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『岸辺に』抄

青い炎

音を消し 目をつむると

みえてくる 母の深い悲しみの跡

言葉にもなれず

どこにも刻(しる)されず

零れる涙にもなれず

日々の暮らしに隠されていった

ひりひりする心の傷みを

ながい歳月

月と星々が読みとってくれただろうか

亡くなって十七年も経つ今頃になって

母の悲しみの炎が

夜の橋を 渡ってくる

ほの ほの と もえる青い炎が

 

やわらかい闇のなかで

わたしは待っている

ほの ほの と もえる青い炎を

抱きしめようと ない翼をひろげて

 

名 前

誕生日にロンドンにいる孫から

「おめでとう!」の電話

「ねえ 四月七日の何時に生まれたの?」

そんなこと 尋ねたこともなかった

 

この世に到着した時間ぐらい聞いておけばよかった

でも 名前の由来は知っている

 

その春

身重の母が駅で隣り合った知らない人

おぶわれている愛らしい女の子の

名前を教えてもらい

女だったら 同じ名前にと決めたそうな

いとも簡単に名前をもらい

大事に使ってきて

この世の滞在期間に

あとどのくらい使えるのかしら

 

ひとつ違いの瑛子姉さん

元気でいてください どうか幸せで

雪のちらつく三月 田舎の小さな駅で

わたしは 母のおなかの中で

あなたに微笑んだのかも

母と一緒に

 

哀しみの風船

そっと 閉じ込め

声を出さないように

もれないように

噴き出さないように

きっちりと 口を縛って

誰もいない野原へ送り出した

 

慌しい時間に助けられるあけくれ

雛祭りも もうすぐというのに

朝から雪が降っている

 

重い雛壇を運び込み

居間の椅子に腰掛け

ふと 庭を見ると

 

帰ってきている

 

木犀の樹のあたり

風に遊ばれ

うっすら白くなった

地面を打っている

 

追われていったのは

花や 木や

鳥や 獣たちではなかった

 

畏れも 祈りもなく

疾走する騒々しい文明のなかで

影さえも失って

 

犇く行列に

人を脱いで

魂の群れは吹かれていった

 

勾玉の耳飾りを優雅にゆらす

縄文の人の哀しい笑いとすれ違って

 

はるかな日

渡っていったしなやかな蹠の

慎ましいぬくもりを憶い出しながら

川が 囁く

《もういちど 遡るのよ》

 

欅の残像

その信号だけは赤であればいい

いつも思っていた

丘へ登る三叉路に来て

えっ と息をのんだ

異様にひろく退いた灰色の空

数十年 車の窓から

見上げてきた欅がいない

樹齢五百年は超えていただろう

辺り一帯を覆って聳えていた

 

降り続いた雪がおさまり

ひさしぶりに通った道

閉店したスーパーの駐車場に

切り刻まれ(うずたか)く積まれたくろい亡骸

トラックが運び出している

通夜からのように

蒼ざめて帰ってきた

 

目を見張る速度で伸びた若緑

夏の光と戯れていた無数の葉

明りいろの言葉を降らしていた秋

雪の重量に軋んでいた枝

 

ひたすら走って過ぎた年月

哀しみをあずかってもらった日々

あのひとはあの場所に立っていた

 

夜更け

烈しく闇を揺さぶり

身をよじって

声をあげていた

飛び去った鳥や風を

捜して

 

桜の木も

丘へつづく

通いなれた道を運転しながら

いつものように

わたしがひそかに愛して

交信している竹薮のほうをみると

やわらかい光を揺らしている竹薮のはずれのあたりが

桜色に霞んでいる

あ 桜の木もあったのだ

春になると 気がつく

 

階投を上りながら 聞いてしまった

半開きのドアから洩れてきた

さびしいひとりごと

書斎のなかにいる あれは誰だろう

 

孫の太希が歩き始めたころ

家のすぐ前のゆるやかな坂道を

散歩していて振り返ったとき

ここからは ああ こんな形に見えるのだと

我が家の正面の形をまじまじと

初めて見るような気がした

あの玄関から何十年も

毎日 忙しく出たり入ったりしていたのに

二階の細長い北窓が右手の奥に

矩形の鏡は端正な他家の表情をして

 

わたしも 見られているのだろうか

わたしさえ知らないわたしを

 

岸辺に

いちまいの 桜の花びらになって

いちまいの 祈りの花びらになって

ことしの桜を咲かせよう

 

(さら)われていった数えきれない命

一度も桜を見なかった小さな命にも

みんな寄りそってここにいるよと

いちまい いちまいの花びらになって

ことしの桜を咲かせよう

 

ひとひらの 灯りの花びらをともして

ひとひらの 祈りの花びらをともして

夜の深みの花明かりになろう

たましいが迷わないで帰ってくるように

伝えたい言葉となって舞い散ろう

(こら)えている涙となって降りしきろう

 

ふりつもり ふりつもり

土に溶けて あたたかい大地になろう

木々が芽吹くように 鳥が羽ばたくように

悲しみに耐えて生きるひとたちの

ひとあし ひとあしが刻まれるように

笑顔がもどってくるように

歌声がきこえてくるように

 

春がくるたびに

いちまいの 桜の花びらになって

いちまいの 祈りの花びらになって

愛しいたましいを抱きしめ

桜の花を咲かせよう

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2015/09/20

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池田 瑛子

イケダ エイコ
いけだえいこ 詩人。富山県生まれ。主な著書は、いずれも詩集で『母の家』、『岸辺に』など。

掲載作「『岸辺に』抄」は、『岸辺に』(2013年、思潮社刊)から、著者自選。

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