた黒髪の垂れた丸味のある肩や、背のくぼみなど、官能的、肉感的だった。同性のわたしが見とれるのだから、男性はこの胸や、閉じられた長いまつ毛に悩殺されるのではないかと思ったり、おばあさんになっても胸がしぼまないのはなぜかと考えたりして、またたく間に時間がすぎてしまった。何の飾りもない灰色の浴場で、化粧を洗い流した素顔に接しながら思った。

 こんなに美しい素顔と表情をしているのに、なぜ厚化粧で化けるのか。白人願望の本土の風を真似ないで欲しい。黒人たちが「ブラック イズ ビューティフル」の叫びをあげた時、わたしは目のうろこが落ちた気がした。わたしたちも、白人信奉の美意識を変え、「イエロー イズ ビューティフル」を宣言する。この素顔の美しさ、のびやかなエロスを誇りにしてほしい。

 

 女の霊感

 石垣島で厄介になった民宿のおばさんが気さくな人で、船のりの夫が帰らないので、女手で子ども五人を育て上げた話や、昔の勇ましい夫婦喧嘩の話などをきかせてくれた。わたしは台所に入って夕食の後片づけを手伝ったり、夜食を共にしたりして昔話を聞いたのだが、ある時、自分は宮古のツカサだったと言い、祭の歌や儀式のやり方などを教えてくれた。そして、

 「ツカサはユタより位は上でも、ユタの霊感にはかないませんよ。戦後一番苦しかった頃はユタまいりばかりしました。ユタのウシメシ(御示し)は人により当たりはずれがあるけれど、その時はただ救われたくて……」と言った。

 先島の司や祝女(ノロ)は公的存在だが、ユタは民間で個人の吉凶を占い祈るシャーマンで、最近は易者的性格が強まったと言われる。その祈禱には迷信的要素があり、無知な人を惑わすというので、琉球王府成立後は取り締りがくり返された。しかしユタの勢力は一向におとろえず、宮古ではツカサの任命権を持つユタまで現われた。戦後ツカサやノロは衰退したが、ユタは庶民の中に根をおろし、今も強い影響力を持っているという。

 わたしはこの旅でユタという人にすでに三人会っていた。一人は首里在住の主婦。清明節(シーミーと言い、春分後の四月上旬、門中=一族=が墓に集まり、ご馳走を食べながら祖先の霊を慰める)によばれ、彼女と二日行を共にし、大変親切を受けたが、この人はユタというより健全な家庭人だと思った。もう一人は石垣島登野城のプロのユタで、異常なほど目の鋭い人だったが、予約の人が迎えにきて、ゆっくり話せなかった。もう一人は那覇市沖映通り裏のバラック風の家に住むSさんで、宮古に出発するところだったが、目を見た瞬間、ただの人とは違うと感じた。

 わたしは正直言って霊感をあまり信じていない。いまの日本では、神がかってみても新興宗教的になるかオカルトブームの片棒をかつぐだけだと思うからだ。また直感だけに頼ったために現実から手痛くしっぺ返しを受けたこともあり、一人で女の霊感を云々していても仕方ないと思っている。わたしにとって「神」とは絶対なるものではなく、自然や人との関係性のやさしさ、強さである。だからユタにもマユツバをつけたのだが、その実物のユタのぴりぴりする視線には、惹かれるものがあった。

 そこで石垣市の民宿のおばさんに、この土地のユタに会いたいと話し、おじさんに案内されて、細い路地裏のユタさんの家を訪ねた。

 軒の低い小さな家は板戸を閉めてあったが、中から話声がもれていた。おじさんと別れ、暗い部屋に入ると、五十歳あまりの女の人が二人、なぜか電気こたつにあたっていた。二人はわたしには通じない土地言葉で話していたが、間もなくブラウス姿のおばさんの方が帰っていった。

 黒い着物に腰ひも一本の女の人が、わたしを鋭く一瞥し、長いこと黙ったままでいた。わたしも黙ってこたつのそばに坐っていた。緊張した空気が流れた。彼女は不意にこたつのふとんをはずし、立ち膝をして大声で言った。

 「なにしにきたか」

 「知人のNさんに教えられて……話がしたかったのです」

 わたしは東京からきた旅の者だと正直に名のった。彼女は「ふん」とうなずき、不快そうな顔をしたが、共通語で言った。

 「何か調べにきたとちがうか……でも、ねえさんは自分も神人になりたいと思ってる。そこが大学の先生と違う。この前来た大学の先生は、見てやろうと……だから、帰れと言ってやった」

 「霊感でわかるのですか」

 「めえ見れば、心の中のこと、みんなわかる。顔で笑っててもだめだ」

 「あなたは鋭くてきれいな目をしています」

 「そうか。きれい?」彼女は手鏡をもってきて、自分の顔をうつし、

 「今日はやさしい目の方だよ」

と、自分だけジャスミン茶をのんだ。やや穏やかな目の色になり、ゆっくりした口調で話し始めた。

 

 ユタ語り──聞き書き──

 「人間、金じゃないよ。ほんとだよ。名でもない。そのことがすっきりわからん者がくると、足の先が冷めたくなり、身体中わるく震えて、便所に立って、オシーコひっきりなしでるよ。帰ってくると、すぐまた出る。毒吐くように出る。それでもその人が悪くなるしか見えん時は、かっと目ひらいて、帰れ! と大声出す。そうなってしまうのだからしょうがない。知り合いの紹介でも、いやだと身体が言えば何もしゃべらん。どうしてもしゃべれんさ。これを仕事にするのは、きらいだ。気を集めるから頭ふらふらになるし、おそろしいことたくさん見えるから。心臓も脚も痛むし、だけど、これするしか、どうしょうもない。やらないと生きられないと神さまがおっしゃる。……他の仕事を選べたうちは、迷ってばかりだったよ。人は思っていたんと、じぇんじぇん違う道にふみこみ、それでぷいと落ち着くことがある。若い時は負けん気でいろんなことをした。人並みに男を好いて結婚もした。また別の男を好いたりもした。最初はお母さんのために結婚した。うちの母ちゃんは神さまみたいにやさしい人だった。それで母ちゃんの喜ぶ人と一緒になった。その人は、満州で戦死した。こっちも那覇から逃げて石垣にきて、戦後は宮古に渡って闇屋になった。ブローカーして、どんどん金入って、女親分と言われた。その頃神さまが現われて、やめろとおっしゃった。けど若くて、仕事が面白くて、好きな男とまた結婚して、子ども産んでさあ、神なんか信じなかったさあ。

 その男は南方貿易をしてたが、南方に行く途中、海が荒れて死んでしまった。気狂いみたいに呼んで呼んで泣いて……それからは坂ころがるみたいだった。もうけた大金はどんどん減って、全部なくなった。困って路でものを売ったり、借金したり、また別の男を好いたが、また……もう男のことは話したくもない。二十七歳だったか、その頃は一セントの金にも泣いて、足が立たなくなってしまった。最初は足におできができて、膿んで切り、それから胸を病んで、お腹も切ったよ。今もまだこんなだけど」

 彼女は着物の裾を太ももまでめくった。足には紫の斑点とむくみがあり、異常に太かった。

 「落ちるところまで落ちたら、霊がついて身体がぷるぷるふるえて、夜も昼も頭がふらふらした。そのうち神さまの声がして、生きたいのだったら、嘘つくでない。人助けしろと言った。船のりが溺れ死ぬのが見えたり、近所の人が大病になるのがわかったりする。そのうち人がたずねてきて、祈るようになった。朝早くから人がくるようになり、何人も続くと、夕方にはぱたあと倒れそうに疲れる。何も食べられなくて、一日中水だけのんでいることもある。いよいよ疲れてくると、戸をぴしゃと閉めて、一日中寝ていて、たまには外へ遊びにゆく。今は一人おがむと千円くれるから、困ってないよ。トースト、卵、牛乳、刺し身なんかのご馳走が食べられるぐらいだ。この間も大学の息子に八万円もためて送ったよ。ああ子ども? 三人とも男で、一番上は、本土の広島、福山というとこの工場に働きにいってる。二番目は名古屋の近くの大学に入って三年だ。三番目は母ちゃんに苦労させたくないから、この近くで働くと言ってるよ」(うれしそうに笑う)

 「何しろ足悪いから、たまに病院にも行くさ。医者が笑ってお前は自分で病気なおせるのだろう、というけど、自分も人も、なおらない時はなおらない。その人になおる力がない時は、祈っても、医者にかかってもだめだ。おばはいつも病院の門を見ると、足がしっかりして帰ってくる。医者が嫌いだから。金とられて、気分悪くて。今頃は何でも金、金だ。私は人から金もらいたくないよ。この間も、ここで順番待っている人がたくさんいるのに、あとから自動車できて、この人たちの分、全部金払うからすぐ車に乗ってきて、おがめという、私はもう息荒くなって、自分がおそろしくないかあと言って……それからまたこの間は、ハブが二匹庭先にきて、夫婦仲よくしてた。それを誰かつかまえて袋に入れて軒につるしといた。それを持ち出して売ってしまった者がいた。誰がした事か、すぐわかったさ。買い戻して、山に放してやれ、今ならまだハブ酒に漬けられていないからと言った。毒蛇だからって、夫婦仲よくしてたのを、売ることないよ」

 「神さまはどんな姿をしているのですか」

 「男か女か人間かもきまってない。人間のことが多いが空や海、畑、なんかが見えることもある」

 「ユタさんを訪ねてくる人は女が多いですか」

 「このごろは男も若い人もくるさ。ああ琉大の学生も何人かきたよ。乱れ世で、みな迷ってる」

 彼女はこたつから出て、ござの上にあぐらをかき、黒い線香数本に火をつけて手にもち、目を閉じた。しばらくして言った。

 「あんたが一人で広い野原に立ってるのが見える。もうすぐ迷わなくなる。人助けしないと、自分も生きられないとわかるよ。あんたは大勢の人、えらい人のこと気にしたらいけない人だ。自分のためにも世のためにもならん。へんな我慢をすると、大事な宝、命までなくすよ」

 

 一心不乱に女は働く

 沖縄中どこに行っても、女の働く姿に出会った。那覇の平和通り裏の迷路のような市場街も石垣の市場も、売り手は女性ばかり。これら公設市場には、議員や上級官吏の妻もいて、そこでは上流も下級も未亡人も離婚者もない、働く時は同一階級意識だという。本当かしらと思ったが、長らく店を出していた人に聞いたら、当たり前じゃないかと言われた。昼時に店番しながらお弁当を食べ、隣りとおかずを交換し合っているのを見た時、それは誇張ではないように感じられた。

 石垣の市場では客に声をかけるが、客の奪い合いはしない。自分の店にないものは他の店に案内してくれるというふうだった。四日連続通って長時間かけて、アオサ(海藻の一種)、モズク、シャコ貝、半紙大の薄い油揚げ、青パパイヤなど、一品ずつ買ったのだが、どの店でも調理法を親切に教えてくれた。青いパパイヤは皮を乱刺し、汁を出してから皮をむくのだが、この作業は手にしみるから自分が細切りにつくったのを買ったらどうか、その方がすぐ油いためで食べられていいよ、という。それが丸いままの値より、特に高くついていない。このおばさんは自分の手が荒れることや手間は計算に入れていないのだった。

 那覇の市場は老若を問わず二千人もの女が働いていて売り上手だが、石垣では買わない人とも談笑していた。わたしは民宿の台所を借りて調理する分だけ、例えばマグロも小さいサク一本、油揚げも一枚ぐらいしか買わないのに随分ていねいに相手をしてもらった。

 砂糖キビの畑では、小柄な女たちが、太い茎を刈り取り、重ねてゆく。わたしも手伝ったが、二列刈っただけで帽子の中の汗のやり場がなく、太陽の強い光に目くらみしそうだった。沖縄本島南端の糸満の若い保母さんの話によると、彼女は早朝海に入って、スヌイという海草を採ってから保育園に出勤するのだという。糸満では夫が獲った魚を妻が買いとり、街へ売りにゆく。その収入は仲介人たる妻のものとなり、夫婦の経済はそれぞれ独立採算制である。最近は漁業が減ったので、美容師、看護婦、保母などの仕事につく人がふえたが、女性が働く風習は今でも盛んだと、彼女は胸を張って話してくれた。

 このように女が働けば働くほど、女が損をする、沖縄は男逸女労(男に楽をさせ、女が苦労する)であるという意見がある。たしかに妻が夫に貢いで、出世させた話は多いのだが、一心不乱に労働する女性たちにじかにふれた感じでは、「男逸女労」という理屈はふっとびそうな気がした。統計的にみても沖縄では女やもめは男やもめの四倍で女護が島である。敗戦当時、十七歳から四十一歳だった人は、女百人に対し男七十三人の比率で、戦争の傷痕はここにもまだ残っている。損も得もなく、まず自分が働かねば生きてゆけない人たちが多いのである。女が損しないため働くのを減らすには、男女ともに飢えないための闘いが必要である。事実、そういう闘争は、幾たびとなくくり返され、今でも各地で闘われている。今、たまたま女の労働がおとしめられているにせよ、働くことは、本来的には人を充実させるものだったはずである。

 

 殺し屋ヤマトンチュの歌

 石垣の港、与那国行きの船の甲板でのことだった。出航前にチョコレート色に陽焼けした船員が、わたしにどこの島の者かとたずねた。東京からきたと答えると、船員の目から笑いが消え、隣りの若い船長が吐き捨てるように言った。

 「本土もんが押しかけてきたから天気がくずれた」

 その前三日間、出航予定ときき、切符を買って船待ちしたが、悪天候でとりやめとなり、四日目に出航したが、西表の近くでUターンして戻ってしまった。車を二台積んでいるので荒波をのり切れなかったのだという。わたしは与那国で医介輔をしている女の人に会う予定があり、出航が待ち遠しかった。そこでつい出航予定を訊ねてしまった。すると船長は一層不機嫌になり、

 「そんなこと天気にきいてくれ」とつっぱねた。

 天に祈って、いつまでもねばるつもりでわたしは船室に入った。与那国への航路は沖縄一の難コースで、空も海も風速十二米を越すと出航を見合わせることは知っていた。だから出航をせかすつもりはなかったのだが、わたしの様子はせっかちに見えたのかもしれない。この地で沖縄タイム(のんびりテンポ)を学ぼうと思いながら、わたしはまだ予定を気にしていたらしい。

 それにしても、船員にヤマトンチュとにらまれたことが身にこたえた。このコースは観光化したため、蟹族やスーツケース族が次々にのりこんでくる。その中に現地の人の大きな黒い瞳がまじっていて、みな顔見知りらしく、場所をゆずり合って談笑している。わたしの隣りでは美しい瞳の少女がはにかんだように笑っている。「与那国の中学生?」とたずねると、少女はうなずいて、うつ向いてしまった。北海道在住の頃出会ったアイヌの少女に似ている。黒く豊かな髪、二重まぶたの大きな瞳、……北と南の血のつながり、時間を超えれば重なるはずである。昨日会った波照間の人たちはフィリピンの人と見まがうばかりだった。その血のひとしずくは、わたしの中にも流れているかもしれない。

イエーがらさー 大和人の鉄砲担めて 汝射が来うんどー 阿旦の中んぢ 蘇鉄の裡んぢ はつくいべーべー……
(オー鳥さん、日本人が鉄砲かついで撃ちにくるよ。アダンの中に、ソテツの繁みに隠れろ早く早く)  (『沖縄童謡集』島袋全発著より)

 船の中には赤銅色の健康そうな現地の人たちが何人もいた。アダンやソテツの葉陰にかくれ、生きのびていたのだった。この人たちに話しかけようとして、ふと沖縄通の人たちが言った言葉が次々脳裡をかすめた。──都会で便利な暮らしをしている者が、沖縄の旧い伝統に惹かれても、現地の人にとっては生活改善、近代化が必要であること、先島で共通語(沖縄では標準語と言わない)教育が徹底しているのは、単に本土側の押しつけではなく、本土に働きに出た時、言葉の違いで泣くことのないように先生たちが親心に指導したからだということ、女の感性だ霊感だと言っても、ツカサ、ノロ、ユタなどが連帯して時代を変革しようとしたことなど一度もないこと……。沖縄に惚れるなら、旅人としてではなく、離島に住んで闘い、骨を埋めるべきだと言った人もいる。

 こういう意見を強い口調でたたみこむように言われると、わたしは自分との波長の違いを感じてしまう。心の赴く所へつっ走ってゆけない現実のわたし、子や親のしがらみをひきずって、旅に出るのもままならず、汚染された空気や騒音に辟易しつつ、都会の真中であくせくしているわたしがここにいる。だからこそ、この同じ船の人たちとつながりたいと思うのであって、住まなくても愛せる土地、自分の場にいてもつながりあえる土地があると思う。どの土地もそういう場でなければならないのではないか。

 ためらいつつ東京言葉で話に割りこんだのだが、みな気さくにこちらに通じる言葉、やや関西なまりで話してくれた。物価高のこと、集団就職した息子が島に逃げ帰ったが、若者がいないのでまた家出したこと、本土の人は与那国蛾や星砂など、何でもお金にかえてしまうこと、もとは台湾の人がトビウオを追ってきて、上陸して遊んでいったものだが、復帰後は自衛隊をこわがって顔を見せないこと……。とりとめもなく雑談しているうち、船は出航した。

 竹富島の影がうすらぐ頃、船は揺れ出し、次々狭い床に横になった。男女の別なく息がかかるくらい間近にくっつき合って横になるのだが、当然の感じでおじさん、おばさんは話したり寝息をたてたりした。隣りのおばさんは、戦前大阪で紡績女工をしていたと話した。わたしは郷里の製糸工女のことや、現在のアジアの女子労働者の実態(日系企業では興奮剤を飲まされて一日十八時間も働かされているという)を想い出させられ、胸に錐を打ちこまれるようだった。

 目を閉じた女の人の顔には、深いしわが刻みこまれ、そのしわの奥には太陽の光がたまっているように見えた。わたしは製糸工女で苦労した母を想い出し、この人を揺さぶりたいような衝動を感じたが、彼女は穏やかな顔で規則的な寝息をたてはじめた。母もこの人と同じように太陽を拝み、痛めつけられても、病んでも、穏やかな表情をくずさなかった。わたしはその忍耐強さに感心しつつ、何の抵抗もしない母が歯がゆかった。わたしは、いつかきっと母の仇をとってやると思い続けて大きくなった。

 考えてみたら、わたしも子を持ち、母が私を生んだ年齢に近づいていた。それなのに仇討ちどころか、自分が生きるのに精一杯である。わたしもまた世のひずみを感じつつ管理されている。わたしはただ権利意識が母より強いだけで、非力なことは自分自身でよく知っている。

 長い波長で時間をとらえれば、差別構造を生んだ歴史、資本の利害が優先する歴史はいよいよゆき詰まってきたと感じられるが、だからといって、ただいま現実の問題を霧散することはできない。船揺れのため、窓ワクの中に、波と雲が交互に映り、胸の中がひどく苦しい。揺れて苦しみ、考えて、結局戻りついたところは、いま役に立たないものこそが役立つと見てゆくこと。現実を逆手にとり、おとしめられたものが未来をつくると信じて地道に努力するしかないということである。歴史の流れは自分たちで変えてゆくしかないのだった。

 

 女護が島はいま……

 七時間余り波風に揺られて与那国に到着し、女性の医介輔Nさんに会った。医介輔はアメリカ占領時代の置き土産で、医師不足を補うために離島にいる医者のような人(ヽヽヽヽヽヽヽ)である。彼女は五十歳を出ているが、早朝から夜中まで診療し、その上、本土復帰後は健康保険の書類づくりに追われ、六キロもやせてしまったと語った。

 与那国での戦時中の医療活動の話はすさまじいものだった。飛行機が墜落したり、傷病兵たちが漂着したりして、山の中にかくれ、看護婦だった彼女は一人で馬に乗って山中あちこち治療してまわった。薬もガーゼもなく、新聞紙を蒸気消毒して傷に当てたが、ついに新聞紙にもこと欠いた。傷口の腐った脚や腕を切断したり、マラリヤにやられた人々の死を、どれだけみとったか知れない。敗戦の時は、自分の青春は何だったのかと空しくなり、からだ中の力が抜けそうだったという。

 漁業組合では五百キロ余の大カジキが獲れ、漁師の妻と子が喜んで舟のあと片づけをしていた。そして妻も夫と一緒にセリ場に行き、大声をかけて応援し、魚がキロ当たり七十円で引きとられてゆく最後まで見届けていた。

 わたしは柳田国男の『海南小記』(大正十四年)の一節、与那国の女のことを思い出していた。

 「役場にもめ事でもある時は、垣根の外はこれに声援する婦人で一杯になるくらいだ。どうしてこのように、きつい気性が根ざしたものか、これが将来にどういう運命を開いてゆくものか……」

 ほとんどの女は、日本国家に協力し、戦火に傷つき敗れた。それが運命の第一歩だった。第二歩は米軍の支配に耐えて、復興に協力させられた。第三歩は……もう権力に屈するのはやめて、地下水脈のように流れてきた女の力を噴出させ、本ものの女自身の運命を切り開く時である。ついこの間まで母系制社会をつくっていた沖縄の島々では、女がひ弱にねじ曲がっていない。男たちがこの女のおおらかさ、寛大さに溺れず、再び神(女)の声に耳傾けることを、わたしは願う。

 かつて与那国ではゴンボウ(島人を父としないで生まれた私生児)を大切にし、女は働いていろいろな子を育てた。わたしはその力の泉を汲みとりたいのである。

 

 女酋長イソバは再来するか

 与那国には昔(一五〇〇年代)島を統-し、善政を行った大物の女酋長、サンアイ・イソバがいたという。このイソバの活躍のことを、久部良で漁師のおかみさんと話した時、彼女は実にうれしそうに笑い、イソバは自分の祖先のまた祖先かもしれないと言った。イソバの家系は先代までずっと母系であった。

 その久部良港の東には、クラブバリという三米ほどの岩の割れ目があり、観光名所になっている。この割れ目は人頭税時代、妊婦を飛びこえさせた跡で、力弱い女は断崖から下の海に落ちて死に、飛べたとしても流産したという。男女、病疾、障害者の別なく頭割りで税を課したので、税を軽くするための人べらし策だったともいう。女たちはその裂け目をどんな思いで飛んだことか。折しも東京では、優生保護法改悪に反対して、女たちが起ち上がっていた。

 この他にも島の真中辺に、人桝田(トウングタ)という水田跡がある。そこを訪れるとサトウキビが生えていた。昔は真夜中に男たちをこの田に非常召集し、入り遅れた者をその場で惨殺したという。そういう残酷物語はすべてつくり話だという人もいるが、ともかく島の山坂には、二百六十六年間続いた苛酷な人頭税を証明するように、頂上近くまで耕した水田の跡が残っている。

 町の観光課のN青年が、道端で軽トラックをつかまえ、それに乗せて案内してくれたのだが、この地の観光名所は、哀しみに彩られすぎている。彼は大きな目を細めて、ここが西、向こうが南ですと、茫洋と続く青海原の先を示した。かつて苦しみを忘れるため、その先にハイドウナン(南与那国)という楽土があると人々は信じていた。波照間の先にも同じように南波照間という幻想の島があり、苦しみに耐えきれず、ほんとうに船出して帰らなかった人々がいたという。いつの時代にもユートピアはあるが、時間のサイクルを大まわりさせれば、幻想が現実になる可能性がないとはいえまい。そろそろ女酋長イソバの生まれ変わりが出現してもよい頃である。ただし、状況は変わった。イソバが一人いたら解決する時代ではない。すべての人がイソバになり、潜在する力を合わせなければ、とわたしは思う。

 与那国からの帰りの船には、五百キロの大力ジキを仕とめた漁師と、小学一年の坊やが乗り合わせた。彼は外見は荒々しい海の男だが、話すと、どうしようもなくはずかしがり屋で、こちらも途方に暮れるほどだった。彼の奥さんが浜辺で手を振って見送っていた。往きの船で一緒だったおばさんも、石ころのように小さくなるまで夫を見送っていた。

 島影は遠くなるにつれ、緑から紫色に変わり、サバニ(沖縄式のボート)が高波にのって文字通り木の葉のように揺れていた。わたしはふと、地図のなかった時代を思った。小さなサバニを全力でこぎ、新しい島を求めてやってきた人々にとって、島の大小は問題ではなかった。上陸した島を自らの手で、いかに住み心地よくするかが問題であった。琉球王府の支配下に入れられるまでは、離島だ辺境だという観念もなかった。まして東京を中心に、与那国は本邦の最西端、波照間は最南端という観念があるはずもなかった。中央と地方、金持と貧乏、女より男が上……そんなもののない以前から、島々はそこにあったのである。東に進みながら、わたしはどう考えてもそこが辺境だとは思えなくなっていた。

                              (1974年春記)

 

2)現代島痛びの女

 古さを批判する現代みやらび

 沖縄上空で透明な宇宙のひろがりを味わおうと、ジャンボ機の窓から外を眺めた。大土木工事の設計図のような嘉手納基地が後方に去り、海洋博予定地の本部(もとぶ)海岸線が赤くにじんで見えた。切りくずされた土地は血を流しているようだった。反対側の海は銀と灰色ににぶく光るCTS石油備蓄基地が海辺を占領している。わたしは目を閉じ、昔の深緑の島を思い描いた。これほどまでに大自然に郷愁を感じるのは、わたし自身も自然を失いかけているからにちがいない。のんびりした船旅を望みながら、わたしは急用のため飛行機で予定時間を短縮して帰宅しようとしているのだった。

 ベルト着用のサインが消えた時、わたしは隣席の女性と席を交代した。空港で知り合い、並んで席をとっただけの間柄だが、彼女は沖縄人らしからぬ早口で親し気に話し続けた。糸満出身の二十代の保母さんで、高卒後独学で神や哲学について勉強したという。長身、大づくりでハーフのように見えたが、純粋な沖縄娘だと言った。しかし沖縄は大嫌いなので、上京したら二度と帰りたくないと、はきはきした声でいう。窓側の席をゆずったのは、彼女が本気で帰らぬつもりならば、故郷を見納めておいた方がよいと思ったからである。彼女は窓外に目をやりながら話した。

 「沖縄のみやらび(娘)は美しい、おおらかで素晴しいなどとほめられても、沖縄の屈辱的な状況はよくなりませんよ。意気地なしを甘やかすだけです。長年本土復帰を希望してきて復帰した途端に絶望したのは、だまされた私たちも悪いんです」

 「沖縄の本質は犯されていないのだと胸を張るわけにはゆきませんか」

 「本土の人って、沖縄をおだてながら、ほんとうはお人好しのバカだと思ってるでしょ」

 「バカどころか、ユタ(民間の巫女)さんなど、実に鋭い人がいました」

 「ユタやノロ(神女)をほめるなんて、ああ恥ずかしい。……あの人たち、沖縄のために何をしましたか。米軍の土地接収の時、賛成派にまわったノロが何人もいるんです。ユタだって迷信いう人が多いですよ。今みんなが苦しむのは、十何代前の霊がたたっているからだ、祖先をお祈りするしか救われる道はないと言ったり、私の家の前のユタは、とっても私に意地悪するんです」

 「平安座の石油精製基地の中に御獄(ウタキ)が残ったのは?」

 「あれはノロがだまされたんです。先祖代々の土地を売り渡しておいて、いまさら自動車でゲートの中の御獄を拝んでまわったところで、何が信仰ですか」

 母系や祖霊、門中、祭などの話題も、彼女にかかっては木っ葉みじんである。わたしは反論した。

 「ユタの中にはずっと以前から、自然破壊を鋭く告発した人や、土地接取の時ブルドーザーの前に坐りこんだ人、物を私有することが人を狂わすのだという人もいるそうですが。……日本は自分の国の行き詰まりやひずみを未開発地に肩がわりさせようとしています。あなたが、その本元の悪漢をやっつけるために上京するならともかく、自分の故郷の大事なものを見捨てるなんて」

 「あなたは東京で、洗濯機を使ったりお風呂に毎日のように入ったりして水をたくさん使って、当たり前だと思ってるでしょ。沖縄の水不足のことを考えて下さい。那覇でも水道は一日おき。私は水をたっぷり使いたいし、急いで歯の痛いのもなおしたい。学校や図書館にも行きたい」

 突如彼女は窓ガラスに顔をおしつけて拍手した。

 「きれい! 沖之永艮部の上を飛んでるわ、もうすぐ奄美よ」

 彼女は大きなゼスチュアで「ワンダフル!」と声をあげ、拍手し、足踏みする。景色に対し、拍手をくり返す人をわたしは知らないのでびっくりした。

 彼女はどうやら個の確立を目指しているらしく、神についても、アメリカ統治時代の影響なのかキリスト教礼讃者である。わたしは、近代とは何だろうと考えた。一度近代を通過しなければ女は解放されないと決めたら、第三世界の女の解放は、遠い未来のことになってしまう。先進国の現状を見れば、どうしても近代化の意味を問い直さねばならないと感ずるのだが、沖縄でも彼女のような近代主義者は続々育っている。アメリカを悪く言いつつ、メンタリティーも仕草もアメリカ的な女、そしてこれからはジャパナイズされた女がふえてゆくことだろう。

 わたしは、沖縄は女にとって辺境ではなく、女のエネルギーの源泉の地であると感じ、この地の母系制の残照を求め歩いた。政治経済的に見れば、(しま)(ちゃ)び(離島苦)の現実は深刻であるが、今おとしめられているからこそ、そこには未来がはらまれていると考えた。人は自分の価値に気づかねば生ききることはできない。また自分自身は、どんな場所であれ現在を生きるしかないのだから、差別をうらみ、のろうだけでなく、今この場で太陽になろうと思ったのだった。その思いが強まるにつれ、同時に「現実を甘く見るな」という声が胸の中で反響する。

 貧しい分だけ教育熱心な沖縄、二十七年もアメリカ支配下にあった沖縄に、権利意識のつよい近代的女性が育つのは当たり前のことだが、わたしは何となく心が重かった。かつてわたしも家出して上京した。独力で学び、権利意識と醒めた知性で闘おうと考えた。しかし、独りで力いっぱい壁に体当たりしては傷ついてきた。特に女の問題は権利意識や対立だけでは、どうにも解決しないことが多すぎるのである。

 しかし彼女が沖縄から飛び出すことは無駄ではなく、逆に故郷の長所が見えてくるかもしれないとも思う。土着と近代、非近代文明と近代文明、燃える感性と醒めた理性を、わたしたち女はどうつなげてゆけばよいのだろうか。一方的に、どれが正しいと言いきれる問題ではない。何でも対立的にとらえるのではなく、異質のものへもパイプを通してみる必要があろう。

 

 死に急ぐ女たち

 沖縄の女を代表する二大歌人、百姓の恩納なべ(ナビ、十八世紀後半)と、よしや思鶴(十七世紀中頃)の世界は、現代の女性の中にも生きている。前者には母系時代の土着の女がもつおおらかでたくましい情熱があり、後者には虐げられた女の醒めた理性と繊細な神経がある。

  恩納なべの歌──

恩納岳あがた里が生まれ島 もりもおしのけて こがたなさな

 (恩納岳の向こうは我が愛人の里。あの山をおしのけて、こちらにもってきたい)

  よしや思鶴の歌──

梅やただ一枝 うぐいすやあまた 能羽切れ鳥やほけたばかり

 (花の咲いた梅は、ただ一枝で、寄ってくるウグイスは多数。だが能のない鳥(男)は、おしゃべりするばかりで、うるさくて仕方がない)

あんま主やよかて うまり島いまてい 我身や仲島のあらの一粒

 (親たちはいいな、自分の村で暮らしているのに、わたしは遊廓仲島のモミの雑物の一粒)

 これらの歌だけでみるなら、わたしは恩納なべに惹かれるが、よしや思鶴の境遇──貧困のため六歳で遊廓に売られ、才気がありながら夢のない末期を予感して十九歳で自殺したと言われる──を思えば、彼女のニヒルなレジスタンス、精一杯のプライドが胸にしみる。

 現代の沖縄では、よしや思鶴的女性がふえつつあるのではないだろうかと気にかかる。CTS闘争(石油備蓄基地反対)の会合に出て、宮古出身の評論家、新里金福氏から沖縄の死生観について聞いた時、わたしは沖縄の「絶望」について改めて考えさせられた。

 沖縄には、生命を大切にする根深い伝統があり、決して自殺はしないという思想があったという。葬式の時、寿命をまっとうした者は手厚く葬り、後年洗骨をするが、自殺者は正式な墓に入れず、ところによっては遺体を岩の割れ目に閉じこめたり、重石をのせたりして、参詣もしない。だから実際に本土の者より数倍苛酷な目に会っても、自から命を絶つことはしなかったのだが、一九七二年の復帰後は、急激に自殺がふえはじめたという。集団就職した三人の少女が、本土並みという条件と余りに違った沖縄出身者差別の現実を悲観して首をつり、本土にスカウトされたホステスが疲れたという遺書を残して腐乱死体となり、主婦が母子心中……。日本人が心中や子殺しするのを全く理解できないといっていた沖縄の女が、このように自ら死に急ぐのはなぜだろう。

 『青少年非行の実態』(沖縄教育振興会)というパンフレットに、少年非行と並ぶ自殺の急増が記されていた。非行年齢は低くなり、中学生の凶悪犯は全国平均の約五倍である。

 「直接米軍に占領された二十七年間の不安、朝鮮戦争、ベトナム戦争の前線基地としてすべてが軍事優先。生命軽視の基地特有の退廃的風潮に加えて、復帰後も基地は残り、自衛隊は一万人増、資本や企業がどっとおしよせ、モテル、トルコ、暴力バー、スラグマシン、自動販売機などがあらわれ、消極的、刹那享楽的風潮に拍車がかかった」

 一口に言って資本による琉球処分のためということだろうが、復帰後の急激な失望は、あまりにも熱烈な祖国復帰の願い、本土並みになることへの過大な希望があったためではないかとわたしは思う。世論調査をみると、復帰直前の七二年四月には日本に期待する人が七一%、復帰五ヵ月後五二%、さらに一年後の七三年四月には、わずか一五%に激減している。

 

 幻想のあとに

 本土並みという幻想が破られた時、沖縄の主体性を自らの手でつくろう、という運動が芽生えてきた。新里金福氏によれば、

 「祭、神あそびの中にある生命を生み育てるもの、生命や生産物の収奪者と闘ったものへの讃歌を継承し、それを新しい闘いのてことし、死を讃美しない思想やニライカナイ信仰の基本にあるインターナショナリズムに学んでゆこう」

 海の彼方の楽土、ニライカナイを祈るのは、外に依存するためではない。穀物の魂を迎え入れた上で、五穀豊穣を損うものはニライカナイへ送り返すという「虫送り」の行事を見ても、ニライカナイ信仰には自主の思想がこもっていたと思う。

 そのように自らの伝統を発掘し、新しい闘いの中で生かそうという機運がでてきたことは、わたしの思い描いていた女解放とも重なる。女も男に対する幻想が破られ、男並みになるという意識を断ち切った時、初めて本ものの自立的運動の視点がひらけてきたのである。今後、女解放も、ニライカナイ信仰や「虫送り」に学ぶことは大いに役立つであろう。

 なぜ沖縄は復帰による「本土並み」の権利獲得に幻想を抱いたか。そして、過去の婦人解放運動の女たちは、なぜ男並み女権拡張に幻想をもったか。その分析はきちんと行なう必要があるが、ただ結果をみて非難してもはじまらない。虐げられ、相手をあまりに知らなかった者に対し、なぜお前は幻想を抱いてへマをしたのかと石をぶつける権利など、わたしたちはもっていない。それより自分たちが今よかれと思ってしていること、書いていることに誤りがないかどうか、絶えず点検しなくてはと思う。それが沖縄の「虫送り」──誤ったものを選別し送り返してしまう──の精神というものであろう。

 以前『沖縄の母親たち』(合同出版)という本を読み、実によく女を追跡し、上手にまとめた聞き書きだと感心したことがあった。飢饉のため女中に売られた五人姉妹、七歳で遊女に売られた女、本土に紡績女工に売られた女、ひめゆり部隊の生きのこり、土地収奪をいきどおる女など、九十三歳の山村の老婆から都市の娘まで二十名の女の生活が浮きぼりにされていて、一読に価する本である。

 しかし、日本教職員組合と沖縄教組共編のこの著は、「日本復帰」という一つのテーマを掲げているためか、女たちの思いを「女の生活はこんなにも苦しいので祖国に復帰したい」という結論にまとめている。その時代の悲願であろうと、二十人の女性が一様に祖国復帰を願ったかどうか、わたしは疑問を感じた。女解放の場合も、インテリが自分の問題意識にもとづいて、テーマを考え、それに忠実に運動をすすめ、一つの考えにまとめようとすると、個々の女の豊かな内容やエネルギーを弱めてしまう危険がある。一つのテーマ通りに動かないのが人間の本性であり、だからこそ豊かな展望がひらける可能性、面白さがあるのではないだろうか。

 

 わからず屋の鋭さ

 実物の人間は、たとえ平凡そのものでも、論理が明確でなくても、識者の評論や意図的聞き書きより面白いところがある。特に情報や知識に無縁な離島の女は味がある。離島にはアメリカ世でもヤマト世でも、何がこようと自分なりに生きてゆくさ、というようなしぶとい女や愉快なわからず屋(ヽヽヽヽヽ)がいる。

 一九五九年アメリカは本島のガーブ川市場を不衛生だからと撤去しようとした。戦後那覇市内の要所を米軍に占領され、生活苦にあえぐ女たちはやむなく川べりに一、二坪の店を出し、自然に六百軒ほど集まって女だけの市場となったのだった。彼女たちは撤去にさからい、不衛生なのは市場のせいではない、川のせいだと主張し、デモや坐り込み、はては議会の机の上にあお向いて寝て、主席が「アメリカの命令だ、主席のつらい立場も考えて欲しい」というと、「主席の立場がつらいならやめろ」と迫り、ついに議会は根負けして決議を撤回し、アメリカ側に川の改修を訴えた。その後、女たちは、政府から全く援助をもらわず、自分たちで五万ドル出し合い、共同の建物につくりかえて助け合ってきたという。(『沖縄の母親たち』)

 いわば女の自治コミューンをつくったのである。復帰後は本土の企業、スーパーの進出で、女の市場は日ましに苦しくなっている。

 女は自分の生活実感からくる直観をもとに、自らの内なる論理に忠実である。男が制度に忠実に、法律はこうだとか、多数決で議会を通過したとかいう手続き論や、力のある方が勝つという常識でことを運ぼうとしても女は耳をかさない。既成の男の論理からすれば、女はものわかりが悪くてずれているのだが、それゆえに逆に本質が見えるということもあるのだ。

 宮古の農婦、下地さんは、農薬散布中、風向きが変わり、薬剤に酔ってねむりかけた。それ以来彼女は農薬はおそろしいと言い続ける。公害とか科学について知らなくても危険予知をする。沖縄に限らず、こういう人はわたしの周囲にも何人かいる。例えば、幼児の太もも注射のおそろしさを、十年以上前から訴えてきた母親、日本が高度経済成長期に入り、消費は美徳だ、物はどんどん使い捨てよと言っていた時、それに背を向け、「ものを買うな、空地には野菜をつくれ。浮かれていると今にバチが当たる」と言った女は、何人もいる。「金は一時、土地は万年」というポスターを沖縄でみかけたが、昔からこういうことを言った女は多かった。為政者は勿論のこと、文化人も左翼もジャーナリズムもそういう平凡な人間の声に耳を傾けるべきではなかったか。

 新里氏のお母さんは、何年も前から川崎市在住であるが、「自分は宮古島のものだから島の言葉を話す。島ごとに顔も言葉もちがうからさ」という。てっとり早く何か聞き出そうなどと考えたら、えらいことになる。この人の言葉は大変聞きとりにくいのである。しかし、やさしい表情や、野菜をていねいに煮つけてすすめてくれる仕草などには、少しも頑固なところがない。戦争中、米軍がバラまいたといわれる強力マラリヤ菌に侵され、頭痛耳鳴りの後遺症でつらいそうだが、祭のことをたずねたら、「なつかしいねえ、白いタナス(大袖)を着て、頭につやのある緑の葉っばの冠をつけてさ」と、にこにこして、身振りで説明してくれた。そして、ふわりと立ち上がって、歌いながら狭い部屋一杯に踊り出した。踊り終わると、目を閉じていう。

 「ああ帰りたいねえ。宮古は風の道(台風)で、ガシ(飢饉)あるけど、満月の夜に山に登ると海が光って、きれいだねえ。ずうっと海の向こう、四方八方見える。一つ祭が終わると、またすぐ祭があって、夜が明けるまで唄ったり踊ったり……」

 別れる時は坂の上でいつまでもいつまでも手を振っているから、自然こちらも一足ごとに振り返らざるをえない。「ああ、こんなに手を振り合ったこと生まれて初めて」と同伴した子どもたちは感嘆しきり。一度島から去ったら再び会えるとは限らないという離島の人特有の一期一会的別れ方、その情感を、ちょっと見たところわからず屋のこの人は、大切にもち続けているのだった。

 

 島うた絶唱のこころ

 一九七三年の夏の終わり、「語やびら島うた・琉球フェスティバル」が日比谷の野外音楽堂で開かれた。島うたをスモッグと騒音の東京にもってきても、生きるはずがないと思ったが、プログラムを見ていたら、どうしても行きたくなった。情歌と三線(サンシン)の嘉手苅林昌、八重山島唄の山里勇吉、宮古の伊良部トウガニー(毛遊びの歌)の国吉源次、カチャーシーを弾きうたう大城志津子、民謡界の天才児といわれる知名定男ほか。わたしは本島や八重山で唄や踊りにふれるたびに、テープに採録してきたのだが、この人たちには直接会う機会がなかった。沖縄に住んでも、これだけの名手の名演を同時にきくことはむずかしい。

 当日は出演者も司会者もウチナーグチ(沖縄言葉)であったから、わたしは笑う個所がずれたりしたが、曲にはしびれっぱなし。周囲は島出身の人々ばかり、一緒に手拍子をうち、指笛を鳴らした。聴衆は次々舞台にかけ上がり、カチャーシーの早弾きにのって楽しげに夢中で踊りまわった。わたしも踊りながら、しなっていた竹がはね返るような爽快な気分になった。そして、あとでそれらの歌の底にある状況を考え、絶句したのだった。

 豊年祭の歌は底ぬけに明るいけれど、豊年だから陽気に歌って踊るのではなく、その歌のできたころは自然は災厄、干害、暴風を運んでくるし、税のとり立ては苛酷であった。命ぎりぎりの苦境にあったからこそ一層はね返すような活力で声の限り豊年を唱い上げたのである。

 「桃里節」は、「稲も粟も豊かにみのり、花々は妍を競い、みやらび(娘)たちは美しく……」と流れ、躍るように唄われるが、この島は天災、飢饉で廃村になった苦難の島だという。知名定繁作「別れの煙」は、戦前の極貧の沖縄では、娘たちは女工として本土へ売られてゆく、その旅立ちを港に見送りに行くことすらできない貧しい親は、山で生松葉を焚き、その煙を我が子への別れの挨拶にしたという歌であるが、感傷に流れず、息子の定男の絶唱の美しさは文字ではうまくあらわせないほどである。これら離島苦を背景にした限りなく美しい歌には、黒人霊歌と同様に、絶望的状況の中でも絶望しない民衆の強靭な精神が息づいている。

 琉球舞踊は本土の能が一つの手本になったというだけに、客の方に流し目をしない。すり足で軽やかに動き、一見中性的なまっすぐな瞳で舞うのだが、能とは違った熱い情感があふれ出る。八重山高校体育館での舞踊大会の時は、コミカルな踊りになると、観衆が絶え間なく笑いさざめき、張り切りすぎて舞台でころびかけて叫ぶ娘さん、それに向かって一きわ高い拍手と指笛。現実をしばし忘れて、たのしく息ぬきした夜だった。

 

 娼婦の心の唄

〽ホーみぐわぬあんち じまんすな女(いなぐ)タニねんありば ホーやぬすが(カイサレ=毛遊びの歌)

 (ホー(下の口)があるといって、いばるな女、ペニスあってのホーではないか)

 日本では、多分、「男々といばるな男、男は女のホーから生まれる」という感じの歌になり、レズならば「男あってのホーではないわ」と相聞するところだろうが、この歌、男がコミカルに口惜しさを歌い上げるところ、いかにも沖縄らしいと笑っているうちに、次の歌にぶつかった、

〽いちの世にないば ホーぬ物言がや くりまでの哀り ジントーヨー語れすしが……

 (いつの世にかなれば、女のセックスがものをいうでしょう。その時は、これまでの哀しみのすべてを語りつくすよ──国頭(くにがみ)ジントーヨー)

 この歌にふれた時、思わず新宿二丁目で出会った本島出身の女の人のことが脳裏をよぎった。二丁目に詩人などの集まる酒場があり、女の仲間たちと訪れるのだが、そのあたりを歩くと、一目で沖縄生まれとわかる人たちに出会う。K子もその路地に佇んでいたのだった。「南沙織より美人ね。一緒にのみましょう」と誘うと、「カフィのもう。ねむくてしかたない」という。そこで喫茶店兼スナックのようなところに入った。彼女はトイレにかけこみ、戻ってくると、「今夜はのみすぎ。泡盛は悪酔いしない、しないけどさ」と大儀そうに息を吐いた。近くで見ると、やせているのに顎と頰がたるみ、かなりの年のように見えた。

 「あんたも沖縄?」と彼女。「そうじゃないけど」と口ごもると、「うちは何もかくさん。へいきや」と、大阪弁がかった口調で言った。「千ドルはきちんと返した、千ドルは」と、千ドルにばかりこだわるから、何の千ドルかとたずねると、前借金のことだった。つまり前借金千ドルで身売りした元売春婦だとわかった。

 「波の上にいたの?」「吉原」「ああ、コザの吉原ね」

 コザ吉原にいた頃は毎月百ドル以上も家に送金していたが、復帰後、店からほうり出され、一年ほど前に本土者に誘われて渡ってきたという。今は部屋代、生活費がかさみ、親孝行ができないという。話が方々にとんでは戻り、こちらがたずねないのに、初恋の思い出まで話すのだが、ウヤコーコーという言葉にわたしはこだわった。弟は大学に行ったと誇らし気にいうあたり、戦前の話みたいだと思ったが、昭和五十年に親孝行が生きていないと思う方が、とんでもない錯覚なのだと考えた。

 しかし、売春を罪のようにいう人がいるが、それはよくないことだと激しい口調で言った時は、旧い女とは思えなかった。「米兵に強姦されて、商売に入ったというような話、多いでしょ」とわたしが言うと、彼女はちょっといやな顔で言い返した。「強姦されなくたってなるよ。稼ぐためさ」

 ヒモのことを話題にすると、「好きな男を食わせることぐらい何でもない。ヒモいうても、あの人、下着まで洗うてくれるもの」と陽気に笑ったが、「厭な客と寝るのは、しんどいことやね」と言った時、全くやり切れないというように大きくため息をついた。

 「男はいやなら、できないからよいけれど、女はいやでもできることが哀しいわねえ」とわたしがいうと、「そう、そう、ファスナーで閉じたいわ」と、彼女のアイデアを話す。いやな相手のときは、自然にジッパーとカギがかかって「ノウ」、自分が求める時だけ「イエス」と開ける装置。女の躰にしっくりのものを発明したいと真顔でいうのだ。

 「女は慣れたら誰とでも平気というの嘘やね。うちはこの頃相手選びたくなった。年のせいか……うちの失敗は子を生まんかったこと。子どもは宝やねえ。子のいる人は、がんばるよ。女はあそこがあるから哀しいんや。けど、あそこがあるから強いんよ。男はどんなに強がっても、逆立ちしても、やぱし女のセックスに負けるさ。そう思わんかったら生きていけへん」

 

 人を救って尾類と呼ばれ

 沖縄では風俗営業の女の六〇%が離婚者で、女手で子や親を養っているケースが多い。現在の売春は、経済の問題をぬきには語れないが、特に沖縄の場合は、母系的で自由な性の伝統とは対照的に、遊廓発生は金と権力が基礎になっていた。娼婦を尾類(ズリ)と呼ぶのは、遊女は人間ではなく、一匹、二匹と数えるものという意味であり、那覇の辻遊廓は江戸の吉原とは成り立ちが異なる。吉原は士族文化、「武」に対する抵抗もこめて、町人が芝居と並べて吉原で享楽の「文化」を競おうとした面もあったというが、辻遊廓は士族だけのためにつくられ、身分差別が持ち込まれ、上級士族ほど女を独占してたのしんだのである。

 明治期には、日本本土からの客が遊廓でも権威をふるい、貧民の娘たちを買いあさった。また「女の外には何一つ見んとするの欲望なく、道往く女に長き涎をたらし、……車の上から野卑な言辞を放って得々たりし紳商輩」というような大和人が目立った。今でも方々の国でこれと似たことをくり返している野卑な日本男児たちがいるのだが、こういう人種差別、性差別の象徴的事件は、一九〇三年、大阪の勧業博覧会での人類館事件であろう。ここでは辻遊廓の売春婦、アイヌ、台湾、朝鮮の女を台の上に陳列して見世物にしたのであった。

 沖縄戦下そして戦後は、アメリカ兵にとって、性は最も目ぼしい商品であった。米軍側に欠乏していて、沖縄側にあるものは女の性だけであった。多数の米兵が、上陸すると、進軍や索敵のときも、老幼の別なく女を犯した。犯されて妊娠した女は、間引きの習慣のない土地のこと、中絶は思いも及ばず、やむなく、たくさんの混血児を生まざるをえなかった。生存を保つため、女たちは小麦粉、脱脂粉乳、薬品などと交換に性を売り続け、一九四九年朝鮮戦争にそなえて基地建設が始まると「基地の女」が生まれた。

 「沖縄人なら大抵のものは、親類の中に混血児の血族を有しているはずである。……その母は、基地のPXから直接、間接に、無税の食品、医薬品などを一門の親戚に安く分けて感激される側面を有していた。運の悪い女に対する同情と基地からの戦果を運ぶものの重宝さ有難さが、軽蔑の色合いと複雑にからんで彼女とその子をとりまいていた」(『沖縄月報』一九七四年五号、池宮城はじめ氏より)

 復帰前、風俗営業三千軒、米兵立入り認可のAサインバー八百軒と言われたが、復帰後、売春防止法施行で、数字の上では三万人の売春婦が失業したことになる。だが、かつての赤線はトルコ、キャバレーに看板をかえ、また、東京、大阪のキャバレーに大量の女性が移動している。時は移り、法は変わっても、母子寮やよい働き口のないこの地から、売春が消えるはずがない。

 昭和三十三年、日本での売春防止法施行の時、売春婦たちは法案成立に反対し、当時の吉原女子保健組合が中心となって全娼連結成へと発展し、団結して政治家に陳情したのだった。婦人代議士や視察団が「あなたの行いはいいと思うか、恥ずかしくないか、正業につく意志があるか」などと質問したのに対し、彼女たちは「私達が恥知らずであり、なまけものであり、馬鹿であるかのような心持で質問されている感じがしてならない。私達は真面目に働いている」と反論している。(『明るい谷間・赤線従業婦の手記』新吉原女子保健組合編から)

 この時期の吉原を描いた関根弘氏の『吉原志』(講談社)、「娼婦考」(『展望』)によれば、敗戦直後国策として慰安婦を占領軍に提供し、今度は国連加盟の手土産に売春防止法を成立させた。売春は貧困の鎖からの解放の問題なのに、これは解放を棚上げした棄民である。占嶺時代四千万の主婦の貞操の防波堤となった五十万の売春婦を、占領政策終了とともに、同じく主婦の平和の名のもとに犯罪者としたのは、日本軍が南方に携行した慰安婦を撤退にさいして射殺したのと同様な処理である……。

 この日本の売春婦切り捨て問題のもう一つ陰の部分、いや表層に沖縄売春婦はいた。直接占領二十七年、彼女たちは日本国民の防波堤となって生きてきた。彼女たちは、バイタルで明るい面もあったが、それは、悲惨な状況にあればあるほど、不屈に明るくしなければ、生きられなかったからである。沖縄女の母系的情熱と多情さゆえに、売春行為も奔放だったというふうな描き方をした男性作家のルポがあるが、そのように母系の伝統と現代の売春を、安易に混合して語られたのでは、女たちは救われない。

 

 女のホーは女のもの

 男は性を売る時の女の痛みや疲れが肌でわからない。いやな男と寝ながら、早く終わって欲しいと耐える時、歓ばせようと演技の叫び声をあげても、本当はいやだと感じている時の女のひき裂かれた思い、自分の無神経を棚に上げ、女にサービスを要求する男の身勝手さ、金さえ払えばこっちのものとしつこくする男のさもしさ。

 進歩的インテリが女の味方をしてくれても、血と肉の実感からずれた観念論になりがちである。無知ゆえに身勝手な庶民の男もいる。老人は懐古的で始末が悪く、若者はフリーセックスと混同して、金による性の売買という本質を軽視する。沖縄にも、売春を当たり前と思っている男が多い。琉球島うたの中にも、いやがる女のあそこを無理にのぞいたとか、もてない男がせっせと金をためて女買いにきて励んだとか、ヨボヨボ爺が処女を竹やぶにつれこんで犯したら、上と下から棒が刺さって、娘は痛くて泣いたとかいうような男中心の歌もたくさんある。島唄の名人が、それを何とも思わないのか、朗々と歌い、沖縄を愛するという本土の男の評論家が、おもしろおかしく意味を訳して活字にする。わたしはそれを読み、彼らとてどうしようもなく男だなあとため息がでる。

 売春防止法の犯罪性を売春婦の側に立って告発し、売春婦は労働者であると指摘した本も、江戸吉原のことになると芸術性を評価し、なつかしんでいるようなところがある。吉原がどんなに高度な芸術を華咲かせたにせよ、しょせん女は売りもの、男は買い手、というゆがんだ構造が基本にあったのだ。昔も今も女は解放された仕事を、たやすく持つことができないから、やむなく売春を生活のためと考えて務めているだけのこと。観音さまのようにやさしい娼婦、明るく、さわやかな娼婦、頭の切れる娼婦もいるが、それはあくまで個人的資質、その人の人格の問題で、女の性を金で売る仕組みが、彼女を素晴らしくしたわけではない。一方、エゴイスティックな上昇志向や、金権思想をもってしまう売春婦も少なくない。それを告発し、反省し合うのは、女自身でなくてはならない。買う側の男が売春婦の悪徳を言っても、それは差別と解されるだけで、女の心をゆさぶることはできない。性の売買が決して解放ではないという女の側の思想が基本になくて、現行の売春防止法が犯罪的であることを告発すると、「では女を救うために、吉原的公娼制度を復活させるつもりか」という誤解も生じかねない。いずれにしても、売春問題は、買う側になれる男にまかせておいてはだめである。

 売春婦といっても、夜ごと相手をかえる場合だけに限らない。妻、特に飽きたセックスをくり返し、夫を愛していないのに相手を変えられない妻は、実質的には最も不自然でみじめな売春婦だと思う。フリーラブの女、自立したつもりの女も、昨日は、あるいは明日は売春婦かもしれない。女たちは買春夫(男)を敵視して解放を叫べばいいというレベルの問題ではない。特に、叫べない女のために、叫んでやろうという匂いがあると、反発を買うだけである。女はすべて(自分も含めて潜在的に)売春婦であるという思いに立って、自分の性を自ら選ぶ思想の目覚めに向かう必要があろう。

 女の解放を思うなら、新しい仮説に挑戦するだけでなく、子や親のためにすすんで身を売る女の内側も考えねばならない。どんなに新しがっても、現実には、血縁は切りはなちがたくある。その現実をわたしたちは涙ながらに掘るのではなく、沖縄の女のように陽気に歌いながら何が本当かを求めてゆく。女のホーが再びものいう日を信じながら。

                              (1974年秋記)

 

3)戦争にみる女の被害と加害

 「悲しい歴史は天から降る」──戦争は、日本の民衆には天から降ったとしか思えなかったであろう。民衆はおしなべて、あの戦争をつくりだした者たちの情報から排除され、盲目にされていたのだから。

 しかし、民衆は戦争の全期間をただ受動的に、犠牲者として生き、死んだのだろうか。日本民衆の大部分は無知により、貧困によって、国家の教えた聖戦の目的を信じ、熱狂的に戦争に加わり、その結果は他民族に大きな犠牲を強い、また自分自身も悲劇にみまわれた。このような戦争史と民衆史の悲しいかかわり合いは、とりわけ女性の場合に明らかである。

 重層的な被害、加害、錯綜する犠牲を生む構造によって、戦争は民衆にとって真に悲劇なのだ。さらにまたその構造は次の戦争を生み、エスカレートさせる。そう、過去の実態をみて思う。

 

 満蒙開拓の女たち

 「赤い夕陽」の満州への郷愁(ヽヽ)を売りものにする本がこのところ急激にふえ、開拓団の「望郷の思い出集」や手記集の豪華本もあいついで出されている。昿野を駈けめぐる壮大な夢、懐しのあの街この村などのうたい文句や自讃さえこめて。

 あの悲惨な一五年戦争の発端となった満州事変とその後の植民地支配を自讃するのは大問題で、それは最近の日本の軍事大国化への傾斜とも連動していると思えるのだが、同時に、満州ものの盛行は、「満州」に生きた日本人の大多数がふつうの民衆だったこと、それゆえにこの非在の国が民衆の郷愁をかきたててやまないことを物語ってもいる。「満州」と日本人のかかわり合いの悲劇性は、実にこの点にあるといってよい。

 満州で生活した民衆は当然多数の女を含んでいた。明治初年の出発点からそうであった。維新による開国と同時に日本民衆の流出が始まったが、その先頭には、のちに満州とされた中国東北から、さらにシベリア方面にまで流れてゆく底辺の女たちの姿があった。長春、奉天、ハルビン、ウラジオストック、ハバロフスク、グラゴベシチェンスクなどで娼妓になり、やがて馬賊の女頭目やロシア軍政官の妻になった人もいる。石光真清の記録『昿野の花』などによると、彼女たちは故国から棄てられた形で暮らしながら日本の軍事探偵に協力し、彼女たちのもたらした情報は日露戦争に役立ったといわれる。

 貧苦ゆえの身売り、移住というのが彼女たちの共通項だったが、このパターンは日露戦争後も形を変えて続いてゆく。一九〇七年(明治四〇年)の満鉄設立に伴って、渡満する男たちについてゆく妻や看護婦、芸酌婦などがふえたが、これも全体としてみれば「出稼ぎ」といえる。娼妓は大陸の日本人社会でも最底辺に位置づけられた。

 一九一〇年の一〇〇万人満州移住計画から日本人の組織的進出が始まったが、その背景にも日本資本主義形成期の貧困、さらに昭和初期の世界大恐慌による末端民衆の窮乏があった。日本の輸出の大半を占める生糸の八五%がアメリカ向けだったから、アメリカの大恐慌、製糸業の打撃は養蚕と製糸工女の収入で生活を支えていた農村の窮状を深め、一九三一年、三四年の大凶作も重なって娘の身売りがふえ、失業者があふれた。

 この窮状打開とソ満国境警備の一石二鳥をねらう満蒙開拓案が国策となり、五反以下の貧農二〇〇万戸の半数移住が決まるのである。それが日本帝国にとって一種の棄民政策だったこと、少なくとも国家権力が彼らをいつでも見捨てうる存在とみなしていたことは、のちの満州国崩壊のときに明らかになる。

 一九三一年(昭和六年)に満州事変が起こり、関東軍は中国東北全土を占領、翌年、満州国をつくり、日本の大陸進出は露骨な帝国主義の色を帯びる。それは怒濤のような日本民衆の大陸移住の始まりでもあった。「娼妓、芸酌婦も満州へ押しよせ、遊廓が急増」などと当時の新聞にはある。彼女たちはおしなべて貧農、下層民の出身であった。不景気で、製糸工場が次々倒産、放り出されて満州へ身売りに渡った工女たちもいた。

 「五族協和、王道楽土」──この満州建国のスローガンを本気で信じた日本人は多い。満州事変の筋書きをつくった石原莞爾や彼に協力した協和会の人々もそれを信じていたという説があるが、最も熱烈に、無批判に信じたのは底辺の民衆だったといってよいだろう。その典型が満蒙開拓団の女たちである。貧しさゆえに無知にされ、無知ゆえに権力によって存分に利用されて加害者になり、その結果地獄の苦しみを負わされた。

 

 満州拓殖会社は満鉄所有地や無主の荒野を開拓するというふれこみだったが、すぐに収穫の期待できる土地が簡単に入手できるはずもなく、実際は武力を背景に現地人の既耕地に手を出した。その土地収奪に怒った現地農民の反乱(土竜山事件など)は必至であった。この反乱軍と開拓団の先陣の弥栄(いやさか)千振(ちぶり)両団及び関東軍の激突を、日本人は全満民衆の敵である「匪賊」との戦いだと思い込んでいた。「匪賊」は実は土地を奪われた現地民や抗日パルチザンであることをこのあと入植する民衆は知らず、そういう武装集団に対処する軍事的任務をも負わされたのだった。

 満州への進出は、このように民衆が民衆をいためる形を常に伴っていた。ヤクザを含む都市下層民が、満州では漢人、満州人などの苦力(クーリー)(人夫)や炭鉱夫を酷使したり、人身売買や連行を大々的に行なったりした。彼らはそういうことが「五族の盟主」日本人としての当然の権利であるかのように教育されていた。開拓団の農民たちの意識も例外ではない。個人的に現地の屯長や自分の苦力(クーリー)に親切な人がいたとしても、客観的立場は「盟主」であった。

 満州へ、満州へ、国策のレールに乗って日本人の移動は続いた。貧農は渡満すれば一戸二〇町歩の地主になれるといわれ、赤い夕湯や悠久の大沃野の夢を吹きこまれ、隣りも行く、親類も行くから自分も行かねばと故郷をすてて移住した。養蚕の衰退で苦しむ長野県大日向村の移住は、開拓のモデルとされ、映画や小説になり、満州熱は信州を筆頭に全国的に急激に高まった。

 移住後、話とは違う状況の厳しさに失望した人や屯墾病(入植ノイローゼ)になる人もあったが、大多数はそこを祖国と思い、開拓に励んだ。豊かな農地は既耕地だとわかったが、それを奪われた現地民が怨んでいるとは知らなかったという。

 旧弊な農村の「家」や姑舅に抑圧されていた嫁たちは、満州で初めて夫婦単位の生活、解放感を味わい、被差別部落出身者は、毛並みより能力がものをいう新天地で差別から脱け出せた気がしたという。朝鮮人は中国人より上位とされ、日本内地や朝鮮半島とは違って日本人に次ぐ受益層となった。日本国軍から満州国軍に移れば、二階級特進で、満州国軍の給料は日本人、朝鮮人、中国人の順であった。

 当時の日本女性が満州に関してどういう教育を受け、それによっていかに誤った信念と熱情を吹き込まれていたかは、例えば「若い女性が日露戦争で父の使った日本刀を満州の兄に届けた」とか「若妻が満州に出征する夫の後顧のうれいなきよう自殺した」とかの新聞、雑誌の美談からも察せられる。

 「支那人は間島四十万の鮮農民をいじめる。鮮人のためにも日本は支那を叩くべし」「敗走支那兵到る処で鮮農婦女子を虐殺。邦人婦女も虐殺──大連署に婦人の献金、慰問殺到」などと新聞は書きたてた。満州事変の翌年の国防婦人会結成は、こういう風潮に煽られたものであった。

 

 一九三七年(昭和一二年)の日中戦争開幕のころから、「大陸の花嫁」(女子開拓団員)がもてはやされる。女子拓務訓練所や花嫁女塾がつくられ、ここで皇道、臣民道を教えられた娘たちは自ら勇んで満州開拓村に嫁入った。

 「モンペりりしい野良仕度、日満結ぶ日の丸と五色の旗を組み立てて、狭い日本であがくより、胸のすくよな大原野、無二の祖国吾楽土」(「満州開拓の歌」または「大陸花嫁の唄」)のような明るく勇ましい歌や「ペチカよ燃えろ……」のようなロマンチックな歌がはやった。少女たちは開拓団の農作業を援けるために勤労奉仕隊(きんぽうたい)になり、少年たちは青少年義勇隊として入植した。

 戦争が太平洋に拡大した昭和一六年、関東軍一〇〇万の精鋭は南方に移動し、ソ満国境まじかに開拓団が次々送りこまれた。このときすでに開拓団の悲劇的運命は定まっていた。昭和二〇年八月九日、一五七万余のソ連の大軍が機械化部隊を先頭にいっせいに攻めてきたとき、一八歳から四五歳の男を根こそぎ召集されていた開拓団には防備の手だてはなかった。開拓村の婦女子と老人は大雨の中を逃避行に入り、暴徒化した現地民や満州武装自衛団に襲撃され、ソ連兵に掠奪、強姦、殺害され、さらに飢餓、伝染病、集団自決、斬り込みなどで次々死んだ。「王道楽土」は地獄に一変した。

 「いま同胞が生命を正義に記す新天地、前衛に立つ関東軍、神与の剣ひらめけば、妖魔散じてかげ(むな)し、東亜のまもり関東軍」(関東軍軍歌)なる軍隊は、開拓民約三〇万人を置き去りにして敗走した。しかも橋を壊して逃げたため、婦女子と老人は逃げ道を断たれ、渡河できずに自決したり、河に子を投げすてたり、渡河の途中激流にのまれて死んだりし、惨状は倍加した。

 現地民の襲撃は各地で多発した。鎌、鍬、槍などを使っての虐殺は、こと切れるまでの苦しみ方がひどく、半殺しにされて逃げた者も手当てできぬまま痛がり、苦しんで死んだ。あるいは襲撃の中で自決した。

 泥の中に子を産み、新生児を抱えて力尽きて死んだ母、親の目の前でソ連兵に輪姦された娘、それをみて発狂した母、泣く子に(から)の乳房をおしつけて窒息させた母、狼にくいちぎられた子、歩けなくなり懇願して殺してもらった老人たち……。集団自決で井戸にとび込んだり、小刀で首を切ったり、銃殺したりした人々。

 生きのびた人々は飢えに苦しんで草をたべ、馬の足跡にたまった泥水をのみ、やぶ蚊や虱に悩まされ、襲撃につぐ襲撃におびえながら終戦を知らずに逃避行を続けた。捕虜になって難民収容所に入れられても地獄は続いた。

 飢え、虱、発疹チフス、疫痢、ソ連兵の女狩り、強姦、犯したあとの殺害、発狂、いがみあい……。一〇月になると急転直下の寒さがきた。死人がふえ、凍りついた地面に死体を埋められずに野ざらしにした。死体のぼろ服はすぐ奪われ、肉は野犬、狼に食いちぎられた。

 極限の収容所に現地の男が食糧や衣服、薪とひきかえに女を買いにきた。当時は売買婚、一夫多妻のため中国女の買えない中国男たちが多かった。死の迫る中で家族を救うために現地人の妻となった娘たち。匪賊が来襲し、乳房を調べて若い女性をさらう。泣き叫びながら連れ去られた娘たち。さらわれるよりはと、現地民部落におちのびた女性たち。路上でさらわれた子、子を求める中国人に売られた子、あずけられた子──そういう残留女性や子ども(もう子どもではない孤児)たちは、三七年後のいまも肉親を探して泣く。あるいは探すこともできずにいる。戦争末期の混乱のなかで生まれたために籍のない子もたくさんいる。

 八路軍の看護婦や兵士、軍服つくりの女工として八年間中国に残った人々。内戦の戦闘で死んだ人、病死した人、敗走中に脱走した人、奥地の部落にかくれた人、発狂して蒙古の砂漠に消えた人……。

 奥地で現地人妻となって残留した人たちの話や手紙によれば、敗戦のためにやむなく身売りしたという出発の不幸をひきずり続け、日本人であるために苦しみ続けた人が多い。加害国民「日本鬼子」は敗戦直後に反撃を受け、批判され、日本の侵略の罪業を知らされた。「日寇」「屯匪」と憎まれる日本の、三光政策(奪い尽くし、焼き尽くし、殺し尽くす)の残虐さ。強姦、強制連行、苦役後の殺害、虐殺など含め、日本は一〇〇〇から二〇〇〇万人ともいわれる中国人を殺し、言語に絶する損害を与えたのに、賠償金を払わず、中国を長年敵視した。

 そのため残留日本人は、日本軍の身代わりに罪を問われ、だが生きることを許され、一九五六年ごろから楽になったと思ったら、六〇年代の文革で日本人は「黒五類(反革命分子)として迫害され、僻地送りや給与無配。なかにはスパイ容疑で牢に入れられた人たちもいる。加害国日本の被害者(婦女子)が日本国家の身代わりで苦労していたころ、日本国家は中国敵視を続け、この人たちは棄民されたままであった。

 一九七二年の日中国交正常化まで棄民扱いだった残留者のうち、国交回復後初めて一時帰国した人々は、超近代化した日本に驚き、昭和二一年から二八年に引き揚げた人々と自分たち残留者との経済格差、日本の贅沢さに割り切れない思いを抱く。

 帰国して日本に永住する人々、いわゆる永住帰国者は、言語、制度、習俗文化、メンタリティーの違いや、受け入れ体制の不備などで苦労している。

 残留女性が夫や子をおいて永住帰国すれば中国の家庭は崩壊する。老いた中国人の夫を連れてきても日本社会に同化しにくい。残留孤児と日本の肉親の対面までの日々も大変だったが、探し当てたあとがまた大変である。育ててくれた老いた養父母を置き去りにするのはしのびないし、連れてきても幸せとはきまらない。

 いままた日本人(帰国した民衆)が中国民衆(置き去った家族など)の加害者となってしまう場面が生じているのだが、だからといって肉親を探すな、日本に帰るなとはいえない。罪もない幼児だった人々には帰国する権利が当然ある。しかし、彼らを苦しい中で育ててくれた養父母を不幸にするのは酷である。残るも涙、帰るも涙である。

 敗戦時に中国東北地区に住んでいた日本人は民間人一五〇万人、軍人六〇万人、計二一〇万。このうち生還者一二七万、死亡確認者二五万。残り六三万の大部分はいまも生死不明である。

 悲劇は終わっていない。死者はもちろん、残留者にも帰国者にも今なお戦後は訪れていない。

 

 従軍看護婦

 「火筒(ほづづ)の響き遠ざかる 跡には虫も声たてず 吹きたつ風はなまぐさく くれない染めし草の色」という婦人従軍歌は、日清戦争中の明治二七年に創られ、昭和二〇年の敗戦まで歌いつがれた国民愛唱歌である。血染め、なまぐさい風などという歌詞が美しく胸にしみるという倒錯が戦時の集団心理の中にはあったのだろう。

 女がじかに戦争そのものに協力したのが従軍看護婦だが、彼女たちが自分の意志によってであれ、召集によってであれ、ともかく戦場に赴いた背景には民衆の熱狂があり、また、ヒューマニズムの旗手という誇りの美酒があった。

 従軍看護婦は志願と召集があり、初期には欧米風のイメージに対する憧憬も手伝って志願が多く、末期は戦闘員並みの赤紙召集になった。

 一八七七年(明治一〇年)の西南戦争後、反乱軍傷病兵をも救うために博愛社がつくられ、これが日本赤十字社のもとになった。アンリ・デュナンの敵味方ともに救うという赤十字精神、ナイチンゲール精神に触発されてできた日赤は、皇后以下皇族を名誉職にし、看護婦養成所をつくって人材を送り出し、次第に政府の国家主義、富国強兵策に組みこまれてゆく。

 日赤看護婦は日清、日露の戦争で大活躍し、一九一四年、第一次大戦では英仏露各国に従軍し、「白衣の天使」として美しく報道され、志願者が急増した。ナイチンゲールは女性の理想像とされ、修身教科書に最も多く登場した。そして、満州事変でさらに志願者が急増した。

 「支那兵の暴虐に憤慨、一日も早く女も戦地へ」「救護看護婦に採用をと、可憐少女たちも老婦人(四七歳)も嘆願」「死んだ兄の身代りに御奉公させて下さい 一日としてじっとしていられません 国家のために死にたい と血染めの日の丸、血書をそえて 連隊長も感涙」などと連日新聞は書きたて、事実、女たちの熱狂はすさまじく、制服姿の看護婦は羨望の目でみられ、一門や故郷の名誉とされた。

 一九三七年、日中戦争に突入すると、専門看護婦は前線へ出発、一般女性が看護奉仕隊として陸軍病院に採用された。翌年は看護婦不足で、普通三年間の養成期間を三ヵ月の速成で前線へ送り出す養成所が現われた。乳のみ子を置いて従軍し、張る乳をしぼり捨て、乳房を冷やしつつ軍に奉仕した日赤看護婦が美談の代表とされた。

 赤封筒入りの「戦時召集令」で、日の丸に送られて出征し、行先は教えられず戦地に送られ、任地で「軍属の宣誓」をする。その御奉公の内容は、傷兵の傷口のうじをとり、手足を切断、つぶれた眼球をとり、下の始末に追われ、自分も伝染病に侵され、最後の最後まで耐えぬくことであった。

 一九四一年国民勤労報国令が出され、一四歳から二五歳の未婚女性は勤労の義務を負わされ、出征で男がいなくなった職場に大量に出てゆく。一九四三年六月、学徒動員令で男子学徒は戦場へ、女子は挺身隊として国内看護婦や工員になる。沖縄では一九四五年、男子中学生は鉄血勤皇隊、女学生は全員、陸軍軍属野戦看護婦として召集され、死んでいった。

 沖縄の生き残り従軍看護婦の証言。

 〈風の通らぬ壕内は血の匂い、負傷兵の水、水、水という叫びで気が狂いそうだ。動けない重患には「自決せよ」の書きおきと手榴弾を残して出発。二、三分後自決の音がさかんに聞こえるが涙も出ない。

 薬品、包帯もなく、「うじが膿をとるから放置せよ」との命令。兵隊の大便と尿をとるのが主な仕事。水をやると出血するというのでやらないでいると、足をつかまえて、水、水とうめいて離さない。爆撃で水も汲めない。次々に死んでゆく。死体は硬直してから運ぶのだが、大きな男は重くて持てないので引きずって外へ出し、夜中に埋めるのだが、疲れて手が動かぬ。親友の看護婦が銃弾で両膝を貫通されて動けず、移動命令で置き去った。……〉

 「郷土部隊看護婦」の名で、ソ満国境の虎林の病院に赴任した一女性は、兵隊と同じに銃剣術、機関銃射撃などの軍事訓練をさせられ、傷病兵看護にも追われ、憲兵や将校の引き揚げたあと兵を護送する途中、ソ連軍用機の機銃弾をあび、戦車砲に追われた。一九四六年に八路軍の捕虜になり、中国内戦の従軍看護婦として八年間戦場を転々とした。

 彼女は記している。

 「兵と同じ赤紙一枚で、二人の赤ん坊をのこして出征したのに、敗戦後、国からもらったものは自決用の手投げ弾と青酸カリ。帰国後、国の保障を訴え続け、昭和五四年にようやく『慰労給付金』少々を支給されることになった。戦後三四年、あまりに遅きに失したが、戦場で失った青春の代償が少しでも認められたかと思うと、辛苦に耐えた日々があらためて脳裡をよぎるのです」(日赤新聞より)

 日赤従軍看護婦が公平無私で、将兵を階級で差別せず、朝鮮人や慰安婦にも親切で、死の迫る状況にあっても傷病者に尽くしたという証言がたくさんある。人間として立派だった看護婦は多かったにちがいない。それゆえにこそ彼女たちは戦場で辛酸をなめて死んでいったわけで、その意味では従軍看護婦は明らかに戦争犠牲者である。だが同時に、その「天使」のイメージで戦争美化の宣伝に間接的に手を貸し、さらに直接的にも、前線の看護活動を通じて侵略軍の強化に協力した。また「生きて帰って下さい」と兵たちに言うことができず、結果として「名誉の戦死」を美化する軍の方針に奉仕したこともいなめない。

 生き残りの従軍看護婦の多くは述懐する。「あんな戦争になるとは夢にも思わなかった」と。しかし同時に、彼女たちは過去の看護活動への一抹の郷愁を示すのである。悲惨の極限を体験しながら「わが青春に悔いなし」と言う人もいる。「夢中で看護したあの日々を思い出すと、充実していたという感慨が湧く」と言う人も。

 自己の善意を疑わない人にとって、過去は──とりわけ青春は──いかに惨苦と汚辱に満ちていても懐しい。これは善良なる民のごく自然な感情である。彼女たちは戦争を懐しんでいるのではなく、彼女たちが人道行為と信じたもの(ヽヽヽヽヽ)に捧げた青春を懐しんでいるのであろう。実は、そこにこそ陥穽がある。

 戦争が「聖戦」──ヒューマニズムと正義のための戦争──と錯覚されるとき、ヒューマニズムや正義感の持ち主は、戦争に人一倍熱烈に協力し、そのことによってアンチ・ヒューマンで非道な結果を招く。真実から遠く隔離された民衆の善意は、しばしば罪業を生むことを忘れてはならないと思う。

 

 従軍慰安婦

 従軍慰安婦とは第二次大戦中に日本軍が将兵の性欲処理に使った女性のことで、戦場における将兵の極度のストレスを緩和し、占領地民衆の反感をかきたてる強姦を減らし、合わせて軍隊の戦闘力を弱める性病の蔓延を防ぐことが目的とされた。総計十数万から二○万人いたといわれるが、実数はわからない。

 「将兵の士気を鼓舞せしめ、聖戦完遂上欠くべからざる兵器(ヽヽ)」として酷使された慰安婦は、おおむね病気、飢餓、自決、殺害などで死に、生存者はごく少ない。

 世界戦争史上に類をみないこの制度は、日本軍上層部、売春業者、朝鮮総督府などの秘密裡の協力で実施され、これが本格化したのは、中国大陸での戦闘が激化した一九三〇年代末である。南京攻略での中国人虐殺、強姦のすさまじさには日本軍司令部もあわて、急いで直営慰安所開設を決め、売春業者に大金を与えて一九三八年一月末に一〇四名の女性を集めた。二四人の日本人はプロで大半は性病の経験者だったが、八〇人の朝鮮人は全員病気なしで、痛々しい少女が多かったという。

 その後、戦火の拡大につれて満州、中国、東南アジア、南洋諸島など、戦場のすみずみにまで慰安所──軍直営と民間のピー屋(売春宿)──がつくられた。例えば一九四二年のマニラ占領のさいも、日本兵による強姦が多発したので、軍当局は接収したホテルを慰安所とし、急遽一〇〇人の女性を調達した。

 慰安所の設置は、攻め入る所に次々と、ガダルカナルやニューギニアにまで及んだ。戦争難民を含む討伐地域の女性もしばしば慰安所に囲われ、中国ではおおむね軍が強制連行、東南アジアでは金や食物で雇用することが多かった。戦争末期には現地調達がふえ、慰安所は捕虜のオランダ、アメリカの女性まで加えて、しばしば人種展覧の様相を呈したという。

 慰安婦の八割強が、一七歳から二〇歳の朝鮮女性で、これは日本人の場合と違って強権による徴用であった。日中戦争が始まると、日本政府は「日本臣民の一員たることを謳歌せしめ忠誠心をさかんならしむるため」朝鮮人の男を大々的に徴兵、徴用したが、それは未婚の朝鮮女性が「特殊任務」(性的慰安)に大々的に狩り出される悲劇の始まりであった。

 日本人慰安婦は前借金の棒引きという代償で軍の徴募に応じたプロの売春婦が多かったが、朝鮮人の場合は処女を挺身隊や従軍看護婦の名目で元手なしで狩り集めた。連行した少女は将校が水場げするか、()り手婆が性行為をむりにしつけ、「金を稼いで親孝行」を説き、滅私奉公、日本臣民道、大東亜共栄圏などの言葉を教え、食費、衣料代、運賃などに金利を大きく掛け、その金を軍票(金)の稼ぎで返済させた。

 千田夏光『従軍慰安婦』正続、金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』、山谷哲夫編『沖縄のハルモニ──大日本売春史』などに詳しく記されているが、慰安婦の「作業」(セックス奉仕)時間は普通一日一二時間位、兵隊一人当たり三〇分間以内。休みは日本人は週一度、朝鮮人は月一度位、中国人はナシ。帰郷や文通は許されなかった。部隊や状況によって違うが、「朝鮮ピーはニクイチ」といって、一日約二九人との性交をノルマとしたが、ときには一日一〇〇人以上、三〇〇余人との性交を強制された例もある。彼女たちは性器がはれあがり、性病、慢性便秘症、乳房疾患、胸部疾患、南方ではマラリヤなどが多く、不治になると放置され、たいていは本名不明のまま死んだ。

 一九四一年、対ソ決戦を予定して召集した三〇数万の兵に合わせ、朝鮮の女性一万人を狩り集め、臨時列車でソ満国境部隊に配給した。娘の供出をことわった家は非国民よばわりされ、過酷な作物供出が割り当てられた。

 一九四三年五月のアッツ島全滅以後、朝鮮女性狩りは激化した。睡眠中や野良仕事中でも徴用令状一枚でトラックに乗せ、挺身隊の日の丸鉢巻きをしめさせた。家族と別れの挨拶もできずに連行され、輸送列車からとびおりて死んだ娘、輸送船上で性交を強要されて太平洋にとび込んで死んだ娘などがいた。

 徴用を忌避して山中にかくれても、報償金つきで密告させたので、朝鮮の村々では少年少女の早婚がふえた。五体満足の男は連行、徴用されて、すでにいなくなっていたため、病人、廃人などとむりに結婚して徴用をのがれ、そのことで苦労し続けた女性たちも多い。

 日本国内の売春婦のなかにも貧困の朝鮮女性が多かった。その国内遊廓は、軍駐屯地を除けば、労務調整令や物資統制令による客足の激減と物不足でさびれ、そのため多くの娼婦が軍慰安婦に転じたことも無視できない。

 戦場心理は他者への優しさを奪う。中には軍票を渡して性交しなかった兵、故郷の話をしにきた兵、何人かで連帯して弱い慰安婦を守った兵、敬礼して抱いた兵もいたというが、行列をつくって押しかける兵士たちの大多数は女性の痛みを忘れた性的動物以外の何ものでもなかった。とくに戦闘直前と直後の行為はすさまじく、軍靴をつけたままの兵をひきもきらず乗せることも多かった。

 三〇〇余人乗せ続けた慰安婦は、便所にも立てず尿はたれ流し、大便はがまんした。行為中におにぎりを頬張り、吐きそうになってのみくだし、やがて頭はもうろうとなり、間違えて肛門に入れられてもそのまま射精させ、意識不明になると軍票をごまかされたという。

 「突撃一番」という兵士用のコンドームを使わずに入れられた新入りの娘は子を産み、赤ん坊を押入れにかくして性交労働を続けたとか、兵隊にゴボウ剣をつきつけられた朝鮮人慰安婦は「同じ天皇陛下の赤子(せきし)だ。陛下は赤子に乱暴していいと言ったか」と叫んだとか……。そういう非人間的境涯に耐えぬいた女たちは、さらに日本軍最後の死闘で地獄につきおとされた。

 敗走する日本軍は慰安婦たちを守りはしなかった。インパール作戦失敗後のビルマ戦線では、彼女たちは血肉の犠牲で得た大量の軍票を、すでに無価値になったと知らずに荷造りして頭にのせて逃げた。苦難の逃避行を続け、渡河のときはその軍票の重みで水死した。この種の目撃談は、東南アジアから中国東北の全戦場で枚挙にいとまがない。

 壕に入っているところを日本軍指揮官に爆弾を投げこまれて始末されたり、重い病気で動けなくなって毒液注射で殺されたり、飢餓の極限で、兵士たちの食料としてその人肉をねらわれたり……。かろうじて生き残った慰安婦も、例えば満州では、ソ連兵の女狩りの際に身体を渡して避難民の防破堤にならざるをえなかったという。

 悲惨な境涯にありながら多くの慰安婦が他者への同情心、共感を失わなかった、彼女たちを道具視する兵士たちに対してすら。例えば、突撃や特攻で死地に発つ兵に同情して頑張りすぎたために性器が痛んでついには変型してしまった人、戦死者たちの位牌を紙でつくって手を合わせていた人、恋人ができ(禁じられていたが)他の男と寝られなくなり自殺した人……。

 しかし悲惨における平等はありえない。将校の機嫌をとって妾になりあがり、部下の兵隊や他の慰安婦をいじめた日本人慰安婦もいたし、()り手婆になり、新入り少女をしごいた日本人慰安婦もいた。朝鮮人と日本人の慰安婦は現地徴集の慰安婦を一致して蔑視した。女たちは値段や待遇の格差を当然のこととし、むしろそれを助長させた。そういう内部的な差別の仕組みは、不自然な境涯を強いられた彼女たちの悲劇をいっそう強めたであろう。

 従軍慰安婦とは民衆(兵士)による民衆(女)の性的奴隷化であった。死によってのみ脱することのできたその奴隷の奉公は、権力(軍部)の意図した通り、将兵の反抗と凶暴化を防ぐのに役立ち、敵国民衆に対する宣撫工作を多少容易にした。同時に、強姦を減らすことで「敵国」の女性の悲劇を多少とも防いだ。その恐るべき二律背反の世界。この二律背反の役を負わされた彼女たちを加害者だったと誰が責められるだろう。

 

 沖縄戦の女たち

 一九四五年(昭和二〇年)三月~六月、第二次大戦終了直前の沖縄戦は、日本国土で戦われた唯一の地上戦で、住民も戦闘員並みに戦った稀有の死闘であった。しかも沖縄は海以外に逃げ場のない文字通りの「島」であった。だから主戦場となった本島中南部と付属の島々の民衆が丸ごと死地に追いやられるという世界史にも余り例のない大惨事となった。

 海上兵力を含めて五四万八〇〇〇人の米軍と、一一万余人の日本軍の死闘のあと、砲爆撃で全く姿を変えた不毛の地を二四万五〇〇〇人の日本人の死体が覆った。そのうち、一五万余は、本来は非戦闘員の一般住民であり、沖縄県民総人口(先島諸島を含む)の三分の一が死んだ。

 一九四五年の初め、本土への疎開船が撃沈され、島に封じ込められた住民に、その年の三月、一五歳から四五歳の総動員令が出された。これは全県民に「玉砕」を強いるものであった。

 まもなく一五〇〇隻もの米軍艦が本島東方の海面を埋め、猛烈な艦砲射撃と爆撃が始まった。三月二三日、米地上軍は本島南西の慶良間諸島に上陸。ここは特攻隊基地だったが、隊員の大半は米軍上陸直前に移動し、軍徴用の朝鮮人軍夫(労務者)六〇〇人と島民が残されていた。これでは戦えないが降伏は絶対しないというのが当時の島民心理で、これは沖縄での徹底した皇民教育の成果といってよい。その結果は集団自決であった。

 生き残った島民によると、「生きていても外人に目や鼻をぬかれて殺されるから皇国の勝利を祈って全員死のう」と村長が拶挨し、巡査が手榴弾の使い方を教え、島民たちは「天皇陛下万歳」を三回となえて信管をぬいた。次々頭や手足がふっとんだ。死にきれぬ者はうめき苦しみ、歩ける者は山をおりかけた。すると別部落の団に自決を迫られ、またみんなで自決を試みた。身内を鎌や鍬や(なた)などで殺してゆく。「死にたくない」と泣き叫ぶ小学生をおさえつけて鉈を打ちこみ……村でただ一人の医者は小刀で八人の家族の勁動脈を切り、最後に自分を刺して死んだ。

 四月一日、米軍は本島中部西岸に上陸した。日本軍はこれを内陸部に誘いこんで大出血を強いる作戦をとったが、これは人口の最も多い本島中南部の完全焦土化、一般住民の一〇〇%の戦闘参加を意味した。

 両軍の砲弾、とりわけ米軍の圧倒的火力は、戦闘員と非戦闘員の区別をしない。唯一安全な道は日本軍から離れることだったが、住民は「無敵皇軍」を信じて部隊と行動をともにしがちだった。北部への疎開は、三月末日に日本軍によって禁止されていた。県下七つの女学校の生徒は従軍看護婦として挺身し、洞穴への火焔放射などで殺され、あるいは自決した。ひめゆり部隊、白梅部隊などの女学生の悲劇は詳述するまでもない。

 伊江島では女子救護班員が斬込隊に志願し、乳のみ子を背負った母までが爆雷を抱いて突撃して死んだ。本島南部では米軍の降伏勧告に従わず、断崖から海へ次々身を投げた。日本軍の組織的抵抗は、六月二三日の牛島司令官の自決で終わったが、敗残将兵と一部住民は戦い続けた。

 久米島では六月二六日の米軍上陸直後、住民二〇名が無実のスパイ容疑で日本兵に虐殺された。日本兵による住民殺害はこのほか方々で起こった。それでもまだ神国日本の勝利を信じ、山中にひそんで抵抗を続ける住民たちがいた。四等県といわれて差別されてきた沖縄の人々は、立派な日本人として認められようと徹底した殉国の態度をとったのである。

 当時の沖縄の女性は、第二次大戦末期の民衆の悲劇のあらゆる側面を体験した。満蒙の逃避行に似た敗走。サイパンやテニアンなどと同じ玉砕戦法。また、沖縄には従軍看護婦や慰安婦の悲惨もあった。

 沖縄は準外地扱いで、慰安所が設置された。那覇の辻遊廓全部を慰安所にするのを拒むと、「朝鮮人すら頑張っているのに、沖縄人はだらしがない」と女性の供出を強要された。慰安所のチケットは、高小を出たばかりの少年軍属(弾丸(たま)運び)にも配給され、少年たちは慰安所前に長い行列をっくった。空襲になっても慰安婦には避難命令が出なかった。

 この沖縄戦は生きのこった県民に戦争は二度といやだという反戦の心を植えつけた。だが、戦後の沖縄の現実はこの願いを裏切り続けた。朝鮮戦争を経て沖縄の戦略的利点を痛感したアメリカ政府は、日本の独立とひき代えに沖縄を日本から離して自国の施政権下に置いた。軍政であった。

 そして一九六五年、ベトナム戦争への米軍の直接介入と同時に、沖縄は「太平洋のキーストーン」として核ミサイルを含む極東最大の軍事基地となった。ベトナムで戦った海兵隊員やグリーン・ベレーはすべて沖縄を通過し、沖縄から飛び立った爆撃機B52はベトナムに爆弾の雨を降らせた。大量のベトナム女性に奇型児出産を強いた米軍の化学兵器も、主に沖縄経由で運ばれたといわれる。

 その沖縄の人々は、基地に依存することで生きるしかなかった。軍労働者と基地周辺の売春婦の群れは、六〇年代後半の沖縄の立場、構造をもろにあらわしていた。沖縄売春婦は、事実上米軍の慰安婦役をつとめ、全軍労の女性も心ならず米軍強化の役を担い、その米軍はベトナムの民衆に史上空前の苦痛を与えたのである。

 沖縄の人々は懸命に抵抗した。全軍労のストなどの抵抗の根っこには常に女性たちがいた。五〇年代の米軍の土地取り上げに最も強く抵抗したのも女性であった。この抵抗が一九七二年の日本への施政権返還を米国に強いたのだが、しかし巨大な日米権力複合体は、「祖国復帰」から「反戦」の実質を巧妙に抜きとった。在日米軍基地面積の五三%(機能では八〇%)に及ぶ基地が沖縄に残った。加えて自衛隊が駐屯した。

 沖縄は潜在的には、まだ戦地であり、同時に他国にも戦争の危険性を与えつづけているのである。いやでもそこに生きなければならぬ民衆、とりわけ女たちの生は重い。

 一九四四年六月に軍上層部は「日本敗北、大勢挽回の目途喪失」と予測したのに戦争をやめなかった。そのためにフィリピン、ビルマ、ニューギニア、硫黄島、沖縄、本土大空襲、「満州」、原爆と悲劇は続き、第二次大戦における三〇〇万人の日本人戦死者の半数以上、一六〇余万の命を敗戦直前の一年間に失った。アジアと太平洋地域の民衆もその何倍か死亡し、連合軍の兵も大量に死んだ。

 軍上層部はなぜすぐに降伏しなかったのか。その時はもう国民の死にもの狂いの熱情をおさえようがなかったというのが、戦争続行の理由の一つであったという。敵軍撃滅という偽情報を国民に流し続けて煽動しながら何をいうか、と怒りをおさえがたいが、国民(女も)が戦意に燃えていたのは事実であろう。

 男は好戦的だが女は平和を守るという図式は、あの戦争では成り立たなかった。戦争になれば女も男もない。反戦者、戦争非協力者の声も圧殺された。いま、反省をこめて「女も戦争に加担した。女も加害者だった」と言う声が、戦争をくり返すまいとする女たちからあがっている。一般に、被害者意識にだけとらわれている人は、自己の責任をとらず、また加害者とされる他者を責めるあまり、逆に意識せざる加害者になりかわる場合が多い。だから自己の加害責任を自覚することは、今後をあやまたないためにも、民衆同士の無用の対立を避けるためにも必要であろう。また日本国の侵略(加害)を日本人として認識する必要がある。

 だが、生き方、死にざまを自分で選ぶことのできなかったあの頃の女民衆を加害者といい、彼女たちすべてに加害責任の自覚を強いるのは酷である。女が力をもたぬ女を加害者だったと強調する行為は、民衆の反感と拒絶をもたらしがちで、自己批判の意図に反して戦争協力の反省が十分に行なわれないことになる。

 民衆の立場、状況は加害×被害の二元対立図式ではとらえられない。現実の、重層する加害、被害は、分けてみても玉ねぎの皮むきにひとしい。戦争をくり返さないために、むずかしいことであるが、何とか現実の場で、加害×被害の図式を超えねばならない。加害×被害、差別×被差別などという残虐な論理こそが戦争を生む論理(構造)なのだから。いま必要なのは、戦争を起こし、その遂行に民衆を協力させた物心両面の仕組みを、過去と現在の事実に即して明らかにすることが必要であろう。戦争期の民衆の姿を民衆自身が証言し、記録する作業が大切であるが、記録・証言だけで終らずに、戦火を生み出す現代文明のありようを厳しく問い、全民衆の共生に向けて現状を改めてゆかねばならないと思う。

                             (1982年2月記)

 

4)女が笑えば

  ──救世の武器として──

 

 やることいっぱい。持ち駒たくさん。共同行動つみかさね、敵の攻め手をよく考えて、味方の弱味を忘れずに、追い追い出てくるはかり事。三人よれば文珠の知恵。万人よれば饅頭の知恵。なかのアンコが月満ちて、十月十日のそのあした、いよいよとび出す直接行動。さあさあそれではイザ出陣。ちょっと待たれい、あわてるな。まずは出てくるびっくり漫才。花の応援団の勢ぞろい。エイエイオウのかけ声で、ひろげる問答あれやこれ。鬼さん出るか、蛇がでるか。お代は見てのお楽しみ。ヘソの茶釜で湯を沸かしゃ、電気コンロはいりまへん。……さあ、はじまり、はじまりい。

 と言ったような掛け合いで始まる漫才を創り、演ずるは、大阪の「なにがなんでも原発に反対する女たちの会」の女たち。漫才や寸劇の名演技で、原子力発電のおそろしさや原発に反対するため電気代を不払いする方法などを人々に知らせ、デモではシュプレヒコールや言いたいことをアドリブでリレーし、替え歌や新曲を披露する。

 「市民のみなさん、今日のデモは私たちを守るおまわりさんも一緒です。このデモはあくまで非暴力直接行動でいたします。どうかおまわりさんも興奮せず、非暴力でお願いします」

 「写真を撮っている私服さん。アルバムに入れたいと思いますので、写真のネガは全部こちらにお渡し下さい。さもないと肖像権の侵害となります。無断撮影は告訴されることがあります。さあカメラをしまって、いっしょにデモりましょう」

 「関電のみなさん、ごくろうさん。そんなにこわい顔せんといっしょにデモやりまひょか。死の灰つくる犯罪行為をとめるため。……そのうち原発大事故で、会社つぶれてえらいこっちゃ。つぶれるばかりか地獄行き……」

 などと、歌うようなシュプレヒコールを繰り返しながらデモ隊は天満橋を渡る。

 デモ隊が百貨店前にさしかかると、上空から紙吹雪が舞い散る。私服が百貨店の屋上にかけつけるころには、ビラ爆弾を投げた誰かさんはすでに群衆と共に拍手している。関電ビルにさしかかると隊列はストップする。かけ寄るおまわりさんたちの前で、女たちは道に敷物をひろげ、ゆっくりと赤ん坊のおしめを取り替える。お腹の大きい女はどっこいしょとひと休み、託児係の男たちもひと息入れる。おまわりさんは足ぶみし、ついに怒鳴る。

 「もうええやろ。はよ動かんと交通妨害や」

 女たちは笑ってとり合わず、さて今度はいくつもの列に分かれて少しずつ少しずつ進む。そして一斉に叫ぶ。

 「また、ちょいちょい、やってくるでえ」

 「さいなら、さいなら、お名残りおしや。関電さあん、原発やめへんかったら、電気料金払ろたれへんよう」

 またある時は、不払い連のびっくり講座。京大、ハーバード大、プリンストン大をへて、アメリカ原子力委関係につとめて帰国し、いま原子力文化事業団に関係するA氏から推進派の立場を聞く会。スーツにネクタイ姿で、A氏になりきったBさんの十数冊の専門書を読破しての講演はなかなかのもの。だが、途中でどんでんがえし。

 またある時は、デモの申請を数ヵ所で出し、電話で口々に大量デモの相談をする。それを盗聴した警察は、大量の機動隊を繰り出して待ちかまえるが、そこに現われたのはチョビチョビのデモ。本隊は予想外の所に現われ、陽動作戦に大笑い。ある時は白い割烹着にタスキがけでビラを配ると、愛国婦人会だとオジさんたちにほめられたり……。

 

 昨年の春、わたしは大阪の知人に電話し、天王寺の歩道橋で待ち合わせの約束をした。取材旅行のついでにお喋りをしようという軽い気分で天王寺に向かった。列車の事放で一時間おくれたので「お待たせしました」と大声で挨拶して駆けよると、十何人もの男女が一斉にこちらを見た。次々に挨拶をすると、「この人たちには頭下げんでよろし」とF子さんがいう。バラエティーに富んだ身なりの男性諸氏は警察の私服さんであった。

 わたしとの電話が盗聴され、スリーマイル島の原発事放にひっかけて街頭行動をする計画が伝わってしまったらしいと聞き、冷や汗がでた。しかし彼女たちは陽気だった。

 「遅れたおかげで一時間よけいに、通行人にこれ見せられてよかったわあ」

 と、原発事故のおそろしさを背と胸に記した紙の服を示す。

 翌日は大阪駅前の百貨店屋上からビラ吹雪を降らせた。NHKや新聞社がかけつけ、カメラをむける。下で見ていたら、一番のりの男が地面に両膝をつき、落ちたビラの文字を撮影している。何と熱心なカメラマンだろう。激励しようとわたしは近寄った。ところが彼は私服さんだった。

 「大阪の天気は雨、ところにより紙吹雪となるでしょう。……十センチ四方のビラが大量に降り出し、駅前上空はにわか吹雪。……このビラの問い合わせは441の8821」という翌朝の新聞記事に載った電話番号は、何と抗議先の関西電力のもの。ビラの文句は十二種類、そのひとつを紹介すると、

 「前の戦争で原爆落されて何十万という人たちが殺された。うちのお母ちゃん、つくづく思うたんやて、国の言うこと信用してついていくと、ろくなことあらへん。もうだまされへんぞうって。でも、お母ちゃんもうちもまただまされてるんとちゃうやろか。平和利用やなんて言葉にごまかされて……」

 その大阪行きのとき、わたしは胃を痛めていたのだが、大阪の女たちと大声で笑ったり、胸がどきどきしたりしたら、食事がおいしくて、夜もすとんと眠れた。笑いは何よりも治療だと実感した。

 

 感情量の多いわたしは、怒り、泣いたための失敗が多く、過ぎること(ヽヽヽヽヽ)の悲哀を味わってきた。恥ずかしい話だが、怒り心頭に発し、男に噛みついて傷を負わせたり、声も涙も渇れ果てるまで泣き、いつもの顔に戻るのに一週間もかかったり、心労で胃を痛めたりした。怒りや悲しみはもうたくさんだ。笑って生きたいとつくづく思う。しかしいまのわたしは笑い方が中途半端である。だから笑いを切望し、笑話や喜劇を好む。

 昔の笑話を読んだ。女の屁の話がたくさん出てきた。

嫁が来て三日目、顔色が冴えないので、姑がわけをきくと、屁が出たいという。屁くらい遠慮するなと言われ、それではたれますから臼につかまって下さいと言い、庭へ出てぼかんと一発たれた。とたんに姑は臼とともに天井にふき上げられ、怪我をしてしまった。息子が帰宅し、親を怪我させる嫁は離縁だと言い、実家に送ってゆく。途中、峠で七人の牛方が梨の実を落とそうとして落とせないでいた。嫁はそんなの屁でもないことだと言い、屁の力で全部の実を落とし約束通り牛方たちの荷を手に入れた。これをみて息子は、宝嫁だとつれ戻り、屁をたれる丈夫な小屋を建てた。これが「へや」のはじまりである。

 人前で屁もできない女の抑圧状況に対する反逆か、女のかくされたエネルギーの表出か、ともかく屁こきあねさの話は細部や筋の違いはあるが、全国各地に残っている。わたしは全国各地の屁こきあねさの結集を夢みる。彼女たちのガスの圧力でエネルギー危機がのりこえられたらと思う。

 もともとわたしは喜劇が好きなのだが、残念なのは、大衆に受ける女の喜劇役者が極端に少ないことだ。チャップリン級、エノケン級の大スターの映画には女優も出ていたが脇役だった。飯田蝶子とか樹木希林のような女優も喜劇の大スターとは言いにくい。落語でも熊さん、八さんは男だ。長屋のおかみさんは男のおかしさの盛り立て役である。

 漫才では、女と女、あるいは女と男がかなりきつい掛け合いをやるのだが、女と女の場合は、一方が男っぽい役柄で、男女の平均的関係──男上位──を基本にしている。舞台の上では女か、女っぽい側が強くて、弱きが強きをコケにしたり、どやしたり、差別したりする。

 しかし、このような漫才でも、客を笑わせる仕掛人は男である。日ごろ威張っている者が、弱者にやっつけられる場面は、たしかに一時の慰安としてはおもしろい。地位の逆転は喜劇の一要素にはちがいない。けれども、それは舞台の上だけのこと。ほんとうに強者のコケンをたたきのめすものではない。現実に地位の逆転がありえないという前提があるからこそ、こういうものが受けるのだ。フィクションとしての地位の逆転が売りものになるということは、女にとっては悲しいことなのだ。実生活の中では、男が笑い、女が泣くことがまだあまりにも多い。男が笑わせ、女が泣かせることも。

 反逆、反骨の表現と言われたりもする川柳や狂歌の世界でも、女の作者が俳句や短歌に比べ極度に少なく、女の作には悲哀がこもっている。新興川柳の祖とされる井上劔花坊の妻で、反戦川柳作家の(つる)(あきら)をかばい通した女丈夫の井上信子の川柳でさえも悲しみの匂いが強い。

  いつぱいの力で咲けばすぐ剪られ(大正一三年)

  囚人のように生きてる女同士(大正一五年)

  厖大な男に輸血恵まうか(昭和六年)

 「国境を知らぬ草の実こぼれあい」という彼女の川柳はわたしの好きな句だが、これは俳句と言った方がよい。

 むろん例外はあるが、いまも女は笑わせるより、泣かせる存在である。しかし、女は本来ユーモアの欠如した動物だから笑わないのではない。笑い、笑わせる能力を十分持っているとわたしは思う。

 

 鯨の研究をしている友人の話によると、クジラは笑うし、笑わせもするという。クジラは脳髄の重量、容積が人間に匹敵する動物だから、笑いのような高級かつ広域の心理の表出ができる。人間の女の頭脳の働きは男に比べればクジラのそれに近いのだそうだ。

 男は長らく競争や公的責任を強いられ、また現代の管理社会であくせく生きているために、意識領域だけが異常に発達し、その結果、人間の内的自然そのものというべき広大な意識下領域を眠りこませてしまった。情念や感性をマヒさせてしまった。男──現代人──の脳味噌は末端が異常に発達し、全体性を失っている。あくまで比較の問題だが、女は世渡りの才を必要としない従属的立場におかれてきたため、それに何よりも生命を生み育てるという最も人間的な行為をしてきたために、理屈は苦手でも、情感は男より豊かに息づき、意識下領域も活性を保っているという。

 クジラも近代的捕鯨技術に対抗するような能力はないかわり、意識下領域を原初の時代のままにいきいきと働かせ、感性のみずみずしさを失っていないというのだ。大脳皮質がどうとかいう解説は忘れたが、この話は全体としてわたしには共感できる。クジラを獲る時は、まず子クジラに銛をうつ。すると、母と父は泣き、子のそばを離れようとしない。だから母、父にも銛をうてば、家族全部が獲れる。血の海で泣き叫びながら殺されるクジラの声が耳から離れず発狂した銛うちがいたというが、子を殺されて泣き、子を深く愛するあまり自分も殺されるクジラの心の痛みを思うと、わたしもいたたまれない思いになる。

 女は本来なら、ロゴス人間のお化けのような男とよりは、純粋に泣き、笑うクジラと波長が合うにちがいない。ほんとうにクジラの感性と交信し、いやクジラだけでなく生きとし生けるものすべてと交信し、共鳴りできるようになれば、人間の笑いもおおらかそのものになるだろう。いまも地方、沖縄などでは、美しく、活力のある女の笑顔がみられる。彼女たちは厳しい状況の中で生きぬくために笑うのである。

 

 女の笑いといえば、わたしはすぐに天鈿女命(あめのうずめのみこと)を思い浮かべる。彼女は日本神話の中で最も活性のある女神で、古事記によれば、岩戸にかくれた天照大神(日神としての女神)を招きだすために、石窟の前で裸で踊り、男神たちを大笑いさせた。うずめとは強女の意味で、彼女の子孫は猿女を名のり、鎮魂の司祭となった。お多福は彼女を表象したものと言われる。

 古代の女文化の時代の活性は、中世には歪んだものとなる。室町の「狂言記」では、女は男にとってやりきれないものとして嘲笑されている。妻は嫉妬深く、醜く、夫を辟易させるもの、妾は虚偽で男を寵絡するものとして描かれ、それに悩まされる夫をからかう話がくり返し語られる。この系譜は江戸落語にも流れている。

 江戸の歌舞伎、浄瑠璃などでは、女は泣き、怨む存在である。幽霊はいつも女である。お岩やお菊のように。彼女たちは「うらめしや」というが、これは同情を求める泣き声なのだ。その声のかぼそいこと。彼女たちの怨念は常に個人レベルで宙にさ迷い、坊さんの供養の声で消え去ってしまうのだ。こういう幽霊には中世の「鬼女」のエネルギーは感じられない。

 日本の幽霊──怨む女──は足を持たない。自前の足で歩かない女はいまもたくさんいる。足のある笑う幽霊の方がおそろしいとわたしは思うが、日本ではまだお目にかかっていない。

 戦後の日本の女は怒りを表出するようになった。戦前は運命として諦めることが美徳とされたが、戦後は社会や他人のせいにするようになった。それについては批判もあるが、女の怒り、とくに公憤は、女にとって悪いことではない。「泣く女」から、「怒る女」になったのは前進とも言える。しかし、いくら怒ってみたところで状況が大きく変わるものではない。わたしの体験では、怒りだけでは弱い。相当に悪知恵の発達した男たちは、怒られても、謝ったり、なだめたりしてごまかす術を心得ている。怒りは最も単純な感情の一つで、あまり持続性がない。わたしは身近な男に激しく怒りをぶつける癖があるのだが、相手が穴にでも入りたいような表情で詑びを入れると、何となく許してしまう。彼らは自分に非がなくても、謝ることでその場をうまく処理するすべを心得ている。

 女は怒りによってある種の権利を得たが、それが世の中をほんとうに変える要素になるかどうか。もしも怒りで得た女の権利が、単に男の側の詑び状と些少の慰謝料にすぎないとしたら、大臣たちの形ばかりの陳謝や予算修正で政府追及の手をゆるめる野党みたいなことになりかねない。実際、ハードな男の論理の支配するこの世の構造は、ほとんど無傷で残っているのである。

 戦後に女の獲得した権利はそれなりに貴重であるが、表面的権利だけを追い求めていると、本土並みの法的権利を代償として全国の米軍基地の五三%の基地を押しつけられた悲劇の沖縄と同様に、女が男の論理に取り込まれてしまう恐れもある。せっかく女の側の尖兵として男の世界に入っていった人が、早くも男の論理のとりこになり──管理する側の手代として──弱い女に臨む気配もないとは言えない。

 

 ハードな論理で動く社会は、危機になればなるほどハードな体質を強める。エネルギー問題、地球規模の環境被壊、スタグフレーションの進行が生み出す「八〇年代の危機」に、この競争と管理の社会は、競争と管理を強めることで対処しようとする。その兆候が最近の「新しい冷戦」だろう。論理そのものを、──文明のあり方を──根本的に変えなければどうにもならないと思う。そのための女の武器の一つは、笑いではないだろうか。

 笑いはいろいろある。従来の喜劇の笑いのほとんどが、男のつくり出した仲間うちのカタルシスであって、支配し管理する側には蜂に刺されたほどの痛みも感じさせない。諷刺マンガや差別漫才などによる笑いも、同じ仲間うちのもので、苦笑を誘うだけのものが多い。

 わたしの望む女の笑いはそんなものではない。抑えられてきた女の活性を体内から、心理の深層から一気に解き放つような笑い、おおらかさが同時に底知れなさであるような笑い、これまで女が背負わされてきた一切の負の情念を塗り込めてなお人間の生の希望を示すようなトータルな笑いである。

 とは言え、そういう笑いをいますぐ笑うのはむずかしい。どんな笑いであれ、弱いものが笑うこと自体がむずかしい時代だ。けれど、むずかしいからこそ笑いたい。神経が細く、心労の多いわたし自身のためにもそう思う。媚笑(ヽヽ)はいやだけれど、哄笑、冷笑、嘲笑でも、アハハ、イヒヒ、キャッキャッでも、抑えずに笑いたいように笑えばよい。怒りをなだめることはできるが、笑いをなだめるすべはない。わたしの友人によく笑う男がいる。こちらが筋の通らないことをしても笑ってたしなめ、怒っても泣いても笑う。彼は実に扱いにくい。殴ってほしいと思うくらいだ。

 むろん、こういう男は例外で、男一般は笑いを忘れている。もともと男のハードな論理は笑いを許さない。せいぜい喜劇や、ブスだババアだと人を卑しめる流行の漫才の演技に笑いをもらすだけだ。女の自由な笑いは、相手を殺さないが溶かしてしまう。それは競争・管理社会を分解する溶液となるだろう。

 都市と農村のいたるところを野放図な笑いで満たしたい。支配し管理する側が、その無気味さに戦慄し、溶け出すまで笑いたい。力に頼れば、ますます笑(嗤)われるだろう。女をあくまで下位者と見立てた上でのアリストファネスの「女の平和」の笑いとは違う。女はベッドの中だけで勝つのではなく、笑いでハードシステムをくずしてしまうのである。

 その徴侯がないとは言えない。冒頭に述べた反原発の女たちの運動がその芽をはらんでいる。男の論理の目下最大の創造物・原発に、彼女たちは笑いで対抗しはじめている。口はばったいことをいうようだが、やがて女の笑いは救世(ぐせい)の笑いになるにちがいない。

                              (1980年春記)

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2017/06/21

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林 郁

ハヤシ イク
はやし いく 小説とノンフィクションを書く。長野県出身、早大政経学部卒。主な著書は、『大河流れゆく』(1993年6月、ちくま文庫)、『家庭内離婚』(1986年8月、ちくま文庫)ほか。女と子どもの目で、負と希望、森羅万象を書き継ぐ。「女性解放と健康の会」主宰、「日本アジア・アフリカ作家会議」に参加した。 現在は「植民地文化学会」、「WAN(Women’sActionNetwork)」会員など。  

掲載作の「神と共寝する女」、「現代島痛(ちゃ)びの女」、「女が笑えば ──救世(ぐせい)の武器として──」は、『未来を紡ぐ女たち』(1981年11月、未来社刊)から抜粋。「戦争にみる女の被害と加害」は、『戦争と女たち』(共著、1982年7月、オリジン出版センター刊)から抜粋、改題。電子文藝館掲載に当たり、著者自選で章立てを再構成し、タイトルを新たに「女と戦争」とした。本文中に現在では差別語とされる言葉があるが、原文を尊重してママとした。

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