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マグダラのマリア ゴルゴタの聖女(抄)

〔目次〕

女性が新世界を切り開く

マグダラのマリアは私たち一人ひとりの中に

無から有を創り出したイエスの愛

対極の位置で魂の交歓を持ったイエスとマグダラのマリア

イブ、聖母マリア、そして──マグダラのマリア

イスカリオテのユダ

神とイエスと私たち

さまざまな十字架

私はなぜキリスト教を信じるのか

ゴルゴタの丘の三つの十字架

女性が新世界を切り開く

 私が興味深く思うのは、人間を原罪の世界に引き入れたのも女性、原罪の世界から引き戻したのも女性ということである。

 人間が原罪を背負ったのは、いうまでもなくエデンの園にいたイブが蛇に唆されて知恵の実を食べたことによるものだった。人類最初の女性こそが、私たちの原罪の原因だったのだ。

 一方、原罪から解放されるきっかけとなったのもマグダラのマリアという女性である。墓所を訪れた彼女がイエスの復活を知り、男性の弟子に報告したのが、人類の原罪からの解放を告げる、まさに「福音」であった。このとき、イエスを祖とするキリスト教は創始されたといっていい。

 このように人類の壮大なドラマの中で、原罪をめぐる二つの大きな転換期を演出したのが二人とも女性だったということは、私たち人類の中で女性の役割がいかに大きいかを示しているようにも思える。

 イブは知恵の実を口にしたのち、アダムにもそれをすすめている。そしてマグダラのマリアは、イエスの復活を男性に話している。まさに女性から男性に、新たな世界は広まったのである。

 女性が新世界を切り開き、そのあとから男性がついていくという図式が、ここに見えないであろうか。これは偶然とも思えない。

 女性は男性よりも好奇心が強く、新しい環境にも適応するのが早い。そして生命力が強い。

 何よりも女性には、新しい生命を生み出すという男性にはない能力がある。

 こうした女性の特性が、この二つの神話的な物語に現れてはいないであろうか。

 マグダラのマリアは、新しい時代を開くという使命を持った人物であった。そして、彼女はあとに続く私たちの先駆者であった。

マグダラのマリアは私たち一人ひとりの中に

 私たちは皆、原罪あるものとして世に生を受ける。そして洗礼という儀式を経て、原罪から解放され、天国に行く資格あるものとして、再生するのである。

 これはまさに、マグダラのマリアの人生に象徴的に現れている。彼女も罪ある者、迷いの人生を歩む者として、イエスに出会う前までは、多くの過ちを犯してきたことであろう。しかし、イエスとの出会いで彼女は覚醒し、神への道を歩み始めたのである。

 私たちは誰もが皆、マグダラのマリアなのである。

 また福音書には、イエスの足に香油を注ぐ女の話がある。彼女は「罪の女」と呼ばれている。食事をしているイエスに近寄り、彼の足を涙で濡らした、とある。そして涙で濡れた足を髪で拭い、接吻して、香油を塗った。

イエスを招いた人物は、この様子を見て心の中で思った。

(もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女だかわかるはずだ。それは罪の女なのだから)

 そんな彼の心の内を見抜いたイエスはいう。

「この女を見ないか。私はあなたの家に入ってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙で私の足を濡らし、髪の毛で拭いてくれた。あなたは私に接吻してくれなかったが、彼女は私が家に入った時から、私の足に接吻してやまなかった。あなたは私の頭に油を塗ってくれなかったが、彼女は私の足に香油を塗ってくれた。それであなたにいうが、この女は多く愛したから、その多くの罪は赦されているのである」──

 この女がマグダラのマリアだったのかどうかは、明確なことはわからない。しかし、ここで私たちは、自らの傲慢な心をすべて捨てて、救い主に自分のすべてを捧げることが大切なのだと、思い至るべきである。

無から有を創り出したイエスの愛

 イエスのマグダラのマリアへの愛は、まこと人間のなしえることではなかった。なぜならば、そこには無から有を生み出す神の業にも匹敵する奇跡が隠れているからである。

 マグダラのマリアは娼婦であったともいわれており、身分の卑しい、常識的な人間なら近づきたがらないような女性である。

 そうした人物にイエスは近づき、最愛の人としたのである。これはまさに驚天動地のできごとであった。

 イエスのような神の子たる人物が、娼婦との噂もあるような女性を愛するなどということは通常、考えられない。このようなイエスの愛は、他に類のない独創的なものとしかいいようがない。

 まさに、神の子のみがなし得ることである。

 ここで私が独創的と表現するのは、こうしたことは神にしかなし得ないからである。これはまさに、無から有を創り出す神の業に匹敵するからである。

 人間は、無から有を創造することは絶対にできない。「黒」「白」も「暑い」「寒い」も、何もないところからは考えることも不可能である。

 何もないところからイメージを発現するだけでも、神にしかできない大変な奇跡である。イエスは、そのような〝娼婦への愛〟を創造し、現実化してしまったのである。

 ここに、神が実在するという絶対的な証明がある。否定できない確証がある。

 イエスは絶対愛をイメージし、現実化した。それが形となって現れたのがゴルゴタの十字架であり、そこにかけられたイエス自身であった。

 無から有を創り出すのは神にしかできない。イエスは無から絶対愛を創り出したのである。ここに絶対愛の創造の真実が実在する。

 これはまさに、人類にとって神秘の福音ともいうべきものである。

対極の位置で魂の交歓を持ったイエスとマグダラのマリア

 イエスとマグダラのマリアは、まさにプラスとマイナスの両極であった。何事も、両極がなければものごとは生まれない。男と女がいなければ、子どもは誕生しない。SとNがなければ、磁力は生まれない。そしてプラスとマイナスがなければ、電流は流れないのだ。

 イエスとマグダラのマリアは互いが引き合うことで、人類を原罪から解放させたのである。イエス一人でも不十分であるし、マグダラのマリアだけでももちろん、何も変わらなかった。

 イエスとマグダラのマリアは、お互いの中に自らが必要としているものを見出したのであろう。

 イエスはマグダラのマリアの中に、人間の持つ哀しみを見出した。それは原罪から解放されない、欲望に翻弄される魂の痛ましさであった。娼婦であるとも噂された彼女は、底辺の人間の持つ辛さや苦しみを誰よりもよく知り、希望を知らずに生きていく絶望感とともに、生きていたのかもしれない。そんな彼女を、イエスはすべての人間に共通する苦悶をたたえた女性として、愛したのではないだろうか。

 そしてマグダラのマリアは、イエスを、人生で見たことがない至高の男性として仰ぎ見たことであろう。病人を癒すなど、人間をあきらかに超越した能力を持ち、どのような人間であろうと受け入れる無限の包容力を持った、唯一無二の男性として、まさに命をかけて愛したであろう。

 イエス逮捕の混乱の中、男性の弟子が逃げたあとでも、彼女はイエスを見捨てなかった。イエスの磔刑を見つめ、イエスのそばに寄った。

 十字架にかけられたイエスをマグダラのマリアは下から見上げた。これはまさに象徴的な図式ではないだろうか。いと高き世界にいるイエスを、娼婦ともいわれた女性であるマグダラのマリアが見上げたのである。この二人はまさに対極の位置で互いを見つめ合い、電流が流れるような魂の交歓を持ったことであろう。

 イエスはマグダラのマリアに〝人間〟を見出し、マグダラのマリアはイエスに〝神〟を見出した。この二人の出会いが、のちの人間界を大きく変えたのである。

イブ、聖母マリア、そして──マグダラのマリア

 聖書の中では、イブが原罪を創ったが、一方で聖母マリアが原罪を負っていない汚れなき存在として登場する。

 イブと聖母マリアは、まさに対極にある。そしてその間に、マグダラのマリアが揺れ動いているように私には思えるのである。つまり、イブから聖母マリアへの道のりを、マグダラのマリアは歩んでいるともいえるのである。

 これはまさに、人間の進化の道程を模しているのではないか。

 人類は、イブの時代に原罪を背負い、イエスの出現によって解放された。そして、目指すべきは聖母マリアの境地であろう。

 しかし現代のわれわれは、まだイブと聖母マリアの間にいる。まさにマグダラのマリアの世界で、揺れ動いている。

 私たちは、マグダラのマリアの時代から、どれほど進化したことだろう。たしかに、科学技術の発達にはめざましいものがある。昔なら治せなかった病気も治せるようになり、人類は宇宙にも進出し、多くの科学知識を得るようになった。しかし、魂はどうであろう。私たちの魂は、マグダラのマリアの時代からいささかでも進化したであろうか。

 マグダラのマリアはあるいは人類進化の究極的な形として、イエスを見出したのではないか。あるいは、聖母マリアを見出していたのではないだろうか。そうであるとしたら、彼女の視線は私たちを飛び越え、遥か彼方の未来における理想的な人間を見つめていたということになろうか。

 私たちは、マグダラのマリアという女性に今一度視線を向け、彼女の持つ奥深いメッセージを魂で受け止める必要がある。

イスカリオテのユダ

 イスカリオテのユダ──聖書の中でこの人物ほど、悲劇的なたたずまいを備えた人物は他にいまい。

 イエスを裏切った男。師を銀貨三〇枚で売り、その自責の念に耐えかねて、自ら命を絶った男。後世、ユダの名は裏切り者の代名詞になった。

 彼は極悪人だったのか。天から降臨した神の子を売り、十字架にかけた人類の敵だったのか。

 彼を思うと、私は果てしない悲しさを覚える。

 彼がなにゆえ、イエスをユダヤ教幹部に売ったのか、はっきりしたことは永遠の謎である。イエスに現実的な社会活動家としての行動を期待したが、その意思のないことに失望したのかもしれない。あるいは本当に神の子ならば、天国より援軍がきて、ローマ兵を蹴散らすであろうから、その光景を見たいと思ったのかもしれない。

 わかっていることは、彼はその後二〇〇〇年あまり、汚名を着ているということである。

 けれども、聖書は、裏切り者はユダ一人ではなかったことを伝えている。ペテロとて、イエス逮捕後に彼の仲間ではないかと疑われて「自分はあんな人は知らない」と繰り返し、必死になってイエスと自分の関係を否定したのである。イエス逮捕後、弟子たちの多くは逃げたのである。

 人間は弱い。ユダも、ペテロも、そして私たちも皆弱虫で、自分勝手だ。

 けれども、弱く身勝手な私たちだからこそ、キリスト教を生み出すことができたのも事実だ。蓮は泥の中から美しい花を咲かせる。まさに十字架こそは、人間の原罪の中から生まれた魂の散華であった。

 ユダがいたからこそ、イエスは十字架にかけられ、人間は原罪から解放された。いわばユダこそは人類の功労者という見方も、できるわけである。彼は弱かった。イエスを裏切った理由が何であれ、彼は弱い人間だった。そして彼の弱さこそが、のちの人類の歩みを決定したのである。

神とイエスと私たち

 キリスト教とは、不思議な宗教である。残虐極まりない死刑具に祈りを捧げているのだから。

 そう──十字架とは、死刑具にほかならない。イエス出現以前は、十字架とは罪人を張り付けて死に至らしめる道具でしかなかったのである。

 キリスト教の誕生とともに、十字架は崇高な宗教性を持った。死刑の道具が愛の象徴になるなんて、こんな逆説があろうか。

 ギロチンや電気椅子に祈りを捧げ、愛を見出すなどということが考えられようか。キリスト教は、そういう宗教なのである。

 もちろん、キリスト教の十字架は、抽象性が極限まで高められ、シンボル化している。

 十字の縦の線は神と人のつながり、横の線は人間同士のつながりと考えると、このシンプルな形状が実に人間愛の象徴として唯一無二のデザインであることに、驚かざるを得ない。

 神と人、人と人──これこそが愛の形でなくして、なんであろう。

 宇宙のすべては、この二つの関係であり、これ以外にありえない。人間は神から宇宙を賜り、自分以外の人々と愛を以て生きていくことが聖なる義務として課せられている。宇宙の森羅万象は神と人、人と人の関係性の中で無限の変化と進化を遂げている。

 宇宙とは、それ自身、永遠にして無限の十字架なのだ。

 イエスは自らの死を以て、永遠無限の十字架を地上に降ろして、その存在を明らかにさせたと考えることもできよう。

 イエスの死は、永遠なる世界と、この地上の諸行無常の世界を結びつけた空前絶後の出来事だった。そして十字架こそは、二つの世界の間にあるドアを開ける鍵なのである。

 イエスは、私たちに永遠の世界を開ける十字架という鍵をもたらした救世主であった。私たちは、イエスから受けた十字架という鍵を使って、神の支配する王国に入らなければならない。

 祈りとともにこの鍵を回し、永遠の世界に足を踏み入れなければならない。

 宇宙は無限の多様性にあふれ、何もかもが唯一無二の存在として光を放っている。しかし、その存在の究極を求めれば、すべては縦の線と横の線を組み合わせた十字架というシンプルな形に集約される。すなわち神と人、人と人である。

 人間は十字架を通して、地上の世界と天の世界を往来することができるのである。十字架とは、有限の中に無限の価値を宿したものなのである。

さまざまな十字架

 十字架には、さまざまな意味が隠されている。それは十字架がシンプルで単純であるだけ、その背後に実に多様な世界を包含することができるからである。愛の十字架、喜びの十字架、理解の十字架、幸福の十字架──

 一つの十字架の背後には、いろとりどりの多くの世界が見えるのである。

 まず十字架は、愛の象徴であることは論を待たない。

 十字架とは、なによりも愛を表したものである。神と人の愛、そして人と人の愛。イエスは十字架を背負うことによって、人類を原罪から救った。エデンの愛が、復活したのである。

 神の偉大な愛が、ここに表れている。

 そしてまた、十字架は喜びを表してもいる。原罪から解放された喜びを、あのシンプルなデザインは表現している。十字の形に沿い、神に対して、そして人々に対して自らの喜びを表現していると考えることができる。

 さらに、全宇宙に対する人間の理解を表している。縦の線は神に対する理解である。人間が神に対して持つ理解の高さ、深さである。そして横の線は人間同士の理解である。世界のすみずみまで、さまざまな人間との理解を深めることが、求められるのである。

 人間にとって愛と理解は車の両輪だ。人は人を理解することによってさらに愛し、愛することでさらに理解する。

 こうしたさまざまな十字架が最終的に到達するのが、幸福の十字架である。

 神と人、人と人の愛と理解が深まり、人は新たなる生命を受け、喜びにあふれる。このとき、人は究極の幸福を知るのである。

 このように、宇宙の眼に見えない次元には神と人、人と人をつなぐ無数の十字架が存在し、光を放っているのである。イエスは、その事実を自らの命と引き換えに示したのである。

私はなぜキリスト教を信じるのか

 私はなぜキリスト教を信仰するのか?

 それに関しては、私はみずからの生い立ちをひもとかなければならない。

 私がキリスト教を信仰するのは、私の祖父が、旧制第一高等学校を卒業後、京都帝国大学で哲学者である西田幾多郎の下で哲学を、同じく哲学者の波多野精一のもとでキリスト教宗教学を学んだことが大きく関係している。

 十代で父親の急死という現実に直面した祖父は、死というテーマを前にして哲学の道を歩むことが人生探求だと決意し、西田幾多郎の門を叩いたのである。

 そこには西田幾多郎、波多野精一、田辺元という西田哲学の最盛期の錚々(そうそう)たる面々が集っていたのである。

 また祖父は、第一高等学校で教鞭をとっていた思想家の内村鑑三の唱える「無教会主義」にも強く影響された。それは、十字架上のイエスと正面から向き合うことだけがキリスト教の真実であるということだった。

 このように優れた哲学者や思想家の影響を受けた祖父は、独自の思想を構築した。それは西田幾多郎の西田哲学と、内村鑑三の無教会主義を融合、結合したものであった。その独自の立場から、祖父は神を捉え、人生を捉えようとしたのである。

 しかし、日本が大正から昭和にかけて軍国主義が蔓延する中で、治安維持法という国家権力が哲学・思想のみならず学問そのものを弾圧する時代が訪れ、西田哲学の門下生の多くの前途有望な優秀な学者たちが国家に対する危険分子と見做され、犠牲になってしまったのである。

 私の祖父も、その不幸な時代の犠牲者の一人であった。

 一高からはじめて西田の門をたたいた先輩の哲学者、三木清が獄死したことをはじめ、一高の同期生であり、親友でもあった尾崎秀実がゾルゲ事件で処刑され、羽仁五郎が投獄されたような混沌とした時代の中で西田哲学とキリスト教をいかに統一させるか、祖父は真向から神問題と格闘せざるをえなかったのである。

 治安維持法という国家権力の弾圧の前に純粋な学問が砕けた汚名を回復し、犠牲となった祖父たち、西田の門下生達の魂の叫びにレクイエムの意味をこめて光を当て、祖父が果たせなかったキリスト教の夢を貫徹することが孫の私の使命であると思ったのである。祖父は西田幾多郎のもとを離れた後、白樺派の文人である柳宗悦の推薦により南満州鉄道の総裁の家に婿養子に入りながらも、学究の徒を貫き、その家も離れ、敗戦後、孤高の哲学者としての道を一人歩み続け、一九九〇年、八九年の生涯を終えたのである。

 そのような祖父が生前、私に繰り返し繰り返し語っていたのは、「ゴルゴタに於ける三つの十字架がキリスト教の本質である」。イエスが人類の原罪を背負い、十字架にかかったゴルゴタの丘の三つの十字架に真実の神の愛があるということであった。

 十字架上のイエスを中心に、左右の罪人が磔になったゴルゴタ。片方の罪人はイエスと同じ十字架の贖罪の道を歩み、もう片方の罪人は、イエスを裏切りながらも結果的に十字架につけられる。私たちは、この二人の罪人のいずれかの立場に立たされ、イエスを十字架につけるか、自らが十字架を背負うか、人生の決断の場に立たされる。この三つの十字架によって人類の運命は決定され、キリスト教に於ける絶対愛は完成するということであった。そしてキリスト教に於ける絶対愛の真理とは、私たち人類全てが心から「生まれてきてよかったな」と神に感謝出来ることであり、人生の本質とは、私たち一人一人がゴルゴタに於いて十字架につくことであり、その素晴らしさだと教えてくれたのであった。私が本の表紙にゴルゴタの丘の三つの十字架を繰り返し描いているのはそのためである。そうした独自の思想を持った祖父であったが、実はそのような祖父の、そのまた祖父が、キリスト教と深く縁のある人物であった。

 二宮尊徳の弟子であった彼は、日本にはじめてプロテスタントを伝道し、日本におけるキリスト教プロテスタンティズムに大いに貢献を果たしたアメリカの宣教師ジェームズ・バラが、まだキリスト教が排斥されている明治時代の只中で、キリスト教を布教するために命懸けで横浜の地から箱根の山を越えて、辻説法で大衆にキリスト教を布教している最中、大衆がバラに対して石をぶつけて迫害しているのを救出し、自分の家で数日間バラをかくまったのである。バラは命の恩人として、彼に深い感謝の念と敬意を表し、彼にキリスト教を伝授し、彼と共にバラ女学校を彼の家の隣に設立したのである。私の一家はかくしてキリスト教徒になったのである。

 私の祖父は、いま述べたようにジェームズ・バラのプロテスタンティズムを礎に西田哲学と内村鑑三の無教会主義から独自の哲学を創造し、のみならず、キリスト教を音楽で表現したベートーベンとキリスト教作家であるドストエフスキーの至高の芸術作品を私に教え続けた。こうした祖父の教育により、私にはキリスト教の真髄が伝えられたのである。

そして祖父のキリスト教哲学が未完のまま私に託された。私が今日、数々の著作物で自らのキリスト教観を発表しているのは、実に祖父の祖父から私に至る、五代にわたるキリスト教の継承の結果なのである。

 この連綿たる世代の流れによって、私はナザレのイエスが人類史上に出現した意味を世界に伝える使命感を持ったのである。

ゴルゴタの丘の三つの十字架

 キリスト教の原点は、ゴルゴタの丘に立った十字架である。

 キリスト教の特徴は、〝できごと〟が世界を変えたことである。

 イエスという人物がゴルゴタの丘で十三日の金曜日に十字架にかけられたという〝できごと〟が世界を変えたのである。日本人がどうしてもキリスト教になじめない一つの理由として、遥か昔の遠い国の、わずか一日の出来事が、その後の世界を変えたという事実を受け入れることができないということが挙げられよう。なぜ、自分たちの運命が遥か昔、遠い異国の見知らぬ人物の死刑と関連しているのであるか。どう考えても、そんなこと、あり得ることではない。

 そのあり得ない出来事を受け入れるのが、キリスト教というものなのである。

 聖書に出てくるイエスの物語は、象徴と捉えることができよう。イエスの死は歴史上の事実であろうが、同時に、私たちの眼に見えない世界で大きな変化が起こっていた。イエスの死は、その変化を地上に伝えるためのものだったと考えることができないであろうか。

 そして、やはり、このとき私たちの世界と眼に見えない世界をつなぐのは十字架なのである。

 ゴルゴタの丘では、三本の十字架が立てられた。中央がイエス、両脇は犯罪者であった。

 ここで、十字架が三本とは私にとって象徴的である。私が生涯をかけてとりくんでいるのは「神の解釈」「神の探究」そして「人生の究明」だからである。この三つのテーマこそが、私が命を削ってでもなしとげるべきことである。私は言わば、三つの十字架を背負って人生を生きているのである。

 私のこれからの人生は、この三つの十字架の重みを感じつつ、日々一歩ずつ前進することに、すべてが費やされるであろう。

 キリスト教は国家権力の弾圧を常に受けてきた宗教であり、時の権力者がことごとくキリスト教を弾圧してきた。

 西田哲学も、治安維持法という日本の暗黒時代の国家権力の弾圧を受けた学問、思想体系であった。日本に於いて、無知蒙昧(むちもうまい)な民、百姓が踏絵を踏まずして自分の死を賭してまで頑(かたく)なに信念を曲げなかった理由、西田門下生が哲学の信念を貫(つらぬ)くため権力の弾圧に耐えた精神的根拠とは、ゴルゴタの丘の上で十字架上のイエスが絶対愛を貫き通した生き様、精神と同じだと思える。

 キリスト教弾圧と西田哲学への弾圧。二度とそのような時代になってはならない。私は、この本が売れないことはわかっている。西田哲学の継承者の孫としての義務と使命から、この本を書いた。私の祖父が道半ばにして挫折したゴルゴタ論を貫徹することが私の使命である。

 人は皆、自分の十字架を持っているが、いつか、その十字架の重みから解き放たれる時がくる。私もいつか、自らの十字架の重みから解放される日がこようが、それは死という形でしか訪れることはない。まさにゴルゴタの丘まで、この十字架を背負う覚悟を、私は持っているのである。

 私の祖父も、そのまた祖父も、すでに天国の住人である。そうした人たちに対して、私は恥ずかしくない人生を送らなければならないのである。さもなければ、私自身がこの地上を離れ、天国へ入ったとき、彼らに会わす顔がないからである。

 私のキリスト教は、私の人生を賭けたものである。私は、自分に課せられた十字架の重みと、そしてこの十字架を背負うことの誇りを胸に、今日も道を歩み続ける。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2014/01/22

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伊藤 飛鳥

イトウ アスカ
エッセイスト。1965年生まれ。日本ならびに米国で活動。 主な著書は、「愛の十字架」「エデンの愛」。*

2013年、日新報道社より刊行。『「マグダラのマリア」ゴルゴダの聖女』からの抜粋。

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