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森は海の恋人(山に翻った大漁旗)

 牡蠣の森を慕う会

 彼は牡蠣士だもんな・・・・・・と養殖業仲間の会話で、自他共に認める牡蠣づくりの名人を牡蠣士と呼ぶ。

 その人の所有している漁場の良し悪しもあるが、牡蠣養殖の上手下手は、多分に性格的なものがある。振り返ってよく考えてみると、牡蠣と性格が似ている人が、牡蠣士の称号を得ているような気がしてならない。

 条件の第一は、性格がゆったりしていることである。神経質で、こせこせした短気な性格は、牡蠣づくりには向いていない。牡蠣はもともと、潮間帯の生き物であるから、毎日、干潮になると夏は陽に照らされ、冬は寒風にさらされることになる。潮が満ちるまで、じっと待って耐えている。自ら、動いて餌を採れないので、餌があるときは、一時間に十リットルもの海水を吸い込んで、プランクトンを食べ、体内にグリコーゲンとして貯め込むのである。これでは到底気の短い人には向いていない。

第二に、瞬発力があることである。牡蠣の種苗を採ったり、筏を内湾から沖合へ移動したりする時、タイミングがあるからである。タイミングを誤ると、後でいくら手入れをしても、良い牡蠣にはならない。チャンスを生かして一気に仕事を片付ける瞬発力は、大切な要因である。

 牡蠣は餌も肥料もやる訳ではなく、時期を外さず手入れをすれば、後は海神様に任せておけばいいから俺には向いているね、と話すのは、この辺りで一番の牡蠣士の、小松正君である。二十代で父上を亡くした小松君は、若い時から苦労して養殖場の切り盛りをしてきた。牡蠣が好きだという共通性があるのだろうか、私とは抜群に馬が合う。彼の漁場が川筋(海の中で河川水が通っている所)にあるので、河川水と牡蠣の生育の関係には人一倍敏感だ。毎年、四~五人の仲間と共に、二百万個もの良質な牡蠣を生産する。秋には、後継者の息子さんがきれいなお嫁さんを迎え、盛大な披露宴を行った。若い後継者も、仲間から牡蠣士と呼ばれるに違いない。

 牡蠣づくりのコツは常に牡蠣を水面の近くに下げておくことだ、と主張するのは村上正さんである。私より五歳ほど年上で、昨年から息子さんが跡を継ぎ、もう孫がいる若いおじいちゃんである。この人も毎年、良い牡蠣を育てている。確かに水面の近くは餌が多いので生育にはいいのだが、季節によってムラサキイガイなどの他の生物も大量に牡蠣に付着したりするので、生存競争の激しい激戦区なのだ。大抵の人は、夏には深く吊り下げて、他の生物の付着を防ぐのであるが、彼は、牡蠣がそれ等を餌にしているんだと主張して、いつも水面近くに下げているのである。我々も真似してやってみるのだが、必ず失敗する。  ところが彼は平気で浅くしておく。そして、彼の牡蠣は、相変わらず大きく育っている。  酒の強さも敵無しで、民謡を歌わせても敵う者はいない。先代からの名だたる牡蠣士なのだ。

 我が気仙沼湾の生物を育てている森や川が、危機に陥ろうとしている。良い漁場を次の世代に渡すために、大川上流の室根山に木を植えよう!牡蠣士の面々に声をかけた。瞬発力抜群の彼らは敏感に反応した。こうして所属する漁協はまちまちだが、七十名の牡蠣士が集まったのである。

 植林する地を「牡蠣の森」、会の名称は、旧約聖書詩篇四十二篇「鹿の谷川を慕いあえぐが如く・・・・・・」を思い出し、「牡蠣の森を慕う会」と命名した。

 心優しき室根村の人びと

 宮城県北端の町、唐桑から三十分ほど内陸に入ると室根村である。大川流域に細長く開けたこの地は、岩手県では南端に位置している。年が明けると、「春は室根村からやってくる」とラジオが伝えているのを聞いたことがある。

 村の北側に聳える室根山頂(八百九十五メートル)に立つと、独立峰なので、上から村全体が見下ろせる。なだらかな室根山麓は、柔らかな薄茶色の雑木林に包まれ、それに続いてリンゴの果樹園が拡がっている。西には北上高地、東には宮城県と接する大森連山が、うねうねと海に向かって延びている。

 村の面積の六十九パーセントが山林であるというだけに、明治以来、森林育成に努力がなされ、林業と農業を中心とした典型的な山村である。人口は、七千人足らずの小さな村だが、住んでいる人々の気質は、とてもおだやかで、室根山の山容に似ているような気がしてならない。

 山頂から少し下った八合目辺りに、室根神社がある。千年杉と呼ばれる鬱蒼とした杉の大木に包まれた境内は、千年を超える歴史の中に静まり返っている。神社の裏手にある石仏の重なり合った岩場の間からは、清水が湧き出ていて、イヌブナの大木が茂る沢伝いに清流となって流れ落ち、気仙沼湾に注ぐ大川に合流している。ここ室根山は、大川源流の一部なのだ。

 室根村が全国から脚光を浴びる日が約四年に一度廻ってくる。室根神社大祭の日だ。全国の祭りが観光化し、見せ物化している今日、千二百年という歳月を超え、古式に則って、その形態を守り抜いている。それだけに、国の重要無形民俗文化財に指定された、知る人ぞ知る祭りなのだ。神役という祭りの様々な役目のうち、御塩献納役という海水を神前に捧げる、海の民ならではの役目が(もう)()に割り当てられている。漁民が森の神と森の民への感謝の証として、室根山に木を植えるという発想が生まれてきたのもこうした歴史的背景をもっているからかもしれない。

 森の神と海の神

  地表に水満ちるまでの刻想う (とお)い時間と誰か呼ぶべき

 夜も明けやらぬ気仙沼湾口で、肌を突き刺す冬の季節風を真正面から受けながら、遥か彼方に見え隠れする霊峰室根山に向かって手を合わせている白装束に身を固めた漁民の姿があった。やがて、小舟の魚槽(かめ)の中から取り出した、花瓶のような竹筒に海水を汲み、もう一度、うやうやしく山に手を合わせると、舞根の港を目指して船を静かに進めた。白装束の漁民は、これから始まる室根神社大祭の、清めの海水を汲んでいたのである。

 今から遡ること、ほぼ千二百七十余年(養老二年)、紀伊の国(和歌山県)牟婁(むろ)郡湯浅の港を熊野神の分霊を載せて出港した小舟は、黒潮に乗って宮城県唐桑町舞根に漂着した。御神体は、やがて二十キロ北に聳える、岩手県牟婁峯山(室根山)に安置され、以後、室根神社として、この地方の人びとの信仰を集めるようになった。閏年(うるうどし)の翌年の旧暦九月十九日、大祭が行われ、千二百七十余年の間、ほとんど中断されることなく、祭りの行事が続いているのである。

 室根山を中心に岩手県大東町、千厩町(せんまやちょう)、室根村、川崎村、大船渡市、さらに、宮城県気仙沼市、唐桑町にまたがる広い地域に、祭りの役割を担う四百人に及ぶ神役と呼ばれる人びとが、世襲で、それぞれの役割を引き継いでいる。

祭りは未明の海に出て海水を汲むことから始まる。竹筒に汲まれた海水は神前に捧げられ、御神体を海水で拭き清めてから、神輿(みこし)は神社を出発する。つまり舞根の海水が到着しなければ、祭りは一歩も動き出せない。古人はこのような形で、森と海とを結び付けていたのだろうか。

 因みに、舞根(もうね)の語源は牟婁峯(むろね)といわれ、そのルーツは、遥か和歌山県牟婁郡へと、黒潮の路づたいに続いているのである。このような歴史的繋がりから、室根村の人びとは、私たちを舞根さん呼んで、日頃から親しみを感じている間柄であった。或る日、室根村役場に加藤村長を訪ね、漁民の思いを伝えると、驚きと戸惑いが入り混じった様子であった。しかし話をじっくり聞いてもらった結果、漁民が室根山に木を植えることの大切さを心底から理解してくれ、以後、協力を惜しまず、励ましてくれたのであった。そして、神社に程近い、見晴し広場と呼ばれる神社林を開放する手筈を整えてくれた。そこは、眼下に気仙沼湾、岩井崎、大島、そして唐桑半島を眺望できる絶好の地である。

 木を植える漁民たち

  芽吹きの刻過ぎて新緑に炎えている広葉樹に静止の刻など無くて

 平成元年九月、室根山見晴し広場に、貝浜丸、久栄丸、明神丸、中丸、金成丸などと染め抜かれた色とりどりの大漁旗が、何百枚もはためいた。漁民が行動を起こす時、大漁旗は付き物であるので、何の抵抗もなく相談はまとまり、早朝、先発隊が準備したものであった。それにしても、船を飾るのは馴れてはいるものの、室根山という、あまりにも大きな船には戸惑ったなあ、とは仲間の述懐である。

 古式に則って事を進めよう――以前から相談していた通り、早朝、御塩役の人々と共に、室根山が見える所まで船を出し、潮汲みを行った。たまたま、日本を訪れていたアメリカン・インディアンのデニス・バンクス氏が、長良川を愛する会の所会長と共に応援に駆けつけてくれた。自然と共に生きてきた平原の民インディアンが船に乗りたいとの希望であった。そして室根山を望みながら、海の民と共に船上で祈りを捧げたのであった。

 室根神社総代、斉藤行雄氏の計らいで、女人禁制の神社内に、舞根から出席した婦人たちも特別に招き入れられ、持参した海水と牡蠣を捧げ、神主からお祓いを受けると植林に取り掛かったのである。

 植える樹種は、熊野神社になぞらえて、熊野水木(みずき)にした。大川中流域で林業を営むK君が植林に備えて畑に仮植してくれた立派な苗であった。あちこちに唐鍬を振る姿が見られ、山の民にも手伝いをもらいながら第一回目の植樹を終えた。

植樹はその後、毎年行われ、植える面積も協力者も増えていった。第二回の植樹には「船形山のブナを守る会」の方々が、船形山で拾ったブナの実から育てた見事な若木を持参してくれた。その結果、室根山にはブナが良く育つことが判明した。岩手県水沢市の菊地恵輔さんからも連絡があった。夏油(げとう)温泉の前で拾ったブナの実を畑に蒔き、何回か植え換えてよい苗になっているから寄付したい、ということだった。手塩にかけて育てた、五年生のそれは見事なブナの若木であった。丁寧にも、一本一本木の根を藁縄で巻いて、植木と同じような扱いでトラックに積んで持参してくれた。百本はあっただろうか。菊地さんはブナをこよなく愛していて、将来とも、切られる心配の無い地に植えたいと願っていたという。菊地さんは今でもこっそりブナに逢いに来ている様子である。

 この頃から、子供たちの参加者も増え出した。海辺の子供、山の子供が、共に協力し合ってブナを植えている姿は、実にほほえましいものである。子供たちの交流の中から、上流と下流の家族同士の交流も深められていった。夏になると、室根村の人々が海水浴に訪れ、海の幸に舌鼓をうちながら、海の民の生活に触れ、川の汚れが海に流れて漁民を困らせることを初めて知るのだった。今まで、海のことなんか考えたことは無かったと、異口同音に本音を打ち明けてくれた。

 秋の収穫の祭りには海の民が招待され、持参した牡蠣や帆立貝と、りんご、梨、白菜、長芋等を物々交換したり、濁り酒をご馳走になったりして、楽しい一時を過ごした。室根山への植樹を開始して、交流が深まる中で、村のメインストリートに海の幸の売店を出して欲しいとの要望があった。二つ返事で引き受け、気仙沼市で毎週開かれている朝市に出店している畠山利光さん夫婦に手伝ってもらい、牡蠣、帆立貝、海鞘(ほや)、若布等を生産原価で販売した。顔馴染みの人たちが、次々に訪れ、売店は大賑わいで、一日中、和やかな雰囲気に包まれ、売上金は室根神社に感謝を込めて捧げた。

 村の中央から、大川をさらに五キロ遡った所に、室根村矢越(やごし)地区という集落がある。ここには、米作中心の農業をしている小野寺君という青年がいる。彼も、室根山への植樹に積極的に協力してくれている一人だ。もともと彼は、環境保全型農業を目指しており、極力、農薬を使わず、除草剤の代わりに鴨を田に放して除草させるなど、ユニークな農業をしてきた。

何度か交流しているうちに理解が深まっていった。大川の土手の草を年二回刈るのだが、それまでは雨が降ったら流れていくからいいさと、土手の内側に積んでおいたというのである。しかし海を訪問して初めて、大雨が降ると大川から色々な物が流れてきて困っているという漁民の話を聞いた。「それ以来、土手の草はみんなで片づけるようにしました。今皆で、下流の方々に迷惑をかけないような生き方を話し合っていて、合併浄化槽の導入や、農薬をなるべく使わない農業を目指しています」という。下流で暮らす者にとって、涙の出るような話をしてくれたのだった。

 平成五年春、小野寺君から電話があった。今度矢越大洞地区の九十戸の住民の相談がまとまり、矢越地区の水源である矢越山に、広葉樹の森を創る相談がまとまったので、海の人びとも協力してくれませんか、とのことだった。それは海の民にとっても、願ってもないことである。

 詳しい話を聞くと、広葉樹林が農業にとっても地域の環境にとっても大切であるという気持ちが農家の間から高まってきたというのだ。矢越山は十年ほど前まで大きな赤松の茂る広大な森であった。深い森からは沢水が切れることなく流れ、小川には(はや)(ふな)泥鰌(どじょう)などが群れていた。釣竿を使うことなく、岸から糸を垂らすだけで面白いように釣れたという。

 しかし、森が伐られると同時に、日照りが続くと水が枯れ、大雨には鉄砲水が出るようになってしまった。側溝も三面張りのコンクリートが多くなり、あっという間に昔の面影が失われて行くのを目の当たりにして、この悪循環を断ち切らねばと広葉樹の森創りを思い立ったという。赤松の伐採地は放置されていて青笹だけになっていた。そこで二十町歩の村有林を村から借り、広葉樹の森に復活しようという遠大な計画を立てた。さらに小川には、水車を復活させ、村の名所にして村起こしに役立てようというものだった。

 平成元年から始まった、漁民による植林活動だったが、漁民に呼応するように、上流の農民も立ち上がったのである。中流域で農業をしている新月(にいつき)地区の人びと、水道の水源を大川に頼り、その恵みを最も享受している六万人の気仙沼市民など、森林から海にいたるまで、全ての人びとに呼びかけ、植林活動を通して、大川流域に暮らす全員で、環境について考えるきっかけにしよう、という大きな構想が、まとまったのである。

 そして、地元の新聞三紙に、五段抜きの広告を載せたのであった。

 新聞広告は、初めての経験であった。反応は早く、参加申し込みが次々に集まってきた。苗木をぜひ寄付したいと、何年かかけて育てたケヤキの苗を持ってきてくれる人、カンパを届けてくれる人、四年間、コツコツと積み重ねてきたことが、やっと評価されるようになったのだった。

 平成五年六月六日、快晴。例によって先発隊が、大漁旗をトラックに積んで出発した。一面、笹が覆っていた所を、植林しやすいようにあらかじめ下払いをしておいた矢越山に、今回は、いつもより見事に、満艦飾に大漁旗が飾られた。山は、大型の新造船のように大漁旗が、良く似合っていた。子供の手を引いた親子連れの姿が目立ち、中には、関東を中心に、約四万世帯に有機農産物を供給する消費者グループ「らでぃっしゅぼーや」の青年たちや、旅行の途中、出席させてもらいましたという名古屋の老夫婦など、三百人を超える人びとで、山は大賑わいとなった。

 欅を中心に、山桜、栃、ブナなど二千本を越す若木が、快い汗と共に、大川源流部の矢越山に植林された。山の入口には室根村の好意により広場も造られ、地元婦人会心尽くしのトン汁が振る舞われ、上流、中流、下流の人びとが、初めて植林を通して同じ気持ちを通い合わすことができた、画期的な一日になった。

 広場の一角からは、清水が滾滾(こんこん)とわき出ていて、歓声をあげながら喉を潤す子供たちの声が聞こえていたが、大漁旗を降ろし終えた頃には、山は元の静けさを取り戻していた。

 山の子供たちとの交流

 大川上流域の学校を海に招きたい、そんな想いが募り、室根村の折壁(おりかべ)小学校を訪問してみた。校庭のかなり中央寄りの所に、大きな春楡(はるにれ)の木が聳えているのを見て、この学校が好きになった。運動会をしたり野球をしたりする時、邪魔だから切ってしまえという声もあったろうに。

 しかし、この学校は、それをしないで、愛情を込めてこの木を大切にしている。木と共存する教育を行っているのだ。校長先生も自然が好きな方で、定年になったら室根山の植物図鑑を発刊したい、という夢を持っておられる方だった。五年生の担任の先生が呼ばれ、具体的な体験学習の内容について話し合いが始まった。そこで知ったことは、海まで僅か二十キロしか離れていない地域なのだが、子供たちが海と接するのは、夏に一、二回の海水浴程度で、海とは縁の無い生活をしているということだった。ましてや、森林が海と関係があることなど、いくら説明しても頭の中を通過するだけです、ぜひ海を体験させたいですね。相談は、たちまちのうちに進展したのだった。

 風薫る五月、若葉の香りに身を包んだ折壁小学校五年生の一行が、校長先生や父兄に引率されて、森林組合のバスでやってきた。学校の計らいで、社会科の授業ということだった。どの子の顔も期待感に溢れている。ひと通りの挨拶を済ませると、早速海の生物との触れ合いを経験させることにした。帆立貝の「耳つり作業」といって、昨年の夏、採苗した帆立貝の耳(貝の隙間)に、一個一個ドリルで穴を開け、ロープに十五センチ間隔につけられているテグスに結ぶ作業である。

 長いテーブルの両側に子供たちを並ばせ、水槽から生きている帆立貝を取り上げ、テーブルの上に山積みにした。パクパク口を開き水を吐く帆立貝に、一瞬怯んだ様子だったが、次の瞬間から歓声に変わっていた。「わー、カスタネットみたい」「わー、指を挟まれた」と大騒ぎである。要領を憶えると、たちまちロープに帆立貝が数珠繋ぎになってゆく。

 今日のハイライトは、何といっても船に乗ることである。仲間に頼んで何隻か船を用意してもらっていた。四十人を越える大世帯であるので準備も大変である。手分けして、ひとり一人に救命胴衣を着せ、乗船した際の注意をすると、子供たちは、神妙な顔をして聞いていた。四隻の船に十人ずつ乗せると筏を目指して船を進めた。小型の漁船に乗るのは初めての経験の子が多く、船が揺れる度に、沈まないだろうかと不安気な雰囲気だったが、馴れるに連れて好奇心が目覚め、船縁から海に手をつっこんでは、海の感触を楽しんでいた。

 船が筏に横付けにされると、さっき「耳つり」した帆立貝の結ばれたロープを、一人一人海に降ろしてもらった。そして、約十メートル下げても底に着かないのを不思議がっているので、ここは三十メートルもあるんだよ、と説明すると、足を震わせていた。

 若布、昆布、牡蠣、帆立貝と現物を見せ、これ等は、餌も肥料も農薬も、何もやらなくても、自然に大きくなるんだよと話すと、農家の子供が多いだけに、農業は、畑を耕し、肥料をやり、雑草を取り、虫が出たら殺虫剤もかけなくちゃならないのに、海の人はうらやましい、僕も、海の仕事をやりたいと、言い出す子も現れた。

 海の男が、筏を自由に渡り歩いているのを見て、自分たちも、筏に上がってみたいという。先生たちは、心配そうな顔をしていたが、落ちても海の中だから、怪我はしないからいいだろう、ということになり、交代で筏の上に上げてみた。男の子も女の子も初めは、四つん這いで、おっかなびっくりだったが、たちまち馴れてきて、自由に筏の上を歩けるようになった。これを見ていた牡蠣士の面々は、大きくなったら、唐桑にお嫁においでね、と早速売り込んでいた。

 箱メガネで海中を覗くと、メバル、タナゴ、タケノフシなどの魚が、海底から湧き上がるように集まってきて、子供たちの目を楽しませていた。光合成、食物連鎖、物質循環など、教室で教えていては頭の中を通過してしまうような事柄をはじめ、プランクトンも、海藻も、魚も、貝も、鳥も、森も、空も、海も、全部手の届く所に揃っているのである。子供たちの生き生きとした表情に接し、この地は環境教育の絶好のフィールドであることに気付かされたのである。

 風も、波もない、穏やかな日だった。室根山が見える所まで連れて行こうということになり、沖合に船を走らせた。すっかり船に馴れた子供たちは、船首に立って潮風を心ゆくまで吸い込んでいた。三十分ほど走ると、やがて後方の低い山並みの上に、独特の台形をした室根山が、いきなり顔を出してくる。思わず大きな歓声が上がり海がどよめいた。あの室根山に降った雨が、ここまで届き、牡蠣の餌となる植物プランクトンの養分になっていることを説明すると、漁民が、室根山に木を植える意味を心から納得してくれるのだった。さらに、千二百年の歴史がある、室根神社大祭の時の「御塩汲み」も実演してもらい、悠久の時の流れの中に、自分たちも存在していることを、しみじみ感じとってもらった。牡蠣士の奥さんたちの心尽くしのカキ汁や、帆立御飯をお腹いっぱい食べ、山の子供たちは嬉々として帰っていった。

 やがて学校から礼状と一緒に、子供たちの生き生きとした感想文が届けられた。生まれて初めての経験という子も多く、そこには驚きと喜びの交錯した文章が躍動していた。この経験から、小学校高学年という、最も好奇心が強く、心の柔らかい年代に、本物の自然と触れ合うことが、いかに子供たちに感動を与え、自然環境に目を向けさせていくかを知ったのだった。以来、舞根湾には時折、子供たちの黄色い歓声が聞こえるようになった。

 教材としての〝森は海の恋人〟

 海からは遥かに離れた林業の盛んな街の小学校の先生の訪問を受けてから、学校との付き合いがにわかに増え出した。或る日、宮城県の内陸部に位置する、車で二時間半はかかる岩出山(いわでやま)町立(かみ)野目(のめ)小学校から連絡をもらった。ふるさと教育の指定校に選ばれ、五年生の社会の公開研究授業で、「森林のはたらき」について学ぼうというものだった。

三十代の意欲旺盛な三浦先生が訪ねてきて、森林が川を仲立ちとして、海の生物の育成に関係していることを新聞で知り、ぜひ、公開研究授業で、そのことを取り上げたいというのだった。三浦先生は、北海道大学の松永教授にも教えを乞い、科学的な勉強の要素も入れ、本格的に授業を組み立てたいと意欲的だ。

 初めて知ったのだが、公開研究授業は、学校にとっても教員にとっても大変な試練であるらしい。海をほとんど知らない子供たちに、どうやって森と海とのつながりを理解させるか、悪戦苦闘しています。眠れない日が続いています、との電話を時々いただいた。

 何度か訪ねてこられ、漁民がなぜ木を植えるようになったかを授業でどのように取り上げるか、話し合った。いくら話し合っても授業をするのは三浦先生自身である。写真や新聞記事、植林時のビデオなどの資料を抱えて帰っていった。

 牡蠣の収穫が始まった十月初め、私にとっては初めての公開研究授業に招かれ、上野目小学校に出かけた。

 県内から集まった、四百人を超えると思われる教員の集団で学校は埋まっていた。到着すると校長先生が出迎えてくれ、早速五年生の教室に案内された。教室は既に入り切れないほどの盛況であった。かなり緊張した面持ちの三浦先生が仕立て下ろしのような背広で教壇に立っていた。がんばってよ!と視線を送ると、眼鏡の奥から返事が返ってきた。

 やがて授業が始まった。大漁旗をバックに植林している大きな写真が黒板に張られ、これは何をしている写真でしょうか、と生徒たちに聞いている。思うように生徒が発言してくれないのでスラスラとは進まない。もっとも無理はないのである。生徒を取り囲むように教室を埋めた先生たちの鋭い視線にさらされているのだから。

 三浦先生の額からは、冷や汗のようなものがしたたり落ち、顔は青ざめてくる。十五分くらい経過して、やっと子供たちも自由に発言するようになってきた。

 海から遠く離れたところの子供たちが、牡蠣は植物プランクトンを食べて育つこと、プランクトンを育てる養分は森の腐葉土であるなどと答えているのである。森林の働きを、海まで含めた視点で学ばせている。教室を埋め尽くしている先生方から明らかに驚きの表情が読み取れる。

 三浦先生はビデオの画面を何度も切り換えながら、準備した映像を駆使して、森と海との関係を巧みに理解させてゆく。プロの教員の業に私は見とれていた。

 授業も終わりに近づいた頃、実は森に木を植えている漁民の人がここに来ていますとの話が出たとたん、教室は、エーッという歓声でいっぱいになってしまった。思わぬドンデン返しである。早速教壇の前に立たされ、紹介された。生徒たちばかりでなく、見学の先生方も、この演出には驚くばかりだ。

 持参した、一年物、二年物の牡蠣を見せ、やおらナイフで牡蠣を剥いて見せた。ゴツゴツした殻の中からふっくらとした白い身を取り出して見せると、ホーッとした溜息が漏れ、溜息は拍手に変わった。実際に木を植えた漁民と、実物の牡蠣の登場とで子供たちの顔は好奇心で満ち溢れ、公開研究授業は興奮のうちに終了したのであった。

 海から遠く離れ、海のことをほとんど知らない子供たちが、牡蠣という生物を窓口にして生態系を真剣に学んでいる。この学校の環境教育にかける情熱に心をうたれた。校長先生に、何とか子供たちを海に招きたいのですがと相談すると、ぜひそうして下さいと即決してくれた。

 牡蠣の収穫が最盛期を迎え、多忙な季節であったが、準備を整えて子供たちを待っていた。二時間半もの時間をかけて、リンゴや、ナメコや、凍み豆腐や、竹製の籠など、岩出山のお土産を手にして、三十八名の子供たちと二十名の父兄が舞根湾を訪れた。見るもの聞くもの珍しいのか、みな興奮気味である。健太郎君という、車椅子で生活している子も一緒だった。

早速、帆立貝の殻に付着している牡蠣の種苗を、ロープに挟み込む作業をさせた。殻の間からゴカイが這い出してきても、海のミミズかと、大して気にもしない。家で農作業を手伝っている子も多いようで、作業の手際がいい。春休みになったら、アルバイトに来ていいですかなどと、チャッカリした子もいる。船に乗れるのを心待ちにしていたようで、さあ、救命胴着をつけて、と言うとそれは、ニコニコしている。

 養殖業仲間に手伝ってもらい、手分けして乗船させると筏に向かった。筏に吊り下げてある牡蠣や帆立貝を引き揚げると、貝が一斉に水を吐き出すのを見て、子供たちばかりでなく、父兄も先生も身を乗り出して夢中になっている。

車椅子の健太郎君も、船縁から顔を出していて帆立貝に水をかけられ、顔をくしゃくしゃにして喜んでいる。後に、健太郎君の作文には、「こんな面白い経験をしたのは、生まれて初めてです」と記されていた。

 以来、上野目小学校の子供たちは、五年生になると、俺たちも海に連れて行ってくれるんでしょうねと校長先生に直訴し、秋になると、山の幸をお土産に舞根の海を堪能しに来ているのである。

 子供たちからの手紙

 海と山とのつながりについて知りたいと思います・・・・・・。こんな書き出しの手紙が時折舞い込むようになった。的を射た鋭い質問も多く、思わずたじろぎしそうになる。高瀬君という仙台の小学校五年生からの手紙もそうだった。そこには次のような質問が記されていた。

 ①カキの養殖と森との関係について教えてください。

 ②カキが植物プランクトンを食べていることを、だれが、いつ、どうやって証明したのですか。

 何の気なしに、牡蠣は植物プランクトンを食べて育っているのですと、繰り返し説明することは多いのだが、いつ、だれが、どうやって証明したかとなると、全く定かでない。早速、近くの「かき研究所」を訪ね、研究員に教えを乞い返事を書いた。

今から四十年ほど前、アメリカに、ルーサノフという牡蠣の学者がいて、次のような実験をしたという。水槽に入れた海水に、泥、砂、メリケン粉、イースト菌、植物プランクトンを入れてかきまぜ、その中に牡蠣を入れて、しばらく置いてみた。やがて牡蠣を取りだし、解剖してみると、胃の中には主に、植物プランクトンが入っていたのである。牡蠣は、餌を追いかけて食べる訳ではない。海水をとにかく吸い込み、海水の中に浮遊しているものを一緒に体内に取り込んで(えら)で濾し、自分の好きな植物プランクトンだけ食べて、他のものは体外に排出してしまうのである。水温が摂氏二十度くらいの時、驚くなかれ、一個の牡蠣は、一時間に十リットルもの水を吸い込んでいるのだという。牡蠣だけではない、浅蜊、蛤、帆立貝、赤貝、北寄貝、その他の二枚貝も海水を吸い込み、ひたすらプランクトンを食べている。だから、海水中には、我々の想像を絶する世界があり、絶え間なく植物プランクトンが増殖し続けていないと、牡蠣は成長できないことを高瀬君に説明した。そして、海の食物連鎖の底辺を支える植物プランクトンが絶えず増えるには、森の腐葉土を通ってきた河川水が、自然のままで海に注がれていなければならないことを教えたのだった。そして高瀬君に、将来ぜひ、牡蠣の研究家になって下さいと激励した。

 九州は福岡県飯塚市の小学校五年三組の子供たちからも手紙をもらった。テレビか新聞で漁民が山に木を植えているということを知り、社会科の時間で話題になり、色々な意見が出たのだが、直接本人に手紙を書いて聞いてみよう、ということになったのだという。

 九州の子供が、三陸の海の事情や、まして牡蠣の養殖という特殊な仕事を想像するのは困難かと思われたが、熱心な子供たちの手紙に心を動かされるものがあり、返事を書いた。しかし、ここで簡単に結論を話してしまっては子供たちの好奇心を引き出すことはできなくなるので、こちらからも質問の手紙を出しますから、しばらく文通をしましょうと提案した。

牡蠣は何を食べて成長するのか調べて返事を下さい、との問いかけから始まって、文通は続いている。担任の先生からも手紙があり、登校拒否の生徒が、この文通に興味を持ち、早く返事が来ないかと待ちどおしくて学校に来るようになったというのである。この文通を一年間続けながら、自然界のメカニズムを子供たちと共に学び、人間の生き方まで語り合えないかなと思ってみたりしている。

 (ははそ)の森

  いっぽんの広葉樹に凭れつつ季の移ろいを君が瞳に追う

 漁民が海から離れた山に広葉樹を植える。海の民がなぜ山に・・・・・・。そんな疑問と様々な嘲笑、そして暖かい声援を背に受けて、植林は続けられてきた。

 「牡蠣の森」と名付けられたこの地は、室根山八合目、眼下に気仙沼湾を望む、標高八百メートルの高地だ。それでも六年前に植えた熊野水木は、背丈ほどに成長し、雪の中で芽を膨らませている。ブナの若木もしっかり根を張り、どんな寒さや嵐にも耐えられそうな姿で、彼方の海を見つめている。

 近くの室根神社の境内には、樹齢三百年を超すイヌブナの大木が林立しており、若木の成長を心待ちにしているようだ。

田園歌人、熊谷武雄の愛した手長山麓にも、()(はだ)、桂、栃、谷地だも、など三千本を植えた。中でも黄蘗は成長が早く群を抜いている。この間の春の嵐で、近くの老杉の大きな枝が折れ、黄蘗の林に倒れた。そして四メートルほどに伸びた若木を何本かへし折った。可哀想に思い近づいてみると、折れたところが瑞々しい黄色なのだ。思い切って大きく皮を剥いでみると、灰色の(まだら)模様の樹皮の内側には、一瞬戸惑いを感じさせるような、鮮やかな黄色の素肌が隠されていたのである。葉を落とした冬の広葉樹は、一見、地味ではあるが、ヴェールの内側には、樹液に満ちた妖艶な木肌が息衝いていて、森の生命を宿しているのである。

 二十年後、直径二十センチには育つだろう。この木は切られて皮を剥かれ、肌を露にされるのだろうか。しかし、黄色の内皮は、染料や、胃腸薬の原料となり、山里の人びとの生活を支えるに違いない。やがて切り株からは、ひこばえが勢い良く伸び、再び元の黄蘗林に戻ってゆくことであろう。

 栃は苗木の時から太く、がっちりした木だ。芽も厚い皮で被われ、木の中央に鎮座ましましている。他の木のように成長は早くないが、しっかりと根を張り着実に育っている。やがて初夏には房状の甘い香りを漂わせた萌黄色の花が咲き乱れ、ウェディングドレスに身を飾った大勢の花嫁に囲まれているような、華やかな森になるのであろう。艶やかな姿と甘い香りは虫たちにとって堪えられない誘惑となり、蜜蜂にとって格好の稼ぎ場となる。

 花から花へ、日本全国を渡り歩く養蜂家にとって、栃の森は貴重な蜜源である。栃の花から採れる蜜は癖が無く、上品な味と香りで愛好家が多い。いつの間にやら、この栃の森は養蜂家に知られるところとなり、毎年夏になると蜜を求めて全国から蜂家さんが集まることになろう。

 虫たちによって受粉された萌黄色の花は、秋には丸い栃の実に変わり、やがて()むと、固い殻がはじけて実がバラバラと降るように落ちてくるだろう。山里に暮らす人びとにとって、栃の実は大切な食料であり、特に栃餅は山里の御馳走なのである。

 森の生き物たちにとっても栃の実は願ってもない御馳走だ。山里の心優しい人びとが森の動物たちに残しておいた実をめがけて、木鼠や鳥たちが集まり、栃の森は年中賑やかな森になるであろう。

 桂の若木も二メートルは越えて育っている。近くの田園歌人熊谷武雄の生家の入口には、久保の大桂と呼ばれる樹齢八百年という、日本有数の巨木が聳えている。この地は、手長山から切れ目なく沢水が流れ落ちている。桂は、水を蓄える木とも言われているから、ここは桂の適地に違いない。赤い小さな実が無数に出ている細い枝の先は、春の訪れを待っているかのようだ。桂は、木肌が柔らかく腐りにくく、版木や船材になる。

 空を衝くような巨木となるこの樹は、初夏の円盤状の若葉が印象的である。夏、葉擦れに耳を傾けたくなった時、この桂の森に足を踏み入れた人びとは、根元を流れる清い小川のせせらぎと、夏の陽射しを浴びて快い音を立てる丸い青葉の群舞に、思わず歓喜の声を上げるであろう。

 緑のシャワーと、フィトンチッドの風を心ゆくまで浴びて、繁雑な日常で萎縮した心が風船のように膨らんでくるのを、人びとは感じとるに違いない。森の中を歩くと、落ち葉が何重にも積もった腐葉土に覆われていて、スポンジの上のようにフカフカだ。腐葉土は、しっかり水を蓄えていて森の両側の沢は夏の日照りでも、冷たい水が切れ目なく音を立てて流れている。思わず手ですくって口に運ぶと、命が再生してくるような味わいを経験するだろう。沢水は新月渓谷に流れ落ち、大川はやがて気仙沼湾にそそぐ。そこは汽水域と呼ばれるところ、海の生命の出発点となる。

 森と海、それは太古の昔から生命を育む源である。清らかな川で二つが結ばれている限り、永遠に新しい生命を生み続けるだろう。

(ははそ)の森をとおり抜けた香しい風に乗って、一首の歌が聞こえてきた。

 森は此方に海は彼方に生きている(ママ) 天の配剤と密かに呼ばむ

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2011/05/22

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畠山 重篤

ハタケヤマ シゲアツ
はたけやま しげあつ 1943年、中国上海生まれ。牡蠣養殖業、「牡蠣の森を慕う会」代表、京都大学フィールド科学教育研究センター社会連携教授。2004年、『日本〈汽水〉紀行』により第52回日本エッセイスト・クラブ賞受賞。豊かな海を取り戻すために、1989年より漁民による広葉樹の植林活動「森は海の恋人」運動を続けている。また子供たちを養殖場へ招き、環境教育のための体験学習を続け、その数は1万人に上る。主な著作は、『リアスの海辺から』、『牡蠣礼讃』など。

掲載作は、『森は海の恋人』(1994年10月、北斗出版刊、2006年9月、文春文庫刊)より「第六章 山に翻った大漁旗」を加筆訂正の上、抄録。

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