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〝愛〟と〝戦〟と〝死〟

 ――宮沢(みやざわ)賢治(けんじ)作『(からす)の北斗七星』に関連して―― *

 * 学徒出陣に際して一九四三年十一月十日、第一高等学校文二のクラス会が開かれた。佐々木八郎は、席上このエッセイを朗読した。宮沢賢治諭に託して述べた、一種の遺書であると思われる。

 宮沢賢治はその生い立ち、性格から、その身につけた風格から、僕の最も敬愛し、思慕(しぼ)する詩人の一人であるが、彼の思想、言葉をかえて言えば彼の全作品の底に流れている一貫したもの、それがまた僕の心を強く打たないではおかないのだ。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という句に集約表現される彼の理想、正しく、清く、(すこ)やかなもの――人間の人間としての美しさへの愛、とても一口には言いつくせない、深味のある、東洋的の香りの高い、しかも暖かみのこもったその思想、それが、いつか僕自身の中に(はぐ)くまれて来ていた、人間や社会についての理想にぴったりあうのである。そして右に写した『烏の北斗七星』という童話の中に描き出された彼の戦争観が、そのままに僕の現在の気持を現しているといえるような気がするので、ここにその全文を書き写した次第なのである。僕は一時〝(からす)〟という異名を頂戴した事がある。そして今は海軍航空に志願している。そんなつまらない所まで似ているかも知れないが、次に宮沢賢治の「烏の北斗七星」における戦争観を敷衍(ふえん)して、僕の今の気持を記して見よう。

 副次的要素としては、大尉と砲艦のリーベも僕の現在に縁がないでもないが、それはここでは省略する。僕の最も心を打たれるのは、大尉が「明日は戦死するのだ」と思いながら、「わたくしがこの戦に勝つことがいいのか、山烏の勝つ方がいいのか、それはわたくしにはわかりません。みんなあなたのお考えの通りです。わたくしはわたくしにきまったように力一ぱいたたかいます。みんな、みんな、あなたのお考えの通りです」と祈る所と、山烏を(ほうむ)りながら「ああ、マヂエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなどは何べん引裂かれてもかまいません」という所に見られる、「愛」と、「戦」と、「死」という問題についての最も美しい、ヒューマニスティックな考え方なのだ。人間として、これらの問題にあたる時、これ以上に人間らしい、美しい、崇高な方法があるだろうか。そして本当の意味での人間としての勇敢さ、強さが、これほどはっきりと現れている状景が他にあるだろうか。「童話だ」とあっさり片付けまい。

「愛」「戦」「死」の本当に正しい、清い、(すこ)やかな心情の所有者に写る姿は、(まさ)にこうなければならないと思う。

 もちろん、僕は、戦に勝つ方がいいか、負ける方がいいかを知らないとは言わない。どの民族も、どの国家も、全力をあげてその民族、その国の発展をはかってこそ人類の歴史に進歩があるのだと思う。あくまで積極的に戦いぬくべきだと思う。しかしながら、果して我々が勝つか負けるか、その問題になるともはや何とも言えない。むしろ我々経済学徒は、世界史の発展の原動力は何か、また戦争は何故起らねばならないか、そして戦争の帰趨(きすう)那辺(なへん)にあるか、戦争の勝敗の鍵は何か、そういった問題を研究し、それが生産力――それも一工場内の、あるいは一工程における、眼に直接見える生産力ではなく、国家の総力の具体的表現とも言うべき、国民経済的生産関係の有する生産力である事を知ると共に、またそれが個々人の理想主義的努力を超えた、運命的、必然的な力である事を知ったのである。もはや我々は、我々個々人の力がそれほど有力なものと自負する事も、我々の努力が直ちに我が国の勝利と東亜諸民族の解放とを約束すると信ずる事も出来ない。ただ我々の期待出来るのは、一国民としての立場を超えた世界史的観点において、我々の努力は、我が国の努力は、世界史の発展を約束するであろうという事のみである。田辺元(たなべはじめ)〔哲学者。京大教授。一八八五-一九六二〕の哲学と一緒にされてはちょっと心外であるけれども、ここで我々は真に国民にして同時に世界人である事が出来るのである。我々がただ日本人であり、日本人としての主張にのみ(てつ)するならば、我々は敵米英を憎みつくさねばならないだろう。しかし僕の気持はもっとヒューマニスティックなもの、宮沢賢治の烏と同じようなものなのだ。憎まないでいいものを憎みたくない、そんな気持なのだ。正直な所、軍の指導者たちの言う事は単なる民衆煽動(せんどう)のための空念仏(からねんぶつ)としか(ひび)かないのだ。そして正しいものには常に味方をしたい。そして不正なもの、心(おご)れるものに対しては、敵味方の差別なく憎みたい。好悪愛憎、すべて僕にとっては純粋に人間的なものであって、国籍の異るというだけで人を愛し、憎む事は出来ない。もちろん国籍の差、民族の差から、理解しあえない所が出て、対立するならまた話は別である。しかし単に国籍が異るというだけで、人間として本当は崇高であり美しいものを尊敬する事を怠り、醜い卑劣なことを見逃す事をしたくないのだ。

 では何のために今僕は海鷲〔海軍航空隊〕を志願するのか。そういう風に、僕の今の気持は、日本人ではあるが、狹いショーヴィニズム〔排外的で偏狭な愛国主義、民族主義〕を離れた気持になるのであるからには、僕の現在とる態度も純粋に人間として、国籍をはなれた風来(ふうらい)の一人間として、カーライル〔イギリスの思想家・歴史家。一七九五-一八八一〕ではないが、父も知らぬ、母も知らぬ、この世に生れた一人の人間として、偶然おかれたこの日本の土地、この父母、そして今までに受けて来た学問と、(きた)えあげた体とを、一人の学生として、それらの事情を運命として(にな)う人間としての職務をつくしたい、全力をささげて人間としての一生をその運命の命ずるままに送りたい、そういう気持なのだ。そしてお互いに、生れもった運命を背に担いつつ、お互い、それぞれにきまったように力一ぱい働き、力一ぱい戦おうではないか、そんな気持なのだ。つまらない理屈をつけて、自分にきまった道から逃げかくれする事は卑怯(ひきょう)である。お互いに、きまった道を進んで、天の命ずるままに勝敗を決しよう。お互いがお互いにきまったように全力をつくす所に、世界史の進歩もあるのだと信ずる。一箇の人間として、どこまでも人間らしく、卑怯でないように、生きたいものだと思う。

 世界が正しく、良くなるために、一つの石を積み重ねるのである。なるべく大きく、(すわ)りのいい石を、先人の積んだ塔の上に重ねたいものだ。不安定な石を置いて、後から積んだ人のも、もろともに倒し、落すような石でありたくないものだと思う。出来る事なら找らの祖国が新しい世界史における主体的役割を担ってくれるといいと思う。また我々はそれを可能ならしめるように全力を尽さねばならない。しかし現在の我国の国内態勢には、まだまだ(ふる)いものが振い落されずに残っている。何か心許(こころもと)ないものを感じさせられる。戦に勝ちぬこう、頑張りぬこうという精神ばかりではだめだ。その精神の担う組織、生産関係を、科学の命ずる所によって最も合理的にする事こそ必要なのではなかろうか。ともかく、我々は我々にきまったように力一ぱい働くのみ。それ以上を望む事は神を冒瀆(ぼうとく)するものというべきであろう。

 * 旗と見送り・千人針……召集令状が届くと、多くの者が神社に「武運長久」を祈り 祈禱を受け、先祖の墓に参る。白布に千人の人に赤糸で結び目を縫ってもらった「千人針」を腹に巻けば弾よけになると信じられていた。また出征者は、親族・友人などから「日の丸」の旗の上に、送別・激励の言葉を書いてもらい、その旗を肩からタスキにかけて、隣組・国防婦人会などに組織された近隣者や友人・知人に見送られて入隊するのが例であった。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2013/05/28

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佐々木 八郎

ササキ ハチロウ
 1922(大正11)年生まれ。東京都出身。第一高等学校を経て、1942(昭和17)年、東京帝国大学経済学部入学。残された学生時代の日記には、『資本論』、『列強現勢史ロシア』など、経済学徒らしい読書に加えて、宮沢賢治の諸著作を読んでいたことが記されている。新しきエトスを求め、資本主義と社会主義の検証をしながら、宮沢賢治のユートピアに魅かれてゆく。それでいて「身を国のために捧げ得る幸福なる義務」などという思考停止の精神状態も伺える文言も目につく。「すべては大いなるものの力によって解決される」などと記述されている。1943(昭和18)年12月、横須賀の武山海兵団入団。1945(昭和20)年4月、特攻隊として沖縄海上にて戦死。22歳。

 掲載作は、『きけわだつみのこえ』(1949年10月、東大協同組合出版部刊)に所収されていて、これが初出。『きけわだつみのこえ』は、その後、カッパ・ブックス版(1959年10月、 光文社刊)のほか、岩波文庫版(新版と旧版あり)などが刊行されている。今回の掲載にあたり、底本は、岩波文庫新版(1995年刊)を使用した。作品発表の経緯は、岩波文庫新版の編集者注が参考になるので、掲載した。  なお、宮沢賢治「烏の北斗七星」は、電子文藝館に所収されている。

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