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漱石『夢十夜』と坂の心理学

     
  堀田坂(港区・渋谷区)/八幡坂(穴八幡宮=新宿区西早稲田二丁目付近の坂)

はじめに

 漱石作品の中で坂を描いたものは少なくない。ただし、夢の中に坂、あるいは坂をあらわす地名が登場する作品と言えば、筆者の知る限り『夢十夜』以外はない。本稿ではこの作品の中で坂あるいは坂を表すと思われる二つの場面を取り上げる。そして

 ①本作品において坂及び坂に関連する場所が描写されている場所の紹介

 ②地名の現れ方から見る特徴

 ③明晰夢(覚醒後も記憶している夢)であるかどうかの推論

などを中心に心理学的、精神医学的立場から若干の考察を加えてみたい。ただし、ここでは専門用語や難解な理論はなるべく使わず、一般的にもある程度認知されている用語や理論を中心に分析を試みたい。


『夢十夜』の夢と作品

 周知の通り『夢十夜』は、第一夜から第十夜まで短編をつないで一つの作品にするという形を取っている。それぞれの作品には明らかな関連性はなく、作品全体を通じての明確なテーマや主義主張は認められない。ただし、それぞれの夢単独で検討した場合、漱石が実際に見た夢(明晰夢)に近いものと、フィクション性があるものと、何らかの主張を述べる事を眼目とし明晰夢ではないか、明晰夢を断片的に挿入し修飾を加えたものであるかなど、それぞれの夢を仔細に検討する事である程度の類推は可能である(詳細は総合専門誌「公評」(公評社)に連載中の拙稿「再考・文学と精神医学」を参照いただければ幸いである)。

 さて、主義主張を述べた代表としては、運慶が護国寺の山門で仁王を彫っているという噂を聞きつけて主人公が見物に行くという書き出しで始まる第六夜があげられる。

 一心不乱に仁王を彫る運慶に感心する主人公に対して見物人の一人が運慶が仁王を創作するではなく、木の中に埋まっている像を掘り出すのだという言葉をかける。これに触発されそれなら自分にも仁王を彫りだせるのではないかと考えた主人公は、すぐに帰宅して近くの木を片端から彫るが、仁王を彫りだすことが出来ない。

 ついには明治の木には仁王は埋まっていないと悟り、運慶が現在まで生きている理由を理解したという述懐で締めくくられている。

 この作品などは夢の体裁を借りつつ、運慶の生きた時代と明治時代の芸術の差異に関する漱石の明確な主張が表れていると断定して差し支えないだろう。

 ところで、夢十夜の十の作品のうち、坂あるいは坂に由来する地名が少なくとも二つの作品、第三夜と第九夜に登場する。そしてそれは本書がテーマとする東京(江戸)に存在する坂の可能性が濃厚である。以下に抜粋して検証を加えたい。


第三夜に登場する地名としての坂

 第三夜は、主人公が実子とおぼしき六歳になる盲目の青坊主をおぶりながら、森を目指して青田の中を歩いて行くという恐怖感を催す奇怪な物語である。主人公は、坊主が盲目にもかかわらず的確に道を指示することなどから恐怖感にかられて子どもを森に捨ててしまおうと企て足を速めるが、すでに子供は主人公が向かおうとしている場所も意図も察知している。そして目的地に到着した時に、そこの杉の根のところで百年前に殺された事を指摘する。そして主人公もそれを想起して慄然とするというスリラー仕立ての小品である。本作品は第六夜のような何らの明確な主張も見られず、その意味では漱石が実際に見た明晰夢に多少の脚色を加えた可能性は否定できない。さて、下記に東京の地名が登場する部分を記す(傍線、ルビ筆者)。

「御父さん、重いかい」と聞いた。「重かあない」と答えると「今に重くなるよ」と云った。自分は黙って森を目標(めじるし)にあるいて行った。田の中の路が不規則にうねってなかなか思うように出られない。しばらくすると二股になった。自分は股の根に立って、ちょっと休んだ。「石が立ってるはずだがな」と小僧が云った。

 なるほど八寸角の石が腰ほどの高さに立っている。表には左り日ヶ窪(ひがくぼ)、右堀田原(ほったはら)とある。闇だのに赤い字が(あきら)かに見えた。赤い字は井守(いもり)の腹のような色であった。「左が好いだろう」と小僧が命令した。左を見るとさっきの森が闇の影を、高い空から自分らの頭の上へ()げかけていた。自分はちょっと跨踏した。「遠慮しないでもいい」と小僧がまた云った。自分は仕方なしに森の方へ歩き出した。腹の中では、よく盲目(めくら)のくせに何でも知ってるなと考えながら一筋道を森へ近づいてくると、背中で、「とうも盲目は不自由でいけないね」と云った。

「だから(おぶ)ってやるからいいじゃないか」「負ぶって貰ってすまないが、どうも人に馬鹿にされていけない。親にまで馬鹿にされるからいけない」何だか厭になった。早く森へ行って捨ててしまおうと思って急いだ。

 さてここで注目したいのは文中に日ケ窪、堀田原という地名が登場していることである。日ケ窪は現在の六本木付近、漱石が生きていた当時は麻布村であった地にその名を見出すことができる。また堀田原は現在の浅草付近にもその名前を見出すことも出来る。しかし、堀田坂であれば、江戸の堀田氏の武家屋敷、すなわち現在の港区と渋谷区広尾の境目付近が明治時代も堀田坂と呼ばれていた。堀田坂であれば先述した日ケ窪とほど近く、文中にある通り左日ヶ窪、右堀田原(坂)という標識や看板を立てる事が可能な地点が現在の港区、あるいは渋谷区近辺に間違いなく存在する。これは大変興味深い。


第九夜の坂と八幡

 さて第三夜では青田の中、すなわち実際の坂ではなく平地を歩いている設定になっている。一方第九夜はいずこかに行って帰ってこない父を待つ哀愁を帯びた母子の物語である。なぜか母親は行方不明の父の行方を年端も行かない三歳の子供に尋ねる。そして帰宅を願い熱心に八幡に願かけをする。しかし、実際には父はとうの昔に浪士によって殺されていたという話を夢の中で母から聞かされた。という筋立てである。現在と過去にタイムスリップしたり、夢のような話を展開しつつ、最後になって、このような話を夢の中で母親から聞いたという二重三重の仕掛けは夢十夜においてたびたび用いられているため、特筆するには当たらないだろう。ここで注目したいのは、実際に漱石とおぼしき三歳になる主人公が母におぶわれて夜になって坂を下り、二人で八幡に行く描写である。以下に抜粋する(傍線、ルビは筆者)。

夜になって、四隣(あたり)が静まると、母は帯を締め直して、鮫鞘の短刀を帯の間へ差して、子供を細帯で背中へ背負(しょ)って、そっと潜りから出て行く。母はいつでも草履を穿いていた。子供はこの草履の音を聞きながら母の背中で寝てしまう事もあった。土塀の続いている屋敷町を西に(くだ)って、だらだら坂を降り尽くすと、大きな銀杏がある。この銀杏を目標(めじるし)に右に切れると、一丁ばかり奥に石の鳥居がある。片側は田圃で、片側は熊笹ばかりの中を鳥居まで来て、それを潜り抜けると、暗い杉の木立になる。それから二十間ばかり敷石伝いに突き当ると、古い拝殿の階段の下に出る。鼠色に洗い出された賽銭箱の上に、大きな鈴の(ひも)がぶら下がって昼間見ると、その鈴の(そば)に八幡宮と云う額が懸っている。八の字が、鳩が二羽向いあったような書体にできているのが面白い。そのほかにもいろいろの額がある。たいていは家中(かちゅう)のものの射抜いた金的を、射抜いたものの名前に添えたのが多い。たまには太刀を納めたのもある。

 鳥居を潜ると杉の梢でいつでも(ふくろう)が鳴いている。そうして、冷飯草履(ひやめしぞうり)の音がぴちゃぴちゃする。それが拝殿の前でやむと、母はまず鈴を鳴らしておいて、すぐにしゃがんで柏手(かしわで)を打つ。たいていはこの時梟が急に鳴かなくなる。それから母は一心不乱に夫の無事を祈る。母の考えでは、夫が侍であるから、弓矢の神の八幡へ、こうやって是非ない願をかけたら、よもや聴かれぬ道理はなかろうと一図に思いつめている。

 子供はよくこの鈴の音で眼を覚まして、四辺(あたり)を見ると真暗だものだから、急に背中で泣き出す事がある。その時母は口の内で何か祈りながら、背を振ってあやそうとする。すると旨く泣きやむ事もある。またますます烈しく泣き立てる事もある。いずれにしても母は容易に立たない。

 この文における坂の同定は第三夜より容易で確実である。すなわち漱石の生誕の地とされる現在の新宿区喜久井町あるいは馬場下町から徒歩で出かける事の可能な坂、そして八幡を探せばよい。また、屋敷町とあるので大名屋敷が存在する必要がある。これに合致するのは現在の新宿区西早稲田二丁目付近以外には見当たらない。ここには江戸時代より遠藤備前守(寛保、延享~寛政年間一七四〇年代~一八〇〇年頃)遠藤但馬守(文政年間一八二〇年代~一八三〇年代)の屋敷が存在する。屋敷町という呼称では呼ばれていないようであるが、屋敷町という語は武家屋敷がある町の総称として用いられるため、問題はなかろう。城の近くにある町を城下町と呼ぶのと同様ととらえて良い。加えて、この付近は神楽坂を初めとして坂が多いという点でも文中の描写に符号する。

 また、鳥居をくぐって八幡宮の境内に入るくだりは、この付近に現在でも存在する穴八幡宮(新宿区西早稲田二丁目一番地十一号)以外には存在しえない。先述した漱石の生家からの直線距離は数百メートル、多少の坂を上り下りや道を曲がったとしても多く見積もって往復七八百メートル程であり、十分に通うことが可能な範囲である事も前述の指摘を裏付ける傍証となろう。

 問題となるのは、現実には漱石がその時には生家にはいなかったという事実である。大多数の研究や自身、身内の証言などを総合すると漱石は生後間もなく古道具屋に里子に出され、いったん生家に戻るものの一歳には塩原昌之助夫妻のもとに養子に出され塩原姓を名乗る。昌之助の不義により七歳の時に実家に戻るが、その後も塩原姓を名乗る。昌之助の不義により七歳の時に実家に戻るが、その後も塩原姓のまま青年期を過ごし夏目家に復籍するのは満に十一歳を待たねばならない。一説によれば昌之助は名主という職業上住所を移る事が多く、漱石が二歳の時には浅草に、四歳の時には赤坂田町(現在の赤坂近辺)に転居している。よって三歳の時に何度も母に背負われて穴八幡に通ったという記述には虚偽があると考えた方が自然であろう。そもそも、通常であれば三歳児はかなりの距離を歩行する事が可能であり、手を引かれて歩いたというならばともかく、ずっと背負われていたというのであれば、こちらの方が不自然である。この箇所の描写については漱石の心象風景として様々な解釈が成り立つであろうし、その一部の推論について後述してみたい。

 さて、このように、謎の多い短編の中に登場する複数の坂に関連する地名についてほぼ確実に同定する事が可能であるのはそれなりに意義深い事であろうし、おそらくは坂に思い入れのある多くの読者にとっては『夢十夜』をより身近に感じる端緒となるのではなかろうか。続いて、それぞれの夢が実際のものか否かについて基礎的な心理学的、精神医学的知識を踏まえて考えてみたい。


夢に関する心理学的知識概説

「夢」は古典的心理学、ことにフロイト心理学とユング心理学において重要な役割を果たす。また、二十世紀後半においてもハーバード大学名誉教授のアランホブソンらは古典的夢判断に否定的な立場から新しい夢の解釈を試みている。ここでは心理学、精神医学において一応認められている夢に対する考え方、すなわち

 一 フロイト、ユングらによるもの(夢の内容への注目)

 二 レム睡眠(生理学的研究)

 三 アランホブソンのもの(夢の形式への注目)

の三つについて説明する。フロイトは医師として治療を行う過程で、何らかの身体の病気を持たないにもかかわらず、難治性の身体の麻揮などを呈する患者を見出した。そして、その中の一部の人間に対して自由連想法という一種のカウンセリングを行う事により、明らかな症状の改善が認められる事を経験した。このような事実から、フロイトは無意識という概念を提唱した。無意識とは意識、前意識と並ぶ人間の心的な局所的構造の一つで心の過程の一部であり、過去に知覚されたり体験された経験のうち、何らかの原因により抑圧されて思い出そうと思っても思い出せないものを指す。夢は不安や葛藤が強い時に見る事が多く、抑圧された無意識の一部のカタルシスが図られる役割を果たす。よって夢に関する分析を行ない、適切な解釈(アドバイス)を行なうことは治療的な意味を持ちうると考えた。フロイト同様にユングも夢について重要視しているが、フロィトの指す無意識がその人の個人の生育過程によって積み重なった集合体と考えたの(個人的無意識)に比べ、ユングの場合は祖先も含む人類全体の無意識まで含まれる概念(集合的無意識)と考えたため、当然夢の定義や意味合いも異なってくる。

 また注意しておきたいのは、フロイト、ユングともに夢に現れる内容をある程度象徴的なものと考えている事は一面の真実ではある。しかし、それは例えば坂は何かの象徴であるといったような一対一対応的、短絡的なものではない。とかく夢は一般の人から好奇心の対象とされるが、空を飛ぶ夢ばかり見る人は欲求不満であるといった具合に考えるのはむしろ占いに近く、心理学の範囲からは逸脱するものである。

 例えば、漱石の夢の中に坂があらわれていたとして、坂は人生の坂であるから上り坂の夢ばかりみているのは人生に困難を感じている可能性が高いなどと言うと一見信憑性があるように思われた。

この発言が仮に心理学者あるいは心理学をきちんと学んだ人間の発言だとすると限りなく「占い」的な解釈であるか、あるいはたちの悪いジョークである。ここで筆者は占いを否定しているのではない。占いが悪いとは言わないし、占い的な積極的な心への働きかけが、ことに被暗示性が強かったり、進むべき道に迷っている方への羅針盤になりうることを理解しているつもりである。ただし、占い的な部分と広義の科学としての心理学や精神医学が区別されなければならないのは言うまでもない。

 さて、この二つの考えは二十世紀半ばになってレム睡眠の解明により生理学的な研究が進むまでは卓見とされてきたが、現在は科学的な実証性に乏しいという理由で否定的な見解が多い。ただし、フロイトやユングの仮説が、完全に実証性を持って否定された訳ではないことに留意せねばならない。さて、フロイトの仮説には反対の立場を取る研究としては、前述したアランホブソンらによるものがあげられる。彼によると夢には以下のような特徴が認められるという。

すなわち、

 ①脳内で発生するあざやかで多様な知覚、すなわち幻覚が現れる。

 ②夢を見ている間は、物理的に不可能なことや到底ありそうにないことなのに、実際起こっていると信じている場合が多い。

 ③不連続だったり、登場人物に矛盾があったりなど、突飛で奇妙である。

 ④情動要素が鮮明で多様である。

 ⑤非論理的である。

 ⑥意識の多くは覚醒時に比べやや低下している。

 ⑦注意あるいは集中力は散漫な事が多い。

 ⑧知性(冷静な判断力)は覚醒時よりも鋭敏に機能しておらず情動優位である。

 ⑨感情は不安定(抑制不能)な事が多い。

 ⑩記憶力は低下していることが多い。(夢の中で過去の記憶を正確に思い出す事は困難である)

 ⑪夢における概念の多くは抽象的、象徴的な事もあれば具体的な時もある。

 ホブソンの考え方も現実との対比を行っているに過ぎず、厳密に実証的かどうかという事はなお疑問の余地がある。また、特にフロイトの場合、治療過程において無意識という概念を着想し、そこから夢に対するアプローチが行われたし、夢を治療的な手段の一部あるいは突破口と考えているのに対して、ホブソンの場合は治療的な意味合いよりも研究としてのアプローチであるため、取り上げる対象は類似していても方向性や結論が異なるのは必然である。


心理学的に見た『夢十夜』の坂のアセスメント

 さて、上記の概説を踏まえて再度、第三夜と第九夜の「坂」について考えてみたい。結論から先に述べると第三夜の描写の方がより実際の夢を描写した可能性が高く、第九夜はフィクション性が高い。以下にその理由を述べる。

 第三夜において、主人公は平地を歩いたり走ったりしている。それにも関わらず

「なるほど八寸角の石が腰ほどの高さに立っている。表には左り日ヶ窪(ひがくぼ)、右堀田原(ほったはら)とある。闇だのに赤い字が(あきら)かに見えた。」

という描写には、いささか突飛に漱石が過去に記憶している坂のある地名が登場する。まずフロイト的な立場に立つならば内容自体が不気味で不自然な内容が中心となっている。すなわち、かなりフラストレーションがたまっていた時に見た夢に多少の修飾を加えた印象が強い。また、ホブソンのスキームを重視した点から考えると上記にあげた③不連続だったり、登場人物に矛盾があったりなど、突飛で奇妙である。⑤非論理的である。のところに該当する。すなわち、平地であるにもかかわらずいきなり地名が登場するというのは矛盾しており、非論理的であると言える。読者の多くは覚醒した後に、「なぜこんな夢を見てこんな地名や人が出てきたんだろう」という経験があるのではなかろうか。筆者の精神科あるいは心療内科における臨床経験でも、同様の体験を語ってくれる方は数多い。よって第三夜、ことに東京の坂が登場する場面は心理学的にも明晰夢を題材にした可能性が限りなく高いと推論する。

 次にこれと対比して第九夜の描写を見てみよう。

「土塀の続いている屋敷町を西に(くだ)って、だらだら坂を降り尽くすと、大きな銀杏がある。この銀杏を目標(めじるし)に右に切れると、一丁ばかり奥に石の鳥居がある。」

という一連の描写はあまりに綺麗すぎる。全体を通して理解できる事は漱石の瞼の母と亡き父の存在と寂しさであろうが、夢にしては出来すぎている。類似の夢を見た可能性は否定できないが、かなりの修飾が加わっていることは否定できない。

 無意識の内容があまりに鮮やかに出すぎており連続性があり、かつ登場人物に矛盾がなさ過ぎる。

 以上が筆者の心理学知識に基づいた断片的な夢十夜の坂の分析である。


おわりに

『夢十夜」に登場する坂のうち明らかに東京の坂と同定しうる二つの地名について概説し、考察を試みた。第三夜には日ヶ窪、堀田原という地名が、第九夜には現在の西早稲田二丁目付近の坂が登場する。明晰夢を題材としたか否かという点についてのみ絞って考えた時、第三夜の方が明晰夢を小説の体裁とした可能性が高く、第九夜はフィクション性が高いと考えられた。


日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2015/05/23

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池田 健

イケダ タケシ
1959年生まれ。精神科医。心療内科医。順天堂大学医学部卒。著書に『心理学大図鑑』(三省堂)、『What do l work for?』(jikan to kukan co,ltd)、『精神医学入門』(金剛出版)他がある。

掲載作は『東京の「坂」と文学』(彩流社 2014年)に初出。

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