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勝負事

 勝負事(しようぶごと)と云ふことが、話題になつた時に、私の友達の一人が、次ぎのやうな話をしました。

「私は子供の時から、勝負事と云ふと、どんな些細な事でも、厳しく戒しめられて来ました。幼年時代には、誰でも一度は、(もてあそ)ぶに()まって()るめんこ、ねつき、ばいなどゝ云ふものにも、ついぞ手を触れる事を許されませんでした。

『勝負事は、身を滅ぼす(もと)ぢやから、真似でもしてはならんぞ。』と、父は口癖のやうに幾度も々々も繰り返して私を戒しめました。さうした父の懸命な訓戒が、何時の間にか、私の心の(うち)に、勝負事に対する憎悪の情を、培つていつたのでせう。小学校時代などには、友達がめんこを始めると、そつとその場から逃げ帰つて来たほど、殊勝な心持で居たものです。

 私の父が、いろ/\な罪悪の中から、勝負事(だけ)を、何故(なにゆゑ)こんなに取り()けて戒しめたかと云ふことは、私が十三四になつてから、やつと(わか)つた事なのです。

 私の(うち)と云ふのは、私が物心を覚えて以来、ずつと貧乏で、一町ばかりの田畑を小作して得る(わづ)かの収入で、親子四人がかつ/\暮して()いたのです。

 確か私が高等小学の一年の時だつたでせう。学校から、初めて二泊宿(どま)りの修学旅行に行くことになつたのです、小学校時代に、修学旅行と云ふ言葉が、どんなに魅惑的な意味を持つて居るかは、大抵(たいてい)の人が、一度は経験して知つて居られることだと思ひますが、私もその話を先生から聞くと、雀躍(こおどり)しながら家へ帰つて来ました。が、帰つて両親に話して見ますと、()うしても、行つてもいゝとは云はないのです。

 今から考へると、五円と云ふ旅費は、私の家に取つては、可なりの負担だつたのでせう。恐らく一月の一家の費用の半分にも、相当した大金だつたらうと思ひます。が、私はそんなことは、考へませんから手を換へ、品を換へ父と母とに、嘆願して見たのです。が、少しもきゝめがないのです。

 もう、愈々(いよいよ)明日が出発だと云ふ晩の事ですが、私は学校の先生には、多分()かれないと、返事はして来たものゝ、行きたいと思ふ心は、矢も楯も堪らないのです。何うかして、やつて貰ひいたいと思ひながら、執念(しうね)く父と母とに、せびり立てました。到頭(たうとう)、父も母もしつこい私を、持て余したのでせう、泣いたり、怒つたりして居る私を、捨てゝ置いて、二人とも寝てしまひました。

 私は、修学旅行の仲間入りの出来ないことを、友達にも顔向けの出来ないほど、恥しいことだと思ひ詰めて居たものですから、一晩中でも泣き明かすやうな決心で、父の枕元で、何時(いつ)(まで)もグヅ/\駄々をこねて居ました。

父も母も頭から、蒲団を被つて居ましたものゝ、私の声が、彼等の胸にヒシ/\と、(こた)へて居たことは勿論です。私が、一時間近くも、旅行にやつて呉れない恨みを、クド/\と云ひ続けた時でせう。今迄寝入つたやうに黙つて居た父が、急にムツクリと、床の中で起き直ると、蒲団の中から顔を出して、私の方をヂツと見ました。

 私は、あんまり云ひ過ぎたので、父の方がアベコベに怒鳴り始めるのではないかと、内心ビクビクもので居ましたが、父の顔は怒って居ると云ふよりも、むしろ悲しんで居ると云つたやうな顔付でありました。涙さへ浮んで居るのではないかと思ふやうな眼付をして居ました。

『やつてやりたいのは山々ぢや。わしも、お前に人並の事は、させてやりたいのは山々ぢや。が、貧乏で何うにもしやうがないんぢや。わしを恨むなよ。恨むのなら、お前のお祖父さんを恨むがえゝ。御厩(おうまや)では一番の石持(こくもち)と云はれた家が、こんなになつたのも、皆お祖父さんがしたのぢや。お前のお祖父さんが、勝負事で一文なしにしてしもうたんぢや。』

 と、云ふと、父は(すべ)ての弁解をしてしまつたやうに、クルリ向ふを向いて、蒲団を頭から被ってしまひました。

 私は、自分の家が御維新前迄は、長く庄屋を勤めた旧家であつたことは、誰からとなく、薄々聞き知つて居たのですが、その財産が、祖父に依つて、蕩尽(たうじん)されたと云ふことは、此時初て、父から聞いたのです。無論、その時は父の話を聞くと、二の句が次げないで、泣寝入りになつてしまつたのです。

 その後、私は成長するに従つて、祖父の話を、父や母から聞かされました。祖父は、元来私の家へ他から養子に来た人なのですが、三十前後迄は真面目一方であつた人が、ふとした事から、賭博(とばく)の味を覚えると、すつかりそれに溺れてしまつて、何もかも打棄(うつちや)つて、(うち)を外にそれに浸り切つてしまつたのです。御厩の長五郎と云ふ賭博の親分の家に、夜昼なしに入り浸つて居る上に、いゝ賭場(とば)が、開いて居ると云ふと、五里も十里もの遠方まで、出かけて行くと云ふ有様で、賭博に身も心も、打ち込んで行つたのです。天性の賭博好きと云ふのでせう。勝つても、負けても、ニコ/\笑ひながら、勝負を争つて居たさうです。それに豪家(がうか)の主人だと云ふので、何処の賭場でも、『旦那々々』と上席に座らされたさうですから、つひ面白くつて、家も田畑も、壺皿の中へ叩き捨てゝしまつたのでせう。無論時々は勝つたこともあるのでせうが、根が素人ですから、長い間には負け込んで、田畑を一町売り二町売り、到頭千石に近かつた田地を、皆無くしてしまつたさうです。おしまひには、賭博の資本(もとで)にも、事を欠いて、祖母の櫛や、(かうがい)まで、持ち出すやうになつたさうです。(しまひ)には、住んで居る祖先伝来の家屋敷迄、人手に渡すやうになつてしまつたのです。

 が、祖父のかうした狂態や、それに関した逸話などは沢山聞きましたが、大抵忘れてしまひました。私が、今も尚忘れられないのは、祖父の晩年に(つい)ての話です。

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 祖父が、本当に目が覚めて、ふつゝりと賭博を止めたのは、六十を越してからだとの事です。それ迄は、財産を一文無しに、してしまつた後迄も、まだ道楽が止められないで、それかと云つて大きい賭場には立ち廻られないので、馬方や土方を対手(あひて)の、小賭博迄、打つやうになつて居たさうです。それを、祖母やその頃二十五六にもなつて居た私の父が、涙を流して諫めても、何うしても止めなかつたさうです。

 が、祖父の道楽で、長年苦しめられた祖母が、死ぬ間際になつて、手を合はせながら、

『お前さんの代で、長い間続いた勝島の家が、一文なしの水呑百姓になつてしまつたのも、わしや運だと諦めて、(いと)ひはせんが、せめて死際に、お前さんから、賭博は一切打たんと云う誓言(せいごん)を聞いて死にたい。わしは、お前さんの道楽で長い間、苦しまさせられたのだから、後に残る宗太郎やおみね、(私の父と母)丈には、この苦労はさせたくない。わしの臨終の望みぢやほどに、きつぱり思ひ切つて下され。』と何度も/\繰り返して、口説いたのが余程利いたのでせう、義理のある養家(やうか)を、根こそぎ潰してしまつた我悔(がかい)が、やつと心の裡に目覚めたのでせう、又年が年丈に、考へもしたのでせう。それ以来は、生れ変つたやうに、賭博を打たなくなつてしまつたのです。

 それで、六十を越しながら、息子を相手に、今では他人の手に渡つてしまつた昔の自分の土地で、小作人として、馴れない百姓仕事を始めたのです。が、今迄、随分身を持ち崩して居たものですから、さうした荒仕事には堪へなかつたと見え、二年ばかり経つと、風邪か何かゞ(もと)で、ポツキリ枯枝が折れるやうに、亡くなつてしまつたのです。

 一生涯、それに溺れてしまつて、身にも魂にも、しみ込んだ道楽を、封ぜられた為でせうか、祖父は賭博を止めてからと云ふものは、何となくほう(ヽヽ)けてしまつて、物忘れが多く、畑を打ちながら鍬を打つ手を休めて、ぼんやり考へ込むことが、多かつたさうです。そんな時は、若い時に打つた五百両千両と云ふ大賭博の時に、うまく起きて呉れた賽ころの目の事でも、思ひ出して居たのでせう。

 それでも、改心をしてからは、(さすが)に二度と再び、勝負事はしなかつたのです。()し、したことがあつたならば、それは只一度、次ぎにお話しするやうな時だけだらうとの事です。

 それは、何でも祖父が死ぬ三月位前の事です。秋の小春日和の午後に、私の母が田で働いて居る祖父に、お八つの茶を持つて行つたことがあるのです。見ると、稲を刈つた後の田を、(すき)返して居る筈の祖父の姿が見えないのです。多分田の(むかふ)藁堆(わらづみ)の陰で、日向ぼつこをして居るのだらうと思つて、其の方へ行つて見ますと、果して祖父の声が聞えて来るのです。

『今度は、俺が勝ちだ。』と、云ひながら祖父は声高く笑つたさうです。その声を聞くと私の母は、ハツと胸を打たれたさうです。屹度(きつと)、古い賭博打の仲間が来て、祖父を(そゝの)かして、何かの勝負をして居るに違ひない、と思ふと、手も足も付けられなかつた祖父の、昔の生活が頭の中に浮んで来て、ゾツと身が(ふる)ふほど、情なく思つたさうです。折角、慎んで居て呉れたのにと思ふと、一体祖父を誘つた相手は、何処の何奴(どいつ)だらうと、そつと跫音(あしおと)を忍ばせて近づいて見たさうです。

 見ると、ぽか/\と日の当つている藁堆の陰で、祖父とその五つになる孫とが、相対して(うづくま)つて居たさうです。何をして居るのかと思つて、ぢつと見て居ると、祖父が積み重つて居る藁の中から、一本の藁を抜いたさうです。すると、孫が同じやうに、一本の藁を抜き出したさうです、二人はその長さを比べました、祖父が抜いた方が一寸ばかりも長かつたさうです。

『今度も、わしが勝ちぢやぞハヽヽヽヽ。』と、祖父は前よりも、高々と笑つたさうです。

 それを見て居た母は、祖父の道楽の為に受けた、いろ/\の苦痛に対する恨みを忘れて、心から此時の祖父をいとしく思つたとの事です。

 祖父が最後の勝負事の相手をして居た孫が、私であることは申すまでもありません。」

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2015/02/18

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菊池 寛

キクチ ヒロシ
きくち ひろし 小説家 1888・12・26~1948・3・6 香川県高松市で生まれる。帝国藝術院会員  藝術第二・生活第一を不動の信条に現実人生を男性的に生ききった稀有の作者。文藝春秋を起こし芥川・直木賞を設け、批評と解釈に富んだ明快なテーマ小説や戯曲を多く遺した。

掲載作は、1929(昭和4)年9月、平凡社より刊行された「菊池寛全集第一巻」より採ったものであり、International Edition に掲載した KIKUCHI Kan「Games of Chance」の日本語原版である。

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