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陽羅文学私論

  はじめに

 

 陽羅義光氏は現役の作家である。そして文学の仲間として最も身近かにいる親しい作家である。まさに現在進行形の活躍さ中にあり、従ってその文業は未完結である。研究者の仕事としてこれまで、一応作家としての評価が定まった、つまり故人の業績を文学史的に位置づけるといった、多分に教場的講義的作業により多く終始してきた私にとって、ばりばりの現役作家を論じようとするのは本稿が初めてである。仲間うちの作家の作品の批評乃至は感想を綴ったことはいくつかある。が、本格的な作家・作品論に敢えて挑もうとその照準を陽羅氏に絞った理由は、総括してその文学世界の複雑性にあると言えようか。私にとって単純明快、完璧無瑕ということは魅力にも芸術性にも程遠い世界なのである。屈折した、陰りの部分を腑分けして陽羅文学の神髄に迫りたい、そんな野望?を抱いているわけである。(とは言ってもあくまで流動的な評価になることはいうまでもないのだが)現在進行形なるがゆえの、未来へ向けての限りない可能性(あるいは変貌。若さとは関係なし)を秘めたこの複雑にして異才の作家を、ここで一先ず現在完了形に停止させて理解することが出来たらとの念やしきりなのである。

 

  その文学的出発まで

 

 作家陽羅義光(以下すべて敬称略)は、十八歳の時から小説を書いているということだからその素地環境は十分に備わっていたと言える。読売新聞記者の父と歌人で茶道指南の母の次男として横須賀市に生まれた彼は、幼少の頃から母の言い付けで作文や日記、英語などを学習し小学生時代は毎年級長を務めるという優秀な子であった。作文コンクールで選抜され毎回受賞、その作文は担任の教師が大切に保存して「言葉の天才だ」と触れ回った。それらはすべてあくまでも担任の女教師の贔屓によるものだと彼本人は謙遜するが、このことはいわゆる血脈の問題として重要である。現今はヒトゲノムとかDNAという発生学的遺伝学的用語があちこちで聞かれるようになったが、人間の個性、資質はすべて遺伝と環境によって決定されるといわれる。良くも悪くもそれは血統という逃れられない宿命なのである。彼は資質的に、特に母の血を濃く承けているように思われる。

 ここで彼の少年期の生活的環境をピックアップしてみると父の職業柄転勤が多かったのか、埼玉県浦和市、岩手県盛岡市、福島県福島市、そして再び埼玉県の蕨市と、厚木基地に近い綾瀬小学校に入学してから以来、約十年間のうちに四回も転居、転校を経ている。小、中、高校時代はめまぐるしい移動のなかにあって多感な義光少年の作家的感性が培われたとみていい。ちなみに読書傾向は偉人伝やナチス関連のもの、また石川啄木、宮沢賢治といったともに岩手出身の詩人に強い興味を覚えた。一方名門校福島高校ではテニス、野球、マラソンに熱中してスポーツ少年に徹したため学業についていけず、落第の危機に瀕したこともあった。しかし、蕨高校に転校するに及んで一転、スポーツを止めて学業に専念、読書は源氏物語や枕草子、徒然草など専ら古典に執した。この頃から彼の健康は病魔に蝕まれ始める。かなり重症の胃潰瘍に罹り、吐血、貧血といった体調不良に陥る。そして一年間大学浪人となるが受験勉強はせずに毎日映画館通いで年間約一千本は映画を観たというから脱線ぶりも半端ではない。十九歳春、早稲田大学文学部に入学し美術を専攻するがここでも授業には殆ど出ずに学生劇団に参加して役者をやったりアルバイト(新聞社嘱託、照明員、ガードマン、学習塾講師他数知れず)に多くの時間を費やした。彼はまた歌手を目指してコンテストに参加したりしている。

 こうして二十歳の冬ついに喀血し、彼の文学的閲歴のエッポックを劃する大患を宣告されるのである。以後彼は十年間の「結核患者」としての療養生活を余儀なくされるわけなのだが、この期間は作家としての文学的起点となり陽羅文学の基底を醸成した重要な時期と考えていいのではないか。このころの読書は志賀直哉と川端康成を主に、また鴎外と漱石の研究に意を注いだ。結核発病後は歌手も役者も諦めて小説、詩、戯曲の創作に専念する。そうした時代の彼の精神風土はしかし決して安定したものではなく青年期特有の思索、懊悩、時に自殺衝動に駆られることは度々であった。がその都度芥川や太宰の「死」を強く意識しそれらを超えたい願望が彼を占めたのである。ペンネームの「陽羅」はこの時生まれた。彼は小説の他に詩や評論、エッセイなど多方面に活躍分野を広げているのは周知のことだが、前記したように文学とは縁遠いと思われる歌手や役者を目指した一時期もかつてあったということは筆者には興味深い。歌手であれ役者であれ、将来への見極めも決まらぬ混沌とした胎動期に浮上したこれらの願望、憧憬はやはり作家陽羅義光の内部に包括されるべき貴重な稟質の構成要素たり得ているのだ。言い換えれば根っからの表現者で彼はあるということである。

 

  陽羅文学の傾向と特色

 

 結核が落ち着いてくると生活は執筆中心となり読書は埴谷雄高、吉本隆明、また太宰治、梶井基次郎、坂口安吾、織田作之助、葛西善蔵、横光利一をよく読む。わけて横光に最も魅かれる。他に大江健三郎、吉行淳之介、石原慎太郎など現代作家、外国文学ではチェーホフ、ドストエフスキー、ヘミングウェイ、カミュ、サリンジャー、アルトー、等々耽読した。二十七歳で八年間の大学生活を終了、卒論は「ルノワール論」(二百枚)だった。

 「二十歳のときに、田舎の納屋の二階で血痰を吐きながら書いたもの」(『世紀末ノ虎』平成10・9刊 あとがき)という「哀しき羔」(1966年執筆。「拠点」1968年)は、進駐軍の基地を背景にした少年時代のノスタルジックな佳作だが、私はこの作品を以て彼の処女作としたい。小学校低学年時代の彼の生活環境、交友関係が、終戦後の社会相を反映してそれが純な子供の目線で捉えているのが良く、哀憐の情が胸を打つ。「哀しき羔」という題名に、病む作者の少年期への郷愁が滲みていてそこにこの作家の原風景を見る。以来彼は現在までの三十数年間に三百数十篇の小説作品を発表しているという驚異的多作作家である。

 陽羅義光は基本的にどんなタイプの作家か。少なくとも明治、大正を総括する近代文学に顕著だった純文学、大衆文学、通俗文学という分類は昭和期以降特に終戦以後の文学ではその三者の境界が取り払われてしまって、現代文学としての内容、傾向を深化拡大、複雑にしている。だから一概に純文学作家、あるいは通俗作家という枠に嵌めて作家を論ずることはかなり危険なことであるしむしろ不可能でナンセンスでさえある。昭和の初期、「純文学にして通俗小説」を標榜して小説方法論を提出、当時の文壇に大論争を巻き起こした横光利一の「純粋小説論」の先見性が体験的に回顧されるのである。

 作家のタイプは、それゆえその扱う素材、題材の特色、傾向によって分けられるべきで、筆者はこの観点から陽羅の主要作品二十数篇に限って改めて分析を試みた。ということは従来この作家に対する筆者の概括的印象が「母恋い」を主軸とする抒情小説作家ということであり、具体的には「全作家」(1990年)に発表された「水の中で対話が始まる」における強烈な母性思慕の印象がその後も長く尾を引いて、その他の多くの要素の存在を薄めてしまったのである。一体この「母恋い」なるものの原拠は何なのだろうか。その前にこうした筆者自身の思い込みに似たある種の断定そのものに自ら疑問を投げかけること、つまり、もう一度その作品群を根底から洗い直すことによって筆者自らをも検証しなければならない。

 結論から先にいうとやはり彼は本質的には私小説作家である。作品の根底に流れているものは作者自身乃至はその血族や身辺にまつわる人物、事柄、体験であり、それらが巧みに虚構化されあるいは殆ど実録に近い手法をとっているという極めて固有な特色を持つのである。因にこれに対峙する純然たる虚構に終始したいわゆる物語作家,観念小説作家,その他にも小説自体の種別によっていろいろのタイプがあろう。ともあれ自己及びその血族が軸になっている作品がその大部分を占める陽羅文学である。先に提示した《母恋い》であるが既成作家で代表的な谷崎潤一郎(母を恋ふる記、少将滋幹の母、等に顕著)の場合のようにストレートな母性思慕とはその内実は大きく異なるのである。

 「水の中で対話が始まる」(1988年執筆)は、作者の母の死がテーマになっている最初の作品である。彼は1981年、実母を亡くしている。それは入水自殺という衝撃的事件であった。彼は「母があのような死に方をしなければ僕の中の母恋いという境地は生まれなかった」と述懐する。このことはまさに彼の作家人生を変容させる一つのエポックを劃するものであり、事実その後の凡そ一年間というものは鬱状態の懊悩の日々であった。それほどの強烈なショックが彼を見舞ったということは如何に彼が母を愛していたかの証左となる筈である。しかしそうではない、それは母への愛の屈折した陰りが、ある謎として彼の胸中に蟠り続けたのではないかと思われるのである。「水の中で対話が始まる」はその後の数年を経て、長篇として改作され『水恋譚』と改題して一本になった。同じテーマ、内容の作品を更に練り直して大幅に増補改作するという作家の営為それ自体に筆者は拘りたい。内容の部分的な多少の添削や改題ということは従来も珍しいことではないが、長篇として作品を拡大深化させた『水恋譚』には作者の強烈な執念が充溢していて圧倒される。母の死という人生に於ける普遍的な体験でありながらそのなかに特有の、自分だけに与えられた特異な運命の自覚が読む者の感性に響くのである。

 原作「水の中で対話が始まる」(以下「水の中」と略記)と改作『水恋譚』を比較検討してみよう。

 「水の中」の骨子はこうだ。プロローグに、妻の独白をおき、主人と子供の平和で安定した家庭の幸せを描写、《ヘンな主人》と言いながら心から愛し信頼している妻の夫への心情や二人の子供たちに慕われる強く優しい父親像を浮き彫りにする。次いで中心部となるぼく(夫)の叙述(1~6)が六章に分けられて、子供の学校のプールを舞台にその中で展開する冥界の母との負の世界での交渉、対話が活写される。

(1)ぼくがプールへ行きだしたのは腹囲を3センチ縮めたいといった他愛もない理由に始まったことだったが水に潜っているうちに水中に、初め何か影のようなものを感じそれが何物かが分からぬまま妙に気にかかった。(2)次の週の日曜日またプールへ行く。同じ姿勢で潜る。今度は影ではなく人の姿─母に見えた。翌週は接待ゴルフのためプールへ行けず、母の姿を再見する希いが一週間延びて不機嫌になる。そしてそのまた次の日曜日はプール開放の最終日、小雨交じりの曇り日だったが早めにプールに行く。母が入水した日も小雨が降っていたことを思う。その日母はすぐ現れた。上半身だけの和服姿で。「──元気ですか、母さん。──元気ですよ。」こうして母との対話が始まった。(3)生前の母の追想と二年ぶりに父を訪ねての幽霊問答。帰途の電車の中で母の通夜の時の情景を回想する。父の号泣。「ぼくは、死んだ母よりも、残された父が、百倍もかわいそうだった。ぼくは、母の生前も死後も、母を憎んでいたはずなのだ」(4)快晴のプール開き。「──ごぶさたしました、母さん。──約束通り、来てくれたのね。」ここで重要なのは、ぼくのいわゆる《母恋い》の真相に触れていることである。「恋愛感情の変形したもの」に「甘えが、微妙にしかも多量にまじっていた」と。そしてそれを昔の、母に対するある種の「みにくい複雑な感情」と述べている。「──美しい母さん。と、ぼくは言いかけたが耐え、」とある。また、「ぼくは、母を知りたかった。母の謎を知りたかった」とも。息が苦しくなると一旦水面に顔を出し再び潜る。これを繰り返しながら母との対話は続けられて「──ぼくは暗黒の宇宙という悪夢を見てしまった。助けて──」と叫んだ時息の限界が来た。(5)三年前のある事件、ぼくの勤務する銀行のある支店に強盗が入った時の回想。母親を成仏させるために墓を建てる金欲しさの銀行強盗ということだった。母の墓はある。ぼくは母を成仏させてあげるために何をしたらいいのか。(6)母は待っていた。ぼくにしてあげられること、何か、ないのかな。それへの母の返答は「──九分、九十、九秒。」……水の中で、息を止めて、九分九十九秒もがまんができるか、それは死を要求することだ。「──ぼくにはできない。命をかけても、不可能だ。」……しかしそれをやり遂げたら母さんは救われるのなら……ぼくはある覚悟を決めてその難行に敢えて挑戦することにした。母が見守るなか、「──すごいわ……強い子ね……母さん……とっても……うれしい……すごい、すごいわ……。──母さん、ぼくは、どうなってしまうんだろう……。」こうしてぼくは意識が朦朧となり動けなくなってしまった。

 エピローグは再び妻の独白。主人の自殺未遂は新聞に載らなかったこと、はじめに主人の異常に気がついた娘が監視人に知らせて助けてもらったこと、一時は植物人間にも成りかねなかった状態から漸く脱した主人は娘相手にしか、しかもとても小さな声でしかしゃべらない。話の内容は娘が首を横に振るだけで、そして「それを口にしてしまうと主人が死んでしまうとでもいうのか、黙して何も語りません。」さて、プールの水抜きの日、たまたま通りかかった時の光景はその後もよく夢に現れる。それは鯛が一尾、鱗をきらめかせて排水口に吸い込まれて行くところで、鯛は生きているのか死んでいるのかは分からない。

 以上が初出の「水の中」の構成とあらましの内容である。母の入水自殺という深いトラウマを抱えた作者の、これは恋する母への抒情歌であり至上の挽歌である。同時にカタルシスの達成という作者の重い文学的課題でもあった。作中のぼくには作者の人格の投影は勿論であるがその母に瓜二つというぼくの娘への微妙な情感のゆれが架空の世界でのリアリティーの演出に役立っている。プールの水の中という限られた閉塞された世界で演じられる非現実的営為には、母が死んだ時と同じ苦痛を嘗め死の世界を体験的に共有したい思い、その極めて烈しい想念が、静かに燃えているのである。

 「水恋譚」(平成十一年刊・1995年執筆)は、「水の中」という骨格に肉付けしさらに情念をも盛り込んだミステリー風長編ドラマに仕立てられている。約七年の間腹中で温められたと推測される構想は劇画的原色の装いを凝らして量的には四倍強の厚みとなった。原作が淡白であるだけ改作の濃厚味が際立ち、ストーリイも深化し多様化する。したがって登場人物も新たに浅沖洋(霊媒師の一人二役)と友人Aを加え、構成も1~15に分章、妻の語りと夫の語りを交互に織りなすことによって夫と母の二人の世界(負の世界)を中心にした原作のメソッドを拡大して妻、浅沖洋にも照準を当てた新たなドラマを挿入した。そしてこの浅沖洋という得体の知れない人物の設定こそは、母との関連でその謎に迫る仕掛け道具となっているのである。極限すれば作者のいわゆる《母恋い》の、陰に籠もる実態の解明に必要不可欠のシチュエーションなのだ。

 「水恋譚」は、「水の中」を長篇化したフィクションとして再度世に問う作者の心理の深層を忖度する格好の材料であろう。《母恋い》という清浄無垢な心情に対する贖罪にも似た悔悟の念のなかには、「恋愛感情の変形した」それに「甘え」が微妙にしかも多量に含まれた自己の、母に対する「醜い感情」の払拭と浄化を希う祈りのようなものが見える。フィクションとして生まれ変わった「水恋譚」の中心軸となるのは、したがって浅沖洋という怪人物であり作者はこの人物の描写に心魂を注ぐ。

 浅沖洋は母の恋人、つまり不倫相手であり母の自殺は実は浅沖洋との心中であったのに母だけが死に浅沖洋が生き残ったいわば心中の片割れである。また妻とは肉体関係のない交際相手であり、老婆に変装した霊媒師だったり自身は高名な(実はインチキな)詩人でもあるといったマイナスイメージの多人格を所有させている。一篇のクライマックスともいえる以下の場面(第十三章 妻の語り)は強烈なインパクトを刻印する。それは浅沖洋が何時ものデートで夜の海へ私を誘った時のこと、そこは母と心中を図った稲村ヶ崎の海岸だが、自分は若い頃からよく夜の海へ来る。そしてここで啓示を受けるのだという話を始め「自分は、お願いするのです。(中略)心がキレイなときに、死なせてください。…」「そのとき、自分は、一人の美しい女性と一緒でした」「女のひとは、死んだのですか」「そうです。自分だけが、助かってしまったのです」と、その時浅沖洋は声を放って泣き一振りの短刀を取り出した。あの波、海の黒い恐怖を鎮めるためにこの短刀を海目がけて放り投げてくれと、私に命じる。私は恐れ戦きながらも漸く短刀を波に突き刺すように投げ込んだ。が、何度投げてもすぐに戻って来る。そのうちその戻って来た短刀が浅沖洋の顔面に命中して片眼を刺し貫いた。半狂乱の浅沖洋は洞窟となった片眼から血と涙を零しながら私を追いかけ廻る。私は必死になって海に向かって逃げる。ついに追いつかれ腕を掴まれた時、私は何か巨大な魚の尾鰭で弾き飛ばされた。それは鯛を数百倍にしたような美しく巨大な魚だった。しかもその巨大な魚は浅沖洋の五体を、激しく、冷酷に食いちぎるのを、私は呆然と眺めていた。……手を、足を、そして首を食いちぎられ……「切れ切れになった浅沖洋のからだは、黒い波にさらわれ、巨大な魚も、魚鱗を二度三度波の上に見せながら、水平線にむかって帰って行ったのです」──黒い海を背景にした一幕のこの夢想的幻想的そして怪奇的な場景は暗く冷たい情念、そして死というものの形象化された一齣として、様々な意味を内包しているように思う。例えば美しい鯛は母の化身であるとか、恋敵である浅沖洋への怨恨と復讐、そうしたものをシンボライズした極彩色の画面をすら想像するのである。この浅沖洋については《妻の語り》の中で詳述されていることも構成上の作意であろう。

 「水恋譚」に於ける改作部分は文章表現での添削(圧倒的に添の方が多い)は殆ど毎ページに及ぶ。その一つ一つを例示する煩を避けたいがその多くは文節そのものの挿入で状況描写の徹底を期しての試みとみられ、そこには作者の新しい文体実験の行使が窺える。またストーリイ展開の上で終章(第十五章 妻の語り)、主人が瀕死の状態から生還したのは、原作では一緒にプールへ行っていた子供が父の異状に気が付いたのだったが、改作では妻の激しい胸騒ぎで主人の異変を予感し、子供をプールへ走らせたとしている。また主人の父の登場は原作の場合はぼくとの幽霊問答で終っていたところを、改作では見舞いに来た父が妻との対話のなかで「二十年かけて、あいつは、母親の後を追ったんだな……」「血だな。血だな。母親の両親はね、実は二人とも自殺しているんですよ。──まあ、息子には話してませんがね。夫婦で心中している。(中略)血ですな、因果ですな……」と言わせている。おわりに、浅沖洋がノーベル文学賞を受賞したという輝かしい報道が新聞の一面を飾ったが肝心の当の本人は行方知れず。遺体も発見されずその目処も立たぬまま「ノーベル文学賞に背を向けて一人荒野に旅立つ孤高の詩人」というキャッチフレーズを冠せられてジャーナリズムに称賛された。しかし浅沖洋の詩作品はすべて盗作であったことが友人Aによって知らされ、しかもそれが主人の若き頃の詩作品からの盗作だったと分かり詐欺師の本性が暴露されて終止符が打たれるのである。──「こころが透明になるときがある 一ト月に一度いや一年に一度、そんなとき死にそこなって 二十歳になった」──主人の詩としてこれを見せられた妻は失神するほど驚いた。それは第十三章の中の「……死ぬには、心が汚れている。どうか心がキレイなときに、死なせてください。……」と神に願った浅沖洋の言葉とあまりに脈通するものがあったためである。なお、結章は原作「水の中」のそれをそのまま結びとしている。鯛はそのままリアルな形で、排水口に吸い込まれて行くドキリとさせられる光景は凄味がある。ま昼間に体験する怪談の恐怖である。

 さて、ここで浅沖洋という人物について再検討するまでもなく、作品のなかで作者自身をかなり意識的に絡ませているように見られる。あるいは無意識のうちにか、部分的なオーバーラップが認められる。筆者の独断的な偏見を敢えて高言すれば彼のいわゆる《母恋い》の《みにくい感情》《屈折した母恋い》の、想定されるすべての行為や状況を投入したある作為が、この浅沖洋に見られるのだ。作者にとって母はその自殺の理由についても未だに謎で不明のままであること、否それ以前に、果たして自殺だったのか、事故死ではなかったのかという、果てしなく広がる晦い疑惑が心底に重く沈んだままなのであろう。母を知りたい、本当に理解したいのに黙したまま水中に身を投じた母。生前も死後も憎み続けていたはずの母という心情の裏を返せば余りに強い愛にほかならなく、フロイトのいうエディプスコンプレックスが基底にあることは自明である。加えて絶世の美人を母に持ったのである。彼の《母恋い》はたしかにストレートではない。が、決して特異でも、まして醜悪などではない筈である。にも拘らず母への感情のなかに蟠る母子相姦的罪悪感を拒否できない深層心理が「水恋譚」を生ましめたのだと解釈するのである。

 母の死を境にそれ以前と以後の作品群には取材、テーマからいって確かに陽羅文学的色彩や傾向の分岐は見られる。当然ながら「水の中」と「水恋譚」は唯一母の死そのものがテーマのフィクションであるが「水恋譚」と同年代(1995)に執筆した「我的父母」(全作家短篇小説集第四巻所収)は殆ど実録と思われる母の追悼といってよく、作品の発表年月を外した、執筆年月に均して俯瞰的に見ると作者の心境や創作衝動といったものが意外によく見えてくるのである。「水恋譚」と「我的父母」は何れが先か、書かれた月までは分からないが兎も角も同時期に同一テーマで実録と虚構といった二つの手法を駆使しているのだ。ずっと下っては「ゆえに我あり」、「暗愁」という傑作も生まれている。

 「母」(「母恋い」といっていい)を、直接的にも間接的にも意識した作品はその処女作以降かなりの数を数える。「哀しき羔」、「姉の海」、「君忘れじの一ッ目小僧」、「極楽寺坂切り通し」、「河畔の風景」、「血の記憶」、「水の中で対話が始まる」、「名づけえぬ嘆きの声」、「水恋譚」、「我的父母」、「道元の風」、「門前雀羅」、「SAIGO──二十一世紀の西郷隆盛」等。なお「哀しき羔」をこの中に入れたことには筆者なりの註記が必要である。本稿の初めの方でも触れたがこの作品は小学生時代の唯一の自画像ともいえるもので、筆者の好きな作品の一つなのだが母をテーマにしたのでは勿論ない。しかし作中一ヵ所だけ母に触れている。武(作中の作者)の受け持ちの女の先生が初めて武の家を訪問した時「たけちゃん、お母さん病気なんですってね……」「ヒステリーばばあが居なくってせいせいしているんだ」という会話の中である。そして「確かにその言葉は、武の照れ隠しであったが、事実でもあったのだ」と言っている。「ヒステリーばばあ」といい「居なくってせいせいしている」といい、子供の頃の、かなり厳しかった教育ママへの反発ぶりが窺えこそすれ母への嫌悪の気持ちなどさらさら感じられない。《大好きなお母さん》への反語的表現の中に腕白で照れやであまのじゃくの義光少年の、健康的な息づかいが聞こえるのである。その処女小説に、初めて間接的に一瞬登場した《母》は決して否定的な母ではない。

 おわりに素材的に見た特色について触れておく。総じて《女》が最多というより女の登場しない作品は皆無である。中で顕著なのは《少女》で、「哀しき羔」、「十四の春」、「百合乃」、「マーキュロクロムの紅き森」、「少女の好きな飛行船」、「パッション」、「七〇年冬サバイバルゲーム」、「作家の誕生」、「観音崎」等で《少女》は作者の好みというより憧憬である。それは例えば川端康成の清教徒的少女憧憬とは異質の、性への如実な嗜好がある。次に「哀しき羔」や「十四の春」、「マーキュロクロムの紅き森」、「君忘れじの一ッ目小僧」、などの少年像には遠い童心へのノスタルジアが野性味に哀愁がミックスされていて前期の作風を特色づけている。この少女と少年は現時点での前半までの最多テーマを占めている。そしてそれ以後をも含めてテーマの背景や陰には《死》の問題が潜在するという傾向をも認めることができる。死を、死の世界を常に意識している。死を惧れず、死とともに在るといった境地か。

 作者の青春の像を浮き彫りにしている横光ばりの病妻もの「病むひとに」(濡衣 1974)は結核患者としての闘病体験から産まれた愛情物語で、初期作品の中では異色のものである。異色といえば「悲しみの頭」(視点 1997)。これは初期作品ではないがその題名が横光最初期の「悲しめる顔」に類似していて彼の潜在的横光傾倒が時ならずして出ているようにも考えられることともあわせ、構成上文体に片仮名文を織り込むといった工夫が見られるまさに異色作である。この場合地の文の片仮名の中の外来語に平仮名といった逆用法を採るなど表現的冒険を、敢えて楽しんでいる余裕さえ感じられる。「悲しみの頭」とは不定期的に襲って来る「アイツ」つまり頭痛という作者の執拗な持病であり、それとの奮闘記といった好篇である。妻子と別居して自分独りの部屋住まいに甘んじて暮らす、初老にさしかかった台本作家の、若い女優との関係を撚り交ぜての生きざまに無頼派の影をにじませ、売れっ子プロデューサーの挙措言動にユーモアを醸す。作家としての苦悩がやはりこの作品の全般を覆っていて悲哀に打ちのめされるのである。

 陽羅文学を概括するには時機尚早とは思うが性格や資質という根底に目を凝らした時それには極めて虚無に近い哀愁が底流しているある暗さが感じられる。その暗さはデカダンに似て全く非なるもの、要するに温かい血の通う哀しみである。《母恋い》を軸とする作品以外にも、否彼のどの作品にもこの独特の《哀愁》が本流、あるいは支流となって陽羅文学を形成しているように考えられる。虚無と、温かい血とは本来混じり合えないものでありながら、相反する二者が融合している複雑性がある。一見冷たくて実は温かい。それは二面性ではなくて一面性であるところに独自性がある。その複雑性は一方虚々実々の相貌を呈して己を晦ます。彼の作品にユーモラスな表現やキャラクターが頻出するのは彼の中の哀しみの反照でもある。そしてその逆もまた真ということである。

 陽羅文学はその美しい母の正常ならざる死によって内面的な大きな変革を来したことは肯定できるとして、しかしその後の彼にある転機が訪れた。それは「通天捨私」という、漱石の「則天去私」にあやかったような独特の境地を生み、「自我を捨て、対象に即し、一心に文章を磨いていけば、言葉は言霊となり、天に通じるのではないか」(『道元の風』あとがき 平成十年初冬)ということでつまり私を捨てて捨てて、私を度外視するところから出発しなければならないという彼流の方法論である。本来の私小説からの脱却である。

 「通天捨私」の方法論は『道元の風』を生み『SAIGO──二十一世紀の西郷隆盛』を上梓した。近い将来『子規の四季』も一本になると聞いている。陽羅文学は歴史上の偉人や優れた文学者を素材にした異色の歴史小説へと進展していくことであろう。が、その形態や手法は変化しても内に秘めた憂愁は、屈折しながら文学の核として残っていくように思われる。そこにこそ陽羅文学の抒情性が顕在するのだから。

 

  おわりに

 

 私は以上を以て陽羅義光氏の文学を一応は論じ得たと思っている。あくまでも一応の私なりの見解に過ぎないし、多くの他の作品にも触れるべくして触れえなかった実証不足はもとより自覚しての上である。「水恋譚」に的を絞ったのは私の感性である。陽羅氏はかつて「私は心の裡に一頭の虎を飼っている」、「悲哀を食って生き続けてきた私の内部の虎」(『世紀末ノ虎』あとがき)と表現した。私はこの虎を「詩嚢」と呼びたい。豊かな詩嚢はあたかも地下に充満するマグマのように噴出するときと場所を狙ってスタンバイしている。エネルギーとパワーを持つ多才な作家である。そして万病を抱えながらタフガイでさえある。今後も豊かな内面と形態に彩色された表現者の道を闊歩し続けるであろうことを確信している。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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岩田 光子

イワタ ミツコ
いわた みつこ 評論家 1923年 北海道小樽市に生まれる。

掲載作は、同人誌『星座』2003(平成15)年8月号発表。

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