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『世界の美女達に乾杯!』(抄)

トルコ、また行く!

 十年ほど前に旅行業界の仲間達と休暇で、ほぼトルコ一周(・・・・・・・)旅行をしました。帰りの飛行機の中で〝またすぐ来なくっちゃ!〟と堅く決意をしたものの、まだ行けていないのです。

 そうこうしているうちに宗教がらみ(?)の爆弾テロまで何度か起こって、行くの怖いなあ……と思いながら、でもやっぱり素敵な国だ!と思い起こさないわけには行きません。

 

 トルコは世界一の親日国……と何かで読んだことがあります。その記事で筆者が、 一番(・・)とした判断の基準はわかりません。人の気持ちは数字で表せるものではないのでしょうし、貿易の取引額やら訪問観光客数の多寡で考えるものでもないでしょう。でも私はトルコに旅行し〝なるほど、すごい親日国、それは正しい!〟と感じる場面がいくつかありました。

 あとでこんな風に教えてくれた人がいます。

〝三つ、大きな要素があるんだよ。まず、言語が日本と同じウラル・アルタイ語族であること。次に近代トルコ{トルコ共和国)設立の際、欧米列強の植民地にならなかった日本の明治維新を手本としたこと。最後に、長年の間ロシアの南下政策の対応に、苦しんできたトルコにとり、日露戦争で日本が帝政ロシアに勝利したことが賞賛に値すること……だからトルコの人は日本人に対して身近な、親愛の気持ちを持つんだ〟

 高校の世界史の授業を思い出すようなお話です。

 

 話はそれますが昨年でしたか、高校で必修科目の履修漏れの問題が報じられました。そのほとんどが世界史を端折った……ということだったと思います。世界史大好き人間の私にとり、それはとんでもないことです。世界史の基礎知識が他国の理解のためにどんなに重要か、いえ、手っ取り早い話が、海外旅行をして現地の人たちとの会話に、何よりも役立ってくれるものなのです。

 遺跡や博物館の見学の際に、理解が深まることは言うまでもありませんが、それ以上に人間同士の交流を深めるための、大切なバックグラウンドとなると言えるでしょう。

 大学受験競争に対して有利にするため世界史を端折ったとは、情けない限りです。英語(・・)英会話が重要(・・・・・・)と事あるごとに言われ、それは確かにそうだとは思うのですが、言葉が話せても話す内容が表層的なだけの会話は、国際親善には繋がりません。

 それだけではなくテレビ・新聞報道の中で驚いたのは、履修漏れを知った教育機関・保護者たちが一様に〝何とかこのまま卒業させてやってくれないか……〟という発言だけだったことです。

 経済のグローバル化の時代の中で、今後ますます外国人との接点が多くなることと予想されるにもかかわらず、世界史はどうでもいいとは!

 私には世界史・地理は、何よりも必須!としか思えないのですが、でも現在の日本人の大多数の人たちの教育(・・)教養(・・)というものに対する考え方は、そうではなかったらしいと知って驚愕しました。そして日本が常に国際社会において経済・文化、 すべての面において、指導的役割を果たす一流国であって欲しい(大げさか?)と夢見る私にとり、何かしらがっくり来てしまうような失望感と、将来への不安を感じさせる出来事でした。

 

 トルコの話にもどりますと……本当に古代と現代・都会と田舎・プライドと親近感、そしてアジアとヨーロッパ……様々な面をあわせ持つ興味深い国です。いわゆる観光ルートを一周したのですが、いくつか忘れられない場面を思い出します。まず有名なトルコ絨毯の工場見学の場面です。

 そこは特に、オスマン・トルコ帝国王室御用達の絨毯を織って居たというところで、ガイドの説明によると、シルクの絨毯は十代の少女達が織るとか。なぜならば絹の光沢で視神経が傷つき、目が見えなく(見難くか?)なるから何年も続けられないというのです。

 それを聞いて辛い思いを感じながらお手洗いにいった時です。ちょうど織姫達の休憩時間だったのか、中には何人もの少女達がいました。私が入っていくと、さっと道を開けながらにこやかに微笑んでくれます。小声でささやきあっている声も聞こえます。〝ヤポン? ヤポン?〟そう聞こえて私が〝ジャパン、ヤポン、ハポン……〟日本人だとわかりそうな言葉で答えると、微笑が華やかになりました。そばに寄ってきて、嬉しそうなのです。〝あっ! この人たち日本人好きなんだ〟実感として理解が出来たように思います。

 結果として、海外旅行に行っても買い物嫌い・ものぐさ癖で現地の土産物・特産品の類はほとんど買ったことのない私が、大枚はたいてオスマン・トルコ王室御用達シルク絨毯を買ってしまったのですから(勿論小さいやつですが……)人の心は不思議です。

 でもこの買い物のおかげで、同行した業界の仲間達からは〝浅見さんはパッパーと高価な買い物をするのが、好きな人なんですね〟と、まったく事実とは逆の印象を持たれてしまったことを後で知りました。

 

 イスタンブールでの夜のタクシー事件も忘れられません。夕食のあと三、四人で 夜の街に出て、帰る時のことです。乗ったタクシーのメーターがどんどん上がって行き、どう考えても逆の方向に向っているように思えるのです。車を止めさせて英語で確認するのですが、運転手はわからないフリです。

 旅行業界重鎮のわが団長はあきれて(?)絶句! 普段は部下が交渉役なのでしょう。やむなく同行の女三人、車を降りて怪しげな英語でブーブー言っていると、周りに何人もトルコの人たちが集まってきます。

 普通なら怖ーい雰囲気と言うべきなのでしょうが、〝いったいどうしたんだろう?〟気遣わしげに取り巻いて……すると一台、別のタクシーが来て止まり、周りの人から何か聞いたのでしょう。降りた運転手が近づいてきて、

〝私は英語を話しますが、何かお困りですか?〟

 事情を話すと〝日本の人ですね。わかりました。済みませんが、あのメーターのお金は払ってやってください。ここからホテルまでは、私が無料でお送りします〟。

 ホテルの前で車を降りる時、その運転手は〝彼はホテルを間違えたようで申し訳なかった〟と詫びて去っていきました。

 部屋に帰って思い出すと、その代行タクシー運転手(・・・・・・・・・)と、心配そうに周りを取り囲んでいた人たちの、暖かさと思いやりを肌で感じられたように思いました。

 たいした金額ではなかったのだから、間違えた運転手にも、もうちょっと丁寧に対応してあげれば良かったかも……ふと、反省の気持ちすら心に浮かんだのを記憶しています。

 

 そうそう、ワインのことを書かなくっちゃ……。ギリシャ・ローマ時代の遺跡だらけの国ですから当然?ワインも造っています。

 カッパドキアに行った時のことです。

 カッパドキア……石灰岩が侵食され、とんがり帽子の岩山が林立する地域、その中には洞窟住居が作られ、きのこのような岩山が続く場所もあり……何しろ、とっても変てこりんな眺めで、あんまり不思議な眺めのためか、すっかり有名になってしまって、近頃ではトルコ旅行というと、旅程にはカッパドキアが必ず入る、結果 として行ったことのない人でもパンフレットの写真でお馴染み……という場所です。

 

 旅行中、言うまでもなく団長以下飲んべい(・・・・)の集まりですから、昼・夜、毎食時当然ワインがテーブルにのります。近頃ではボルドーの五大シャトーなら、あそこが好きだとか、スーパー・トスカーナは流石よね……など知った風なことを言うようになってしまった私ですが、その頃の私はワイン色のお酒がワイン……と言っていた時代ですから、グラスに一杯飲んで味はわからないままにうっとりとして、そしてラベル(ワイン業界ではエチケットと言うそうですが)を見た時びっくりしたのです。何しろCAPPADOCIAと書いてあるのです。

 えっ、カッパドキア・ワインだって! 幼き日の郵便切手集めより、収集癖のずーっと抜けない私は、何としてもこのワインのラベルを持って帰ろうと決意しました。これは絶対に日本では買えないはず……日本でのワインブームが始まる前ですから、それは正しかったでしょう。ごく普通のテーブルワインですから、現在もきっと輸入されていないとは思いますが。

 

 二本くらい注文したのでしょうか? 食事中、私はずーっとそのワインのビンに注意をしていました。飲み終わったら、空瓶を一本、すかさずテーブルの下の自分のバッグにしまい込もうと思って。

 ところが何としたことか! 途中会話が弾んで座が沸いたあと、ふと見るとないのです、二本とも。〝アレ? しまった!〟叫ぶと同時に空瓶を取り戻すため、キッチンに走りこもうとした時です。団長がとっさに私の腕をつかんで〝いいじゃないですか、浅見さん。もう一本頼みますから。私が飲んであげますよ。何しろ五百円くらいなんですからね。気にすることはありません。今度はね、空瓶しっかり!捕まえときますからね……〟。

 部屋に持って帰って洗面所にお湯をはり、それに一晩つけてはがしてきたラベル、今、私のお酒ノート(・・・・・)に貼ってあるTURASAN CAPPADOCIA 1992のラベルを見るたびに、楽しかったトルコ旅行、そしてトルコの人たちの優しさを思い出して、一人でにっこりしている私です。

 また行かなくっちゃ、トルコに!!!

 

私は 〝名古屋人〟……名古屋文化圏を想って

〝世界の中における日本の存在感は、日本の中の名古屋の立場と同じである〟。

 私が世界各地を、そして日本国内をあちこち旅行して、実感している自説です。

 我が社の名古屋支店長職を最も長く(ご本人の弁によると足掛け七年)務められた某公爵家(先祖は首相を二期務めた)のご当主から、名古屋在任中にご高説を拝聴し、お陰さまで実にいろいろと地元名古屋のことを学びました。

 名古屋大好き人間(・・・・・・・・)になった結果、二年の予定が結局七年の長期になってしまったその支店長から〝名古屋は面白いところだよねえ!〟との枕言葉のあと続く、彼が研究の結果確立した名古屋人論を在任中、いろいろな機会に耳にすることかできました。

 その言わんとするところは、それまで生まれ育った(私は一応、先祖代々の名古屋人、まあ名古屋の原住民と名乗れそうです)故郷名古屋を、客観的に見る機会の必要もないままに生きてきた私にとり、実に画期的な発想法によるものであり、私の人生に大きな影響を与えるものとなりました。

 

 某支店長説はどれもユニークで楽しい発想ばかり、随分前のお話なのですが今でも思い出すたびに、私は一人でにっこりしてしまうのです。

 一例を挙げると……日本国内に女性に関して三大○○の産地というのがあるんだ、数え方は二通りあるんだけど、名古屋だけは何故か両方ともに入っている。ウチのスタッフ始め僕の知る名古屋の女性は、皆美人ばかりなんで僕はそう(・・)とも思わないんだけどね、でも理論的には正しいと思うね。だって混血が美人を作るっていうでしょ? 名古屋は日本国内で、最も混血の少ない土地柄だと思うんだ。ほとんど地元同士、遠くても東海三県内だ……そういわれて思い起こすと、私の周りの人を見てもそんな感じ、最近でこそ、ちらほら遠くの土地出身者とのご縁も見受けられますが、マジョリティーは地元同士のカップル。お見合い・紹介ともなればほとんどでしょう。

 彼の言葉は続きます。人の移動が少ないということは富裕な土地だということ。見知らぬ他国(日本国内外ともに)に稼ぎに出て行かなくっても、一家のリーダーさえしっかり舵取りが出来るなら、一族郎党ちゃんと生活していける。そういう土地なんだ。外国に行っても愛知県人会なんて、聞いたことがない……。

 私、〝なるほど〟。

 名古屋人はケチじゃない。堅実なだけだ。つまらない見栄ははらない気質だ。一族郎党、地味に暮らして、ここぞという場面……たとえば結婚とか……に周りへのアピールを派手にして、カップルを応援するとともに、その機会に第一次財産分与(?)もやってしまう、合理的だよね。

 本当に興味深いのは、例えば商工会議所の会議で、僕が名古屋活性化論をぶち挙げる、そうすると不思議なのは、誰も反対意見をいわない。〝なるほど〟……と好意的な反応だ。

 で、賛成だと思いこんで、こちらが旗を持って走り出すと付いてこない。なぜ?と聞くと〝なかなか立派な理屈ですなあ……〟とにこやかに答えるばかり。

 これが他の土地だと、よそ者が何を言うかとばかりに真っ向から反対、でなければ〝そう言う発想が欲しかったんですよ〟と後先考えずに一緒に走り出す。名古屋人は違うんだね。それだけ文化・経済が安定して余裕のある土地柄なんだよね。

 

 彼の話を思い起こしていると……そういえば八八年オリンピックをソウルに取られた時も、関係者を除くと誘致に積極的な意見はほとんど耳にしなかったな。こちらに来たら来たで何とか考えるけどね……という感じ。だから投票でソウルに負けたことになっているんだけど、名古屋人はだれも悔しがっちゃいない、不思議なくらい。

 いや、かえって良かった……の雰囲気のほうが、強かったような感じだったのを思い出します。

 二〇〇五年の万博の招致の時は、世界で名だたる企業達を地元に抱いて〝まあ、そろそろ何かしないわけにもいかないかも……〟そんな流れになってきた時期だったので、そこそこ名古屋人も頑張ったのではと思います。

 周りを見ながらゆっくり腰を上げて、動き出すというのが名古屋人気質だといえそうです。

 仕事をしていて、発券カウンターや予約の職場で私が、名古屋人の経済観念の一端をかいま見た場面も印象的に思い出します。

 パッケージツアーなど、同じような旅程・内容が記載された何社かのパンフレットを持ってきて〝値段が結構違うけど、どっちがいいの?〟と、お客様からの質問。 いろいろとわかる範囲で説明をして差し上げるのですが、最終的には〝値段だけのことはありますね〟と伝えるとまず確実に、高額(・・)のものの方を選ぶのが、名古屋人気質のように度々感じました。

 もともと高額の商品を買うのに、わずかの値段の違いで損をしたくない。あとで後悔したくない……つまり、安物買いの……が一番嫌いな気質なのではないかと思うのです。

 それから社内研修などで全国各地から参加した社員達と話していて感じるのは、他の土地の人と話が弾んで、ちょっと親しくなったばかりの人に〝今度上京する時は、連絡してね、それと是非ウチに泊まってよね〟とか、〝是非遊びに来てね〟という人が結構いるのです。言われたほうはそれなりに嬉しく……その時はよろしくね……などと言っている。

 私の知る限りでは、名古屋人はその手の誘い(・・・・・・)は決してしません。まだ良くわからない人には用心して、そんなせりふは出ないのです。そして、名古屋って良いところだから遊びに来てよね……なども言いません。あまり他所の人に名古屋をアピールするつもりがないのです。

 でも本当に気が合って〝これぞ!〟と思った人には、〝是非遊びに来て欲しい、いつ頃がいい? 私は来月以降ならいつでも大丈夫。家に泊まる? ホテルとって置こうか?〟など実に具体的な話になってしまい、かつ誘った以上は、名古屋での費用は全部持とう!と当然のことながら覚悟を決めるのです。

 まず来ないだろう(・・・・・・・・)の前提での誘いであっても人間、だれでも他人から招かれるのは決して嬉しくないはずがないのですが、その点リップ・サービスが下手というか 愛想がないというか……そう言う意味では、やはり〈偉大なる田舎〉と長い間言われてきた理由がわかるような気がします。

 

 そんな名古屋は、日本の中で〝なんか変わったところ、関東なの? 関西なの?ぱっとしない割には、貯蓄率は日本一(昔、そういわれた。今もですよね?)だし、世界的に有名な大企業がいくつもあってお金持ちの土地なんですってね〟との認識が一般的なように思われます。

 世界における日本もそんな感じではないかと私は思うのです。極東にある……外国で世界地図をはじめて見た時はショックでした。いつもは地図の真ん中にある日本が見当たらない。真ん中にあるのはアメリカとユーラシア大陸に挟まれた大西洋で、よくよく見ると右側の端っこに、日本のような形をした島々がへばりついて……小さな国土の、天然資源も耕作地もお粗末な島国、黄色人種の国で体格も小さくて、でも何故か文化の歴史は古く、レベルは高く、なおかつ世界に名を馳せる大企業をいくつも持ち、時代の先端産業が発達している。先進国側からも開発途上国側からも何かしら自分達の仲間のような(・・・・・・)違うような(・・・・・)不思議な国と思われているのではないでしょうか?

 

〝不思議な国、日本〟ではありながらも、日本の文化に対しては欧米で非常に高い評価を受けていることを、海外各国を旅行して初めて知り、大変嬉しく誇らしく感じられたのを覚えています。

 パリ郊外の小さな村、ジヴェルニーの〝モネの家〟に行った時のことです。季節の花々が咲き乱れる美しい庭もさることながら、館のなかに飾られた膨大な数の浮世絵・版画を見てびっくりしました。

 聞くと、かの有名な画家モネが日本の絵画から色彩・構図など学んで、大変な日本文化贔屓だったとのこと。あの〝睡蓮〟の絵が日本文化の影響のもとに描かれていたなんて思いもよらないことでした。

 ボストンでも然り、ボストン美術館に初めて行った時、浮世絵・版画及び工芸品の展示の多さに驚きました。明治の初期から第二次大戦までの長い間にアメリカの文化人、富豪などのコレクターが蒐集して、寄付したものが大半なのでしょうが、これだけ多くの興味と深い愛情を、日本文化に対して持ってくれたという事実に感激します。

 確かに最近新聞などで読んだ各種の記事・コラムの中に、明治初期のいわゆる〝御雇い外人〟が、来日して出会った日本文化に対して書いた文献などに、彼らの 傾倒ぶりが伺えると度々読みますので、そう思うことは正しくはあるのでしょう。日本人として嬉しい限りです。

 

 ついでに、お話はそれますが、ボストンでのちょっと不思議な、ちょっと印象的な懐かしい思い出のお話です。

 ボストンには仲良しの玲子さん……年は私よりずっと先輩なのですが、いつ会ってもチャーミングでセクシーな女性です……が住んでいたご縁で、ニューヨーク旅行の往きか帰りに、何度か立ち寄る機会がありましたが、私の大好きな町、アメリカというよりはイギリスに近い感じの、静かで落ち着いた町です。

 ある日市内をドライブ中に、そうだ! 面白いもの見せてあげる……と彼女が私を連れて行った先は、新興宗教の本山、信者は皆アメリカのお金持ち達で、魂の救済を求めにくるという不思議なところなのですが、まず入り口のカウンターにずらりと電話機が整列。それぞれの電話の前に文字の書いた表示板が置いてあります。 読んでみると、教祖?に聞きたい質問が、それぞれ書かれています。

 玲子さんから〝聞きたいと思う質問があったら、それが書かれている前の受話器を取って耳に当てるのよ。回答が聞こえてくるから……〟。

 ???と思いながらも、〝私は天国に行けるでしょうか?〟受話器をあげると聞こえてきました、テープから流れるお説教が。

 そんなシステムは初めてみたのですが、きっと今だったらパソコンがおかれていることでしょう。でもその専用電話システムは質問の手間が省けて(・・・・・・・・・)、それなりに便利なものだとの印象を受けました。

 

 それから建物の奥に入ると、大きな大きなガラスの地球儀(・・・・・・・)が現れました。国ごとに色が変えてあり、いわばステンドグラスのようなものです。大きさは、大人の背の三倍位はあったと思います。

 というのは、その地球儀の真ん中あたりに渡り廊下(・・・・)が作られており、その上を歩くことが出来る、言い換えれば地球儀の真ん中に入ることが出来るのです。地球の内側から見た(・・・・・・)地球上……何か不思議な気がしました。大陸や島の広さの感じも外から見たときとは、ちょっと違うような。

 ふと日本が妙に大きいような気がして(写真を撮らなかったので、ちょっと自信はないものの、私の記憶ではなぜか赤色に塗られていた)よくよく見ると、なんと赤道の下まで、つまりインドネシアのあたりまで日本の領土になっている。はて?何かの間違いでは……と首をかしげながら地球儀から出ると、玲子さんが笑いながら〝これって確か一九四二、三年に作られたらしいの。美術品? 文化遺産?かな……とかの理由で、作られた時のままになっているのよ。日本が大きいでしょう?〟。

 父親達の時代の日本人が、お国の命令に従って命がけで広げた、つかの間の大日本帝国(・・・・・)の姿を、当時の敵国、ここアメリカ・ボストンの地で目にするとは、不思議な経験をしたものだと、懐かしく思い出されます。

 あの地球儀は〈美術品!〉なんだから、今だってきっとあのままの姿であるんだろうなあ……。

 

危機一髪、モナコ事件!

 モナコ……この国名を聞くとき日本人のほとんどが、風光明媚な地中海の小国そして優雅で美しい王妃、故グレース・ケリーさんの姿を思い浮かべるのではないでしょうか? 本当に王妃の雰囲気そのままの美しい景観です。紺碧の水の色が映える地中海と、かの有名なモナコ・グランプリで印象的な急な坂道……つまり家々は急な斜面に沿って建っているわけです……住んでいる人にとっては厄介な坂道なのでしょうが、景色としては実に素晴らしいレイアウトになっていて、誰もが〝一度は住んでみたいよね〟と思うはずです。

 そのモナコで私の身に起きた事件……結論としてはその時の対応は、我ながら凄い(・・・・・・)! よくやった(・・・・・)!と言ってやりたいのです。

 

 去る日、学生時代からのガールフレンド池澤夫人と、二人の共通のお誕生日の時期、つまり初夏、ヨーロッパに出かけました。行き先はロンドンとニースです。

 その時のロンドンでの一番の思い出は……常温で飲む赤ワインを人生で初めて〝美味しい!〟と知ったことでしょうか?

 池澤夫人のいとこが、企業のロンドン駐在員で、ピクニックに誘ってくれました。テムズ川上流にいい所があるというのです。ロンドンから一時間ほどでしょうか、緑の丘陵地帯が続くなかに古城が現れました。近頃では日本でも〝マナーハウス〟と表現しているようですが、その頃の私には小さい古城(・・・・・)大きなお屋敷(・・・・・・)という言葉しか浮かびません。

 

 入り口、門にはCLIVEDENと書かれています。建物の横を通り、川岸の芝生が広がったところに、大きなキャンバスを広げました。ランチの準備です。いとこ氏夫人が用意してくれた大きなバスケットには、ぎっしりいろいろな食べ物が詰まっています。

 目の前にはテムズ川が流れ、ボート遊びの人たちが通り過ぎていきます。空は青空、のんびりとランチをしました。その時に食べたものの中で、今思い出しても〝アレは美味しかった!〟と懐かしく思うのが、まず鮭缶……大西洋の鮭でしょうか……何故か妙に美味しく、普段は食べないくせに、日本に帰ったら早速買って食べよう!と思った記憶があります。

 そしてバスケットから元気にはみ出していたバゲットを、切ってもらって食べながら一緒に飲んだ赤ワインの美味しかったこと!

 その時まで渋い赤ワインは苦手、甘あーいドイツワインの白でなくっちゃ……と堅く信じていた私ですが、バゲットと一緒に味わったあの赤ワインの言葉にいえない美味しさ(・・・・・・・・・・・)!を体験し、赤ワインは常温で(その時の気温は十七~八度でしょうか?)飲めという意味がわかりました。

 エチケットの図柄がなかなか凝った感じだったのを覚えていますから、上等なワインだったのかも知れませんが、いずれにせよその時に、赤ワインが美味しいものだと初めて知りました。

 勿論、その時の場の雰囲気が一番重要な理由だったかもしれませんが、人生の中でも心に残る、楽しく美味しいピクニック・ランチだったと懐かしく思い出します。

 

 ロンドンのあとはフランス・ニースです。お互い初めてのニース、ホテルは〝私、仕事の立場上(会社経営者)休みが取りにくくて、めったに来れないからちょっと賛沢して良いホテルがいいわ……〟との池澤夫人のご要望で、それじゃ超一流、ネグレスコにしよう。フランスが作った最後の宮殿(・・・・・・・・・・・・・)とか言われているらしいし、何事も経験、経験!と、ネグレスコ・ホテルに予約してあります。

 到着して〝なるほど!〟。見るからに立派な宮殿ホテルです。プロムナード・デ・ザングレ(英国人の散歩道)と呼ばれる、海岸の遊歩道に面して立つ、瀟酒な建物を見ていると、イギリスの上流社会の避寒地として名を馳せてきた、長い歴史が思い浮かぶような気がします。

 遊歩道の向こう側、浜辺には宿泊客用のビーチパラソルとデッキチェアーがずらりと並んでいます。色は勿論、これぞコート・ダジュール!といった感じの深いブルーと白の縞模様、水着姿でデッキチェアーの上に寝そべって、澄み切った青い空と、明るい紺碧色の海を見る心境は、すっかり〝俄かセレブ!〟といったところで しょうか?

 お部屋はせっかくなら……と希望したとおりのオーシャン・フロント、正面のバルコニーのガラス越しに、煌く地中海がまぶしく目に入ってきます。ベッドは豪華に天蓋付のハリウッド・ツイン、見た目は大きなキングサイズ・ダブルベッドなのですが、実際はセミダブル・ベッドが二つ並べて置いてあって、シーツは両方にまたがっていて一枚、今度来る時は、女同志じゃないことを期待したいわね……と二人でぼやきながら過した四日間でした。

 

 四泊だったため、ゆっくり二人でニースの町を散歩しました。本当に穏やかでおしゃれな町です。私が気に入ったお料理はサラダ・ニソワーズ……ニース風サラダというのでしょうか? お店によって中身は多少変わるものの、メインは新鮮なレタスと塩味のアンチョビー……味の組み合わせが食欲をそそり、毎日注文しました。

 こんなに美味しいサラダも、なかなか見つからないものだけど……帰国したあと、ひと月くらいは毎日のように、自分で作って食べていた記憶があります。

 町は結構大きいようでしたが、避暑(避寒?)客が泊まる海岸沿いの地区は落ち着いたこぢんまりとした雰囲気で、朝夕の散歩にぴったり。さすがニースです。

 勿論近郊の町々へも出かけました。映画祭で有名なカンヌ、目抜き通りの目立つところに白亜の豪華ホテル、カールトンが聳え立ちます。いかにもカンヌ!といっ た雰囲気で。でも私の印象としては、ニースのほうが落ち着いて過しやすい町のよ うに思えました。もっとも、これは個人の好みによるのでしょうが。

 カンヌへ行く途中にあるアンティーブは、お城の中にあるピカソ美術館で有名な 町ですが、ハイソで一味違ったリゾートといったところでしょうか? 欧米のお金 持ちはこういうところに一ヵ月ぐらい滞在するんだろうなあ……と思ったものでした。

 香水で有名なグラースにも行きました。代表的な三つの会社が競って、フランス 中の香水のOEMを受け持っているとか、香水で有名な各社の香水の元(・・・・)がここで作 られています。

 私は大変な思い違いをしていて、香水を作っているからには、きっと素晴らしい 花園が広がっているはず……と、それを楽しみに訪れたのですが、全くそれらしき場所ではなく、工場の建物があちこちにある普通の町、原料は世界中から輸入して いると、工場見学の際に教えてもらいました。

 とはいえ花園のイメージを払拭して考えると、緑の多い……糸杉が家々の間に沢山あって……植栽としてのラベンダーの紫色の花が町中に満開で、可愛らしいいかにも南欧風の町という印象が残りました。

 

 さて、モナコ(・・・)!です。午後三時か四時発くらいだったでしょうか、半日ツアーのバスに乗って出かけました。

 途中〝鷲の巣村〟で有名なエズに立ち寄ります。中世に外敵の襲撃を避けるため作られたといわれる、山のてっぺんにあるような村です。眺めは良いのですが住む人はなかなか大変かも……と思わないではいられません。

 このあたりからの道路は海岸線を見下ろしながら、かなり高い場所を走ります。しばらくして眼下に、沢山のヨットが係留されたヨットハーバーが見えてきます。モナコに入ったのでしょうか? 夕暮れのモンテカルロの町は、青い海を正面に沢山のビルが林立し、賑やかな町並みが現れます。

 実はこの何年かあと、熱海に行ったときに〝よく似てる! モナコに〟と思ってしまいました。似てる……なんて言うとどっちかが怒るでしょうか? 私は両方とも、大好きになりましたが。

 

 行き先は勿論グラン・カジノ、パリのオペラ座を作った建築家ガルニエさんの手になる豪華な宮殿風です。賭け事は苦手なのですが一応なんでもやる主義で、今までもラスベガスをはじめとしてアトランティック・シティー・ウォーカーヒルほか 世界の各地で、見学と称して遊んだりした経験はあるのですが……勿論、わずかながらも授業料?を払って……いずれにせよ、やっぱりグラン・カジノが一番だろうと思い込んで、出かけました。

 中に入ると華やかな雰囲気のフロアで、沢山のテーブルが並びいろいろ(・・・・)と賭け事が繰り広げられています。

 今回は大胆で(・・・)、そのくせ堅実な(・・・)池澤夫人と一緒のため見学にとどめ、サロンでブランデーを一杯ゆっくり飲んで、さて外に出ようとした時のことです。

 玄関の最初の扉を出て、次に外側への扉を出る直前に、ポスターを見つけました。

 BIENNALE DE SCULPTURE MONTECARLOと書かれた、色鮮やかなそのポスターを見た途端に、どうしてもここに来た記念撮影をしたくなってしまったのです。

 勿論、カジノ関連施設での写真撮影は厳禁なのはわかっていました。大儲けのお客さんの顔など外に流れたら、犯罪にも繋がりかねませんから。

 でも扉を一枚出た外だし、もういいよね……と自分で決めて、カメラを構えて画面いっぱいにポスターを入れて、パチリ!とやった直後です。

 二人の警備員に両側から挟み込まれて、腕を捕まえられてしまったのです。〝しまった!〟と思った時は、時すでに遅し(・・・・・・)! 二人の警備員は、私に何か懸命に話しかけます。フランス語なのでよくはわからないのですが、要するにカメラを渡せということなのでしょう。

 

 その頃は勿論デジカメじゃありません。三十六枚撮りのフィルムが入ったやつです。その日は今回の旅行最後の日、明日は日本に帰るのです。

 つまり三十六枚のフィルムには、最後にこのポスターで締めくくろうと思ってのことなのですから、この二~三日分が入っています。

 一瞬、今このカメラを渡したら、確実に蓋を開けてピーッとばかりにフィルムが引き抜かれて終っちゃう……そう直感すると同時に私は手探りで、巻き戻しのボタンを押していました。出入り口なので沢山の人がそばを通ります。混雑しています。

 本来なら聞こえるはずの巻き戻しの音を隠すため、精一杯下手な英語で渡したくない、とがめられるようなことはしていない旨、説明しました、繰り返し……。

 そして巻き戻しの音が止まってから、蓋を開けて見せました。手のひらに落ちてきたものは、巻き戻され切った(・・・・・・・・)フィルムです。

 ??? 二人の警備員はびっくり仰天の面持ち、自動巻き戻しの機能を知らなかったのかも知れません。周りには人だかりが出来ています。

 その時、スーツを着た男性が現れました。警備の責任者のようです。二人の警備員は身振り手振りを交えて、上司に事情を説明します。

 彼はじっと私を見てから〝奥にご同行願います〟と英語で宣言しました。その瞬間です。ここでは負けられない(・・・・・・・・・・)悪いことしてないもん(・・・・・・・・・・)!と決意したのは。

 

 あとで聞くには、池澤夫人は〝貴女が拉致されたんで、もうびっくり! 慌ててツアーのガイドさんを呼びにいったのよ!〟とのこと、随分心配したのでしょう。

 私の方は、手のひらにフィルムを握ったマネジャーの後ろについて、廊下の角をいくつか曲がった時です。くるりと振り返った彼は笑顔になり、私の右手を広げさせ、その上にポトリとフィルムを置きました。〝持って帰ってください。でも没収されたような顔をしてね……〟。

 私の手に戻った、思い出の一杯つまったフィルム、嬉しくて彼に礼を言いました。〝ありがとう! カジノで撮影していけないことは知っています。私は外のポスターを一枚だけ記念に写しました。貴方にご迷惑おかけするようなことは、していません〟。彼はにっこり笑って〝そんなこと、わかっていますよ〟。

 

 少し下を向き、頭を俯き加減にしおしおと(・・・・・)歩きながら、玄関の警備員達の前を通りバスに戻ると、ガイドさんと話していた池澤夫人が、私の無事な姿を見て嬉しそうに飛んできました。

〝大丈夫? 本当に貴女が帰ってこなかったらどうしようかと思って……〟。

 あとで考えると、ふとあの二人の警備員達に申し訳ない気がしました。私のわがままに振り回されて……。

 でもあの時の気合(・・)のお陰で今、そのフィルムに無事に残った三十六枚の写真を手元に眺めながら、思い出深い南仏旅行の日々を、楽しく懐かしく思い起こすのです。

 

懐かし?のアラスカうどん

 飛行機で海外へ……を多くの人が体験できるようになり、パリやニューヨークに十二時間半でひとっ飛びの時代になりました。速いことは良いことです。でも時間 がかかるのも悪くない……そう思うときもありますよね。

 仕事の関係などで(その頃は留学や観光で渡航するのはなかなか大変なことでしたから)二、三十年前からよく、海外出張していた友人達との飲み会の場などで、よく出るのは〝アンカレッジ(アラスカ)は良かった! 懐かしい!〟の思い出話。

 皆、途中経由地アンカレッジ空港の思い出を口々に話し出します。

 

 当時はヨーロッパへは(アメリカ東海岸もですが)、基本的には給油のためアンカレッジ経由で、どの航空会社も運航していました。夜、成田空港(はじめの頃は羽田)の滑走路を飛び立ち、暗ーい闇の中を上昇して〝これから外国に行くのだ!〟と思う時、まさにジェット・ストリームのMr.ロンリーの曲が耳元に流れます。

 遅い夕食を機内でとり、お酒も少し効いてきて、うとうととうたた寝が始まります。エンジン音が大きくてなかなか熟睡は出来ないのですが、それでもチェックイン・出国などの手続きを終えて気疲れしているからでしょうか、フーッと眠りに引き込まれるようなひと時を楽しんでいると、程なくまた機内の照明がつき、まもなくアンカレッジ着陸を告げるアナウンスが流れます。

 

 到着すると全員空港のトランジット・エリアに誘導され〝二時間弱の休憩〟を申し渡されます。

 さて何をするか? 見渡すといくつものボーディング・ブリッジに、何社かの(発着時間の関係でそうなる)ジャンボ・ジェット機が繋がっていて、沢山の乗客が一様に向かう先は広大な免税品店。お店では、一度に何機着陸しても大丈夫! 対応可能(・・・・)です……という雰囲気が漂っています。世界的に有名な高級ブランド品・お酒・タバコ・アラスカの産物まで、なんでも一通り揃えて、待ってました!という意気込みです。

 アラスカ……こんな寒ーい北の果て(失礼! でも日本から見ればそうですよね?)なのに販売担当は皆、日本語をしゃべる女性達、お顔を見るとアメリカ風の日本人といった雰囲気です。日系二、三世だったり、戦後にアメリカ人と結婚して渡米した人、留学で来てアメリカが気に入って居ついてしまった人、などなどだと思うのですが皆さん、にこやかに乗客に話しかけ、買い物の相談にのり、結果として一時間ほどの滞在時間中に、乗客のおじ様・おば様たちは、まるで海外旅行の帰路の人のように、両手に買い物袋を提げてしまうことになるのです。

 乗客のほとんどが、旅行はこれから(・・・・)……なのに、皆ここで、あれこれ買ってしまうのです(さすがに目的地に着く前から土産物を両手に……は可笑しなことと、なったのでしょうか? 後年ですが、帰路に寄った時に、確実に入手できるようにとの予約受付制度というか、事前注文制度というか?が出来、利用者も結構居るようでした)。でもここでつい買ってしまうのは、彼女達の親切で親身な、そして熱心な(・・・)!買い物相談があったがためと私は確信しています。

 だって外国での買い物は、普通はなかなか手間で大変なものですよね? 初めてのパリで、二、三のお店で買うだけで、一日がかりだったのを思い出します。

 それに比べるとここアンカレッジでは、外国にもかかわらず日本語で、フランスの香水の種類を細々と説明してくれる、アメリカの化粧品の使い方を教えてくれる、イタリア製ハンドバッグの各社の使い勝手を実地講習してくれる……海外旅行幕開けのころの、海外に慣れない日本人旅行者にとっては、本当にありがたい(・・・・・)話で親切だ、安心だと思って買うのは当然です。

 

 そして買物が一段落した時、皆気がつくのです。何故かお醤油味のおつゆの匂いを感じて、ここアラスカの空港におうどん屋さん(・・・・・・・)があることに…… 。

 アラスカうどん、本当にそんな名前だったかどうか自信はありません。私が心の中でそう呼んでいただけかもしれません。六ドルだか七ドルだか……私が最初に食べたのは一ドル二百五十円位(以上?)の時ですから、一杯二千円近くなんです。

 免税品売り場の片隅に、簡単なキッチンを用意してのままごと(・・・・)のような感じ、発泡スチロールの容器に白い麺と、その上に小さなかき揚げ天麩羅がひとつ、それに 醤油味のお汁をかけただけのものです。今で言うならインスタント・カップうどんといったところでしょうか?

 麺が固く、お汁の味は滲みてない、決して〝美味しい!〟とは言えないそのうどん、それに初任給四、五万円の時代ですから〝高い!〟と思うのですが、でも結局注文してしまう。お汁を啜って、ほっとお腹が一安心するからなのです。

 当時は機内食には選択肢は少なく、基本的には洋食セット。啜る(・・)音がするラーメン・うどんの類は、欧米の社会では全く論外……ということだったのでしょうか? 何故か、飛行機に乗ると汁物麺類が食べたくなる私は、結局毎回、往復ともアラスカうどん(・・・・・・・)を食べてしまうのが常でした。

 お腹が落ち着いた後は、ロビーに飾ってある大きな大きな白熊(北極熊です!)の剥製を見上げて、アラスカ(・・・・)だ!!と感激し、これから向かうパリやロンドンに思いを馳せながら、また飛行機に乗り込んで、アンカレッジを後にするのでした。

 

 こんな思い出が懐かしいのは、どうも私一人だけではないらしい……と友人達が話し出した時、気づきました。あれが、アンカレッジの空港が、遠距離海外旅行の ファースト・ステップだったよねと昔話が尽きません。

 アラスカうどん(・・・・・・・)は通るたびに、麺はますますしなやかに、天麩羅は軽く、お汁は出汁味が利いて、いつの間にやらなかなか美味しいおうどんになりました。

 しかし、飛行機はその頃から長距離をノンストップで飛べるようになり、もうアンカレッジには寄りません。機内食はどんどん進歩し、和食セットも導入され、啜ってはいけなかった筈の麺類も、機内に用意されるようになりました(これは日本人が多数を頼んで……というよりは外国人の世界でもカップ(・・・)ヌードル(・・・・)が市民権を得たということだと思っていますが)。

 でも私は気がかりなのです。アンカレッジを思い起こす度に、あの元気で商売熱心で世話好きの、頼りがいのあるお姉さん方は、今どうしているんだろうか?と。 急に仕事がなくなって、苦労をしているのではないかしら?って。

 いえいえ、あのエネルギッシュな迫力(・・)笑顔(・・)熱意(・・)があれば、きっと今頃は他の場所で、商売に精を出していることでしょう。そうだ! そうに違いない……。

 

〝またアンカレッジ経由の便ができたら乗ってみたいよね。朝日にまぶしく輝くスカンジナビア半島を上空から眼下に眺めながら(確かに地図どおりの形でしたよね!)、ヨーロッパの最初の街に向かう心境、また味わいたいね!〟。

 皆、心の中でそれを想いながら、仲間の飲み会はお開きになりました。

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2016/04/30

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浅見 夏妃

アサミ ナツキ
あさみ なつき エッセイスト 1948年、名古屋市生まれ。航空会社勤務を経て2007年よりNPO法人国連支援交流協会東海名古屋支部長。著書に『パンドラの箱って、どんな箱?』(2007年、新風舎刊)等。

掲載作は『世界の美女達に乾杯!』(2008年、牧歌舎刊)よりの抜粋である。

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