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夏目漱石「京に着ける夕」論

―寄席・落語に始まった子規との交友―

 

 漱石と子規の交友のきっかけとなったのは、共通の趣味である寄席・落語であった。一切の教職を辞し作家となった漱石の最初の小品『京に着ける夕』は、親友への追憶を込め落語的な発想で描かれたものである。明治の京都を「太古のまゝ」という視点で創作した彼の意図を考察し、落語発祥の地・京都の文化を再確認する。寄席に関した資料を以てこの作品を論証したい。

 

 

序  問題の所在

 

 夏目漱石が東京帝国大学・一高教師の教職を辞し、朝日新聞社の招聘に応じて職業作家として入洛したのが、明治四十年(一九〇七)三月二十八日から四月十一日までの十五日間であった。彼はその間に名所旧跡を探ね、大阪在住の朝日新聞社長の村山龍平と面談を果たしている。当時漱石は四十一歳。大阪朝日の主筆をしていた鳥居素川が『草枕』を読んで漱石に傾倒し、社長の村山に漱石を招聘するように進言したのがきっかけであったという。しかし滞在期間の多くを彼は主として新旧の名所を探訪するなど取材を重ねて、東京朝日に連載する京都を舞台とする長編小説の構想を練るために費やしたようである。それが後に彼の最初の新聞小説である『虞美人草』に結実した。

 当時朝日新聞は本社が東京と大阪にあり、東京は長編小説を、大阪は短編を掲載するという役割分担があったという。漱石も早速大阪本社から依頼されて、『虞美人草』よりも前に著述したのが本論の主題である『京に着ける夕』である。彼はこれを下鴨神社に居を構えていた畏友、狩野亨吉宅に逗留中に執筆したもので、大阪朝日新聞に四月九、~十一日の三日間に亘って連載されたものである。筆者はこの小品を『虞美人草』の前触れとして重要な意味を担うとかねがね考えてきた。

 しかし、この作品は大阪に掲載されただけで、東京朝日に転載されることはなかったからか、単行本にも収録されることなく、放置されていた感がある。このような不運というか不遇が重なってこれまで取り上げた研究者も少なく、京都で最初の著作を『虞美人草』だとし、本作品を全く無視した研究も散見されるし、存在を認めても他の作品の研究資料として使用するのみである。

 小説でなく小品、所謂紀行文、随筆の類に扱われてきたのは、漱石の実体験そのままと受け取られたからではなかろうか。もとより「小品」は漱石文学の中で高い評価を受けており、たとえば比較文学の芳賀徹氏は、「漱石のうつくしい小島」として「永日小品」を絶賛している。

 筆者は本作品が漱石の実体験としての紀行文であるという通説には疑問をもつが、明治四十年当時の京都を「古い淋しい昔のままの京」として筆をすすめた漱石の見解まで疑うものではない。それは創作という側面があり、小説としての虚構を形成しているからである。しかし、事実としての叙述は重く、何よりもこの短編の骨子でもある正岡子規との交友が、寄席・落語の趣味によって始まったということを重要視する。さらに、本作品には落語的発想が多々みられることに注目し、それらを跡づける資料を提示するものである。

1、子規との書簡を通じてまた、作品のなかに落語につながる二人の交流の同時性を

  明らかにしたい。

2、『京に着ける夕』のなかに、寄席・落語の発想があるとは、これまでの研究で指

  摘されることはなかったと思われる。比較文学や漢学の素養、俳句の世界等々、

  高踏的な論旨に比べ寄席落語は学術とは遠い俗の位置にあったのではなかろ

  うか。しかしながら漱石、子規という明治の文豪が心から愛好しその影響を受け

  ていた事実を見落としてはなるまい。寄席・落語の発想がどのような形で本作品

  に描かれているかを資料を提示しつつ論証したい。

 

 ここで、先行論文に関して言及したいと思う。最もよく知られている岡三郎氏の大著『「虞美人草」と「京に着ける夕」の研究』(註1)は、自ら所蔵の漱石直筆原稿を解読され精緻な分析に基づく画期的な論考であった。これまでの『虞美人草』論には、漱石自身が嫌っていたという事をもって、これは即ち漱石の失敗作だと断定する文壇の否定的論調が根強くあり、今日まで支配的な見方になっていた。しかし、その中で岡氏は世の不評をものともせず、漱石の意図するところを公正な目で探り、理解し『「虞美人草」と「京に着ける夕」の研究』に結実され、その著書によって、小説家漱石を研究する基礎的な場を広く提供されているのである。岡氏は「あとがき」で、「正宗白鳥以来は否定的な流れが持続している。平岡敏夫氏の研究によって若干の変化の兆しがみえるが、まだ十分とは言えない。小説家漱石の真相は『虞美人草』の解明を避けては開示されないであろう。」と述べている。

 岡氏より先に四十数年前、すでに平岡敏夫氏が『漱石序説』(註2)を著し、そのなかの「『虞美人草』論」で『虞美人草』が高く評価されていることに注目したい。平岡氏は、漱石の「勧善懲悪」「美文」は表裏一体、京に住む老父と娘という「過去」への共感に立つ文明批判小説の到達であると論じ、この小説の再評価をめざして書いたとしている。唐木順三、正宗白鳥の酷評に加えて漱石崇拝者の小宮豊隆までも、「文章に会話に厚化粧があり」「息のつけない読書も亦苦しい」などと述べているのに対し、当時若手の平岡氏が反論の形で明快に論破されたのは今日でも深い示唆を与えられる。『京に着ける夕』への言及が『虞美人草』論に収斂され、それ自体の評論でないのは惜しまれる。また、岡氏の論考に子規・漱石の庶民的な情緒が見られないところが、筆者の視点と異なるのである。

 この他、漱石の句「鶴」を冒頭に論じた二宮智之氏の「夏目漱石『京に着ける夕』論―<鶴>表現と正岡子規との関わりを中心に」(註3)は、結末部の句「春寒の社頭に鶴を夢見けり」に独自の解釈を行っている。鶴を詠んだ漱石の句は「明治四十年以前の句の全てが『子規へ送りたる句稿』にあり、子規が目を通した句である、ということは重要であろう。つまり、漱石と子規の交流において、俳句表現における認識を共有している可能性があるのではないだろうか、ということである。」。二宮氏は「人に死し鶴に生まれて冴え返る」の句をもって転生のイメージとし、漱石の想像の中で子規の存在が「この世ならぬ子規との会合ではないだろうか。」と論じている。妥当性のある結論であるが、ただ以下の記述だけは肯定することが出来ない。

 ・漱石が『京に着ける夕』において自ら描き出した自身の姿は、不安と孤独に苛ま

  されて過去の友人子規にすがる淋しい姿であり、決して孤高でもなければ飄逸で

  もない。このように創作としての意識も併せ持ちながら、〈率直な漱石の告白〉

  としても読めるところに『京に着ける夕』、ひいては漱石の小品の魅力があるよ

  うに思われる」。

 筆者はこの行に関しては同氏と対立する立場になるが、それは漱石を過去の友人にすがり助けを求めるような軟弱な男ではないと考えるからである。

 最近では佐藤良太氏の「夏目漱石『京に着ける夕』論 ―<近代以前>への憧憬」(註4)がある。東京・京都の当日の気温の比較など、科学的な実証をもって近代文明批判の創作であることを明示している。この論文に注目すべきは、次の論旨にある。

 ・近代の喩としての「汽車」が向かう〈暗い国〉と、近代以前に誘われた「余」が

  向かう〈遙かな国〉という二つの空間の意味を明らかにしつつ、〈近代〉から疎

  外された神話的表象に収斂する小品の〈大きな意味〉を提示していることである。

 前掲の三論文はいずれも傾聴に値する内容であり殆ど異をはさむ余地はないが、本作品の細部の読みに関して私の疑問は解消されていない。ぜんざいと京都をつなげる意味。有史以前の京都とはどのように考えられるか。そして、子規への追憶が漱石に何を与え、決意させたか。

 ぜんざいについては、岡氏は名前の由来について、「一休禅師が初めてこれを食した時に『善哉此汁』と絶賛した話に結びつけられ」と一説を紹介しているが、岩波の『漱石全集』ではこれを採用していない。伝説という認識であろうか。岩波『漱石全集』(平成版)では、「東京で汁粉というのを京阪では多く『善哉(ぜんざい)』という。喜多川季荘(守貞)の『守貞漫稿』によると、赤小豆の皮を去らず、丸餅を焼入れて善哉といい、江戸では小豆の皮を去り、切り餅を焼入れて汁粉という。」となっている。二宮・佐藤両氏にぜんざいの記述はない。卑近な題材ながら本作品にかなりウェイトをもつ問題ではあろう。

 

 

一、「寄席・落語」子規との交友

 

 三遊亭円朝と円遊の(はなし)は漱石の好んだものであった。夏目漱石が正岡子規宛てに送った手紙が残されており、円遊に関して書いてある件があるので引用したい。明治二十四年七月、漱石二十四歳の時の手紙の一節である(註5)(傍線筆者、以下同)。

観劇の際御同伴を不得残念至極至極残念(宛然子規口吻)去月卅日曇天を冒して早稲田より歌舞伎座に赴くぶらぶらあるきの銭いらず(中略)お菓子御寿もじよろしい口取結構と舞台そつちのけのたら腹主義を実行せし時こそ愉快なりしか。(中略)腹の痛さをまぎらさんと四方八方を見廻はせば御意に入る婦人もなく只一軒おいて隣りに円遊を見懸けしは鼻々おかしかりしなあいつの痘痕と僕のと数にしたらどちらが多いだろうと大いに考へて居る内春日局は御仕舞いになりぬ公平法問の場は落語を実地に見たようにて面白くて腹の痛みを忘れたり。惣じて申せば此芝居壱円以上の価値なしと帰り道に兄に話すと田舎漢が初めて寄席へ行と同じ事でどこが面白いか分るまいと一本槍込められて僕答ふる所を知らずそこで愚兄得々賢弟黙々(後略)

  先は手始めの御文通迄余は幸便

 明治二十二年から漱石と子規との付き合いは始まっていたが、この書簡は文中に、「手始めの文通」とあるのが意味深長である。子規からある心配事の相談を受けた漱石の「手始めの返信」ではなかろうか。文中、鼻々と書いているのは「はなはだ」と読ませるシャレだという。幼時に種痘で疱瘡にかかりあばた痕を気にする「僕」は円遊の同じ痘痕と数を比べているのだ。「只一軒おいて隣りに円遊を見懸けしは鼻々おかしかりしなあいつの痘痕と僕のと数にしたらどちらが多いだろうと大いに考へて居る…」とある。ちなみに、円遊は鼻が大きいので句にも詠まれていた。

  円遊の鼻ばかりなり梅屋敷  漱石

            (正岡子規に送りたる句稿その三十三)

 

 咄家のあばたに自分の気にする痘痕を引き比べ子規の前にさらすのは、趣味を一にする友人ならではであろう。しかしながら、落語の諧謔をのべながらも、本題であるところの子規の学校での成績に関しては後回しにする配慮を忘れない。

 学生時代の夏休みの期間に、漱石は牛込喜久井町の自宅から松山市湊町の子規の実家へ宛て、子規に依頼された、学校での試験の点数を報告するのが主な目的であった。書簡の最後に教授陣の点数を挙げ、「平均点六十点あれば九月に試験を受けることが出来る然し今のまゝでは落第なり」と率直に書いている。緊張を要する案件を報告するにあたって、以上の文面ににじみ出る、両者の交友の原点とでもいえるのはやはり寄席・落語であったと、明言してもよいであろう。

 円朝が「江戸落語の完成者といわれ」、円遊が「近代落語の祖」と謂われるという。『古典落語』(講談社文庫)の作者興津要氏の評であるが、近代文学に影響を与えた功績はとかく忘れられてきたのではなかろうか。水川隆夫氏『漱石と落語』(注6)はその点、注目すべき書物であるが、『京に着ける夕』に関してはなぜか言及がない。

 

 筆者がこれまでの『京に着ける夕』論にはなかった落語との接点を主張するのは、ほかでもない。本作品の紙面を大きく占めるほど子規への追憶があることに鑑み、二人の意気投合したのは、「寄席落語」という趣味を通じてであり、その最初の出会いを、漱石が故人を偲ぶときに忘れることがあろうはずがないという点にあった。そもそもの出会いについて、漱石は以下のように述懐する。

・正岡は僕よりももつと変人で、いつも気に入らぬやつとは一語も話さない。孤峭なおもしろい男だつた。どうした拍子か僕が正岡の気にいつたとみえて、打ちとけて交わるようになつた。

 それが落語であったことは、子規も認めていた。漱石は幼時を思い出し、こう述べている。

・松山から熊本の高等学校の教師に転じて、そこでしばらくいて、後に文部省から英国へ留学を命ぜられて、行つて帰つて来て、今は大学と一高と明治大学との講師をやつている。なかなか忙しいんだよ。落語はすきで、よく牛込の肴町の和良店へ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといえば子供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席はたいてい聞きに回つた。なにぶん兄らがそろつて遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになつてしまつたのだ。落語家で思い出したが、僕の故家からもう少し穴八幡のほうへ行くと、右側に松本順といふ人の邸があつた。あの人は僕の子供の時分には時の軍医総監ではぶりがきいてなかなかいばつたものだつた。その他の落語家がたくさん出入りしておつた。

                            夏目漱石『僕の昔』(註7)

・彼と僕と交際し始めたも一つの原因は、二人で寄席の話をした時、先生も大に寄席通を以つて任じて居る。ところが僕も寄席の事を知つていたので、話すに足るとでも思つたのであろう。それから大いに近よつて来た。彼は僕には大抵な事は話したようだ。兎に角正岡は僕と同じ歳なんだが僕は正岡ほど熟さなかつた。或部分は万事が弟扱いだつた。

              「正岡子規」 夏目漱石 初出:『ホトトギス』(註8)

 以上の資料が二人の交友の出会いをよく示していよう。筆者には漱石の『京に着ける夕』の「寒さ」の記述に、子規の『墓』の寒さが背景にあるようにも思われてならないのであるが、それを一部分引く。

・「オー寒いぞ寒いぞ。寒いッつてもう粟粒の出来る皮もなしサ。身の毛がよだつという身の毛もないのだが、いわゆる骨にしみるというやつだネ。馬鹿に寒い。オヤオヤ馬鹿に寒いと思つたら、あばら骨に月がさして居らア。」子規(落語生)。(注9)

 この時既に子規の身体は重篤の状態であった。それにも関わらず平静に自己を観照しているさまは、悟りを開いた修行僧のようだ。苦痛、寂寥、孤独をかかえながらそれらを諧謔に換えて文学作品とするあたりに、漱石と共通するものがある。

漱石は子規の手引きによって俳句の道へ入った。もともと「俳諧」の語も諧謔の意味をもつもので、俳諧から俳句へ移行した歴史もある。学生時代の子規と漱石が落語を介して意気投合したことが、二人の交友の始まりであったことを忘れるべきではない。

漱石は子規との仲について聞かれると、作中人物を通じ、『吾輩は猫である』十一、で「肝胆相照らしていた」と述べている。

・「先生、子規さんとは御つき合でしたか」と正直な東風君は真率な質問をかける。「なにつき合わなくつても始終無線電信で肝胆相照らしていたもんだ」

 この信頼感があって、近代日本の二人の文豪が、庶民的な寄席・落語、それは金力・権力を弱者が笑い飛ばそうとする世界であるが、その影響を文学上に生かした業績はまことに大きい。

 漱石が『三四郎』のなかで、三代目小さんを名人と賞賛させたことは、よく知られているが、作者自身の声であったのは間違いなかろう。

小さんは天才である。あんな芸術家はめつたに出るものじやない。いつでも聞けると思ふから安つぽい感じがして、はなはだ気の毒だ。じつは彼と時を同じゆうして生きてゐる我々はたいへんなしあわせである。今から少しまえに生まれても小さんは聞けない。少しおくれても同様だ。―円遊もうまい。しかし小さんとは趣が違つてゐる。(中略)小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したつて、人物は活発溌地に躍動するばかりだ。そこがえらい。

 小さんは、江戸落語で一世を風靡したが、じつは上方落語を東京に輸入した貢献があるとされている。足しげく上方に通ったともいう。近代に入って咄家の往来がしげくなると、東京では珍しい大阪の咄を、地名・人名・風俗・会話を江戸前に仕立て直して高座にかけることが多くなったという。したがって、江戸の落語と思い込んでいたものが実は大阪で出来、また京都で作られた場合もあるのであった。

 

 

二、『京に着ける夕』にみる落語

 

 まず、本作品の冒頭を読む。 

・汽車は流星の(はや)きに、二百里の春を貫いて、行くわれを七条のプラツトフオームの上に振り落す。余が踵の堅き叩きに薄寒く響いたとき、黒きものは、黒き咽喉から火の粉をぱつと吐いて、暗い国へ轟と去つた。

 人間が文明の象徴である汽車から振り落とされる、小さな存在として描かれている。色彩の対比の「黒きもの」と「火の粉」は、比喩である「黒き咽喉」の今ならアニメの巨大な黒い怪物であろうか。斬新な描写と音律と色調と、声を出して読むにふさわしい文章がつづく。

・たださへ京は淋しい所である。原に真葛(まくず)、川に加茂、山に比叡と愛宕と鞍馬、ことごとく昔のままの原と川と山である。昔のままの原と川と山の間にある、一条、二条、三条をつくして、九条に至つても十条に至つても、皆昔のままである。数えて百条に至り、生きて千年に至るとも京は依然として淋しかろう。この淋しい京を、春寒(はるさむ)の宵に、()く走る汽車から会釈なく振り落された余は、淋しいながら、寒いながら通らねばならぬ。南から北へ―町が尽きて、家が尽きて、灯が尽きる北の果まで通らねばならぬ。

「余」は、寒さに震え、淋しい京をしきりに書くが、この寒さは「余」の実感であると同時に亡友子規の寒さであったのだ(前掲『墓』)。淋しさも二人の同時性がもたらしたものと考えられる。

「淋しい京」が強調され、昔の儘の「文化が遅れた京」のすがたが繰り返されるのも、一条、二条、三条、九条、十条、百条、千年、と数字が並ぶのも、東京との対比にするための虚構の創意が含まれているからであろう。

・東京を立つ時は日本にこんな寒い所があるとは思はなかつた。昨日(きのう)迄は擦れ合ふ身体(からだ)から火花が出て、むくむくと血管を無理に越す熱き血が、汗を吹いて総身に煮浸(にじ)み出はせぬかと感じた。東京は佐程に烈しい所である。この刺激の強い都を去つて、突然と太古の京へ飛び下りた余は、(あたか)三伏(さんぷく)の日に照りつけられた焼石が、緑の底に空を映さぬ暗い池へ、落ち込んだ様なものだ。余はしゆつと云う音と共に、倏忽(しゆつこつ)とわれを去る熱気が、静なる京の夜に震動を起しはせぬかと心配した。「遠いよ」と云つた人の車と、「遠いぜ」と云つた人の車と、(ふる)へて居る余の車は長き(かじ)を長く連ねて、狭く細い路を北へ北へと行く。

 ここで、「太古の京」とあり、「有史以前から深い因縁で互いに結び付けられて居る。」とあるのは、どのような関係で描かれたのか、それは何であるかを考察したい。「余」が七条ステーションの南から糺の森の北へ北へと向かう先は、漱石が宿舎とする畏友狩野亨吉の家がある、賀茂御祖神社(下鴨神社)である。この神社の祭神・賀茂建角身命は、神武東征の際、八咫烏に化身して神武天皇を先導したと伝えられる。まさしく有史以前の世界が繰り広げられる土地なのである。境内にある社叢林である糺の森は、およそ12万4千平方メートル(東京ドームの約3倍)の面積を有する原生林で、現代では下鴨神社全域が世界遺産に登録されている。

 では、「太古の」と、「有史以前の」という語は古典落語に見られるであろうか。じつは、「鹿政談」という咄がある。奈良の鹿は「神獣」とされ、強権をもつ興福寺が管理し、鹿を殺傷した者を興福寺側は罪人の年齢を問わずに引き回しの上、斬首するという私刑を公然と行っていたという。落語では以下のように語られる。

・春日さんという神さんは伝説によりますと太古の昔、常陸の国から鹿に乗って大和へやって来た。という言い伝えがあるんやそおで、…神仏習合で坊さんも神主っさんもイケイケなってた。  桂米朝(注10)

 太古の昔も有史以前も同義語であるのはいうまでもない。咄家はこのようにいとも簡単にはるか彼方に飛んでいくことが出来るのだ。漱石が「太古の京に飛び降りた余は、」といい、「京都とは有史以前から深い因縁で結びつけられている。」と書くのも自分を咄家になった積りで語っているからであろう。

『京に着ける夕』には、怪奇の雰囲気がそこはかとただよう箇所が見受けられる。

・細い路を窮屈に両側から仕切る家はことごとく黒い。戸は残りなく 鎖されている。ところどころの軒下に大きな 小田原提灯が見える。赤くぜんざいとかいてある。 人気のない軒下にぜんざいはそもそも何を待ちつつ赤く染まつて居るのかしらん。 春寒の 夜を深み、 加茂川の水さへ死ぬ頃を見計らつて 桓武天皇の亡魂でも食ひに来る気かも知れぬ。

 亡魂を供養するために海、山の供物が用意されるのがわが国の習俗であろう。中国では中元、日本では盂蘭盆会といい本来、人々の亡魂を慰める為に供物をするものであった。本作品ではまず七条ステーションの南から北へ、糺の森に至る川端の夜道を人力車がひた走る情景が、墓地の不気味さを漂わせる。さらに闇夜に響く音が描かれる。

・静かな 夜を、聞かざるかと 輪を鳴らして行く。鳴る音は狭き路を左右に遮られて、高く空に響く。かんからゝん、かんからゝん、と云ふ。石に 逢へばかゝん、かゝらんと云ふ。陰気な音ではない。然し寒い響である。風は北から吹く。

 人気の無い家々の軒に赤い提灯が連なり、車夫のひく鉄輪の車輪の音だけが夜のしじまに響く。かんかららん、かんかららん、石を踏めばかかん、かからん…。

 この場面には『京に着ける夕』導入部の「たださえ京は淋しい所である。原に真葛、川に加茂、」の言葉が生きているのである。真葛原こそいにしえの京都の壮大な墓地であったことを見過ごしてはならないであろう。闇夜に人気のない家々の軒に連なる、ゆらゆらする赤い提灯、音のない世界に「かんからかん」「かからん」とこだまする音。こうした舞台背景には亡魂を供物で以て慰め、怨霊を鎮めるものの存在が必須ではないか。寄席、落語を取り入れた話者である「余」が、ここから登場するのである。

 

 咄家の怪談のなかで、「墓地を思わせる洞窟」「燃えている蝋燭の火」「亡魂」の世界、「カランコロン」の下駄の音。それらが定番の舞台装置のように展開するのを資料で見ることにする。

・死神は男と一緒に洞窟のような所に連れて行った。そこには燃えている蝋燭が沢山あった。蝋燭1本1本が人間の寿命で、くすぶっているのは病人、長いのは寿命があり、短いのは寿命が短いのだと言う。」(「死神」)

 

・とすると、音がするという話になつており、円朝の噺はそさげて通つてくる時に、カランコロンと下駄の恋慕している萩原新三郎のところへ。(中略)ふたおもてにして二人のお組がからむという趣向になつては野分姫の亡魂も合体しており、一人の男を間同じ姿で現われ…

 

・左樣でございます、是は桓武天皇の御宇内裏にて雨乞ありしとき大和國より千年效を經し牝狐牡狐二頭の狐を狩出し其生皮を剥ぎ製いましたァ鼓ぢやさうにござります、天の宮はいさめの神樂、日に向うて打つ時は鼓はもとより波の音、狐は陰の獸ゆゑ雲を起して降る雨に民百姓の悦びで、初めて聲を上げしより初音の鼓と名づけました。

         (「骨董商」鈴木行三編 『圓朝全集』 第十三巻 春陽堂〔昭和三年〕)

 以上、『京に着ける夕』の一部分に怪談の反映があることを提示した。しかし、これらは漱石だけに見られるものではない。子規が漱石より先に、寄席、落語を取り入れた小説を世に出しているのだ。前掲の『墓』のほかに『初夢』もあるがここでは省略する。次に、ぜんざいと京都の関わりについて言及したい。

・桓武天皇の 御宇(ぎよう)に、ぜんざいが軒下に赤く染め抜かれてゐたかは、わかり易からぬ歴史上の疑問である。然し赤いぜんざいと京都とは到底離されない。離されない以上は千年の歴史を有する京都に千年の歴史を有するぜんざいが無くてはならぬ。ぜんざいを召したまえる桓武天皇の昔はしらず、余とぜんざいと京都とは有史以前から深い 因縁で互に結びつけられて居る。

 では、赤いぜんざいと余と京都がどのような経路で互いに結びつけられているのか。

 

 

三、京都は落語の発祥地

 

 じつは、京都は寄席落語の発生地である。漱石の蔵書に『江戸の落語』(注11)があるので、おそらく京都が落語の発祥地だという来歴を彼は見ていたであろう。「落語の原点、咄家の先祖」として、暉峻(てるおか)康隆氏の著書『落語の年輪』(註12)には詳しい謂れが書かれている。

 御伽衆は、主君の側近に居て咄をもって慰める職能の人々であった。秀吉の時代は武家でも茶の湯の心得のある人々が選ばれていることが目立ち、金森法眼、織田有楽斎など。民間では茶人として有名な利休の娘婿・万代屋(もずや)宗安。豪商の茶人住吉屋宗無、今井宗薫、武野宗瓦らがいる。安楽庵策伝は、御伽衆であった飛騨高山城主、金森長近(法眼)の弟として生まれ、のちに京都誓願寺の法主となったが、茶道や歌文、咄をよくし、フリーな形での御伽衆の一人であった。所司代に望まれ口演した咄が筆録により、完全な形で『醒睡笑』として残されている。上流階級から始まった「お伽ばなし」が落語咄とよばれるようになり、いつしか庶民に広がり人気を博したのである。江戸、大阪よりも京都が落語の根拠地であったことを知る人は少ないが、重要な事柄であろう。

 漱石が「京都はぜんざい」と明治二十五年に見た記憶は、或いはその頃も熱中していた落語の影響があったのではないか。東京では「汁粉」だが、京都では「ぜんざい」なのだと、咄の枕にでも聴いたのではないかと思われるのである。円朝の「士族の商法」(御膳しる粉)はあまりにも有名で、人気の高い江戸落語だ。明治維新で碌を失った士族が汁粉屋を始める。商売のイロハも知らないが気位ばかり無暗と高い殿、奥方、姫と、客となった円朝とのやりとりが円朝自身の筆録で残されている。しかし、この江戸落語は元はと言えば、上方落語、三代目桂文三(ぶんざ)(米朝記、享年五十七歳)がやっていたもので、さらに新作「改良ぜんざい」を作っていた。文三は京都でも活躍し、「真っ赤に塗った人力車を乗り回していたことも噂になり、ずいぶんな人気であったという。ちなみに二代目文三は「提灯屋の文三とも呼ばれていたという。桂米朝が自著『上方落語』(註13)で書いているのを指摘したい。

・その速記を今読んでみても警句百出の新しさ、その切り口の見事さはおどろくばかりで、明治三十年代にこれだけのことを喋り立てた文三の才に敬意を表するのほかない。

 東京の咄家によって桂文三の「改良ぜんざい」を、おそらく漱石は東京の咄家から枕としてでも聴いていたのではなかったか。粗筋はこうだ。店のような木造の明治の役所が舞台になっている。

・「改良善哉」という看板を掲げた店が出来たので、食べに入ると、受付で住所・氏名・年齢・職業を調べられ、調書作成手数料に五銭を取られる。この調書を持参して窓口へ行くと、前金で五円という法外な代金を取られる。部屋に通されると、役員監視のもと、十二杯も並べられ、少しでも残したら五円の罰金、三日間の拘留といわれる。

「ひどいことになっちゃったな。これじゃあ、胃を悪くする」

「何をぶつぶつ言っておる。善哉食えん(九円)か」

「いえ、五円でございます」

 御膳しる粉を改良した「改良ぜんざい」は、役人の融通の利かない上から目線と規則ずくめの役所の機構を諷刺した内容であり、古くは二条河原における京わらべの落書きをも思わせる痛快さが売りである。さて、本作品のぜんざいの「赤い提灯」は、文三の駆っていた「真っ赤な人力車」のイメージと似通うのではなかろうか。たとえ枕での話であったとしても、「京都」「赤い」「ぜんざい」の線は繋がるであろう。明治時代に屋台でぜんざいを売っていた記録はなくはない。しかし、軒に提灯を掲げたぜんざい屋が連なるという設定は京都では無理があるのではないか。なぜならば、筆者が「菓子資料室虎屋文庫」(注14)に問い合わせたところ、江戸期にもぜんざいの記載はみつかりません、との返答を得た。また、京の菓子司「末冨」の当主である山口富蔵氏からは、「しる粉とぜんざい共に同じ意味で使われていましたが、昔は砂糖でなく塩餡のものでした。うちの「懐中ぜんざい」は暑いときに熱いものを食べ、食あたりをふせぎ、身体に良いと古くから言われてきたもので夏季限定のお菓子です。懐中とあるのは旅行にも懐にしのばせて行けるよう、餡を乾燥させ、もち米を用いて煎餅状にしたもので包む。明治十年以降でしたか、亀末広で考案され、祖父がのれん分けで貰い私が形を変えて作っています。」さらに、「昔からぜんざい屋というのはあまり聞きませんね。」とのことであった。あずき粥を焚くような感覚でめいめい家庭で作ったものだからである。この件はやはり漱石の創作としか考えられない。

 

 

四、「への字烏」「くの字烏」

 

 漱石は造語を頻繁に出すことでも知られているが、「への字」「くの字」とは、首をかしげる読者は多いのではなかろうか。

・暁は高い欅の梢に鳴く烏で再度の夢を破られた。この烏はかあとは鳴かぬ。きや、けえ、くうと曲折して鳴く。単純なる烏ではない。への字烏、くの字烏である。 加茂の明神がかく鳴かしめて、うき我れをいとゞ寒がらしめ玉ふの神意かも知れぬ。

 加茂の社に住む八咫烏(やたがらす)(注15)は三本の足をもつという。もとより神話であるから実際に見た者はいない。「余」がその時、暁に聴いた烏の声は、現実の烏に過ぎないが、漱石は「加茂の明神がかく鳴かしめて」とその神意に敬意を表しているのであろう。ただの烏であっても鳴き声は「きや、けえ、くうと曲折して」いる、とあるところに加茂の烏の特異性を描いたと思われる。

 この件について落語の文献に当たってみたが、該当するものはなく、期待外れであった。しかし明治四十年三月二十八日の日記に注目すべき記載がある。彼が京都に着いた日が同じく二十八日、とすると最初の夜に、日付は次の日になっていたはずだが、こう書き留めている。

 五項のうちの四のみを引く。

  ・〇暁ニ烏ガ無ク。への字ニ鳴きくの字ニ鳴く

 

 此処にカギがあるのではなかったか。「への字ニ鳴く」は、たとえば落語家が口を大きく開けて声を出し、声色を使うことだ。「きや、けえ、」と声に出すと、口は「への字」になる。「くう」と口先を尖らせて声を出すと「くの字」になった。実際に彼は声を出してこの鳴き声と「字」を確かめたのではなかっただろうか。

 口を大きく開き、本文を朗読するうちに、咄家のリズム感をもった漱石の文体が生き生きと体感されるのである。筆者のささやかな実体験を以て、加茂の「への字烏」「くの字烏」の鳴き声を考察した。

 

 

結 び

『京に着ける夕』は、このように読解することができるならば、漱石は落語的発想を以てこの小品を書きあげたということができるであろう。人は皆一人ひとり他人とは解り合うことのできない孤独を生きている。古典の寄席・落語はそういう底知れぬ孤独に耐えて生きる我々に、時にはしばしの慰めとなり、時には人生に意気を感じさせるきっかけをもたらしてくれる。

 漱石が落語を好んだことは、彼自身が孤独の中にあって慰められ、生きる意欲をここからくみ取った時があったからであろう。

 雅びと俗の表裏となった文化を有する京都、そのような俗空間を共有することにおいて二人の文豪が交差し、小品『京に着ける夕』に息づいている点を見逃してはならないのである。近代文明にひた走る喧噪の東都と対比する為に「昔のままの静かな古都」を彼は創作を交えて描いたのだ。

『京に着ける夕』は、新聞『日本』の記者として、志半ばに病に倒れた子規への“(はなむけ)”であると共に、朝日新聞社に入社し、「職業作家」としての新たな未来への出発をみずからに課した漱石の、たしかな決意の表明でもあった。

 

 

(1)岡三郎『夏目漱石研究 第三巻「虞美人草」と「京に着ける夕」の研究』(国文社・一九九五年十月)。

(2)平岡敏夫『漱石序説』より「虞美人草」論、初出は「日本近代文学」(一九六五年五月)。『日本近代文学史研究』(一九六九年、有精堂)に収録。

(3)二宮智之「夏目漱石研究『京に着ける夕』論―〈鶴〉の表現と正岡子規との関わりを中心に―」(「日本近代文学」第七十二集 二〇〇五年五月)。

(4)佐藤良太「夏目漱石『京に着ける夕』論―〈近代以前〉への憧憬―二〇〇九年三月発行 佛教大学大学院紀要 文学研究科篇 第三十七号。

(5)『漱石全集』岩波書店 第二十二巻 書簡上 P.28(一九九六年四月発行)

(6)水川隆夫『増補漱石と落語』(平凡社 二〇〇〇年五月)

(7)『漱石全集』岩波書店 談話「僕の昔」(初出 明治四〇年二月一〇日『趣味』)

(8)夏目漱石「正岡子規」『ホトトギス』第四巻第四号 明治三十四年一月

(9)「子規全集 第十二巻」(講談社 昭和五〇年十月刊 初出:「ホトトギス 第二巻第十二号」明治三十二年九月十日 ※表題の下に「落語生」と記載)

(10)音源:桂米朝1991/06/10 米朝落語全集(MBS)

(11)漱石山房蔵書目録 和漢書 小説随筆類『江戸の落語』関根黙庵編 服部書店 明治三十八年(岩波書店『漱石全集』第十六巻(昭和四十二年発行)

(12)桂米朝 上方落語ノート(青蛙房 昭和五十二年十月)

(13)暉峻康隆『落語の年輪 江戸・明治篇』(河出文庫 二〇〇七年十一月)

(14)虎屋が昭和四十八年東京に創設。同志社女子大学図書館に1部マイクロフィルム有

(15)下鴨神社ウェブサイト「神話伝承」「賀茂建角身命・八咫烏伝承」は、『古事記』『日本書紀』を出典とする。下鴨神社の祭神賀茂建角身命は八咫烏の化身であり、三足烏が八咫烏(ヤタガラス)と呼ばれ神武東征において神武天皇を導く役割を与えられている。

 神社を離れて見渡せばシンボルマークに使用されたヤタガラスもいる。日本サッカー協会、陸上自衛隊情報館など。

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2015/07/22

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丹治 伊津子

タンジ イツコ
たんじ いつこ 「京都漱石の會」代表。著書は『夏目漱石の京都』(2010年 翰林書房刊行)。

掲載作は仏教大学国語国文学会発行『京都語文』2013年11月(20号)初出。

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