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読書子に寄す

 真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態はしばらくおくも、後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。千古の典籍の翻訳企図に敬虔の態度を欠かざりしか。さらに分売を許さず読者を繋縛して数十冊を強うるがごとき、はたしてその揚言する学芸解放のゆえんなりや。吾人は天下の名士の声に和してこれを推挙するに躊躇するものである。このときにあたって岩波書店は自己の責務のいよいよ重大なるを思い、従来の方針の徹底を期するため、すでに十数年以前より志して来た計画を慎重審議この際断然実行することにした。吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西にわたって文芸・哲学・社会科学・自然科学等種類のいかんを問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間の須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する。この文庫は予約出版の方法を排したるがゆえに、読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択することができる。携帯に便にして価格の低きを最主とするがゆえに、外観を顧みざるも内容に至っては厳選最も力を尽くし、従来の岩波出版物の特色をますます発揮せしめようとする。この計画たるや世間の一時の投機的なるものと異なり、永遠の事業として吾人は微力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって文庫の使命を遺憾なく果たさしめることを期する。芸術を愛し知識を求むる士の自ら進んでこの挙に参加し、希望と忠言とを寄せられることは吾人の熱望するところである。その性質上経済的には最も困難多きこの事業にあえて当たらんとする吾人の志を諒として、その達成のため世の読書子とのうるわしき共同を期待する。

  昭和二年七月

 

 

  回顧三十年

 

 僕は元来信州の小農の生まれで、総領の上に男兄弟一人の身として当然百姓を継がねばならなかったのだが、それが上京して遊学を志すようになったというのも、僕が十六のとき、諏訪の実科中学に入った翌年父を亡い、当初は非常に悲しく、半年くらいは茫然としていた。そのうち妙なことに慰められた。それは「身を立て道を行ひ名を後世に揚げ以て父母の名を顕はすは孝の終なり。」という言葉を知って、何か初めて世が明るくなり、それから勉強しようと思い立ったのが、そもそもの動機であったろうか。

 この頃は一般に英雄崇拝というか、維新の志士、先覚を非常に崇拝した時代であった。僕も十七のとき、中学三年のときか、年の暮れに単独で伊勢代参に出かけたが、その帰途京都に寄り、郷里の大先輩佐久間象山先生の墓を妙心寺に弔ったり、南洲翁の墓参を思い立って鹿児島まで舟の旅をしたり、それからこれは舟の便が悪く実現しなかったが、琉球まで行こうともした。それこそ雄心勃々というか、いまから振り返って見ると、ずいぶんおかしいような経験をしてきた。

 その後田舎の中学でその教育に圧迫を感じ、面白くないと思っていたところ、東京に杉浦重剛先生がおり、人格をもって教育し、規則などは顧みず、すべて自由放任主義で、その主宰する称好塾には塾員の申し合わせ三カ条以外規則がなく、一糸乱れずうまく治まっているということを聞いて急に上京したくなった。そこで前述べた旅行中偶然識り合った当時一高在学中の木山熊次郎さんに相談したところ、よかろうというので、杉浦先生に「学僕に置いていただきたい」との封書を送った。先生から簡単な返事をもらったときの嬉しさなど、いまでも忘れられないものである。

 長男である僕が東京に遊学することは、親戚の反対が予想されたので、母と内証に打ち合わせ、逃げるように郷里を発ったのは実科中学四年を卒えて、たしか明治三十二年(1899)三月二十六日の未明だった。そこで東京に出て、早速日本中学の試験を受けて仮入学を許され、ともかく卒業するまで一年厄介になったのだが、その間杉浦先生への崇拝心は少しも変わらなかった。

 それから二度目の受験で一高に入ったのだが、僕らの一高時代はいわゆる人生の煩悶時代であって、当時同学だった藤村操君の死など、僕らに与えたショックは、実に大なるものであった。ともかく皆がひたすら人生問題を探求しておった時代であり、内観、内省を重んじ、"自己に忠実なれ"と叫んだ時代だったので、藤村操君が華厳の滝に身を投ずるや、"人生に信仰なきところ何か意味あらんや"というわけで、自分らは全く美に憧れ真理を探求する真剣味が足りないのであり、敗残者として生きているのだとすら考えていたような頃だった。僕などはみずから身を断つ勇気もなく、ただ自然が好きで晴耕雨読の生活をひそかに憧れていた。

 ただ当時、非常な感銘を受けた読書の思い出として一つある。それはトルストイの『わが懺悔』を読んだときの感激であった。いまでも憶えているが、十月十日の晩、燈火親しむべきの秋、一高寄宿寮にて加藤直士訳の『わが懺悔』を読みはじめ、消燈後ローソクの下で読みつづけたときの感激は、全く自分のために書かれたものだという感じであった。

 トルストイの「信仰なきところに人生なし」の言葉を発見したときなど、躍り上るほどの喜びだった。これは僕の思想上の一転機といえよう。人生問題は五十年で解決すべきではなく永遠の信仰によって初めて解決せねばならぬことを教えられ、ここに煩悶解決の緒口を得たように思われて、これまでの暗黒世界から光明輝く世界に出たように感じられた。

 さて信仰への緒口は与えられたとはいうものの、信仰を得たわけでなく、それからは一時学業も放擲して、ただ自然に愛着を感じていたので方々に出かけ彷徨した。この頃ミレーの画に凝ったためか、南米に行って羊飼いをしようと思い、先輩木山熊次郎君と別れの写真をとったことがある。米国に渡航する手続きまでしたが、当時移民問題で渡航がやかましく、東京府庁へ呼び出されて不許可となってこの企図も目的をとげなかった。一巻の聖書を携えて房州へ行ったのもこの頃であり、野尻湖上の孤島、昔、神官のいたという本殿の側の部屋に茣蓙(ござ)を敷いて一夏を自炊したのもこの頃であった。

 ところが、ある風雨の烈しい夜半、戸外に人声がするのでおかしいと思うと、母が僕の身を案じて尋ねて来てくれたのであった。母の愛情にほだされて再び学業を続けようと思い、母のためにという気持で大学の選科に入ったような始末だった。

 学校を出て最初は都下の女学校に奉職した。当時日本の女子教育が非常に遅れているのを痛感し、このため幾らかでも尽くしたい気になったのだったが、同窓の阿部次郎さんも心配して下さり、奥様のお母様がやっておられた神田女学校に出ることになった。ところが今から考えれば大したことでもないのだが、当時理想に走っていた僕は学校の経営方針にあき足らず、私塾でもやろうとも思ったが、さらにつきつめて考えてみれば、信仰もなき自分は人の子を(そこな)うごときことよりほかできない教育界より去ることにした。なお当時は月給が三十円で少しの不平もなく、往復十四銭の電車賃を節約するため大久保から神田まで歩いたが、靴のへることに驚き、朝の割引時間に乗り、往復五銭の電車賃ですませたことなども覚えている。

 さて教職を去ってから、以前より憧れておった晴耕雨読の生活を富士山の麓で送ろうと場所まで心に思い定めたのであった。しかし当時まだ三十そこそこの若さだったので、田園生活はしばらく取って置きのものにして、その前に一度市民の生活をして見ようと思いついた。御存知のごとく、封建時代以来、士農工商といって商人は世間で一番低いものと見られている。しかし商人といえども、やり方が社会的任務を尽くすにおいては必ずしも卑しいものではないはずだ。人のため必要な品物をなるべく廉価に提供すれば人々の必要を充たし、また自分の生活も成り立つ、とすれば、商売必ずしも卑賎ならず、官吏や教員と異なって自由独立の境地も得られ、また人の子を(そこな)(おそ)れもないから心安らかにおられる。こう考えて市民の生活に入ったのである。僕が一市民として商業を始めようとおもったのはこのような気持からだったので、何商売でもよく、当時、新宿中村屋をやっておられた同郷の先輩相馬さん御夫妻を尋ねて、御意見を伺ったような次第だった。現に相馬さんに教えられて、売物に出ていた乾物屋の店を覗いて帰って来たことがある。

 それをまあ、神保町の一隅に古本屋を始めるようになったのも、一つは資本が少なくてできる、また多少とも今までの生活に縁があり、一つはたまたま神田に以前の学校に出入りしていた書店が新しく建てた貸店が空いていたからであったので、失敗すれば直ちに憧れの晴耕雨読の生活に入ろう、老後の思い出ともなろうと、こんな気持で始めたのである。その腰掛けの生活に根が生えるような結果になって、今まで続いているのが自分でも不思議なほどである。

 

 大正二年(1913)八月五日、いよいよ神保町の一隅に古本屋を開いたのであるが、当時古着屋、古本屋といえば掛引き商売の最たるものとされていた。当時言い値の半分以下に値切るくらいのことはめずらしいことではなかった。僕などそれがいやで、学生時代、市価より一、二割高くついていても、正札で売っている東明館、南明館、博品館などいう勧工場へ品物を買いに行ったものだった。それで自分が商人となったからには、再びこういういやな思いをお客にさせたくないと思い、正札販売を行なった。

 今でこそ正札販売といっても何でもないが、当時はまさに破天荒な試みで、「古本を言い値で売るものがあるか」と叱る客ばかりで、毎日、店先で喧嘩ばかりしている始末だった。

 "正札販売厳行仕候" "正札高価ならば御注意被下度候"という二通りの札を、柱という柱にベタベタ貼ったものだった。

 客が高いというとこれを売らず、即時その本を店の奥に引っ込めてしまい、早速小売店員に近所の同業者を全部歩かして値段を調べさせる。そして他所より廉く正札をつけてその日は売らず、翌日店に並べるようにした。素人にて正確な買入れ値もわからぬため、過まって高く仕入れてわずかな利益をつけたにもかかわらず、一般より高価なものもあった。自分の無知をお客に課すべきでないから、これらのものはもちろん正札をつけかえ、正札販売の厳行に努めた。

 当時、支那の留学生が多かったから、「言無二価」「ワンプライス・ショップ」の札まで書物に貼って一般買主に徹底をはかった。

 日ごろ尊敬し、自分の商売の態度が理解してもらえるとひそかに思っていた人までも、百科辞典を持ち帰った後から「あれは幾らにしてくれるか」と言ってきたのに憤慨し、「一冊といえども正札以外には販売し得ず」と返還を求めたこともあった。先方では僕の気持がわかって正札で売ってほしいと申し出られ、僕も喜んでその人に対する尊敬は爾後変わりなく続いている。

 自分は他より幾ぶんでも高く買入れ、また幾ぶんでもこれを他より廉く売ることを心から考えた。もし僕の商売に秘訣があったとすれば、自分の三十余年来の経験により、これよりほかにはないと思う。

 開業の初めは品不足のため、こっそり友人から借りた本や自分の本をなるべく売れぬよう一番高い棚に並べ、お客がそれを手に取るたびに冷や冷やしたことなどもあった。しかし、だんだん世の理解を受けるようになり、一般に古本屋は信用でき難たいと思い込んでいたところ、たまたま信用できると思ったのか、「あなたの所なら幾らでもよいから買ってくれ」といって全国各地から古本を送りつけて来るようになった。

 当時、何の縁故もなかった太田為三郎先生が突然店を訪問され、台湾総督府図書館を創設するため一万円の図書購入の注文を受けたのも、創業間もない僕にとって非常な感激であった。考えて見ればその頃の毎日の売上げ金は拾円くらいであった。当時官庁にては「千円以上は競売に附すべし」という規則があったので、この注文は当然競売にされなければならなかったわけであるが、太田先生は長官の諒解を得て来たからと言われ、名前だけを近所の同業者十人から借りてその形式を整え、請求書を出した。

 僕はできる限り便宜を計り、あの頃は実に本も廉かったので、たぶん九段の書店街のめぼしい本という本は全部集めたように憶えている。先方でも本の荷が着くたびに、「こんなに本というものは廉く買えるのか」と驚嘆したと言っていた。

 その頃は、掛け引きなくては商売はできないというのが一般の常識になっていたので、教員上りの僕のような者は三カ月続くか半年続くかと人々から言われており、また僕自身は志を曲げてまでこの境涯にいようとは思わなかったので、頑固一徹で押し通した。

 かくて小売業の方も順調に進むようになり、そのうち出版を企て始めた。処女出版は夏目漱石先生の『こゝろ』であった。僕は安倍能成君の紹介によって先生の知遇を得たのであるが、先生は僕のごとき一書生風情の本屋に看板の字まで書いて下さり、その著作を出すことを快く許して下さった。

『こゝろ』は先生御自身の装釘に成るものであり、朱の色を使いながら浮華に堕せず、美しい象形文字によって、先生の風雅な趣向もうかがわれるものだった。たしか定価一円五十銭、二千部くらい出した。

 その頃は千部売るのが非常に骨だったのであり、例えば哲学叢書の『認識論』を千部刷ったところ、著者の紀平先生から「ずいぶん乱暴な数を刷るね」といわれたものだった。

 この処女出版『こゝろ』に続いて出したのが「哲学叢書」であった。これは当時、わが国の思想界の混乱時代に当って、この混乱は哲学の貧困にありと思い、哲学の一般的知識を普及する目的で出した。これは友人阿部次郎、安倍能成、上野直昭の諸君が、先輩としては西田幾多郎、朝水三十郎、桑木厳翼、三宅雄二郎氏らに諮って編集したものだった。この「哲学叢書」の出版を機としてわが国一般に哲学が勃興して来たようで、それまでは哲学書、翻訳書などは売れぬものと決まっていた。おかげでこれも回を重ねるごとに売れて行った。

 この「哲学叢書」に次いで出したのが「科学叢書」であった。これも当時、殊に自然科学が日本の文化の最も遅れていることを思い、多少でも教育を受けた人間として、自分は自然科学振興に微力を率先して注がねばならぬと思い、日本人の手になる最高水準の研究を目的とする科学叢書、また普及を目的とする通俗科学叢書を出し、なお研究に必要な外国書翻訳をも計画した。

 ここで常に私の仕事を御援助下さった寺田寅彦先生の御人格が忘れ難いものとして思い出される。先生は科学者にして芸術家であり、才能豊かに哲学を解し、文学を愛し、それのみならず非常に僕らの事業にも熱心な関心を寄せられ、懇切な御指導を賜ったのである。

 申し遅れたが、あの頃は、どこでも新刊書を定価から一割か二割、割引いて売ったものだった。そうなら最初から定価をその分だけ引下げれば読者のためになるとは思っても、それをやる出版者がなかった。そこで僕は進んで正確な定価をつけ「定価販売」を断行した。定価のかたわらに但し書を付して"定価割引販売を許さず"と断わったような次第であった。

それから『思潮』を創刊し、その他講座、全集、単行本など手を拡げて行ったが、私としてはいつも世の中の必要に応じ、いくらかでもそれを充たしたいと思うだけで、別にたいした抱負などあったわけではなかった。

 

 大正末期から昭和の初めにかけて、出版界ではいわゆる円本が流行した。私は円本の学芸普及の功績を認むるに(やぶさ)かなるものではないが、その発行の態度には必ずしも感服しなかった。岩波文庫発刊の辞の一節に「近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態はしばらくおくも後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。千古の典籍の翻訳企図に敬虔の態度を欠かざりしか。さらに分売を許さず読者を繋縛して数十冊を強うるがごとき、はたしてその揚言する学芸解放のゆえんなりや。吾人は天下の名士の声に和してこれを推挙するに躊躇するものである」とあるが、これは当時の円本に対する私の気持であった。

 僕は学芸普及の真に読者に忠なる形式はこれでは駄目だと考えながら、思い出したのが例の「レクラム」であった。学生時代、『ハムレット』、『ヴェルテル』など世界の古典を十銭で読むことのできた幸福を思い出し、学芸普及の形式はこれでなくてはならぬと始めたのが「岩波文庫」であった。

「岩波文庫」は古今東西の典籍の普及であるから、いやしくも価値の乏しきものはいかに売れるからと言ってもその編入を避け、その内容をできるだけ厳選せんとし、それぞれの専門家を煩わした。また訳者、校訂者の人選に当ってはもちろん専門家の意見に傾聴し、すべての方面において、現代において得られる限りの第一人者にお願いすることに努めた。そしてその普及のために、いつ、どこでも好むものを一冊ずつ自由に選択して買うことができるようにしたいと思った。

 文庫は世に歓迎される必然性を備えている。それゆえに、また、必ず同類のものが続出するだろうから、価格においても最も廉くせよと、店の者にもよく注意して始めたのである。

 きわめて薄利で、星一つ二十銭で始めた。

 ところが案のじょう、星一つ十銭という競争が出て来た。そこで値段には負けたが、その代わり自分の方は内容をますます厳選し、「岩波文庫」の程度を下げないことに努め、希覯本のごとくあまり一般的には需要のないものも、価値高き場合は編入することに努めた。『北越雪譜』という希覯本は古本屋で三十五円くらいであったが、これを四十銭で出したところ、一日で古本の値が五円下がった。ともかく「岩波文庫」の厳選の態度は一般の歓迎を受けた。

 こういう気持で「岩波文庫」を創設したところ、その反響の大きいのにはわれながら驚いてしまった。何百通という感謝状、激励文が未知の読者から寄せられ、中には「わが一生の教養を岩波文庫に託す」というような言葉すらあり、私ははじめて「本屋になってよかった」との感を深くした。

「岩波講座」を創設したのは昭和三年であった。これは日本の大学には転学の自由が認められていないところから、その欠を補う意味でもあった。すなわち各大学の先生の講義を、天下一般に解放しようとしたわけである。僕の店は文部省と異なり、制約なく選択が自由に出来るから、各大学の優れた先生方にお願いして執筆していただくことができた。講座は、学者からは殊に喜ばれた。

 また「岩波全書」はドイツのゲッシェンに似かよわせたもので、現代の学術について学界の一流の人にできるだけ簡潔に書いてもらうものである。一般の人にできるだけ現代の学術を普及させようとしたもので、例えば二円でも三円でも売れるようなものを八十銭で売ったのも、学芸普及の目的のためにほかならなかった。

 これと併行して現代人の常識教養を向上させようと出したのが「岩波新書」である。「岩波新書」の第一にクリスティー著、矢内原忠雄訳『奉天三十年』を入れたのも偶然ではない。わが同胞が王道楽土建設と称しながら満人を同胞視せず、天照皇大神宮を移し祭って事足れりとしているのに反し、イギリス人にすら人類の理想のためには民族を超越し、満人のため一身を犠牲にしている者のいることを、警告するためであった。いまから考えれば感慨深いものがある。

 さて僕が出版に骨折った一つに「教科書」がある。元来教科書を売るのには、教員に使いを出す、販売部員を地方に派遣する、東京に出て来る教員を饗応するなど大変なものであった。それというのも、教科書がまるきり営利の具に供されておったからで、純真なる生徒に与えるこの神聖たるべき教科書が、かくのごとく取扱われることは、考えれば全く怖ろしいことであった。

 私は教科書界の実情を厭い、教科書など絶対にやるまいと思っていた。しかし、考えてみれば教科書は本来学生にとっては勉強の基礎であるから、出版業者としては正しい意味でなすべき仕事であり、またオリジナリティーも許される範囲内で発揮できるわけであるから、今までの嫌厭の気持を捨てて翻然として積極的にこれをすることにした。そしてやる以上は、できるだけの特色を持たせようというわけで始めた。そこで現代国語界の第一人者西尾実氏に頼んで『国語』の編集をやった。僕としてはその内容において、販売方法において、新しい途を開いたつもりであった。

 ナチが秦の始皇帝のように焚書までして、世界の賛美するドイツ固有の文化を弾圧したことは、心ある人をして、顰蹙(ひんしゅく)せしめたものであった。日本が悪法まで作り、人民の良心と道理とを圧迫したこともまた相当なものであった。正しき多くの人を牢獄に投じ、優秀なる学者を学園から追放し、また国民の教養に欠くべからざる良書までも発行発売を禁じた。

 私のところでも相当の被害を受けた。そしてこの命令の衝に当る内務の当局までむしろ同情する程度にまで達した。良書のあるものは、自発的に一時、発行発売を止めておくようにと好意的にいってくれることもあった。ある時などは憲兵が「お前の処には不敬の書が出ていると投書があった」と問題にして来たので、よく聞いてみるとそれは『大鏡』であった。これは日本の古典で教科書として用いられているということを教えてやったら、「そうか」といって帰ったこともあった。

 連合軍の宣伝ビラの中に「ヒットラーを倒してドイツを救え」というのがあったということを聞いたが、これは効果があったに違いない。十一年前、私が外遊の時、あるドイツ人は私に声を低くして「こういう時代も長くは続かないでしょう」と語った。文明国だというヨーロッパにも、昔、地動説が異端邪説とされ、これを説く学者は極刑に処せられた時代もあったのである。

 満州事変を機として、日本にも世にいう言論弾圧時代が来た。この時代にはずいぶん不愉快な思いをした。

 友人黒崎幸吉君が聖書研究の雑誌を出していたが、警察に呼ばれて強圧的にその発行を止めるように言われた。同君の奥さんはかつて私の店で仕事を手伝ってくれた尊敬すべき人であったが、手紙をよこしていかにすべきかということを相談して来た。その時私は「狂犬に出遭った際に採るべき態度が二つある。一つは成算があらば即座にこれを撲滅することだ。二つには撲滅の自信がなければ樹に登るなり石蔭に隠れるなり、一時狂犬の通り過ぐるを待つべきである。妄りに狂犬に噛まれるようなことは避けたがよい。この災難は神があなたに休養を与えたと思ってしばらく休刊したらよい」と答えたことがある。

 当時情報部が出来、陸軍の将校など時勢に乗じ、ずいぶん勝手なことをしたものだ。平素文化のためなどと口癖にいっている出版業者が、こういう不届き者の御機嫌をとることを怠らなかった。用紙を欲しいために、相当世に認められたところまでも、その意を迎えることに汲々とした。

 ある時、情報局から個人の資格で電話がかかって「君のところに安倍能成という者の本が出ているそうだ。僕は読んだことはないが、それは内容がいけないということだから発行発売をやめろ。やめなければ紙をやらないぞ」と威して来たそうである。この種の電話は、私の所のみでなく方々にかかったそうである。まるで気違い沙汰としか思われない。今では夢のように思われるが、当時、推進力というものの中には新聞の朝日、学校の一高、本屋の岩波を退治せねばならぬとの考えがあったそうだ。

 またこんなこともあった。『資本主義発達史講座』をマルキシズムの錚々たる人々から出して欲しいとの申し出があった。私はマルキストでも共産主義者でもないが、日本国民を大国民にするためにはその思想を世界的ならしめねばならぬと強く考えていた。封建制度のもとで井底の蛙のように育成されて来たこの偏狭な国民に、人類思想界の一潮流とすべきマルキシズムを紹介することは絶対に必要であるということを信じて、主義の宣伝でなく飽くまで学問的、研究的にするならばお申し出でを受け容れたいと答えた。

 そこで当時の内務大臣が潮恵之助君であったか、河原田稼吉君であったか、ただ今はっきり憶えていないが念のために内務大臣に相談した。「君のところから出るならば心配はない、よろしい」と言われ、紹介状をもらって警保局図書課長に会ったが、同氏は非常に好意をもって迎えてくれた。この時「何か困ることが出来たら電話でもかけてくれ」とまで言われたのである。

 私もかかる当局の信頼に対して万一にでも手数を煩わしてはすまぬと責任を感じ、書店としての特別の校閲までしてその心配をなくすることに努めた。この講座は各項目が一冊ずつの小冊子になっていて、五、六冊をまとめて一回の配本にしていた。これは四回まで少しの故障もなく発行できた。しかるに第五回配本に至って突如、小冊子の全部が発禁にされた。そこで私は発行の際寄せられた図書課長の親切な言葉を思い出し、自身役所に赴き「一言の予告もなく発禁にするとは何事ぞ。私は官権に御迷惑をかけることを恐れ、書店としてわざわざ校閲までして、出来る限り慎重な注意を払ってきた。何らの予告もせず発禁にすることは警察官にも非常に手数をかけることだし、われわれの迷惑損害おびただしいものである」と抗議したが、当時、図書課長はもはや代わっており、「当局の検閲の態度は変わっていないが、君の方の編集の態度が変わったのであろう」というような無責任なことを(うそぶ)いていた。

 こういうように官庁のやり方が一定の方針なく、猫の目のように変わり、人民を苦しめること一方ならぬことはその実例が乏しくない。正しき主張でも「町人のくせに何をいうか」というようなことは役人として普通のことであり、また土木関係の願い出など、正しい手続きをもって許可された場合はほとんどなかったとまでいわれている。これまでの官吏は人民の公僕たることを忘れ、地位による権力を濫用することを憚らなかった。

 言論自由の世を迎えて、弾圧時代を語れば尽きるところがない。思い出話はひとまずこのくらいで打ち切ることにしよう。

 

 さて今は一高の校長になっている天野貞祐博士の『道理の感覚』において、軍教に関して批判にわたったことが軍部の問題になった。私は発禁の命令が出るまでは頑張るつもりであったが、当時、博士は京大の学生課長であり、博士の地位に禍が及べば学生のためによくないと思い、自発的に絶版にした。

 また津田左右吉博士が著者として、私が出版者として出版法違反という不敬罪で刑事被告人になったことがある。告訴を理由づけるために、約二十年前の刊行で、学界において珍重されてきた博士の著書を発禁にしたといわれている。刑が重く決まれば二年間牢獄に入れられる身であった。一審では二ヵ月の禁錮で執行猶予を言い渡された。悔悛の情なきはもちろん、被告人両名ともその正しき主張を一寸一分でも曲げないのに執行猶予になることは腑に落ちなかったが、博士は老躯病弱で、この上尊い歳月を裁判沙汰などに費すのを厭われ、私も日本の裁判の正義に対して疑いを持ち、災難と思って無益な抗争など止めるつもりでいたが、あに図らんや罪が軽きに失するといって、かえって検事から控訴されたので、弁護人のいうままにこちらでも控訴することにした。

 最後に、名判官といわれた藤井五一郎氏がこの事件の裁判長となって正しき判決が期待されていたが、この事件はすでに時効になっていることを陪席判事が発見した。検事も裁判官も弁護人も全く知らず、また被告の津田博士は「病弱のゆえをもってなるべく厳寒酷暑を避けたる時期において審議してもらいたし」という嘆願書を出していたばかりであるのに、この時効には一同唖然とした。これは正義を愛する神の裁判かと私は思った。

 その頃、天津にいるある憲兵から、私の書いた「岩波新書の刊行について」の中にある「武人に高邁なる卓見と一糸乱れざる統制ありや」の一句をとり挙げて激昂した手紙を寄こし、ただでは置かぬと威かされたことがある。この時は実のところ怖ろしかった。

 また三井甲之君は往年、僕の同学年の関係から、同君の懇意であった蓑田胸喜君を呼んで三人で築地の錦水で話し合ったこともある。誤解に基づいて無用の論議に短き人生の尊き時間をつぶすことはお互いによくないと思いこの会談を試みたが、結局その目的は達せられなかった。

 近時、蓑田君の自殺が伝えられるが、まことに気の毒である。同君とは根本的に主張を異にしているが、当年軍閥に迎合し、今また民主主義を謳歌している徒輩に比べれば、蓑田君は自己の主張に殉ずる忠実さを持っていた点は感心である。

 戦時中、統制ということが流行し、あまり縁故のないわが出版界にまでも及んだ。私は反対であったがどうすることもできなかった。自分の無力を恥ずるばかりである。用紙の配分は重要問題であり、これが公正なる分配は、業者にあらざる日本の文化に関係深き公平なる人々によって定められるべきである。しかるにこの規準を厳正にする根本を忘れて、企業整備と称して業者を統合したり、あるいはやめさせたりして業者の数を少なくすることに、多くの時間と労力と費用とを費し、無用の苦心をしたのである。整備が出来た時にはすでに分配すべき用紙がほとんどないという始末でもあった。

 かつまた思想までも統制しようとして、文部省をはじめとして、ある誤まれる意図を抱いた者が思想委員会を作り、偏見をもってナチのように思想の統制をはからんとする暴挙までも敢えてした。公正なるべき『読書人』が西田哲学排撃などをやったのもこの時である。国家の前途を憂い、公論、正義、文部省のやり方をも批判する唯一の教育雑誌である『教育』を廃絶せしめたのも文部省の思想委員会である。これらの委員は恐らく追放または自責謹慎していることと思う。 (談・文責記者)

 

  付 記

 

 今日まで、五回にわたって連載し来たった「回顧三十年」は、はしなくも岩波氏最後の回顧録となった。これは春なお浅き三月の一日、氏を熱海の惜櫟荘に訪れた折り、氏みずからの口により親しく語られたものである。氏はこれに非常なる熱意を傾注せられ、多忙をきわめる昨今、暇を見ては筆記録に筆を加えられ、ついに脳溢血に斃れる日まで続けられていたのである。あるときは夜半、床より再び起きては筆を加えられていたことを聞き、あるいはこれが氏の不幸を早めたのではないかと、ひそかに虞るるばかりである。氏の語るところ、あるいは過ぎにし時代の風潮を論じ、あるいは将来の文化を説き、また氏独特の人生観に至るなど、尽きるところなく、現に氏の手もとに未加筆の草稿もあと数回の連載を予期するものがあるのであるが、その人すでになき今日、遺憾ながらひとまず今回の分にて打ち切りと致す次第である。(編集部記者)

(昭和二十一年三月─五日『日本読書新聞』)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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岩波 茂雄

イワナミ シゲオ
いわなみ しげお 出版人 1881・8 長野県諏訪郡に生まれる。1913(大正2)年、岩波書店創立。出版人として唯一人の文化勲章佩帯者。

掲載の「読書子に寄す」は言うまでもなく「岩波文庫」創刊時(1927)の宣言、岩波茂雄をそのまま表現した歴史的文章である。加えて「出版」とは何かを原点で語った最期の談話筆記「回顧三十年」により「岩波の理想」を記念する。ともに1968(昭和43)年6月栗田書店刊『出版人の遺文 岩波書店 岩波茂雄』に拠る。

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