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醜婦

 弟の友人が二階で二三名、興に乗じておほ声で(しき)りに何か話し合つてゐるのを聴きながら、京子は茶の間の火鉢のふちに両肱をつき、招き猫のやうな手つきの上に(あご)を載せて、余ほど鋭敏に耳をそば立ててゐた。

 弟は、いつのまに勉強したかと思はれるほど詳しく、音楽のことを話してゐた。すると、また、小説のことに移つて、今の作家のうちで誰れはどうの、彼れはかうのと云ひ出した。

 それを反駁(はんぱく)する声も聴えるし、賛成するのもあるが、どちらが高濱さんで、どちらが増野さんなのか、自分には見当がつき兼ねた。

 弟の友人が訪ねて来ると、二階へあがって行く後ろ影を、きツと、障子のすき間や破れからのぞいて見るので、それがたび重なるに從つて、その顔や姓名ぐらゐはおぼえてゐるやうになつたが、そんな男の人とも直接に話して見る勇気も出なければ、また機会もない。

「女はさう、お政のやうにお客さんの中へ出しやばるものではない」と、母はいつも厳格にこちらをたしなめて来た。こちらは、また、たしなめられるまでもなく、われから、どうしても、男の人と顔を合はせるのが恥かしくツて溜らないのである。現在自分の弟に対してでさへ、弟が女狂ひをするやうになつてから、また続いて今の妻を貰つてからは、何となく面と向つて話しをすることが恥かしい。

「ねえさんのやうな変人は、世間にあまりないです」と、弟はよくふくれツ(つら)をするが、それに対して一度も直接に申しわけをしたり、強情を張つたりしたことはない。そして頼むことでもあれば、必らず母の口をとほして云ふ。

「お京、お銚子(てうし)が出来過ぎるといけないから、ね。」母は弟の嫁に頼まれて、台所の方で香の物を切りながら注意した。

「ええ。」煮え切らない返事をして、銅壷(どうこ)の中から、それを出さうとした。熱くツて、ぢかには持てなかつたので、布巾(ふきん)で以つて猫板の上に移した。

 なげしに古ぼけた槍が二本──それの下で、台所につづく隅に、火鉢が置かれてある。かの女は今台どころの方に向つてゐる。

 その脊中に当つた壁に添つて、旧新両様の箪笥が二棹(ふたさを)あつて、その比較的に新らしい方ので、鏡台が載つてるのの前には、(ござ)にたたんだ京子の衣物(きもの)が這入つてゐる。そしてかの(ぢよ)はそれをあす着て出ることばかり考へてゐるのだ、弟が許してくれるだらうか、それとも今回は許して呉れないだらうかと。

 かの女の父がまだ存生の時、たツた一人の男の子が家代々の家業なる国学の系統を継ぐことを嫌ひ、経済学を専修する為めに或私立大学へ入つたのを、父は一生の遺憾とした。その代り、京子を師範学校に入れ、同時に国文や漢学を教へ込んだので、かの女は立派に小学教員になれる免状をも持つてゐる。また、それを得た当初は、半ケ年ばかり、日本橋区の或小学校で正教員を勤めてゐた。

 これを、突然勝手にやめてしまつたので、こちらをばかり愛して呉れてる母でさへ怒つたのだもの、当時僅かに或会社へ出た弟は、戸主としての負担がそれだけ重くなるのを黙つてはゐなかつた。が、──

「ねえさん、お燗が出来て?」弟の妻が二階をとんとん下りて、障子を明けるが早いか、つかつか這入つて来て、かう聴いたので、京子はうは目にその顔を見ながら、あげてあつた銚子を渡した。そして向ふが両手に香の物と銚子とを持つて行つてしまうまでも、言葉は発しなかつた。

「女だてらに、男と一緒にお酒など飲んで」と、心のうちで、「あの赤い顔! よく何ともないことだ、不断は、賎業婦か何かのやうにお白粉ばかり塗つてるのに!」

「お客さんが飲ませるから仕方がない」と、あの女は能く云つてゐる。何かと云ふと、「お客さんが」とか、「所天(をつと)の命令だから」とか云ふ。あの女には、全く見識がないのだらうか? 弟は男だ、男の云ふ通りにさせて置けば、男の品行の直る時はない。弟のだらしなさの改まる時はない。

 かう云ふことを注意したこともあるが、すると、直ぐ弟の耳に這入つて、(かれ)はひどく怒つた。

「ねえさんなんかが何もぐずぐず云ふには及びません、わたしの女房のことはわたしが引受けてゐますから!」

「姉に向つて、さうつけつけ云ふものぢやない」と、その時、母が仲へ這入つた。

 京子は結婚する時の用意にとて、今は(かた)づいてる妹にも劣らず、父のゐる時からいろんな物を拵らへて貰つた。自分の所有に属するものとしては、立派な桐の箪笥もある。──比較的に新らしいのがそれだ──長持ちもある。鏡台もある。なかなか高価な衣物やその附属品もある。が、ただ惜しいので、曾て身に着けたことがない。──その間には、段々流行に(おく)れて行くのもかまはないで。──俸給を取つてた間でも、別にまた()うちの安いのを買つて、出勤の時の服装にした。その服装でさへ、今は入らないので、箪笥の引き出しにしまひ込んである。

 たまには、それを出して、自慢さうに弟の妻に見せたこともある。

「ねえさんはこんなにいい物を持つていらツしやるのですから、これを着て少し外へ出たらいいぢやアありませんか、おめかしでもして?」

「わたし、おめかしは嫌ひだ。」かの女はお湯にさへ一週間も二週間も這入りに行かない。

 自分の持つてる金を使ふのがいやなのだらうと思つてか、弟は湯銭をもきめて、毎月呉れるのは呉れるが、それと髪い銭とはそツくりそのままに母に頼んで郵便局へ貯金して貰つてゐる。

 昼間はどうも晴れがましくツて、そとへ出たくない習慣が(かう)じて、夜になつても、おツくうだとか、熱いから寒いからとか云つて、家にばかりゐて、妹ばかりを相手にしてゐた。その妹は、父の昔の同僚であつた人の息子で、房州の可なり資産があるものの家へ、近頃片づいて行つた。

 かの女が珍らしく而も度々外出する気になつたのも、そこへ訪ねて行くのが目的である。「姉さん、姉さん」と、うちで皆に云はれてゐるのは何だか親しみが薄いやうであつたのが、妹の新らしい縁家へ行つてさう云はれるのは、尊ばれ、敬まはれ、親しまれて、どことなく自分からも気が許され、そこの家の人々には勿論、妹の所天(をつと)にまでも、自分は妹よりも丁寧にされ、妹よりも多く情愛を向けられてゐるやうに思はれる。

「もしあの人と二人ツ切りでさし向ひになるをりがあれば、もツと情愛を見せて呉れるだらうに──妹がこツちへ出て來るあとへ、入れちがひにでも、()しわたしが向ふへ行くと云ふやうなことがあれば」などと空想して見た。

 けふも、弟の機嫌のいい時間を見て、あす向ふへ遊びに行く許しを母から頼んで貰ふことになつてたが、昼の間はをりがなかつたので、それを楽しみに、まだ寝床へも這入らないで、母と共にお客の帰るのを待つてるのである。

 二階は暫らくひツそりしたかと思ふと、俄かに弟の妻のあまへるやうな言葉が聴えた。

「いやですよ──もう、わたしは飲めません、わ。」

「まア、もう一杯」と、誰れかの声だ。

「それよりやア、早くねえさんを呼んでおあげなさいよ。」

「………」京子はわれ知らず身をすくめた。そして()らないさし出口をきいてると思つた。

「お政も」と、あの声にぢツと耳を傾けてゐた母は、火鉢を中にさし向ひながら云つた、「酒だけはよせばいいのに。女が酔つてるのは、見ツともないものだ。」

(のぶ)さんが飲めと云ふんですツて。」

「お客やをつとが飲ませるからツて──そりやア、信にも困る。お父さんによく似てゐて、酒が好きで、女が好きで──それに、又、來るお客も、來るお客も、おほ酒飲みばかりで──今度のお勝の亭主も信とはいい相ひ棒のやうだ。お前だけは飲み手のところへやりたくない。」

「………」京子は、母の毎度の云ひ(ぶん)だから、別に返事もしなかつた。が、妹の亭主のやうな人なら、飲んだツてかまやアしないと思つた。妹にばかりでなく、自分に向つても、親切で──丁寧で──よく気がついて──時々おどけたことも云つて──

「高が土臭い百姓ぢやアないか、教育もあまりないやうな──」

「さう馬鹿にするのはひどい」と、京子は曾てそれを聴いて(ひそ)かに弁解した。「いい人だのに可哀さうだ、では、妹をやらなければよかつたのに!」そして今や、田舎の旧家の巌丈なかぶき門を見てゐた。それを這入ると、四角い石が大きな敷石が眞ツ直に十枚も十二三枚も並んで、それから黒びかりのする大きな玄関だ。広い土間──幅のひろい敷台──一間の長方形に切つた囲炉裏(ゐろり)──よく艶の出た雁木(がんぎ)にかかつたおほ鉄瓶──十間四方もあると云ふ台どころ──池や築山の見える座敷──そのまた奥のしんとした座敷で、勝子は今頃をつととどうしてゐるだらうと考へると、こちらのあたまはねたましさでぼうツとのぼせて来る。

 妹の亭主と比べると、いやであつたのは日本橋の小学校の教員どもで──こちらへは命令や用事の外は滅多に口も聴かない癖に、新米の女教員のことを、かげでは美人、美人と呼んで、実際の名は云はず、ぢかに会ふ時は、また華族のお姫さまでも取り扱ふやうに馬鹿丁寧を見せてゐた。(のぶ)でもそんな男なのだらうか、お政さんにばかりいい物を買つてやってゐて?

「いい加減に帰つたらよささうなものだに」と、母は気の勝つた顔になつて二階をにらんだ。「信も信だ。随分あんなに交際が広いのだから、誰れかひとりお前に釣り合ふ人を見つけて来ればいいに、ね──わたしだツて、もう、いつまで生きてゐられるか知れやアしないし──」

「………」また返事はしなかつた。が、京子は別に結婚に反対したことはないので──二三度貰ひたい、やつてもいいと云ふ話はあつて、自分自身もその気になつたが、向ふからこの近処へ取り調べの人をよこした結果とかの為めに、どれもこれも、その都度(つど)、沙汰止みになつてしまつた。

 その後、或ところで弟が父の旧い弟子に会つて姉の事情を話したところ、それぢやア気の毒だから貰ひたい、丁度妻を失つた場合だからとあつた。弟は喜んで早速これを姉に語つた。こちらは異存を云はなかつたが、今度は母が怒つて一言のもとにはね付けてしまつた。そしてこちらもそれを尤もだとして、それにも異存は唱へなかつた。

「うちの弟子がうちの娘を貰うのか? 身分が違ふ! 以つての外だ!」

「ぢやア、勝手におしなさい」と、弟は怒つて、「もう、わたしはねえさんのことに口は出しません。」

「うん出さないがいい、そんな不倫(ふりん)なことをさせるやうな!」

「弟もまだ考へが足りなかつた」と、京子は平気で考へた。

 その後は、然し、母も遠慮して、年中母が心配ばかりしてゐるこちらの縁談さがしになると、はツきりした相談や依頼はしないで、ほんの、なぞのやうに云つてゐる。そして弟はそれをただ鼻であしらつてゐる。こちらはそれを弟の薄情なのに帰してゐるのだが、直接に何も訴へたことはない。

「ああ、うるさい、うるさい!」かう云つて、政子がまじなひの箒木(はうき)に手拭をかぶせてゐるのを見て、母もこちらと共に笑つた。「今一邊、お向ふの鳥を取つて来いツて、もう、鳥屋だツて寝てゐます、わ。」

「主人の信からしてあと引きだから困る!」

「さうですよ──よせばいいのに、自分から、もう一本、もう一本ツて!」

「そりやア、ね、早く二人ツ切りになつた方が──」

「お前は黙つておいで」と、母はこちらを制した。

 政子はつんとしてしまつて、姉の方を見ないで、これも火鉢のそばに坐わつた。

「姉さん、姉さん! 一度いらツしやつたら、どうです、ね?」かう云つて、客がはしご段を下りて来るやうすだ。

「あなた」と、京子はあわてて、「()らないこと云つたの、ね。」

「わたしぢやアありません。うちのです」と、政子は答へたが、これもあわてて箒木を取り、これをどうしようと思つたやうにつツ立つてまごまごしてゐるところへ、客は二人まで這入つて来た。

「やア、奥さん。」

「ほ、ほ、ほ!」うちのものは皆笑つた。

「は、はア、僕等に早く帰れと云ふのです、ね?」

「さうぢやアないのですよ」と、政子が──「別に少しおまじなひをしたいの。」

「まア」と、母もお愛想らしく、「御ゆツくりなさいまし。」

「おツ母さん、ちよツとねえさんを借りて行きますよ。」

「お易い御用です。」

「さア、ねえさん」と、こちらが曾て政子に男振りがいいと語つた方の高濱さんが云つて、こちらの坐わつてる手を引ツ張つた。

「いいでしょう、ね、おツ母さん」と、また別なのが──。

「えヘヘ」と、母がただ笑ひ顔をしたのをじろりと見て、京子は、心細いほどすくんでしまつた。

「いや──いやで御坐(ござ)います」と、つい声に出し、堅くなつて逃げようとするのを、酔つてる人々は無造作にかつぎあげた。こちらは(くう)にもがきながら、「御免下さい、御免下さい」とつづけざまに云つてるのを、無理に二階へ運んで行つた。

 弟は食卓に向つてあぐらをかき、にこにこ笑つて手で猪口を口に持つて行くのが見えたが、京子は眞ツ昼間に外へ出たと同じやうな晴れがましさを感じて、下に置かれるが早いか、逃げようとした。が、弟も意地が悪さうに言葉でとどめて少し怒つた調子で、

「まア、いいでしよう、ねえさん!」

「まア、ねえさん、僕等は信一君の親友で、さア。」

「さア、一杯お飲みなさい。」

 さし向けられた猪口から顔をそむけ、引ツ張られてゐる手をふり払ひ、

「どうぞ御免を」と云ひ放つて、僅かに逃げ出した。

「あれぢやア、君の困るのも尤もだ」と云ふひそやかな声が聴えた。

 ふくれツ面をして下に来たり、曾て一度見合ひをしたあとの嬉しかつたやうな、情けなかつたやうな心持ちを思ひ出しながら、つけつけと政子に当つた。

「あなたがねえさんを呼べなど云ふから、こんな恥かしい目に会ふのだ!」

「ねえさんは人を見ると恥かしがつていらツしやるけれど、わたし、そんなものぢやアないと思ふ、わ。」

「お転婆だから──わたしのつかまへられて行くのを、とめもしないで笑つてゐて!」

「お政もあまり亭主にあまへ過ぎるが、お京もお京で、もツと人の前に出られるやうにならなければ困る。」

「わたし、人の前なんかへ出ないでもいい!」

 かう反対してから、今夜に限り、母の手を煩はさないで、この座敷へ独りで蒲団を引き出し、独りでもぐり込んだ。それでも、早くお客のかたがついて、母が弟に自分の房州行きを話して呉れればいいのにとばかりは忘れなかつた。

 やがて二階のもの等が下りて来るので、また這入つて来るのかと身をとこの中にすくませたが、玄関のはうの障子をあけた様子だ。

「もう、お帰りですか」と云つて、政子は嬉しさうな調子で飛び出した。

「はい、奥さんのおまじなひが()いたかして。」

「………」あれは高濱さんらしい。

「違ひますよ、高濱さん!」

「………」それ、さうだ。

「恨んでゐますよ」と、増野さんの声だ、「僕等をまじなひで追ツ払つて。」

「またいらしツたらおよろしいぢやア御坐いませんか?」

「これはとこ急ぎで、ね──は、は、はア」と、弟はおとならしくその(はづ)かしさをも知らなささうに笑つて、「ぢやア、失敬。」

「今度いらしツたら、仲直りを致しましようよ。」

「奥さん、さやうなら。」

「お静かに。」

「ねえさんは、もう、寝たんですか?」弟の声は不平さうであつた。

「かう毎晩、毎晩起きてられるものか、ね?」母はしツかりした声で、「あれだツてねむたからう──今しがた、十二時を打つた。」

「寝るのが行けないと云ふのぢやアありません! 實際、あれぢやア鼻持ちがならんぢやないか?」

「いやと云ふものを呼ばせたり、かつぎ上げたりする方が悪いだらう。」

「そんなことを云つてやしません! 第一、ねえさんのからだの垢じみたにほひが分りませんか? おツ母さんにしろ、ねえさんにしろ、それが為めに湯銭もちやんと渡してあるのに、滅多に湯に行つたことがない。二階へ来ると、わたしにやア直ぐぷんと、いやなにほひが鼻についた。──ねえさんのことにやア口を出さないつもりでしたが、ふと今夜その話が出たら、高濱がそれぢやア一つ心当りを当つて見ようかと云ふので、兎に角、一度本人を見て置いて貰はうと思つたのに、をかしな風つきをして逃げ出して行くし、そのあとにはいやなにほひを残すし──」

 かの女はみんなに脊を向けて寝てゐるので、そツと寝まきの胸をあけて、自分の乳と乳との間あたりを嗅いで見たが、人間のにほひだと思つてるもののほかは、何も特別にくさいやうではなかつた。

「それでも、そのお(あし)を無駄なお化粧や何かに使つてしまうのぢやアなし──」

「それが行けないのです! おツ母さんはそんなことばかりお云ひですが、女が身相当のお化粧をするのが何で無駄でしよう?」

「お銭さへ溜めて置けば、いつでも、しようと思ふ時に出来るぢやアないか?」

「そんな考へはちツともよくはありません! 女は不断からのたしなみが必要です。」

「そのたしなみは心にあるので、お父さんのゐる時から、さう教へ込んである筈だ。」

「そりやア、おツ母さん」と、政子が口を出した、「今の世に通りません、わ。」

「お前は黙つてな!」かう弟は政子を叱り付けた。そしてまた母に、「あなたが娘に目がないのも人情でしようが──」

「ちよツとお待ち。わたしは娘に目がないやうなことはしてゐないよ。お父さんが亡くなられてからと云ふものア、お父さんに代つて、わたしが娘を仕つけてゐます!」

「仕つけ方にもいろいろあります。あなたは時勢の変遷が分らないから──」

「ぢやア、女房にあまいのが当世と云ふのか?」

「ふん──」

「お父さんなどは、如何に女好きであつても、女をあまやかせるやうなことはなかつた。」

「わたしだツて」と、政子はかん走つた声で、「何もあまやかされちやアゐません、わ。」

「黙つてなと云ふに! ――わたしやアわたしの考へがありますから、そんなことに御心配は御無用です。」

「ぢやア、お京のことにも口出しをしないがいい!」

「ぢやア、ああして雨ふりあげくの犬のやうに、くさいからだでごろツちやらさせて置けばいいでしょう。」

「………」ひどいことを云ふ、ねえと、京子も心で怒つたが、肝腎(かんじん)の話がこれが為めに話されずに終りはしないかとはらはらした。

「ねえさんも少し気を付けて身のまはりを綺麗にしなすつたら、こんな云ひ合ひも起らないのですが、ねえ。」

「何を云つてるんだ」と、後ろ向きのまま、京子は政子の言葉に枕の上から無言のねたみを投げた。

「二階を掃除しろ」と、この時、弟は腰を浮かせたらしい。

「おツ母さんもお休みなさい」と云つて、政子がさきに立つたやうすだ。

「ちよツと待つておくれ、(のぶ)。」

「わたしは知らない、知らない! 二階がわたし達の世界だ。」かう云つて、政子は例のつんけんの様子を言葉の上にも見せた。そして、また、こちらの身うちのものばかりで何か相談するのかと云ふ(ひが)みを起したかのやうに、障子をぴしやりとしめて、とんとん、とんとんとわざとらしくはしご段を踏んで行く音に向つて、京子はこちらで私かににやりと笑ひながら、口の中で、

「あなたのことぢやアなくツてよ」と云つてやつた。そして母の声がうツて変つて和らいでゐたので、まア、嬉しいと、自分はこツそりだが、顔を赤らめながら、耳をそば立てた。

「何か御用ですか?」弟の声はいやに落ち付いてゐる。

「実は、ね、あれが、あす、房州へ行つて来たいと云ふのだが──」

「またですか?」

「お京だツて、可哀さうだから、ね──別に──ほかに行くところもないし。」

「行つてはいけません。」

「…………」困るわ、困るわと、こちらが泣きたい気になつてると、二階ではまたわざとらしく皿小鉢がかちやかちや云はせられてる。

「どうしてだ、ね? お前の手もとが今不自由なら、わたしが立てかへて置いてもいいのだが──」

「行けません──向ふから、わたしの手もとへ、今後あまりよこして呉れるなと云つて来てるんですから。」

「誰れから──お勝からか、え?」

「さうです──おツ母さんやねえさんには云つて呉れるなとありますが──」

「………」こちらはいよいよ泣き出しさうになつた。

「そりやア、また」と、母は行き詰つたやうだ。

「云はないぢやア、いつまでもわけが分りますまいから申しますが、ねえさんが度度行くのを向ふぢやア大変迷惑がつてゐます。」

「………」そんな筈はないのに!

「兄弟が訪ねて行くのに、お勝も何が迷惑だらう?」

「それがです、ただ行くだけの迷惑なら、お勝にしろ、勝の亭主にしろ、何もこんなお互ひにいや気のさすやうなことは云つて来ますまいが──」

「何が──ぢやア、お京が何か粗相(そさう)でもしたのかい?」

「まア、お聴きなさい。世間にやアないこともないことで、たとへば、或家庭でそこの亭主が女房の姉とか妹とかに手を出すことがあります。」

「………」そんなことは房州のあの人にやアなかつたのに!

「ふん──」

「またこの反対に、たとへば、わたしの妻の姉があつて、それが()しわたしに手を出さうとしたら、どうです?」

「そんなことはしない!」顫へる半身が急にとこの上に起きあがつた。そしてくやしさに大きな声を出した、「そんなことはしたおぼえはない!」

「夢中でゐるねえさん自身にやア」と、特別に強くなつたその声のぬしがこちらの涙の間に見えた。

「却つて分りません!」

「まさか、ねえ──」と、母は少し当惑の様子だ。これを知つた京子は、ただ一人の頼りなる母にも見はなされた気がして、わツと泣き出してしまつた。

「何か証拠でも見たものがあるのか」と、母はつづけた。

「いろ恋に証拠よばはりなんざア無用です!」

「でも、そんなことがありよう筈がないぢやアないか、ね、お勝とお京とは嫁入りしない前から一番の仲よしであつたから──?」

「仲よしであらうが無からうが、浅薄な女同士のことなど当てになるものですか?」

「浅薄と云つてしまやア、お政だツてさうだらう──?」

「そんなことを云つてやしません!」弟は母の煙管(きせる)を取つておもむろに煙草をつめ初めた。

 手早く寝巻きだけをぬいで、京子は、けさから、母とも相談してあす着て行くことにしてあつたその衣服(きもの)を揃へてある(ござ)を開らいた。

 老人の好むやうなぼてぼてした綿入れの胴着――これは母と相談して発明したのだ――のすゑからもんぱの赤と黒との縞がある腰巻きをまとつてゐるうヘヘ、五六年前にあてのない結婚を予想して拵らへた、少し時代後れとは承知してゐる小紋縮緬のよそ行きを着た。そしてこれに黒繻子(くろじゆす)の丸帯を締めた。

 母が黙つてぢツと見てゐる視線の一端で、かの女はちよツと自分の箪笥の上にある姿見に向つたが、脊中が(まる)まる気味になるのをちよツと直して見てから、これでいいと思つて、涙を払ひながら、つかつかと障子へ行つた。

「ふん!」弟は馬鹿にしたやうな鼻ごゑを出した。

 障子をあけたとたん、政子が便所に下りて来たのと顔を見合はせたが、ただ耻かしさに声はかけなかつた。もう、こちらの、心の秘密まで知れてるのかと思つて。

「お京!」

「………」踏みとまつたが、母の呼びには答へなかつた。

「信の許しもまだ得ないのに、黙つて行くことはならん! 信はお前の弟でも、今ぢやア、島村家の主人だぞよ。」

「………」一二歩あと戻りして、立つたまま母に向ひ、すすり上げながら、「もう、――房州――なんかへ――行き――たかア――ありません!」

「ぢやア、どこへ行く? ――どいつも、こいつも、親不孝なものばかりで!」

「ねえさんが何も親不孝と云ふわけでもないでしよう――が、もツと自分で自分のことを考へて見て貰ひたいのです。」

「わたし、馬鹿だから――どうせ――お政さんのやうに――美人で、利口ぢやア――ない!」その場にうつぶしに泣き倒れて、袖口を噛みながら、「お勝にこんな恥かしいことを云はれて――わ、わたし、もう死、死んぢまう!」

「死ぬなら、死ね!」母は、いつになく、お父さんが母を叱つたやうな調子になつた。「お前はお勝の姉だよ。妹を教へて意見してもやらなけりやアならない身でありながら、あべこべに、妹から意見されるやうなことをするとア――本当に、そんな馬鹿々々しいおぼえがありやア、弟の手前もあることだ、どうでもしろ!」

「お、おぼえは――ない!」父もその場にゐるかのやうにおろおろして、「おぼ、おぼえ――は――ない!」

「おう、寒い、寒い」と云つて、小きざみに、廊下をとほつて行く政子の足おとがした。そして京子は、ちよツ、聴いてゐなけりやアいいのにと思つた。

「何も、さう、度々行くにやア当らないでしよう――お勝の亭主なざア鼻で笑つてるので、却つてお勝が身を切られるやうに恥かしいと書いてもあるです。あいつを初め、向ふのものは皆迷惑がつてる様子だし、ねえさんだツて、それを知つたら行けたものぢやアないでしよう。」

「もう、あなた」と、はしごの中途から声がして、「()き一時になりますよ。」

「一時でも、二時でもいい!」弟は政子を叱り付けた。

「お前がそんなつもりぢやア」と、母が――「お勝の迷惑がるのも尤もだ。」

「そんな――つもりぢや――ない!」無理にも、斯う云はねばならなかつた。

「房州は、ね、ねえさん、お勝がかたづいて行つたところで、あなたが行つたのぢやアありませんよ」

「………」

「なんぼ世間を知らないからツて、(いやし)くもかたづいて行つた妹の亭主を――」

「そんな――こ、ことは――し、しない! みな、お勝が」と、またすすり上げて、「ひ、人の――わ、悪い――こ、ことを――云ふのです!」

「武士と学者の家系にかけて、きツと、しないか?」

「し、しません――わ、わア」と、こらへ(こら)へてゐた感情が一時に溢れ出た。

「しないなら、しないで――ぢやア」と、母はきツと向き直り、「今一度お父さんのお位牌に誓つて、信の前で誓言するがいい。」

 間を置いて、涙を両袖でふきながら身を起し、ちやんと坐わつて、弟を見ることは為し得ないままに、声をふるはせた、

「きツと――い、致しません!」

「あのやうに詫びてるから、これで許してやつてお呉れ、――その代り、もう、わたしもきツと房州へ行くことはさせないから、ね。」

「よう御座いましよう」と、弟の言葉も砕けて來て、「ねえさんの心持ちアわたしにも分つてゐます、さ。うちぢやアおツ母さんの外に相ひ手にするものはないし――尤も、これはねえさんの方から(ひが)み僻みしてゐるからのことですが――お勝が行つてからは、兄弟のほかにやア、友人とする女も男もないし。つまり、世間知らずに寂しいばかりのところへ持つて来て、房州へ行きやア、お勝の姉だと云ふのでみんなにちやほや云はれたのを、自分ばかりが歓迎されてるやうに思つたんでしよう――? 軽く云つて見りやア、無邪気なんでしようが、ね、お勝の亭主があなたをお勝と同じやうに、または、お勝よりも以上に大事にすると思つたのは、あなたが向ふに気が有つたことになりますよ。」

「…………」

「そりやア、まア、さう、さ、ね」と、母も弟の肩を持つた。

「云ひついでに、よく分るやうに云つて置きますが、ねえさんは今のありさまぢやア――これは少し失礼ですが、ね――たとへば、わたしが他人であなたを貰ひたいと云つてても、実際のことを知つちやア、直ぐいや気がさしてしまうでしよう。どんなに顔が悪いからツて、世間にやア、顔ばかりで細君を貰ふ人ばかりもないのですが――年中、髪はへたくそな束髪で、湯には月に一度、多くツても二度ぐらゐと云ふやうぢやア、精神までがむさ苦しくなつてしまひます、さ。おツ母さんは、もう、年寄りだから、まだしもいいとして置いても、あなたまでが今からお婆アさんの真似をしてゐるんぢやア、どんなしみツたれな男でも、見ただけで、――鼻でかいだだけで、――愛想が尽きてしまひます。」

「それもさうだ、ね――お前、これから、少し(のぶ)の云ふやうにおしよ。」

「………」初めてしみじみ分つた気がしてうなづいた。

「その癖、――わたしはねえさんの図星をさしますが、――あなたは結婚したいんです。」

「そんなこと――」と、弟に対してはそれをうち消すやうにからだをゆすつて、母の方をみた。

「あなた」と、また二階から、「もう、夜番が二度も通るぢやアありませんか?」

「うるさい奴だ」と、弟も立ちあがつて、「それで、もう分つたでしようから――これから、毎日でも湯にお這入りなさい、お化粧も奮発おしなさい。いい着物を着て、昼間も、そとへお出かけなさい。さうして、少し()きいきした気分をお養ひなさい。けちくさい金ばかり溜めてゐるのが何も人間の生活でもありませんから。」

「ぢやア、ゆツくりお休み」と、母はこちらにも代つて云つて呉れた。

「は、お休みなさい。」かう云つて、弟はこちらふたりとその夜を別れた。

 まだ黙つて考へ込んでゐるこちらにも、母は休めと慰めて呉れながら、母自身のとこを敷いた。

「………」京子は、然しどう考へて見ても、お勝がうそを云つて、その亭主と自分とを仲よくさせまいとしてゐるとしきヤ思はれない。このくやしさの方を知つて呉れないで、弟夫婦はただこちらの悪い噂をし合つてゐるのだらうが――

 かの女は頻りに二階の方ばかりを気にして、お勝に対する恨みを今や手ぢかの政子に向けながら、自分の帯を解き初めるのさへも(ねた)ましかつた。 

(大正二年十月)
 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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岩野 泡鳴

イワノ ホウメイ
いわの ほうめい 小説家 1873・1・20~1920・5・9 兵庫県洲本に生まれる。正宗白鳥はこの作者の五大連作に「悲惨なる滑稽」の辞を呈し大杉栄は泡鳴を「偉大なる馬鹿だ」と呼んだが、的確な讃辞でもあった。「悲痛の哲理」を説いた岩野泡鳴は、今後に大きな再評価をまつ大作家の一人と目されている。

「文章世界」1913(大正2)年12月号初出の掲載作にも、時代に刻印を打たれ時代に置き去りにされて行く女の「悲惨な滑稽」は躍如としている。

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