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何処にいて何処へいくのか?

 私たちはいま何処(どこ)にいるのか。

 たとえば、こういう文章がある。

「近ごろ、妙に知識人とか文化人とかもの書きの中に、政治を軽蔑するムードが高まってきた。

 ぼくの考えるところでは、昭和の初めにもそういう形があって、うまく操作されて、世間がいわば暗い時代からの逃避としてエロ・グロ・ナンセンスのほうに行っちゃって、もの書きのほうは軍部をただ軽蔑し、あるいは軍部をあやつっているつもりで、しかし実はあやつられていた」(野坂昭如『風来めがね』)

 このように、現在と昭和初期との類似を語り、次に来たるであろうものを予感する文章は、ひとつのパターンにまでなっている。今年(昭和四十九年)の八月十五日に、東京新聞に鮎川信夫氏も、同様の視点で書いている。

「軍事大国だったかつての歴史を顧みるなら、ほぼ三十年という歳月は、日露戦争の勝利から帝政満州国を実現するまでくらいの期間に当っている。(略)それからの十年が、破滅に向ってまっしぐらにつき進んだことを思えば、現在、私たちが立っている境位がどのようなものであるかをさとる一つの手がかりくらいにはなるはずである」(『三十年目の八月十五日に』)

 たしかに、そのようにいいうる材料に、私たちは事欠かない。靖国神社法といい刑法改正案といい、なんとも足早に現実がこうした感じ方を保障しはじめている。

 しかし、昭和初期と現在とでは、あまりに多くの条件が相違していて、かつてのナチズムや日本的ファシズムが、同じ姿で復活することはないはずである。もちろん、前記両氏も、帝国日本の再現などということをいってはいないが、現在、私たちが何処にいるのか、と考えるとき、昭和初期をよすがにしすぎることは警戒すべきことのように思える。

 次にやってくる本当の脅威は、決してかつての「悪い時代」である昭和初期の姿をもってたちあらわれはしないからである。

狼をばかり警戒していたら、いつの間にか白アリに屋台骨まで(むしば)まれていた、というようなことが起こるのではないか。

 歴史はさまざまなパターンをもっている。

 私たちが、先行きを判断するとき、多少とも、そうした過去に学ばざるをえないことは事実としても、多くのパターンのうち、たかだか四、五十年前のひとつのパターンとの類似にばかり気持がいくというのは、(日本だけの現象ではないらしいのだが)なにか判断を狂わす単純化があるのではないか、という思いがある。

 鶴見俊輔氏が朝日新聞の八月の論壇時評を「エゴの役割」と題して書いている。

 本田靖春氏の「阿波徳島の〝選挙踊り〟始末記」に触れ、今年の参議院選挙で「ディケンズ風のエゴイストがおおっぴらに活躍していたこと」を評価しているのである。

「オレは後藤田(元警察庁長官)から二十万もらった。久次米派は酒五本だ」というような発言が、農協の理事会でわるびれず発言されたという。

「こういう記事を読んでいると、私のような戦中派は、元警察庁長官がこんなことをしてとおっているくらいなら、政府も国体を守るために一億玉砕も辞せずなどという声明を簡単にはまだ当分はだせないだろうという安心を感じる」「私生活の利益を守る思想を貫徹して生きる人が戦前にくらべて格段にふえた」「公の規範を自分の責任において支える、力のあるエゴを育てることは、それがむきだしのエゴイズムになる場合のマイ

ナスにもかかわらず、必要だと私には思える」

 これも私には、かつての狼を警戒し、その姿の遠いことに安心をするという思考パターンから脱け出していない文章に思える。

 たしかに時代の強制に個人が抗する最後の拠点は「エゴ」であることを私も否定しない。しかし、徳島の選挙に見られるようなエゴが、かつての「一億玉砕思想」からいかに遠くても、時代が悪くならないという保障は少しもないのである。徳島の選挙に見られるようなエゴが、たとえば都会のサラリーマンにおいてはどんなあらわれ方をするかを見てみよう。

『展望』(九月号)に田原総一郎氏が、大学時代の友人から数年ぶりで手紙をもらったという話を書いている。その友人は大企業の副部長になっており、同じ参議院選挙に「テレビのクイズで名を売った女性タレント」を選んでくれ、という依頼を田原氏にしてきたのである。

「わたしは、若い女性タレントの写真を刷り込んだチラシに、わざわざ『頼むよ、な』とふざけた調子で書いているのを見た途端に、これは許せない、この友人はいったい何を考えて生きてきたのか、彼が学生時代にわたしたちにさかしらにいった数々の台詞はいったい何だったのか、と、ともかく電話で一言いわなければおさまらない気持になったのである」

 すると、その友人は、管理職は一人三十通ずつ手紙を書くようノルマづけられていると弁解し、

「それに、誰だって手紙の効果なんか信じちゃいないのさ。あんな小娘のタレントのために本気で会社と喧嘩するのも馬鹿らしいから、無駄を承知で、いや無駄だとわかっているからこそ、ノルマをこなしているだけなんだ」という。

 それが無駄ダマでなくなるのが大企業のこわさなんだ、と田原氏は思う。大企業の副部長の無駄ダマを受けた下請業者は、それを無視できないかもしれない。現実に、その女性タレントは当選している。その当選に、大企業副部長の「無駄ダマ」がなんの力ももたなかったといえる証拠はない。

 しかし、それでも副部長は弁解するだろう。「当選したところで、あの小娘になにができるか」と。

 この副部長の行為と、徳島の、金で右往左往した人々と、どれほどの差があるだろうか。副部長の場合に、多少の意識の屈折があるという程度で、私には同じ「エゴ」の「貫徹」というように思える。この種のエゴに「一億玉砕」に抗する力がはたしてあるのだろうか? 私には、少しも「安心の種」などとは思えない。

 副部長の言動は、むしろ時代を動かしている「実力者」の横車を受け入れるときの私たちの姿勢をよく語っていると思う。

 その副部長も無駄ダマが無駄ダマではなくなるかもしれないという程度の認識がないはずはないのである。にもかかわらず無駄ダマと思っていると弁解したのは、「私生活の利益を守る」ための半ば意識された自己欺瞞(ぎまん)であり、そしてその自己欺瞞を支えているものは、そうそうきれい綺麗なことをいって生きていけるかよ、といった小さな成功者の現実主義である。

 この種のエゴイズムが全体主義に抗する力などたかが知れている、という思いが強い。

 たとえば、先日、金芝河氏に対する韓国政府の弾圧に関連して、ペンクラブで脱会さわぎがあった。そのことについて、週刊誌で松岡洋子氏の談話がのり、記憶で書くのだが、なぜ脱会をするのだろう、なぜクラブの信頼を裏切った人を除名するとはいわないのだろう、というような要旨で、ドキリとした。

 所属している団体の会員に不正があったとき、その会員を除名することによって団体の体質を改めるというのが、おそらくいちばん筋道の通る解決のはずである。しかし、現実には脱会者がマスコミの注目を集め、居残った人たちは、当座なんとなくいさぎよくないような印象をあたえた。脱会者に抵抗精神があるかに見えた。

 後日、野坂昭如氏ら数人の作家がペンクラブへ入り、内部から体質の改善をはかると発言した記事が新聞にのり印象は変化したが、当時松岡氏の談話は私の目に触れた唯一の脱会者に対する批評であった。

 考えてみれば、脱会者にとってペンクラブを脱けることは、ほとんど精神力を要さぬ、いたくもかゆくもない行為である。「かっこいい」印象をあたえた分、処世的に見てもプラスの多い行動であった。鶴見氏の評価する徳島風のエゴイストの抵抗というものは、現実的には、この辺どまりなのではないか、という思いが私にはする。

 つまり、時代が悪くなると「おりる」のである。しかし「おりる」ことで示した抗いの力などたかが知れているので、時代は一向に方向など変えない。戦時中筆を折っていた作家の姿勢が、ペンクラブ脱会者の姿勢と見合うといってもいいだろう。

 ひとりの人間のエゴの貫徹は、いちばん徹底しても、その種の形以上には出ず、そのエゴが集団となり、エゴを基盤としてひとつの抵抗力となるためには、エゴだけでは足りない、べつの思想やイデオロギーを必要とするのではないか、と思う。

 では、入会して内部から体質をただすといった野坂氏らの行為が、全的に評価しうるか、というと、一体、体質をただす基準はなんなのか、そんなに確たる基準があるのか、というような印象がある。こちらはまた、戦時中、軍部に完全なイニシアティブをとられるよりは、われわれが入ることで少しでも抗おうではないかと、文学報国会(?)とかいうところへ入会して活動した作家を連想させる。

 作家が団体となってひとつの力となろうとする動きには、目先のあらわれ方はどうあれ、なにかしら衰弱した印象を受けるのは、なぜだろうか?

 じゃあ、どうしろ、というんだといわれて、実は、どうしたらいいかわからない。

 自分が何処にいるのかがわからない。ただ、さまざまな表面的動きが、妙にうさんくさくリアリティを欠くものと思え、時代は、一九三〇年代四〇年代とは、少しも対応せずに、悪い方向へ変化していくという思いばかりが強い。

 私はいま主としてテレビのシナリオを書くことで生活をしている。それは、スポンサー、テレビ局の要請の中で書くということであり、その要請をあまり意識したことはないとしても、事実仕事があるということは、要請を満たしているところがあるからにちがいない。

 それは、たとえば左に引用するような事柄とどれほどの差があるのか、ということを時折考えざるをえない。

 岡本潤の戦争中の日記である。

「秋山は先日一週間ほど、陸軍戦備課から委嘱された仕事で山王ホテルにカンヅメになっていたが、その間、食いたいものは肉でも酒でも甘いものでも何でもあり、まるで『乙姫さんのいない竜宮にいたようだ』という。近頃羨ましい話だ」(昭和二十年一月二十一日)

 二十年の一月といえば、私の一家は芋の(つる)を入れた(かゆ)を食べていたような時代であり、そのころ「食いたいものはなんでもあり」というような暮らしを、軍の仕事をすることで手に入れられたということは、まさしく「羨ましい話」であったろう、と思う。

 しかし、現在の時点で見れば、軍に協力していい思いをした秋山さんも、それを羨む岡本さんも、けしからんではないか、というようなことを中学生でもいいうるのである。と同時に、「当時はあんた、いまの目で批評できるような時代じゃなかった。あのころ、戦争反対だから軍の仕事に協力はせんなどという考えのあった人は、よくよく稀な人ですよ」などという解説者にも事欠かないに相違ない。「いまとなれば、それがどういうことかわかるけどねえ」などと。

 私は、この日記の一節を読んで、いまの私たちと同じではない、とどうしていえるだろう、という思いにとらわれるのだ。

 当時の岡本さんや秋山さん程度に、いやもっと、私は現在がなんなのか、私が何処にいるのかをわからないのではないか、という感慨がある。

 簡単に第二次大戦前夜と現在との照応を考えまいとしながら、では、どのように時代が動くのか、ということについて、手も足も出ないような萎縮した気分におそわれるのである。

 知らず知らず、「軍の仕事をして山王ホテルでいい思いをした」のと同じことを、現在の私もしているのではないか? そういう恐怖が走ることがある。

 テレビドラマによほどの力でもあると思っているのか、といわれるかもしれない。私はテレビドラマの影響力について、過大な幻想は抱いていないつもりである。しかし、何を書いてもいい、というほど、その影響が少ないとも思わない。一枚の皿を焼く陶芸家が、その皿の政治的社会的影響について思い悩んでいるとしたら、やや滑稽な印象をあたえるだろう。私がテレビドラマについて、思い悩むのが、それと同種の滑稽さをも

つなら、幸せである。

 しかし、過小評価をして、居直るまいという気持がある。時代の悪しき動きに対して、少なくともコミットすまい、というように思う。だが、現実には、それは非常に判断のつけにくいことなのである。

「ここまではいいだろう。このくらいはいいだろう」という迷いが、まったくなければもちろん、問題はない。とっくに筆を折っている。現に数年前「テレビドラマの世界に可能性はない」といって筆を折ったシナリオライターがいる。スナックの資金を貯めて退職していったテレビディレクターもいる。彼らを非難する気はないが、彼らがやめたことでテレビドラマは決してよくなってはいない。テレビドラマに可能性があるとすれ

は、やめずに書いている側にあることは明らかである。しかし、それは潔癖な目から見れば、汚濁に満ちた仕事である。「このくらいはいいだろう。ここまではいいだろう」といった、いさぎよくない判断を絶えずせまられながら、不完全な仕事の中で、少量の可能性に()けていくといった(てい)のものである。そして、そんな私がおちいりやすい(わな)は絶えず用意されている。

「作品の発表の場がなくなると、傍観しているわけにはいかないとか、まがりなりにも発表の場をもたなければとかいって、あたふたする。それが芸術家の場合には、転向の第一歩となっていくんじゃないのか。戦争中だって同じなんです。(略)そういう連中は、作れない奴や作らない奴を才能がないからだっていうふうに逆に見て、芸術家として失格しているような口吻を弄する。(略)くやしかったら作ってみろというふうに出

るべきことではないような気がするんです。とにかく作っていない人を、現在心ならずも沈黙している人を大切にするということは同時代に仕事をしている者の義務だと思うんだ」(花田清輝『運動族の意見』武井昭夫との対談)

 私は芸術家ではないが、ここに語られているような事情は、テレビライターの世界にも、そのままいいうることであり、私はその種の謙虚さを失うまいと思っている。

 それにしても、いまの時代が「筆を折る」ほど絶望的だと考えることが、どれほどのリアリティをもっているのだろうか?

 私は現在テレビの世界に嫌気がさして、やめていく人々に、ある種の共感を抱くけれども、この人々が、やめる理由として「テレビには可能性がない」といったふうの大義名分的捨て台詞(せりふ)を吐くのは安直すぎるのではないか、と思う。

 これほど巨大なマスメディアに可能性がないと断ずるのは、不正確である。その中で努力している人間が、溜息と共にその種の感慨を口にするのはわかるが、やめる人間が口にすべきことではないと思う。

 現在のテレビ界は決して絶望的ではないと私は思う。

 たとえば番組に対して大臣の秘書だかから文句がきたということで、番組が変更されたりすることは事実である。

 スポンサーのまことにくだらない要求をのまなければならないというケースもたしかにある。

 私はそれを憎むし、そのような動きに対しては抵抗する。

 しかし、そうしたことをたちまち拡大して、日本のテレビ界には言論の自由がないかのごとくいいたてる絶望論者も同時に憎む。

 彼らは絶望を口にすることで努力を放棄する。現にある自由を使おうとせず、みずから自分の自由を封じこめ、絶望論をふりまき、この「絶望的状況のテレビ界でなお仕事を続けている人間など、ろくな代物ではない」というようなかたちで、努力に水をさすのである。

 これはなにもテレビ界に限らない。

 韓国の言論統制より、もっと陰微なかたちで日本ではさらにひどい言論統制が行なわれているといったたぐいの言葉は、現にある自由さえ使わぬための口実として機能していることに気をつけたいと思う。

 断っておくが、陰微な言論統制がないといっているのではない。しかし、その統制の現実を正確にとらえるべきだといっているのである。

 テレビ界に限らず、たとえば都会生活にうんざりして一家で田舎へ移住したというような人たち、サラリーマンをやめて「独立」をした人たち、つまり「やめる」というかたちで意志表示をした人たちに対する過大評価に抗したいと思う。

 もちろん「やめる」ことは自由だし、私自身もいつ「やめる」かもわからないという予感があるが、その時いい格好だけはすまいと思う。「やめた」世界に対して全的否定に類することはいうまいと思う。やめた人間よりもやめない人間の方が汚れる。しかし、少なくとも現在は、まだやめない人間の方に変革の可能性はあるというように思う。死者が美しく見えるからといって、生きているものが死者にひけ目を感じ、自己軽蔑にお

ちいって、どうせ俺たちゃ泥まみれ、毒をくらわば皿までもというようなかたちで居直ることには抗したいと思う。そうしたところへ 「やめない人間」を追い込むような言論には抗したいと思う。

 清沢洌の『暗黒日記』に、軽井沢に疎開している正宗白鳥を訪ねる一日がある。昭和二十年四月である。

「午後、正宗白鳥氏を訪う。それでなくても風采のあがらない人が、厳寒を高原に送って、むさ苦しい田舎労働者となり終う。(略)

 かれ、その生活を呪う。

『飢えと寒気と戦って、ただ生きてきた』と吐き出すようにいう。(略)

 その生活を書いておいてくれというと『そんな意志も慾望も全然ない。ただ動物の如く生きるだけだ』とかれはいう」

 過去との照応に気が行きすぎるのは排すべきとしても、こうした時代がかつてあったこと、その時の白鳥の絶望がどのようなものであったかを思えば、軽々しく絶望を口にしてはいけないと思う。

 テロリズムを誘致しているのも、「やめる」人生に対する過大評価が力をかしている

と思う。

 もっとも「やめる人間」の言動に敏感すぎる土壌を「やめない人間」の自己軽蔑がつくっていることも事実である。

 そして、その自己軽蔑を醸成しているものは、いわゆる「体制」の強制に屈しているという思いと共に、「体制」の権力者ともども一体自分たちは何処へいくのかということが判然としないという不安定感である。自分たちの未来をつくるのは、自分たちではなく、さまざまな要素の予測不可能な混合体であって、目先の見当以外は、お先真っ暗な中で生きているという状態が自己軽蔑を生んでいる。

 たとえばいわゆるホームドラマが不評をかいながらも続いているのは、そこまでおりてくれば、さしあたってそうした不安定さを回避でき、作品に疑似的安定感をあたえることができるという事情もあるのではないか、と思う。それはなにもつくる側だけの構造ではなく、見る側も求めている欺瞞である。

 はじめにかえっていえば、一九三、四〇年代と現代を対応させ、似ている似ているといいたがる事情も、未来の予測の困難さが、疑似的に求めたよすが(ヽヽヽ)であって、ことによればこれからひらける世界はまったく似ても似つかぬものなのかもしれないという予感を失ってはいけないと思う。

 悪い時代への動きは、常に保守系が音頭をとって進行し、「悪い時代」とは、ナチズムや日本的ファシズムの復活であるというなら、ことは簡単といっては語弊があるにしても、「悪」の相貌の見当がついている。

 そうではない、という思いが、われわれの底流にあるからこそ、ニヒリズムや自己軽蔑が瀰漫するのではないだろうか。

 と、ここまで書いてきて、結局は支離滅裂のごたく(ヽヽヽ)を並べてきたような気分になって

くる。

 つまるところ、なにもわかっていないからである。こんなふうに投げた(ヽヽヽ)ことはいうまい、少なくともわかっていないなどとひらき直るようなことはいうまい、と思いつつ、どうせ一寸先は闇よ、といった構えが誘惑的に思えるような状況が私たちをとりまいている。

 私たちは一体何処にいて何処へいくのか?

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2013/04/08

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山田 太一

ヤマダ タイチ
1934年 東京浅草に生まれる。大戦中の強制疎開で神奈川県湯河 原町に移住し、小田原高校を経て早稲田大学国文学科卒業。1958年松竹大船撮影所 助監督を経て、1965年フリーのシナリオライターとなる。「男たちの旅路」「獅子の 時代」「早春スケッチブック」「ふぞろいの林檎たち」などのテレビドラマを手掛け、小 説に「藍より青く」「岸辺のアルバム」「空也上人がいた」などがある。

掲載作「何処にいて何処へいくのか?」は1974年10月産業能率短期大学出版部 より初のエッセイ集として刊行された『街への挨拶』に所収。底本は1984年7月発 行の中公文庫『街への挨拶』第3版に拠った。

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