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ものの見方について(抄)

 日 本

 

 似て非なるもの  さて、このあたりで私は、問題を少しばかり我々の身近くに引つけて見てみたいと思うが、それにしても、これまで見てきたヨーロッパ諸国の人々の考え方や、ものの見方を、我々のそれと比較して、その異同を考えてみないわけにはゆくまい。

 日本人の今日までの頭の動かし方は、以上にのべた三つの国民(注 イギリス・ドイツ・フランス)のどれかに似ているであろうか。まず、こういう問題が出てくるに違いない。やかましく論じ立てれば、これもまたむつかしい問題であろうが、そうやかましくは探索しないで、ざっと見てみることから始めよう。日本人は、どっちかといえば、血気にはやって自分たちが現にやっていることの意味や重みを忘れて突っ走ってしまうようなところは、フランス人に似たようなところもあり、かと思うと、若い人々の間に特に多いことであるが、「理論」といったものにはずいぶん引ずり廻されるというような点では、ドイツ人に似ているところがあるような気がしないでもない。しかし、すこし突き入って見ていると、どちらの場合も、似ているのはほんの表向きだけで、中身は大ぶ違うということに気がつくのである。

 なるほど何かひと理窟ありげなことには、すぐに参ってしまい、理論といえば何でも崇高なもののように考えて、ひたすらひれ伏してしまう。殊に、終戦後は、こういうことについても調子が軽くなって、彼は理論があるとか、ないとか、共産党は理論をもっているが、社会党には理論がない、といった言葉で、至極簡単に値踏みをする傾きがあった。さてその「理論」とは一体何であるか、どの程度まで尊重に価するのか、というようなことは、別に立入って考えるわけでもない。これは、ドイツの理論尊重に似ているとはいえない。同じ理論尊重でも、理論の内容を自分で見究めようという努力はおこたりがちである。もちろん、日本人がみんなこういうふうだというのでは断じてないが、「理論」という言葉に最大の魅力を感じて、理論そのものは検討しないような風潮は、たしかに我々の陥りやすい傾きで、特にこれは若い人々の間にひろがっていると言ってよかろう。これでは、ほんの見かけばかりの理論尊重であって、それ自体すこしも合理的でない。

 それから、理論といえば何といっても結局は学問につながる話であるが、その学問はどうかというと、日本では自然科学の領域でこそ世界的水準の人もだんだん出てきたが、社会科学や歴史学や哲学の方面では、それもまだ寥々(りょうりょう)たるものである。学問的研究の歴史が我国ではまだ浅いということが、その大きな理由であるにはちがいないが、日本人自身が展開した大きな体系が、国民の考えに影響し、国民の考えを形づくるまでに至っているような理論的な労作というものは、まだほとんど皆無に近いというわけであるから、その点でも、日本人がドイツ人の型に似ていると言っては、少し僭称(せんしょう)のそしりをまぬかれないかも知れない。

 

 神話的な「全体」  ドイツも日本も、こんどの戦争までの一時代を、全体主義の体制をとったわけであるが、外にあらわれた姿や行動は同じ全体主義であっても、その根柢になっている考え方は非常に違っている。さっき話したように、ドイツの全体主義には、よかれあしかれ、理論的に構成された観念があった。それは、第一次大戦前の帝国主義の考えにしろ、今次大戦前までのナチスの考えにしろ、ドイツ民族の優秀性といったものを中心に、一面的なものであるにしても、またスキだらけでもあったろうが、一応は理窟で説明できるようなものであって、そこではドイツ人全体の生きてゆく方向や秩序が理論的な体裁をとっていた。個人個人も、その全体の中で或る地位を与えられてはいるし、理窟の上では、国家が大きくなってゆくかぎり、個人の生活も進展するというような、積極的な理窟にはなっているのである。

 これにくらべると、日本の全体主義の思想的な装いは、神話的な、物語り風の伝説、言いかえてみれば、実際にあったことかどうかも分らぬほど遠い昔の神武天皇とか天孫降臨とかの話を、我々の生活の(みなもと)と見て、そこから出てきたいわゆる皇統連綿の思想が、日本の「全体」を構成する中枢になっている。むろん神話は神話でよいのであって、それを排撃したりする必要はない。またそうした神話の中に国民の性向というようなものも、往々にしてふくまれているものではあるが、現代における我々の在り方を説明するのに、直接そういう神話的なものに根拠を求めるのは、何といっても時代錯誤の弱みをもつことになろう。そういう意味では、日本の全体主義は、かなり宗教的であり、感情的であるというほかはあるまい。少くとも、それは論理的には説明のやりにくいものであるが、この点については、あとでもう少し詳しく述べてみたい。

 経済的に説明すれば、このドイツと日本の二つの全体主義は似たところがあるかも知れないが、国民自身が思い込んでいたいわゆる観念の形態は、こういうふうに違っていたのである。

 

 型どった政党  小党分立で互にしのぎを削っているというような点から、日本は、政治の形態ではフランスに似ていやしないかと言われる。しかし、これも大方は外側の形ばかりのことのように思われる。

 フランスにおける政党の対立の中には、歴史的には貴族と庶民との階級的対立のはげしさが根柢にあって、その上に思想的な立場の相違がこれをさらに細分しているといった形であって、簡単にいうと、それぞれの政党が思想的な立場に拠って相譲らぬという点が目立っているが、日本の政党は、それぞれが何か伝統的に引ずってきた思想や主張に拠っているとは言いにくい。明治当初の自由党など、いわゆる自由民権の思想に拠ったといえるけれども、その思想や主張の内容は、党員の離合集散や党首の入れ替りでたちまち色あせてしまう。そして、戦前二大政党として長く対立してきた政友会と民政党のように、そこには思想的な違いというものは皆無といってよく、政策の違いもわずかであった。フランスの政党が匂わせているような調子の「思想」というものも、伝統的にはないといってよい。

 なるほど、社会党などは、主として思想中心の動きだといえないことはないが、それがフランス人の場合のように身から出たという感じではない。一般的にいうと日本の政党は、党の首領を中心に人間関係によって動いている。誰れを党首に「担ぎ出す」かが、政党にとってはいつでも最大の重要な問題であった。党首の「顔」が政党を代表して来たのは吉田さんのワンマン・パーティばかりではない。いまの自由民主党の党内派閥などは、もっともよく、日本の政党の在り方を代弁していると言えるであろうが、その離合集散の動機は、理窟にあるのでも政策にあるのでもなく、主として人間関係にある。その人的関係を通じての個人的な利害打算が、政党やその派閥の、分裂や合同の主たる動機だとすれば、同じ小党分立でも、フランスのそれとは大ぶ根柢が違うことがわかる。

 

 伝統というもの  制度や思想が伝統的で、一般に伝統を重んずるといわれる点で、イギリスと日本は似ているであろうか。

 日本はある意味で伝統の国といえそうである。特にその習俗や生活の文化といったものには、よかれあしかれ、一つの永い継続がある。しかし、日本という国は、つねに外からの文化の流入を受入れる運命にあったので、それによって新たに生活を豊富にすることができたと同時に、伝統を中断することも余儀なくされてきた。近いところでは、明治維新とこんどの敗戦であるが、どちらの場合にも、切り替えと発展とが同時に起った二重の運動を考えてみるだけで、そのことは如実にわかろう。要するに、進歩にしろ、変化にしろ、その波のうねりが大きい。国民生活が一本の大きな河として、小さな支流の水を少しずつ集めてさらに大きくなってゆくといった調子とは、少し違うものが感じられるのである。

 イギリス人の伝統というのは、これとは大ぶ違う。例えば、その政党の歴史を見ても、昔トーリイという国教を奉ずる王党があって、その王党トーリイの勢力をそのまま母体として、前世紀の前葉にその中の進歩的分子が保守党として結成し、それが近代化して今日につづいているその行き方、このトーリイに対立して、新教的貴族党としてやや民権的な傾向をもったホイッグが、やはりその母体をあまり変えないで、自由党となり、その胎内に宿った小さな芽を、旧勢力たる自由党が支持乃至黙認することによって、この世紀の初頭から労働党が成長を始めたというような経路。ここでは一人のえらい人間が考えついた思想とか、あるいは一人の獅子吼(ししく)する人間とか思想とかに引ずられて、突如として新しい政党が飛び出してくるというような、ドイツやフランスにあるような行き方をとっていない。いつでも、過去に経験があって試験済みのものを土台としなければ、次のものは生れてこないという行き方である。ちょうどあの「大英百科辞典(エンサイクロペディヤ・ブリタニカ)」が、十八世紀の末から二百年近くかかって、最初はほんの小さな辞典として生れ、版を重ねるごとにだんだん積み重ね、おし拡げて、今日のそれのように大きくなってきた行き方に似ている。制度にも、生活にも、名称にも、イギリスでは旧い慣習をそのまま残すが、それを残すのは、旧い伝統が新しい進歩の邪魔をしていないという自信があるのと、生活の連続性、言いかえると経験の積み重なりを重視するからであろう。社会はそれによってどっしりとした重量感を増してくる。制度も名称も、幾代もの人々の手で撫でまわされて黒光りをしているが、それでもってこの制度の中の人間は常に新しいというのが、イギリスの伝統主義で、そこからきたイギリスの保守主義も、決して頑迷固陋(がんめいころう)な復古主義ではなく、また必ずしも反動的なものとなるとはかぎらない。

 その点、日本の伝統は、実際に流れている生活に即して発展していない場合が多い。茶や花も、ただ昔の生活の名残りというだけで、母体を失って孤立化してしまっては、今の生活に溶け込みにくくなってこよう。伝統というのは一つの価値であるから、それが現代において現代的な価値をもつときにのみ、その伝統は展開したといえるのである。国民の国家生活も、それがただ物語り風の歴史観からくる生活感情だけでは、強い伝統を形成し難いように思われる。ことに、戦後の今の状況についていうかぎり、日本は伝統主義の国といえるどころか、むしろ非伝統的といえる面が強調されているのであって、町や区の地名でも、官庁や学校の名称でも、一切の制度の名前まで、何らその必要のないことまでが、必要であるが如く、無雑作に軽く変更されてゆく。ここまで来ると、およそ中身は進めても外側は古びたまま変えようとしないイギリスの伝統的な行き方とは、まさに正反対にみえる「伝統の日本」というほかはあるまい。

 

 根本的な相違  どこか似通っていると思われるような点を取ってみても、日本人の考え方は、西ヨーロッパ諸国民のそれとは大ぶ違うことがわかる。いや、根本的な違いがあるといった方が、かえってハッキリするかも知れない。

 ドイツ風に似ていると思われるのは、ただ我々が学校でドイツ風の学問をしたというところから、ドイツ的な理論尊重の考え方に強く引つけられているということに過ぎないようであり、政治の形式がフランスに似ているといっても、いわば自分の身から出た考えの違いというものの上に立って、どこまでも自分を貫くというような調子などは、一向に見当らない。いわんや、一切の経験の集積からくる均衡のとれた知識で仕事に当ってゆくイギリス人の「常識」は、我々の誰れでもが一応は持っているように見えて、実は我々にはずいぶん欠けているといわねばならぬであろう。この「常識」は、不断のたゆまない勉強の集積からくるのであって、それは瞬間的に試験勉強的に出来上がるものではない。長い時間をかけた歴史的な蓄積であり、また個人的に簡単に作り上げられるものではなくて、社会的、国民的な規模で、個人個人の相互作用のなかで、だんだんに築き上げられてゆくものである。その意味で、我国にはまだそうした積み上げが欠けているというのである。

 しかし、日本人が西ヨーロッパの諸国民とその「考え方」や「ものの見方」が違うということは、一般に「性格」として似たところが全くないということとは、問題が少し違う。ドイツ人のように権威に反抗しないとか、フランス人のように情熱的であるとか、そういうことはいろいろあるのであって、一面には多少とも共通なところがあると言えるかも知れないのである。しかし、これを国民の政治や経済などの社会的な行動の中にあらわれた「考え方」というような、いわば知的な根本形式として見ると、どうもあまり似寄ったところがないと言うのが、ここに私の言おうとしていることである。

 

 思想過剰  ところが、幸か不幸か、日本の現代は全くヨーロッパ文化で充満していて、西洋の学問、西洋の思想を、背負いきれぬほど背負い込んでいる。日本に何か足りないものがあるとすれば、それは恐らく学問や思想ではあるまい。思想は貧困であるどころか、むしろ過剰の状態にある。キリスト教的なヒューマニズムをはじめ、マルキシズム、ドイツ哲学、マンチェスター派の自由主義やフランス風の自由思想、さてはアメリカ風のプラグマチズム、西欧風も東欧風も、それに従来の東洋思想はいうまでもないこと、王道も、覇道も、一切合財を、不自由なく我々はもっている。

 それは、日本人の燃える向学心のためか、何でもかでも新しいものには飛びつかねばおさまらぬ内心うつろのためか、それとも一九世紀の後半になってはじめて世間に出てきた日本の遅れた歴史的な状況から、世界の先進文化が余すところなく流入して来なければおさまらぬ地位にあり運命にあったためか、その理由はともかくとして、思想過剰は間違いないようであり、またそのために消化不良を惹起している、というふうにも思えるのである。

 なるほど、どんな国でも、外国の思想は次から次へと流入してきている。イギリスなどが、それを次々に消化していって、独自の形で自分の栄養にしていったことについては前に話した通りである。ところが日本では、これら外からはいってきたものが、ずいぶんの情熱とエネルギーをもって勉強され、研究されたにもかかわらず、それらのものが知識階層の専門知識としては相当に結実しているにしても、国民の知恵というか、国民の栄養というか、そういうものとしてはあまりぴったりした効果を生んでいないのは、一体どういう理由によるのであろうか。

 そういうところを、少しばかり考えてみたい。

 というのは、外から流入する学問や思想の受入れ方とか、受入れられたものがどういう状態をつづけてきたかとか、そこに出てくる日本の側の条件とか状況といったものについて、いくつかの特徴らしいものをさぐってみたいのである。

 

 受入れの仕方  第一には、外から流入する学問や思想は圧倒的なものであったが、日本人にはこれを理解す力も十分にあった。それどころか、場合によると一歩を進めることすらできないことではなかった。ただ、これを受入れる土壌というか、素地というか、そういう土台がずいぶん違っていたということはやむを得ないことであった。イギリスでもフランスでも、例えばそこにドイツ思想がはいってくる場合に、それを植えつけるのに土壌の用意があった。他方から見ると、或る程度までこれらの国の間に共通の土台があった。言いかえると、社会生活や家庭生活のあり方、経済の方式、宗教的信仰などに、共通し平行するものがあって、例えば一方の国で出来た学問の基礎になっている生活は、他方の国にもそれに極めて近いものがあるから、その学問を頭で理解するばかりでなく、気持の上でも了解できるというような関係があった。日本と西洋との間には、それが欠けていた。

 第二には、外から流入してくる思想に対する日本人の受入れ方、扱い方を見ると、多くの場合、まずその思想や学問の体系や細部にわたって、熱心かつ忠実に解釈が試みられた。その態度は、あたかも徳川時代の伊藤仁斎や荻生徂徠といった学者たちが、中国の古典に対した場合と()を一にしている。中国古典を、いわば価値の源泉というふうに見て、この解釈に精根を打込み、場合によると当時の本国におけるよりはその研究がすぐれていたといわれるように、明治以後のドイツ哲学やマルクス学の研究も、実に微細を極めたし、これについての専門学者も、恐らく他国に比を見ないくらいの数に達したろう。しかし、この行き方は、まだひとが(くわ)を入れたことのない「事実」の処女地を掘り起し、これを分析し、抽象し、それを再び綜合して、そこに新しい思想や学問を打ち建てるという行き方とは、まるで違うわけである。後者のような学者が日本には出なかったとは言わないが、それはむしろ例外的であって、少くともまだそこまでは行かないというのが一般の状態であった。しかし、これでは、よその畑に実ったものを手にとってながめすかししているというわけであるから、こうした学問や思想が、それ自身としては十分に理解されても、それが自分の畑から生れたものでないということが、国民にとって身近かなものに感じられないのは当然であって、場合によると、それを実際に適用するという段になって、どこかぴったりはこないという問題が起ってくる。

 第三には、こういった受容の態度は、いろいろ流入してくる西欧の思想を、そのまま並存させ、雑居させることにもなった。徳川時代の儒教的教養にしても、それが明治以後の洋学摂取を可能にした基礎をなしていると同時に、その儒教的な思想や教養も、明治以後は半ばは洋学と入れ替りながら、しかも半ばはそのまま共存した。むろん日本の古典思想といったものの復興もあって、それも雑居者の一人というかたちであった。

 また、いうまでもないことながら、こうした知的階層に保持される思想のほかに、徳川期からの土着の考え、それは主として宗教的な色彩をもったものであるが、仏教の諸派、神道、山岳信仰、神仏習合、その他のいろいろの機能神への信仰等、それ自体、互に永いこと雑居してきた土着的な信仰思想が、上層の知識層を流れている新しい思想とはほとんど無関係に、下層を流れていた。

 こうした平気な共存雑居が、日本の思想的雰囲気の一つの特徴を作っているように見える。

 

 思想と事実  第四には、明治の初期から流入してきた自由とか、民権とか、社会主義といった思想は、それぞれまだそれに見合う「事実」がないところに、はいってきたものである。たとえば自由という考えは、西洋では、母国の歴史発展のなかで展開してきた自由という「事実」を根柢として結実した思想であるが、日本では反対に、こうして流入してきた、出来上った思想から、逆に事実を作り出し、それを発展させねばならなかった。自由とか民権とかいう考えにもとづいて、議会を作ったり、自治制度を作り出すことをしなければならなかった。西洋とは、その発展の仕方がいわば逆である。

 もう一つ例をあげると、社会主義という思想の紹介は明治の初年から既にはじまっているが、そのころのわが国では、社会主義が生長すべき土壌である資本家的な経済そのものが、まるで生まれ出ても来ていなかった。実際に社会主義の思想が多少の反響を見るようになったのは、ずっと後のことである。最初の研究団体が生れたのが明治三十一年の「社会主義研究会」で、また最初の社会主義政党が結成されたのはそれから三年後の三十四年であった。研究団体にしても、政党にしても、それが社会主義というからには、当然にこの運動の主体となるべき「大衆」が出てきていなければならぬはずであるが、実際は、これらの思想も政党もまだ大衆とはほとんど縁のない存在であった。幸徳秋水の「社会主義神髄」が出たのが明治三十六年で、このときはじめてマルクス主義的な思想が読書界に紹介されたわけであるが、それでも日本の経済と社会の実際は、まだこの思想にぴったり対応するような状態ではなかったろう。幸徳は、中江兆民の門弟であったが、その兆民が、幸徳に対して「お前の言うことは日本ではまだ早すぎる」と、よくいったものだと、兆民の長女竹内千美さんが思い出として語っている。

 要するに、日本では、事実がまだ展開しないところに、それに関する思想が先走って、はいってきた。そこで理論的にそうした思想を信奉した人たちには、それに対応する事実がなかなかやって来ないというところから、多くは中途でいわゆる「転向」気味になってくる。日本に多い「転向」は、こういう根本条件の上でも起り得たわけであるが、そういったことにまつわって出てくる混乱が、流入する思想に対する一般的な違和感を生むことになったのは、やむを得ぬことであったろう。

 

 思想の濾過器  そこで、第五ばん目に、一つの結論が出てくる。外から流入するものが、こういった調子で受入れられてきたということは、やはりこれを取捨選択し、濾過(ろか)して、自分のものに消化させてゆくための、自分の思考形式がないか、あるいはそれが非常に弱かったということになりはすまいか。これが、ここで考えてみねばならぬ一ばん重要なことであろう。

 これまでこの本の中で書いてきたように、西ヨーロッパの諸国は、大体において外から流入するものを受入れる際の自分の形式をもっていた。独自の考え方、ものの見方をもっていた。この考え方や見方が、新しくはいってくるものを品定めし、鑑定して、取捨選択する濾過器の用をなしてきた。一切合財が素通りしてはいってくるのではなく、その自分の形式にうまくはまらないものは拒否されるのである。『資本論』がロンドンで書かれたにもかかわらず、イギリスにマルクスがそのままの形ではいらないのも、この形式の関門を通過できないからであり、またその同じイギリスでは労働組合があれほど強大で、かつ統一ができているのに、フランスのサンジカリズムがはいって来ないのも、やはりこの辺に一つの理由があろう。フランスに、ナチス的な全体主義がなかなか入り込めないのも、またイギリスのように皇帝を温存できないのも、ほかにも理由はあろうが、フランス人の思考の形式によるところが大きいことは看過できまい。

 ところが日本の場合には、各種の思想が外から導入されるけれども、その各々が大体そのままの状況で、この異境に生きつづけることができる。ということは、日本人のこれに対する受容の仕方が、日本人固有の考え方ないしは固有の思考形式を通してこれを摂取し、現形のあとかたが見られないまでに消化させるということができない、ということであろう。だからこそ、母体のちがうそれぞれの思想が、この国に共存することになるのであるが、国民の知識層は、そうした思想の何れかに関心をもち、何れかに引かれることにもなるから、それが国民の考えにいちじるしい分裂と相異を生む少くとも一つの素因となっているように思われる。

 

 感性の形式  さて私はここで、我々日本人には強い独自の考え方がないのではないかという疑問を提起したが、これは或いは少々大胆に過ぎたかも知れない。しかし、そういう仮説を作らないことには、説明しにくいことがいろいろと出てくるので、あえて私はこういう仮説をかかげながら、話を進めたいと思うのである。

 もっとも、ここに独自の考え方が弱いといっても、それは主として論理的にものを見、ものを掴む独自の形式をいうのであって、一般にものを掴むのに論理的な方法以外には何の方法もないということではない。さしずめ感性的に把握する仕方があって、それは文学や芸術などの世界を作る。そして我々が、そうした方面から世界や人生に肉迫することの重要さは、いまさらここに述べるまでもない。日本が早くから中国の思想や文字や芸術やその他の文物を受入れ、また中国や朝鮮を仲介として、印度その他の宗教思想などを容れながらも、それらとはおのずから異った日本独特の文化を作り出していることも、いまさら言うまでもないのであるが、例えば飛鳥白鳳の芸術、紫式部に代表される平安の文学、さらには世阿弥、遠州、宗達、光琳、芭蕉、宣長というような名前をあげてみるだけで、その独自性は疑う余地のないもので、かつ、こうした文化所産は、我々にとっては親近感などといったもの以上の、生命的な、内的な、確実なつながりを感ぜさせられるものである。そこに、感性の世界における日本人独得の優れた形式があるということは、そういった方面には暗い私などにも、率直な確信がもたれるのである。すべてに(きび)しく硬い感じの中国の陶器も、日本にはいってくるとすっかりデフォルムされて、何ともいえぬ渋味が出たり、浴衣がけの風雅な趣きを帯びてきたりする。そうして三十一文字と十七文字の中に、それぞれ風趣のちがった詩の世界を、昔も今も多くの庶民がうたいあげるような国民は、ほかにはあるまい。

 そういうことを考えると、日本人がこうした世界でその「形式」を遺憾なく表出していることに気がつくし、そしてその価値を低く評価することなどは思いもよらぬことである。

 

 ロシアを想う  私は、ロシア人については(すこぶ)る知識の浅いもので、いろいろのことを言う資格がないのであるが、こういった思考形式の問題で、ロシア人はどこか日本人と一脈の似たところがあるような気がしてならないのである。

 ロシアという国は、西ヨーロッパ諸国と同じ歩調で歩いた国ではなく、十八世紀から十九世紀にかけても、まだ専制、農奴、迫害、叛乱といった文字の乱舞する国であった。十八世紀後半にピヨートル大帝の後継者をもって任じた女帝カザリン二世などが、フランスの自由主義を謳歌し、大いに啓蒙君主ぶりを発揮していたが、ひとたびフランス革命の報が伝わると、あわてて自由主義などはかなぐり捨て、かえってその信奉者の弾圧に向う大「転向」ぶりなどを見ると、社会的な思考という面では随分立遅れていて、彼らが西ヨーロッパから受入れていた知識がまるで地についていなかったことがわかる。それもそのはずで、女帝や貴族たちは、フランス流の新思想を謳歌しているのに、地上では自由どころか、農奴制は真っ盛りという状態であった。当時、その矛盾をするどく指摘して、ついに一時は死刑の宣告まで受けて結局シベリヤに流刑されたのが、最初の革命作家といわれるラジーシチェフであった。インテリゲンチャという言葉は、本来ロシア語で、それは十九世紀のロシア文学によく出ている現実政治から離れた知識階層のことであって、こうした意味あいの知識層は、イギリスやドイツにはあまり見当らない。これは、革命前のロシアと日本にだけの特産物である。

 私は、そういう点から考えても、西ヨーロッパの社会思想が、ロシアにはそのまま導入されやすかったろうと思うし、それがロシアの極端な専政制度とはげしく噛み合って、結局、革命への情勢を生み出すに至ったものであろうと思う。言葉をかえてみれば、ロシア人も、学問的な伝統が浅く、みずから掘り起した思想よりは、輸入思想に圧倒されがちであったのであろうと考えられるし、そういう点で、この流入してくる思想を濾過する独自の思考の形成は甚だ弱かったと見るべきではあるまいか。

 

 誇りと弱み  しかし、それはロシア人にとっての弱みであったとしても、他方にロシア人は、たった一人のドストエフスキーをもっているだけでも、世界にむかって自らを誇り得たと考えるべきであると思う。十九世紀の中葉から後半にかけてはロシア文学の盛花期で、それまでロシアというものを北方の野蛮な国ぐらいに思い込んでいた西ヨーロッパの連中は、ロシア文学の出現を奇蹟のような気持で見たといわれる。しかし、この世界に独自の地歩を占めるロシア文学は、実は永い歴史と伝統をもっていたのである。音楽についても、同じようなことが、ロシアの場合に或る程度までいえるのではあるまいか。そして、文学的思考による人間探求の深さ、したがってまた人間の集団である社会のするどい捕捉は、他の方法をもってしては到達できない独自のものである。

 私は、ロシアも、日本も、学問的な思惟を働かせる伝統が浅かったということ、そしてそれが浅かったのはこうした思惟を自由に働かせる社会的な条件のできるのが非常に遅れたということ、こうしたことが、特に社会的な学問や思想について独自の思考形式の弱さを作ったと見てよかろうと思う。そのロシアは、外来の思想で直訳的に革命はやったものの、革命というものは旧体制を覆えすことが主な仕事であって、革命や革命の背景となる思想そのものの中から新しい社会のすべてが生れてくるわけではないので、––その点はあとでもう少しくわしく述べたいと思っているが––革命後のロシアは、これまでも自分たちの身に合う社会や経済のあり方を求めて模索してきたと見るべきで、いまや利潤形式を採り入れるというようなことをやっているのも、それが直ちに資本主義に還るのだとか、いやそうでないとかいった政治的な見地から見るべきではなく、もっと違った、いわば第三の、歴史的な立場から、ゆとりをもって眺めるべきものであろう。

 同じことが、同じような関係から、しかしまったく違った事態にあるこの日本にも必要であろうというのが、私の考え方である。

 

 生活と学問  こういうふうに言うと、非常にむつかしい問題のようであるけれども、流入思想に対して我々自身のもつこなし方が大変弱かったということは、平生の生活のなかに、いろいろに現われているのである。そうした中で、もっとも目立っている大きな問題は、何といっても学問と生活が、我々の場合には離ればなれになっていて、ぴったりくっついていないと言うことである。

 身近かなところで、自分の学生時代を回顧してみると、それに気づく人が少くはあるまい。我々は、学問とはそういうものだと思い込むようにくせがついているけれども、よく考えてみると、我々の受けてきた教育は、いかにも教科書的で、どこかよそよそしいところがあり、我々の身に泌み込むような生活的な要素に欠けていた。大学で学習する学問が、いかにも「学問的」におごそかであって、しかもそれはただ教壇とノートとの間の交渉に過ぎなかった。それは我々の生活には泌み入らなかった。それもその筈で、我々の教わった学問の多くは、日本人が作ったものでもなく、またそれは我々の日常の生活の間から出てきたものが結晶して出来た学問ともいえなかった。我々の今日までの学問は、そのほとんどすべてが、と言いたいくらい、多くが西洋から輸入され、その輸入されたものが先ず最初に大学の高い教壇の上に現われ、その教壇から下の方へ、庶民の方へと、次第に降りてくるという行き方ではあったが、それは結局、庶民の生活までには降りきってしまわず、生活に入り込んでしまったとはいえない。

 たしかに風習はずいぶん西洋風になった。洋装は一般的であり、握手なども平気になっているけれども、権利とか義務とかいうときには、もう何かぎこちないものを感ずる。その権利を主張すると、口論だけに止まらずに、喧嘩になったり、暴力になったりしかねない。それよりは「義理がわるい」とか、「ずいぶん御恩になった、だから……」という言葉の方が、はるかに身についているように感じられるし、そういう言葉で動きだす方が、自然な感じがしているのである。これは我々の「生活」である。権利とか義務とかいうのは、明治二十一年以来やってきた我々の「法律」だが、それはいまだに生活とはどこか離れた感じで受けとられる。

 ところがその「法律」が、西洋では、学問であると同時に、生活である。

 

 固い約束  やかましいことは暫らく措いて、ごく一般的にいうと、西ヨーロッパ諸国の「法律」の土台には、西ヨーロッパの比較的に独立で自由な個人が横たわっているといっても、そうわかりにくい話であるまい。いわば、つねに外に向って自己を拡張してやまぬ個人が横たわっているのである。

 個人々々が、それぞれ自分の生活を、精神的にも物質的にも外にむかって拡張しようとするのは、敢えてヨーロッパ人には限らない。それは、中国人にも日本人にもあることには違いないが、それでもどこかに違ったところがある。日本人の場合は、それが儒教から来たか、仏教から来たか、それとも社会的な自由というものを知らなかった封建生活の遺風がこびりついているのか、その依って来たところが何であるかはともかくとして、その自己拡張の自然な動きをつねに引留め、これを牽制しようとするような動機がはたらいていることは確かで、少くともこの戦前までは、自己の自然な欲望のままに外にむかって進むということを、必ずしも「よいこと」とは見ないで、むしろ自ら退くところに道徳的な高さを感じていたことは、我々の日常の生活における実感だったといってよかろう。その辺が、ヨーロッパ人とはもう可なり違っている。個人個人が、それぞれ自分の生活を外にむかつて拡張しようとすることは、まず自然なものと受取っているのである。しかし、社会のすべての人が、自分を外にむかって拡げようとする限りは、ここではどうしても衝突が起り、社会は、勢いこういった個人と個人との押し合いへし合いの場所となる。そのことは、アダム・スミスの経済学がエコノミック・マンの押し合いへし合いを前提しているのにも見られる通りで、いわばヨーロッパ社会の原型と見てよかろう。この原型のなかでは、個人個人はお互に押せるだけ押してくる。それが自然だと見られるなら、社会生活を維持してゆくには、その押し合いを是認した上で、それを調節する境界を積極的に定める必要ができてくる。こうして出来あがった境界が、いわば民法とか商法とかの私法の考えであって、どこまでも外に拡がってゆこうとする個人の生活は、これら私法のさだめる一線を守ることによって、はじめて均衡を得た社会的な安定状態が作り出される。だから、それは、永い間、いわば身をもって争い合った結果として出来た調停の境界線だということができるのであって、理窟だけから生れ出てきたものではないのである。

 そこで、この法律を守るということは、お互の生活を確保するのに何よりも大切な固い約束でなくてはならぬということになる。本人が一度サインをした以上は、契約の内容はたとえインチキなものであっても、履行されるのが当然であって、サインはしたが実は契約書の内容には十分に目を通さなかったとか、契約の内容が少々インチキだとか主張しても、それはなかなか通りにくいのである。こういうふうに法律に対する感じ方からして、今日までの日本人のそれとはだいぶ違っている。

 

 法が生活を守る  日常の生活のなかに出てくるいろいろの契約、家具を月賦で買うとか、銀行に預金するとか、テレビの受信機を月ぎめで借りるとかする場合に、スイスの人たちなどはその契約書を一日中ひねくり廻して、よくよく読んで大丈夫というのでなければ中々サインしない、といった調子である。町の小売店なども、十分には見知らない人間にも愛想よく掛売りをやったりするが、約束と違って支払いが滞ってくると、容赦なく警告を発して執達役場を利用する。法運用の施設も違うし、法に対する信頼の固さも違うわけである。

 いわば平生の生活において、彼らはつねに法律とともに生活をしているのである。書類ということになると、買物の勘定書きでも、二年や三年はキチンと分類までして取っておく。いつか必ずこの紙切れが物を云うのである。必要なときに証拠の書類がなければ負けである。

 私は、スイスで、年配の男を秘書に雇っていたことがある。いい男だと思って信用していたのはよいが、私はこの国の法律について少々無知であった。ある日、私あてに、執達役場から手紙がきた。不審に思って(ひら)いてみると、この私の秘書が、その離婚したモトの細君のために渡すベき扶養金を、雇主たる私がこの数ケ月払込んでいないので、もし私が払込まないなら、私にむけて執達吏を差向けるというのであった。スイスでは、離婚された妻のために、彼女を離婚した夫の雇主は、この男に給する月給のうちの何割かをあらかじめ差引いて、これを役所に納める義務があるのであって、その金は役所を通して妻に渡されることになっているのである。その金額は、男の月給の額によってちがい、最低男が食えるだけは残してやるが、役所としては去られた妻を救済する収入源を押えておいて、扶養金の確実を期するわけである。そこで、雇主たる私が、もし雇人の給料から差引いてこれを納入しなかったら、私は、支払義務の不履行ということで差押えられることになる。私の秘書は、自分が妻を離婚したことを私に話さず、私がこの国の法律に暗いのをよいことに、妻に渡すべき数ケ月分を着服していたというわけである。

 事柄は私が役所に電話したことですべてはっきりし、私はすぐに適切な処置をとることができたが、感心したのは、法律はこの通り確実に運用されるように作られているし、離婚された妻は旧夫に収入がある限りは間違いなく保護されるということである。この辺は、家裁あたりで一応の決定があっても、実際は旧夫が支払わなかったり、これを訴訟しようとすればこれまた大変だというので、離縁の妻は大てい泣き寝入りする日本とは、ずいぶん違っている。五万円ぐらいの収入のある男だったら、毎月一万円ないし一万五千円ぐらいは、雇主に頭から差引かれる。生活を守ってくれる法、その法運用の確実性から、法への信頼がゆるがないのである。

 そこで、借家の一軒ぐらいもっているサラリーマンなら、ちょうどかかりつけの医者をきめているのと同じように、生活の相談相手に一人の弁護士ぐらいは平生からきめておいて、事あれば直ちに動員するといった塩梅(あんばい)で、「権利のための闘争」は日常茶飯と心得ている。スイスの首都ベルンは、人口十二、三万の小都市であるが、この町ぐらい弁護士の看板の目につくところはない。この、どこの国よりもやかましい民法をもっているスイスは、こういう点で少しは特別であるかも知れないが、そこに住んでみると、法律がそのまま生活だという感じは如実である。随分ぎごちないと感ずるのは、我々日本人のような連中だけで、スイス人自身には、それが当り前であるに違いない。

 

 古時計への信頼  その点、法律は法律だが、実際はこうだというわけで、情状の方が大手を振って通りかねない日本では、人間に対するあまり当てにならない信頼関係を当てにしているようなもので、それはちょうど、しょっちゅう止まってばかりいる古時計を大事に持ち歩いているのと同じようなところがある。法律に対する信頼よりも、まだ人情の方に重みを置いているのである。人情や人間性は、それが古時計のように止まったりしないかぎりは、もちろん美しいものであり、根本的に大切なものに相違ないが、それだけを頼りにしては、現代の複雑な社会生活は機能してゆかない。

 その上に日本には、この「人情」と表裏の関係にある「義理」という考えが、まだ社会生活の上に意外に重要な役割をもっている。義理というのは、他の人からかけられた人情––それが精神的なものであろうと物質的なものであろうと––その人情に対して、いわばお返しをする義務といったもので、民法のような私法のなかった徳川時代の庶民の社会生活を支える柱の役割をしたものであるが、それは、その場その場によっていろいろ現われ方が違い、その解釈には主観的な要素が強く入り込まないではすまないし、客観的な規準というわけにはゆかなかった。したがって、この道義(ジッテ)は、おそらく強いものには有利に、弱いものには不利に作用したに相違ない。この義理の考えは、むろん今はずいぶん変ってきたが、それでもまだ我々の生活からなかなか抜け切れない。「そうしないと義理がわるい」という言葉は、その意味がはっきりしないまま、いまでもお互いに平気で使っている。いわば我々は、法律と義理の二重の生活をやっているわけで、それが日本人の生活をいやが上にも複雑で、世界に稀れな、ややこしいものにしている。

 もちろん人情と義理の生活と、法律の生活とには、それぞれ違った領域がまったくないとは言えまいが、実際には、ぎごちない法律の隙き間を、義理と人情で埋めているつもりであろう。あるいは、法律の支配すべきところに、人情の生活が残っているというわけでもあろう。外からはいってきたものが、いかに生活とくっつきにくいかを、わが国の法律は実によく示しているのである。

 

 浮いている法律  このあいだから「遵法運動(じゅんぽううんどう)」という言葉が、左翼の労働組合その他でいろいろの意味で使われたが、これもどこかに法律に対する疑惑が残っている証拠であろう。そうでなければ、いまさら遵法というのも甚だおかしな話である。しかし、これは、法律を守る側において、法律の受取り方が、これまで話してきたように西洋諸国とはちがって、ぴったりしないところがあることを意味するばかりでなく、法律の出来あがる過程も幾らかおかしいということを含んでいる。

 法律は国民の意志を代表する国会で制定されるほかないし、その国会では過半数の賛成でこれを成立させるのであるから、手続きや形式そのものは、日本においても現代のデモクラシー政治の常識通りに運ばれているわけであるが、それが変だという感じを残すのは、国会における多数決の原理だけは型通りに踏んでいるけれども、その数が質的に承認できないようなものを含んでいるということであろう。それを言いかえると、法律通過に対する賛成を成立させる数の一つ一つが、必ずしも法案に対する十分の確信をもっていなかったり、また反対派に対しても十分の根拠をもって説得するだけの力を欠き、かつ実際にも説明に努めるというふうではない。

 したがって、双方の間で十分の論議がつくされ、意志がよく疎通して、場合によれば反対だった者が賛成に傾いたり、またその逆に、賛成者が反対にまわるということもあり得るという場合も前提し、したがって法案に対する個人個人のいつわらぬ自分の考えと意志にもとづく結果としての多数の力を認める、というような空気のなかでこの立法が行われていないということである。そこで、与党はただその議員の数だけで押しまくるという印象を与えるし、野党はこれに対して物理的に対抗するということになる。これでは、ほんとうの「多数決の原理」ではなく、「多数議員の原理」とでもいうほかはない。しかし、それなら、はじめから質疑も討論も必要としないということになろう。

 こういうわけで、お互に犯してはならないという自覚を生み出すような、法そのものの成立過程が弱いのである。法は、自分で作ったものではなく、天下りのものだという考えが、何とはなくまだ我々を支配している。要するに法律が我々の生活から浮いているのは、法律の製造元である国会の制度が、やはり形ばかりで中身は浮いている、というところからも来ているのである。

「遵法運動」は、ほんとうの意味で、我々にはもっともっと必要である。

 

 経済の感覚  経済についても或る程度までは同じようなことが言えるのである。

 経済とか経済学とかいうような一ばん生活そのものとぴったりくっついているはずの領域ですら、日本ではその経済の学問と経済生活とが、どこか離ればなれのところがあって、いわば経済学が身についていないと言うか、我々の血になっていないようなところがある。

 経済とは言うまでもなくエコノミーの訳語として用いられてきた言葉で、エコノミーは本来は「節約」という意味に相違ないし、我々が「それは経済的だ」という時に意味するものから来たのであろうが、日本では経済学というおごそかな学問的な言葉の方にひきずられて、本来のエコノミーは非常に軽く見られ、それは国の経済などとは関係ないほんの個人的なこと、俗なこと、ケチなことだとして軽蔑しているようなところがある。

 ところが、国民個々の生活における節約は、企業にもってくると、経営や技術の合理化、コスト引下げ等を意味するであろうし、国としては貨幣価値の安定を柱にした適切な政策、そして時には国民生活緊縮の必要ということも意味するにちがいない。それがやがて資本の蓄積となり、そしてまたそれが結局は国民の生活を豊富にするということは、最も単純な経済の原則であろう。それは個人にとっては時には生活の厳しさであり、国民経済としてはいつも太平楽は許されないということ、耐乏の時代もあることを意味しよう。そういったことがピンときていないと、国民経済はいつでも成長のしっ放しでゆけると考え、国民に忍耐を要求しない財政政策となったりする。日本経済につねに付きまとっているインフレ傾向や公債政策などは、その辺にも土台があるのである。

 話はまたまた道草を食うけれども、例えばスイスという小さな、山ばかりの、資源といっては一塊の鉄も石炭も持たない国が、どうして今日の富と高い生活水準をもつようになったかということを考えてみたい。それにはむろん、いろいろの理由はあろうが、やはり経済ということに対する国民の真面目な関心がその底にあると私は見ている。鉄や石炭などの原料はおろか、食料の一部までも輸入するこの国民は、当然に高いコストをもって仕事をしなければならぬ。精密工業の発達がそのバランスをとっているのであろうが、それにしても、国民の個人個人の生活が、ピッタリと計算された家計の上に立ち、豊かな人々も大して賛を尽さず、一般に無駄のない、見えをつくらぬ、規律のある勤倹生活がなかったら、それは到底不可能であったろう。山間の隅々までぺーヴした自動車道路や、町ごとに見る多数の宏壮なホテルの建物は、永い間の蓄積の産物であり、それをこの国の人が「外国産業(フォーレン・インダストリー)」と呼んでいるように、本来美しい自然が、この産業投資によって一段と景観の美を高めているし、それが外客を呼んでこの国の富の一部を加えてゆく。国内の政情が安定し、社会に波風の少ないこの国の現在では、政治は勢い経済問題に全力を集中することにあるように見えるし、貨幣価値の安定を中心に、経済政策に失敗しないということが、政府の最大関心事であり、国民もまた、如実に自分たちの生活に響いてくる国の経済政策を油断なく見守っている。

 

 百年単位  こういう気風はむろんスイスばかりのことではない。ドイツやイギリスあたりでも、あまり大がわりはあるまい。家屋はもとよりであるが、器具や道具でも、物を買うときには生涯もたせるような積りで買うし、それだけに物を大事に手入れする。二、三日で壊れるようなガラクタをその場の間に合せで買込んでくる我々とはちがって、どんな小さなものまでも、無駄に買い込まない代りに、買ったらなくさない積りでいるから、勢いどんなものでも「財産」という観念で取扱われるし、それがだんだん蓄積となってゆく。もし、住宅やその他の建造物、道路、交通機関、一切の公共設備、家財道具などに至るまで、その保つ寿命を日本のそれと比較して計算してみたなら、どれほど大きな相違が出てくることであろうか。私はときどきそれを考えさせられる。

 そういったことは、地震とか、水とか、風とか、湿度といった条件のちがう風土によるところも多く、あながち考え方からばかり来るといえないことは、もちろんであろう。しかし、その依って来るところが何であるにしても、考え方がそういうふうになっているということは事実であるから、その事実はハッキリ掴んでおく必要がある。例えばその一つの事実として、いまの日本では経済という考えに「時間」という要素が非常に小さな重みでしか考えられていない。ほんの目先ばかりで暮しているようなところは、昔ながらであって、半永久的な社会投資と見るべき自動車道路などが、出来たと思うと、二、三年のうちに修理されたりして、あっちでも、こっちでも、道路は畑のように打ち返されているのは、何を意味するであろうか。経済学は普及していても、生活は経済学が教えるものとはだいぶ開きがあるように感じられる。

 話は古いが、私は、あの戦争中に、ライプチッヒ郊外に完成されていた新しい図書館を見て、時間に対する考えの著しい違いを痛感したことがある。この図書館は、ワシントンのコングレス・ライブラリーにも匹敵するほどの大きなものであったが、二十五年ごとに巨大な書庫を一棟ずつ増築してゆく計画が、図書、雑誌、新聞の増加とにらみ合せて立てられていて、百年後の姿までが、きれいに設計されていた。その後の爆撃であるいはこれも無残なことになったかも知れないが、戦時中のあの多事のなかで、いわば百年単位でドイツ人は仕事をしていたのである。

 こういう事情については、資本の大きさとか、蓄積とかが、すぐに問題になるわけだが、どこの国も初めから大きな資本をもっていたわけでもあるまい。イギリスの大きな辞書が時に数十年の計画で出版されることは一般の日本人にはあまり知られていない。オックスホードN・E・Dという名で有名なイギリスの国語辞典は、最初に思いつかれたのが前世紀の一八五七年、そして最初の一部分が刊行されたのが一八八四年、数代にわたる編纂責任者を経て全二十巻が完成したのは一九二八年であった。日本の年代でいうと、安政四年に着想を得て、明治十七年に最初の一部が出版され、昭和三年に至って全巻が出来上ったというわけである。これはむろん経済だけの角度から見るべき問題ではない。が、何れにしても、それは稀にある例外を除くと、数年乃至は数か月で辞典が濫造され、そして場合によっては一回かぎり紙型まで捨てられてゆく日本の、特に最近の出版事業と比較すると、全く別の世界である。

 これは経済ということの外に、国民の文化ということで深くして大きな問題を蔵しているのであるが、経済という観点だけからみても、我々日本人の生産活動が、いかにも眼の廻るほどの忙しさでありながら、どんなに無駄ばかりしているかということ、またいかに富の蓄積にはならない労働をやっているかということを考えさせる一例であろう。逆にいうと、二十日鼠が車を廻しているような、日本人の比類のない忙しさと騒々しさは、この(さい)河原(かわら)の小石を積むような、蓄積にならない経済活動から来ているのだとも言えないことはあるまい。

 

 一般的と例外  この戦争がすんで二年ほど後、私はケース一つひっさげて、スイスからロンドンに飛んだ。カバンの中には旅行用品のほかは煙草ばかり詰め込んでいた。というのは、私は出発少し前に、イギリスから帰ったばかりの友人の口から、イギリスでは煙草が不足していて一人一箱宛の統制売りになっているので、容易に買えないから持っていったがよかろうと聞いていたので、二か月分ばかり用意したわけであった。ところが行ってみると、なんと大陸では手に入らぬ上等の両切が、煙草屋には山と積まれていて、もちろん幾らでも買える。つい少し前に、イギリスでは統制売りをやめて、その代りに一割ばかり値上げをしていたのである。あれほどの煙草喫みのイギリス人が、ほんの少し値上げになったばかりに喫むのを手控えているのだということは、すぐに分ったわけだが、そのわけを説明しながらタイムズの幹部社員が、シガレット・ケースを開いて、私に両切をすすめる。そして語をついで真顔でいうことには「高くなってほんとに困ります」

と、こういう挨拶であった。

 当時イギリスは、まだ大部分のものが切符制で、どちらかというと、物は手に入らぬが、金は労働者でも余っていた時代であったが、それだのに比較的豊かな人の口から、こういうことを聞かされて、私は我々の財布はほんとうに締りがないなアと、つくづく思ったことである。同じ条件のもとで煙草一割の値上げをやっても、日本では同じような反応は出てこないだろう。

 経済学の祖国では、なるほど需要供給の法則が典型的に行われている、と私は失い物でも見つけ出したような気がしたことを思い出すのであるが、考えてみると、なるほどそうでなかったら、金利の僅かばかりの上げ下げが失業や就業にどう響くか、というような理窟を扱っている近代経済学は生れてこないはずで、反対にそうした経済学は、戦後四年たったいま、この貧乏のどん底にある国民経済のなかで、夜の電車は酒気紛々という光景を展開している奇異なる国では、なかなかピンとはこないはずである。

 経済法則とか、経済の合理性とかいうことは、個人個人が合理的な生計の営みをやっていることを前提としているものに相違ない。一か月の給料を合理的に割りふって、何がしかの貯蓄をして不時の必要にそなえ、何がしかを一か年の間に貯めて冷蔵庫を買い込もうというハッキリした目標をもってやってゆくと、知人を夕食やお茶に招待できるのは月に何回ぐらい、と大体ながらも、ずいぶん窮屈なプランが出来てくるはずである。それが西洋の給料階級の普通の生活であろう。それは日本だってそうではないか、とすぐに抗議が出てくることであろうが、それが例外的であるか一般的であるかによって、大きな違いが出てくるのである。近ごろ、若い人たちが急にしぶいことを言いだしてきた傾きがあって、一つの流行のようにも見えるが、それが一時の反動であったり、または他人の迷惑においてやる戦後の利己的な考え方から来たのでなければよいが、と私は思う。

 個人個人、家々の生計が合理的であるということは、社会の消費に合理性があるということであって、それはこの消費に対応する生産の合理性を導くことになろう。少しずつは変ってきているにちがいないが、日本の家庭ほど、物の役に立たぬガラクタを沢山もっている生活ぶりはない。こういった生活は、勢い、いつまでもガラクタを生産する経済を維持しつづけることになる。粗悪で、壊れやすく、その場しのぎの、安物をつくる経済、消費者にも生産者にも、結局において蓄積を妨げている特有の経済が、持続されることになろう。かくて日本の工業は、その商業的な側面に力コブがはいり、技術そのものを売物としなければならぬ本ものの工業は、なかなか進みかねているのである。

 

 技術と経済  こういう次第で、わが国にも資本主義はいまや大いに展開し、労働者も、小商人も、夜昼なく働き、その労働の苦しさと時間の長い点では、どこの文明国の連中よりもえらい思いをしてきたわけで、資本も利潤をあげるにはあげて、一応は近代的な国民経済を営んではきたが、孜々(しし)として努めてきたその割合には資本の蓄積も小さく、道路も公共施設も貧弱極まる有様で、大衆個人個人の生活も一向ゆっくりするところまではこないというのが、今日までの日本であった。

 こうした状況については、むろん、いろいろの点に理由を見出して説明することができるだろう。軍国主義と戦争が重大な一因だったともいえるし、外国の強い資本に抑えられて伸びかねたともいえようが、こういったことを暫らく措いて考えてみると、西洋諸国と比較していえる重要な一つのことは、個人や家庭の経済生活にはじまり、企業の活動ぶりを経て、国民経済の全体にひろがっている合理性の欠如、言いかえると「経済」というものに対する近代的な「感覚」を欠いているということであろうと思う。物質と人間と時間の不生産的な浪費が、その結果として出てきていることだけは、目をつぶることのできない事実ではあるまいか。––

 身辺をかえりみても、気づくことが幾らもある。何よりも、なんという規律のない執務状態であろうか。訪問や会談の、なんと冗漫で、秩序がなく、時間を食うことであろうか。官庁や新聞社など、なんと厖大な従業員数であろう。それは世界に比類を見ないものだ。企業と企業の間では、社会的には全く意味のない激甚な競争をやっている。その競争のやり方は、技術を進め、商品の質やサーヴィスを向上する方向には、向ってはいない。宴会や贈賄(ぞうわい)の多いことも類があるまい。それが産業の費用を高め、商品のコストを大きくふくらませているような国が、ほかにあるであろうか。そしてその国民経済が小さいのに、消費生活の面は、料亭、待合、キャバレー、バー、カフェー等々の数のすばらしく多いこと、これは日本の都会の特徴である。それもさすがに飽和状態を越えると、こんどはあっちもこっちも観光観光で、急ぐこともない国内観光の施設で国中がいっぱいになりそうである。もちろん私は、こういった不均衡で不安定な調子が、長く続きうるものとは思わないけれども、それと気がつくときは、国民生活としては、ずいぶん不経済をやったあとだということになろう。

 こうしたことのすべては、この国民の経済生活が、経済学がヨーロッパで生れるときに既にもっていた精神とは、どこか調子のちがう土台の上に立っているからであろう。その経済学は、例えば財政の方式や、租税の形式をつくり上げるのには、大いに役立ったに相違ないが、租税として集まってくる収入の使い方ということになると、もう経済の合理性を踏みはずしているようなところが多い。

 国民の富が、過去においては、たしかに大部分陸海軍の人間と機構とを養うために使われたということは間違いないが、戦争というものを捨てた今日においても、税収は、国としても、地方自治体としても、国民の道路や公共施設になる部分は比較的に少く、中央も地方も、役所の大きな機構と多数の人間を養うことに使い果されているようだ。道路も水道もいい加減のまま、各都市の市庁舎だけは申し分のないほどモダンなものが建ってゆく。社会経済としては逆立しているようなものである。日本の経済は、建築や造船や機械一般にわたる技術の側面は、可なりの成功をおさめつつあるが、経済学という学問が本来もっている効力は、こうした工学や技術の成功にもかかわらず、それに比例するほど国民の幸福を増進させはしなかったようである。

 

 学問と生活の距離  法律と経済について、少々話が長引いてしまったが、法律も経済も、日常の生活の内容となっているものではあるし、またこれに関する学問が日本にはいって来てから随分永いことでもあるから、それはもう、とっくに、日本の生活にぴったりしていると考えられてきたようであるが、その学問と国民生活との間には、以上に話してきたような開きが残っている。この開きが、社会的な思想や学問と社会的事実との間では、とくに大きいことは前に述べたところであるが、こういうふうに学問は学問、生活は生活という調子で、学問と生活がぴったりしないということは、国民の生活が学問と手を組んで仲よく一緒に進んでゆかないということであるから、観念的にはいろいろなことが頭の中を往来するのに、生活はいわば旧態依然で、不合理と思われたり、辛抱しかねると考えるようなことも、なかなか清算されずに続くということになる。そこで、こうした学問と生活の分裂は、国民にはずいぶん欝陶しい気分をかもし出させるし、そこに、一つの危険を潜在させることになる。

 大正末期から昭和にかけての日本の社会の欝陶しさは、ここにも一つの根があったといってよかろう。

 

 戦前の教育  ところで、日本の教育は、こういった環境の中で遂行されねばならなかった。しかし、この時代の教育に、いまここで取上げている問題––すなわち学問と生活の間の間隙を埋めるという課題––を果させることは、まったく不可能なことであった。それどころか、日本の教育は、この課題を意識もしなかったし、むしろかえって問題を大きくするはたらきをしたかも知れない。

 というのは、日本の戦前の教育は、何よりも第一に、国家主義に奉仕しなければならぬ侍女のようなものであった。というよりも、若い国家主義を育てる保姆(ほぼ)として、そのお守役をつとめねばならなかった。それと同時にその教育は、この国家と手を携えている社会という環境のなかで、その仕事をしなければならなかった。国家が強権的にできているときには、その社会もまた、同じような過去の因縁から、いろいろの癖をもっているものである。そういうことを考えると、教育というものも、なかなか運命的なもので、政治と社会の複雑に入り組んだなかで、いろいろの制約を受けながら、その仕事をしているということになるし、まったく自由に、何のこだわりもなく、理想に向うということは、今日までの場合、この日本ではほとんど出来ぬ相談であったということになろう。

 しかし、戦前の教育と、国家や社会との間のつながりが、どんなものであったか、したがって戦前の教育がどんなものであったかということだけは、こんどの敗戦を機として、国民の前に相当はっきり曝け出された。それは、戦後の転換のうちでも、最も大きな、肝腎カナメの点になっているのである。

 そこでいま、ほんのしばらく、この戦前の教育の方向が一体どんなものであったかを、国家と社会との関連のなかで顧みておくことにしよう。

 言うまでもなく、今からみると、この我々の知的世界の正常な展開には大いに邪魔になった国家主義であったが、もしその国家主義が相当強力なものでなかったら、明治初年から今日に至るような日本の急速な発展は、ともかくも出来なかったに相違ないのである。歴史はなかなか微妙なものであり、いたずらっぽいものでもあって、また大変な無駄骨を折らせたりするものであるが、今からみて悪と見える過程が、まったく無くては済まされなかったという巡り合せにもなっていることが多いものである。この、明治から戦前までの日本の国家主義などは、その典型的なもので、これなくしては、あの時代に日本の発展はなかったわけであるが、しかしこのために日本の社会も学問も、随分いびつなものとならざるを得なかった。しかし今となって考えるからには、その間の関係をできる限り正確にピンセットの先でよく選りわけることによって、何が、どういう事情で、マイナスになってきたかを突きとめて、そして今後の我々の進み方をきめてゆくほかはないのである。

 こういう意味で、ここで中心の問題となってくるのは、ほかでもなく明治の憲法と教育勅語とであろう。これが、明治以来の日本の国家と教育に対する二本の柱となって、良きも、悪しきも、二つともの作用をしながら、今日の日本を作ってきたといえるのである。

 

 教育の淵源  その明治憲法のことは、いまさらのことではないが、この憲法の下で、明治、大正、昭和の日本国民を作りあげるのに、教育勅語が演じた役割は、実に非常なもので、その事情はここで、簡単ながらつきとめておく必要がある。

 周知のように、教育勅語は、実際には元田永孚(もとだながざね)井上毅(いのうえこわし)の協力によって草案が作成されたもので、天皇が直接に国民に下賜(かし)される聖諭(せいゆ)ということであるから、その作成は非常に慎重に行われたものであった。ことに、当時として進歩的立場の人であった井上毅は、その草案起草に当って驚くほど細心の注意を払った。

 例えば、立憲政体下の君主というものは、臣民の良心の自由には干渉しないものであるとか、宗教や哲学上の論争の種になるような文字は避けねばならぬとか、それから「政治上の臭味(くさみ)」があってはむろんいけないし、「漢学の口吻(こうふん)」、が残ってもよくない、また「洋風の気習」を出してもいけないとか、総じて君主の訓戒というものは「大海の水」のようでなくてはならぬというのが、これを書くときの心掛けとされたことであった。したがって、その出来ばえは、当時としては非常に立派のもので、これほどの成功をおさめたものも外にはほとんどなかったろう。その掲げている徳目も、朱子家訓風の日常生活の軌範ともいうべき博愛、公益、知能の啓発、等々、あまねく行きわたっているし、そういう文句や観念がどこから出たか、そのオリジンの形跡も見せないように、周到に書き上げられていた。

 しかし、そこまで綿密な注意が配られているにもかかわらず、「皇祖皇宗……」という森厳な文字にはじまるその雰囲気は、明治憲法の前文にはっきり出ている神勅主権の考えと同様に、国民を皇祖の崇拝に導くことは間違いのないことで、したがって国家宗教と見られる神道とつながることはむろんのこと、それはやがてそこから天皇の神格化が行われる端緒(たんしょ)を開くことになってくる。それはまた「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ズ」というわけで、国家至上のまえには個人も社会も軽視される強権的国家主義を、結局は「教育の淵源」とすることになった。ここに、明治の教育の向うところが、文字の上でもはっきりと示された。

 その上、この教育勅語の実際上の取扱いが、ここでは重要な意味をもった。というのは、この教育勅語の奉戴(ほうたい)ということは、全国すべての学校における最も重要かつ厳粛な行事とされた。そして、「拳々服膺(けんけんふくよう)」の結果もあって、勅語の信奉は絶対的なものとして、国民に深い印象を焼きつけた。こうした教育方針にあらわれたこの国家主義は、一天万乗の君主、その祖宗への信倚(しんい)ということで、ほとんど国民にはそれと気づかせぬうちに半ば宗教的な色彩にいろどられた。そこで、これがあれば、実は他の一切のナショナリズムの思想も不必要となってくる。というよりは、やがてこうした国家主義以外の思想の存立はあまり好ましくない、ということにならないわけにはゆかなくなってくるのである。

 

 裏と表  これが、国家主義と教育との強い結びつきであって、教育はこうした考え方を動かぬ柱として、明治中期から大正、昭和へとつづけられた。これは、さっきもいう通り当時としては大きな成功で、これによって日本としては、まださしたる国力もないのに、日清、日露の戦争を乗切って飛躍してゆくだけの、大きなエネルギーを展開することができた。しかし、しばらくすると、同じことが反対の効果を生みだしてきた。それは、その国家体制を強調しつづけることによって、こんどは却って自分自身をまったく融通のきかないほど硬化させてしまい、天皇の神格化と軍部官僚の権力化を呼び出し、それがみずから国の危機を生むことになってきた。そしてその危機がつのればつのるほど、それはまたハネ返って、国家主義をいよいよ強烈なものにしないではおかない。こうなると、もうほかの思想を容れる寛容さなどはどんどん失われてくる。これが太平洋戦争までの動きであったと言ってよかろう。

 こういう情勢の中では、例えば日本歴史の知識も神話の形になって学問的冷静を失ってくるし、これまで流入していた西洋近代の社会的な学問が紹介してきたいろいろの観念、例えば自由とか、平等とか、合理性とかいった観念まで、できるだけ国民の生活には近寄らないように、遠くへと押しやられてきたのも当然だといわねばならぬし、またこの空気の中で、学問や研究が具体的になることを邪魔されて、抽象的に止まることにもなったし、それはいよいよ生活に根を下ろしかねるような結果となったのであろう。

 知らぬは亭主ばかりなりで、こうした教育が危険だということは、いまから四十年も前に(大正十五年)、バートランド・ラッセルが取上げていたのである。その教育論(On Education)のなかで、ラッセルは次のようにいっている––

「あらゆる列強のなかにみられるひとつの傾向ではあるが、近代の日本は、国家の偉大を教育の最高目的とする事例を、どこの国よりも明瞭に示している。日本の教育の目的は、情熱の訓練を通じて、国家のために命を投げだし、身につけた知識を通じて国家のためにお役にたつ市民をつくることである。この二重の目的を追求するその巧妙さは、感服してもし切れないほどである。……

 ……神道は、ちょうど聖書の創世紀とおなじように疑わしい歴史を内容としているものであるが、大学の教授ですら、これには疑問をさしはさんではならない。日本における神学的な専制にくらべれば、デイトン裁判(アメリカのデイトン市で、高校の理科の先生が州法律で禁じられた「進化論」を教えて問題になり、判決をうけた)などは、とるに足りない。これに劣らぬ倫理的な専制もある。国家主義、親孝行、天皇崇拝などは、決して疑いをさしはさんではいけないものであり、したがって、多くの進歩がむつかしくなる。このような鉄の制度がもつ大きな危険は、進歩のための唯一の方法として、革命をひき起すかも知れぬということである。……」

 危険は、ラッセルが言ったように革命には至らなかったが、戦争へと向っていった。ただここで我々が自ら注意しておきたいのは、こうした強力な国家と教育のワクのなかに住んでいると、井戸の中の蛙ではないが、自分が一体どんなところに居るのか、その位置すらが、わからなくなるということである。

 

 坂の多い社会  明治から戦前までの日本の教育は、こうした暗さに包まれていた。それは、明治の政治体制と、がっちりと手をつないできたものであったが、明治以来の日本の社会もまた、同じような基調に立っていたのは止むを得ないことであったろう。ただ我々の眼には、これも実体よりは、はるかに近代的なもののように映っていたようである。

 たしかに士農工商が廃されたからには、四民平等な社会となるはずであるが、気分の上でも、また実際の行動の上でも、いわゆる官尊民卑は暫くは濃厚に残った。官というのは、その実体として徳川時代の武士階級の変り身であり、民というのは同じく農工商の農民町人であって、その古い階級的対立のつづきである。それは次第に稀薄にはなってきたが、なかなか拭い取ったようには消えてなくならない。この社会の領域では、戦後の今日までもそれはまだ尾を引いているのである。戦前も昭和に入ってから、逆に尻上がりに盛り上っていった軍部官僚の権勢こそ、敗戦と同時に消えてなくなったが、これと対蹠的な関係にある「民間」という言葉は、いまもってなくならない。戦前の、上下の段階のある社会のイメージは、まだそこに残っているのである。

 それからもう一つ、平生はあまり気づかないことが、この社会のどこかにひそんでいて、時々我々の心理の中を、旧い旧い時代の亡霊が、かすめて通ることがある。……

 いまだに「わたし」は、「俺」といっては得意になったり、「手前」といってはへり下だり、友達にあえば「僕」という。同じ自分についてたくさんの言い表わし方がある。同様に種々様々の「あなた」がある。「お前」と相手を低く呼びすてたり、「君」と呼んでも、呼ぶ人によって相手の位置が下がったりする。「あなた様」とか、「こちら様」とかいって、自分の位置を低くする言い方もある。いろいろの人に会って一言を発するごとに、自分の立つ場所が、上がったり、下がったりする社会が、意識の下にまでひそんでいる。この社会は、I(アイ)You(ユー)とが、対等の両極として、同じ高さのフローワに立って、言葉使いに差別なく、平気で交渉してゆける社会ではない。どこかにデコボコのある、坂の多い社会である。もちろん西ヨーロッパの都市生活とはちがった発展を辿ってきている日本に、同じ姿の「市民」が成立しよう道理はないが、現代の欧米の市民がどこに行っても、誰れに対しても、「対等」の気持を内にもっているその雰囲気は、よく考えてみると、この日本には稀薄である。

 また前にも書いたように「義理」が押し寄せてきてからみついたり、「法律」が逃げ出すこともないではない。あるいはまた、「義理」も欠かさず「法律」も守らねばならぬといった、新旧の錯輳(さくそう)した二重の社会的な規範が、まだここにはある。

 新しい教育は、こういう社会で行われねばならぬわけだが、その教育が行われる場は、すでに近代社会が自明の姿で確立しているわけではない。仮りに学校や教師の側には、これを授ける十分の用意があると仮定しても、その学校で教わってくるものが、帰りの街や電車の中、または家庭の中でも、容赦なくぶち壊されるというような環境のなかで、新しい教育が行われねばならないのである。教え導く側の大人の方にはただ頭の中にあるに過ぎないものを、子供たちには実践するように要求するというわけである。

 なるほど教育というからには、どこの先進の国でも、教育の理想とされるものと現実との間には多少の開きがあるはずであろうし、その開きを埋めるのが抑も教育というものではあろう。しかし、生活に連続性があり、伝統の流れの強い国では、またその伝統が雪達磨(だるま)をころがすように不断に大きく成長してゆく国では、大人はただ身をもって子供に教えてゆくことができる。ちょうど白髪まじりの先輩が母校短艇部の一大事とばかりに馳せ参じて、若者を叱咤(しった)しながら昔とったオールを握ってコーチにつくようなもので、代々の大人が少しずつ作り上げていった社会と学校のなかで、子供が育ってゆく。そういう国でも時に改革の必要がないとはいえないが、改革するにしてもそこには土台があるわけであって、土台そのものからの切り替えではない。ところが、いま日本の教育に課せられている問題は、ほかでもなく、この土台の切り替えをふくんでいるのである。

 

 数々の欠陥  さて新しい教育や、新しい考え方の問題に入る前に、もう一度、我々の痛いところを総括しておこう。

 例えば、我々の考え方や生活の仕方のなかには、多分に「合理性」を欠くものがあるということは、これはもう今日までに嫌というほど指摘されてきた。しかし合理性でないといっても、これは相対的なことであって、ほかの国民との比較の問題であることは言うまでもない。我々が合理的に考えることができないというのではなく、考えの中で、もうひときわ合理的を押し通そうとしないということで、それは感性的な世界に強く引かれるものにはありがちのことであるし、また前に述べた義理人情というような旧い社会生活の気分が残っている限りは、ものを理窟で割り切ることにはいろいろの障害がつきまとう。

 理由はそんなところにあろうが、結果として合理性が弱いということは、勢い判断がバランスを失いがちになる。ものごとの大小軽重を判断して、それに応じて対処するのは、ごく普通のことであるが、その計量が狂ったり、目の前近くあらわれるものばかりを重視することになると、小さく軽い問題が大きく見えたり、大問題にそれ相応の関心を払わなかったりすることになる。そうして出来上った世界像は、バランスを失ったものになろうし、それでは事実に即した世界を把持(はじ)することになるまい。

 この問題は、そのまま自主性の喪失といったことにも関わりがあろう。文化の受容ということでも、受入れる対象の力に押されてそのまま取入れてしまうか、それとも、これを変容して自分の考えに調和させたり、また自分の世界のなかで然るべき地位を与えたりして、いわばこれを消化させるか、そのどちらを取るかによって、自分を失うことにもなるし、自分を豊富にすることにもなる。自主性を失わずに自分を豊富にするには、自分の調理法をもつことが必要である。これを調理し、摂取し、消化させ、新しいエネルギーに変えることができれば、自分の力は拡充する。そうでなかったら、模倣はできようが、創造はできない。

 実践問題についてこれもこれは同じであって、例えば、中国との永い関係を考えてみても、日本がついに中国と不幸な状況に突入していったのも、結局は中国の重みに引きずり込まれたようなものである。また国内であれほど威張っていた日本の軍部が、枢軸ドイツに対する外交で示した態度には、まったく自己というものがなかった。自分自身を十二分に信頼もせず、また自ら努力することもしないで、大ざっぱに、もう考える余地はないとばかりに、実際は成行きまかせで流されながら、それを現実直視だなどと主張して飛込んでいったのが、ほかならぬ日独伊同盟であったが、いかにも日本らしい欠陥のまざまざと出た行動であったと反省される。

 またこれと同じような心理として、敵が出てくると衝動的にカンカンになって激しく闘うが、そういう相手がない場合には、喧嘩相手を失った怠け坊主のように、勉強には身がはいらないというような気味がある。どうも、自分でひとりコツコツと積み重ねながら結局は何かを創り出すというような行き方は苦手で、いつも相手によって動き、結局は相手に振り廻されているようなところがあるのは、やはり自主性を欠いているということではあるまいか。

 

 夢みる人  さらにまた、こうした性格と引離しがたい関連があるように思われることは、我々の考え方が現実的でなく、ある意味で観念的であるということである。とはいえ、それはドイツ人が観念的であるというのとは、また調子が違っていて、ドイツ人のように現実離れはしていても自分で作った観念に従って生きているという行き方ではない。観念的といっても、ものの本体というような意味の観念をもっているというわけではなく、その観念が論理的に構成されているというわけでもない。戦争中の合言葉であった「八紘一宇(はっこういちう)」だとか、「必勝の信念」だとかが、いわば、日本的な観念の型の一つであって、それは論理的に把えられた観念ではなく、漠然とした単なる気分であり、でなければ心構えといったもので、殆んど概念のない、いわば単なる言葉にすぎない。現実を見つめて、その現実から引出してきた言葉ではなく、現実からは浮いた言葉であり、希望の表明である。こうして、言葉を通して一つの気分に生きているようなところがある。

 林語堂はかつてその著書のなかで、日本人の性格をdreamer(夢みる人)といって、中国人の実際的な性格と対照しているが、中国人に対比しても、西欧人に比較しても、日本人は逢かに多く夢を追う国民であり、気分に生きている国民といえるだろう。むろん、そういった気分が、あながち何時でもよくないということはいえないのであって、例えば俳句や和歌による詩の世界が、ひろく庶民階級のものになっているというような状況は、恐らく他の国には見られないことであろう。こういったことなどは、確かにそのよい面のあらわれに相違ないと思われるが、しかし何時でも風流三昧で、「粋が身を食う」ことになるのでは困ろう。また政治とか経済とかいう現実的な問題に、夢や気分が混同して、計算抜きということになるのでは困る。自分の方から仕掛けた太平洋戦争なども、やむにやまれぬ大和魂と言いたいところであろうが、そのことが実体計算抜きの一面ではなかったか。

 

 教育の効果  かように見てくると、我々が個人的にも、また国民的にも持っている性癖や欠陥は、ずいぶん根深いものがある。むろんそれも、以上に取上げた二、三の点で尽きるわけでもない。しかし、こういういろいろの欠陥は、直ちに我々に希望を失わせることではあるまい。というのは、何よりも先ず、いままでのところ、我々は自分自身の重大な欠点についてハッキリした反省をもっていなかったのであるから、これでは改良も改善も、はじめからむつかしかったと言わねばならぬ。そればかりでなく、少くとも、戦争中までは、国民としては、根本から反省してみるということも、ほとんどできない環境にあったし、自由な批判的な考え方も、やはり狭い枠を出ることがむつかしかった。

 そして考えてみると、こういうふうに、我々が追込まれていたのも、明治以来の教育の結果であった。また反対に、封建時代を抜け出たばかりの日本国民に、日清、日露の冒険を敢えてさせ、そして半世紀そこらのうちに明治から大正にかけての絶頂の時代を築かせ、「巌となりて苔のむすまで」の強さを感ずるほど成長させたのも、ほかならぬ教育の効果であった。これは、よかれあしかれ、日本の国民が、いかに教育して教育の仕甲斐のある国民であるか、という一面を語るものではなかろうか。そしてまた、このことは、教育の目標や方法によっては、この国民が新しい発展を遂げ得るということを決して拒むものではあるまい。要するに教育の相手方としては、わが国民が、すこぶる柔軟な素地をもっているということを、明治以来の歴史が語っているといってよいのである。

 

 国民の分裂  さて、反省も、批判も、限りのないことではあるが、もうこの辺で我々は、積極的な問題に転じても遅くはあるまい。––

 前に述べたように、過去における我々の考え方が、文学や芸術の領域では長い伝統があって、大きく深い流れをもっているけれども、近代的な学問や理論的な思考については、我国はむしろ処女地の観を呈していた。そこで明治維新の前後から、この日本にはいり込んできた思想や学問は、あまり加工もされず、手を加えられずに、それぞれの思想的な産物が、いわば並列、共存し、かつその古いものから新しいものに至るまで、層をなして重畳している。これをよく消化させる方法がなかったら、わが国はこれらの西洋思想の博物館の観を呈するばかりであろう。またそれでは、国民各個は、それぞれの移入思想のうち自分の興味を引かれるものを自分の考えとすることになるから、国民の考えに分裂と相違がひどくなろうし、極端にいえば、国民としてはバラバラということになろう。事実、いま、そういう傾向がある。それも、戦前の場合なら、国家的立場が強権的に押しつけられたから、少くとも表面上だけは、そこに同意と共感の空気があった。マルキシズムのごときは、ただの思想としても、表向きの場所には出ることができなかった。ところが、いまはその辺は自由になった。自由であるのはよいが、その国民のバラバラの傾向は、現に各方面に見られる通りで、例えば国会の騒々しい状況を見ても、互に討議し談合するのに最少限度必要な共感がない。むろん政党は、それが代表する階層や民衆群の利害を代弁することによって、互に対立するのは当然のことであるが、もし国民的に共通の考え方があれば、利害の相異などは時と場合で越えられない問題ではない。ところがいまの実際を見ると、政党は思想的に、根本的に、互に相容れないものとして、まったく粗野なかたちで激しく対立している。いわゆる国民的共感(ナショナル・コンセンサス)が、完全に欠けているのである。

 問題はむろん政治の場だけにあるのではない。こうした分裂状況は、我々が平生の生活の中で、不断にものごとを判断するときに、その考え方として一つの共通の思考形式(フォーム)がないところからくるのであって、そのために、たとえば社会主義という考えをとってみると、それが動かぬ固定した体系としてしか目に映じないのである。社会主義が目指している目的を達することができればそれでよいとして、固定した考え方を取くずして、その大切な部分を自分の考え方の中に取入れるということができれば、敢えて一定の社会主義体系を後生大事に抱いている必要はないわけであるが、自分の考え方がない以上は、既成の考えを鵜呑みにするほかはないのである。これでは、宗教的信条を抱き込んでいるのと変るところはない。相手方と話し合うことは頗る困難になるし、およそ政治的な妥協が、できなくなる。

 国民的共感の基礎がないということは、悲劇とすらいうべきである。

 

 科学の時代  もちろん、国民が同じ思考形式をもつといっても、これは強制によって与えられるような、そういう性質のものではない。いわば国民がおのずから掴むはずのものであって、それに対していくらかの助言がされ得るだけのものであろう。ただそれは、現代の世界が共通に近いかたちで到達している思想状況と、あまり無理なく相容れるものでなくてはなるまい。

 そこで私は、結論的に話を進めてゆこうと思うが、一言をもっていえば、現代はもう、十九世紀的なイデオロギーや歴史哲学の時代は過ぎて、平たくいって「科学の時代」になっているということだけは、大観して間違いがないといえるのではあるまいか。自然科学はもとより、社会的ないろいろな科学が、いまではその背後に何ら神や哲学やその他メタフィジカルな後光をもたずに、ひとりで自立している時代である。科学が哲学に依存する時代がすぎて、反対に哲学のごときものが、かえって科学に依存しようとする時代である。バートランド・ラッセルが、自分の哲学を「四つの異なる科学、すなわち物理学と生理学と心理学と数学的論理学との綜合から生まれた」と言っているのは、この科学の時代を告げる一つの象徴的な事実であろうと、私は見ている。

 こうして、いまの時代では、我々は、それぞれの科学がもたらす「真理」を信頼して、これを実践の領域に適用している。いうまでもなく、この科学そのものも未完成なものであって、科学の内部でもまだ幾らも論争を残しているが、いまはこれらの諸科学よりほかに、我々は、我々の知識の源泉を求めることはできない。それに較べると、十九世紀生れのドイツ風のイデオロギーはへーゲルにしても、マルクスにしても、いずれも世界を総括的に一つの体系の中で説明しようとしたものであるが、いまの科学の立場からは、こうしたイデオロギーのなかに部分的な真理があることは承認するとしても、それが世界と世界の動きの全体を説明するものとしては、いまや支持し難いものとなっている。

 

 科学の性格  ただ、科学は、すべて抽象的なものであるから、それが主張しうる真理は、ある一定の、限定された条件の上に立っているということは、恐らく誰れにも異論のないところであろう。しかし、もう一つ、この科学について重要なことは、科学はそれぞれ独立のもので、一つの科学と他の科学との間には、原則的に橋渡しができないということである。言いかえると、科学には寄りかかる背後がなく、科学と科学との間には、論理的な連関がないということ、それぞれの科学は別の平面上にあるということである。例えば、経済学と物理学と心理学 ……との間を、互に連絡し往来しあえるような橋はないのであって、それぞれが独立なものである。ということは、我々はいま、非常に発達した内容をもついろいろの科学をもっているけれども、それらたくさんの科学は、いわばバラバラであるということは、これを認めないわけにはゆかないということである。

 しかし我々が、何らかの具体的な事象を観察して、その「真実」を掴もうとするときには、我々は、この本来はバラバラであるいろいろの科学にもとづく各種の知識を、そこに適用するほかはない。こういうと、如何にもしかつめらしく聞こえるけれども、実際に我々は、この日常生活のなかで、ほんの小さなことでも何かを判断しようとするときには、多かれ少かれ、こういった頭の動かし方をしているのである。自分一人で、その知識をもち合せないときには、新聞記者がよくやるように、そこに専門家を動員してくる。専門家は、それぞれの立場から、自分の判断を下す。こうして集められ、適用される知識は、それぞれその源泉となっている科学とは厳密に連なっていなくてはならないが、専門のちがう知識と知識との間には、直接の関連がない。やはり、バラバラである。

 ……例えば、列車の二重衝突事件が起こったとする。これを調査するのに、機械や電気の純粋な技術の領域、ダイヤの密度そのほか経営技術の領域、運転士や従業員の心理状態、同じくその就業状況や生活条件、等々、……いろいろの視点から、照明をあててみねばなるまい。その照明される場所は、それぞれちがっている。照明はこうしてたくさんの視点からこの出来事にむけて投げかけられているが、その視点と視点との間には、直接の統一というものはない。ということは、これらのいろいろの知識と知識の間を、論理的に筋を追うて、一本につなぐことはできないということである。そこで、最後にこの出来事の「真実」をつかむには、これらの知識を適用して調査研究している複数の人間、またはその中の中心にいる一人が、それぞれの部門部門が出している結論といったところを自分の頭で綜合する。その綜合判断は、必ずしも隅々まで合理的に割り切れるものとは限らない。何れにしろ、この最後に判断する人間は、それが誰れであろうと、多分に不合理性をもった、しかし統一のある不可分の人格である。その人間が、この主体が、最後的には判断の責任をとるより外に方法はないのである。

 いかにもやかましい話のようだが、実はこれは、我々が、平生ものの判断をするときには、何につけ平気でやってのけていることである。ただそのやり方には、精粗濃淡さまざまあって、またやる人によって、その結果は、ピンからキリまで、高低の差があり得るというわけである。

 

 ソ連もまた ここまで述べてくると、読者はもうとっくにお気付きのはずであるが、こうした考え方、掴み方は、前に私がイギリス人の常識的な知識の型として述べたところと、同じ類型に属するといって差支えない。しかし、この行き方は一方にいまや「科学」の圧倒的な発達を前提し、他方にドイツ風のイデオロギーや歴史哲学的なものの考え方が早や過去のものだということを承認するならば、当然の帰結というほかはないものである。

 これについて第一に指摘しておかねばならぬのは、イデオロギーの本山であるソヴィエット・ロシアの考え方が、フルシチョフの時代を転機として著しく変ってきたということである。周知のように、フルシチョフの時代に本格に打出されてきた「平和共存」というような考えも、いわゆるマルクス・レーニン主義の考え方からは出てきようのないもので、それは、核時代の異常な危険、言葉をかえれば国際情勢の緊迫に対処する、いわば常識的な考えから出たものである。比喩的にいってみれば……いま自分の歩いている道の前面が、山崩れで岩がなだれ落ちているというときには、これを避けて廻り道をするよりほかに、現実的な人間の歩き方はないではないか、ということであろう。この考え方は、いまのような核兵器下の国際情勢の中では、何らかの包括的なイデオロギーを形式的に適用するだけでは、現実の問題は危険で解けるものではないという考え方である。これはまた、イデオロギーによる考え方ではなく、現代の科学的な考え方を実際生活に適用してゆくときの極めて普通の、安全な、怪我のない歩き方に相違ない。

 こうした考え方が、この国の経済のやり方の中にも、いろいろと出てきたように私は思う。

 それは一見、資本主義的な方式に還るのかとも見えかねない行き方であるが、むろんそういうことを意図したのではなく、ただ現実のむつかしい事態にぶち当って、最も能率的な、そして現在のロシアの人たちの性情にも合って無理の少いやり方で、生産を行う方式を模索している姿であろうと私は思う。したがってそれは、イデオロギーなどにはあまりこだわりなく、いわば自由に道を進めている姿と見るべきものである。

 そしてそれはまったく当然のことであって、もともと革命を遂行することはマルクス・レーニン的なイデオロギーでやったにしても、革命後の一切の政策までが当初からイデオロギーの中にたたみ込まれていたわけではない。資本家や地主や貴族たちを追放して、いままでの生産方式を一度くつがえしてしまうまでは革命のプログラムでやれるとしても、そのあとのやり方は、おのずから現実と取っ組んでみるよりほか発見の方法はないことで、そこで格闘したり妥協したりすることになるのは当然であろう。そしてその際、頼りとされる考え方は、結局いろいろの科学的知識を適用して最善の方法を見出すということ以外にはなかろう。いまのソ連では自然科学の勉強が旺盛に進められていると聞いているが、自然科学の進展はますますこういった考え方を、無意識のうちにも進めてゆくことになろう。

 ただこういうふうに、その中身は、じりじりとイデオロギーから「科学」的な考え方へと変ってゆくにしても、この国がマルクス・レーニン主義の金看板を引下ろすようなことは当面あり得ることではないが、それもまた当然のことであって、少しも矛盾などと考える必要はない。それはちょうど、三河屋さんが、とっくに三州味噌ばかりは売らないで、今や酒でも缶詰でも何でも売る、何でも屋になっていても、先祖の出身からきた屋号を後生大事にして、決して越後屋とは看板を変えないのと同じであろう。またそれは、現在の西ドイツの社会民主党の考えが、カウツキーの時代からみてすら、一転し、再転して、かつてのイデオロギー風の考え方からは、およそ遠ざかってきて、「民主主義」に力点のある現代風の政党になり、ほとんどむかしのマルクス主義ではなくなってきていても、社会民主党の名は変えないのと異なるところはなかろう。––

 私がさきに、こうした科学に根柢をおく考え方が「現代の世界が共通に近いかたちで到達している思想状況と無理なく相容れるもの」といったのも、こういう意味であることを、ご諒察(りょうさつ)ねがえようかと思う。

 

 人間中心の考え  ただここで、もう一つ強調しておかねばならぬことは、こうした行き方では、いわば個人個人が思想や考え方の主体となり、これを支える支柱とならざるを得ないということである。そのさい科学的知識は道具であって、その道具を用いてギリギリまで攻め立て、そして最後の判断をやるのは人間ということになる。その人間が、結局において、そこに出てきた考えを支えるのであるから、この思惟の形式は人間中心の考え方ともいえるし、主体的な考えのもち方ともいえる。したがって、こうしてできた自分の考えに対して、責任はその主体、すなわち自分自身が負うことになる。これは、イデオロギーや既成の大きな思想をそのまま信奉する立場が、イデオロギーに依拠し、依存して、責任は思想に負わせることになるのとは、ちょうど反対である。

 ここでもう一つ忘れてならないのは、イデオロギーに依存するのとはちがって、こうした考えを保持してゆくには、事実の推移や動きに対応して、休むひまもない常なる勉強、常なる努力が、要求されるということである。

 それと同時に、こうした主体たる各人は、少しずつ違った考えを抱いているということになるが、それはやむを得ないことであり、そこに個性もあり、人格もある。そしてそのためにこそ、デモクラシーによって事を運ぶことの必要が出てくるのである。少しずつ違った意見をもつ者が、互に話し合うことによって、自分の責任において、互に接近し得るものは接近し、妥協のできるものは妥協するというのが、政治形態としてのデモクラシーの思想的な前提であろう。

 こういった思考の方法をいま私が提起するのは、科学の上に立つ現代としては、これ以外に、天来の考えなどはあり得ないからであるが、それも、第一には、我々日本人が、今日までに我国に流入している思想や学問をもう一度見直し、また今後もはいってくる思惟の所産を消化させるに当って、そこに適用さるべき唯一の考え方であり、第二には、そういった学問的な高い仕事でなくても、不断に起ってくる世事一般の事象に対する考え方の用意でもあるからである。

 

 地曳き網の底  ものごとは、多くの場合、特徴が同時に欠点であり、また欠点が長所であることが多いのであるが、これまで問題にしてきた文化の流入についても、そのことが言えそうである。日本ほど各種各様の文化が流入してきた国はあるまい。それは、日本の歴史的、地理的な位置からも来ただろうし、また日本人が新しいものに対してもつ異常な好奇心にもよるのであろうが、古い時代から今日に至るまでの日本には、まるで地曳き網の底のように、ありとあらゆる世界の文化所産が(たま)っている。一切のものがここまで来て、これから外には流れ出ず、ここにとどまっている。これは巨大な文化的資産である。そこで、それをどう処理するかによって、いわば日本の運命は分かれるようなものであろう。はじめから一定の思考形式をもち竪く固定しているような国には、こんなにいろいろのものは、集まっては来まい。しかし、集まったものを自分の力でこなし切ってしまうことができなかったら、雑貨屋さんと同じで、自分の創造というものはあり得まい。それと反対に日本が、こうした世界的な文化に向かってエネルギッシュな消化作用を進めることができれば、結果は、おのずから、一つの統一ある自分自身の表現としての新たなる文化を創り出すということになろう。そしてそれをやる方法は、やはり現代が「科学の時代」に入り込んだという状況を是認して、そのなかから生れる可能性を取上げるほかはあるまい。

 これは同時に、日本人に、一段と合理性を要求し、自主性を要請することになることは必至であろう。そして過去の因習の無意義にひとしいものは、おのずから脱落させてゆくことも容認しないわけにはゆくまい。

 そこで私は、ここでもう一度、教育の問題に立返るのであるが、今後の教育のプログラムの根柢には、こうした考え方をもつことが必要であろうと思うし、そしてそれを実現するのに、わが国民が教育の対象としてすこぶる柔軟な素地をもっていると語ったことを思い出していただきたい。柔軟であるばかりでなく、その素地が欧米諸国にくらべても大変優秀なものであることは、海外の学校で学ぶ日本の青少年の優秀な成績が、いくらでもその見本を示してくれている。そうした素地をもっているにもかかわらず、一般的には日本の学生が、学校を出て社会的に働くということになると、とたんにダメになってくるというのは、おそらく日本の社会のあり方からくるものであり、したがって日本の社会の責任だというほかはあるまい。

 

 抜き難い痼疾(こしつ)  ところで、ドイツ人やフランス人などは、いわば我々より先進的であるが、しかも、これからの問題ということになると、いくらか違った趣きがあるように思われる。これらのヨーロッパの国民は、何といってもこれまでの近代文化を自ら創造してきているし、いわば世界文化の峯つづきを歩いてきている。言いかえると、彼等はいま、過去千年に亙って、自分たち自らの手で一つ一つの煉瓦を積み上げて築いた文化という建築物のてっぺんに足を据えて立っている、という自信をもっているのであるから、自分たちの考え方なり行き方なりについては、さしたる疑惑を持とうとはしない。その意味では、彼らはかなり頑固であって、その自らもつ欠点について、根本からの反省をするということは中々むつかしいのである。現在の日本人のように、自分たちの過去に間違いがあったというような考えに立到ることも、彼らにはなかなか容易ではないから、それぞれが持っている欠陥を是正してゆくということになると、これはまた、なまやさしいことではない。

 ドイツ人をとってみても、一般のドイツ人がこんどの失敗で根本から反省しているような様子はあまり見られない。トーマス・マンだとか、マイネッケというような詩人や学者の警世の言も、国民一般にはなかなか徹底するところまでゆくまい。四十年前にドイツ国籍を捨てた評論家エミール・ルードウィヒも、この性懲りもないドイツ人に教えようとしている。彼は、戦後、ハイデルベルヒに帰って来て、かつてのヒットラー青年隊の連中に聞いた。––

「君たちはもうヒットラー敬礼はやらないのかい?」

 みんな一斉に、もうやらないと答えた。

「どうして?」

「今じゃ禁止されているもの」

「禁止」“verboten”は、ドイツの秩序を守るためのドイツ人得意の言葉で、それは特にナチスの天下では横行していた。どこに行っても「禁止」の立札や文字にぶち当ったものである。そこで、ルードウィヒはいう。「こうして私は、ドイツ民族の返答を得たのだ。もし十年後に、ミュラーという男が権威の地位につくようになって、国民に右足を挙げて敬礼しろと命じたら、かならずドイツ国民はそうするにきまっている」と。

 

 鉄は熱いうちに  ドイツ人のこの牢たる癖はなかなか治療しにくい。青年ばかりのことではない。ドイツの大人たちも、失敗はヒットラーの所為であって、我らの関するところではないと考えているだろう。責任逃れはどこの国も同じではあろうが、それでも日本人にはまだ全体として誤謬(ごびゅう)を犯したという後悔の気持はある。いわば幾らか若く、幾らかウブなところがあるといえるのである。しかし、後悔はしているけれども、やがてそれを忘れるという危険は、決してないわけではない。消極的な、どちらかといえば、弱く柔かい性格には、この心配が大いにあるのである。そして実際に、責任ある大人たちの間には、もうそろそろ()りが戻りかけているようなふしが見えないでもない。

 若き世代にこそ、我々は希望をつながねばならぬであろう。ただその若き人々が、旧い囚われた思想から、新しい囚われた思想へと、見えない糸につながれて、はげしく動揺しているのは、この時代の激流のなかでは一応は無理もないことであろう。必要なことは、何よりもこの思想からの自由を、早く手に握ることである。そして、自分に責任のある自分の思想をもつことである。

 鉄は熱いうちに打たねばならぬ。方向を見失っているいまこそ、教育が最大の重要さをもっている。ドイツが再度同じ失敗を繰り返したのは、第一次大戦後に再教育というものが全く看過されたためだともいえよう。ドイツ国民を度し難いと見るエミール・ルードウィヒは、それでも、教育のなかに、ドイツを欧州家族の一員とする唯一の可能性が残っていると見ている。彼はいわく、

「何の容赦もなく、断乎として新しい教育を採用することである。新しいというけれども、実は古い教育のことである」と。

 彼が言おうとしているのは、ゲーテ、シラー、カントのドイツ古典時代の精神の復興である。史家マイネッケもまた、ドイツ国民に対して「ゲーテに還れ」と叫んでいる。それは、ドイツ精神のもつ伝統の最高潮の時代であったからであろう。

 我々もまた、全く新しい教育の大きなプログラムに、我々の希望をつながねばならぬ。ただ我々には簡単に還りゆく目当のゲーテはない。二重三重の文化の波をかぶっている我々の場合には、ことはそう簡単ではない。単純な形で日本の伝統を復活すればそれでよいというわけにもゆかない。そこで私は、何よりも知識を作り上げるに当っての根本的な態度をここで提案し、そしてその根本から出直すことを提議したわけであるが、出直すというよりも、それはいまの時代に立っているかぎり、如何なる国の人たちも、これからはそういう態度で立向かう以外にはないものである。

 

 国民的合意へ  そしてそれは、いまの日本では、実は次の世代の教育だけに期待しておればそれでよろしいというような、そんなゆっくりした場合ではないことを、最後に強調しておくことが必要であろう。

 というのは、我々が当面している現実の重大な問題は、たとえば外交についても、国防についても、要するに国の姿勢について、日本国民の意見がまるで真ッ二つに引裂かれているかのように見えていることを考えてみるだけで、それは容易にわかることである。この分裂は、何といっても危険きわまりないことではあるまいか。そこで、どうして国民そのものが真ッ二つに割れているかのように見えるかを、いまは冷静に考え直してみるだけのゆとりを持ちたいものである。

 一つは、政党の見解に表現されているほど、それほど国民そのものの見解は決定的に分裂してはいないのではないかということにも、まず目をつけておきたい。しかし、それにもかかわらず、国民そのものが、またこの国の知識的な人々が、二つの対極にむかって動揺的であることも、たしかであろう。いうまでもなく国民は一つである。同じ国民として、この国が立っている同じ条件の上に生きているものが、なぜ、こんなに遠く離れ、互に相容れないほどの、別々の考えをもたねばならぬのであろうか。

 使用者と勤労者との立場の相異から、これだけの根本的な差異が発生するであろうか。そんなことは考えられない。それは貧富の差や地位の違いからくるのではない。経済的な利害の差が、全面的な思考の相異をもたらすと見るのは、明らかに間違っている。もし国民が、およそものを見、ものごとを考える仕方において一つであるか、乃至はあまり開きがなく、そしてその同じ仕方で平生やってゆく勉強と努力に、それほど差異がなかったら、このまるで別人のように見える考えの遠心化は、発生し得ないはずである。左と右という我々に根深く食い込んでいる観念も、よくよく考えてみると、はなはだ奇妙なものだということにも、気づいている人は少くあるまい。

 私は、繰り返していうが、いまの日本で一ばん火急の必要である「国民的な共感と合意」(National Consensus)は、ものを見、ものごとを考える「方式」が一つになることによって、はじめて達せられるであろう。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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笠 信太郎

リュウ シンタロウ
りゅう しんたろう 評論家・ジャーナリスト 1900・12・11~1967・12・4 福岡市生まれ。東京商科大学卒。大原社会問題研究所を経て、1936(昭和11)年、東京朝日新聞社に入社、論説委員となる。近衛文麿のブレーン組織「昭和研究会」にも参画。1940(昭和15)年には欧州特派員としてドイツに渡るが、独ソ開戦のためスイスに滞在した。滞在先から対米和平の妥結工作に協力。1947(昭和22)年にチューリヒで開かれた国際ペン大会にオブザーバーで出席し、日本ペンクラブが戦後再出発したことを国際社会に示した。翌昭和23年に帰国、論説主幹に就任。

『ものの見方について』が1950(昭和25)年河出書房より刊行され、掲載作は同著より「日本」の章を採録。なおこの章は著者の思い入れ深く、死の前年まで手を加えており、南窓社版改訂新版(1966〈昭和41〉年刊)によった。日本国民への遺言ともいえる名編である。

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