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科学者の文藝

  中西悟堂 ─文学と科学との間─

『野鳥と共に』(創元文庫)の「解説」で、窪田空穂は、悟堂の閲歴を次のように簡潔に書いている。

 

 中西君は石川県下に生れた人で、やや長じて天台宗の寺に養われ、東京で正常の学歴を踏んで僧としての資格を得、二寺の住職となった。学生時代から文藝に心を寄せ、歌集、詩集を刊行していたが、住職となると小説の作を企て、『犠牲者』と題して、三千枚の長編を、三年間を傾注して成し遂げた。これは関東大震災当時で、三十歳に入ろうとする頃のことである。刊行を謀ったが、出版書肆が応じなかった。理由は、人間性は描けているが、本能の面が描き足りないというのであった。自身もその点を反省し、人間性と本能との関係を突き詰める一方法として、本来愛好している昆虫と鳥類とを研究しようとした。それには、この方面の現学会の到達している線までを正式に学び取り、その上に立って独自の生態研究をしようとしたのであった。

 

 窪田空穂は、悟堂の第一歌集『唱名』(大正5年)を認め、「心憎い歌集」と新聞紙上で紹介した。これが悟堂の、空穂に親しむきっかけになった。空穂の方も悟堂を愛し、「悟堂が十八歳の時だからものな」と、初対面の年をおぼえているほどで、後には、悟堂を「おいおい」と呼び捨てにするような間柄にまでなった。悟堂が人生の先達として終生敬慕した人である。

 空穂は、「中西君に取っては、詩歌は全く余技に過ぎないものであって、同君は現在わが国鳥学会の少数の権威者のうちの一人であり、全生命を傾けて鳥類の生態研究をしていることは、世間周知のことである。」としながら、「その研究者として発足した動機は、文藝であった。三十年を研究に没頭した挙句、その得たところのものは、再び最初の文藝につながるものとなり、しかもその根本を成すものになろうとしているのである。」と評している。悟堂を「野鳥文学」の創始者としてとらえたものといえよう。

  詩歌からの出発

 処女歌集『唱名』は抒情詩社から刊行された。そこからは歌誌「抒情詩」が発行されていた。悟堂が天台宗学林二年のとき、学友から手ほどきをうけて作り始めた短歌を投稿し、主宰者内藤_策に認められ、やがて同人となっていた。抒情詩社は、歌集、詩集の出版も引き受けていたので、出入りする歌人、詩人たちと交わる機会を得た。

 悟堂は、「抒情詩」に短歌を発表するほか、評論も歌壇時評も書いた。それもあってか、「短歌雑誌」の編集者に迎えられる。そのうち、短歌そのものに、割り切れぬ抵抗を感じだしたもどかしさから、自分の歌にも決別したくなりだし、編集している雑誌に、あえて西洋風の詩を載せ始めた。そしてとうとう短歌を捨てて詩に走り、松本福督と組んで詩誌「韻律」を創刊(大正7年)する。

 翌年、「韻律」を「詩の本」と改題し、長編詩「自らの歌」を発表、室生犀星は「これは本物だ。僕は嘘は言はぬ。大きい感動に動かされて、このハガキを送る。これは本物だ」と私信を寄せた。

 その後、放浪の旅に出たり、僧務にかかわったりと、生活上の変動があったが、誘われるまま、いくつかの詩誌に加わったり、新聞に寄稿したりしていた。そのうち詩に対する思いがつのり、佐藤惣之助、多田不二、尾崎喜八、恩地孝四郎、萩原朔太郎、野口米次郎、辻潤らの応援を得て、詩誌「極光」を創刊(大正11年)するに至った。そして勢いに乗じて、第一詩集『東京市』を刊行(同年)する。一時東京を離れていたためかえって東京が「見えて」いた。

 『東京市』の反響は、あった。朔太郎は、「詩句の語藻の豊富にして官能のまばゆき万華鏡的光彩を感じさせる」と私信を寄せ、某新聞には、「歳あらたまった本邦詩壇最初の大収穫」と報じた。次いで『幽邃(ゆうすい)なる年齢』と『閑雅な挿絵』という二冊の詩集を刊行すべく、北原白秋を介して、原稿を書房「アルス」に託したが、大震災でその書房ともども焼失してしまった。

 震災後、悟堂は、三冊の詩集を刊行している。題名からして『東京市』と対比される『武蔵野』(大正14年)は、素朴な田園詩ばかりで、その後の悟堂の心境の変化をうかがわせる。また詩の手引書『大正詩読本』全六巻(大正15年)は、内外の詩人を網羅して紹介したもので、外国篇三巻にとりあげた詩人は、八カ国、百三十人にわたっている。悟堂の詩の素養の深さの並々ならぬことを示すものである。続いて、啄木や芭蕉の評伝も手掛けているが、これらは、悟堂の内向の現れとも言えるのではないかと思う。

 「突然──全く偶然に、私の運命が転換される急角度な機会が来た。(中略)それは悩ましい都会生活(それは旅の放浪にもまして寂しい、一種の漂流生活である)を離れ、恐ろしい文明生活の欺瞞の網から脱して、不意に思ひがけず、太陽と大地とに即した生活を獲得すべき方向を取つた。」そして、ここで「私にとつて何が生存理由であるか、そしてわたしのために生存理由であるものが、万人のためにも生存理由であるところのものは何であるかを探究せねばならぬ。」(『藁家と花』「野の第一信」)いわゆる「野鳥文学」の創始者中西悟堂の第一歩が踏み出されたのである。

  鳥の世界へ

 田園生活に入った悟堂は、詩壇と決別したものの、詩を捨てたわけではなかった。「本当のことを言へる場所」として、詩誌「闊葉樹」を持った(昭和3年)。第一号の後記に「この雑誌で、質素に、まじめに、信仰と生活を賭けて、雑踏から遠いこの場所で、私どもの精神の耕作を始める」と書いた。これに発表した詩は、後に『叢林の歌』にまとめた。ここに至って、「やつと第一詩集『東京市』の暴河的氾濫以来の彷徨が、私のコスモスと秩序を形成したのであった。」(『定本野鳥記8』「あとがき」)

 田園生活――武蔵野の木食(もくじき)生活は、悟堂を少年時代からの愛好の対象であった自然に結びつけた。昆虫、淡水魚の世界から、より一層移動性のある、広い領域を持つ鳥類にたどりつく。そこには、「この世界で見、考えたものを私の生の哲学に帰納させて、そこからの私の新しい出発点を見出そうという、裸にかえった、素朴な、むしろ祈りに近い、ひたむきな初々しい願い」(『定本野鳥記1』「定本野鳥記について」)があった。

 やがてそれは野から山へと広がり、内面的な求めも、各界の幅広い賛同者を得て、社会的な広がりとなって「野鳥の会」の誕生(昭和9年)を見るに至った。「科学・飼育・美術・文学・民俗学を一丸とした月刊高級鳥類雑誌」と銘うって、その機関誌「野鳥」が発刊され、そこに次々と「野鳥の記」を発表する一方、野外に出て、「探鳥」の先達を務めることとなる。今日一般に通用している「野鳥」も「探鳥」も悟堂の新造語である。

 「野鳥」をはじめとして各種誌紙に発表した「野鳥」の「記」から自選して一巻となし、『野鳥と共に』を刊行(昭和10年)する。これは「鳥界にとっても、私自身にとっても、一エポックとしての記念塔であり、私自身の出発点」(「定本野鳥記について」)となった。版元は、「『野鳥と共に』は日本に大きな反響を与へた。科学的観察と詩人の情感と文学的表現とは、独自の世界開拓に成功」と伝えた。

 発想はともかく、悟堂は鳥類の生態研究を科学的に進めていった。しかし、それを突きつめてゆくと、鳥類を越えた生物全般にわたる生存の問題が見えてくるのである。「野鳥」を「記」すにあたって、その間の事情を、悟堂は「定本野鳥記について」で、次のように語っている。

 

 私が放飼し、山で記録した鳥の習性を、私は科学的な抽象にするよりも、多くは、より具体性のある、文学的の作品とした。グラフや統計に圧縮整頓される客観性に立つ記述は、学会の資料ともなり、学術的には鳥への理解の近道であっても、一般の読者に浸透させるよすがが薄い。ことには、私の前歴が示すとおりの作家魂は、私としてはむしろ生得のもので、みずからのこの素質の上に乗っかって書くほうが勝手もよければ、私なりにも読者にとっても効果が広い。したがって過去の連冊にしても詩魂で書き、また文学的な鳥の古典の考証の上にも走ったので、もしも今回の選集(『定本野鳥記』)を読者諸氏が「文学の鳥書」「鳥の文学」の一種として受けとってくれるとしても、それはむしろ私の本望である。鳥学の基準をはずさぬ用意はあっても、あえて鳥学者とはなろうともせぬ私のような者が、一人ぐらいはあってもよいかと思う。

  野鳥と歌と

 悟堂の詩集の刊行は、『叢林の歌』(昭和18年)が最後である。これには、大正十五年以降の作品(『山岳詩集』[昭和9年]に収めた山の詩を除く)と、「闊葉樹」に発表したものの中から自選したものである。「野鳥の会の運動は」「世の中へ出てきての集団の運動である」。したがって、「私自身」も「野にゐる」頃の「『孤独で単純な』姿ではないが、私の内部には、尚、私の私が歌つてゐる。現実の実際としては世にもまれ、苦しみながら、たのしみながら、さうしてひどく疲れて。」とその「跋」にある。

 野鳥の会以後の悟堂の生活は、野鳥を軸にして展開される。やがてそれは自然保護などの社会運動まで突き進められるのである。

 この間にあって、悟堂の詩心の発露は、詩よりも、多く短歌の形をとるようになる。しかしそれらは、昭和三十四年に至り、ようやく『安達太良(あだたら)』にまとめられた。悟堂は、「私は過去三十年近く、自作を歌誌に発表したことが殆んどなかったのは、歌材の性質にもより、また目ざすものに集注していた生活からでもあった。」それにしても「鳥や山は私の過去数十年を支えた生活であって、その余滴である本集は、少なくとも私にとっての記念の家集である。」とその「あとがき」に書いている。鳥の生態研究は、人間的主観や抒情を許さぬ世界であり、抒情に溺れていてはまともな研究にはならない。「作歌のために山野を歩いているのではない。(それらの歌は、)鳥の調査の途次、偶々歌意が動いて、その場で作ってノートに書き入れたものに過ぎない」(「あとがき」)という。

『安達太良』の「序」に窪田空穂は、「方幾里全く人寰(じんかん)を離れた高山の一角に身を置き、一意予期する空の訪問客を待ちつつ、幾昼夜を過ごしていると、中西君の胸には、一応は潜在状態となってしまった詩情が油然(ゆうぜん)として起り、おのずからに短歌形式を取って、なつかしく、しみじみとした声調を帯びたものとなって、尽きず流れ出して来るのである。」と、悟堂の心情を熟知した、この師ならではのことばを寄せている。そして、「伝統久しいわが和歌史上から見ても、野鳥のみを取材した歌集は古来絶無で、この『安達太良』はその最初のものである。」と付言している。

 こうした状況のもとで、「油然として起」った詩情だけに自然と短歌形式をとらせたものと思われる。

  文学と科学の間

 悟堂は、その随筆に「科学」がないという評を受けて、「言われるまでもなく、文学的な随筆であり、」「またもちろんバード・ラヴァーで宜しいのだ。」といいきっている。ただ、それは一つの基盤であって、もう一つ「鳥学の基準をはずさぬ用意」という基盤があるというのである。そのためには、鳥学的素養がなくてはならない。それは、けっして悟堂の独り合点ではなく、推されて鳥類関係の公的な各種団体の役職に就いていることによっても裏付けられる。そしてその素養とは、要するに「科学」につながるものである、というのが悟堂の弁明であった。

 最後に、『定本野鳥記』の編集にかかわった赤木健介氏の文章の一節を引用しておく。

 

 まさに大詩人の風格をもった人であった。そして詩を書き、詩集を出したからの大詩人ではなくて、その経歴、行跡の中に詩人らしい潔さと、自由奔放な性格があった。何よりもその代表作『定本野鳥記』が優れた文学であり、詩そのものであったということができよう。もちろんそれは、単なる文藝作品でなく、科学的複眼でつらぬかれ、さらに人生や社会に限りない啓示を与えるものであった。(『定本野鳥記16』「大詩人の風格」[解説])

  中西悟堂年譜

□以下は、作品名(誌紙発表の著作が多数に及ぶため、ここでは単行本に限定した)

明治二十八年一八九五

 十一月十六日、石川県金沢市長町に生まれる(戸籍上は明治二十九年一月十六日生まれ。以下の年齢はこれによる)。父富男、母タイの長男。富嗣と命名される。祖父(ますます)重勝は加賀藩士、祖母成美も同藩士の女。明治維新により祖父母は大阪に出、のち東京に移り生活する。

 

明治三十年一八九七 一歳

 海軍軍楽隊教官の父は、日清戦争で負傷、後方帰還となり、横須賀基地にて肺患を併発して二月十三日死去。母は長崎の実家に帰り、その後行方不明。全くの孤児となる。父の長兄中西家十代の当主元治郎の養嗣子となる。

 

明治三十二年一八九九 三歳

 この頃より四書五経を学び千字文を書写する。おもちゃは持たず、友達とも遊ばず、石板と石筆さえ与えておけば機嫌よく一人で遊んでいる、変わった子であった。

 

明治三十四年一九〇一 五歳

 四月、麻生区飯倉町の小暮小学校に入学。就学年齢に達していなかったが、早熟のため強いて入学させられる。しかし、発育不全で歩行困難のため、爺やに背負われて登校する。

 祖父重勝死去。

 

明治三十五年一九〇二 六歳

 一月、書初め「精神一到何事不成、陽気発処金石透」が学校から宮内省に提出され、天覧に供せられる。

 三月、養父元治郎は政治活動に奔命、渡米したため、元治郎の弟で他家へ養子に行った寺西慶三郎(京橋区西紺屋町在住)に預けられる。

 四月、築地の文海小学校の第二学年に転入学する。

 この頃既に漢文をこなし教師間に認められる。

 

明治三十八年一九〇五 九歳

 三月、文海小学校尋常科(四年)卒業。

 四月、桜川小学校高等科に進学。

 養父悟玄(元治郎仏門に入り悟玄となる)アメリカより帰国。養父にしたがって上野寛永寺の中の東叡山東漸院に住む。ここに中国の革命の志士たちも多く出入りする。

 またこの年、秩父山中の寺に預けられ、百八日の坐行、各二十一日間の滝の行、断食の行を行なう。これにより従来の虚弱体質から健康児に変わり、一種の透視力さえ体得する。この頃、鳥に親しむ。

 

明治四十年一九〇七 十一歳

 三月、高等科卒業。京橋区数寄屋橋の紙問屋に奉公に出される。

 政治活動の巻き添えで養父悟玄が東叡山を騒がせた責任をとり、東京府北多摩郡神代村字佐須の祇園寺(深大寺の末寺)に移り、悟堂を深大寺に預ける。悟玄は後に祇園寺の住職となる。

 この頃、深大寺小学校の教師を通じてトルストイを知る。また、多摩川でチドリの擬傷習性を初めて見る。

 

明治四十一三年一九一〇 十四歳

 四月、某火災保険会社の給仕となり、その給料で築地工手学校夜間部に入学。

 東京府西多摩郡小曽木村の禅寺聞修院で三週間の滝の行。

 

明治四十四年一九一一 十五歳

 養父のすすめにより、神代村(現在の調布市)の天台宗深大寺において得度して法名をもらい、戸籍上の名も悟堂となる。埼玉県北足立郡慈恩寺にて百八日間の四度加行を修める。

 四月、本郷駒込の天台宗学林第二学年に受験入学。上野山内の天台宗東部寮に入る。

 八月、夏期休暇中祇園寺に来ていた学友より手ほどきを受け、短歌を作り始める。歌誌「抒情詩」に投稿し、掲載される。

 

明治四十五年・大正元年一九一二 十六歳

 養父悟玄は自ら病重きを知り、祖母と悟堂の行く末を憂えて、信服する禅宗の高僧高田道見師に託す。

 

大正二年一九一三 十七歳

 三月、天台宗学林三年修了。

 四月、曹洞宗学林(駒沢大学の前身)四年転入試験に合格したが、通学を一カ年延期、道見禅師の認可僧堂である四国愛媛の瑞応寺の僧堂で禅生活に入る。

 この頃、赤松月船と出会う。

 九月、別子銅山の説教所へ移り、銅山鉱夫への説教生活を送る。

 十月、祇園寺に帰る。文学、美術、思想などの書物を読み耽る。また「文章世界」に短編小説(田山花袋選)、随筆(島崎藤村選)を投稿し掲載される。

 

大正三年一九一四 十八歳

 三月十六日、父悟玄、肺結核にて死去。祖母と共に高田道見の仏教新聞社にひきとられる。

 四月、曹洞宗学林に再入学。

 六月、品川御台場に隠棲する祖父の弟中西勝男と出会い、二カ月間滞在。

 八月、夜間水泳の際、フジツボで両眼の角膜を損傷、以後二年間失明と回復をくりかえす。

 

大正四年一九一五 十九歳

 内藤_策主宰の抒情詩社に出入りする。斎藤茂吉、若山牧水、高村光太郎らを知る。

 九月、眼疾小康を得て、第二学期から通学。

 十一月、大日本雄弁会主催の「都下中学連合演説会」に曹洞宗学林の代表として出場、優勝してデモステネス賞牌を受ける。

 同月、二度目の失明。

 十二月、徴兵検査を受けるが失明中のため「兵役免除」となる。

 

大正五年一九一六 二十歳

 三月、海軍施寮病院で治療を受け開眼。追試験で第四学年終了。

 四月、第五学年に進学。

 六月、多摩川に一カ月通い、コチドリの巣を観察。鳥への関心を喚起される。

 九月、四人の学友と三軒茶屋で共同生活を始める。

 同月、中西赤吉のペンネームで第一歌集『唱名』を抒情詩社から刊行。木村荘八、岸田劉生を知る。

 同月、眼が悪化し、築地に部屋を借りて海軍施寮病院へ通院。

 

大正六年一九一七 二十一歳

 夏頃、ようやく開眼、第五学年を二学期からやりなおす。

 十月、仏教新聞社を辞し、家計を助けるために祖母を祇園寺に預け、雑司ケ谷の従兄弟の家に移り、中央郵便局の外国課に一日おきに勤務する。

 この頃、模写と自画像に熱中する。歌話会会員となる。

 

大正七年一九一八 二十二歳

 三月、曹洞宗学林中学課程卒業。

 同月、松村英一の勧めで、東雲堂書店に入り、尾山篤二郎のあとを受け、「短歌雑誌」の編集に従事。しかし、やがて短歌にもどかしさを覚え、川路柳虹の門人松本福督と詩誌「韻律」を発行する。

 

大正八年一九一九 二十三歳

 一月、雑司ケ谷水久保に転居。

 二月、詩誌「詩の本」(「韻律」改題)創刊。室生犀星、福士幸次郎、佐藤惣之助、百田宗治らを知る。

 六月、義妹順子、持病を苦に鉄道自殺。

 八月、十六日、祖母成美死去(八十歳)。

 十一月、すべてを捨てて、大学ノート一冊たずさえ、放浪の旅に出る。

 十二月、三朝温泉で天台宗学林時代の親友山村光敏(島根県安来市清水寺住職)と再会、誘われて清水寺に滞在し、長編小説「犠牲者」の構想を練る。

 

大正九年一九二〇 二十四歳

 九月、天台宗に復帰、山村の依頼を受け、清水寺の末寺長楽寺(島根県能義郡)の住職となり、寺の改革を断行する。

 

大正十年一九二一 二十五歳

 詩誌「帆船」・「嵐」の同人となる。雑誌「日本詩人」・「かなりや」や新聞などに書きはじめる。

 

大正十一年一九ニニ 二十六歳

 一月、松江市の名刹普門院(ラフカディオ・ハーンが茶を習いに通った寺)の住職となる。

 九月、佐藤惣之助、多田不二、尾崎喜八、恩地孝四郎らと詩誌「極光」を創刊。

 十二月、第一詩集『東京市』を恩地孝四郎の装丁で抒情詩社から刊行。

 「犠牲者」三千枚脱稿。作家江馬修を介して新潮社に持ち込んだが、登場人物がすべて僧侶で、小説としては不採用となる。落胆してしばらく方途に迷う。

 

大正十二年一九二三 二十七歳

 八月、松江市の松陽新報社の北鮮派遣を利用してロシア入りを企て、ウラジオストック港まで行く。

 九月、関東大震災の報を聞き急ぎ松江に引き返し、寺院住職をやめて上京、一時、西多摩郡小曽木村菅生の蔵守院に身を寄せ、「新潮」などに評論を発表。

 十一月、友人の持寺、埼玉県飯能町中居の宝蔵寺に移る。

 

大正十三年一九二四 二十八歳

 八月、第二詩集『花巡礼』を新作社から刊行。

 

大正十四年一九二五 二十九歳

 三月、比叡山天台宗の宗務庁に勤務、叡山と東京とを毎月交互に往復する。

 この後、新鉄道唱歌の募集があり、一夜東海道線の六十二編を作詞し、応募して当選する。第一次大和田建樹、第二次中西悟堂、第三次土岐善麿と、中間で時期が短く、ためにこの作品はあまり流布しなかった。

 □第三詩集『武蔵野』(6抒情詩社)・抒情小曲集『かはたれの花』(11東雲堂)

 

大正十五年・昭和元年一九二六 三十歳

 七月、『大正詩読本』(日本篇・欧米篇)全六巻を年末にかけて東雲堂から連続刊行。日本と世界の詩人及び詩風を解説する。

 同月、いよいよ作家への道を志し、第二の長編にとりかかったが、当時日本の思潮界に渦巻いていた社会思想の対立抗争にも強い疑惑を抱き、自己凝視に徹すべく孤独の生活に入る。北多摩郡千歳村(現在の世田谷区烏山付近)の野中の一軒家で火食を絶ち、木食菜食の生活に入り、物質依存の一切を遮断し、無欲のどん底に徹し、はじめて心の安定を得ようとする。ソローの「森の生活」を耽読し、宿望のホイットマンの翻訳にかかる。

 近くに住む石川三四郎、尾崎喜八らと交遊、蜂その他の虫類の観察に没頭、野鳥の観察をはじめる。

 

昭和二年一九二七 三十一歳

 ホイットマンの「草の葉」の翻訳に没頭する。

 三月、報知新聞より昆虫と野鳥の観察記の連載を依頼される。

 九月、春から火食を絶った生活に踏み切り、そば粉と大根と松の芽を常食とする。それを研究材料にしたいと、近くの精神病院から定期的な健康診断の依頼を受ける。

 

昭和三年一九二八 三十二歳

 タゴールやガンジーを媒介に、インドの探訪、インドの自然帰依に惹かれる。再び心が世間に向かって開き、東京への移住を考えはじめる。

 八月、詩誌「闊葉樹」を創刊。「草の葉」の翻訳と評論を載せ始める。

 この年結婚するが、後に協議離婚。

 □評伝『啄木の詩歌と其一生』(2交蘭社)・随筆集『藁家と花』(4詩集社)・評伝『芭蕉の俳句と其一生』(8交蘭社)

 

昭和四年一九二九 三十三歳

 二月、自作の詩劇「ユピテル」がポーランド語に訳され、ショパン座で上演されていたことを知る。

 三月、来日中のインドの詩人タゴールと朝日新聞社講堂での講演の後面会、シャンチニケタンの学園に招待される。この機に天台宗留学生として渡印をくわだてるが、ガンジーのインド独立の国民運動により英印両国間の不和のため旅券が交付されず、やむなく武蔵野において生物と共に暮らす。この時から自然科学に志望を転じ、鳥学を専攻する。

 十一月、三年半に及ぶ千歳村の生活を切り上げ、杉並区井荻町(善福寺風致地区内)に移り、野鳥の生態観察に取り組む。またこの年以後日本の山々数百座を踏破して、野鳥の生態と分布を調査。

 □訳詩集 ホイットマン『草の葉』(7闊葉樹社)

 

昭和五年一九三〇 三十四歳

 水棲昆虫や淡水魚(特にトゲウオ)、ヘビなどの生態に興味を持ち、観察に没頭。その飼育記と写真がしばしば「アサヒグラフ」に掲載される。

 四月、刊行費用が尽き、「闊葉樹」休刊。横山桐郎の「東京虫乃会」に入会。

 

昭和六年一九三一 三十五歳

 この頃カラス、オナガ、スズメ、ホオジロ、ミミズクなど諸鳥を自由に馴らし、放し飼いとして庭に放したり、付近を連れ歩く。これが評判となり、見学者が相次ぐ。

 

昭和七年一九三二 三十六歳

 □『虫・鳥と生活する』(12アルス社)

 

昭和八年一九三三 三十七歳

 五月、『アルス科学写真叢書』シリーズの企画・執筆者の選定一切を任される。

 友人の詩人でありまた英文学者でもある竹友藻風が、放し飼いの実状を見て感嘆。鳥の雑誌を出すことをすすめる。

 

昭和九年一九三四 三十八歳

 三月、『アルス科学写真叢書』が出版社の都合で十八巻をもって発行停止。

 同月、内田清之助、黒田長礼、鷹司信輔、山階芳麿らをはじめ、柳田国男、平田禿木、荒木十畝、杉村楚人冠、山下新太郎、新村出らのすすめで、竹友藻風とともに「日本野鳥の会」を創設。

 五月、日本野鳥の会機関紙「野鳥」(梓書房)創刊。

 六月、各界の著名人に呼びかけて参加を得た、わが国初の大探鳥会を富士山麓須走に行い、籠の飼い鳥との絶縁を発表、以後野鳥の愛護と自然環境の保全に一身を挺することとなる。

 □『山岳詩集』(2朋文社)

 

昭和十年一九三五 三十九歳

 四月、「野鳥」の発行所が巣林書房に移る。

 十二月、放飼の記録『野鳥と共に』を巣林書房から刊行。徳富蘇峰の激賞により十五万部のベストセラーとなり、文部省推薦図書ともなる。これにより「野鳥」の語、世に定着する。

 善福寺風致地区を禁漁区とし、ここに民間ではじめての巣箱の架設を実施する。

 □『動物の生態写真』(4誠文堂新光社 共著)

 

昭和十一年一九三六 四十歳

 野鳥の会の活動を全国に拡げる拠点として、支部の設立を計画、京都支部が第一番に結成され、大阪、名古屋、札幌等々、次第に各地に成立の機運が拡がる。

 三月、岩上八重子と結婚。中野区城山町に移る。

 日本鳥学会の会員となる。

 □『山の鳥類』(5共立社)・『昆虫読本』(10巣林書房)

 

昭和十二年一九三七 四十一歳

 探鳥会の参加者が野鳥の会会員となることが多いため、しばしば山野に探鳥会を行い指導に当たる。

 三月、長女ハルノ誕生。

 四月、世田谷区太子堂(妻の実家の隣家)に移る。

 

昭和十三年一九三八 四十二歳

 三月、探鳥の手引きに『野鳥ガイド』を日本野鳥の会から刊行。以後十四版まで重版。

 

昭和十四年一九三九 四十三歳

 三月、「野鳥の会研究部」を作り、鳥の学徒の養成を志す。「野鳥」の編集、執筆、各地への実地調査、探鳥会の指導などで多忙を極める。

 同月、目黒区宮ヶ丘に転居。

 十二月、杉並区井荻の旧居に戻る。

 

昭和十六年一九四一 四十五歳

 浅間山麓で野鳥の声の現地放送を指導する。

「野鳥」の用紙三割減。

 十月、長男一之誕生。

 □『武蔵野の鳥』(5科学主義工業社 共著 鳥を分担)・

 『鳥虫歳時記』(6高山書院)・『野禽の中に』(12日新書院)

 

昭和十七年一九四二 四十六歳

 一月、巣林書房解散、「野鳥」の発行所を日新書院に移す。その間の編集、経営の過労から病気がちとなる。

 二月、「野鳥」減頁、紙質も落とす。

 □『野鳥を訪ねて』(5日新書院)・『野鳥記』<新潮文庫>(8新潮社)

 

昭和十八年一九四三 四十七歳

 九月、次女博子誕生。

 十月、自宅から東京駅まで(十八キロ)のジョギングを始め、朝食前の日課とする(翌年春まで)。

 □詩集『叢林の歌』(1日新書院)・『渡り鳥』(4山と渓谷社)・『野鳥の話』(5正芽社)

 

昭和十九年一九四四 四十八歳

 日本鳥学会評議員兼委員となる。 

 九月、機関誌「野鳥」、ついに九月号を最後として用紙の配給を絶たれ、創刊以来十年、通巻一一五号をもって、廃刊のやむなきに至る。

 同月、善福寺の自宅を売り、西多摩郡福生町長田村和市の山林五百坪を借りて住む。

 

昭和二十年一九四五 四十九歳

 五月、山形県南村山郡本沢村に疎開。

 八月、終戦。

 十二月、一家上京。西多摩郡東秋留村二宮(現あきるの市)の農家の蚕室に仮寓する。

 

昭和二十一年一九四六 五十歳

 西多摩山地を歩き尽くす。再び探鳥の山行をはじめる。

 短歌を三千首ほど作る。

 □『鳥の山旅』(9山と渓谷社)

 

昭和二十二年一九四七 五十一歳

 三月、日本野鳥の会会長に推され、日本鳥類保護連盟設立、評議員となる。

 四月、「野鳥」再刊、日新書院より第一号発刊。

 五月、日本鳥学会評議員となる。

 この年、バードデーを制定する。

 □『鳥を語る』(6星書房)・『鳥の四季』(11愛育社)

 

昭和二十三年一九四八 五十二歳

 春頃より過労のため身体不調、医師の忠告で静養自重する。

 八月、再び「野鳥」誌の編集に携わるが肺炎を患い、二十日間臥床する。

 この年、世界鳥類保護会議の終身代表となり、欧米各国の仲間入りをする。

 □『鳥の世界』(1家の光協会)・『鳥のやくめ』(11家の光協会)

 

昭和二十四年一九四九 五十三歳

 十二月、野鳥大衆化運動を起こす準備を開始する。

 □『野鳥と共に』〈決定版〉(4講談社)・『鳥影抄』(5星書房)・『キジ物語』〈ローマ字〉(5ローマ字教育会)

 

昭和二十五年一九五〇 五十四歳

 国土緑化推進委員会委員となる。

 八月、「野鳥」発行所を自宅に移管する。

 十二月、全国的な愛鳥運動を起こすため、国語読本に野鳥関係の文章を入れること、全国小中学校の巣箱架設運動の推進、野鳥に関する児童向け出版物の興隆、空気銃の絶滅、野鳥の会の社会的強化などを提唱する。

 □『鳥山河』(9ジープ社)・『白秋・勇の歌』〈近代短歌講座〉(12新興出版社)

 

昭和二十六年一九五一 五十五歳

 一月、詠進歌が入選し、宮中の新年歌会始に出席。入江侍従より一週間にわたる野鳥の御進講を要請されるが、病気臥床のため後日を期す。

 二月、全身関節炎、脳血栓にかかり、東大柿沼内科の柿沼博士の治療を受ける。ひきつづき黄疸、中耳炎におかされ、病床生活を送る。

 六月、三代星野嘉助に招かれ、星野温泉で二カ月間保養する。

 □『日本鳥類の生態と保護』(6共立出版社 山階芳麿、葛精一と共著)・『虫のいろいろ』(7筑摩書房)・『野鳥の世界』(10毎日新聞社)・『私の野鳥記』(11小峰書店)

 

昭和二十七年一九五二 五十六歳

 一月、日本野鳥の会名誉会長に就任。

 二月、国土緑化推進委員会常任委員、首都緑化推進委員会常任委員となる。

 三月、疎開先の青梅市名誉市民に推されたが、束縛を嫌って辞退する。

 九月、日本詩人クラブ常任理事となる。

 十月、『少年博物館』(全十二巻、ポプラ社)の刊行を開始、第一巻『世界の珍しい鳥と獣』を出版する。

 秋頃から健康のため年間のハダカ生活を強行する。

 十一月、千葉県東金市本漸寺境内に越冬燕歌碑が建つ。

 □『めずらしい鳥』(6あかね書房)・『西多摩鳥勢一班』(9西多摩郡郷土研究会)・『野鳥と共に』〈創元文庫〉(11創元社)

 

昭和二十八年一九五三 五十七歳

 三月、日本自然保護協会評議員となる。

 同月、霞網復活の議員提案に抗して起ち、審議未了廃案とする。

 四月、福島県郡山市五百淵湖畔に三光鳥句碑が建つ。

 五月、日本鳥類保護連盟より表彰される。

 □『少年博物館2 昆虫界の不思議』(1ポプラ社)・『少年博物館3 爬虫類の怪奇な生態』(4ポプラ社)・『尾瀬の鳥』(5朋文堂)・『巣箱のしおり』(7首都緑化推進委員会)・『万葉の鳥』(7平凡社)・『少年博物館4 植物界のふしぎ』(9ポプラ社)

 

昭和二十九年一九五四 五十八歳

 二月、レコード『野鳥の声第一集』を日本ビクター社から刊行(第二集ミ四月刊、第三集ミ昭和三十年一月刊)。

 三月、世田谷区砧町に家を新築し、移転する。

 四月、日本鳥類保護連盟の副会長に推される。

 五月、東京都社会教育功労賞受賞。

 同月、日本鳥学会から感謝状を受ける。

 九月以降、空気銃の抑制運動を開始する。

 十二月、新潟県水原町瓢湖のハクチョウ渡来地を実地調査。

 □『少年博物館6 地球と生物の歴史』(4ポプラ社)・『少年博物館7 日本の鳥 上』(12ポプラ社)

 

昭和三十年一九五五 五十九歳

 七月、加賀白山の国立公園昇格を目指す田谷石川県知事の依頼を受け、白山の生息鳥類の垂直分布の実地踏査を開始。下山の際、中宮温泉付近のダムに転落し重傷を負う。

 八月、日本野鳥の会名誉会長から再び会長となる。

 十月、日本動物愛護協会理事に推される。

 □『少年博物館8 日本の鳥 下』(7ポプラ社)・『同5 海の秘密』(8ポプラ社)・『渡り鳥』(11東雲堂)

 

昭和三十一年一九五六 六十歳

 一月、「野鳥」新年号より再び編集の中心となる。

 三月、「有益鳥獣の保護増殖及び狩猟の適正化等に関する特別措置法案」に対して反対の意見書を国会に提出(六月、国会最終日に廃案となる)。

 十一月、自身で吹き込んだレコード「野鳥と共に」(日本ビクター社)で文部大臣賞受賞。

 同月、千葉県東金市御殿山山上御殿山楓歌碑が建つ。

 十二月、『野鳥と生きて』(ダヴィット社刊)でエッセイストクラブ賞受賞。

 □『高原の鳥』〈講演レコード〉(4日本ビクター)・『少年博物館12 野鳥の生態と観察』(4ポプラ社).『同11 下等動物の謎』(6ポプラ社)・『同!0 昆虫の社会生活』(9ポプラ社)

 

昭和三十二年一九五七 六十一歳

 四月、自宅から多摩川までの往復十二キロのはだかジョギングを日課とし実行しはじめる。

 山階芳麿と結び、阻止運動を続けてきた霞網猟は、ついに国禁となる。

 □『山と鳥』(4朋文堂)・『とりのうた』(5東雲堂)

 

昭和三十三年一九五八 六十二歳

 四月、宮城県志津川に鳥塚供養碑の歌碑が建つ。

 五月、新理研映画「大自然にはばたく」で徳川夢声とともに解説に当たる。

 七月、農林省野生鳥獣審議委員会委員となる。

 九月、東京都狩猟資格認定会委員となる。

 □『加賀白山の鳥相』(3農林省鳥獣彙報別刷)・『大自然にはばたく』〈図鑑〉(5小学館) ・『富士山の鳥』(6松尾書店)・『野鳥と共に』〈角川文庫〉(12角川書店)

 

昭和三十四年一九五九 六十三歳

 五月、野鳥愛護運動により比叡山天台座主より権僧正待遇の僧位を特授される。

 同月、山科博士と絶滅寸前のトキの調査のため、石川県羽咋市眉丈山、輪島市洲衛を実地調査。

 五月、『俳句大歳時記』(全五巻・平凡社刊)の鳥の解説を担当(十二月完結)。

 七月、東京都狩猟監視員協議会理事となる。

 九月、国際鳥類保護委員会に参加。

 十月、文部省の委嘱で、佐渡のトキの調査。

 口歌集『安達太良』(2長谷川書房)

 

昭和三十五年一九六〇 六十四歳

 四月、レコード『野鳥の歌』全二巻を日本ビクター社から刊行。

 五月、世界五十カ国の鳥学者を東京に招き、第十二回国際鳥類保護会議を開催、日本代表として出席。トキを国際保護鳥とする。

 □『中西悟堂集』〈新日本少年少女文学全集31〉(5ポプラ社)

 

昭和三十六年一九六一 六十五歳

 六月、白山連峰の別山を縦走、白山各域の鳥相、地相、樹相を調査。

 八月、日本鳥類保護連盟専務理事となる。

 十一月、学術上の功績により紫綬褒章を受章。

 □『白山鳥類分布表』(7日本自然保護協会)

 

昭和三十七年一九六二 六十六歳

 十一月、『定本野鳥記』前期八巻を企画、第一巻『野鳥と共に』を春秋社から刊行。

 □『白山の鳥・その総合と意見』(11石川野鳥の会)・『ファーブル伝』(12ポプラ社)

 

昭和三十八年一九六三 六十七歳

 五月、長野県塩尻峠に小鳥バス歌碑が建つ。

 六月、十年間の国会闘争の末、「狩猟法」に終止符を打って「鳥獣保護法」の新法律が成立。

 七月、政府に中央鳥獣審議会が設置され、委員となる。

 この年より、都道府県鳥制定の運動をはじめる。

 □『定本野鳥記2 野鳥のすみか』(1春秋社)・『定本野鳥記3 鳥を語る』(4春秋社)・ 『野鳥の歌』〈ソノシート〉(5日本ビクター社)・『ぼくらの博物館』全十一巻(7ポプラ 社改訂版)・『中西悟堂集』〈少年少女日本文学全集23〉(8講談社)・『定本野鳥記4 鳥山 河』(9春秋社)

 

昭和三十九年一九六四 六十八歳

 八月、中部日本新聞社の中日社会功労賞受賞。

 □『十人百話』(3毎日新聞社 合著)・『定本野鳥記5 鳥と人』(3春秋社)・『俳句大歳 時記』(4角川書店 春・夏・秋の鳥解説)・『定本野鳥記6 雲表』(10春秋社)

 

昭和四十年一九六五六十九歳

 十月、新潟市白山神社境内に鳥獣供養碑が建つ。

 □『中西悟堂集』<現代少年少女日本文学全集40>(1偕成社)・『定本野鳥記7 平野と島 の鳥』(5春秋社)

 

昭和四十一年一九六六 七十歳

 □『定本野鳥記8 私の風土』(6春秋社)

 

昭和四十二年一九六七 七十一歳

 鳥獣保護により天台宗本山より権僧正を特授される。

 三月、全国都道府県鳥が制定される。

 五月、東京都御岳山神社参道にこのはずく歌碑が建つ。

 □『定本野鳥記別巻 悟堂歌集』(5春秋社)・『県花県鳥』(8東雲堂 共著)

 

昭和四十三年一九六八 七十二歳

 二月、『定本野鳥記』により読売文学賞受賞。

 六月、『悟堂歌集』(『定本野鳥記別巻』)が昭和四十三年度の推薦歌集賞受賞。

 六月、東京八重洲口大阪建物ビルの屋上樹林建設、水道局世田谷給水所屋上の樹林と芝 建設を推進。

 

昭和四十四年一九六九 七十三歳

 平林寺(埼玉県)の自然と文化を守る会の会長となる。

 霧ヶ峰に観光道路ビーナスラインのため日本最古(鎌倉時代)のコロシアム状大遺構、及び日本最深の植物遺体の埋積層八島ヶ池その他の破壊を告発。このため政府命令により工事中止。

 十一月、「詩人連邦」(村松正俊、岡村一二、中村漁波林、中西悟堂ら)と「風報」(尾崎士郎、水野成夫、尾崎一雄ら)が合体して、同人誌「人間連邦」を創刊。

 

昭和四十五年一九七〇 七十四歳

 九月、日本詩人クラブ会長となる。

 同月、練馬区米軍使用地跡地を自然公園にするについての企画立案。

 十一月、日本野鳥の会に財団法人設立許可が出る。

 大台ヶ原原生林の保存を求めて実地踏査、伐採を阻止する。

 

昭和四十六年一九七一 七十五歳

 一月、雁を狩猟鳥から除外する調査・運動を起こし、天然記念物指定の成果をあげる。

 六月、ヨーロツパ短歌の旅(角川書店「短歌」主催、十五日間)に参加、初めて海外旅行を体験。

 八月、環境庁自然環境保全審議会委員となる。

 十一月、琵琶湖の全湖面禁猟を実現する。

 十一月、勲三等旭日中綬章受章。

 沖縄島の米軍実弾演習を、鳥類保護の立場から各方面に働きかけ、中止させる。

 除草剤245Tの使用禁止を政府に迫り実現する。

 世界野生生物基金日本委員会理事となる。

 □『こども野鳥記』全五巻(4~6借成社)

 

昭和四十七年一九七二 七十六歳

 七月、ヨーロッパ野鳥と自然の旅の団長として渡欧。

 十一月、横浜市中区山手町に移住。

 

昭和四十八年一九七三 七十七歳

 一月、宮中歌会始の召人となり参内。

 三月、「アニマ」(平凡社)創刊、今西錦司と監修を委嘱される。同誌に「愛鳥自伝」を長期連載。

 十月、千葉県富津市公民館庭に野鳥碑が建つ。

 伊勢神宮参道拡張工事に際しての保安林大規模伐採を参議院議員加藤シヅエを通じて参議院建設委員会に訴え、中止させる。

 この年、白内障のため入院、手術。麻酔の後遺症で、脊髄変性炎を起こし激痛に悩まされる。

 

昭和四十九年一九七四 七十八歳

 四月、東京都高尾山頂に暁天雲海の歌碑が建つ。

 五月、日本鳥類保護連盟総裁賞受賞。

 □絵本『ことりのごどうせんせい』(9フレーベル館)

 

昭和五十年一九七五 七十九歳

 歴史的遺産「野火止用水」の復元を志し、汚染の調査にとりかかる。

 

昭和五十一年一九七六 八十歳

 「鳥の聖域」を日本にも造成する運動を展開、野鳥保護基金の募集をはじめる。

 十一月、滋賀県山東町三島池畔に自然に学ぶ碑が建つ。

 

昭和五十二年一九七七 八十一歳

 十一月、文化功労者として顕彰される。

 同月、国際水禽調査局日本委員会の発足を提唱、その副会長となる。

 □豪華本歌集『蕋一つ落つ』(2五月書房)・『人・その世界』(8日本放送出版協会 共著)

 

昭和五十三年一九七八 八十二歳

 三月、「人間連邦」終刊。

 七月、荒垣秀雄、古谷綱正、野田宇太郎らと同人誌「連峰」創刊、毎月随筆、評論を書き続ける。

 同月、旧版『定本野鳥記』(全九巻)に新稿六巻を加えて全十五巻とし、装を新たに再刊することになる。

 十月、比叡山恵亮堂前に比叡讃仰歌碑が建つ。

 十一月、金沢市広坂公園内に加賀白山山頂詠歌碑が建つ。瀬戸内海真鍋島に歌碑が建つ。 □新版『定本野鳥記』1~4(9~12春秋社)

 

昭和五十四年一九七九 八十三歳

 五月、長野県軽井沢に高原詩碑が建つ。

 六月、『定本野鳥記』続巻六巻の発行に着手し、『定本野鳥記9 野鳥と環境』を春秋社から刊行。

 □新版『定本野鳥記』5~8(1~4春秋社)・『私の書斎』(9笠井出版 合著)・『自伝抄』(11読売新聞社 合著)

 

昭和五十五年一九八O) 八十四歳

 六月、日本野鳥の会会長を辞任し、退会する。

 □『定本野鳥記13 思索とエッセイ』(6春秋社)・自伝随筆『かみなりさま』(12永田書房)

 

昭和五十六年一九八一 八十五歳

 四月、宮中茶会に招かれ、夫婦で参内する。

 六月、日本野鳥の会名誉会長となる。

 □『自然との対話』(6山と渓谷社 共著)・『一首百景』(11朝日新聞社 合著)

 

昭和五十七年一九八二 八十六歳

 十一月、石川県羽咋市文化会館前に朱鷺の歌碑が建つ。

 十二月、秩父水潜寺に秩父讃仰の歌碑が建つ。

 □『道』第三集(3中統教育図書 合著)

 

昭和五十八年一九八三 八十七歳

 □『定本野鳥記11 野鳥の観察2』(6春秋社)

 

昭和五十九年一九八四 八十八歳

 六月、NHKの「訪問インタビュー」の録画撮り。

 八月、野火止用水の復元が完成し、九年がかりの念願が達成する。

 九月、下肢にむくみが出て、精密検査のため十二日間順天堂大学病院に入院。

 十月、退院したが、衰弱急にすすむ。

 十一月、再び横浜の港南台病院に入院。

 十二月、十一日午後八時、転移性肝臓癌にて死去。

 同月、十四日、目黒区の天台宗滝泉寺にて葬儀。鎌倉霊園の中西家墓地に埋葬。

 同月、勲二等瑞宝章を追賜、正四位に叙せられる。

 □『定本野鳥記10 野鳥の観察1』(7春秋社)

 

昭和六十年一九八五 没後一年

 一月、僧正の位を追贈される。

 五月、野鳥に関する悟堂蔵書と鳥類剥製標本を山階鳥類研究所へ寄贈。

 十二月、「中西悟堂先生を偲ぶ会」が銀座三笠会館で催される。

 □『定本野鳥記15 悟堂歌集』(5春秋社)・『定本野鳥記16 悟堂詩集』(7春秋社)・『定本野鳥記12 野鳥紀行』(12春秋社)

 

昭和六十一年一九八六 没後二年

 五月、長野県軽井沢の「野鳥の森」に悟堂胸像(坂井道久作)が建立される。

 □『定本野鳥記14 恩顧の人々』(7春秋社)

 

昭和六十二年一九八七 没後三年

 四月、東京都調布市の深大寺境内に胸像(西常雄作)が建立される。

 五月、一般蔵書、雑誌類を県立神奈川近代文学館に寄贈。

 

平成五年一九九三 没後九年

 □『愛鳥自伝 上下』(11平凡社)

 

・この年譜の作成にあたっては、『定本野鳥記14』所収、中西八重子編「年譜」を元に、雑誌「アニマ」(昭和60年3月号)、「中西悟堂履歴書」(昭和33年4月)、『中西悟堂会長業績』(昭和53年1月 財団法人日本野鳥の会編)などを参考にし、中西八重子夫人の協力を得て制作した。記して感謝の意を表したい。

 

   中谷宇吉郎 ─見事な出会い─

 

『中谷宇吉郎 雪の物語』(「参考文献」参照)の中の「物語『中谷宇吉郎』」(高田宏監修)に次のような一節がある。

 

 人間の運命とは奇妙なものです。中谷宇吉郎という、世界の雪研究をリードした科学者が生まれるのには、いくつもの偶然が重なっています。

 雪の降る片田舎に生まれ育ったこと、小学校卒業のとき父が死に中学に進むようになったこと、大学で寺田寅彦に出会い実験物理に進んだこと、どれも大きな偶然です。そのうちどれ一つ違っても、雪博士中谷宇吉郎は存在しなかったでしょう。

 

 これに、宇吉郎自身のことばを、並べてみる。

 

 将来の希望を早く決めて、その方向に着々と進むなどということは、普通の人間には出来ないことである。だからその時々に若気の至りでもよいから、ちゃんとした希望を持って進めば、それで充分である。それが何度変転してもかまわない。その時々に大真面目でさえあれば、きっと何かが残るものである。注意すべきことは打算的な考え方をしないという点だけである。(「私の履歴書」本集不収録)

 

「偶然に出会ったその時々を、希望をもって進んだ」のが、ほかならぬ宇吉郎自身の生涯であった。ここで、宇吉郎の、いくつかの出会いをたどってみたい。

  父と母と

「数え年二十二歳の若き父、卯一は宇吉郎出生の朝、『我が家へ鶴が舞い込んだ夢をみた』といい大変喜んだ」(『中谷宇吉郎の幼少年時代』)と伝える。現代の伝記にしては、いささか古典的な表現であるが、長男誕生の喜びと期待の大きさが感じ取られる。

 父の期待通り、宇吉郎は就学前に字の読み書きを覚え、将棋が得意で大人と試合しても勝ったという。そこで父は、その才能をのばすことを考え、大聖寺の母の実家に預け、その町の京逵幼稚園に入れる。そして、その町の錦城小学校に入学することとなる。宇吉郎にとっては、六歳にして親元を離れた生活が始まるのである。

 錦城小学校は、当時、江沼郡の中心校であり、教員組織、設備、教育方法が最もすぐれていた。父が幼稚園から大聖寺を選んだのは、宇吉郎をこの小学校に入れるためであり、入学後の生活環境、友人関係を慮ってのことであったと思う。

 小学校時代については、内容の重複などもあるが、「九谷焼」から「簪を挿した蛇」に描かれている。そこでの体験、人々との出会いなど貴重な経験は、父の意図したもののように書かれている。しかし、その間、母の実家—陶工の家ミ松見家と転居している。幼い身にとって、辛いこと悲しいことはいくらもあったと思うが、これらの随筆には、それはほとんど書かれていない。

 宇吉郎の随筆の中には、「辛い」「悲しい」ということばは、ないのではなかろうか。それに耐え、それを押さえて先へ進もうとした、人生におけるプラス志向がそこに感じ取られるのである。

 さて、九谷焼に熱中していた父は、宇吉郎を九谷の陶工にしようと「工業学校の窯業科に入れるつもりであった。」「ところが小学校を卒業して一週間もたたぬうちに、父が病気で死んでしまった。それで急に工業学校は止して、近所の中学校の入学試験をうけることにした。父が死んだのだから、上の学校へ行かずに、家の業をついだらという話もあったそうであるが、とにかく試験だけは受けてみた。ところが案外成績がよかったので、まあやらせてみようということになって、寄宿舎へ入れられた。」それで「私が生涯物理学をやることになった第一の原因は、父が早く死んだからである。」(「私の履歴書」)というのである。

 結果的には、宇吉郎は、十一番の成績(当時、成績順に発表された)で、石川県立小松中学校に合格したのであるが、志望変更の経緯がちょっと気になる。中学の入学試験は四月一・二日で合格発表は四日である。父の死は四月六日であるから、父は、宇吉郎の合格を知ってからなくなったのである。私は、事実の正否を詮索しようというのではない。このもの言いの裏にある、宇吉郎の父への思いを感じるのである。そして、実際に「中学校の方を希望していた」(「私の履歴書」)宇吉郎の志望がかなえられた裏に、母の存在が感じとられるのである。

 高等学校進学につけても、「一人で家業をやっていた母が、こんな商売をやってもさきの見込みがないから、ずっと大学までつづけたらよかろう」と勧める。そんな母を「中小業者の没落を、あの時代から見通していたのであるから、なかなか傑い母であった。」(「私の履歴書」)といっているが、母が「見通していた」のは、息子の将来であったように思われてならない。この母は、弟治宇二郎の東洋大合格と重なったこともあったろうが、宇吉郎の東大入学を機に、店をたたみ、一家をあげて上京してしまうのである。

  寺田寅彦と

 中学時代――木村栄博士の講演「Z項の話」を聞いて理科を志望。

 四高時代――田辺元の『最近の自然科学』を読み、志望を生物学から理論物理学に変更。

 大学時代――匿名の篤志家により、学資援助を受ける。(「鳥井さんのことなど」参照)

 これらも一つの出会いであったといえようが、なんといっても決定的なのは、寺田寅彦との出会いである。

「大学にはいって、当初志望の理論物理から、また実験物理の方へ転向した。それは二年生になって、寺田先生の実験指導をうけたのが機縁で、その影響によるもの」(「私の履歴書」)であった。それにつけて、同級の親友、藤岡由夫(金沢出身の国文学者藤岡作太郎の長男)は、「はじめはあまり勉強などしている様子もなく、当時詰襟ばかりの学生の間に時々背広服を着てきて皆を驚かせた。『僕は卒業したら会社に行くのだ』などといって、われわれを笑わせたり、理学部会の委員をして社交性を発揮したりした。しかし三年の実験の折に、寺田先生につき、理研に入ることがきまり、先生との交渉が深くなるにつれ、だんだんと学問に対する興味が増していったように思う。私にはやはり先生の感化と、これを素直に受け入れた中谷君の才能を感じた。」(「科学者と随筆」『中谷宇吉郎随筆選集 月報2』所収)と書いている。

 宇吉郎が理化学研究所に入るにつけて、ことは決してスムーズに運んだわけではなかった(年譜参照)。しかしその寺田研究室に入り、寅彦から与えられた研究課題に没頭する。そして、本業の実験物理学ばかりでなく、余技の随筆、俳句、油絵なども師の影響を受け、やがてそこにも才能を発揮するようになる。

  「理学部会誌」と

 宇吉郎は、自分の随筆について「大学へはひつた頃丁度学友会の制度が変つて理学部にも支部が出来、雑誌が出来ることになつた。私は委員をして居たので、原稿が足りなくなる毎に何か書かねばならなかつた。それがかういふものを書き始めた機縁である」(『冬の華』後書)と書いている。支部の委員になったのは、世話好きの中谷宇吉郎のことだから頷ける。しかし、雑誌の編集に関してはどうだろうか。おそらく、その年から理学部選科に籍を置いていた弟治宇二郎をひっぱりこんだのだろう、編集後記にその名が認められる。治宇二郎は、中学時代に同人雑誌を出し、自らその編集に当たっていたくらいであった。(「一人の無名作家」参照)

 一方、作品の方はどうであろうか。原稿不足の穴埋めに仕方なく筆を執ったように書いているが、処女随筆「九谷焼」などを見ると、相当に力が入っている。私には、随筆家としてすでに筆名の高かった吉村冬彦(寺田寅彦の筆名)にあやかろうとした宇吉郎の意識をかいま見るような気がする。それは、現に同じ雑誌に載せた「御殿の生活」なども含めて、代表的な随筆の一つに数えられるといっていい。ここにも偶然の出会いに、素直にしかも精一杯取り組んだ宇吉郎の姿勢を見るといったら言い過ぎになるだろうか。

  「死」と病気と

 大学を出てから十年の間、私には随筆などを書いて見ようといふ気を起さなくても良い位幸運な即ち忙しい日が続いた。其処で突然先生の死に遭つた。そして全集が出ることになつた時私は、(中略)月報に「先生を囲る話」といふのを書かせて貰つた。丁度その頃から私自身も少し健康を害したので、一家を引きあげて伊豆の伊東で暫く静養することになつた。そして又このような随筆などを時々書くことになつて了つた。(『冬の華』後書)
 

 師寺田寅彦の死と自分自身の病気とは、宇吉郎に随筆を書く契機と時間を与えてくれた。

 この十年間、東大講師、英国留学、北大赴任、学位取得、雪の研究と、仕事の上では「幸運な即ち忙しい日が続いた」。しかし、家庭的には、妻との死別、再婚、子女の誕生、愛弟の死亡、妻の大患など悲喜こもごもの十年間であった。

 小宮豊隆は、『冬の華』の序文の中で、「御殿の生活」は、「科学者としての中谷さんよりも、より多く詩人としての中谷さんの面目を、躍如たらしめてゐるもの」と評しながらも、それに比べて十年後の随筆は、「『花の植物生理的機構を学んで後に初めて十分に』味ふ事の出来る、花の美しさの方向で、従つてその美しさの中には、科学の助けを()りて発見されたと言つて()い美しさが、多分に這入つて来てゐる」と書いている。

 これは、宇吉郎が、「文化史上の寺田寅彦先生」という文章の中で引用している寅彦のことばを踏まえたものであるが、「初めて十分に」のあと、「咲く花の喜びと散る花の哀れを感ずることも出来るであらう」と続く。「咲く花の喜びと散る花の哀れ」を実生活の中で体験した宇吉郎は、「出会い」を受け止める目と心が、より広く、より深くなっていったのであろうと思う。

  宇吉郎の随筆

『冬の華』は、科学的随筆家としての宇吉郎の名をポピュラーにした。雑誌や新聞からの原稿依頼が殺到した。一時は、研究と健康との兼ね合いから、発表の数を制限したくらいであった。しかし、やがて「試験前になると小説が読みたくなつた学生時代の習慣が今に残つてゐて、此の頃無闇と忙しくなつて来た私の生活雰囲気が、私の気持ちを駆り立てて、かういふものを書かすのではあるまいか」(『第三冬の華』後書)と思うようになる。

 研究が「雪」から「氷」へと進み、時代が移り、行動半径も世界に広がる。それにつれて「出会う」事柄も人も、数限り無く増えていく。そこから次々と宇吉郎の随筆が生み出されていったのである。

 宇吉郎は、科学者としても、随筆家としても、寺田寅彦の正統を継ぐ弟子といわれている。

 寅彦は、「天災は忘れた頃に来る」と、天災の可能性を指摘するのに止めたが、宇吉郎は、可能性の指摘だけでは満足できず、「天からの手紙」を読んでみせたのである。

「雪は天から送られた手紙である」――文学的な発想を科学的に裏づけてみせるのが、宇吉郎の随筆の方法であるが、「雪」の研究をはじめとして種々の研究も同じ方法であったとはいえないだろうか。

 宇吉郎のふるさと片山津にある「中谷宇吉郎—雪の科学館」の喫茶室「冬の華」の窓は、柴山潟に向かって大きく開かれている。そして遠く、白山が望まれる。湖の先には、雪の結晶をかたどった美しい宇吉郎の墓標がある。

 宇吉郎と同郷の深田久弥はいう、高田宏もいう、ふるさとのイメージは白山、そして雪であると。宇吉郎にしても、それはその人間形成に直接間接の影響力を与えていたに違いない。雪の研究は、北大に赴任し、ベントレイの雪の結晶の写真に偶然出会ったことが契機になったようにも受け取られる。しかし、太田文平氏の指摘(『中谷宇吉郎の生涯』)にもあるが、それは「前から心がけながら延び延びになっていた日本における雪の研究」(岩波新書「雪」)ともらしているように、このテーマは、単なる偶然にもとずくものではなく、宇吉郎の胸中深く潜在していたものであって、むしろ宇吉郎の本質的なものに根ざすものであったといえよう。

  中谷宇吉郎年譜

 □以下は、作品名(誌紙発表の著作が多数に及ぶため、ここでは単行本に限定した)

 

明治三十三年一九〇〇

 七月四日、石川県江沼郡作見村字片山津乙ノ三十六番地ノ一(現在の加賀市片山津温泉)に、父卯一、母てるの長男として生まれる(弟に治宇二郎<じうじろう>、妹に富子、文子、武子、芳子がある)。生家は、呉服および雑貨を主とした中流の商家であった。商人の父は、一方で、九谷焼に異常な愛着をもち、自ら窯を作って九谷焼をやくといったふうの凝り性の人であった。

 

明治三十八年一九〇五 五歳

 将棋を覚え、大人を相手にしたり、字を習い覚え、親類の医院の看板を書く。

 

明治三十九年一九〇六 六歳

 父の教育的配慮から、福田町にある母の実家、三森家に預けられ、京逵(けいき)幼稚園に通う。

 

明治四十年一九〇七 七歳

 四月、大聖寺町錦城尋常高等小学校尋常科に入学、遠縁の浅井一毫宅に預けられる。一毫は、明治時代の九谷焼の名工であった。宇吉郎の陶器に対する愛着や見識は、少年時代に受けた父および一毫の影響が素地となっている。

 

明治四十一年一九〇八 八歳

 この年より大正二年(一九一三)まで、すなわち小学二年から六年に至る間、遠縁の、旧大聖寺藩主の家令松見家に預けられた。そこで読んだ帝国文庫の「西遊記」その他の物語は、少年宇吉郎の心に大きな感動と夢とを与え、間接に後年の文筆生活への萌芽を培っている。

 

明治四十二年一九〇九 九歳

 九谷焼の陶工中村秋塘に英語を習う。英語よりも陶器に関する知識を得る。

 

明治四十三年一九一〇 十歳

 弟治宇二郎、従兄弟矢田資朗らとともに岩崎省三校長夫妻のもとへ勉強に通う(矢田資朗は、後に松太郎を襲名し、片山津温泉矢田屋の主人となり、加賀市長もつとめる)。

 

明治四十四年一九一一 十一歳

 担任の教師から進化論やラプラスの星雲説を聞き、関心をもつ。

 

大正二年一九一三 十三歳

 四月、六日、父卯一死去(三十四歳)。八日、石川県立小松中学校に入学。野球部に入部。在学中、寄宿舎生活を送る。同級に北村喜八(演劇家)がいた。

 

大正六年一九一七 十七歳

 講演に来校した木村栄博士の「Z項の話」を聞き、理科志望の意志を固める。

 

大正七年一九一八 十八歳

 三月、小松中学校卒業。

 七月、金沢の第四高等学校(九月入学)を受験するが落第。東京の予備校に通うが短期間で帰郷、家業を手伝う。

 

大正八年一九一九 十九歳

 四月、第四高等学校理科甲類入学(この年より四月入学)、金沢市寺町に下宿する。弓術部に入る。

 六月、家主の病院勤務医より「地上」の作者島田清次郎について知る。

 

大正九年一九二〇 二十歳

 日本画家中村浩と親しみ、中国古代の青墨の色に興味をもつ。

 

大正十年一九二一 二十一歳

 四月、溝渕進馬校長の推挙で関西の匿名の実業家(実は鳥井信治郎)から、大学進学後、学資援助を受ける事になる。

 七月、哲学書にひかれ、信州の木崎湖での夏期大学に参加、朝永三十郎のカント哲学を聴講。

 十二月、田辺元の『最近の自然科学』に凝り、それが当初の生物学志望を理論物理学に変更する契機となる。

 この年、弓術部の主将として対校試合に出る。

 

大正十一年一九二二 二十二歳

 三月、第四高等学校卒業。

 四月、東京帝国大学理学部物理学科入学。同級に、藤岡由夫、桃谷嘉四郎らがいた。弟治宇二郎も東洋大学に入学。この機に一家は上京して、下谷数寄屋町に住み、母は、呉服店を開く。

 

大正十二年一九二三 二十三歳

 九月、関東大震災に遭い、物質的、精神的に大きな打撃を受け、郷里に帰って中学の教員になる決意をする。

 十月、大阪に帰郷していた桃谷嘉四郎に、和歌浦の別邸へ招かれ、震災を免れた桃谷の下宿に同居し、本などの共同使用を申し出られ、大学を続けることになる。この時、大阪の鳥井邸を訪れ、初めて学資を援助してくれた匿名の実業家鳥井信治郎に会う。

 その後、一家を離れて下宿住まいをし、家計を助けるために弟治宇二郎と中学生の家庭教師をする。

 この年より、寺田寅彦に物理実験の指導を受け、それが機縁となって、実験物理学専攻の生涯が決定される。

 十二月、ニュートン祭(物理教室のクリスマス懇親会)の幹事となり、会計報告のため、初めて寺田寅彦宅に伺う。

 

大正十三年一九二四 二十四歳

 四月、弟治宇二郎、東京帝国大学理学部人類学科選科に入学。

 同月、同級でただ一人選ばれて、寺田寅彦の指導の下、卒業実験、水素の燃焼実験を行う。

 六月、東大理学部会地方講演旅行を計画し、幹事をつとめる。松本高校で「科学雑感」の演題で講演。

 同月、東京帝国大学「理学部会誌」創刊、治宇二郎とともに編集に携わり、原稿不足の穴うめに書いた「九谷焼」という作品が随筆を書く機縁となる。

 

大正十四年一九二五 二十五歳

 三月、東京帝国大学理学部物理学科卒業。経済的な事情から、桃谷の紹介で島津製作所に就職が内定するが、桃谷の次兄の勧めで寺田寅彦の研究室に残ることになる。

 四月、財団法人理化学研究所に入り、寺田研究室の助手として、寅彦の指導を受け、電気火花その他の研究に従事する。

 このころ寅彦の影響を受け、油絵を描き始める。

 「理学部会誌」に詩や随筆を発表。

 

大正十五年・昭和元年一九二六 二十六歳

 六月、宇吉郎の「長い電気火花の形および構造の研究」が帝国学士院で寺田寅彦によって、英文の論文"A Spark"(U.Nakaya)として発表される。

 この研究で、写真を大いに活用したが、写真撮影は、後の「雪氷の研究」に役立つことになる。

 

昭和二年一九二七 二十七歳

 三月、東京帝国大学工学部講師を兼任。

 十一月、藤岡作太郎の長女綾と結婚。

 

昭和三年一九二八 二十八歳

 二月、新設の北大理学部実験物理学教授に予定され、文部省留学生として、英国に留学、ロンドンのキングスカレッジにおいて、リチャードソン教授の下で長波長X線の研究に従事。研究のかたわら、英国物理学会の碩学たちと交わり、英国科学界の気風に共鳴する。

 五月、夫人綾死去。

 同月、帝国学士院で寺田寅彦により、宇吉郎理研時代の研究”Effect of an Irregular Succession of Impulses upon a Simple Vibrating System-Its Bearing upon Semimometry"(U.Nakaya)が発表される。

 

昭和四年一九二九 二十九歳

 七月、リチャードソン教授のもとでの実験が一段落し、渡仏。日仏学生会館に滞在。パリ留学の岡潔に部屋を斡旋。その後、考古学研究のためパリに留学した治宇二郎は、兄を介して岡を知り、親交を結ぶ。

 

昭和五年一九三〇 三十歳

 二月、ドイツ、フランス、アメリカを経て帰国。

 四月、北海道帝国大学助教授として札幌へ赴任、理学部勤務。

 十月、母、妹とともに札幌市南一条西二十丁目に居を構える。

 

昭和六年一九三一 三十一歳

 二月、"Proceedings of the Royal Society"に発表した「各種元素よりの長波長X線の射出について」により、京都大学から理学博士の学位を受ける。

 五月、物理学第三講座担任。寺垣丹蔵長女静子と結婚。

  □『気体内電気現象』〈岩波講座 物理学及び化学・物理学・_B〉(7岩波書店)

 

昭和七年一九三二 三十二歳

 三月、長女咲子誕生。北海道帝国大学教授に任ぜられ、引き続き物理学第三講座を担任。

 四月、寺田寅彦の長男東一が東大を卒業し、宇吉郎の助手として赴任。

 九月、寺田寅彦が北大を訪れ、臨時講義をする。

 この年の夏、アメリカのベントレイの雪の結晶アルバムが出版され、それに刺激を受け、暮ころから「雪の結晶の研究」を始める。雪の結晶の研究は、その後の研究生活の中心をなすようになり、後年の随筆作品にも大きな影響を及ぼす。

 十一月、札幌市北六条西十七丁目の家に移る。

 

昭和八年一九三三 三十三歳

 五月、次女芙二子誕生。

 十二月、初めて十勝へ行き、天然雪の観測を行う。

 

昭和九年一九三四 三十四歳

 十勝で天然雪の顕微鏡写真をとる。天然雪の分類を試み、雪の物理的性質の研究を手がける。

 七月、満州国および中国に出張。

 人工雪・予備実験開始。

 

昭和十年一九三五 三十五歳

 一月、十勝の山小屋で天然雪の観測を行う。

 三月、長男敬宇誕生。

 十月、北大常時低温実験室開設、天然雪とともに人工雪の研究を開始する。

 十二月、恩師寺田寅彦病没。

 

昭和十一年一九三六 三十六歳

 三月、弟治宇二郎死去。治宇二郎は、考古学の俊英として嘱望されたが、パリ留学中に病を得て帰国し、志半ばにして他界した。

 同月、雪の結晶の人工製作に初めて成功。

 六月、日食観測のストラットン教授に同行して、上斜里に行く。

 十月、人工雪の実験を天覧に供する。

 同月、『寺田寅彦全集』が刊行され、その月報「寅彦研究」に「先生を囲る話」を八回にわたって連載(昭和13年まで)。

 十一月、肝臓ジストマを患い、家族とともに伊東に温泉つきの別荘を借り、二年間の療養生活に入る。この間、連句(俳号虚雷)、油絵に親しむ。また寅彦の衣鉢を継ぎ、数多くの随筆作品を新聞や科学雑誌に発表するようになる。

 □『火花放電の近年の研究』〈科学文献抄2〉(3岩波書店)

 

昭和十二年一九三七 三十七歳

 八月、岩波茂雄、小林勇の世話により、慶応大学病院の小泉丹の紹介で武見太郎の診察を受ける。

 この年も随筆作品が多く、総合雑誌にも発表するようになる。

 

昭和十三年一九三八 三十八歳

 六月、小林勇につれられ、幸田露伴宅を訪れ、「雪の話」(昭和十年「経済往来」誌に発表)をほめられる。

 九月、最初の随筆集『冬の華』を小宮豊隆の序文を得て、岩波書店より出版。随筆作家としての地歩を固める。

 『冬の華』刊行直後、九つの雑誌、新聞から原稿の依頼があったが、病後で過労を気遣い、月に一作の割合とする。

 十月、「雪の結晶の研究」に対して服部奉公会賞授与。

 この年の暮ころから、東宝文化映画「雪の結晶」の製作指導を行う。

 □『雪』〈岩波新書〉(11岩波書店)

 

昭和十四年一〇三九 三十九歳

 六月、札幌市南四条西十六丁目に自ら設計したペチカ暖房の防寒住宅が完成し、家族とともに移住。

 八月、前橋で雷の観測開始。

 十月、母照死去(五十六歳)。

 東宝文化映画「雪の結晶」完成。その英語版をワシントンの第二回国際雪氷学会に発表、好評で学会から感謝の決議文が届く。

 かねて札幌鉄道管理局から凍上の研究に対する援助を求められていたが、満鉄の保線責任者となっていた四高時代の親友高野与作からも依頼され、この年の暮ころより、凍上の研究に本格的にとりくみ始める。

 □『雪』〈岩波新書〉(9岩波書店)

 

昭和十五年一九四〇 四十歳

 二月、十勝岳で天然雪の観測再開。札幌鉄道局の嘱託となり、凍上の現場調査を行う。

 六月、北大に臨時講義に来ていた湯川秀樹が肺炎にかかり、宇吉郎宅で一ヵ月あまり静養する。

 七月、前橋市を中心に行われた日本学術振興会雷災防止第九特別委員会の総合観測に参加。

 八月、凍上調査のため満州国に出張。

 十月、仏事で帰郷の機に、足を京都・奈良まで延ばして古寺巡りをする。

 この年の春頃から好んで墨絵を描き始める。

 □『少年少女科学 理化学篇』(2冨山房 鈴木三董吉と共編 「日本の科学」所収)・『実験測定法』〈岩波講座 物理学_A〉(6岩波書店)・『続冬の華』〔第二随筆集〕(7甲鳥書林)・『日本の科学』〈創元選書〉(8創元社)

 

昭和十六年一九四一 四十一歳

 三月、凍上調査のため満州国に出張。

 五月、「雪の結晶の研究」に対して日本学士院賞授与。賞金(一千円)で審美書院刊の『東瀛珠光』と『西域画聚成』を購入。

 十月、凍土地帯視察のため樺太へ出張。

 十一月、設立に尽力していた北大低温科学研究所発足、着氷の研究を開始。

 □『第三冬の華』〔第三随筆集〕(9甲鳥書林).『雷の話 雷の電気はどうして起るか』〈少国民のために〉(12岩波書店)

 

昭和十七年一九四二 四十二歳

 一月、北大低温科学研究所主任研究員となる。

 同月、永久凍土地帯調査のため満州国へ出張。

 二月、ニセコアンヌプリで天幕をはり樹氷の観測を行う。

 六月、母校石川県立小松高等学校(小松中学の後身)で「学問を大切にする」という演題で講演。

 十二月、「雪の物理的研究」を脱稿、岩波書店に渡す(戦災で焼失)。

 

昭和十八年一九四三 四十三歳

 一月、北鮮より奉天、新京へ出張、永久凍土地帯を調査。

 五月、ニセコアンヌプリ山頂の着氷観測所完成。

 九月から十月にわたり満州国へ出張、永久凍土層調査、満鉄の鉄道凍上防止の科学的対策と方法を指導。

 十一月、「土壌の凍結および凍上防止の研究」に対して日本学術協会賞授与。

 □『寒い国』〈少国民のために〉(6岩波書店)・『樹氷の世界』〔第四随筆集〕(9甲鳥書林)

 

昭和十九年一九四四 四十四歳

 三月、三女三代子誕生。

 七月、北部第一四九部隊の根室の霧演習に参加、気球隊の援助を得て、海霧総合研究を行う。以後、霧の人工消散の研究を開始。

 この年より終戦まで総動員法による戦時研究のため主任研究員として「航空機着氷防止の研究」および「千島・北海道の海霧の研究」を指導する。

 □『科学小論集』(4生活社)

 

昭和二十年一九四五 四十五歳

 八月、終戦、ニセコの着氷観測所を解体。この施設を基にして農業物理研究所の設立を準備する。家族をニセコ山麓の狩太村有島農場に移す。

 □『霜柱と凍上』〈日本叢書1〉(4生活社)・『科学の芽生え』〈日本叢書12〉(9生活社)

 

昭和二十一年一九四六 四十六歳

 二月、財団法人農業物理研究所発足、所長となる。

 五月、長男敬宇発病。

 七月、家族とともに札幌に帰る。

 十一月、長男敬宇病没。

 十二月、「雪の結晶」について天皇家に御進講。

 □『農業物理学雑話』〈日本叢書63〉(8生活社)

 

昭和二十二年一九四七 四十七歳

 六月、石狩川洪水の総合観測を行う。

 この年の暮ころより、日映の科学映画「霜の花」の製作指導を行う。

 □『春艸雑記』〔第五随筆集〕(1生活社)・『寺田寅彦の追想』(4甲文社)

 

昭和二十三年一九四八 四十八歳

 三月、大雪山の水資源調査を行う。

 九月、東京都渋谷区原宿に家を新築して家族を移し、自らは札幌に下宿住まいする。

 科学映画「霜の花」完成。朝日文化賞受賞。その英語版は一九四八年のオスローにおける第三回国際雪氷学会に発表され、好評を博する。

 □『楡の花』〔第六随筆集〕(8甲文社)

 

昭和二十四年一九四九 四十九歳

 七月六日、羽田発、米国およびカナダへ出張、T・V・A、ボルダーダムなどを視察し、国際雪分類委員会に出席、約三か月間で帰国。

 □『秋窓記』(!青磁社)・『雪の研究 結晶の形態とその生成』(3岩波書店)・『科学と社会』〈岩波新書〉(3岩波書店)・『北海道の雪』〈子供の国科学文庫!〉(4子供の国社)・『科学への道』〈ワールド文庫〉(7蓼科書房)

 

昭和二十五年一九五〇 五十歳

 八月、農業物理研究所解散、研究室の大半のメンバーは東京などに転住。

 □『霜の花』(1甲文社 花島政人と共著)・『霧退治』〈科学物語〉(3岩波書店)・『立春の卵』〔第七随筆集〕(3書林新甲鳥)・『花水木 あめりか物語 第八冬の華』〔第八随筆集〕(7文藝春秋新社)・『沙漠の征服 アメリカの国土開発』〈岩波新書〉(10岩波書店)・『中谷宇吉郎随筆集_』〈角川文庫〉(10角川書店)・『積雪』〈岩波写真文庫〉(10岩波書店)

 

昭和二十六年一九五一 五十一歳

 潜水探測機(くろしお号)を完成。

 この年の暮れから翌年の正月にかけて、扁桃腺の除去と、蓄膿症の手術のために入院。

 □『中谷宇吉郎随筆集_』〈角川文庫〉(6角川書店)・『日本のこころ 第九冬の華』〔第九随筆集〕(8文藝春秋新社)・『立春の卵』〈創元文庫〉(9創元社)・『地球の円い話』〈アテネ文庫〉(10弘文堂)・『霜柱と凍上』(11前橋営林局治山課編)・『浦島太郎』(12暮しの手帖社)・"Compendium of Meteorology"(分担執筆 12アメリカ気象学会)

 

昭和二十七年一九五二五十二歳

 六月、米国に出張。雪・氷・永久凍土研究所(SIPRE)の顧問研究員として氷の単結晶の研究を開始。

 七月、家族とともにシカゴ市郊外のウィネッカに居住。

 □『中谷宇吉郎随筆集_』〈角川文庫〉(3角川書店)・『水と人間』〈少年少女科学の研究室1〉(6三十書房)・『日本の発掘』〈教養新書〉(7法政大学出版局)・『イグアノドンの唄 第十冬の華』〔第十随筆集〕(12文藝春秋新社)

 

昭和二十八年一九五三 五十三歳

 この年いっぱい米国のSIPREで研究に従事。

 □『冬の華抄 上』〈創元文庫〉(6創元社)・『冬の華抄 下』〈創元文庫〉(6創元社)・『新編日本の科学』〈創元文庫〉(8創元社)・『寺田寅彦・中谷宇吉郎集』〈現代随想全集10〉(9創元社)・『民族の自立』〈一時間文庫〉(12新潮社)

 

昭和二十九年一九五四 五十四歳

 八月、娘咲子、芙二子を米国に残して家族とともに帰国、原宿に戻る。

 この年、片山津名誉町民として表彰される。

 口"Snow Crystals : Natural and Artificial"(3ハーバード大学)

 

昭和三十年一九五五五十五歳

三月、三年間にわたるプロジェクト研究「雪の物理」開始。

六月、長女咲子、米人原子工学技師トーマス・オルスンと結婚。

八月、米国へ出張、ウッズホールの「降水の物理学会」へ出席。

九月、「文藝春秋」所載の「科学と国境」が、文藝春秋読者賞を受賞。

 □『冬の華抄』〈新潮文庫〉(3新潮社)・『知られざるアメリカ 第十一冬の華』〔第十一随筆集〕(5文藝春秋新社)

 

昭和三十一年一九五六 五十六歳

 四月、米国の「雪・氷・永久凍土研究所」に氷の研究第一報告、"Properties of Single Crystals of Ice, Revealed by Internal Melting"を提出。

 この春、NHKの教養大学講座で「科学の方法」を九回にわたって放送。

 八月、北海道開発審議会特別委員となる。

 十月、北大地球物理学第四講座担任、物理学第三講座兼任。

 十二月、米国へ出張、ハワイのマウナ・ロア山頂で凝結核の観測を行う。

 □『百日物語』(5文藝春秋新社)・『科学と人生』〈河出新書〉(6河出書房)・『寺田寅彦・中谷宇吉郎集』〈中学生文学全集19〉(7新紀元社)

 

昭和三十二年一九五七 五十七歳

 二月、米国より帰国。

 六月、家族とともに米国へ出張。グリーンランドの氷冠の研究を開始。国際雪氷学会副委員長に選ばれる。

 九月、米国より帰国。

 

昭和三十三年一九五八 五十八歳

 七月、米国グリーンランドに出張後、スイスのシャモニーの国際雪氷委員会に出席。

 十月、フランス留学中の芙二子を伴って帰国。"SIPRE"に氷の研究第二報告、"Mechanical Properties of Single Cristals of Ice"を提出。

 □『北極の氷』(4宝文館)・『科学の方法』〈岩波新書〉(6岩波書店)・『黒い月の世界』〔第十二随筆集〕(7東京創元社)・『中谷宇吉郎集』〈現代知性全集21〉(12日本書房)

 

昭和三十四年一九五九 五十九歳

 二月、米国に出張、グリーンランドで氷の研究を続ける。

 三月、米国より帰国。

 四月、北大地球物理学第四講座担任を免ぜられ、物理学第三講座担任。

 同月、文春画廊で小林勇とともに墨絵の二人展を開く。

 五月、家族とともに米国・グリーンランドに出張。ウッズホール降水の物理学会に出席、T3氷島視察。"SIPRE"に氷の研究第三報告、"Visco-Elastic Properties of Snow and Ice in Greenland Ice Cap"を提出。

 滞米中、次女芙二子のヨーロッパで描いた油絵と、宇吉郎の墨絵の展覧会を開催。

 十一月、米国より帰国。"SIPRE"に氷の研究第四報告、"Visco-Elastic Properties of Processed Snow"を提出。

 □『寺田寅彦 比較科学論』〈日本文化研究4D〉(4新潮社)・『文化の責任者』(8文藝春秋新社)

 

昭和三十五年一九六〇 六十歳

 五月、東京第一ホテルにおいて還暦祝賀会があり、「助六」を踊る。

 六月、米国・グリーンランドに出張、途中アラスカのメンデンホール氷河を視察する。

 八月、初孫アンソニー・ウサブロー・オルスン誕生。米国より帰国。

 十月、札幌で還暦祝賀会を行う。その後、武見太郎の紹介で、東大病院に入院、前立腺癌の手術を行う。

 十一月、退院。"SIPRE"に氷の研究第五報告、"Structure of Age-Hardenning Disaggregated Peter Snow"を提出。

 □『中谷宇吉郎集』〈私たちはどう生きるか20〉(3ポプラ社)・『北海道』(7中外書房 木田金次郎と共著)

 

昭和三十六年一九六一 六十一歳

 四月、病が小康を得て、関西へ家族旅行をする。

 同月、文春画廊で小林勇と墨絵の第二回二人展を開く。

 五月、札幌で開催された日本気象学会の大会委員長を勤める。

 十一月、母屋続きに研究室を新築し、北大から氷の研究資料を取り寄せ、佐藤嬢を助手として、氷の研究に関する最後の整理を始める。

 この年、南極のイギリス領域の島の一つに「ナカヤ・アイランド」と命名される。

 十二月、池田首相と新春番組のための座談会の収録を行い、それ以後病床につく。

 口『物理学者の心 寺田寅彦・中谷宇吉郎』〈科学随筆全集1〉(11学生社)・『太陽は東から出る』(12新潮社)

 

昭和三十七年一九六二 六十二歳

 二月、北大物理学第三講座担任を免ぜられ、分担を命ぜられる。病床にありながらも、氷の研究の纏めに心を砕き、病苦に耐えて整理を指揮し、"Snow Cystals"の姉妹編として意図した氷の研究の約三分の二をなしとげる。

 三月、東大病院に入院。

 四月、十一日、東大病院において骨髄癌のため死去。翌日、正三位勲一等に叙せられる。十四日、青山斎場において葬儀を行う。

 

昭和四十年一九六五 没後三年

 四月、加賀市中島町の中谷家の墓がある共同墓地に、名誉町民だったので、町から土地を提供され、妻と娘たちの設計により墓が建立される。墓碑銘は、安倍能成の書、墓誌は、茅誠司による。

 夏ころ、グリーンランドの氷冠に、弟子の熊井基によって宇吉郎の遺品が埋められる。

 □『寺田寅彦・中谷宇吉郎・緒方富雄・湯川秀樹集』〈少年少女科学名著全集19〉(4国土社)

 

昭和四十一年一九六六 没後四年

 六月、『中谷宇吉郎随筆選集』全三巻が、岡潔・茅誠司・藤岡由夫らの編集で朝日新聞社から刊行開始、十月完結。

 □『極北の氷の下の町』〈暮しの手帖の本〉(7暮しの手帖社)

 

昭和四十四年一九六九 没後七年

 □『坪井忠二・寺田寅彦・中谷宇吉郎』〈随想全集8〉(6尚学図書)

 

昭和五十年一九七五 没後十三年

 十一月、加賀市名誉市民章受章。

 

昭和五十四年一九七九 没後十七年

 妻静子により『中谷宇吉郎画集』(限定四百部)が中央公論美術出版社から刊行。

 

平成六年一九九四 没後三十二年

 十一月、加賀市潮津町に、加賀市「中谷宇吉郎 雪の科学館」開館。

 

・この年譜の作成にあたっては、『中谷宇吉郎随筆選集 第三巻』所収、中谷静子・小口八郎編「中谷宇吉郎年譜」を元に、山下久男著『中谷宇吉郎の幼少年時代』、太田文平著『中谷宇吉郎の生涯』などを参考にし、中谷芙二子氏の協力を得て制作した。記して感謝の意を表したい。

 

 

 

   谷口吉郎 ─清らかな意匠と文学─

 

 谷口吉郎は、自伝『建築に生きる』の中で、関東大震災によって、日本の代表的な建築物が倒壊したことにショックを受け、「それが高等学校の学生であった私に、『建築』というものの意義を意識させた。幼いころから建築と庭園が好きだったので、それへの志向が一層強められるのを、その時、我が胸に感じた。」(「建築家志望」)と書いている。

 吉郎の生家は、九谷焼の窯元であった。中谷宇吉郎が、「九谷窯元と書いた看板が、軒並みに並んでいたが、皆寺井でつくったものばかりだった。ただ一軒、犀川の橋の袂にあった大きい店で、自分で窯をもって研究しているらしい、親切な製品を並べている所があった。」(「九谷焼」)と書いているが、それは、吉郎の生家の「金陽堂」だったのではなかろうか。そんな窯元の長男として生まれた吉郎が、家業を離れて建築の道を選んだ。それを許した父は、「わが子の希望を重んずる」だけでなく、その才能のありかと、将来に期するところがあったに違いない。それと同時に、「時代の造形意識が陶磁から建築に移ろうとしてい」た(「建築に生きる」)という時勢も感知していてのことだったのではないだろうか。

 さて、吉郎は、大学入学以降、建築家としての道をただひたすらに歩みつづける。そして、約二百余件の作品を遺した。ただ、その三分の一に当たるものが、文学碑、墓碑、ならびにそれに関係するものであるところが、他の建築家に類をみない特色である。ここに建築家谷口吉郎の文学志向の現れが見られるといえよう。

谷口建築の土壌

 谷口吉郎は、「建築家であったと共に詩人的素質の豊かな美学者でもあった。」と終生の友人野田宇太郎が端的に評している。その詩人的素質は、そのふるさとで育てられた。

 

・犀川の近くで生まれ、童心を川岸で育てられた私の意匠心に、その清流がいろいろな感化や影響をあたえている。

・暗い雪国の暮らしには、色彩と光明を求める願望が強い。それが庶民の美意識となり、大工や職人の腕に今も生きている。このような北陸のきびしい風土には特殊な造形感覚が成長している。その中で最も見事な色彩効果を発揮したのは「古九谷」の出現だった。その流れを汲む「窯元」の家に、私は生まれた。

・金沢は古い城下町で、今でも市内に藩政時代の武家屋敷や土塀が残り、昔のたたずまいが濃いが、片町あたりにはハイカラな活気がみなぎっていた。しかし、町の住人には伝統に育てられた美的教養が重んじられ、ハイカラな新風の中にも城下町にふさわしい気品が尊ばれていた。私はそんな町内に育った。

・絵付けをする陶工たちの仕事ぶりや、勢いよく燃える窯の炎が、私の目に焼きついている。その窯から取り出される製品の発色が、私には忘れられない鮮やかな色彩となっている。

・金沢には、茶と能が家庭に普及している。しかし、父母は私にそのけいこを強要しなかった。それにもかかわらず、茶と能は父母を通して、私の美的センスに感化を与えている。
 

 以上は、「建築に生きる」からの引用であるが、このような環境によって吉郎の「詩人的素質」が育っていったのであろう。

 一方、「豊かな美学者」たるべき素養が培われていく様相は、その大学時代にうかがわれる。

 大学に入って、吉郎は専攻の建築学の講義のほかに、文学部で美術史の講義を聴講する。また美術学校まで足を延ばし、特別講義を聴いたりしている。それについて「下宿生活の」「寒々とした気分を避けるため」と書いている(「大学時代」)が、「私の知識欲はさらに越境し」、美学、歴史学、日本演劇史、日本絵画史などを聞きかじったと、本音をもらしている。

 学外では、芝居――「歌舞伎にも新劇に」も魅せられるようになる。これも「味気ない下宿生活からの逃避だった」とはいうものの、舞台装置に熱中し、スケッチ・ブックに写し取るほどの凝りようであった。歌舞伎と新劇の舞台装置の相違、わけても欧米の戯曲を取り上げ、表現派の舞台装置も試みられていた築地小劇場の舞台が、吉郎の興味を引いたのではなかろうか。

 しかし、小山内薫の講演を聞き、「氏の主張するドラマツルギーは建築設計にも大切なことだと思」うくらいに覚めていたし、芝居の世界への誘惑を断ち切るために、自ら書き溜めたスケッチ・ブックを破り捨てたりしている。

 このほか、おそらく文学・音楽・美術などに親しむ生活があったろう。こうしてあくなき好奇心は、建築を芯にして、豊かな美学を自然と培養していったのであろう。

  「花の書」

 東大大学院時代から、吉郎は、建築に関する文章を発表している。「建築は口ではない」以下三編がそれに当たるが、これらは、随筆というよりも建築評論である。ただ、発想は建築にあっても、著者自身無意識だったかも知れないが、文章には、文学的な修辞が見られる。

 当時の建築界は表現主義・インターナショナリズム・構成主義など名称はまちまちであるが、いわゆる前衛建築が新思潮として特に若い建築家の間で迎えられた時代である。

 吉郎の建築作品も、インターナショナル様式——科学的、合理的で合理主義建築の典型のような構造を持っている。ところが、一見合理主義的であり機能主義のかたまりであるかのごとき建築に、人の心をとらえる何かが感じられるものが、吉郎の建築にあるという。それは、吉郎の持つポエジーからくるものであったのではなかろうか。インターナショナリズムによりながら、生得の詩心と科学する心が、そこに安住することを許さなかったのではなかろうか。

 さて、このころから、軍国主義への傾斜が始まり、建築のデザインにまで国粋的な干渉の手が伸びる。一方建築資材の統制も厳しくなって、建築の退潮もめだってきた。そんな中にあって、吉郎は、詩心をおさえて研究室に閉じこもらざるを得なくなる。

 折も折、ベルリンの日本大使館の建設に関係することになり、ドイツへ出張する機会を得た。そして、吉郎の建築の指針となったシンケルに出会ったのである。

 『世界大百科事典』(平凡社 一九六六年版)のシンケルの項は、吉郎の担当である。

 

 シンケル Karl Fiedrich Schinkel 一七八一 ~ 一八四一 ドイツ古典主義建築の巨匠。 ベルリンで見た建築家ギリーの作品《フリードリッヒ大王記念営造計画》に感激し、一七九七年ギリーに師事した。一八〇三年イタリアへ旅行し、帰国後は画家または舞台装置家として働くうち、見いだされて宮廷建築家に任ぜられ、厚遇された。当時ゲーテ、およびデンマークのトルヴァルセンと並んで北欧古典派の三巨匠の一人とされた。彼はペリクレス時代のギリシャを理想としたが、古典に対する理解が深く、その作品が単なる古典形式の表面的模倣にとどまらなかった点、古典主義者ではあるが、実質的にはつぎの時代の近代建築の先駆をつとめたともいいうる。晩年には鉄筋・鉄骨などの新構造にも興味を示していた。
 

 清家清氏は、「風土と建築」(『谷口吉郎著作集第四巻』解説)の中で、「この短いシンケルについての批評で、先生は無意識に御自身をシンケルに擬していらっしゃるのではないかとも思った。(中略)今となっては、先生に伺ってみるすべもないが、シンケルの作品の前で、御自身の来しこの方に思いをめぐらされたに違いない、九谷焼の窯元に生れ、その自分が建築に志して、窯元の名家を捨て、故郷を棄て、無国籍のインターナショナルスタイルを自己の様式として進んでこられたわけだ。しかし丁度何か行きづまりにも来ていて、思い悩んでおられたに違いない。それが今、シンケルの西洋古典主義の建築に向き合うことによって、風土と伝統に開眼された。」と書いている。

 吉郎が一年足らずの出張から帰国した当時の日本は、建築界の暗黒時代で、思想的にも建築資材の不足からみても、活動の余地は極めて少なかった。科学する心は、研究室で満たされても、詩心は癒すすべもない。

 やがて、吉郎は友人太田千鶴夫(作家・医者)らと「花の書の会」を作る。

 

 その会は先生(木下杢太郎)を中心として、文芸や美術のことを親しく語りあう同好会であって、毎月一回、会合が催される。同名の同人雑誌も発行していた。メンバーは太田千鶴夫、野田宇太郎、川田茂一の各氏のほか、阪本越郎、長谷川千秋、緒方富雄、村田潔、石中象治等の文学、医学、美術史関係の人々に、画家の海老原喜之助氏、彫刻家の木村章平氏等と私が加わり、太田先生(木下杢太郎)と親しかった中野重治氏もよく会合に参加された。

 会の名称は私が考えたもので、別に深い意味があったわけではないが、時勢が暗い方向へ押し流されて行く時、花の美しさ、いとおしさに心をひかれ、書物を書いたり、美術や学術を話し合う会という意味で、そんな名称を考えたところ、太田先生もそれに同意された。(「木下杢太郎詩碑」)
 

「花の書」四号の「後記」に「この間、同人たちが寄りあつた時、この本を、こんなものにしようと云ひあつた。どこか森の奥に泉がわいてゐて、そこには鳥や獣たちが喉をうるほしに、時折やつてくる。他所で、いやな気持ちになつた時も、こゝへ来ると、その清らかな水で、心も洗はれてしまふ。鳥や獣たちの世界に、いろんな事件が起らうとも、その泉の水面には、晴れた空の色や雲の行き来が写つてゐて、そのあたりには、四季の花が美しく咲いたり散つたりしてゐる、そんなものにしようと。(T記)」とある。「T」は、谷口に違いない。印刷は、昭和十六年十二月二十五日、戦争が始まったばかりの時である。 「花の書の会」で、吉郎が私淑するようになった医学者太田政雄は、作家木下杢太郎であった。そしてその師は、医学者森林太郎こと森鴎外である。しかも共に官界、学会という組織に身を置いていた。吉郎には、科学と、文学や芸術とのかかわりあいにおいて、この二人に倣うことが多かったと思われる。

 「花の書」の創刊は昭和十五年九月十五日で、吉郎は、「ベルリンの冬」を載せている。これは、戦後、他紙に発表した作品と合わせて「ベルリンの冬の思ひ出だつたので、『雪あかり日記』と云ふ題をつけて」(同書「あとがき」)刊行される。それらは、「旅行中、いつも『建築』に自分の目を向けてゐた。いつも私は心を、建築に注いでゐた。それで、旅愁をなぐさめてくれるのも建築だつた。私は、自分の意匠心が『旅の心』によつて、清められるのを感じてゐた。そんな気持を思ひだしながら、私はこの日記を書いた。」(あとがき)ものであった。ここにはっきりと、吉郎の文学的発想が感じとられる。

 なお、この書の校正中に、父の死に遭い、吉郎は、「この書を父の霊前に捧げる」としている。

 この間、吉郎は、耳庵松永安左ヱ門の親交を得て、しばしば山荘の茶室に招かれた。戦時下の厳しい茶事であったが、名品ぞろいの茶道具に接し、同じ招待客である各界の第一級の人と交わる機会も得た。貧しい時代と反対に、吉郎の心は豊かになっていったのである。

清らかな意匠

 『建築に生きる』の「あとがき」に、「私の物の見方や考え方に郷里の『雪』がいつも美しい背景となっているような気がする。そのため私の意匠心もその感化を受けていることを」感じるとある。その「清らかな意匠」を念願として、吉郎は、数々の建築物を世に残した。佐藤春夫から「文章は蚕が絹糸をはくようなものだ」と聞かされ、「文章が蚕の絹糸であるなら、建築とは水晶の結晶のようなものではなかろうか。(略)文章に詩があるように、建築にも詩があるとすれば、私の求めているものは、水晶のごとき建築であろうか。そんな建築を私は念願している。」(「人生の背景」本集不収録)と思いをめぐらしている。それがそのまま文章の場合にも、生き方にまでも通じているように思う。詩のある、純度の高い、すなわち清らかな意匠に彩られた世界である。

谷口吉郎年譜

 □以下は、主な著作(各種誌紙発表の著作が多数に及ぶため、ここでは単行本に限定した)

 ■以下は、主な作品(竣工の月と設置場所)

 

明治三十七年一九〇四

 六月二十四日、石川県金沢市片町一丁目六番地に、父吉次郎、母直江の長男として生まれる(姉、弟、妹二人がある)。生家は、祖父吉蔵が開業した九谷焼の窯元金陽堂。父は、家業を継ぎ、各国で開催された博覧会に製品を出品して、数々の賞を受ける。父母ともに謡と茶をたしなみ、能と茶の雰囲気のある家庭に育つ。

 

明治四十一年一九〇八 四歳

 五月、姉音喜死亡(五歳)。

 十二月、弟吉二誕生。

 

明治四十三年一九一〇 六歳

 四月、英和幼稚園に入園。ジヨンソン先生から英語の唱歌を習う。

 

明治四十四年一九一一七歳

 四月、石川県立師範学校付属小学校入学。

 

明治四十五年・大正一元年一九一二 八歳

 十月、妹正子誕生。

 

大正三年一九一四 十歳

 八月、妹千代子誕生。

 

大正四年一九一五 十一歳

 四月、師範学校が男子部と女子部とに分かれたため石川県立男子師範学校に移る。

 

大正六年一九一七 十三歳

 三月、石川県立男子師範学校付属小学校卒業。

 四月、石川県立第二中学校入学。英文字に興味をもち、そのレタリングを得意とする。兼六園を通って通学、公園のたたずまいは、造形感覚を養う役割を果たす。

 

大正八年一九一九 十五歳

 八月、神戸の叔父(与十郎、元町に九谷焼店を開業、輸出を担当)を訪問中、腸チフスにかかり、回復が遅れたため、一年原級に留まる。

 

大正十一年一九二二 十八歳

 三月、中学四年修了で第四高等学校理科甲類に合格。

 四月、第四高等学校入学。高等図学担当の星野信之教授の影響を受ける。旅行部に所属、夏はアルプス、冬は長野県ヘスキーに出かけ、一本杖のスキーを始める。

 

大正十二年一九二三 十九歳

 九月、関東大震災。少年時代に見て感動した丸ビル、三越、帝劇、浅草の十二階が倒壊したことを聞き、強いショックを受ける。それが建築の意義を意識するきっかけとなり、建築への志向が高まる。

 

大正十三年一九二四 二十歳

 四月、徴兵検査を受け、丙種合格になる。

 

大正十四年一九二五 二十一歳

 三月、第四高等学校卒業。

 四月、東京帝国大学工学部建築学科入学。本郷の裏町で生まれて初めての下宿生活を送る。設計製図に熱中するかたわら、文学部や東京美術学校で美術の講義を聴く。演劇にも凝り、舞台装置に関心を寄せる。

 

昭和三年一九二八 二十四歳

 三月、東京帝国大学工学部建築学科卒業。卒業設計の「製鉄所」が、教授の推薦により、建築学会誌「建築雑誌」に掲載される。

 四月、東京帝国大学院入学。工場建築の研究に従事。日本大学予科の講師として図学担当。

 この年、建築学会主催の建築会館コンペで一等七案のひとつに選ばれる。

 

昭和四年一九二九 二十五歳

 東京朝日新聞社主催の中小住宅建築設計競技で入選。

 

昭和五年一九三〇 二十六歳

 三月、東京帝国大学大学院修了。

 四月、東京工業大学講師となり、「建築計画」担当、環境工学を研究。かたわら、学内の復興部でキャンパス整備計画に参加。

 十二月、建築家は合目的性を重視し、社会に奉仕すべきことを主張(「ル・コルビュジェ検討」ミ「思想」12月号)。

 

昭和六年一九三一 二十七歳

 五月、東京工業大学助教授となる。実験室に入り、建築の理学的特性の研究を始める。「建築衛生」の講義担当を機に東京帝大伝染病研究所の講習会に出席、医学の講習を受ける。

 十月、佐野利器教授の仲立ちで、教授の大学時代の同級生松井清足(建築会社大林組東京支店長)の二女絹子と結婚、洗足駅の近くに新居を構える。

 

昭和七年一九三二 二十八歳

 東京工業大学水力実験室設計、このデビュー作は、日本の初期のモダニズム建築の代表例となる。この間、清純な造形にあこがれる意匠心がわき、設計におけるモチーフ「清らかな意匠」への志向のきっかけとなる。

 慶応義塾の財務理事槙智雄から「塾の建築に魂を入れてほしい」と幼稚舎の設計を依頼される。以後、慶応の施設を多数設計することになる。

 ■東京工業大学水力実験室(8目黒区大岡山)

 

昭和八年一九三三 二十九歳

一月、長女真美子誕生。

 

昭和九年一九三四 三十歳

 九月、室戸台風襲来。倒壊家屋が多出し、風圧に対する研究が緊急課題となり、学術振興会の委託で、風洞実験に専念することとなり、「建造物に作用する風圧の実験研究」に取り掛かる。

 

昭和十年一九三五 三十一歳

 教条主義的なモダニズムを批判し、それを乗り越える道を提示するものとして実験住宅・自邸をつくる。

 

昭和十一年一九三六 三十二歳

 十二月、「化膿した建築意匠」(「科学ペン」12月号所収)で、京都御所清涼殿や桂離宮、修学院離宮を例に日本の古建築にモダニズム建築との類似が見られることを指摘。

 

昭和十二年一九三七 三十三歳

「慶応義塾発祥の碑」の設計依頼を受ける(完成は昭和三十三年)。

 十月、長男吉生誕生。

 ■慶応義塾幼稚舎校舎(渋谷区恵比寿)

 

昭和十三年一九三八 三十四歳

 一月、建築学を総合する建築意匠学の必要を説く(「建築意匠学・序説」ミ「建築雑誌」1月号)。

 十月、伊東忠太教授の推薦でベルリンに新築される日本大使館の工事に関与し、日本庭園を作るため外務省の嘱託としてドイツ出張。シンケルの建築に出会い、西欧・北欧の建築や美術を訪ねる。

 この年、「東京朝日新聞」〈槍騎兵〉欄に三回にわたって随筆を発表(五月)するなど、各種誌紙に随筆を多数発表。

 ■慶応義塾大学予科日吉寄宿舎(1横浜市港北区箕輪町)

 

昭和十四年一九三九 三十五歳

 八月、第二次世界大戦が勃発したため、ノルウェーで、最後の帰還船靖国丸に乗り、アメリカ経由で十月帰国。

 

昭和十五年一九四〇 三十六歳

 九月、太田千鶴夫らと花の書の会を始め、機関紙「花の書」に創刊号から随筆を発表。木下杢太郎に親しむ。

 十一月、鹿鳴館の取り壊しを惜しむ「明治の愛惜」を「東京日々新聞」に寄せる。

 

昭和十六年一九四一 三十七歳

 三月、「国土美」(『公論』三月号所収)で「意匠心」という語を用いる。つくり手のひたむきな心のあり方を称賛するもので、以後この語を愛用。

 このころから松永安左衛門、木下杢太郎、野田宇太郎、佐藤春夫らと親交を深め、茶の湯、文学、美術の世界に沈潜。

 

昭和十七年一九四二 三十八歳

 五月、「建築物の風圧に関する研究」により日本建築学会学術賞を受賞。その成果は、構造関係法規に採用される。

 九月、『ギリシャの文化』(村田潔共編・大沢築地書店)に「シンケルの古典主義建築」を発表、シンケルを例に、古典の美の普遍性を認め、モダニズムを相対化。

 

昭和十八年一九四三 三十九歳

 二月、「建築物の風圧に関する研究」により工学博士の学位を受ける。

 三月、東京工業大学教授となる。

 八月、二女真紀子誕生。

 秋、妻と子供たちを金沢市寺町へ疎開させる。

 松永安左衛門から、埼玉県にある柳瀬山荘の茶室久木庵にしばしば招待される。

 墓所の設計としては最初の、槙家の墓所完成。

 

昭和十九年一九四四 四十歳

 十月、「文芸」の編集長野田宇太郎、編集顧問木下杢太郎のすすめにより、ベルリン滞在記を「雪あかり日記」と題し、「文芸」十一月号に発表、佐藤春夫、川端康成、火野葦平らから好評を受ける(翌二十年三月号まで五回連載)。

 

昭和二十年一九四五 四十一歳

 七月 父急性肺炎にて死亡(七十三歳)。

 八月、終戦。

 

昭和二十一年一九四六 四十二歳

 野田宇太郎の仲介で、藤村記念堂の設計を引き受け、記念性や風土を、比例を手がかりに表現する道をさぐる。

 七月、野田宇太郎のすすめで、「雪あかり日記」の続編を「せせらぎ日記」と題して、「藝林_歩」七月号より四回にわたって連載。

 

昭和二十二年一九四七 四十三歳

 十一月、野田宇太郎の仲介で、最初の文学碑となる徳田秋声文学碑が金沢の卯辰山公園に完成。除幕式で川端康成に会う。

 十二月、最初の随筆集『雪あかり日記』を東京出版より刊行。

 ■藤村記念堂(長野県木曽郡山口村)

 

昭和二十三年一九四八 四十四歳

 十一月、『清らかな意匠』を自装で朝日新聞社から刊行。さまざまな意匠の神髄を求めようとした意匠論を展開。

 

昭和二十四年一九四九 四十五歳

 藤村記念堂と慶応義塾大学四号館・学生ホールの設計。慶応義塾大学関係では、菊地一雄や猪熊弦一郎と協同(建築家と美術家が協同した最初の例)。その後、猪熊とは親友となり、そのすすめで、新制作派協会に建築部を創設し、丹下健三や前川國男と参加。建築・彫刻・絵画の一体化を主張する。

 十二月、「ブルーノ・タウトについて」御進講、日本建築とモダニズム建築の類似を説き、日本建築の普遍性を述べる。

 

昭和二十五年一九五〇 四十六歳

 五月、藤村記念堂と慶応義塾大学四号館・学生ホールの設計により第一回目本建築学会作品賞受賞。

 十二月、文化財専門審議会委員として、文化財保護法年制定に関わる。

 

昭和二十六年一九五一 四十七歳

 十月、上野松阪屋にて「新日本茶道展」開催、堀口捨己氏らと新様式の茶室を提案。

 慶応義塾大学第二研究室(万来舎)でホールと庭園をイサム・ノグチと協同設計、建築と現代彫刻による空間構成を試みる。

 ■佐々木小次郎の碑(4北九州市手向山公園)

 

昭和二十七年一九五二 四十八歳

 文化財専門審議会委員として、文化財保護法(昭和二十五年制定)が根づくのに協力。

 ■石川県繊維会館(金沢市西町 現金沢中央公民館別館)

 

昭和二十八年一九五三 四十九歳

 三月、十和田湖の国立公園記念碑の設計を依頼され、高村光太郎に会い、彫刻制作を依頼する。

 秩父セメントの諸井貫一社長から工場の設計を依頼され、生産性だけでなく、明るくて美しい工場の必要性を説く。

 十一月、「毎日新聞」〈庭園を訪ねて〉欄に三回(毛越寺・金閣寺・清涼殿)連続執筆。

 ■佐藤春夫詩碑(10青森県十和田町)

 

昭和二十九年一九五四 五十歳

 十一月、現代の眼「日本美術史から」(東京国立近代美術館)の会場構成。日本の古美術への愛情を光や色を使った演出で表現。

 慶応病院特別病棟の設計で、アメニティ重視の病院を実現。

 十月より、「日本経済新聞」〈美の美〉欄に随筆を連続(一部翌年)執筆。

 □『意匠日記』(4読売新聞社)

 ■石川県議会議事堂(金沢市広坂)・森鴎外詩碑(7文京区千駄木)・薄田泣董詩碑(11倉敷市連島公園)

 

昭和三十年一九五五 五十一歳

 一月、「文藝春秋」一月号から三月号まで〈寸言集〉に随筆を連載。

 十二月、現代の眼「アジアの美術史から」(東京国立近代美術館)の会場構成。

 猪熊弦一郎を囲む日曜画家の会シャグリ会のメンバー(服部良一、御木本美隆、森清ら)と、軽井沢に集団週末住居をつくる。

 □『現代の眼 日本美術史から』〈近代美術叢書〉(3東都文化出版 共編)

 ■志賀直哉邸(渋谷区東)

 

昭和三十一年一九五六 五十二歳

 一月、「新建築」一月号が「谷口吉郎の人と作品」を特集。

 四月、東京工業大学大学院理工学研究科建築学専攻担当。

 同月、高村光太郎葬儀の式場構成(有名建築家が手がけた葬儀式場の最初)。

 十月、自ら装丁した『修学院離宮』(佐藤辰三と共著)を毎日新聞社から刊行、毎日出版文化賞受賞(昭32)。

 この年から、慶応義塾大学文学部で非常勤講師として建築美学を講じる。

 □『みんなの住まい』編著(河出書房)・『生活のなかの近代美術』(4毎日新聞社 合著)

 ■木下杢太郎詩碑(10伊東市湯川伊東公園)

 

昭和三十二年一九五七 五十三歳

 五月、秩父セメント株式会社第二工場の設計により日本建築学会作品賞受賞。

 □『日本の住宅』〈講談社アート・ブックス〉(1講談社)

 

昭和三十二年一九五八 五十四歳

 ■島崎藤村記念館(長野県小諸市)・慶応義塾発祥記念碑(4東京都中央区)・第四高等学校寮歌記念碑(4南下軍の碑)

 

昭和三十四年一九五九 五十五歳

 五月、長女真美子、裏千家宗室次男納屋嘉治と結婚。

 同月、「現代日本の陶芸」(東京国立近代美術館)の会場構成担当。

 ■千鳥ヶ淵戦没者墓苑(3千代田区三番町)・石川県立美術館(9金沢市兼六町)

 

昭和三十五年一九六〇 五十六歳

 一月、「東京新聞」〈石筆〉欄に、九日より毎週、十二回にわたり、執筆(三月九日まで)。

 八月、伝統工芸展「日本人の手」(東京国立近代美術館)の会場構成を担当。

 九月、小林古径遺作展(東京国立近代美術館)の会場構成担当。

 □『日本建築の曲線的意匠・序説』(7新潮社)

 ■東宮御所(港区元赤坂)・火野葦平文学碑(8北九州市高塔山公園)

 

昭和三十六年一九六一 五十七歳

 明治建築の移築保存を四高の同級生土川元夫(名鉄社長)に諮る。

 二月、「国際文化」二月号の巻頭随筆を執筆(七月号まで六回連載)。

 五月、東宮御所およびその他一連の業績に対して日本芸術院賞受賞。

 この年、欧米出張。

 ■青森県庁舎

 

昭和三十七年一九六二 五十八歳

 二月、日本芸術院会員となる。

 文京区立鴎外記念本郷図書館、資生堂会館、ホテルオークラを設計。

 七月、財団法人明治村認可、常務理事となる。

 □『科学随想全集第十四巻』(学生社 「ミカンの皮の意匠」他所収)・『修学院離宮』(12淡交新社)

 ■ホテルオークラ ロビー・メインダイニング(港区虎ノ門)・資生堂会館(中央区銀座)

 

昭和三十八年一九六三〉 五十九歳

 四月、「毎日新聞」に「記念碑十話」を十回にわたり連載。

 六月、現代の眼「暮らしの中の日本の美」(東京国立近代美術館)の会場構成担当。

 □『十人百話 第四集』(11毎日新聞社 合著「記念碑十話」所収)

 ■永井荷風文学碑(5荒川区南千住浄閑寺)・吉川英治墓所(9府中市多摩霊園)

 

昭和三十九年一九六四 六十歳

 十月、資生堂会館およびホテルオークラの設計により第五回建築業協会賞受賞。

 十一月、明治村が博物館の指定を得る。初代館長に就任、移築建物の配置計画を担当。

 この年、欧米出張。

 □『建築の造形』編(9毎日新聞社)

 ■室生犀星文学碑(4金沢市中川除町)

 

昭和四十年一九六五 六十一歳

 三月、博物館明治村開村。

 四月、東京工業大学を定年退官し、名誉教授となる。

 八月、「建築」八月号が「谷口吉郎」を特集。

 乗泉寺の設計で、海老原喜之助や棟方志功と協同。

 ■乗泉寺(渋谷区鶯谷町)・良寛記念館(新潟県出雲崎町)・正宗白鳥文学碑(7長野県軽井沢町)

 

昭和四十一年一九六六 六十二歳

 四月、現代の眼「東洋の幻想」(東京国立近代美術館)の会場構成担当。

 出光美術館設計、茶神亭で立礼と座礼を組み合わせ、畳席を能舞台構成にした新しい茶室を提案。

 帝国劇場の設計で、猪熊弦一郎や伊原通夫と協同。

 □『東宮御所建築・美術・庭園』(8毎日新聞社)

 ■山種美術館(中央区日本橋兜町)・出光美術館(千代田区丸の内)・帝国劇場ロビー・客席(千代田区丸の内)

 

昭和四十二年一九六七 六十三歳

 四月、株式会社谷口吉郎建築設計研究所設立、代表取締役となる。

 同月、明治村茶会運営委員会委員長となり、第一回明治村茶会開催。

 十月、明治村における明治建築の保存により日本建築学会業績賞受賞。

 □『雪あかり日記』(3雪華社)

 ■斎藤茂吉記念館(山形県上山市)

 

昭和四十三年一九六八 六十四歳

 六月、文化財保護審議会委員(建築関係)になる。

 十月、帝国劇場の設計により第九回建築業協会賞を受賞。

 □『東宮御所建築・美術・庭園』〈豪華版〉(8毎日新聞社)

 ■東京国立博物館東洋館(台東区上野公園)

 

昭和四十四年一九六九 六十五歳

 十二月、名鉄バスターミナルの設計により中部建築賞を受賞。

 ■東京国立近代美術館(千代田区北の丸公園)・文学者之墓(11静岡県富士霊園)

 

昭和四十五年一九七〇 六十六歳

 四月、次女真紀子、杉山寧次男請晉と結婚。

 □『現代建築家全集6 谷口吉郎』(12三一書房)

 

昭和四十六年一九七一 六十七歳

 十月、東京国立近代美術館の設計により第十二回建築業協会賞受賞。

 東京会館の設計で、猪熊弦一郎や脇田和と協同。

 ■中山義秀文学碑(6成田市成田公園)・第四高等学校寮歌記念碑〈北の都の碑〉(10金沢市中央公園)・志賀直哉葬儀場(10式場構成)

 

昭和四十八年一九七三 六十九歳

 六月、季刊誌「泉」創刊、求めに応じて「記念碑散歩」のシリーズを二十一回(昭和54年5月まで)にわたって連載。

 十月、東京会館の設計により第十四回建築業協会賞受賞。

 十一月、建築界で五人目の文化勲章を受賞。

 ホテルオークラ別館の設計で、棟方志功と協同。

 十二月、日本建築学会名誉会員となる。

 「日本の住の心」を「婦人と暮し」(季刊)に四回連載。

 ■石川県立中央公園噴水広場(12金沢市中央公園)

 

昭和四十九年一九七四 七十歳

 二月、「私の履歴書」を「日本経済新聞」に二十六回にわたり連載、十二月、『建築に生きる』と題して、自装で日本経済新聞社から刊行。

 六月、財団法人博物館明治村専務理事となる。

 □『雪あかり日記』〈自装〉(9中央公論美術出版)

 ■日本学士院会館(台東区上野公園)・迎賓館和風別館〈遊心亭〉(港区元赤坂)・国立飛鳥資料館(3奈良県明日香村)・吉屋信子墓碑(4鎌倉市長谷高徳院)・佐藤春夫詩碑(5港区三田慶応義塾)

 

昭和五十年一九七五 七十一歳

 一月、『雪あかり日記』〈自装〉が第九回造本装幀コンクールで東京都教育委員会賞を受賞。

 十月、日本学士院会館およびホテルオークラ別館の設計により第十六回建築業協会賞受賞。

 「日本の住の心」を「婦人と暮し」(季刊)に四回連載。

 

昭和五十一年一九七六 七十二歳

 「日本の住の心」を「婦人と暮し」に一月号より六回(奇数月)連載。

 □『博物館明治村』〈自装〉(3淡交社)

 ■北原白秋歌碑(5柳川市沖端)・吉川英治記念館(青梅市柚木)・武者小路実篤葬儀(4式場構成)

 

昭和五十二年一九七七 七十三歳

 「日本の住の心」を「婦人と暮し」に一年間(十二回)連載。

 『日本の伝統工芸_ 加賀・能登』(講談社)所収の座談会「工芸の城下町〈故郷の伝統工芸あれこれ〉」に松田権六(漆芸家)、嶋崎丞(石川県立美術館副館長)らと出席。

 □『カラー明治村への招待』(4淡交社)

 ■東京国立近代美術館(11千代田区北の丸公園)・熊谷守一葬儀場〈構成〉(8港区青山葬儀所)

 

昭和五十三年一九七八 七十四歳

 三月、「中央公論」三月号「シリーズ日本人」に取り上げられる。

 五月、胃手術のため入院。沖縄戦没者慰霊碑設計図の作成に取りかかる。

 秋、長男吉夫、竹田喜久三長女久美と結婚。

 十一月、再入院。

 ■金沢市立図書館古文書館〈内装〉(金沢市玉川町)

 

昭和五十四年一九七九 七十五歳

 二月一日、沖縄戦没者慰霊碑の全工事完工。

 二月二日、死去。従三位勲一等瑞宝章追贈。

 「サンデー毎日」二月二十五日号に「告別のときミ谷口吉郎氏逝去」が掲載される。

 □『記念碑散歩』(11文藝春秋社)

 

昭和五十五年一九八○ 没後一年

 十一月、金沢市立図書館(近世資料室)の設計により、第二十一回建築業協会賞受賞。

 □『せせらぎ日記』(1中央公論美術出版)

 

昭和五十六年一九八一 没後二年

 二月、『谷口吉郎作品集』が淡交社から刊行。

 十一月 ~ 十二月『谷口吉郎著作集』(全五巻)が淡交社から刊行。

 

平成四年一九九二 没後十二年

 五月、金沢市名誉市民受賞。

 

平成九年一九九七 没後十八年

 九月、「谷口吉郎展」が、東京三田の建築会館で開催。これは小郡展(十月、小郡市七夕会館)、名古屋展(平成十年三月、名古屋市国際デザインセンター)、金沢展(平成十年四月、金沢市立玉川図書館)と巡回。

 

・この年譜作成にあたっては、『明治村通信 一〇五』所載の「谷口吉郎 略年譜」を元に、『建築に生きる』、『谷口吉郎著作集』所載の「主要著作目録」「主要作品目録」、『谷口吉郎展図録』などを参考にし、納屋真美子、杉山真紀子、土屋正明(五井建築設計研究所)、中西邦夫(金沢市立ふるさと偉人館)の各氏の協力を得て制作した。記して感謝の意を表したい。

─石川近代文学全集13『中西悟堂・中谷宇吉郎・谷口吉郎』巻末研究 平成十年十二月十日刊─

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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井口 哲郎

イノクチ テツロウ
いのくち てつろう 石川近代文学館長 1932年 石川県寺井町に生まれる。元県立小松高等学校校長。

掲載作品は、石川近代文学館編・発行の全集13『中西悟堂・中谷宇吉郎・谷口吉郎』(平成10年)の巻末研究である。

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