鳬(ケリ)
鳧(ケリ)という鳥
二〇一四年五月、高円宮家の次女典子さまと出雲大社の
春、野草が芽吹いて緑色に染まってきた田んぼをトラクターで耕すのが、日曜百姓の私の年中行事である。田んぼの一角に健気に咲いている
そのような春の農作業の楽しみはトラクターの上からのバードウォッチングである。トラクターが田を耕すにつれ、近所にいる野鳥たちがトラクターの後ろに集まってくる。
椋鳥たちが掘り起こされた土の中にいるミミズを目聡く見つけ、実に素早く
今年の春も例年どおり田起こしを行っていたら、「ケケッ! ケケッ!」っと、耳を
いくら田起こしだといっても、鳥の巣を壊すような無粋さや非情さなど微塵も持ち合わせていない。けれどもそんな私の思いが母鳥に通じるわけはない。彼女はトラクターという怪物から自分の卵を守ろうとして必死なのだ。怪物が近づく寸前のところまで巣に居座っているが、いよいよ怪物が接近するとさすがに卵を残したまま、すごすごと巣を離れる。しばらくして怪物が遠ざかるのを確認すると再び巣に戻る。そうした彼女の抵抗と撤退、回帰が数回繰り返された。そのようすを私はトラクターの上から微笑ましく眺めているのだが、母鳥にとっては突如降りかかってきた大災厄に他ならない。私は「ごめんよ」と心の中で咳きながら、巣の周囲を残して作業することで彼女の許しを乞うしかない。
農作業を終え、家に帰って調べてみると、それは
珍しい鳧との遭遇の貴重さを認識した私は、翌日の早朝、カメラをもって鳧の撮影に田んぼに出かけた。いそいそと、まるで愛しい人に逢いに出かけるように胸を躍らせて――。
ところが母鳥の姿はなかった。卵も消えていた。まったく予期していなかったその空虚な光景に私は落胆した。よく考えてみれば、母鳥としてはそんな危険な場所で大切な卵を艀化させ、雛鳥を育てるわけにはいかないのは当然のことである。彼女はトラクターの危険が立ち去ったあと、安全な場所に巣を移動させたに違いない。私は空になった巣の後を
鳧(ケリ)との再会
「兄ちゃん、いい車買ったんやなあ」近所に住む甥が家に遊びに来て息子に話しかけてきた。息子は白のBMWを中古で買ったばかりだ。その会話を横で聞いていた私はすかさず割り入った。「おっちゃんも新車買ったぞ。それもオレンジのオープンカーや」と自慢たらしく。「嘘やろ。全然、似合わへんやん」とすでに還暦を迎えた伯父が何を
そんな他愛ないやりとりがあった数日後、トラクターが納車されてきた。ボディのオレンジ色が鮮やかな光沢を放っている。妻の愛車アクアは鮮やかなオレンジ色だが、その新車が家に届いたとき、私の父が「いい色やなあ」と言ったことを思い出した。父にとっては愛着のあるトラクターと同色だったことに気づき合点がいった。早速、試運転といきたいところだが、生憎の菜種梅雨で田んぼはトラクターが使えるような状態ではなかった。春雨のことを草木を芽吹かせ、作物を育むことから「
ようやくのこと、晴れ間が続いた。私はいそいそと乾き具合を確かめに田んぼに向かった。そのとき「ケッ! ケケッ!」っと一際甲高い鳥の声が耳に響いた。もしかして鳧ではないか――私は去年、あっさりと
幸い同じ場所に鳧はいた。ズームレンズを最大の二五○ミリにし、カメラのファインダーを覗いた。鳧まではまだ遠かったが、逃げられてはお終いと思い、とりあえずシャッターを切った。そしてそろりそろりと鳧に近づいては何度もシャッターを切った。ベージュがかったグレーの肩羽が白妙のスリムな躰を覆い、細く伸びた二本の長い脚と山吹色で先が黒い
もっとアップで撮りたいとさらに近づいたとき、鳧は私の気配を感じたのか、さっと飛び立った。慌てて力メラを空に向けファインダーで鳧を追った。かなりの速度で羽搏く鳧をかろうじて捉え、夢中でシャッターを押した。オートフォーカスとはいえ、ちゃんと写っているかは運次第。田の上空を舞う鳧は思いのほか白く、翼の先だけが黒くて鴎と見紛わんばかりだ。大空を飛翔する鳧の勇姿を見上げ、私は一年ぶりに再会した鳧に惚れ直した。やがて鳧はどこかに飛び去ったが、私は鳧と再会できたことに加え、鳧を撮影できたことに満悦していた。それで十分だった。
昨年、取り逃がした被写体を確保できた私は鳧に
そうするとまたしても「ケケッ! ケケッ!」っという鳴声が響く。見ると大きく羽を広げ、鳧が白鶺鴒を威嚇している。それでも近づく白鶺鴒に対し、鳧は白鶺鴒に向かって飛び立っていった。白鶺鴒も瞬時に飛び立ち空に逃げるが、鳧は満足せずに白鶺鴒を追いかける。まるで空中戦だ。その迫力に圧倒された私は唖然とするばかりで、白鶺鴒に餌場を与えず、執拗に攻撃する鳧の貪欲さに私は失望しかけていた。
すると小さな雛鳥が二羽、田んぼをよちよちとぎこちなく歩いているではないか。田んぼの土と保護色か、薄めの
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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