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シノーポリ「オケピに死す」全真相

「そのとき炎の音楽家は私の上に崩れ落ちてきた」

指揮台で本番中に逝った指揮者は3人いる。

1911年、フェーリクス・モットル、

1968年、ヨーゼフ・カイルベルト、

そして、ジュゼッペ・シノーポリ。

2001年4月20日、ベルリン・ドイツ・オペラ(DOB)座にて『アイーダ』演奏中の出来事だった。彼の死を目の当たりにしたヴァイオリン奏者、イリス・メンツェル氏が、あの日を初めて振り返る――


 譜面に記された小さな十字架。 

 指揮者が演奏中に亡くなると、共に演奏したものがその死を悼み、倒れた個所に記すという。これは音楽家の間での習慣である。

 オペラ『アイーダ』の本番中にシノーポリが壮絶な死を遂げたのは、2001年4月20日のことだった。

 あの日、第2ヴァイオリン首席を務めたイリス・メンツェル(36歳)は、その一部始終を目前で見たひとりである。半年経って初めて、そのときの全貌を語ってくれた。


 その日の開演時間は午後7時30分でした。私が劇場に入ったのは7時。着替えをすませ、7時15分にオーケストラボックスの最前列に座りました。これが私たち団員のいつもの時間配分です。

 シノーポリの劇場入りは、開演間近だったと思います。当日、リハーサルはありませんでしたし、あの日最初に彼を見たのは、客席の照明が暗くなってからのまさに開幕のときでした。

 だから彼と最後に話をしたのは、それより2日前の18日、リハーサルの晩になります。今にして思えば、その日も信じられないことが起きたんです。

『アイーダ』のように何度も演奏しているレパートリーは、リハーサルを一切行わずいきなり本番に臨むんですね。

 ところがあのときは17日と18日の両日、それも午前と夜と2回に分けてリハーサルをしたのです。その上、18日の夜は、シノーポリの希望で終了が1時間延長されたのです。

 オーケストラで弾き始めて11年になりますが、リハーサルが延びるなんて初めてでした。拘束時間の延長は誰もが嫌います。数十人が一堂に会しているのです。その後にそれぞれが別のスケジュールを持っているから当然のことです。

 しかしこの夜は違いました。時間の延長に文句を言うどころか、彼の始めた音楽解釈に誰もが熱心に耳を傾けて。

 シノーポリは伝えたいことがたくさんあったのです。私達に「表現」を要求したんです。いつものように弾いていたら、「違う違う! 全然違う!」と言い出して。彼はイタリア人ですが、とても流暢なドイツ語で指示を出す。「ここは骸骨の中にナイフが入っているような感じで響かなければ!」とか。私達は必死に彼に応えようとしました。まるで、大人の要求に喜々として挑戦する子供みたいに。1時間の延長に誰も文句を言いませんでした。


これには深い理由があった。今回の『アイーダ』は、ゲッツ・フリードリヒ(当時/ベルリン・ドイツ・オペラ〈DOB〉総監督)とシノーポリの「和解公演」でもあった。シノーポリとフリードリヒは80年代数々のオペラを共に創り成功を収め、90年からDOBで総監督と総音楽監督の関係で共に仕事をすることが決まっていたのだが、その直前にふたりは決裂。それから約10年の時を経て、フリードリヒからの和解の申し出により今回の舞台が実現したのである。ところが、本番を迎える約4ヵ月前にフリードリヒが急逝。シノーポリは今回の公演パンフレットに「ゲッツ・フリードリヒに捧げる『アイーダ』」という追悼文を寄せていた。

 この日の公演を客席から観ていたベルリン駐在の日本人、車真佐夫氏(41歳)は、開幕前の状況を次のように語る。

「満場の客席が暗くなり、シノーポリが現れた。いつも神経質そうな彼からこの日は、威圧感さえ感じられた。彼が指揮台から客席に向かって会釈すると、たちまち大きな拍手が巻き起こった」

 2001年4月20日午後7時30分。世界中に「シノーポリの訃報」として広がることになった『アイーダ』の幕は、こうして切って落とされた。

「医者を呼びましょうか」ときくと「ナイン(いいえ)」と言った。

彼の体調が悪いだなんて、初めは全くわかりませんでした。第1幕、第2幕ともに素晴らしい出来でしたから。

 休憩後始まった3幕目、シノーポリが現れると、前より激しい拍手が起こりました。今こんなに拍手してしまったら、演奏後はどうやって手をたたくつもり?

 隣のメンバーにそんな冗談を言ったくらいです。

 ただ思い返せばその前の休憩のとき、何かおかしかったのだわ。

「ご気分が悪いのですか? 医者を呼びましょうか」と、ファゴット奏者が彼に話しかけているのを見かけたのです。

 「ナイン(いいえ)」。彼はそう答えました。それで私は特に気にもとめなかったのですが。

 そうして3幕目が始まりました。数分は順調でした。しかし、5分ほど経ったところで何かが起こった。オケが一瞬ばらばらになったのです。いえ、ほんの一瞬だけ。びっくりしました。わぁ、何?って。シノーポリはすぐさまそれを立て直しましたが、それが彼の体調のせいだったのか、誰か演奏者のせいだったのかいまでもわかりません。ただどちらにしても、『アイーダ』の曲を熟知している者にしかわからないほどの些細な崩れでしたが。

 それから10分か12分ほどしてからでしょうか。急にシノーポリが、ウッとうめき声を上げたのです。

 いきなり体を大きく歪め、左腕でみぞおちあたりを抱え、体を前に屈めて……いったい何が起こったのか……しかし彼は指揮を止めませんでした。屈んだままの格好で、右手で指揮捧を振りつづけたのです。

 それからでした。急に体を仰け反らしたかと思うと、みぞおちを押さえたままの左腕を妙に動かし始めたのです。まるで何かを脱ぐかのように。

 彼は気分が悪くなったのだ。最初は単にそう感じたのです。冐の調子が悪くなったのかしら。吐くのかしら。私のヴァイオリンにかかったらどうしよう。咄嗟に思ったのはそんなことでした。

 でもそれから、フーッとうるさい音で息を吐いたかと思うと、彼の顔から汗がしたたり始めて。私の後ろに座っていたオケのインスペクター(リーダー)が、椅子が欲しいかと聞きましたが聞こえなかったようなので、今度は私が身を乗り出して、「椅子が必要ですか?」と小声で叫んだのです。「ナイン(いいえ)」彼ははっきりと答えました。

 けれども何かが違う。これは緊急事態じゃないか。彼は目の前でこんなに苦しそうに悶えている……。私は戸惑うばかりでした。

 すぐにインスペクターが水のボトルとコップを持ってきたので、私はそれを受け取って、指揮台の一段下に置きました。すると彼はもがきながら、私の反対側に座っているヴィオラ・ソリストヘ顔を向け、初めて声に出してこう告げたのです。

「Mir geht schlecht!」

――体がおかしい――と。

 そしてシノーポリは、急に指揮棒を振るのをやめてしまいました。そこは緩やかで単調なメロディでテノールが歌い始めるところ。彼はただもたれかかるように立ち、深い呼吸を繰り返すばかりでした。

 すべてが突然でした。私達は何が起こっているのか分からないまま、しかしとんでもないことが起こりつつあるということを、ただただ直視するしかなかったのです。


そのときシノーポリが見せた仕草は典型的な心筋梗塞の症状だと後で知った。いきなり心臓が締めつけられる。その後、次第に左腕が麻痺していく。シノーポリが何かを脱ぎ去ろうとした仕草は、利かなくなった左腕を懸命に動かそうとしていたのだろう。

 シノーポリの死を伝えた報道の中にも記されているとおり、その部分のテノールの歌は素晴らしいものだった。

 しかし、次には指揮を絶対に必要とするオーケストラのパートが待ち受けている。だが彼はもう棒を振っていない。このままどうなるのか。1ヵ月も前から完売していたこのコンサートはこうして終わりを告げるのだろうか。


 テノールが歌い終わると、彼は指揮棒を振り上げました。もう一度私達を導きはじめたのです。「そうだ」「いいぞ」と励ましさえしながら。あぁ、よかった。心から安堵しました。

 でもそれは束の間のことでした。このときのメロディは、静かな音が長く延びてから休止符があって、次のパートへ移るところでした。

 あのときの彼の動きは忘れられません。

 彼はこのラストの長い音に合わせて静かに体を屈めながら、手を広げるようにゆっくりと下ろしました。そして終止のサインもはっきりと送ったのです。最後の瞬間までオケを導いた。静かでとても美しい姿でした。

 そこに私は、彼の言葉を想像しました。

「申し訳ない。もうこれ以上私には出来ない」――

 再び一瞬、体を起こしましたが、それが最後でした。膝の上に両手をついて自分の体重を懸命に支えていましたが、頭が左のほうへ傾いていって……まるで、スローモーションの映像のようでした。

 私は咄嗟に、水のボトルとグラスを傍らへ押しやりました。彼がその上へ倒れてしまうと思ったのです。私の手がまだそこに残っているとき、彼は自分の体重を支えきれなくなってついに崩折れたのです。そして、彼の頭は私の手の上に落ちてきました。


ちょうど次のパートヘの切れ間だった。場内は静まり返っていた。彼の頭がイリスの手の上に落ちたその音は、とても人間の体がぶつかって起きる音とは思えないような激しいものだった。

 客席の車氏はそのとき、大きな舞台装置が倒れたと思った。しかし、音と同時に音楽も一斉に停止した。もし舞台装置が倒れたのであれば音楽が止まるはずはない。もし奏者の誰かが倒れたとしても音楽は続くはずだ。音楽自体が止まったということは、あるひとり(ヽヽヽヽヽ)しか考えられない……そう思った瞬間、客席が明るくなり、ピットから何かを叫ぶ声があがった。すると車氏の2列前に座っていた女性がすぐさま立ち上がり、あわてて出て行った。

両の目はカッと大きく見開かれたままだった。

 指がとても熱かった。指揮台に打ちつけたからでしょうか。彼の頭を支えながら、汗で濡れた柔らかい巻き毛と彼の体温を掌に感じていました。そして私の手は彼を支えきれず……彼は床へ転がり落ちたのです。

目の前に横たわった彼の顔は……あの驚きは言葉になりません……両の目がカッと大きく見開かれ、どこか一点を凝視していました。指揮台で苦しんでいたときには閉じていたはずなのに……。

 そして突然大きないびきをかき始めたのです。大きく長く2度繰り返され、そしてぱたりと止みました。静寂の中、彼の目はなお、一点を凝視していました。

 気づくとインスペクターが駆け寄ってきました。彼の蝶ネクタイを取りシャツのボタンを外し、そして「すぐに皆、ボックスから出てくれ!」と指示しました。

 オケの行動は実に速やかでした。誰も言葉を交わさず、シノーポリの様子を覗き込もうともせず。全員が即座に出口へと急ぎました。私は咄嗟にそこに落ちていた指揮棒を拾い上げ、皆の後を迫ったのです。


 イリスがまだオーケストラピット内から出きらないうちに医師が二人現れ、すぐさま心臓マッサージを開始した。

 この二人をイリスは今まで見かけたことがない。劇場の専門医ではないのだろう。救急車でやって来たにしてはあまりにも早いその到着に、そして、すぐさま始まった敏速な処置に驚きながら、心のどこかで彼はすでに死んでいると確信していた。それは、今までに人の死に目に遭ったことがないイリスの動物的な直感だった。

 そのとき客席はどんな様子だったのだろうか。車氏は回想する。

「歌手もオーケストラも退場した後、舞台上に現れた男性の指示によってロビーヘと出ました。そして状況もわからないまま、再演の合図を待った。私は電話をかけるため、一度劇場の外に出たのですが、劇場横に救急車が2台停まっていた。そしてロビーに戻って数分してから、場内アナウンスによって舞台の中止が発表されました」。

 再び外へ出たときは、さっきは回っていた救急車の青い回転灯が止まっていた。車氏は、不吉な予感がしたという。


 私達は長い間、ピット前の廊下に立っていました。救急車が到着し、救助隊が慌ただしく出入りし、目の前をシノーポリ夫人が駆け込んでゆく。それでもシノーポリがピットから運び出される様子はありませんでした。そしてしばらくしてから舞台監督が廊下に現れ、私達は舞台の中止を告げられたのです。

 もう帰宅してもよい。そう言われました。でも、誰も立ち去ろうとはしなかった。ピットからは慌ただしく医師たちが行き来している。シノーポリは依然としてあの場所に横たわっているに違いない。とても帰る気になどなれず、私達は食堂へ移動しました。

食堂でえんえんと待ちました。皆で状況を推測したり腕時計をのぞきこんだり。

 彼はもう運び出されたのだろうか。

 まだ、ピット内にいるのだろうか。

 彼が病院へ運ばれたのは、たぶんそれからしばらく経った後だったろうと思います。

 そのまま時間は過ぎていきました。そして真夜中になって、インスペクターが食堂に現れて、シノーポリの死を告げたのです――


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 あれだけの音を立てて落下したシノーポリの頭部を受けた彼女の手は、意外にも打撲による痛み以上の損傷はなかった。薬指と中指にくっきりと刻まれていた青いあざも1週間ほどで消えた。ただ、あの大きく見開かれた目や、暖かく濡れた巻き毛の感触や、2度響き渡ったいびきの音は、いつまでもイリスの耳から離れなかった。

 あまりにも突然だったシノーポリの死。彼がベルリン・フィルに自作を振りにきた1979年2月以来の付き合いという、DOB在籍31年の眞峰紀一郎氏(60歳)の言葉を引用したい。それはシノーポリとベルリンという街の因縁を思わせる。

 眞峰氏は言う。シノーポリは、誠実で、決して(おご)らず、常に悩み、そして傷つきやすい人だった。気難しい印象などはなく、誠意を持って話せば必ず通じ合える相手だった。彼がとっつきにくい人物だと思われていたとするなら、それは繊細な彼特有のコンプレックスが原因だったのではないか。もともと作曲家を志していたシノーポリは、指揮の技術にじゃっかん不安を抱いていたのではないか。そこを触れられるのが辛く、それが人を遠ざけるイメージにつながっていったのではないか……。

 しかし、「ベルリンの街は彼を受け入れた」と眞峰氏は言う。DOBとシノーポリの間の特異なまでの信頼感は、1980年2月に上演された『マクベス』で築かれた。ミュンヘンで問題を抱え、迷いながらベルリンにやってきた彼は、この演奏の成功で一気に立ち直ることが出来たのだ。彼はDOBで指揮者として自信をつけた。ベルリンの仲間と一緒にいるシノーポリは、実に生き生きとしていた――そしてこの地で彼は死んだのだ。

 あの日『アイーダ』の公演に寄せて、シノーポリがゲッツ・フリードリヒに宛てた追悼文がここにある。

〈おお大地よ、さらば、さらば、涙の谷よ、苦しみの中に消えゆく喜びの夢よ〉。

この言葉が奇しくもシノーポリ自身に向けられてしまうなど、誰が想像しただろう。

 そしてベルリンで客死したシノーポリは、その追悼文をこう締めくくった。

〈「……お前とこの町……運命がお前たちに慈悲深くあらんことを。そして私が死んだときには、常に喜びをもって私のことを思い出しておくれ」――ジュゼッペ・シノーポリ〉

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2015/02/20

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六草 いちか

ロクソウ イチカ
ろくそう いちか 作家。1988年よりベルリン在住。 主な著作は、『鴎外の恋-舞姫エリスの真実』(2011年、講談社刊)、 『それからのエリス いま明らかになる鴎外「舞姫」の面影』(2013年、講談社刊)。

掲載作は、講談社総合誌『OBRA』2002年1月号に初出。

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