受驗生の手記
一
汽笛ががらんとした構內に響き渡つた。私を乘せた列車は、まだ暗に包まれてゐる、午前三時の若松停車場を離れた。
「ぢや左様なら。おまへも今年卒業なんだから、しつかり勉强しろよ。俺も今年こそはしつかりやるから。」
私は見送りに來てゐた窓外の弟に、感動に滿ちて云つた。襟に五年の記號のついた、中學の制服を着けて、この頃めつきり大人びた弟は、壓搾した元氣を底に湛へたやうな顏付で、むつつり默つて頭を下げた。恐らくは、弟も、この腑甲斐のない兄の再度の
私はもう一言何か弟に云ひたかつた。が汽車は旣に、ゆつくりと、しかも凡ての物に係りなく、動き出してゐた。そして思はず淚の浮びかゝつた私の眼から、ぼんやり明け近い
弟の小さくなつた姿が、もう步き出してゐた。そして此方を見てゐないらしかつた。それでも私はもう
私はやうやく窓から首を引込めた。そして何となく
私に取つては、今度のそれは全く決死の首途なのだ。去年の一高の受驗に於ける不面目な失敗、その後を受けた今年こそは、どうしても成功しなくてはならぬ首途なのだ。それにしても何故、去年もつとしつかりやらなかつたらう。それは第一に上京が遲れたからだ。秀才だつた義兄の言に信賴し過ぎて、卒業後の大切な數月を刺戟のない田舍で勉强しようとしたのが間違だつた。早くから上京してゐて、切迫した空氣の中にゐたら、或ひは勉强ももつと緊張し、又受驗術も巧妙になつてゐたかも知れない。從つて友人の三島のやうに、或ひは及第してゐたかも知れない。なあに三島だつて自分だつて、腦力にさう
それは彼と私との單なる英語の單語一つ知る知らぬから生じたらしい。少くとも自分はさう考へる。あの英語の第一間にあつた、呪ふべき Promotion という單語の譯し方一つに、彼と私との運命の差が生じたのだ。私はこの字を知らなかつた。それで前後の意味から參酌して、大體當りさうな譯語をつけて來た。(今考へるのも恥しい。)それがあとから聞いてみると違つてゐた。その他の問題では、どの科目に於ても、いつも彼と歸途に話し合つて、二人が一致したのだつたが、これだけは私が明かに失敗してゐたのだつた。
その他にも或ひは私の失敗があつたかも知れない。そして二人の間に見えない差異が生じたのかも知れない。併し際どい選拔試驗の及落では、單語一つの識不識は、直ちに運命を支配する事もあり得る。否、さうあるべきだと思ふ。聞く處によると及落を分つものは、僅かに五點の差を出でぬと云ふではないか。――兎に角、私の場合に於ては、單語一つにかゝつたと考へて差支ないやうに思ふ。しかも自分はそのために、云ひやうのない屈辱の半歲を過した。父には叱られた。母には泣かれた。義兄、姉妹たちにまで輕蔑の眼を以て見られた。たゞあの私のひそかに思つてゐる、義兄の從妹の澄子さんだけが、同情して慰藉の手紙さへ吳れたが、あの人だつて內心輕蔑したに違ひない。が、それでもあの人の慰めが私の今迄の唯一の光明だつた。
今度の早い上京だつて、父はなか/\許しさうにもなかつた。が自分は今年入らなければ
何しろ、上京したらしつかり勉强しなければならない。さう思ふと胸が躍るやうだ。そしてもう今日の中には上京してゐるのだ。今迄の陰慘な、屈辱な家での
ふと氣がついて見ると、右手の車窓が急に銀いろな明るみを帶びた。汽車はもういつの間にか、幾つかの停車場を越して、今、曉の
湖面は一たいに
窓からは冷たい風が入つて來た。それでも私は何ものかに打たれて、ぢつとこの湖景を眺め入つた。何だか云ふことのできぬ暗示が、そこにあるやうな氣がした。ほんとに自分自身の曉が、新らしく開ける運命の曉が、そこに暗示されてゐるやうに感ぜられた。私の眼には獨りでに淚が出た。
山潟で夜が明けた。
上野へは
二
再びこゝの義兄の家の人となつてから、昨日今日で、かれこれ一ト月になる、その間には別に變つたと云ふほどの事もなかつた。此方の目のせゐか、義兄も姉ももう平常の態度と變らなかつた。たゞ何かの拍子に
併し勉强の方には、上京當座一週間ほど、場所が變つた刺戟で、落着かぬながらに心持が張り切つてゐた、が、まだ試驗まで六月もあると思ふと、知らず識らず前途遼遠といふ感じと共に、まだ/\少し位は怠けてゐても大丈夫だといふ、橫着氣さへ生じて來た。この頃ではたゞ漫然と參考書などを引繰り返してゐるだけだ。たゞ少し遠大な計畫を立てて、過去十年間のあらゆる試驗問題を
南日の英文解釋法は、大抵の人が少くとも五回は讀み返すと云ふから、もうそろ/\讀み始めなければなるまい。去年はあれを一回、それもやつと讀んだだけだつた。
けれども
私は又暇があるとよく受驗生仲間を訪問した。彼らも亦だら/\と怠けてゐるらしかつた。淺沼は神田錦町の下宿にゐたが、いつ行つて見ても机の上に、申し譯らしく代數の敎科書が伏せてあるだけで、本人はきつと誰かと碁を圍んでゐた。根津のある
遊ぶと云ふ方にかけては、本鄕の新花町にゐる佐藤が、その
「いよう、珍らしいな、よくやつて來たね。それにしても今日でよかつた。めつたに吾々の處へなんぞ來ない君が、折角來て吳れても留守にしちやあ濟まないからね。なに、今日は金が無いんでね、特別に
こんな事を立續けに云つて、彼は私を狼狽させた。そして私が眞顏に辭退するのをからかひ顏に、猶もこんな事を云つてゐた。
「いつもながら固過ぎて困つたものだね。一度試驗を
私は初めは幾らか好奇的に、彼の云ふ事を傾聽してゐたが、だんだん不快になつて來た。それで三十分ほど我慢をした末、とう/\
「さうかい、もう歸るのかい。早いな。ぢや又來たまへ。何か氣に障つたら勘辨して吳れ給へ。僕もいつでもかうではないんだよ。だが、僕もほんとに駄目になつちやつたね。」
さう云つて急に彼は、淚を溜めたりした。私はこゝにも亦受驗界の、最も恐るべき破船者の一人として最も典型的な彼を見た。私は自分の家へ歸りながら、彼のやうになつてはお終ひだと思つた。まさかに自分はあゝはなるまいとも思つた。ならぬやうに努力しなくちやならんと思つた。私は何だか恐ろしい氣がした。そして二度とその後は彼を訪れなかつた。
松井はその反對に、仲間でも眞面目な方だつた。彼は小石川
「そろ/\眞劍にやり出してもいゝ時分だね。」
「さうだね。」彼はよく簡單な相槌を打つた。
「何か少しは片附いたかい。」
「いゝや。まだ代數に手を着けた許りだ。代數は苦手でね。僕は去年も代數で
「さうかい。僕の苦手は數學では三角だ。だから今からやつて置けばいゝんだが、
二人の會話は
「ぢや愈〻明日からやらうかな。」
「うん、お互にしつかりやらう。」
けれどもその次に二人が會つてみると、お互にさう勉强もしてゐなかつた。そしてお互に相手の不勉强を知つて、
松井は二部が志望だつた。そして今年も高等學校を受ける前に、四月には高工を受驗する筈だつた。四月と云へばもう二ヶ月ほどしかない。それだのに彼はさう
「君の方は早いんぢやないか。もうほんとに初めなくちやならないぜ。大丈夫かい。」私はとう/\かう無遠慮に聞いてみた。
「うん。俺もさうは思つてるんだが、どうも頭の調子が惡くて困る。この分ぢや今年も駄目かも知れない。」
「そんな事云つてないで、しつかりやるさ。」
「まあやれるだけはやる積りだがね。」
かう云つて彼は、薄ぼんやりした眼を、先刻書いた幾何の作圖の上に落した。
私は彼の狀態が氣の毒だつた。けれども又、他人の準備が
さればと云つて私の勉强も進まなかつた。これでは、折角早く上京した甲斐もなかつた。
三
澄子さんは相變らず日曜日每に、義兄の家へ遊びに來た。私はいつの間にか日曜を、心待ちに待つやうになつて了つた、そして彼女が自分の處へ遊びに來るのだと、信ずるやうにさへなつて了つた。
彼女の家は芝の白金にあつた。それは義兄の一番上の兄の家だつた。義兄の家では一體に秀才揃ひだつた。兄弟五人ある中で、一番上と三番目と五番目とが、丁度一人置きに男だつたが、それがいづれもよく出來て、それ/゛\、社會に頭角を現はしてゐた。一番上の兄は古い工學士だつた。そして今はある織物會社の技師長を務めてゐた。澄子さんはその長女だつた。二番目の兄は農學士だつた。そして今は
澄子さんはさう際立つて、美しいと云ふべき人ではなかつた。顏全體の印象は、整つたながらに特長といふものもないが、どことなく活々して、何かの拍子に浮べる表情が、非常に眉のあたりを美しく見せた。殊にそれは眼に於て著しかつた。ふと斜に見上げる時、笑ひながら見据ゑる時、わざとらしく見える迄開いた二重瞼の下から、黑眼勝に澄んだ
私は今でもまだ、彼女を初めて見た時の事を憶えてゐる。それは去年の六月、受驗のために上京して間もなくだつた。それまで姉の口から、お澄さんと云ふ姪の在ることは、いつとはなしに聞き知つてゐたが、その話の上に少女姿さへ聯想させずにゐたのだつた。私に取つては東京の女は、それも美しい都會の少女などは、迚も知己にさへなり得ないと、內心思つてゐたせゐであつたかも知れない。
あれは確か上京して三日目位の或る日曜だつた。もう切迫して來た試驗期を前にした私は、
ふと玄關の戶の開く音がした。續いて甲高い女の子の叫びと混つて、美しい
暫くすると、ことん/\と間を置いて、階子段を上つて來る人の
「あら秋子さん、どこへいらつしやるの。お
「お二階。」大人ぶつた女の子の聲が應じた。「お二階の兄さんを見に行くのよ。」
「御勉强のお邪魔になるからいけませんよ。」
「大丈夫よ。」さう云ひながら女の子は、ことん/\と上り續けた。さうすると後から追つて來たらしくつゝましいながらに速かな足音が、階子段の邊りに起つた。
私は緊張した興味で、どんな女の子がそこの襖の處へ現はれるかを待つてゐた。何だか胸の中がときめき立つた。私はわざと机の方を向いてゐた。
すうと入口の襖の開く音がした。私は咄嵯に振り返つた。するとそこには五つか六つ位の、髮を切り下げた女の子が、薄暗い
私は向き直つて「こちらへいらつしやい。」と招いた。初めて他人に使つた東京語が、喉に
秋子ちやんはまだもぢ/\してゐた。それは羞恥の感情からよりも、寧ろ都會の女の兒が、本能的に持つ技巧かららしかつた。
「入つていらつしやい。」私はもう一度繰り返した。そして今度は我ながらまづい云ひ方だと思つた。
その途端に女の子の背後へ、靜かな紫の影が
「あの、御勉强のお邪魔を致しまして。──さ、秋子ちやん、お兄さんに御挨拶をなさい。そしてもう
秋子さんはもぢ/\しながら、また默つて頭を下げた。そして後向き氣味に姉の片手に縋つて、尻目に私を見返した。
「いゝえ、いゝんです。退屈して遊んでゐたんですから。」私はかう云ひながら秋子さんの方を、もう一度
秋子さんはそれには答へないで、姉さんの深紅の帶へ頰を擦りつけながら、「姉ちやん、あちらへ行きませうよ。」と云つた。私は一瞬間この子の技巧が憎らしかつた。
「えゝ行きませう。又お兄さまがお暇な時に來ませうね。──どうもお邪魔しました。」と彼女は妹の身を引寄せながら、襖を靜かに閉めた。そして二人の階子段を下りる、たど/\しい足音が遠ざかつた。ぼんやり見送つてゐた私の胸には、何だか春のやうな響が殘つた──。
それが澄子さんと會つた初めだつた。それから彼女は殆んど日曜每に、いつもの通り遊びに來ると私の室へも訪れた。彼女は私の處に決して長くはゐなかつた。大抵は姉と二人ぎりで、女同士の低い會話をして歸つた。がその短い間でも、私には換へ難く貴い時になつた。そして
去年の受驗期は短かつた。そしてそれにすぐ不面目な失敗が結果された。あゝ、それに就ては、もう何も云ふ必要が無い。私はあの時、恥かしくて澄子さんにも會はず、急いで故鄕へ逃げ歸つたのだつた。あとから澄子さんの手紙が來た。默つて歸つた恨みや、決して一度許りの失敗に落膽するなと云ふやうな事が、妙に大人びた文章で書いてあつた。私はそれに幾度接吻したことか! どんなに感謝したことか! そして長い屈辱な家での
何は兎もあれこの頃は、日曜每には彼女に會へるのだ。
四
今日は三月一日で、一高に記念祭がある日だ。その盛況は兼々話に聞いてゐたが、もとより私は得意な彼らの、得意の絕頂にある有樣を見に行く氣などはなかつた。けれども一高出身である義兄が、どこからか入場劵を手に入れて來て、姉や澄子さんが是非行くから、是が非でも私に
午後になるとすぐ、白金から澄子さんがやつて來た。彼女は盛裝してゐた。いつもより顏も美しいやうな氣がした。私は嬉しいやうな悲しいやうな氣持で、このきらびやかな彼女の粉飾を見た。彼女をかくまで入念に、化粧せしむる一高と云ふものを、私は讃嘆しながら嫉妬しなければならなかつた。
二人は姉の支度が出來るのを待ちながら、これから行く記念祭に就ての事を二三話し合つた。澄子さんはこんな事を云つた。
「來年は貴方に案內して頂けるわね。」
私は聲を呑んだ。「さあ、どうですかねえ。あてになりませんね。」
「大丈夫よ。きつと大丈夫だわ。」
私は答へなかつた。そして何だか胸を抑へられるやうな氣がした。つく/゛\去年入つてゐればよかつたと思つた。入つてゐれば、今日なぞは大手を振つて、かう云ふ
姉の支度が出來たので、三人は揃つて出掛ける事にした。初春の太陽は午下りながら、薄ぼけた
校門の前は果して人で一ぱいだつた。しかもその大半は着飾つた女だつた。併し見渡した所、澄子さんに優つてゐるものは餘り無かつた。自分は幾らか得意な氣がした。
腕に黃色い布を捲いた委員が、「入れてやる」と云はん許りの高慢さで、吾々の入場劵を改めた。
私は昨年の受驗以來、自分の受驗番號の出てゐない揭示を見て來て以來、初めて再びこの校門をくゞつた。
寮までの沿道には、敎室の壁と云はず物置の上と云はず、あらゆる空所にビラが貼つてあつた。
南寮の入口で私の肩を叩く者があつた。驚いて振り向いて見ると、それは同窓の田中だつた。田中はまんまと去年一部甲に無試驗で入つたのだが、メルトンの制服が羨しい程似合つてゐた。彼の顏には抑へ切れぬ得意さが動いてゐた。
「よく來たね。一人かい。」彼は訊ねた。
「いや。姉たちと一緒だ。」
「さうか。それぢや僕が案內して上げようか。何なら僕の室で休んで行かないかい。」
「有難う。まあ好い加減に一廻り廻つて見よう。」
「さうかい。ぢや失敬するよ。もう少しすると西寮の假裝行列が出る筈だから、話の種に見て置いて吳れ給へ。奇拔なのがあるぜ。」
「有難う。ぢや失敬。」
何とはなしに私は彼を不愉快に感じた。それでかう云ふと、すぐ待ち合してゐた姉逹に追ひつくため急いで彼から立去つた。
「
「なあに去年推薦で入つた友逹ですがね。あいつ自分で入つたやうに威張つてゐるんですよ。案內して吳れるつて云つたんですが、斷つてやりました。」
「あら、案內して頂いたらいゝぢやないの。」澄子さんの顏にはちらと不平が浮んだ。
「なあに大抵解りますよ。」私はかう云ひ切りながら、心では可なり不快だつた。
三人は南寮から見初めた。見物人は丁度出盛つてゐた。藤と櫻の造花を吊つた廊下は、押されながらにやつと步く程混み合つた。その中を姉が一番前に立つた。澄子さんが續いた。私は一番後から護衞のやうに從つた。三人は隔てられたり一緒になつたりして進んだ。
舊寮の廊下は暗くて見物人がもつと混み合つてゐた。殊にその中程の或る室の前では、その精巧なる飾物のために、人足が殊に停滯してゐた。それは工科生の考案らしく、「運轉手の夢」と題するものであつた。小さな玩具の電車が、向うの
私たち三人も、そこで前へ進むことができなくなつて了つた。もう後へ退く譯にもゆかなかつた。それ處か却つて、背後の人にずんずん押しつけられて來た。私は澄子さんのすぐ背後にゐた。そしていつの間にか、澄子さんの首を餘りに近く見た。淡い髮の香りがそつと私の鼻を打つた。私はすぐ間近に彼女の苦しさうな呼吸を感じた。
「澄子さん、苦しくはありませんか。」
「随分混むのね。」彼女は顏だけ廻して答へた。
「はぐれないやうになさい。」
「まさか、でも離れちや厭よ。」
私は偶然觸つたやうにして、出來るだけ無意味に彼女の手を取つた。彼女も默つて取らせてゐた。私は自分の慄へる掌の中に、しつとりと汗ばんだ、彈力のある柔かいものを感じてゐた。人混みは中中動かなかつた。彼女は何にも氣附かぬ如く、肩越しに「運轉手の夢」を覗き込んでゐた。そして身を動かす每に、氣づかぬほど
さう云ふ中にも見物は、押され/\て推移した。吾々はやつとその
一と通り寮內を見物して外へ出ると、そこの廣庭には戶山學校の音樂隊が來てゐた。丁度聞き覺えのある「ドナウの流れ」を奏してゐた。三人はその方へ近寄つて行つた。私の心はいつになく浮立つた。何だかすべて自分のために、行進曲を奏してゐるやうに思はれた。東寮の三階で叩いてゐる相撲の太鼓も、入口の屋根の上に陣取つて、傍若無人に高聲を發してゐる大學生の一群も、もう私の癪には障らなかつた。
吾々が歸途についた時には、まだ蕾の固い校庭の櫻の梢に、ぼんやり傾きかゝつた春日が漂ひ殘つてゐた。
考へて見ると今日は、壓迫と刺戟とを交互に受けた。家へ歸つたら疲れてぼんやりした。けれどもその底にひそやかな幸福があつた。そして興奮が
「勉强しなければならない、今年こそはどうしても入らなければならない。」と思つた。ほんとに心からさう思つた。
机に向つたら、いつもより頭が冴えてゐるやうだつた。私は一高の記念祭に行つた事を、改めて誰かに感謝したかつた。
五
弟から手紙が來た。卒業試驗はもう濟んだから、卒業式が終り次第、すぐにもう上京したいと云つて來た。私は何だか愕然とした。弟の卒業するのは知つてゐながらも、もうそんな時期に逹したのかと思つた。私はそれを若い次の時代の、吾々を壓倒して來る警吿のやうに感じた。さうだ、年少氣銳の弟たちが、この四月から吾々の恐るべき競爭者として現はれるのだ。全く愚圖々々してはゐられない。何だか弟の上京を阻止したいやうな心持が、私の心の底にあつた。けれども返事にはさうは書けなかつた。此方の用意は整へて置くから、いつでも都合のいゝ時に、上京せよと云つてやつた。
弟はとう/\上京して來た。四月の初めで、上野は櫻に
薄暗い改札口に近く立つて、今着いた汽車から雜然と溢れ出た乘客の流れの中に、暫らくぶりで弟の元氣な顏を見出した時、私は
「どうだ元氣は。家では皆んな
「えゝ。」弟はかう簡單に答へながら、夕暮れかゝつた場內の雜沓を、驚いたやうに見てゐた。私はその田舍者らしい弟の樣子を、初めて兄らしい、先輩らしい感情で見た。
二人は荷物を受取ると、
義兄の家では例によつて、初めての上京を祝ふ食卓が待つてゐた、去年は自分のために在つた。今年は弟のために設けられたのだ。私は妙な感慨を以て、眼に痛いほど白い卓布を、特別にかけた
義兄はいつもの通り快活だつた。姉は姉らしい溫情を、
「健次さん、おまへさんは子供の時分から、きんとんが好きだつたから、西洋料理とはつかないけれどわざ/\わたしが拵へたのよ。」姉はそんな事を云つて料理を進めた。
兄は
私は何だか不快と恥辱から、何とか一言云ひたかつた。それで、
「いや、それに元來頭腦も惡いんですから。」と附け加へた。
「いや、決してそんな事はない。僕の見る所に依れば、君たち兄弟はどちらも頭腦がいゝですよ。──殊に健次さんは何ださうですね。數學が得意だと云ふぢやないですか。」と兄は再び弟に向つた。
「いゝえ。外のが出來ないんで、さう見えるだけです。」弟は謙遜めかして云つた。
「中學は何番で出たんですか。」
「怠けたので六番でした。」
「高等學校の志願學科は
「それが未だどうしていゝか解らないんです。やればどつち道二部か三部なんですが、親父は家が醫師だから、何人醫者が出來てもいいから、三部をやれと云ふんです。けれども兄さんも三部なんですからさう兄弟で三部ばかりやるのも妙ですし、どうしようかと迷つてゐるんです。」
「それもさうですね。」義兄は私の方へ相談するやうな視線を向けつゝさう云つた。
私は云つた、「それあおまへが醫者をやつてくれるのなら、そつちの方はおまへに任して、僕は文科へでも行き度いんだ。さうすれあ僕も助かるよ。一體僕は哲學でもやれあ一番いゝんだからね。」私はいくらか棄鉢の氣味と、もとから若干の趣味を持つてゐる關係上、さう云つてみた。がさうも出來ない事は解つてゐた。
「でも兄さんは是非三部をやらなくちやならないんですから、僕は別な方をやる積りです。高等學校だつて同じなのは厭でせうから、僕はどこか違ふ處を選ぶつもりでゐます。」
「それもさうだね。」義兄は當らず觸らずに相槌を打つてゐた。
「が、まあその問題はいづれ二人で相談するとして、今日はまあ十分食つて吳れ給へ。疲れて腹が減つたでせう。」
「えゝ、澤山頂きます。田舍者ですから遠慮しません。」
「その田舍者の中が花ですよ。學生も東京馴れるとお終ひです。──入學試驗を受けるのだつてさうですよ。都の風に染まぬ最初の年が一番緊張するんです。だから最初の年に入るのが肝要ですよ。でないと東京でぶら/\遊んでゐる中に、都會風に染まるまいと思つても、知らず識らず影響を受けて、心に
今宵の歡待が弟のためにのみ存在した事は、私とてもよく解つてゐた。弟を激勵する言葉が直ちに僕を叱責する言葉となる、義兄の苦しい立場も解つてゐた、決して皮肉と取る氣はなかつた。けれどもとう/\不快の念には勝てなかつた。
私は一人で二階へ上つた。そしてもう
弟は私と一緒にこの六疊に起臥する事になつた。二人は向うの隅と此方の隅に机を成るたけ離して据ゑた。夜は電燈の關係上、眞中に机を持ち寄つた。寢床を敷く時には狹いので、室の隅に押しつけた。
弟の机の上にある本と、私の机の上にある本とが、同じである事は淋しかつた。私はなるべく弟と違ふ學科を、調べるやうに努めた。
二人は獨りでに競爭の形を取つた。少くとも私はさう感じた。私は自分の本を調べながら、弟の勉强がどの位進捗したかを計つてゐた。そして弟があまり
併し私自身は、一向勉强が進んではゐなかつた。每日何となく頭が重くて、根氣が續かなかつた。焦れば焦るほど疲れて來て、終ひには
弟は
弟は私には平氣で自分の勉强をぐん/\續けてゐる。それを見てゐると、私は嫉妬に似た恐怖さへ感ずる。何だか弟と同じ室にゐるのが、私には厭で堪らなくなつて來た。
ひよつとすると私は神經衰弱かも知れない。──
六
弟と二人でゐるには、義兄の家の六疊は狹かつた。それに益〻私には、弟と一緒にゐることが苦痛になつて來た。時には私は憎惡をすら感じた。私はとう/\何處かへ宿を換へようと決心した。宿を換へれば澄子さんと、會ふ機會が少くなると云ふ懸念が、幾らか私を躊躇させた。けれども彼女は大抵日曜日に來るのだから、その時に此方からも義兄の家へ行けば會へると思つた。それで私はいよいよ移ることに決めた。その時丁度水道端の西光寺にゐる松井が、隣室が空いたから來ないかと誘つた。私はすぐ引移ることにした。義兄は「それもよからう。」と賛成して吳れた。弟は別に何とも云はなかつた。勿論淋しがりもしなかつた。
私は居所が變つたら、いくらか勉强が出來るかと思つてゐた。けれどもこゝへ移つても、別に心が落着きはしなかつた。併し寺は閑靜だつた。室は西に開いてゐるので、植込みの
朝夕に本堂から、吾々の世話をして吳れる年老いた寺僕の、
「又ぢいやの
さう云つて吾々は、それをいつの間にか勉强時間の
「おい。──」私は
「勉强してるのか。」私は重ねて聞くのが常であつた。
「いやぼんやりしてるんだ。」
「ぢや少し話でもしようか。」
さう云つて私は隣室への唐紙を開けるのだつた。が話とは云つても、
松井は高工を又失敗した許りの時だつた。が別に落膽してゐると云ふ樣子もなかつた。彼はもう落膽する氣力が無いのか、
時には二人で數學の難問なぞを見つけて、競爭的に解いたりする事もあつた。すると大抵私の方が早く考へついた。そんな時は何となく自信がついたやうな氣がした。併し松井を標準にしてゐる安心が甚だ危險なものである事は私も知つてゐた。知つてゐながら、知らず識らずに私はその自信にすら
或る時かう云ふ事があつた。松井が或る友達の處へ行つて、幾何の難問を一つ聞いて來た。それはその數學に得意な友人さへ、解き得ずに苦しんでゐたものだつた。
「どうだい。君も考へて見ないかい。是が出來れば數學の實力はもう大丈夫だぜ。」松井はかう云つて私を誘つた。彼のその顏には、私も大方出來ないだらうと云ふ、豫期があり/\現はれてゐた。
「それぢや一つやつて見ようか。」私はさう云つて問題を取り上げた。なるほどどこから手を附けていゝか解らないやうな難問だつた。私は一人で自分の室へ來て、その午後中考へぬいた。勿論頭の重いのは癒つてゐなかつたので、久しく思考を費してゐると、とうとうボンヤリして了つた。そこでぶらりと散步に出た。それでも問題は頭にこびり附いてゐた。一と通り江戶川端を步いて、水道端から
「おい出來たよ。やつと考へついた。」
「さうか。どうやるんだ。」松井は別に驚嘆もしないで、さう云ひながら入つて來た。
私は得意になつて說明してやつた。松井は「うむ、うむ」と云つて聞いてゐた。そして解き終つた時、
「成程なか/\面倒だね。」と云ひながら、まだよくは飮み込めてゐないらしく、作圖をと見かう見してゐた。私の氣持はいつになく晴れやかだつた。
その二三日後だつた。私は散步の序に義兄の家に寄つた。弟は相變らずむつつりと、机の前に坐つてゐた。
「どうだ勉强は。盛んにやつてるかい。」私は訊ねてみた。
「えゝ。何だかこの頃は少しだれ氣味で困ります。この間から一日十二時間勵行の日課を立てたんですが、なか/\時間割通りに行かないんで、姉さんに笑はれました。精々やつて十時間ですね。」
「そんなにやれるものか。」私は
「だつて六時に起きて夜の十一時までやつて御覽なさい。飯と散步の時間をぬいても、正味十五時間はあります。だから十二時間づつやれない譯はないんです。」
「それはさうだね。その間すつかり緊張してやれゝば大したものだ。」
「何しろもう十五時間づつやらなければ、凡ての學科を二回見るには間に合ひませんね。」
私は又弟の無意識なる壓迫を感じた。彼の机上には英語の本があつた。
「もう數學は濟んだのかい。」
「えゝ一と通り濟みました。あとは試驗前に、アンダーラインをして置いた問題だけ、ずつとやれば大丈夫だと思つてゐるんです。」
私は三度び驚いた。が、ほんとにそれだけの實力が弟にあるかどうかを試してみたくなつた。その時ふと二三日前の難問が頭に浮んだ。
「僕は二三日前にかう云ふ問題を聞いたがね。おまへに解るかい。」
私はかう云つて、問題を說明した。弟は默つて聞いてゐた。そして別な紙へ自分で作圖をすると、鉛筆の端で鼻の
二三分經つた。私はあくまで弟が匙を投げて、「この次迄に考へて見ませう。」とか何とか云ふだらうと
「やつと思ひ附きました。形が變つてるんで解りませんでしたが、これは永澤の難問集に例題がありますね。あれの逆だつたのです。かうやればいゝんぢやありませんか。」
かう云つて彼は私に說明し出した。それは勿論私が考へたのと大差なかつた。がもつと簡明で直截だつた。私は內心尠からず驚いた。自分が三四時間考へた處を、弟は五分ばかりで成し遂げた。私はふたゝび眼前の實例に壓倒された。
私はすつかり氣落ちがして、弟のところから歸つた。
七
かう云ふ間にも、澄子さんの事は忘れられなかつた。
日曜日每には、私もきつと午前から義兄の家へ遊びに行つた。そして午後から澄子さんの來るのを待つた。併しさう
「
「馬鹿な。──」私は紅くなつて物が云へなかつた。
「澄子さんはこの頃健吉さんに久しくお目にかゝらないが、どうかしたかつて聞いてたよ。」
姉は私のぽつとなるのを面白がつて追窮するらしかつた。私は內心それが嬉しかつた。
「僕だつてこの頃は勉强してゐるんですよ。」私はさう云ひながら、今迄の不勉强を自分で恥かしがつた。これからはきつと勉强しようと思つた。
姉は猶も續けて同じ話に固執した。
「だけれど健吉ちやんも氣をお附けなさい。あの子はそれあ無邪氣なんですから。誰とでもすぐお友達になるのよ。健次さんとだつて、もう兄弟のやうに仲がよくつてよ。」
私はどきりとした。姉の警吿には私のぼんやり怖れてゐるものがあつたからだ。けれども私はさりげなく答へた。
「僕は別に何とも思つてやしないんですから、大丈夫ですよ。だから姉さんなんぞ、いくら冷かしたつて駄目です。」
姉は眼で笑つて答へなかつた。
實際弟と澄子さんとは、僕が寺へ移つて以來、特に親しくなつたやうに、私には感ぜられた。併しそれを私は自分の
二人の親しさを裏書する實例には、私も今迄一つ二つ出會つてゐた。
或る日の事だつた。私が義兄の家へ行つた時、澄子さんはもう來てゐた。そして彼女は弟の室に居つた。私が二階へ上つた時、そこからは晴れやかな彼女の笑に混つて、弟の笑ひに流れた聲が聞えてゐた。私は一種の嫉妬を感じて、急いで襖をあけた。すると彼らは急に笑を呑んだ。そして意味ありげに顏を見交した。
「何か面白い事があるんですか。」私は二人の間に割り込んで訊ねた。彼女は弟の机の右側に坐つてゐた。
「いゝえ何でもないの。」彼女の答は
「だつて二人で笑つてゐたぢやありませんか。何かあつたんでせう。」私は追窮した。
「笑つてたつて何でもないのよ。ねえ健次さん。何でもないわねえ。」彼女は首を
「ほんとに何でもない事なんですよ。」彼は云つた。
「笑つて了つたら何だつたか、もう忘れて了つたわ。」さう云つて彼女は猶晴々と微笑んだ。
打ち見た所二人は、確かに私の前で二人だけの祕密を樂しんでるかのやうであつた、私は嫉妬と共に、嫉妬に伴ふ自らの卑劣を意識した。それでそれ以上に追窮する勇氣が無かつた。その日彼女とは餘り多くを語り得なかつた。
又或る時はかう云ふ事もあつた。その日私は午後になるとすぐ千駄木へ出掛けた。彼女の來るのも大抵晝過ぎだつたから、今日はゆつくり會へるに違ひないと思つて行つた。すると電車を下りてから、義兄の家の方へ曲る橫町で、私は見覺えのある綠の日傘を認めた。それは遠くから此方へ向つて步いて來た。初めは人違ひかと疑つた。が斜に傾げた日傘の下に、顏は殆んど隱れてゐるが、肩から下へかけての輪郭と、足どりには私の見逃せない彼女の特長があつた。私は遠くからそれを見つけると、動悸の高まるのを意識しながら、さりげなく步き進んだ。五六間の處で向うも自分を認めた。すると彼女はくるりと背後を振り向いた。そして背後の誰かに合圖するやうな事をした。その途端に私は彼女の後から、弟が困つたやうな顏で
「もうお歸りですか。」私は聲を落着けて彼女に訊ねた。唇が獨りでに
「えゝ、今日は朝から行つてたの。」彼女はいつものやうに平然と答へた。「それに今日は家に用があるのよ。──だから歸らうと思つてゐた處へ、健次さんが買物に出ると云ふから、そこまで送つて來て貰つたの。──だけど健次さんは妙な人よ。わざ/\私を送つて來るつて云ひながら、
「一緒に步くのは厭ですよ。知つた人に會ふといけないから。」弟はもつと無邪氣に云ひ譯した。
「どこまで行くんだ。」私は弟に訊ねた。それは思はず詰問するやうな口調だつた。
「そこの通りまで。」
「さうか。ぢや行つておいで。──それぢや澄子さん、左樣なら。」私は胸でわく/\しながら、さりげなく二人に
「左樣なら、又今度の日曜にね。」澄子さんは
私は二人を後に步み去つた。がその足どりは性急だつた。眞晝の人通りの多い街中で、胸の中は嫉妬に充ちてゐた。私はかつとした日の光の外、他の何物をも見なかつた。
義兄の家に着いた時は、それでも幾らか氣が靜まつた。そして姉の話を聞くとすつかり平らかになつて了つた。姉は私の顏を見ると云つた。
「今そこで澄子さんたちに會ひやしなくつて。」
「えゝ會ひました。弟と一緒でしたよ。」
「さう? ぢやもう健吉さんに
「いゝえ、何も聞きませんでした。道端で會つたんですもの。──一體どんな言傳です。」
「この次の日曜にね。お暇だつたら家庭博覽會へ伴れて行つて下さいつて。──今日は會はないで歸らなくちやならないから、是非私にお願ひをして吳れつて事だつたわ。」
「僕にですか。」私は操られてるやうに感じながらも、內心の喜悅を思はず聲に出した。
「えゝ。一日位暇を作つて吳れてもいゝでせう。そんな暇は無くつて。」
「さうですねえ。そんな事をやつちやゐられない大事の場合だけれど、お伴させて貰ふとしようか。」私はもうすぐに落城して了つた。
弟はすぐに後から戾つて來た。そしてあの後、別に彼女と意味のある時間を過ごしたらしくも見えなかつた。私は先刻の嫉妬を悔いた。しかもその嫉妬の當の相手が弟であるだけ、心中甚だ恥しいものがあつた。
私は彼女を疑ふまいと歸途に決心した。
八
博覽會行きの日が來た。私は朝理髮店へ行つて髯を剃つた。そのあとは何となく爽かだつた。そして自分ながら云ふのも恥かしい程、自分の顏に信賴を感じた。晝迄の少しの間、本を取り上げてみたが手につかなかつた。
午後になると、いつもより早目に千駄木へ向つた。格子戶をあけると、そこに見覺えのある下駄があつた。澄子さんはもう來てゐた。
「今日行つて下さるんですつてね。有難う。」
彼女は私を見るとさう云つた。何でもない言葉だが、私にはその感謝が心から嬉しかつた。
姉は支度の最中だつた。弟が二階から下りて來た。彼は初めから行かないと云つてゐた。
「健次さんはほんとに頑固なのよ。お姉さまと二人でいくら勸めても、どうしても行かないつて聞かないの。半日位遊んだつて、何でもないんだのに。ねえ、健吉さん。」
「さあ、──」私はわざと首を傾げた。
弟は云ひ譯をした。「僕は時間が惜しいんで行き度くないんぢやないんです。行つたつて面白くないから行かないんです。」
「どうして面白くないの。」
「どうしてつて、面白くないから面白くないんです。家庭博なんて、女子供をだますだけぢやありませんか。」
「どうせさうよ。だけど面白くない處へだつて、行つて下すつてもいゝと思ふわ。」
「まあ御免を蒙りますね。僕は。──」
弟の言は恰も私を
そこへ姉は支度が出來上つて出て來た。弟を殘して三人は上野へ出かけた。天氣がうつすら晴れてゐたので向うまで步いてゆくことにした。私は遲い女の步調に合せながら、着飾つた姉たちを見て通る、行人の視線を享樂した。同伴者の幸福、私は誰か知つた人が、見て吳れゝばいゝとすら感じた。
私と澄子さんとの間には姉が入つた。それで道々彼女とは多く話さなかつた。
季節外れではあつたが、晴れた日曜だつたので、會場には可なりの人出があつた。私は彼女らのために、切符を買つてやつた。
會場內はいつもの博覽會通りだつた。只化粧品小間物類の陳列棚が、殊に色彩を濃くして並んでゐた。女たちは初めから丹念に、一
場內を半分だけ
餘興館には活動寫眞と、天洋一座の奇術がかゝつてゐた。吾々が入場した時は、丁度奇術がはじまつてゐた。私たちは背後の方の空席を選んで、腰を下ろした。姉が先きに立つて入つた。私は一番後だつた。それで腰をかけた時、澄子さんと私とは並んで了つた。
舞臺には燕尾服を着た男が、退屈し切つたやうな顏に薄笑を浮べて、
澄子さんは短銃の音に
場內は電燈が光り輝いてゐると云つても、どことなく暗かつた。私はゆくりなくも、記念祭の日の出來事を思ひ出した。私は眼では見なかつたが、私の左手から三寸と離れない處に、彼女の手が置いてあるのを知つてゐた。私はそれにムズ
とう/\「今だ。又とない機會だ。」と云ふ囁の方が勝つた。私はそつと手をやつて、一二度偶然のやうに彼女の手へ觸れた。そして三度目には思ひ切つて、明らかに彼女の甲を
暫くすると姉が出ようと云ひ出した。私は賛成した。澄子さんはもう少しゐたいらしかつたが、
姉たちももう可なり
「買ひ物ですか。」私たちもせう事なしにそこの店頭へ戾つた。
「えゝ。健次さんが一人で家にゐるのが可哀さうだから、何か御土產を買つてあげるのよ。姉さん、持つて行つて上げて頂戴。」彼女はかう云つて、唐草模樣の燒繪をした、木製の筆入れをあれかこれかと選んでゐた。
私は更に二重の苦痛を受けた。そしてこの時ばかりは心から弟の存在を呪つた。けれどもそれを押し
「これがよくはありませんか。」私は手許にあるのを取り上げて見たりした。
「こつちの方がよくつてよ。」彼女は私の
三人はやうやく歸途についた。
歸途も、私は嘲るやうな彼女の冷たい眼を感じた。私はこの上の苦痛に堪へなかつた。それで千駄木の家の前まで來ると、二人が何とか云つて止めるにも拘らず、一人別れを吿げて立ち去つた、私は泣かん許りだつた。
今日の出來事は私に、自分の卑劣な行爲に對する
すつかり銷沈して寺に歸つたら、松井が隣から聲をかけた。「どうだつたい、今日の首尾は。」松井は幾らか私の口から事情を知つてゐた。
「bad, worse, worst だ。」と私は嘲るやうに聲を吐き出した。「こんな事なら行くんぢやなかつた。家で英文法でも見てゐた方がよかつた。」
「兎角戀と試驗は兩立しないさ。」柄にもなくそんな事を云ふ松井も、私を嘲つてゐるとしか思へなかつた。
私はもう云ひ返す力もなかつた。そして頭をかゝへて机に向つた。
もうかうなつては、いよ/\勉强に沒頭するしかないと決心を固めた。とは云へこの頭の調子では、これから先きが思ひやられた。あれを思ひこれを思ふと、只暗澹たる前途があるのみだ。──
九
もう六月に入つた。愈〻試驗期は近づいて來た。今日は受驗の名票を出しに行く日だ。私は三部の甲を志望した。弟もとう/\一高に決めた。そして相談の結果二部を志望する事になつた。弟は實は三部を受けたいらしかつた。が、それでは私と一緒になるので、高等學校を違へるより外はなかつた。同じ一高に入るとすれば、部を變へるより外はなかつた。そこで彼は遂に、一高を選んで二部に行く事に妥協したのだ。
弟はいくらか不平らしかつた。兄に進路を
弟の勉强は着々進んでゐるらしかつた。ひどく自信があるやうだつた。が顧みて自分はちつとも自信を持ち得なかつた。
私は弟と別々に名票を出しに行つた。番號の早い方がいゝと云ふので、私の行つたのは朝早くだつた。けれども門衞の處で渡された順番札はもう二百人を越えてゐた。話によれば夜の明けぬ中から、開門を待つてゐる受驗生もあるとの事だ。私は彼らが如何に死物狂ひであるかを、再び事實に於て知つた。自分なぞはまだ、勵精が足りないとつく/゛\思つた。
古い煉瓦作りの本館の橫に、名票の受附所はあつた。そこには事務員と小使とが、粗末な机を前に控へてゐた。吾々が一生の運命を踏み出す、第一關門の關守にしては、彼らは餘りに貧弱だつた。それにも拘はらず、彼らは怖ろしく見えた。小使は受驗用の寫眞を取ると、同型に揃へるために、遠慮なく厚い臺紙の端を裁ち落しながら、「はゝあ三部だね、しつかりしなくちや駄目だよ。今年は殊に三部志望が多いから、この分ぢや十五人に一人位の割になるかも知れない。去年は十二人位だつたが──」などと云つた。
私はすつかりこの男に
受驗番號は一二九番だつた。何だか
私はぼんやりそんな事を考へながら、歸りかけた。すると背後で大聲に、「おい久野君!」と呼ぶ人があつた。振り返つてみると、それは遊蕩兒の佐藤だつた。
「やあ、君もか。」私は先日彼を新花町の下宿に訪ねた時の不快なぞは忘れて云つた。こんな人でも何だか同志に會つた時の、賴みになるやうな嬉しさを感じた。
「この間は失敬した。少し出鱈目だつたのでね。が、もうこの頃はすつかり改心して、この通りさ。」
「君もこゝをやるんだね。」
「どうせ
「それにしてもよく早く來たものだね。」
「まあ名票を出す位は、人並みな事をやつて置かなきやあ。──時に君は何部だい。」
「三部だ。今年は馬鹿に人數が多さうなので參つた。」
「さうか。まあしつかりやるさ。僕はなるべく人數の少い方と思つて、一部丁をやつたのだがね。それでももう三十八番だ。」
「僕の方は百二十九番だ。驚くね。」
「それでも君たちの方では、番が早い方だらう。──どうだい、是から行つて、湯島天神にゐる易者に番號を占つて貰はうぢやないか。よく當るつて云ふ話だぜ。」
「厭だ。もし駄目だなんて云はれて見給へ。その氣になつちまふぢやないか。」
「ぢや僕の家へでも來ないか。
「今日はよさう。大切な日なんだから。それにこの頃は頭腦が惡るくて、少しも勉强が進まないんだ。この分ぢや七月まで徹夜したつて一と通りやれさうもないよ。」
「君のなんざ謙遜だらうが、僕は正直正札附に今日から初めるんだ。これで受ける氣になつてるから不思議だよ。」
「僕だつて全く同じさ。」
私はかう云ひながらも、こんな人を標準にするのは馬鹿だと知りつゝ、相手が不勉强なのに安心した。そして話してゐる中にいつとなく、氣が晴れやかになつた。
二人はこんな話をしながら、校門を出た。佐藤は遊び相手がないかして、猶も私を下宿へ誘はうとした。が、さすがに私もこの上行く氣はなかつた。
「ぢや又試驗でも濟んだら。一つゆつくりやつて來給へ。」
「約束の面白い所へ案內して貰ふかな。」私はもとより行く氣はないので、皮肉らしくこんな冗談を云つた。
「するとも、喜んで東道する。及第したら祝宴、落第しても
彼はかう云つて笑ひながら別れ去つた。
名票を出して了つたからには、もう受驗も愈〻戦闘行爲に入つた譯だ。けれども私は相變らず、はつきりした勉强が出來なかつた。机にだけは殆んど終日坐つてゐた。が、いら/\と焦つて許りゐて、いくらか進むには進んでも、記憶する傍から忘れて行つた。それでも一と通りは調べなくちやならんので、本の上へ眼だけは走らせてゐた。
澄子さんの事は思ひ出すまいとしても、蚊柱めいた蟲の群が、本堂の軒に立つ靜かな夕方などは、暗澹たる心の中に思ひ出された。思ひ出される每に、
さうかうしてゐる中にやつと、精神の集中が出來だしたやうに感じた。每日の勉强が蓄積されて、兎にも角にも落着いたのだ。この頃はこの調子ならと思つて氣を取り直した。
けれども、けれども、もう六月も末に近かつた。……
十
豫期はしてゐても、七月の來やうが餘りに早かつた。そして今日では試驗までに、もう三日しかなくなつて了つた。もう泣いても吠えても、追ひつきやうはなかつた。私は觀念した。それでも兎に角一と通り調べ終へたのが心賴みだつた。
隣室の松井は、二三日前に金澤へ出發した。彼は今年は四高を選んだ。彼がとう/\四高を選んだ心持は、私にも淚ぐましい程よく解つた。
「俺も今年は都にゐたゝまれないよ。」
近所の蕎麥屋へ行つて、二人きり心ばかりの訣別をした時、彼は感慨に滿ちて云つた。「そこへ行くと君はまだ、一高を受ける勇氣があるだけでも偉い。」
「俺か。俺のはデスペレートな勇氣さ。」
私はかう吐き出すやうに云ひながら、自分も二高へでも落延びればよかつたと思つた。自分を瞑々の間に東京へ引き留めたのは、實は全く幻影に過ぎぬかも知れない、澄子さんとの戀だと思つた。そして今更それを悔いたが、かうなつては仕方がなかつた。──かくて都を落ちてゆく松井も、都に踏み止まる私も、互に黯然として二三杯の盃を口にした。二人はちつとも醉はなかつた。
松井が發つた後は殊に淋しかつた。梅雨の前後の穩かな日が暫らく續いて、薄黃いろい夕日が室を靜かに染めた。朝夕の寺僕の「
私はその沈靜した中で、淚を流しながら、必死に勉强した。私のこの頃の努力は、恰も死を前にしてそれと抗爭してゐる人のやうだつた。
「勝利は最後の五分間にある。」私は飽く迄もそれを信じようとした。
戰闘の日は、時々刻々、近づきつゝあつた。
とう/\試驗の日は來た。そして瞬く間に去つた。それは長いやうで短い四日間だつた。けれども又短いやうで長い、恐らくは日常生活の半歲分位に當る、月日の精粹のやうでもあつた。四日の間、私は興奮し續けてゐた。夜も殆んど寢なかつた。試驗場から歸る每に、鏡を照らして眼を見た。眼は日每に血走つて行つた。頭腦も底から
最初の日は數學だつた。この準備には最も力を入れてはゐたが、何と云つても私には難關だつた。殊に今になつてみると代數が心元なかつた。私はそれをひどく心配しながら、大事を取つて七時には家を出た。
時間がまだ早いにも拘らず、校庭には多くの受驗生が集まつてゐた。時計臺を掠めてゐる朝の日は、さすがにもう暑かつた。受駿生たちは夏帽を淺く
「どうした。」私は訊ねた。
「うん。」弟の態度は相變らずむつつりして、底に自信が潜んでゐた。そして「うん」と答へたぎりで向うへ行つて了つた。
橫手の廣い庭の櫻の下で、私は一群の友人たちを認めた。皆同窓の人たちだつたが、年級から云へば、一二年上だつた人や、今度出たばかりの人も交つてゐた。
「いやあ!」「いやあ!」と吾々は口々に挨拶した。私は外國で自國人に會つたやうな心持を感じた。
「久野君は今年間違ひなしだね。すつかり準備が整つたらしいから。」そこにゐた一部志望の下岡と云ふ同級生が云つた。彼は生來の政治的野心家で、常に一高でなければ賴まれても入らないと云つてゐた。私は平常彼を蟲が好かなかつた。けれども今日は、
「どうして、どうして、一と通り調べもつきやしない。全く萬一の僥倖を期してゐるんだ。」
と私は眞顏で打消した。
「いや、さうぢやないらしいぜ。着々進行してると見えて、試驗前でもビュウを伴つて散步に出かける餘裕があるんだから。──君はこの間博覽會へ行つたらう。さあ眞直ぐに白狀し給へ。
「何を下らない!」私は顏の赤くなるのを感じた。
「僕は圖書館の歸りに見かけたんだ。此方が圖書館で難句集と首引きをして、氣を腐らして歸るのに、君は忙中閑日月と云ふ譯で、誰かを伴れて博覽會見物なんて、僕はつく/゛\無常を感じたよ。」
「そんな呑氣さぢやないんだよ。全く今年は投げてるんだ。」
「君の弟さんも一高だつてね。弟さんも間違なからうつて、あの同期生逹が云つてるから、兄弟揃つてパスすれあ、ほんとに一門の光榮だね。さぞあの人も喜ぶでせう。」
「馬鹿な!」私の心は暗くなつた。そして惡意とも好意ともつかぬこの男の揶揄に堪へられなかつた。
丁度その時誰れかが背後の方で、
「あゝしまつた。又あの大事な公式を忘れて了つた。」と云つた。見ると中學時代から
「何だ。どの公式だい。」
「a+bの二乘の公式さ。」澄まして彼は云つた。
皆な哄笑した。
「a²+2a b+b² これでいゝんだつたかなあ、何んだかさうぢやないやうな氣がするんだ。ほんとにそれでいゝんだつたかなあ。どうもどこか間違つてゐるやうな氣がしてならない。」佐々木は猶も眞顏で云つてゐた。
「全くそんな氣もするな。隨分しつかり覺えた積りでも、何だか覺え違ひのやうな氣がするよ。だから俺は入學試驗なんて厭だと云ふんだ。」誰かがこんな相槌を打つてゐた。
そこで又話は試驗の事に移つて、去年やら一昨年やらの失敗談、問題の豫想などが
その中に音頭取りの下岡が時計を見て、「おい、もうあと十五分の壽命だぜ。そろ/\敎室へ入らうか。」と云つた。
「それぢや
私も便所へ行つて、それから指定の敎室へ入つた。例によつて分館の敎室は暗く汚なかつた。去年で馴れてゐるので、出入にはさう慌てなかつた。ふと私は弟はどうしてるだらうと思つた。
机に坐つてそは立つ心を鎭めてゐると鐘が鳴り響いた。私の心臟は再びどき/\打ち始めた。
試驗官が入つて來た。去年も見覺えのある頭の禿げて眼の大きい、人の好ささうな老敎師だつたが、それでも何となく怖かつた。何でも體操の敎官らしく、
試驗官は例によつて、先づ受驗寫眞と實物とを見比べた。受驗生は見られる時に、誰も妙に緊張した顏を作つた。試驗官は薄笑を浮べながら、さつさとそれを見て通つた。何だか人を見るよりも、物を見ると云つた樣子が、私には
それが濟むと試驗問題が配布された。私は待ち兼ねて受取ると、ずつと問題に目を通した。幾何は大抵旣知のものらしかつた。が代數は、心配してゐた代數は、危惧に
私は再び代數の問題を取り上げた。すると今度はやうやく三番目の問題が形こそ變れ心覺えがあるのを發見した。それで先づそれから手をつけた。手をつけてみると、絲口から
敎室を出ると、緊張のあとに來る放心狀態の眼に、外の日が餘りにぎら/\してゐた。私はすつかり
校門を出ようとして、ふと前を見ると、例の遊蕩兒の佐藤が、常の通りに平氣な顏で步いてゐた。私は誰でもいゝから人を捉へて、自分の殘念を訴へたかつた。
「おい佐藤君。」私は呼んだ。「どうだつたい今日の試驗は。今朝はみんなのゐる處へ見えなかつたぢやないか。」
佐藤はにや/\と笑つて答へた。「相變らずさ。今朝ももう少しで遲れる處だつた。かう云ふ受驗生も困るよ。早く出たつて仕方がないから、試驗場にだけは時間のある限りゐるがね。當つてゐるゐないは別として答案もどうかかうか書くがね。僕のやうな受驗生もゐるんだからなあ。──ところで君はどうした。」
「時間がないので一題は式を書いただけだ。あとはどうかかうか行つたつもりだが。僕はもうすつかり
「贅澤云つてらあ。一題位で悄氣るなんて。あとが當つてれあ大丈夫ぢやないか。これからさへうまく行けば、及第疑ひなしだ。前祝ひに僕に奢つて吳れてもいゝ位だよ。」
「馬鹿を云ひ給へ。少くとも數學が全部出來なくちやあ、僕の方は駄目らしいよ。」
「だつて去年山下は一題白紙で出したさうだが、入るには入つたぜ。尤も入つてから肋膜になつて、死にさうだと云ふんだから、羨みもしないがね。」
「さうかい。あの山下がかい。」私は病氣の方に事よせて、試驗の方もよく聞きたかつた。
「だから焦つて入るにも及ばないて。」佐藤はわざと
「どうだい。どこかで一緒に何か食はうか。」
「さうしちや居られないよ。が、山下はほんとに一題
「何でもそんな話だつたよ。だから安心し給へ。君なぞは見込みがあるんだから、今日は勉强するやうに歸してやるよ。けれども試驗が終つたら、ほんとにゆつくり遊びに來給へよ。」
「なぜさう僕を勸誘するんだい。」
「君のやうな坊ちやんがどんな顏をするか見たいからさ。失敬。」
かう云つて彼は
私は何だか彼の言に元氣づけられた。山下の實例が、佐藤の云ふ事だから眞僞は分らぬにしても、或ひはといふ
翌日は英語だつた。──
去年は英語が失敗の主因だつたので、
その中に書取の敎師が來た。豫備校で一二度馴染のある、肩のいかつい黑川敎授だつた。例によつて一度早く讀んで聞かせた。發音をさう氣取らないのが、嬉しかつた。大抵解るやうに感じた。が、二度目に愈〻書き取つて見ると、中央頃で every day と云ふのが何だか初め聞き取れなかつた。私は又わく/\した。訂正の時、やつとそれらしい見當がついた。ほつと安心した。その外には誤がないつもりだ。
和文英譯は、解らないと云ふものではなかつた。が、何だか自分のがいゝか惡いか、自分ながら解り兼ねた。文法上の誤りはないつもりだが、決してうまい英語ではなかつた。
英語の出來は普通だと思つた。この分なら或ひは入れるかも知れないと、思ふ氣がだん/\起きて來た。弟がどうしたか、歸りに鳥渡千駄木へ寄つて見ようと思つたが、下らないところで向うの優越を見るのが厭さに、心弱くも行くのをよした。
次ぎの日は國漢だつた。──
國語漢文は昔から不得手ではなかつた。殊に作文は、私の最も得意とする處だつた。問題は大抵讀んだ覺えのある物ばかりだつた。書取りにも知らぬ漢字はなかつた。今日は徹頭徹尾氣持よく答案が書けた。私は得々として試驗場を出た。今日ばかりは弟も、自分に優りはしまいと思はれた。
晴々した心持で戶外へ出ると、鳥渡千駄木へ寄らうと云ふ氣を起した。試驗にかまけて知らなかつたが、今日はうら盆の十三日だ。街には何となく賑はしい人通りがあつた。女なぞも着飾つてゐるのが見られた。私はふと澄子さんを思ひ出した。──が、明日は大切な諳記物ばかりなので、凡てを思ひ斷つてまつすぐに家へ歸つた。
愈〻最終日が來た──。
一番自信のない物理と歷史との日だが、よかれ惡しかれ今日が終りだと思ふと、何となく氣が浮き立つた。
成績は全體の試驗中で、今日が一番惡かつた。初めの物理は、三題出來たからまだしもよかつた。が、次の歷史の時間になつたら、私の頭は
賴みにしてゐた山は悉く
答案は問題を所々に刷つて、餘白に書けるやうにした長い紙片だつた。そしてその紙片はやゝともすると机の上から外へ垂れ下つた。私は分らぬ問題に苦しんで、その垂れ下つた隣席の人の答案から、一字のヒントなり盜まうかと、決死的な考へすら起した。するとその決心をするかしない瞬間に、試驗官の低いが嚴しい聲が響いた。
「皆さんに鳥渡注意して置きますが、御覽の通り答案は紙が甚だ長いやうです。でそれをなるたけ外に出さないやうにして下さい。理由は云はなくても解りませう。」と試驗官はわざと丁寧に云つた。それはきりゝとした顏の、小柄な敎授だつた。
緊張した瞬間だつたけれど、この言葉の最後の皮肉は、受驗生の心持を鳥渡
試驗官の顏には勃然たる色が浮んだ。そして再び丁寧ながら、銳い聲がその口から出た。
「誰です。今妙な聲を出して笑つたのは。」さう云つて彼は急にしんとした敎室を
「君ですね。今笑つたのは。」試驗官は訊ねた。
「…………」受驗生は默つて眉のあたりを白ませた。
「君でせう。」試驗官はもう一步追窮した。
「…………さうです。」受驗生はやつと答へた。
「さうですか。ぢや答案はもういゝから、こゝを出て吳れ給へ。理由はわかつてるでせう。」
今度は誰も笑はなかつた。却つて白け渡つた沈默が、試驗場內をしんと支配した。
「出ようと思つてゐた處でした。」受驗生はデスペレートな反抗でさう云ひながら立ち上つた。そして滿場のひつそりした視線の中で、足音高く出て行つた。
やがて廊下のあたりでその靑年が、もう一度「ひゝゝゝ」と笑ふのが聞えた。
試驗官は殘されてあつた答案を見ながら、「ちつとも出來てやしない。今の學生は生意氣で困る。」と獨り言を云つてゐた。
私は自分も可なりデスペレートになつてゐたので、心からその靑年に同情した。寧ろその意氣を壯としたかつた。「ひゝゝゝ」と笑つた聲。その聲こそはこの受驗制度を、底から呪つた笑ひではなかつたか。私とても笑へるならさう笑ひたいのだ。滿天下の受驗生とても、皆聲を揃へてさう笑ひ度いに違ひないのだ。そして若し、現今社會の生んだ醜き畸形兒なる吾々受驗生が、聲を揃へてこの笑ひを笑つたなら、當局の人々は果して何と云ふであらう。「少しも出來てやしない。今の學生は生意氣で困る。」さう呟く事によつて果して事が濟まされるであらうか。──
私はまだ一題白紙のまゝの答案を前にして、こんな事を思ひ耽つた。
鐘は鳴つた。私の答案は、とう/\一題空白のまゝだつた。
歸りに私は千駄木へ寄つた。弟はもう歸つて、机の前にぼんやりしてゐた。
「どうだつた、成績は。」私は訊ねた。
「うん、まあいゝ加減にやりました。」弟の答は相變らずむつつりしてゐた。
「僕は又駄目らしい。今日なぞもひどく
「とにかく濟んぢまつたんだから、試驗の事は僕はどうでもいゝです。」
弟は別に聞きたがりも、話したがりもしなかつた。
私は拍子拔けの氣味で、默つて、底には自信ありげな弟の顏を、つく/゛\と眺めやつた。そしたら急に憎らしくなつた。それは自分より
十一
吾々が試驗に忙殺されてゐる間に、世界はすつかり夏になつてゐた。街はすつかり裝ひを變へて、晝は街樹の影が濃かつた。夜は夜で涼しい灯が散つた。私は受驗の疲れを負ひながら、またその結果の危惧に追はれながらも、心は輕るく都會の夏をあさつた。
千駄木の家へは繁々と往來した。澄子さんとも屢〻出會つた。受驗後の輕い氣持は、彼女の心にも反映した。彼女も常より晴れやかだつた。そして私に對する態度も、あの時以來さう惡くはなつてゐなかつた。何だか却つて、私の意志表示に安心して、いくらか
彼女と弟との間にも、別に變つた樣子はなかつた。私が試驗で遠ざかつてゐる間に、生ずることを
或る日はかう云ふ事があつた。弟は友人に誘はれて出たとかで、丁度家にはゐなかつた。私は姉一人を相手に、暫く色々な雜談をしてゐた。年上の女性と話をしてゐる中に、どうかすると屢〻さうなるものだが、私も知らず識らず感傷的になつた。そしてとう/\こんな事を云ひ出した。
「姉さん、僕はこの頃ほんとの神經衰弱にかゝつたやうですよ。ここにゐる中はそんなでもないんですが、宿へ歸ると陰鬱になつて堪らないんです。何だかかう世の中が、すつかり暗くなつてしまふやうな氣がするんです。一體どうしたんでせう。」
姉はぢつと見定めるやうに私を見て、それから私の言草をかう輕く外づした。
「お寺になんぞゐるからだわ。」
「それに試驗の無理も
「だつて未だどうだか解らないぢやないの。入つてゐるかも知れないでせう。──いえ、きつと入つてゐてよ。そんな風に考へる時は、却つて運が向くものよ。」
「どうですかねえ。さううまく行くといゝですが、世の中はさうも行きませんからねえ。それで神經衰弱になんぞなるんですよ。」
「原因は大抵そんな所だわね。」姉は微笑みながら云つた。
私はこゝでもう一步突込みたかつた。けれどもさうするには、まだ臆病だつた。二人は暫く默つてゐた。姉は私の心持を、知つたやうな知らぬやうな態度だつた。
その時格子戶の開く音がした。澄子さんが來たのだつた。彼女はいつもの明るさを、戶外から二人の間に持ち込んで來た。けれども一旦感傷に堕した私の心は、いつもほど彼女によつて浮立たなかつた。
暫くしてゐる間に姉は、二人を殘して臺所の方へ立つた。私と彼女とは、改めて
「今日は大變沈んでいらつしやるのね。どうかなすつたの。」
「いゝえ、何でもないんです。」
「ほんとに何でもないの。」かう云つて彼女は、首を
私の心の中で、又、「今だ。」と囁くものが在つた。「今こそその時だ!」私は上眼遣ひに彼女を見て急いで
「ねえ澄子さん。貴女この間の事を怒つていらつしやるんぢやありませんか。さうだつたらどうか許して下さい。僕は何も、どうする氣はなかつたんですから。」
「この間の事つてなあに?」彼女は私の急に變つた態度を驚きながら、私の調子に釣られて聲を低めた。
「博覽會の中で、あんな事をしたのは僕が惡かつたです。あんな事をして、貴女はさぞ、私を卑しい奴だと思つたらうと考へると、僕は穴にでも入りたくなるんです。どうか僕を惡く思はないで下さい。」
「あの事? あの事なら、何とも思つてやしなくつてよ。只私、
「私ほんとは嬉しかつたのだわ。」
「ぢや許して下さるんですね。」私の語尾は思はず
「ほんとに何とも思つてやしませんわ。だからもう、こんな話はよしませう。私厭だわ。何もかも知つていらつしやる癖に。──」
私は虛を衝かれた人のやうに、もう一步も踏み出せなかつた。が、たとへ少しでも自分の心持を云つて了つた後では、又たとへ操られてゐるにしても、彼女の答が好意を暗示するのを知つた後では、重荷が下りたやうな氣がした。その中に姉が來たので、二人はいつもの通りの二人になつて了つた。
弟はなか/\歸つて來なかつた。澄子さんは弟に就いて、來た時只鳥渡聞いた計りで、後は不思議に何も云はなかつた。私はそれにすら安易を感じた。
やがて夕暮れぬ中に、澄子さんは歸つて行つた。
後は又姉と二人ぎりになつて了つた。
「どう? 神經衰弱は癒つて?」突然姉は笑ひながらかう聞いた。私は不意を打たれた。そして思はず、
「え?」と聞き返した。
「もう二度は云はなくつてよ。」姉は
「姉さん、そんな事云ふもんぢやありません。」私は哀願するやうにかう咎めながら、先刻から引續いた感傷で淚ぐんだ。
姉は吃驚して正面に振り向きながら、私の只ならぬ樣子を見ると、笑ひかけてゐた顏を、眞顏に直した。今度こそ姉の前で、私はどうしても一步進まざるを得なかつた。
「姉さん。」私は間を置いて續けた。「そんな事を云つて、戲弄ふのはよして下さい。僕はとうから姉さんに打ちあけて、是非お願ひしようと思つてたんです。──僕はほんとに澄子さんを思つてゐるんです。そして出來るなら、行く/\結婚したいと思つてるんです、出來るなら今からでも、許婚にして貰ひ度いんです、どうでせう姉さん。一つ貴方から澄子さんのほんとの心持を聞いて、向うへ話して下さる譯には行かないでせうか。──僕は浮氣やいたづらで、こんな事を云つてるんぢやないんです。眞面目で云つてるんです。だからどうか姉さんも、本氣になつて助けて下さい。お願ひします。ほんとにお願ひします。」私は興奮に釣られながら、淚を流して一氣に云つた。
姉は當惑さうな色を浮べて、默つて首垂れて聞いてゐた。そして長い間考へ込んでから顏を上げた。
「その問題はね。健吉さん。」と姉の言葉はなぜか淚聲で濁つた。
「それは私も少し前から考へてゐました。決して私も惡いやうにはしない積りでしたよ。今だつて貴方の心持にはほんとに同情してゐます。けれどもねえ健吉さん、私は世間並な事を云ふやうだが、いかにもまだ貴方の身には早過ぎますよ。これが大學へ入つてからとか何とか云ふんなら、まだしも話ができますけれど、何分まだ貴方だつて入學試驗を受けてる身ぢやありませんか。でもそんなに思ひつめてゐるんなら、ようござんす。せめて入學試驗の結果が解つて、高等學校へちやんと入つてからになさい。そしたら私も話して見ませう。できるだけ盡力もしますわ。──入學試驗の結果つて云へば、もう直ぐ解るんぢやありませんか。兎に角この問題は、當分私の胸一つに收めさして下さい。それが一番いゝでせう。ね、さうして下さい。私の心がよく解つて?」姉の言葉に少しも不道理はなかつた。
かう云はれると私は、恥かしさと嬉しさと氣遣はしさの中に、ただ
義兄の歸りが遲い定例の日だつた。弟も歸つて來なかつた。家の中を靜かに夕暮が滿たして來た。私も歸らうとしたが、姉は特に御馳走すると云つて私を引き止めた。とう/\夕飯を食つてから歸途についた。
戶外へ出てみると、
今はもう恐縮と期待とを以て、
十二
待ちに待つたけれども、又間遠かれとも願つた發表の日は來た。朝起きる
私はわざ/\見に出掛けるのが怖かつた。が、見に行かずにも居られなかつた。
朝一二時間、愚圖々々してゐた。愚圖々々してゐる中に、誰かが來て結果を知らして吳れさうな氣がした。が、誰も來る樣子はなかつた。とう/\その中に、かうしてどつちともつかず懊惱してゐるのにも堪へられなくなつた。それでいつそ一と思ひに、運命の決着を見て了ふ方が、感情の解放を得る唯一の道だと思ひ立つに至つた。
十時頃、思ひ切つて學校へ出かけた。本鄕通りを上つて行くと、向うからぞろ/\受驗生の群がやつて來る。彼らの中の或る者は、抑へ切れぬ嬉しさで、眼の緣をぼつと赤らまし、聲高に話し合ひ、又は首を高くもたげて步いてゐた。そしてその他の大多數は、何かの不正事を
しばらく行くと、下岡と佐々木が向うから來るのに會つた。「いやあ」と云つて帽子の鍔へ手をかけると、彼らは何よりも先に、取つてつけたやうな苦笑と共に、
「又駄目々々。」「捲土重來だ。」と口々に云つた。
「僕はどうだらう。」私は恐る/\きいた。
「君の番號を僕らは知らなかつた。だから、まあ早く行つて見給へ。君は多分間違ひなからう。僕らはもう敗軍の將だから、何も云はないんだ。」と下岡は云つた。
「敗軍の卒だよ。」佐々木は傍から自嘲した。
「兎に角、今日は失敬。」
「失敬。」私は又步き出した。受驗生はまだぞろ/\と通つた。
校門の少し手前で、私は又佐藤と出會つた。彼は
「おい佐藤君、どうだつたい。」と呼びかけた。
佐藤はひよいと顏を上げて私を見た。その顏にはもう悲みらしいものはなかつた。
「やあ君は今か。それぢや早く行つて見給へ。──僕も例によつて人並に見に來たんだ。これでまあ受驗生たるの義務は濟んだ譯だ。があんな揭示は勸業債劵の當り番號を見ると同じで、僕には何らの關係もないね。──ぢや失敬。よかつたら遊びに來給へ、落第はしても僕は、なか/\、故鄕へは歸らないよ。」
「ぢや又會はう。失敬。」
私はとう/\校門に達した。黃褐色の塗りの古びた門柱も、今日は何となく怖ろしかつた。
「俺は今運命の門をくゞつてゐる」とさう思つた。
本館の橫から、渡り廊下の方へ步むと、旣に貼り出された揭示の紙が見えた。十二三人の受驗生が、等しく夏帽子を斜めに仰向かして、その下に黑く立つてゐた。私は急に激しく動悸と戰慄に襲はれながら急いでそこへ步み寄つた。
私は揭示を見上げた。終りの方の三部と云ふ區劃を慌てて見別けると、そこのずらりと並んだ番號に熱した眼を急速に注いだ。一二九、一二九は無かつた。私はまだ信じられなかつた。もう一度見直した。矢張り無かつた。そして尠からず慌て出した。もう一度未練に見直した。無かつた。念のため乙の方をも見た。乙の方にも一二九は無かつた。一部、二部、三部を通じて、一二九といふ番號は無かつた。かうなつて來た時、私は噓のやうに平氣だつた。何だか無いのが當然のやうにも思つた。併しそれは一瞬だつた。次に私は俄然として私の位置を自覺した。落第だ! 何もかも駄目だ。すべてが失はれた。──さう思ふと胸の中が煮え返るやうに動顚した。
ふと弟はと思つた。二部甲の二一六! 私は急いでそこを見渡した。すると紛れもなくそこには、弟の番號が在つた。在つた、在つた! 私は自分の眼を疑ひたかつた。
私は
周圍に同じく揭示を見てゐる人は、一樣に聲を呑んで仰いでゐた。たまには短い間投詞を殘して、沸然と立去る人もゐた。多くの人は蒼白い澁面を作つてゐた。が、恐らくはこゝに來た何人と
私はもう何物をも見なかつた。そして悲痛と失意とに
千駄木へ行く氣なぞはもう無かつた。
寺へ歸つて机の前へ坐ると、初めて淚がこみ上げて來た。珍らしく曇つて來た中夏の日ざしを吸うて、靜かに明らんだ障子を
明くる日千駄木の姉から手紙が來た。慰問の手紙だつた。餘り氣を落して、身體を惡くするなと云ふやうな月並な事が、女らしい冗漫さで書いてあつた。私は感謝した。が、こんな厭な手紙を書いた時の、姉の迷惑相な顏を想像すると、有難いよりも悲しくなつた。そして當分千駄木へは行くまいと思つた。
その翌日は澄子さんから手紙が來た。急いで封を切ると、去年と同じく同情に滿ちた手紙だつた。只去年のよりも短かつた。そして同情以上の何物もなかつた。それも私を悲しませた。けれども又只一言、「悲觀して家に籠つたりしないで、千駄木へもお遊びにおいでなさるやう祈り上げます。」といふのに慰められた。
十三
二三日過ぎると私は、急に千駄木へ行かうと思ひ立つた。ひとり失意の苦惱を續くるにも堪へ兼ねて、誰かにそれを訴へたい氣もあつたし、又得意な弟の樣子を見て、苦痛をいやが上にも大きくして見たいと云ふ、デスペレートな享樂心も在つた。それともう一つ重大な事には、澄子さんの同情にも浴したかつたのだ。
千駄木の家には姉が一人ゐた。姉は私が入つて來るのを見ると、「まあ健吉さん。」と云ひながら淚を浮べて私を迎へた。「暫く來ないんでどうしたかと思つてゐたわ。事によつたら今日あたり行つてみようかと思つてゐたのよ。でも、よく來て下すつたわね。──貴方もほんとにお氣の毒ねえ。」
さう云ふ言葉に私は餓ゑてゐた。それで一も二もなく淚にくれて了つた。その上自分を驅りたてるべく、更に淚ぐんだ聲をさへ出した。
「自分の勉强が足りなかつたと諦めてゐますが、それよりも根本的に頭腦が惡いのですからね。僕はもう駄目です。」
「そんな事はありませんよ。運も半分なんだから。氣を落さないでしつかりなさい。貴方にそんなことはあるまいけれど、つまらない所で自棄でも起しちやあいけませんよ。──澄子さんも大變心配してゐたわ。」
「澄子さん? 今あの人の事なんぞ云はないで下さい。」私は急に羞恥を感じてかう云つた。けれども內心では彼女の事がもつと聞きたかつた。
姉はそれなり口を
姉の話では、弟は湯に行つてゐた。私は弟の机の前に坐つて、ぢつと物思ひに耽つた。ふと弟の顏が、元氣に滿ちて、今頃はのんびり湯壺につかつてゐる顏が目に浮んだ。そして羨望と嫉妬とがそのまはりに渦を卷いた。私は慌ててその想像を消しにかゝつた。
ふと机の上を見ると誰かからの祝電が載つてゐた。「セイコウヲシユクス」私は無意識にその文句を
私は階下の物音に注意しながら、小盜のやうにおづ/゛\抽斗を開けた。果して、左の抽斗に手紙はあつた。私のと同じ薄桃色の封筒で、しかも同じ日にだしたらしい手紙が在つた。私は急いで讀み下した。
「健次さま。私は何よりも嬉しくて堪りません。もう嬉しくて嬉しくて淚が出ました。お兄さまはお氣の毒ですけれど、運だから仕方がありません。でも貴方が無事に合格なすつたので、貴方に心からお祝ひしなければなりません。實は私は貴方がお入りなさるやうに、每晩お祈りをしてゐました。その甲斐があつたかと思ふと、神さまにも御禮を申さずには居られません。
これから貴方はもう、立派な一高生ですわね。さぞお威張りになる事でせうね。けれども、いくらお威張りになつてもよう御座いますが、餘り偉くおなりになつて、私なぞを御相手になさらぬやうになつては厭よ。どうかいつ迄も、いつ迄も交際して下さいな。折角お宅へ遊びに行つても、貴方に惡い顏をされると、私何より悲しいのよ。私このごろ貴方の事ばかり考へてゐてよ。餘り
御約束によつてお祝ひの印まで、別封の萬年筆さしあげます。二三度私が使ひましたけれど、まだ新しいんですから、どうぞ使つて頂戴。
貴方の、澄子より
愛する健次樣御許に。」
私は一氣に讀み終つた。顫へる手で再び丁寧に疊み直して、封筒に入れると、もと通り抽斗に藏つた。それから後は五分間ほど、何かにぎゆつと押しつけられて動けなかつた。胸の中は動亂の極、噓のやうに平靜だつた。たゞ何とも云へぬ緊張が、それも苦痛を越した沈靜で存在した。私は文字通りに息塞{いきづま}るかと思つた。がとう/\
「凡ては失はれた。」と私は思つた。「かうなつてはもう仕方がない。」
私は先刻よりももつと沈靜な態度で、階下へ下りていつた。
暫くすると湯から、弟が歸つて來た。彼は私を認めると、
「兄さん、ほんとに、お氣の毒です。」
いつも寡默な弟に取つては、これだけ云ふのも精一杯らしかつた。
「いや、僕のはもう仕方がない。が、おまへはうまく及第してよかつた。お芽出度う。」
私もかう答へるのが關の山だつた。そして、再び改めて、弟の顏を、凡ての點に於ける優越者としての弟を、ぢつとばかりに
二人は暫く當り障りのない、いつ故鄕へ歸るとか歸らぬとか云ふ、平常の會話を取り交した。がそれでもいくらか
私は夕飯までと引きとめる姉に、强ひて別れを吿げて立ち去つた。
戶外はそよとの風もない、ほの黃色い夕暮れだつた。街には人々が餘光と灯とを浴びて、忙しく行き交うてゐた。私はその中に立つて、行くべき目的もない身を顧みた。
その時ふと私は、そこの新花町の佐藤の宿が、最も手近にあるのを思ひ附いた。屢〻自分を誘つて吳れたのを思ひ出した。今の敗殘の自分などには、あの男位が最も適當な相手だと思つた。
佐藤は丁度下宿にゐた。
「やあ君かい。とう/\やつて來たね。それでもよく來て吳れた。──時に君も今年駄目だつたんだつてねえ。まあ仕方がない。運と諦めるさ。諦めてゆつくり遊んで行き給へ。今日はゆつくりしてもいゝだらう。」
かう云ひながら、彼は私の返事も待たず飮込み顏に、そこのベルを押した。
十四
翌朝、私は上野公園の高臺のベンチへ、ぼんやり腰を下ろしてゐる自身を見出した。
昨夜からかうなる迄の事を考へると、私はそれが夢であればいゝと願つた。あれから佐藤の處に
「あゝ飛んでもない事をした。自分はこゝまで堕落したか。」私は朝の冷たいベンチの上で、泣きさうになりながら考へた。
昨夜始めて知つた禁斷の木の實。その事も堪らなく厭に思ひ返された。それは全く私にとつて無味だつた。あんなものに、何の身を打込むだけの價値があるのか、と心から疑はれた。
「要するに自分には凡ゆる物が失はれたのだ。」
私はさう心で呟いて、今、曉霧の一皮づつ剝げて行く淺草一帶の風景を眺めた。霧の晴れた跡には只、黑いごみ/\した屋根々々が、押しかたまつたり、もり上がつたり、
「さて、これから何處へ行かう。」と私は考へつゞけた。
脚下で不意に汽笛が響いた。私は立上つて柵に倚りながら、思はず下を見渡した。灰色の停車場から、幾條もの
それを見てゐた私の眼に淚が湧いた。そして淚の中でかう考へた。
「あの汽車に乘つて、故鄕へ歸るのが一番だ。それより外に行く處はない。故鄕へ歸つたら、又どうにかなるだらう。」
私はそつと淚を拭いて、上野停車場の方へ向つた。
發車までには、
とう/\私は汽車に乘つた。八ケ月前私の希望と光明とを載せて來たその同じ汽車が、今は失意と暗黑とを載せて、北に發つた。──
郡山を過ぎる頃から、窓外は蒼茫と暮れかゝつた。そして中山あたりの山路にさしかゝると、出たばかりの月がほの明るく車窓を染めた。山潟近くなると、四圍はすつかり夏の匂はしい月夜だつた。猪苗代の湖景がもう晝のやうに想像された。
私はふら/\と山潟で下りた。そして暗い驛路をぬけて、湖の方へ步いて行つた。闇にかたまつた家々が途斷れて、大きな
月の光りは、靜かにたゆたひ落ちて、
私は土堤に腰を下して、ぢつと水面に眺め入つた。ふと氣がついてみると、右手にはもとの船着場らしく、突堤が湖中へ長く伸び出てゐた。黑い、眞直ぐな、誘ふやうなその姿が、今度は私の眼に離れなかつた。
私はこれから起ち上つて、その突堤を步いて行くのだ。眞直ぐに、どこまでも、どこまでも……。
(この遺書めいた手記は、突堤の端にその他の持ち物と共に殘されて在つた。彼の死體は翌朝發見された。急を聞いて馳せつけた弟の手に、やがてこの手記は渡された。弟はそれを誰にも見せず、今の今まで
(大正七年二月)
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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