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ガリラヤのカナ(抄)

第一章 カナで何が起こったか

ヨハネ福音書の特異性

 ヨハネ福音書は、他のマタイ・マルコ・ルカ各福音書にはない独特のリズムに揺動している。

 ヨハネ福音書以外のマタイ・マルコ・ルカ各福音書は共観福音書と呼ばれるが、ヨハネ福音書はそれらとは一線を画したものとされる。

ヨハネ福音書はその思想性・霊性において、共観福音書をしのいでいる。

 それはまず、あまりに有名な冒頭から開示される。

「初めに(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」

 共観福音書がイエスの系譜など具体的な史実から始まるのにくらべ、ヨハネ福音書序曲は天空から地上に降り注がれた神光のような荘厳な調べに満ちている。

 あたかも宇宙開(びゃく)のビッグバンにも似たスケールから巻を起こした筆致は、一転してイエスを導いた洗礼者ヨハネを映し出す。

 ヨルダン川で多くの人に洗礼を施したヨハネ。イナゴを食らい、皮の帯を締めた荒々しい野獣のような男は、みずからを『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』と称した。

 そしてイエスとみずからを比較して〝自分はその人(イエス)のくつのひもを解く値うちもない〟と唱え、旧約と新約の世界の大いなる転換を予感させるのである。

ユダヤ人を選民ととらえ、その優越性ばかりを強調したユダヤ教の閉じた世界から、全人類の救済を目指したイエスの出現。神と人をつなぐ「神の子」の出現は、人類の大いなる昇華の扉を開いた。

 ヨハネ福音書とは、他の福音書にもましてイエスの神の子としての側面に光を当てたものである。

 神の子イエスの出現と、彼を取り巻く人間たち。多くの人々が織りなす群像の光と影が、ヨハネ福音書を彩っている。人類の「愛」の歴史は、まさにここから始まったのである。

カナでイエスは不思議な会話を交わした

 ヨハネ福音書の第二章――そこに私たちは今、注目しなければならない。

 イエスと弟子たちが婚礼に招かれ、そこでイエスが水を酒に変えるという「奇跡」を行なったとされる話である。

 聖書はおよそ人間イエスの横顔を伝えることは少なく、彼は「神の子」として神秘の衣服をまとって描かれることが多いが、この部分は彼の日常が透けて見えるような断片となっている。

 ガリラヤのカナで行なわれた若者たちの結婚式。人生の門出に立った二人に、イエスも微笑みを投げかけ、祝福の言葉を与えたことであろう。

 そして、それは起こった。宴席に、イエスの母マリアも招かれていたのである。彼女がイエスにいう。「もう、ぶどう酒がありません」と。

 せっかくの祝いの興をそぐぶどう酒の欠乏を、マリアの女らしい心が案じたのである。しかし、イエスはこのとき、不思議な答えを返している。

「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」

 自分の母親を「婦人よ」と呼ぶのである。のみならず「あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」と口にするのだ。

 こんな答えがあるだろうか。

 このあたりの解釈は、専門家でもないかぎり、どうにも消化しきれない。いわれているのは、「婦人よ」と呼びかけることで、母と子という現世的なつながりをすでにイエスが断ち切っているのだという説である。イエスはすでに神の子として自分を捉えており、マリアの子という肉体的な見方を超越しているという考え方である。

 この返答だけでも現代の私たちを悩ませるのに、さらに不可解なのは、次の「私の時はまだきていません」というまったく理解不能な応答である。これも従来の学説では「私の時」をイエスの十字架刑の時と考え、まだその時期ではないとイエス自身が述べたということである。

水をぶどう酒に変えたイエス

 なぜ、こんな言葉をこの時、彼は口にしたのか。明確な解釈が現代の私たちが下せるわけもないが、すくなくとも聖書の記述にしたがえば、この不思議な応答を認めるほかはない。

 マリアはイエスの返事を聞いて、周囲の者に「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」と確認する。マリアは、イエスになんらかの対処法があることを悟ったようである。

 イエスは大量の水を用意させる。そして、その水を指して「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」と周囲の者に命じた。料理がしらはその水を飲み、そして驚いていった。

「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」

 ――水はぶどう酒になっていたのである。

 この話は、イエスが最初に行なった奇跡であるとされる。このことをきっかけに、弟子たちはイエスを信じた、と聖書には書かれている。

 およそ福音書にはイエスの行なった数々の奇跡が記載されているが、その多くは病人を治したり死者を甦らせたりといった、人間の生死に関わるものである。このような日常的な光景での奇跡は、他に見当たらない。

 このカナの婚礼の奇跡は、イエスがみずからが救世主であることを初めて現した出来事であるとして、「しるし」とも呼ばれている。

 イエスの霊性に光を当てたヨハネ福音書のみにこの逸話は登場するが、ここには聖書記者のなんらかの意図があるのだろうか。

想像か事実か

 この出来事は事実なのか?――現代に生きる私たちは、どうしてもそうした観点で聖書を考えてしまう。こんな非科学的な話、信用できない、と。

 しかし、実際に聖書を開く時、私たちはこうした疑問を心の中で半ば封印する。そして、ある種の神話、おとぎ話をたどるような気持ちでイエスの数々の「奇跡」に触れる。

 キリスト教とはそもそも、こうした奇跡を信じることを前提とした宗教である。最大の奇跡は、十字架に掛けられたイエスが死後、甦ったとする話である。

 死者の復活? 荒唐無(けい)だ……現代人から見れば、そうとしか思えない。いや、当時の人々からしたって、やはり荒唐無稽な話だったに違いない。

 しかし、イエスの弟子たちはイエスの復活を事実として主張した。そこには何かある決定的なものを、彼らが目撃したのだと考えるほかない。

 私たちの想像を絶する、何かを。

 もとより宗教とは、その荒唐無稽をもって、私たちの心に迫ってくるものである。現実世界を超越しているからこそ、私たちはその神秘にひきよせられるのである。

 イエスという人物に迫りたいのであるならば、その「奇跡」を私たちは受け入れるよりあるまいというのが、私の現在の観点である。

 ヨハネ福音書に描かれているこのぶどう酒の奇跡も、事実として受け入れることが、聖書を読む私たちには求められているといえよう。

 ここで私たちは、この出来事のさらに奥にあるイエスの意図したことを、追跡しなければならない。

カナの出来事の意義とは

 水をぶどう酒に変えたカナでの出来事。ここには、どんな意味が隠れているのだろうか。

 イエスは水という〝平凡〟をぶどう酒という〝非凡〟に変えた――こう解釈して、自分の弟子たちを、凡人から神の使徒にまで昇華させることを表明したのではないかという解釈も、一つには成立する。

 私はここでもう一歩踏み込み、イエスは人間すべてを旧約的な「罪の子」から新約的な「神の子」に進化させようとしたのではと考えるのである。

 旧約的な世界では、ユダヤ人以外の人間に救いはない。救われるのはユダヤ人のみ、それも煩雑な律法や戒律を遵守した者だけが天国へ行けるというのが指導者の言い分だった。自分たちこそが神に選ばれたという「選民思想」が当時のユダヤ人の世界観の根底にあった。

 こうした差別的な思想を、おそらくイエスは何よりも嫌ったことだろう。人間はすべて救われなければならぬ。ユダヤ人であろうとなかろうと、「愛」の価値を信じ、他者を愛する人間は誰でも神によって救われねばならぬ。そのためには、これまでの固定観念にしばられては駄目である。水を水としてしか見られぬような、旧弊に凝り固まった見方では永遠に救いは訪れない。

 水をぶどう酒に変えたイエスが表明したかったのは、どれほど平凡な「水」――つまり私たち凡人でも、神の力によって「ぶどう酒」になれる、つまり救われるということではないだろうか。

 ヨハネの下でおそらく祈りと瞑想の日々を送り、荒野で四〇日に及ぶ断食を行ない、神の子としての自覚を得たであろう彼は、救いはすべての人々に開かれているという真理を獲得し、そしてその道を開くのはほかならぬ自分であるという自覚を持ったであろう。そして同時に、そのことが必然的に導く自分の運命を見すえたことであろう。

 神の子の運命――それは史上最大の自己犠牲にほかならなかった。

「わたしの時は、まだきていません」

 この不思議な応答はその後に展開される、カナでの最初の奇跡から、死後の復活までの彼の人生を見渡して述べた言葉であるといえる。そこには、いうまでもなく、ゴルゴタの丘での十字架による死が存在する。十字架での刑死を「わたしの時」と見定めた彼は、すでにこの時点ですべてがわかっていた。

 みずからの死によって開かれる万人の救いの道。カナの「しるし」は、その予兆にほかならなかったのである。

第二章 カナはどのような影響を持ったか

この男がメシヤなのか

 カナでの出来事の噂は、おそらくその地方に風のように広まったに違いない。

 ヨハネ教団出身のイエスという若い男が、不思議なことをした。結婚式で、水を酒に変えるという奇跡を行なったという。

 この話、はローマの支配に(うつ)々と耐え、救世主を待望していた当時のユダヤ人の間に交わされたであろう。

 イエスこそが救世主なのか? 自分たちをローマから解放し、民族の誇りを取り戻させてくれるメシヤなのか? 多くの人は考えたことであろう。

 イエスの超自然的な力は、彼の名望を高め、周囲の期待を集めた。のみならず、聖書が述べるように、彼の説法と不思議な魅力に惹かれてついてきた弟子たちも、カナの出来事で決定的な信頼をイエスに抱いたことはたしかであろう。

 ここで私たちは、イエスの不思議に過激な行動を目にすることになる。エルサレムで神殿に入り、その場で商売をしていた牛や羊やハトを売る商人、両替商をムチで追い立て、金を散らし、台をひっくり返したというのである。彼はいった。「私の父の家を商売の家とするな」と。愛を説くイエスらしからぬ行動である。

 怒った商人はいう。あなたは神の子か。なんの根拠があってそんなことをいうのか、と。

イエスは答える。この神殿が壊れたら、私は三日で復元してみせる――

「この神殿を建てるのには、四六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるというのですか」

 商人は呆気(あっけ)にとられた。

 聖書では、イエスは自分の体のことをいわれたのであると解説され、それがのちに訪れるイエスの死と復活の伏線であるかのようにも理屈づけられている。

 イエスのこうした過激な言動は当然ながら人々の耳目を集めたであろうし、敵も味方も作ったことだろう。

ユダヤ教からも注目を浴びたイエス

 イエスの活動は、既存の指導者層にとって自分たちの信仰のあり方を根本から問われるような、脅威をはらんだものだったようだ。

 イエスを迫害したといわれるユダヤ教側の中にも、イエスに興味を持ち、彼の思想を理解しようとした人物がいたようである。

 カナの奇跡を信じたニコデモという人物の話が、聖書に登場する。ユダヤ人の指導者と記されている。彼はいう。

「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできません」

 カナでイエスが行った奇跡を、彼も耳にしていたのだろう。彼自身はイエスを肯定的に受け止めていたことがわかる。

 そんなニコデモにイエスはいう。

「よくよく、あなたにいっておく。だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」

〝新しく生まれる〟という言葉を、ニコデモは字義通りに解釈してしまう。「人は年をとってから生まれることがどうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」と、愚問を発してしまうのである。

 イエスの答えは、少々手厳しい。

「よくよく、あなたに言っておく。だれでも、水と霊から生まれなければ、神の国にはいることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない」

「水」とは、洗礼を表わしていることは容易に想像できる。新しく生まれるとは、まさか字義通りの肉体的な生まれ変わりではない。ここでイエスが言わんとしたのは、洗礼を受けて、霊的な生まれ変わりをしなさい、といったほどの意味である。

 しかし、ニコデモにとりついた固定観念はなかなか強かった。「どうして、そんなことがあり得ましょうか」と、また問うてしまうのである。

 幼いころから受けてきた四角四面のユダヤ教の教育で、彼は宗教に関して自由な発想、柔軟なものの見方というものを失ってしまったようである。このあたり、現代の偏差値教育の弊害を二〇〇〇年前に体現しているようで、興味深くもある。

 イエスは重ねて、自分を信じる者は永遠の命を得ると述べる。こうしたイエスのメッセージは、ニコデモ氏でなくてもあまりに突拍子もないことであったに違いない。

 もし、ニコデモがイエスにユダヤをローマから解放する現実的な社会運動家たるを期待していたとしたら、まったく見当ちがいであった。イエスは現実の社会的な運動でなく、魂の永遠の救済こそを目指した精神の革命家だったのである。

カナの奇跡を経て

 イエスがカナで行なった奇跡は、死者を甦らせるといった派手なものではなく、あくまで日常の風景に溶け込んだものであった。

 イエスが行なった最初の奇跡がこうしたものであったことは、なかなか意味深い。その場の喜びを絶やさぬようにと、まことにさりげなく、イエスはその超自然的な能力を使ったのである。

 しかし、このカナの奇跡こそは、イエスのその後の活動を決定づけたものと、私には思える。

 ここでその人間を超えた力を示すことで、イエスは救世主としての自分をアピールしたのではないか。それも決して社会活動家ではなく、人智を超えた世界からの魂の革命家として人々に来るべき世界を提示することを、表明したのではないだろうか。

 水を酒に変えるという「奇跡」に、イエスは自分の今後の活動の成否を賭けたといっては、いいすぎるであろうか。もし、この奇跡がなかったら、救世主イエス・キリストは歴史に出現しなかったのである。

 私たちははなばなしい奇跡に目を奪われがちだが、カナでの静かな「しるし」は、実に大変な意味を持っていた。イエスは、あるいはカナでの奇跡の成功を得て、メシアとしての自覚を抱いたとすら、考えられるのである。

それほどに、カナでの出来事はイエス個人にとっても、その後の世界にとっても、重大な意味を持っていた。

 結婚という人生最大のイベントと、それを陰から支えた静かな、しかし大いなる奇跡――カナでイエスが見せた「しるし」は、このうえなく美しく、そして偉大なものだったのである。

神の偉大さはすみずみにまで

 水を酒にするなどという、突拍子もないことを行なったイエスだが、その背後にはさまざまな意味が錯綜していたのである。

 ここで私たちが感じるのは、神の愛である。物理的にあり得ないことすら可能にしてしまう、神の絶対愛である。

 カナの宴席は、まさに絶対愛の祝宴だったのである。

 イエスもまだ活動を始めたばかりで、自分の能力に完璧な自信をもっていたわけではあるまい。しかし、彼はあえて自分の力を見せた。この青年の心の中には自分への自信と懐疑、勇気と恐れ、希望と不安といった相反する感情が渦巻いていたかもしれぬが、カナでの成功は青年をメシヤにした。

キリスト教の原点は、カナにあったとすらいえるほどである。

 カナにおいて、イエスは自分の生涯の全行程を直感し、今後自分を待っている運命を静かに受け止めたともいえる。馬小屋から十字架までの一筋の道が、鮮明に見えたやもしれぬ。

 カナでの人々の喜びは、まさにその後、全世界に拡大されねばならぬものだった。

 カナでの人々の歓喜があったからこそ、イエスはみずからの能力に自信を持ち、のちにさまざまな奇跡を行なうことができたといえる。イエスとて、生来完全だったか否かわからない。幾多の経験を経て、メシヤたる自覚を持ち、キリストとして道を歩み始めたのである。

 カナでの出来事は、そんな彼の活動の初期に起こったことであった。婚礼の場で不可能を可能にしたイエス。そこには、若者を心から祝福する人間イエスの愛があった。愛は不可能を可能にすることを、みずから証明し、体験したのである。

 ――神の愛は日常のすみずみにまで及んでいる――

 彼は実感したのではないか。「神の子」とみずからをとらえ、その後の聖なる道を歩むことを決意させたのは、このカナでの出来事だったとも考えられるのである。

第三章 イエスはなぜ、こうした「しるし」を披露したのか

イエスは無私の世界に入った

「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」――

 一見不可解な応答とも思える、このイエスの言葉である。「もう、ぶどう酒がありません」という母親を、彼は〝婦人よ〟とあまりに他人行儀な言葉で呼ぶ。

 ここで私たちは、イエスの自立を目撃したといっていいのではないか。

 ヨハネに出会う前のイエスは、マリアとヨセフの間に生まれた平凡な大工の息子であった。おそらく、ヨセフの手伝いをしながら技術を身につけ、妻を娶り、一家を継ぐことを期待された跡取りだったはずである。

 しかし、ヨハネとの出会いにより、イエスは真の自分に気づいた。おそらく少年時代から気づいていた自分の内側にある巨大な光明に、いよいよ目を向けるようになった。旧約聖書の字句一つひとつに魂を震撼させ、アダムとイブ以来、人間がそこから永久に追放された天国の復活こそ自分の使命であると、思い定めもした。

 イエスは、たしかに生身の人間として生まれた。しかし、いまや彼は通常の人間ではなかったし、そうあってはならなかった。

 人類の原罪を背負って死ぬ――

 このためには、血のつながりにかかわっていることは許されなかった。

 彼は地上で完全に「個」でなければならなかった。親子の情ですら、切断すべきものであった。

 それがために、自分の母親にですら「婦人よ」などという不自然な呼びかけをするしかなかったのではと思われる。

 はからずも、イエスのカナでの振る舞いは、彼の内面のことごとくを露呈したかのようである。

 カナにおいて、イエスは無私の世界に入ったのである。個人としてのイエスはなくなり、人類の救世主キリストという絶対的な普遍的な存在へと、変わっていったのである。

新しく生まれ変わったイエス

 聖書の中に、家族の思いを断ち切ったイエスの振る舞いが書かれている。

「イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。それで、ある人がイエスに言った、『ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます』イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、『わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか』そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、『ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。天にいますわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである』」

 イエスはカナによって、自分の肉体的な繋がりを絶ち、全人類の普遍的な同伴者になろうと決意したのではないだろうか。

 肉より霊の世界に入った、ということができよう。

 もとより、ヨハネの洗礼を受けて、彼は、みずからの内に新しい命が躍動するのを感じたのではないだろうか。ヨハネはおそらく、彼にとって霊魂の父であり、師であった。自身とヨハネの間に特別な繋がりを感じたであろう彼は、すでに肉体の家族よりも、霊的な結びつきに生きようと決意を固めていたことであろう。

 そして、その決意が一層強まったのが、おそらくはカナであった。

イエスは普遍的な世界に生きていた

 彼はどうして、みずからに水をぶどう酒に変えるだけの力があることを知っていたのであろう。

 おそらくは聖霊の力によって、彼は自身の秘められた力を感じていたのであろう。そしてカナにおいてその力を実際に顕現して、なにか大きな悟りに達したのではないだろうか。

 自分こそは――神の子。

 こうした自覚が、押さえようもなく湧きだしてきたのではないだろうか。

 そして、それは歓喜と、そして大きな責任感をともなうものだったと思われる。

 アダムとイブ以来、人間に課せられてきた「原罪」という大きな石。この石から解き放たれない限り、人間は幸せにはなれない。

 そしてユダヤ人のみが選ばれた民族と唱えるユダヤ教幹部。神は果たして、人間の間にそのような分け隔てをするものだろうか?

 イエスはユダヤ人でありながら、ユダヤ人の思考の枠組から完全に自由であった。彼は普遍的な、まさにユニバーサルな意識を生きていたのである。

 旧約聖書はおそらく少年時代からイエスの心を捉えて離さなかった一書であったろうが、彼は旧約聖書の中に本当の普遍を見出したのである。ユダヤ民族の興亡を描いた記述の中に人間と神の関係、そして宗教の真のあり方を見出したのである。

 多くのユダヤ人が、旧約聖書におそらくは律法の表面上の意味しか見出そうとしなかった。しかしイエスは、律法を読んでもその奥にある深い普遍的な愛の精神を救い出した。聖書を絶対視するあまり、その字面にとらわれて、その本質を見ない人が大部分だった中で、イエスは聖書の持つ真のメッセージに気づき、その実践を心がけたのである。彼は安息日に病人を(いや)すこともした。取税人など当時人から卑しめられている人にも、自分から近づいた。

 彼はみずから新しい宗教を作る意識があったのかどうか、わからない。あるいは、ユダヤ教を真にあるべき原点に引き戻そうとしただけかもしれない。

 しかし、彼はユダヤ人やユダヤ教を超えた真に普遍的な世界に生きていた。彼が目指したのは人類の永遠の救済だった。

カナでの歓喜と陶酔

 カナの奇跡で、彼は何を学んだのだろう。

 彼は、この世の中で真の歓喜があるということを知ったのではないだろうか。人生には陶酔するようなひとときがある、ということを悟ったのではないだろうか。

 おそらく、内心抱いていた救世主としての自覚が、カナの出来事で決定的になったのではないだろうか。

 彼は人々に、理解を超えた出来事が存在することを示したかったし、神の絶対愛に不可能はないことをも、証明したかった。神になしえないことはないことを、人々の前で見せたかった。

 カナの「しるし」とは、そんな彼がおそらく全存在をかけて挑んだ奇跡だったのである。

 彼は、ヨハネが象徴する旧約的な、峻厳な神の世界を、カナにおいて転換させたのである。婚礼という人間的な喜びを祝う、人間を愛おしむ、新たなる神の世界の扉を開けたのである。

 旧約的な世界では、人間は生まれながらに原罪を帯びた存在であり、のみならず、ユダヤ人ただ一つが神の民として選ばれていた。そのユダヤ人も、峻厳な戒律や律法を守れなければ、神の祝福を得られなかった。

 だが、イエスが心眼で見つめていたのは、すべての人間の幸せであり、祝福であった。そこには人種もなく、わずらわしい律法もなかった。ただ、人々が愛しあうことだけが必要だった。

 人間が求めているのは、無条件の愛。人種も、律法も超越した愛こそが、人間を救い得るものであった。

 イエスがたどりついたのは、自由で、そして誰しもが神の前では平等である世界だった。そうした世界を、彼は本気で地上に招こうとした。

 その第一歩が、カナだったのである。

限界を超えたカナの世界

「あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」

 この言葉も不可解であり、理解不能である。

 ここで字義通りに受けとれば、まるで親子の縁を忘れたかのような、冷たい言葉のようにも思える。

 しかしここは、〝ぶどう酒がなくなったことが、わたしやあなたとなんの関係がありますか〟と解釈することも可能であるとされる。

「ぶどう酒がなくなった? そんなことぐらい、一体どうした!」

 もしやイエスは、そういったのかもしれない。そんなことで困惑なさるな、と。

 そして、イエスはいとも簡単に水をぶどう酒に変えてしまう。そして彼は「私の時は、まだきていません」といったとされるが、これもわからない。

 あるいは彼の真意は、

「こんなことは朝飯前――これから、本当に、私が真価を発揮せねばならない時がくる」

 ということだったのかもしれない。

 あるいは、自分を鼓舞する言葉だったのか。

 時代の差や、翻訳のせいもあり、現代では私たちは彼の真意を図りかねる部分も多いのはやむを得ない。

 ただ私たちは、字句にとらわれず、難しい論議は学者にまかせて、イエスが真に伝えたかったことを魂で受け止めることが必要である。

 少なくても、イエスはカナでの「しるし」で、みずから救世主という自覚を持ち、その後の活動に乗り出して行ったことは事実と思われるのである。

 イエスは確信したのではないだろうか。愛の力は万能である、と。

 一方で、彼には「わたしの時」も明確に見えていた。十字架上での死という、あまりに(ひど)い運命から、彼は逃げようとしなかった。

 馬小屋から十字架へ――イエスはカナにおいて、みずからの人生すべてを悟り、把握したのである。

第四章 私たちの「カナ」と絶対愛の源泉

イエスは婚礼の場で人々の喜びを守った

 キリスト教の原点はカナにあるといってもよい。

 カナにおいて、イエスは自分の天命を自覚したし、そしてみずからの運命も予見したといえる。

 十字架での死という結末。しかし彼は、運命から逃げなかった。迫りくる権力からの迫害も避けなかった。

「神の子」としての使命が、彼の全生命であったのだ。

 そして、カナにおける歓喜の絶頂をその活動のスタートとしたイエスは、ゴルゴタの丘での十字架刑という極限の痛みで、ひとまず生涯を閉じることになる。そして復活――彼は真の救世主として、甦る。

 こうした人生の構造を、彼はカナで見通したのである。

 カナでの出来事は、その後の世界を考え合わせたとき、実に暗示的である。

 水をぶどう酒にする、というプロセスは、まさに人間にこそ当てはめられるものではないか。

 彼が相対していたのは、まず自分の弟子たちだった。彼らを、真の神の使徒とすることが、まずなすべきことであった。さながら水をぶどう酒へと変化させるように、弟子の育成にも力を注ぐ必要があった。

 そしてその向こうには、人間全体の改革が開かれていた。一つユダヤ民族だけが選ばれた民であるとする狭小な考え方を、彼は全存在をかけて葬らなければならなかった。愛を知る人間は誰でも神から祝福されることを、証明しなければならなかった。

 まさにすべての人間に対して、水からぶどう酒へ変じるように、魂の革命を起こさなければならなかったのである。

 その活動の端緒となる場で、彼はこれから行われるすべての活動の縮図のように、水をぶどう酒に変える奇跡を行なった。私たちはこの美しい、そして神秘的なエピソードをただ通りすぎるのではなく、その奥に湛{たた}えられた深い意味を、まさにぶどう酒のように味わわなければならない。

人生、勝負の時がある

 人間が生きている間には、すべてを賭けて勝負しなければならない時がある。

 それは仕事かもしれないし、恋愛かもしれない。とにかく、安全確実な道がなく、なおかつ、どうしても手に入れなければならないものがあるとしたら、危険を犯して進むしかないのである。

 イエスにとっては、それがカナであった。カナでの「しるし」に成功したからこそ、彼の弟子は一層彼を信用し、民衆も彼の言葉に耳を傾けるようになった。

 もしカナでの成功がなかったら、彼はおそらく当時いくらでもいたであろうユダヤ教の一介の教師で終わったであろう。その言葉も説得力を持たなかったであろう。

 カナでの成功で、彼はみずからの人生を聖なるものとすることができた。カナとゴルゴタという、人生の両端に二つの相反する極致を作り、神の造り上げるドラマの神聖なるを、両方の極北の間で表現することができたのである。

 私たちも、なんとしても自分を主張しなければならない時がある。成功の保証などどこにもなくても、勝負にでなければならない時が存在する。

 そんな時、カナでのイエスを思い出そうではないか。

 彼は裸で、これからの人生に立ち向かったのである。なんの味方もなく、合理的手段もなく、不可能と対決したのである。

 カナでみずから出現させたぶどう酒に、彼は酔ったことであろう。その時味わった陶酔が、その後の彼を支えたかもしれない。

 彼はその時、歴史上誰も歩まなかった道を歩もうとしていたのである。カナでの出来事はささやかな一日のうちのエピソードだったが、それは永遠の世界へとつながる絶対愛を表わしていたのである。

 私たちも、ある一つの小さな成功が端緒となって、より大きな成功を生み、そうして結果的に大事業をなし遂げることがままある。最初の成功を手にするために、勇気を振り絞ろうではないか。

イエスと悪魔は対決した

 私たちはイエスのカナでのはなばなしい奇跡にばかり目を向けるが、実はその前に大切な時期があったことを、見過ごしてはならない。

 そう、イエスはイスラエルの荒野で四〇日間の断食をしていたのである。

 その間に、彼は悪魔に誘惑された。断食で空腹になった時に彼はこう挑発された。

「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」しかし、イエスは、〝人はパンだけで生きるものではない〟と聖書にあるではないかと退ける。

 さらに悪魔はイエスを都に連れて行き、宮の頂上に立たせていった。

「もし、あなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい」

 だがイエスは、またもや答える。主なるあなたの神を試みてはならないと聖書に書いてある、と。

 最後に悪魔は、イエスを山の上に連れて行き、この世のすべてを見せていった。

「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」

 イエスは答えた。サタンよ、退け。聖書には主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよと書いてある――と。

 かくして、悪魔はイエスの前から去った。

 つまり、イエスは悪魔との対決で勝利していたのである。

 そして、迎えたのがカナの結婚式であった。

 カナのぶどう酒は、悪魔との闘いで得た勝利の美酒であると考えてもよい。またカナは、荒野で内省を深めていたイエスが、一転して世界、または社会との交流をもった地点であるといってもよい。

 カナでの水は、洗礼の水であるといってもいいだろう。ヨハネの洗礼を受け、イエスは救世主としての命を得た。そして荒野での断食を経て悪魔との対決に勝利し、さらにカナで人間社会と対峙していく自信と覚悟が生まれたと考えられよう。

 こうして考えると、まさにイエスは神の計画に沿って、その道のりを歩いているということが明らかになるのである。

 ヨハネとの出会い、さらに洗礼。荒野での内省と、その後の飛躍。そして人類救済のための死と、人智を超えた復活。神の描いたドラマの通りに彼は突き進む。

 聖書には、彼とその周囲の人々の生々しい息づかいが残されていて、二〇〇〇年の時を経て神の意図が私たちに伝わってくるのである。

どうすれば「奇跡」を起こせるか

「奇跡」を目撃することは、人生で滅多にないだろう。ましてや、奇跡をみずからの手で招き得ることなど、凡人には到底、不可能である。

 そんなことができるのは、やはりイエスのような限られた人間であることは間違いない。しかし、そもそもイエスをして奇跡を可能ならしめたものはなんだったのだろう。

 それは、人間に対する絶対愛だったのではないだろうか。

 カナでの奇跡は、イエスのその後の活動を予見する象徴的な意味を含んでいた。水をぶどう酒に変えることは、彼の人間に対する無限の愛を意味していた。

 私たちも、何かに対して常識を超えた情熱を抱けば、奇跡とはいかなくても、それに近いことを起こせるのではないだろうか。

 イエスの絶対愛の前には、常識など無意味だったのである。物理法則など無に等しかったのである。

 私たちも、たとえ奇跡など起こせなくてもいいから、一生に何度かは、命を懸けるくらいの情熱をもって、何事かに対峙する経験を持つべきではないだろうか。

 私たちはあまりに多くの場合、中途半端な情熱で物事にあたり、思わしくない結果を得て、それでいて中途半端に納得したりしていないだろうか。

 私たちには、絶対愛が欠けているのである。人間に対する、無条件の愛が欠けているのである。

 万物に対する絶対愛が欠けているのである。

 私たちは自分に都合のよいものには愛情を注ぐが、そうでなければ無視したり、敵対視したりする。私たち凡人にとって、愛とは条件付きの愛である。

 イエスは私たちに、人は無条件の愛を持てば、奇跡すらなしうるということを教えたのではないか。

 カナの出来事を皮切りに、彼は多くの(ひん)死ともいえる病人を治していく。それはまさに神の子であり、救世主の理想像の体現ともいえる。

 イエスにはなれなくとも、少しでもイエスに近づくこと――それがせめて、私たちにできることではないだろうか。

カナは人生探求の象徴

 カナにおいて、イエスはキリストになった。

 カナの奇跡で、あるいはイエスは一挙に〝神の国〟のイメージをつかんだのかもしれない。(しょく)罪・自己犠牲・あわれみ・許し――こうした具体的なイメージが、カナにおいて明らかになったのかもしれない。

 カナの出来事は、私たちその後に続く人類にとっても重要な意味がある。

 カナにおいて、人類は原罪を乗り越えたのである。アダムとイブ以来、魂を束縛してきた原罪を、イエスの導きによって克服する道が開かれたのである。

 イエスは、人類が新しい段階に入ったことを祝し、美酒に酔ったことであろう。

 カナの祝宴で、イエスが見た神とはなんだったのか。そして、その輝きはどのようなものだったのか。

 神を見たイエスは、同時に人間の本質も悟ったのではないだろうか。

 そう、カナは――

 カナは神が用意した、人生の本質、人間性の本質確認、求道の場ではなかっただろうか。

 神とはなんなのか。

 人間とはなんなのか。

 人生とはなんなのか。

 自分とはなんなのか。

 神を信じるとは、道とは、使命とは……

 こうした疑問の解答が得られたのが、カナではなかったのか。

 水をぶどう酒に変えたイエスは、自分の内なる力を悟った。そして、それまで内に秘めていた数々の疑問の答えが、すべてほかならぬ自分自身の心の中にあることに気づいた。

 数々の疑問の答えにすべて実感が湧き、確信が生まれた時、カナは彼にとって「第二の誕生」となったのである。

 同時にそれは、十字架への道のりが確定された瞬間でもあった。人間として極限の痛みを通過し、そして至聖なるものへとみずからを昇華する一筋の道が明確に見えた瞬間だった。

 歓喜と苦悩が、光と陰が、希望と絶望がぶつかりあい、歓喜が苦悩を、光が陰を、希望が絶望を克服した場所がカナだったのである。

イエスはすべての人々に分け入った

 イエスが最初にその超自然的な力を見せたのが庶民の婚礼の席というのも、興味深い。そこにはおそらく老若男女、さまざまな人が顔を見せていたことであろう。金持ちもいれば貧しい人もおり、身分の高い人もいればそうでない人もいたであろう。

 そうした中で、イエスは奇跡を行なって見せたのである。神殿でユダヤ教幹部の見ている中で、死人を甦らせるといった麗々しいパフォーマンスを行なったわけではない。一般庶民の結婚式で、それもほんの周囲の人だけにわかるような奇跡だったのである。

 イエスにとっては、身分の上下などどうでもよいことだった。みな等しく神の子だったのである。

 ユダヤ人も異邦人も、彼にはなんの隔てもなかった。いかなる職業でも身分でも、彼にとってはみずからの兄弟姉妹であったのだ。

 イエス自身、馬小屋で生まれた大工の息子であり、地位や栄誉などとは無縁の人生だったはずである。

 万人は平等であり、誰しも愛される資格がある、とするのが、彼がすべての人に伝えたかったメッセージであろう。

形式主義・差別意識を嫌ったイエス

 イエスが最も嫌ったのは、形式主義や差別意識ではなかったかと思われる。

 いずれも、当時のユダヤを覆っていた人間の精神のあり方であった。

 イエスは取税人や売春婦など、当時の人から嫌われる人々に近づき、ともに食事をするなどした。そして、そのことを批判されたりもしたのである。

 律法を守ればそれでこと足れり、自分たちには他人を批判する資格があるとした当時のユダヤ教指導者に、彼はがまんならなかったのであろう。

 ヨハネ福音書に描かれている次の光景はあまりに有名である。

「イエスはオリブ山に行かれた。朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫(かんいん)をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、『先生、この女は姦淫(かんいん)の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか』彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起して女に言われた、『女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか』女は言った、『主よ、だれもございません』イエスは言われた、『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』」

 もしイエスが〝打ち殺せ〟といったら、それは死刑を勝手に行なったということでローマへの反逆となる。〝解放しろ〟といったら、モーセの律法に反したことになる。いずれも、イエスを窮地に追い込む質問である。

 イエスは律法学者やパリサイ人の予想に反し、思いがけない答えを返した。

 あなたたちの中で、罪のない者がこの女に石を投げよ。

 この女を罰することができるのは、自身が完全に清廉潔白な人間でなければならない。そんな人間が、果たして存在するのだろうか?

 こう意表をつく答えを返された律法学者やパリサイ人は絶句し、その場から立ち去った。彼らにも、みずからを省みる反省力がまだ残っていたのであろう。現代人よりも、まだ純真だったのかもしれない。

 イエスはこのように、私たち誰一人として罪なき者などいないのだということを教えたのである。

 イエスはみずからの罪を自覚する人間にこそ、やさしいまなざしを向ける。反対に、罪を自覚せず、他人を批判する人間に厳しい言葉を投げかける。

 イエスは常に物事の本質に眼を向け、原点から人間の善と悪を考えていたのであろう。

イエスと親鸞

 日本人である私たちは、ここで、ある一人の偉大な仏教者を思い出さなければならない。

 そう――親(らん)である。

 彼が残した『善人なおもて往生を遂ぐいわんや悪人をや』という言葉は、私たちに〝善とはなにか、悪とはなにか〟という根源的な問いを投げかける。

 親鸞は何をいわんとしたのか。これは「自分を善人だと思う人は自力に頼り、他力に頼る気持ちが起こらないが、自分を悪人と感じ、自力ではどうにもならないと思う人は、阿弥陀の慈悲に頼る以外に救われないと考えるので、むしろ他力本願がしやすいのである」と考える解釈が一般的である。

 仏教者ではない私には正しい解釈はわからないが、しかし、私自身はこの善人とは「自分を善人と思っている人」、悪人とは「自分を悪人と思っている人」と解釈したらどうだろうと思うのである。

 自分を「善人」であると考えている不遜な人でも極楽往生できるのである、いわんや、自分を「悪人」であると考える謙虚な人が極楽往生しないわけがあろうか……。

 こう考えると、親鸞の視点とイエスの視点は非常に似通ったものになるといえないだろうか。

 この世に他人を断罪する資格のある善人など存在しない。人はすべて罪人である。私たちはそれを自覚し、互いに愛し合わなければならない。

 人間の無力を見すえ、それでもなお人間の救いを求めるところに、イエスと親鸞の類似性があるように思える。

 人は罪を犯す存在である。それなのに杓子定規の律法で他人を断罪し、みずからは清廉な顔をして優越感など持つなどあってはならないことである――こんなイエスの言葉が聞こえてきそうである。

 人を幸せにするための律法が、一部の者に独占され、権威の源泉のようになっていることが、イエスをして時に過激な宗教指導者批判、律法学者批判に走らせたのであろう。

 イエスも親鸞同様、「悪人」には優しかったが、「善人」には厳しかったのである。

第五章 私たちが「カナ」から学ぶことは

まず、真偽論争を超えよ

 カナの「奇跡」は歴史的事実なのか?

 先にも述べたように、この一点が、どうしても気になる人も多いだろう。水がぶどう酒になるなんて、ありえない。そんな非科学的な話、信じられないと。

 たしかに、そうである。カナの話は、現代人の私たちから見たら、あまりに突拍子がなさすぎる。

 しかし、先にも述べたように、こうした非科学的な奇跡が基になっているのがキリスト教なのである。奇跡を取り除いたら、イエスの権威は失われ、その言葉も一挙に力を失うだろう。

 もとよりキリスト教は、イエスがその死後、墓から復活したという、まったく奇想天外な伝説をよりどころとしている宗教である。

 奇跡の否定は、即キリスト教の否定につながる。

 カナの物語は、聖書に記されていることとして、受け入れなければならない。

 とにかく聖書を書いた聖書作家は、聖霊に満たされ、聖霊の権威の下、この偉大なる書を書いたと、私たちは信じるべきである。

 カナの物語も、決して無意味に描かれているはずがないのである。そこにはなにかしら、きわめて大切な寓意があるはずである。

 カナの奇跡は「象徴」なのである。私たちは、この出来事の背後に広がっている大きな真意こそを、くみ取らなければならない。

 福音書の中でも非常に霊性、精神性の高いヨハネ福音書のみがこの出来事を記録していることも、私たちは看過するべきではあるまい。ただのおとぎ話ではないのである。

 聖書は――そしてそれを人間に書かしめた聖霊は――文字の裏を読むことを、人間に求めているのである。

最高の愛は奇跡をおこす

 イエスがカナで行なったことは、象徴として捉えなければならない。

 二〇〇〇年前に起こったことの真偽を、私たちが検証する(すべ)はない。だとしたら、私たちはこの出来事を「心の目」で捉えなければならない。

 そして、心の目に映じたカナのメッセージに、真()に向き合わなければならない。

 繰り返し、私はいいたい。イエスはカナでこそ、キリストになったのであると。

 カナは人間の限界と、神の偉大なる力を表わしている。人間は自然の法則を破ることはできない。しかし神は、自然の法則を超えて、自在に物質を操作することができる。

 水を酒に変えたイエスは、まさに人間を超えた神の子だったのである。

 つまり、このカナの奇跡は、イエスが神の子であることの宣言であるといっていい。いわば、人間イエスと神の子キリストが融合した瞬間であった。

 カナの出来事は、人間は愛されるに値するものであり、愛こそは奇跡を呼び起こすものであることを、示したものである。

 人間の努力と限界、神の包容力が、カナの奇跡には現れているのである。

 水を酒に変える、という奇跡は、イエスはその後、おそらく一度も行なわなかったであろう。つまり、カナの出来事は唯一無二の奇跡だったのである。

 一瞬の出来事に、永遠の生命が宿った――こういっては、いいすぎであろうか。一瞬の奇跡が、永遠の奇跡になったのである。

理屈を超えた世界を認識せよ

 現代人は、科学万能主義である。科学の法則を外れたことは存在しないと考えている。

 科学は現代人の歴然たる宗教である。

 科学は私たちに強固な世界観を提供してくれる。現代科学では、はるか一三七億年前に起こったビッグバンによって宇宙が生まれ、やがて地球が生まれたことになっている。現代科学はまさに神の域に足を踏み入れるかのごとく、宇宙の創成に迫っている。

 昔から、キリスト教は科学的な世界と相いれない部分があった。やはり、聖書が唱える神による宇宙の創造など、科学的に考えれば受け入れることはできないだろう。

 しかし、ここでも私はいいたいのである。聖書の言葉は、字面通りに解釈してはならない、と。

 聖書とは、高度に象徴的な書物なのである。旧約聖書に登場する「エデンの園」「アダム」「イブ」「バベルの塔」……こうしたものは、すべてより深い、根源的な世界の存在を象徴しているものであると解釈すべきである。

 カナも、やはり象徴といえる。聖霊に満たされた聖書作家がここで述べたかったこととは、理屈を超えた世界があるということではないだろうか。

 私たち現代人はあまりに「理屈」で物事を見ようとする。だが、この世には人間の理性を超えた世界が存在するということを、聖書を前にした時、私たちは受け入れなければならない。

 もとより、私たちの人生は理屈の範囲に納まるものであろうか。いかなる人生も、本人の予想もしない運命のままに、ある時は圧倒され、ある時は呆然としつつ、人は与えられた道を歩んでいるものではないだろうか。

 たしかにカナの祝宴で、水が酒に変わった事実はなかったかもしれない。しかし、それに匹敵するような驚異の出来事が起こったのかもしれない。

 私たちはカナの出来事の表面に迷わされず、その奥にある聖霊からのメッセージに気づかなければならない。

みずからの潜在能力に気づこう

 カナの出来事の裏にあるメッセージを解読するのは、たしかにたやすいことではない。

 しかし私は一つの解釈として、人間の潜在能力の偉大さを、カナの奇跡は表わしているのではないかと思うのである。

 人間が一つのことに集中した時、そこには奇跡が起きる。人間の持つ精神の力は、科学的に見ても、いまだすべて解明されたとはとてもいえない状況である。「心」の持つ力に関して、現代科学はまったく未解明だ。

 一念岩をも通す――日本人はそもそも、人間の心がいかに強大なパワーを持っているかを、ひそかに察知していたのではないだろうか。日本人の根性主義、精神主義は戦後批判の的にもなったが、資源のない日本が世界に伍して生きていくには、人間に内在する力に頼る以外に活路がないのは当然である。

 外国との競争という視点のみならず、日本人は神道の「禊{みそ}ぎ」、仏教の「修行」といった人間の精神を磨き上げ、鍛え挙げる文化に親しんでいる。そして「精神一統何事かならざらん」などという言葉もあるように、精神の力を絶対視するような人間観をもっている。

 こんな日本人の一人である私には、カナの奇跡は人間の隠れた可能性を示唆するエピソードのように感じられてならない。

 行き過ぎた精神主義は、たしかに困りものである。根性があればなんでもできる、などと考えるのは無論間違いである。しかし私たちは、大事業をなし遂げるにはそれ相応の精神力が必要であることも、認めないわけにはいかないのである。

 一瞬にして水を酒に変えるような超能力など、私たちには不要である。酒が必要ならば、金を出して買えばいい。私たちの能力は、もっと生産的なことに使われるべきである。

 そして、私たちが最も潜在能力を発揮できるのは、愛する者を守ったり、愛する人に尽くしたりする時ではないだろうか。

 つまり、「愛」こそが私たちの潜在能力を最も活性化させるのではないだろうか。

 人間の秘めたる力を引き出すには、愛の力こそが必要である――

 カナの出来事は、このことを物語っているような気がしてならない。

求めよ、そうすれば……

 聖書において最も有名な言葉の一つは、「求めよ、そうすれば、与えられるだろう」であろう。マタイ福音書やルカ福音書に出てくるこの文言は、神が人間の心に呼応してくれることを説いた、勇気をもたらす宣言である。

「求めよ、そうすれば、与えられるだろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるだろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり、預言者である」かく、イエスは述べる。神は人間を我が子のように愛していると、彼はいう。

 この言葉は、まさしく神のように重い病人を癒しているイエスの口から出る時、比類ない説得力を持っていた。まさに彼はみずからの言葉通り、神に求め、そして与えられていたのである。

 私たちが日々不満を抱くとすれば、満たされぬものを感じるとすれば、イエスにいわせれば、それは本当に求めていないということになるかもしれない。

 あるいは、純粋さが足りないのかもしれない。

 私たちが日々願うことはなんだろう。そしてそれは、どのような思いで願っているだろう。直視するのも苦しいが、その多くは物欲、虚栄心、競争心……から生み出されているものが多いのではないだろうか。

 そのような不純な動機から出たものに、どうして神が応えてくれようか。

 イエスは、人間を子供に、神を親に見立てて、その愛情としての願望の実現を表現している。このように純粋な思いでなければ、その願いは実現しないものであるともいっているようである。

カナですべてを悟る

 イエスがカナで水を酒に変えたのは、実に若者の前途を祝福したいとする純粋な思いからであった。

 イエスには、神への絶対的な信頼があった。だからこそ、水は酒に変化した。

 私たちも、神を絶対的に信頼すれば、純粋な願いが実現しないことがあろうか。愛による願いが、実現しないことがあろうか。

 至純な思いは自然の法則さえ超える……カナの奇跡はそう語ってもいるようである。

 あるいは若者二人の宴席という場ではあったが、イエスはそれをみずからの祝宴と捉えていたのかもしれない。

 それまで、イエスは人間の常識の中で暮らしてきた。しかし今後は、常識を超えた奇跡の世界で生きることを、みずからにも、そして世界にも宣言したのではあるまいか。

(神に不可能はない神は万能である)

 こう、叫びたかったのではあるまいか。

 人生とはなにか。自分とはなんなのか。この問いはおそらく少年時代からイエスの胸に現れては消えていったことであろうが、奇跡という具体的なしるしを体験し、一挙にすべての答えを悟ったのではあるまいか。

 カナでイエスが目にしたのは、みずからに内在する力であり、それは神の証であった。彼は何かに突き動かされるように奇跡を試みた。おそらく、まったく未知の世界に足を踏み出す心地がしたことであろう。

 彼は何の味方もなかった。ただ自分だけが頼りだった。

 しかし――彼は成功した。カナでの賭けに勝ったのである。

 おそらく彼は、ここで奇跡が起こらないとはつゆほども思わなかったであろう。のちにこういう彼である。

「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう」

 イエスのいう信仰とは、疑いをまったく持たない、至純の信仰であろう。

 私たちは祈りにしても、疑いの心を持ちつつ、手を合わせている。神を一〇〇パーセント、信頼しきれない自分を感じている。

 こういうものは、イエスの目からすれば信仰とはいえないのである。

 イエスの信仰は、無条件の信仰であった。「~すれば信じる」というものではなく、何があろうと信じるものである。それはイエスの場合、信仰というよりも自分の全存在の根源だったのであろう。

 彼はまさに、神と一体化していたのである。そのことが自覚できたのが、カナだったのである。

真の信仰は神を動かす

 聖書には、他に湖上を歩くイエスや、パンを増やすイエスなど、到底信じがたい話がたびたび登場する。

 荒唐無稽なこうした話を信じるのは、現代人にはなかなか困難である。

 ただ私は、これらの話の背後にあるものを透視したいと願う。

 イエスが湖上を歩き、それを見て弟子たちが恐れおののく話がある。自分も師のように歩けるだろうか、とペテロもそれに挑戦するが、怖くなり、沈んでしまう。すると、イエスは叱咤(しった)する。「信仰薄き者よ、なぜ疑ったのか」と。

 それこそ一点の疑いでもあれば、それは信仰といえないのであろう。

 そしてカナの奇跡を経たイエスは、神の証というものをもはや必要としなくなっていた。

「パリサイ人たちが出てきて、イエスを試みようとして議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスは、心の中で深く嘆息して言われた、『なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが、しるしは今の時代には決して与えられない』」

 イエスにとっては、水をぶどう酒に変え、幾多の病人を癒したことこそが、みずからの証であったろう。

 しかし、パリサイ人は神からの直接的な証を求めた。あなたがキリストである証拠を見せてほしい。それは神から直接に与えられるはずだ、と。

 パリサイ人の頭にあったのは、おそらく旧約聖書の人間に直接、語りかける神であった。それはまさしく人間のように言葉を使い、語りかけ、会話できる神であった。

 もしあなたが真に神の子ならば、神と対話ができるはずだ。その証を見せよ、と。

 パリサイ人も、まさかイエスが神を天から招きよせ、会話をするとは思っていまい。すべてイエスを困らせ、活動をやめさせるためのいいがかりである。

イエスにとってはすべてが神の証明だった

 しかし、イエスはこの問いを真正面から受け止めた。そして真正面から返すのである。

 あなた方は証拠を出せというが、そのようなものはない。一体何を出せば証拠といえるのか。

 そもそも、神の証拠など、人間には大それたものではないか。

 それよりも世界が、宇宙が、すでに神の証明ではないか。なぜ、足下の草花を無視するのだ。こうしたものに神の命を感じられないとしたら、それはあなたがたに愛が足りないからだ。神への愛、命への愛があるならば、道端に咲く花、地面を這う虫にどうして神を見いださないでいられようか。

 あなた方は律法を守ることが神への道だと信じている。律法はただ便宜上の形式だ。安息日に病人を癒すことこそ、律法の精神の実現ではないか。それを「安息日を破った」などというのは人間を型式の奴隷に貶めるものだ――

 記録にこそないが、もしやこんな問答を、イエスはパリサイ人と交わしたのではないかと、私などは想像する。

 イエスにとっては、世界がすでにあること、自分が生きて活動していること、野山で小鳥が歌い、植物が花咲くこと、生命があふれ、太陽が輝き、月が満ち欠けをして季節がめぐることがすでに神の証であったろう。

 人間にそれほどのものを用意してくれている神が、人間一人ひとりの真摯な願い、本当に必要なものを求める願望を受け入れないなどということがあろうか。

 私たちの思いが実現しないとすれば、私たちが神を信頼せず、その願いにも不純なものがあるからではないだろうか。

「求めよ、そうすれば、与えられるだろう」――この言葉は、私たちに勇気を与えてくれるとともに、限りない反省をも迫るものである。

酒を嫌わなかったイエス

 日本ではクリスチャンといえば、謹厳実直で禁欲的な人達を想像する向きも多いだろう。

 たしかに、日本のクリスチャンはピューリタンのアメリカ人宣教師の影響もあって、酒や煙草をやらない人が多かった。

 しかし、キリスト教はもともと酒も煙草も禁じているわけではない。今日では、神父にも酒好きは少なくない。それはキリスト教が、かつて考えられていたような禁欲的な宗教では決してないからである。

 それはカナの話を見ても自明であろう。この婚礼の席で、イエスは水を酒に変えている。若者二人の祝宴を、美酒で祝っているのである。

 おそらく、みずからも酒を飲んだことであろう。

 イエスは、おそらく野性的な一面ももっていたであろう。鞭で神殿に集う商人を追い払い、宗教指導者を舌鋒鋭く批判した彼である。

 気性は、誰よりも激しかったのではないだろうか。

 そういう若者が、酒を好んだとしても不思議ではない。酒がもたらす喜びについても、決して否定はしなかったであろう。

 イエスは世俗的な喜びについて、決して否定的ではない。こういう記述が聖書にはある。

「ヨハネの弟子とパリサイ人とは、断食をしていた。そこで人々がきて、イエスに言った、『ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか』するとイエスは言われた、『婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない』」

 祝うべき時は大いに祝い、喜べとイエスはいうのである。

 キリスト教とは本来、喜びに満ちた宗教であるはずである。人類が原罪から解放され、天国への扉の鍵を一人ひとりに渡された、歓喜に満ちた教えであるはずである。

 日本のクリスチャンは、もっとみずからの信仰の中に歓喜を見いだすべきではないだろうか。

 そして、その範とするところをカナのエピソードに見いだすべきではないだろうか。

カナの喜びに人類救済の鍵がある

 カナでのイエスは、おそらく病人を癒す時のような、あるいはユダヤ教の幹部と対決するような、険しい表情はしていなかったであろう。

 喜びにあふれ、光に満ちていたことであろう。

 目の前の若い男女に心から祝福の言葉を送り、周りの人間に話しかけ、みずからも酒を飲まれたことであろう。

 そんなイエスの顔は輝いていたことであろう。

 おそらくイエスはその外貌からして常人とは違い、光に満ちて気高さにあふれ、その周囲は輝いていたであろうし、人々はその輝きに惹かれたことも間違いあるまいが、こうした喜びの時、イエスは一層美しく光輝いていたことであろう。

 イエスは、カナにおいてキリストとなった。ぶどう酒の陶酔は、キリスト誕生の喜びをも象徴するといえる。

 私達の本当の歓喜とは、そうした魂の奥深い部分から湧き上がるものでなければなるまい。

 ここでのぶどう酒は、やはり象徴である。水がぶどう酒に変わるとは、原罪を負っていた人間が原罪から解放され、真の神の子として、みずからを顕現することの象徴でもあろう。

 私達は、このエピソードから、イエスが人間を真に愛し、その原罪から救い、神の子として再生させることを魂の底から願っていた、という事実を感じ取るべきではあるまいか。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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伊藤 飛鳥

イトウ アスカ
エッセイスト。1965年生まれ。日本ならびに米国で活動。 主な著書は、「愛の十字架」「エデンの愛」。*

掲載作品は、「ガラリアのカナ」(2011年9月、日新報道社刊)から抄録。