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霊岸その他

  煙突絵巻

 

おばけ煙突のある町に

美をまさぐる翁が住んでいた話は

伯母から聞いてはいたがすっかり忘れていた

いさおを残さずに消えていったその翁の

影は筆で薄墨を刷いたようだったらしい

けむりのようでも

時も処もかわって

ここに立っていた煙突を誰も覚えていない

丁目は大きくなるほど西にうつり

北風ゆるく窓辺をながれ

ひとりものが絵を解き展げている

かつて煙突のあった場所に

建てられたアパートの一室で

弱い冬の陽が足を伸ばしてくる畳の上

血い、火い、

イ行は意外に激しいと

(これは)合戦図(なのか)をたどりながら思う

武具に香を焚きしめてとか

竈に火をくべてとか

火矢を仇の顔めがけて射ろとか

もくもく吐き出されるけむりとか

煙突にのぼって下りてこない男の叫びとか

蒼黒く滲んだ空に

硬直しながら昇ってゆく

一筋の蛟あるいは冷たい糸鋸のような

文字列

錆びきった有様の一行

そんなものたちはみな

描かれていない

斬り落された腕は描かれている

色塗ってぺたぺたぺた

赤塗ってべたべたべた

「ひと一體からそんなに血は出ないよ」

そら、もう少し先に進むと

網目模様の血管だけが見える

ひとがたの怪シノ者

まさに天空に逃げ去る場面となる

うむ、陀羅尼。

一軸

これを巻き戻して

畳の上に立てようとするけれど立たない

されば煙突にみたてられない

 

  はてな

 

いましがた

火あぶりにあったひとが

泣きながら路地を去っていった

後ろ姿に水色の炎を背負って

おもいだしてみるがいいさ。

今朝の空は朱色に染まり

水ぜめにあったひとが

水をのんでのまされてげげっ

かえるのようにはいつくばって

目をむいていた

昨晩おそくなって狐の声

ぞろぞろと路にあふれる

花嫁の群れと化粧の匂い

女の頭の上には小さな雲や

かぼそい音の渦巻がのっかっていて

賑やかな夜中の光景となっていた

ゆめみちゃんかすかちゃんきわみちゃん

とひとりひとり名を呼んで

別れを惜しむべきだったかもしれない

芝居ならそうしたにちがいない

科白は

暗闇の中からあらわれるものは、

魔手ばかりではない。

金太さんも出たね。

それは飴だろ。

とか、路地風は時の背を押し

いま鳴いた鴉が

もう笑いながら

ひとをつつく

五月末日晴れない

朔日未だ晴れない

 

  霊 岸

 

 よばれている。

伝わってくるものは音でも光でも振動でもない、では匂い、うーん

(考)、やはりちがう。 じゃあ、どうして呼ばれていると判るのか、

わからない、が、聘ばれている。「気がする」ってそんなに貶まれ

る判断理由ではないよ、ね。

 よんでいる。

先方の居所は霊岸であろう。どなた様かがわからない。水に沈んで

金属や骨の堅さを有つ冷たい御方らしい。そうだ (前世記憶残存

片 壱)。 あおいがよおく焼けて、その骨を町屋葬祭場で拾って

やったとき、艶のあるずっしりした他者の御骨が混じっていた、正

体は添わせて棺に納めた一体の人形の骨格の一部で陶づくりのもの

だった、異物に、恥かしさを感じ、でも あわてないふりの手つき

で、あおいのすかすかの骨骨に紛らわせて 自家製の壺に異骨を隠

した。いっそ「撒骨がいいと思いませんか」

 よばれた。のなら応えるのが挨拶というもので。

住み処を出る。この大川永代附近川底番外地横穴をいでて、鰭で

脇腹の鱗を撫でつけ自慢の髭で淡水を嗅ぐ、水の流れは、月齢は、

花は、散華は、こころばえは・・・ 風を語ろうにも鳥を詠もうに

も無学なために果たせない、なっさけない愚魚さ。ただ魚の目に

泪はないね。水底からの階段がある、ここで前世の形体を授かる、

しゃなりしゃなり、化けながら昇ってゆく、川から上がるといい

按配に小糠雨降り、ひとっこひとりいない河岸の浪漫。石の街。

歩きはじめは靴からがっぷがっぷと水が零れ歩道をさらに濡らし

てしまう。ひとに出くわしたとしても彼らに正体を発かれるわけ

がないから怖くない、ひょいと避けてやればよいだけだ。名犬は

困るがこの街にはいない、賢猫も。水から上がると足が濡れてい

ることが気色悪いのだから、げんきんなものだ、化ける前には脚

はなかったのに。そうだ(前世記憶残存片 弐)。まだヒトだった

ころ、「赤丸病院」むりやり退院の帰り路、淋しい霙にサンダル

をつっかけた素足が濡れて凍えた。鼻緒が甲にくい込み街あかり

すべてが尾をひいて斜交いに流れていた。くたびれた紙袋にわず

かな生活道具をねじこんで提げつんのめりながら途中迷いに迷っ

て(薬のせいだ)小一時間歩いた、安アパートへ辿り着き玄関先

でぼそっと死んだっけ。――

 よんでいたのは。あなたですね。

霊岸橋の欄干に凭れて運河をのぞくと苔色の水はとろみ、その底

にくるまのなきがらが沈んでいた。うらめしげにひしゃげたリヤ

カーの残骸。くるまの黒護謨はただれふやけぼろぼろ襤褸襤褸の

海藻を想わせるつぶやくような泡。道具もひとりじゃ淋しいね。

現世の姿を得、水に入って尾鰭をこすりつければなぐさめくらい

にはなるかな、黒い鉄骨の間からきこえるおも念いの強いものが

たりを聞くよ。呼ばれて駈けつけても、なにも助けにならないこ

とは多い。首肯くだけでいいのなら橋上でしばらくは聞いている

よ。リヤカーにも一生涯があり忘れられない光景を秘めて水底で

迷っているのだろう。――三丈(みたけ)さんが、あたしにダンボー

ルを載せて引いていたころ、自動車は夥しく増え続ける時代であ

り、 坂では幾度も背後からいらだちの警笛を浴びせられた。(シ

ロよ、おびえなくてもいい)素朴な代々混じり気ばかりの複雑な

血をめぐらせた老犬は 側で眼をきょときょとさせ、無念、何も

手伝えなかったが。<三丈さん、坂はのぼりもくだりもつらいね>

シロは仕方なしに尾を振り続けていた、むなしいが応援のようで

もあった。一歩一歩あたしを引く三丈さんの足には垢がすごいし、

体調の悪いあたしは軸が軋んで苦し気な声をもらし、先ゆくシロ

は哀しいけれど澄んだ眼差しを前方へなげかけていた。上手に負

けを呑みこんで 老練な強かさを身につけたシロ、と、三丈さんの

しなる痩躯、その影。ぐっすり眠るのは死んでからだ——三丈さ

んと離別して四年目の春、くるまは霊岸橋の脇から突き落とされ

た。柳の新芽あおく、桜の蕾はふくらむ季節だった。 それから、

浅く眠っては淡く覚め、水門の開閉をながめながら朽ちた。

 よばれたからには。

つるんと零れるように橋から身を投げた。どっぷん、通りがかり

の人間には空耳にきこえるべし。現世の姿に変化し、水中でやわ

らかく一回円を描き、南無、くるまの骨のすきまをゆっくり縫っ

て泳いだ。(きっと成仏できるよ)水門を抜け右に折れ日本橋川

を流れにのって奔れば大川に出る。その大川の底にも 鎮まった

器物や道具がやすらかにぐっすり眠っている。

 

  海辺の墓地

 

 この黒色土の丘に亡き大工の友人が片手間に拵えた折りたたみ椅子を

据え「えんや」と坐って青海原をながめる。快晴を映した昼の宇宙の一

枚鏡。割れない、裂けず、砕けない。間遠い波がしらが恒星の瞬きに似

た合図をよこす。おおよそわるい報せではないだろう。水平線にやさし

い表情の貌が並んでいる、そんなはずはない、ない、こともない交感の

午后である。

 登り坂の小径の脇でもいだ柚子を強く握る、爽やかな黄の夢が鼻孔か

ら潜って脳髄を湿らす。おもいで、と云うより、鮮やかに見い出される

過去のつながり、と、そのあらまし。笑顔が次次と碧空に浮かび上って

は滲み消えてゆく、海は海のまま、昼空は夥しい星星を匿って。

 大工の墓には柚子が供えられ、母の墓には蕾の山茶花。その先を右に

折れて、水を汲むところ。桶いっぱいの清らかな冷水を墓石に注ぐと石

は黒黒と光りはじめる。死びとが渇いた咽をごくごくごくごく鳴らして

水をたらふく飲んでいる。普段は海から海綿童子が墓の世話に来てくれ

る。雨の日、童子は水分を含んででぶでぶになり身動きがとれないので

来てくれない。

 椅子を開いて墓のはずれでまた坐る、この頃疲れやすいから。毛並の

美しい白い日本犬が笑いながら近寄ってくる。墓守りの、いいやつだ。

頭を撫でられる距離には来ない、背をこちらに向けて坐り海と空を見て

いる、らしい。そのうちいねむり。ほら、青空にも流れ星。柚子は先程

より少し朽ちた。大工の名と母の名と行方を知らせぬ女の名を小声で呼

んでみよう、として、呼ぶ順序を迷ったので止めた。胸の中の星座は日

毎に形を崩しはじめている、兆し。身重の女が蝙蝠傘を杖にして墓への

石段をゆるゆる昇ってくる。知ってるひと。と犬が尋ねる、知らない。

ひとが死に遭うことはそんなに哀しいことではない。

犬は。

犬も。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/12/18

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岩佐 なを

イワサ ナヲ
いわさ なを 詩人 1954年 東京都に生まれる。詩集『霊岸』(思潮社)により第45回H氏賞。

掲載作は2002(平成14)年12月、「ペン電子文藝館」のために受賞作その他を自撰。

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