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子規の従軍

  一 従軍句など

 

 明治二十八年(1895)は、(正岡)子規を子規たらしめた転換の年であった。その重要さは、以前の初期喀血や小説家志望の挫折以上と思われる。すなわちこの年は、彼にとっては日清戦争従軍と、それに続く悪夢のような発病の年であった。悪夢のようなとは、二ヶ月の間生死の境を彷徨しただけでなしに、それがいったんはなおったように見えながら、実は周知のように以後七年にわたる言語を絶する病床苦のはじまりであったからだ。この二つのことは「寒山落木」巻四、つまりこの年の俳句稿の冒頭にこう書かれている。

 

 四月七日近衛師団司令部ト共ニ海城丸ニ乗リ宇品ヲ発ス  日大連湾着  日金州ニ行キ一泊シテ海城丸ニ帰ル  日旅順ニ行キ  日柳樹屯ニ帰リ金州ニ行ク

 五月十日金州発十四日大連湾ヨリ佐渡国丸ニ乗ル十七日船中喀血廿二日和田岬ニ上リ直チニ神戸病院ニ入ル七月廿二日退院須磨保養院ニ行ク……

 

「陣中日記」と照合すると、「  日」とあって空いている所は、それぞれ十三日、十五日、十九日、二十三日である。

 実際の出発は四月十日、和田岬上陸は五月二十三日だから、都合四十四日間の従軍、往復をのぞくとむこうにちょうど一ヶ月、その三分の二を金州にいた。そして大連湾の柳樹屯(りゅうじゅそん)と金州の間を二往復、旅順との間を一往復したにすぎない。

 子規が自ら願い出て日本新聞社から従軍と決まったのが(明治)二十八年の二月末、三月三日には東京を発って広島に向った。軍から許可が下りたのは二十一日である。この時までに陸軍は牙山、平壌に勝ち、鴨緑江を渡って満州に入っている。遼東半島に上陸した第二軍は金州、旅順を占領、黄海の海戦に勝った海軍と共に威海衛を攻略、北洋艦隊を全滅させている。すでに李鴻章が下関に来て休戦となり、講和談判が始まり、広島は()えたような戦勝気分に酔っていたという。子規は帰省したり、旧藩主から刀を賜わったり、宴会に出たり、白魚飯を食いにいったり、夜毎双眼鏡を手に女芝居を見にいったりしている。それに続く従軍、往きの船中では後述の不快を経験し、帰りの船中では喀血し、血をはく所もなく飲みこみ飲みこみついに瀕死の状態となり、担架で神戸病院にかつぎこまれている。中の一月は、住居と寒さと食事に苦しみ、不愉快になやみ、わずかに金州と旅順の戦跡を見ただけで帰ってきた。彼は病気になりに行ったようなものだった。

 従軍した子規は、まず俳句を作っている。

 

  永き日や驢馬を追ひ行く鞭の影

  大国の山皆低きかすみかな

  戦ひのあとに少き燕かな

  梨咲くやいくさのあとの崩れ家

  もろこしは杏の花の名所かな

  なき人のむくろを隠せ春の草

 

 材料としては戦争のもたらした悲惨さを取り扱っているものが多いが、読過の印象としては輪郭がはっきりせず、ぼんやりしている。加藤楸邨氏が、子規の目は「かなり既得の俳句趣味に覆われていた」(『俳句講座』というのは、その通りであろう。松井利彦氏は「永き日や」について、「実地に立つ、絵画的把握というゆき方が大陸的な気分をよく表わしている」(『正岡子規』)と、すでに写生を実行しているかの如く説くが、この「大陸的な気分」などは漢詩南画から予定された既成のものといえなくもない。つまりあれらの句は、既得の俳句趣味と大陸趣味がもちあって出来たものと思われる。

 そのうえにこれらの句には、近代国家としてはじめての戦争に外国へ押し出した国民的昂揚が背景にあって、それが句の単調さ(モノトーン)の秘密ではないだろうか。旅順で、ここはいままで敵の港だったが「今は我等のものになりて数ならぬ身も肩に風を生ずるの想ひあらしむ」(陣中日記)という、同じ気持が「蛙はや日本の歌を詠みにけり」である。「久松伯宴を宝興園に賜ふ。金州第一の割烹店なりとぞ。」これが「行く春の酒をたまはる陣屋かな」になるが、これらに言葉の実感がまったく失われているのは、しきたり通りの表現と既成の想像に乗って、自身の想像力をほとんど働かせていないからであろう。

 既成の想像力とは、戦争への国をあげての昂揚であって、子規にとっては従軍をたいへん愉快と思う気持である。「壮快言ふべからず」「新占領地の風光(きく)すべし」(羽林一枝)であり、「どうかして従軍しなければ男に生れた甲斐がない」「()し和が成つて従軍はやみとなりはせんかとそれを気遣ふて居た」「うれしくてたまらん」「愉快でたまらん」(我が病)であり、「幸ひに男と生れて桑弧蓬矢(さうこほうし)四方(よも)の志勃々(ぼつぼつ)禁ずる(あた)はず、今(わづ)かに日本の地を離る、此時の愉快之を他人に語るべからず、日本のぽつちり見ゆる霞かな」(陣中日記)である。

 このように痛快がっているが、最初からこうではなかった。開戦前は、日本の国が亡びてしまうかもしれない、東京へ敵兵が来て逃げねばならぬ時、書物を置いて逃げようかどうしようかという心配もしている(1)。それが中国人を「チャン」と呼ぶようになるには、日本軍の連戦連勝という情勢の変化があった。日清戦争を契機に、それまでの日本人の中国崇拝が蔑視に変り、欧米にならって中国を植民地化の対象にする政策を推し進めるようになることは、竹内好氏はじめ多くの人の指摘がある。子規は従軍によって身をもって日本人の中国観の転向を体験した。

 明治政府のとった日清戦争の道義性の一面は、西欧的新文明を代表する日本と、東洋的旧文明を代表する清国との、いわば文明と野蛮の衝突にあった。福沢諭吉がこれであり、義戦説を唱えた内村鑑三がこれである。文明をもつ国が文明を押し広めるという名のもとにいわゆる野蛮の国に押し入り、その固有の文化を破壊してそれこそとんでもない野蛮をはたらく、大江健三郎氏のいう文明の行う野蛮行為(2)の、日本にとって最初の経験に子規は参加したわけだ。そしてその気持が、後述のように戦争の悲惨も感じてはいるが、大体において「うれしくてたまらん」とそれを肯定する気持であった。これが俳句の背景となった思想だと思う。

 では子規にあった戦争の悲惨の思想は、どう展開しているだろうか。たとえば新体詩に「胡弓」という長篇がある。金州城外、廟の御像も打ち壊されて、そこに一群の日本の軍夫が焚火をしている。一人が国のことを思い出して、国を出る時、母にいつ帰るかと問われて桜の咲く頃と答えたが、まだ帰れない、母はいま頃はまちわびていよう――

 

  一人が言へば又一人

 『われも在所に残し置く

  妻こそ子こそいかにして

  この一冬を(しの)ぎけめ

  金はおくれど返事無し。

  文かかんには無筆(ぶひつ)なり。

  最早(もはや)いくさの終りぞと

  聞くも嬉しや、昨日今日』

 

と歌う。子規自身の希望に反して、軍夫は戦争終結をひたすらに待つ。すると、

 

  折しも門にかちかちと

  鳴らすは()ぞと出て見れば

  乞食か知らず、門附(かどづけ)

  知らず、二人の少年の

  胡弓と撃ち木それぞれに

  うちつかなでつ進み寄り

  此方(こなた)に向ひ辞誼(じぎ)するは

  合力(がふりき)を乞ふ心にや。

 

 この者たちは親に別れたのだろうか、歌うのを聞くと亡国の恨のようで、折から渤海湾の風が寒く吹くと、胡弓取る手の上に梨の花吹雪が散りかかるという詩で、従軍人夫の苦しみと、中国人民の流亡の悲しみが歌われている。もっとも俳句に俳句趣昧があったように、新体詩には新体詩趣味ともいえる悲惨な運命に陥ち入った小民への同情を歌う伝統があるから、これだけでは子規の思想とはいえないが、散文にも同様のものがある。

 たとえば海城丸でのカイコ棚暮しの不安と不快をのべたあと、

 

 我室の向ひには鉄網を張りて中に牛肉野菜など総て食料を貯ふ。其傍に階子(はしご)あり、之を下れば馬厩(うまや)にして輸卒馬卒等は馬と共に起臥せりとぞ。故郷を離れて万里の天涯に命を捨てん身のあはれ悲しきはあながちに弾丸のみにはあらずかし。(陣中日記)

 

 自分もひどい待遇を受けてはいるが、もっとひどい「輸卒馬卒等」下への目は、俳句にはないものであった。

 また、「屋根も壁もめちやめちやにこはされてある」破屋を見て、住んでいた人のゆくえを考え「実に気の毒なものぢや」という。あるいは村全体が空村になっている、人々は逃げおおせたならばいいが恐らくは半分も生きてはいまい、「孝子節婦旌表の碑が路の辺に空しく立つて居るのもあはれな。」孝子節婦旌表の石碑からかれら中国人の日常の生活を想像し、その平穏な生活を戦争が破壊するさまを想像する。当時のような牧歌的な戦争であっても戦争は人々の運命を狂わせ、生命をおしつぶす、そこへ柔軟な想像力を働かせている。この方向は戦争の否定、この国に押しこんでいる自己の否定になる筈だし、中国人への同情を今少し先へ進めると、中国固有の文明を否定しないことになる。これには子規の思想上の師と見られる『日本』新聞社主の陸羯南(くがかつなん)の主張が、福沢や時の内村とは多少ちがって、アジアの覚醒であった。清国を国として認め、固有の文化を認めるわけで、子規にもこれがある。

 まず「筆墨の渾厚雅致ある」に驚いた子規は、中国の建築、美術、演劇などを日本のそれと比較し、純粋に相対的に比較している。たとえば建築について「彼の不器用にして堅固なるは即ち(その)壮雄にして古雅なる所以(ゆゑん)なり。(この)器用にして清潔なるは(むし)ろ卑俗に堕ち軽浮に傾き易き所以なり」(思出るまゝ)という。

 固有の文化をそれなりに評価すること、これは子規の理屈好きによるとも言えるが、のちの漱石でさえ満韓を旅行して日本文明ないし西欧文明の移植については論じたが、固有の文化に対する言及はなかったことを思うと、日本人の中国蔑視がまだ文化観にまでは及んでいない証拠でもある。さらにこの固有の文化を認める態度は、政治的には、中国と提携して欧米に当る思想(3)となることも可能なのである。要するに子規には、こういう方向性をもつ中国文化への関心、戦火に追われる中国人への同情、日本人についても下積みの輸卒馬卒や人夫への共感があると共に、文明のもつ野蛮に気づかぬ面があった。これが子規の内部矛盾だが、子規自身はこれを矛盾と気づかずに後述の別のことを矛盾と思っていた。いわば民族国家の健康なナショナリズムが帝国主義に転化する境に、彼は生ま身を晒して従軍していた。

 子規が従軍したのは近衛師団だが、この師団の新聞記者に対する待遇が悪い。他師団、軍司令部、海軍などに比べると有形無形の待遇に天地ほどの差がある。これについての不快、不平が子規の従軍生活の大きな部分を占めていて、このことを暴露した「従軍紀事」(明29)はいわば近衛に対する報復の書である。

 往きの船中――上等兵と共にかいこ棚に身動きできぬまでに押し詰められ、曹長からどなられる恐しさ、騎兵の上等兵にやさしく注意されたくやしさ。食事当番になって、自ら炊事場に飯櫃、菜、湯をとりにゆく不愉快さ、口惜しさ。「飯焚の威張りに威張る(つら)の憎さ。」

 しかも神官僧侶は上等室に入れて好遇し、新聞記者を差別する。そのことを上陸後、管理部長になじると、「君等は無位無官ぢや無いか、無位無官の者なら一兵卒同様に取扱はれても仕方が無い」といわれ、茫然自失、やがて怒りがこみあげ、「此時吾は帰国せんと決心せり」「今やどうあつても帰国せざるべからずと決心せり、何となれば彼曹長の如きは(わが)職務を傷けたるものにして管理部長の如きは吾品格を保たしめざるものと信じたればなり」と言って、以後も非妥協を通してゆく。傷つけられたプライドは、近代的な職業的自覚というより、むしろ士族としての身分意識であろう。

 この士族意識は上へ向くと殿様、宮様、天皇への拝脆となり、下へ向くと一兵卒とはちがうぞという矜持(きんじ)となり、さらに一ばん下の中国人蔑視になりかねない。いわば現実社会にある差別を肯定して、自己のランクに立ってものを見る態度である。

 久保田正文氏も、一兵卒といっしょに待遇の改善を求めるという風でなかったこと、子規の階級性が暴露したことを言っている(4)。つまりあそこで、一兵卒と同じとは何だ! と怒ったのは、一兵卒に同情するようなこともいいながら、本当には一兵卒と同じ立場に立っていなかった証拠である。

 自分の立場が一兵卒を苦しめているかもしれない、また中国の人民を苦しめているかもしれぬ、と思う加害者意識は、彼の内に成長していなかった。戦争否定は萌芽としてはありながら、育たなかった。従軍は、戦争の悲惨さ、軍隊の非人間性などを彼に見せたが、彼はそれを深めて、そういう戦争を否定する諸要素と戦争の思想との矛盾を追求しないで、戦争と自分に不愉快な体験をさせた体制の一部とを矛盾と感じた。そして、新聞記者には相当の礼をもって待遇してほしい、待遇を一定して発表してほしい、その参考のために自分の経験を書く、今後のためである、といい出す。待遇が将来統一改善されることを望むという、体制に向っての修正要求に立ち上る。

 子規がこれを矛盾と感じ、こういう結論を出したことじたいが従軍の収穫であったとわたしには思われる。いろいろ不満はあっても、天皇と国民とでおこなう戦争が価値あるものであることを子規は自分の眼で見て来た。そこで不満は体制修正の要求に変らねばならなかったのである。そのことで彼は自分をはっきり体制側の存在として位置づけ、そのように新聞記者としての自分をしめくくり、こんどは文学に専念しようとする。これが、彼の内部に見合う社会的存在としての外部である。しかし、体制の側に立つとは、子規の場合、単純ではなかった。

 

  二 従軍決意

 

「其の結果から見て、十を失なうて一も得る処のなかつた従軍を子規がなぜ決行したのであらうか」(『子規の回想』)。(河東)碧梧桐ならずともこう問いたくなるであろう。碧梧桐は自らの問に答えている、

「子規の青年的な客気が大事を誤つたやうにも見えるが、思ふにそれは、子規が何らかの雑念によつて奇を(てら)つたのでもなければ、巧を弄したのでもない。子規としては極めて自然な、其の流転的生活に根ざす、有りふれた行動をとつたに過ぎなかつたのであらう。」不得要領の言葉が多いが、要するに子規の行為は変化を求めて止まなかった彼として必然の行動だったということらしい。しかし、これでは答になっていない。

 (高浜)虚子は、「其自我心の強く一旦思ひ立つた事を容易に撤回するやうな人でなかつた事は事実が一々之を証明する。此従軍志望の如きは其著しきものの一つである。」(子規居士と余)という。これも、言い出したらきかなかったというだけで、理由にはならない。

 しかし子規自身は、業病の原因となった従軍を後悔していない。一言のめめしいくり言ももらしていない。「握りたる剣もまだ手より離さぬに畳の上に倒れて病魔と死生を争ふ事誰一人其愚を笑はぬものやある」(陣中日記)と自嘲しながら、そういう自分の(めぐ)り合せと、三国干渉の結果金州半島を失った日本の不運とを相似とし、分ちがたい一つ運命のものと見ている。彼は大きなものの呼び声を聞いたのだ。

 飄亭はいう、「思ふに当時の外界の刺戟は常に有為なる彼――功名燃ゆるが如き彼の壮心を煽揚して、(つひ)に久しく拱手傍観の位置に居ることを許さなんだに違ひない。……さうして一面には戦争に酔へる当時の紙上が、彼れの悠々たる文学的文字を歓迎し得ざるを思ひ、一面には一生中再び期すべからざる此の戦争の見聞が、如何に得易からざる幾多の材料を己れに供給するかを思ふ時、彼は到底安閑として居られなかつたに違ひない。」(嗚呼子規、碧梧桐編『子規言行録』)国士飄亭の言葉は、碧梧桐や虚子がもはや理解できなくなった子規の一面を示しているかと思う。

 じじつ、さいきんの司馬遼太郎氏の小説『坂の上の雲』は、飄亭説をついでいる。従軍前の子規は、『小日本』が廃刊になり、『日本』に戻って俳句入りの文章などを書いていたが、「妙に生彩がなくなった」というところだ。一方、はじめての国家のはじめての戦争に「無邪気な昂奮」をあらわした当時の日本人の気持は、子規の「進め進め(つの)一声月(のぼ)りけり」に表われているという。コサック騎兵とたたかった騎兵の創始者秋山好古、バルチック艦隊を撃滅した参謀秋山真之兄弟と子規とを描いたこの小説で、司馬氏はかれらは「食うものも食わず」だったが、国家も小さく、中の重要な部分をまかされたため、「思うぞんぶんにはたらき、そのチームをつよくするというただひとつの目的にむかってすすみ、」疑うことを知らなかった、「この時代のあかるさは、こういう楽天主義からきている」といい、そういう明治の単純で充実した生きざまに憧憬して、戦後のマルクス主義史観や平和主義史観に反発している。そこでは子規が俳句をえらぶのも、秋山兄弟が騎兵をえらび海軍をえらぶのと少しも変らないことになる。

 しかし、これでいいのだろうか。指導層の青年が「食うものも食わず」だとしたら、より下層の民衆は塗炭(とたん)の苦しみにあえがねばならぬ、その視点の欠落は問題だが、いま子規に限っても、俳句に熱中して学問を中道で()した彼に向って、藩の常盤会寄宿舎ではそれを非難する声が高かったという。だから、騎兵や海軍が既に社会に場所を与えられているのとちがって、俳句の立つ場所を作ることが必要だった。藩=国から疎外されたところにこそ文筆の道があり、そこにしか自己の生きる場所がないとしたら、役に立たぬと思われているものを、そうでないと社会に認めさせ、自立をかちとろうとする志が生じていたと思われる。そのことが従軍決意の一つの要素となっているのではないか。首途(かどで)のさいの、

 

  かへらじとかけてぞちかふ梓弓矢立たばさみ首途すわれは

 

の「矢立(やたて)たばさみ」が、もの書きとしての決意だった。

 

  行かば我れ筆の花散る処まで

 

も、もの書きの道をきわめにゆくことだった。自己の転機を戦争に求めたというより、いわばもの書きの道のゆくてに戦争があり、それこそ時代の状況そのものであったので、それを素通りしたのではもの書くことが成り立たぬ、俳句が自立せぬ、と思われた。

 従軍と決まった子規が、碧梧桐と虚子とに、「河東秉五郎(へいごろう)君足下、高浜清君足下」と本名で連記したまじめな手紙を渡したことは、わりあいよく知られている。そこで子規は「僕足下と交遊僅かに数歳(しか)して友愛の情、談心の(かう)(あだか)も前世の契約に出づるが如く(しか)り」といい、生き方についても文学についても辛辣な批評を与えつづけ二人ともそれをよく容れてくれた仲であることをふりかえり、出発に当って健康を案じてくれる二人に、従軍の意図を説明せねばならぬ義務心にかられている。

 

 僕の志す所文学に在り。文学二種有り。一に曰く詩文小説を作為するなり、是れ雅事に属す。二に曰く文学書を編纂し文学者を教育するなり、是れ俗事に属す。詩文小説を作為するものは(あまね)く天下の景勝を探り博く世間の人情を究むるを要す、景勝を探り人情を究めんと欲すれば身に世務あるべからず家に煩累あるべからず、(しか)して僕共に之れ有り。文学書を編纂し文学者を教育する者は幾多の材料を蒐め幾多の英才を集むるを要す、材料を蒐め英才を集めんと欲すれば巨万の黄金なかるべからず若しくは顕彰の地位なかるべからず、而して僕(とも)に之を欠く。……

 

 雅事(文学の創作)俗事(文学者の教育=文学運動)ともに自分には資格(外的資格だが)に欠けるといい、だからこそ機会をねらう必要がある、という。その好機が戦争であり、従軍であった。

 

 征清の軍起りて天下震駭し旅順威海衛の戦捷は神州をして世界の最強国たらしめたり。兵士()く勇に民庶克く順に、以て此(こゝ)に国光を発揚す。而して戦捷の及ぶ所徒(いたづら)に兵勢振ひ愛国心(いよいよ)固きのみならず、殖産富み工業起り学問進み美術(あらた)ならんとす、吾人文学に志す者亦之に適応し之を発達するの準備なかるべけんや。……

 

 戦争は国民精神を刺戟し、殖産工業から学問美術まで新になろうとしている。文学もまた然り。それに志すものは、その準備をしなければいけない。自分はたまたま新聞界にいるので記者として従軍することができる。この機会をいたずらに逃すとしたら、愚か怯だろう。「(こゝ)に於て意を決し軍に従ふ。」

 

 軍に従ふの一事以て雅事に助くるあるか僕之を知らず、以て俗事に助くるあるか僕之を知らず、雅事に俗事に共に助くるあるか僕之を知らず、然りと(いへど)(いづ)れか其一を得んことは僕之を期す。縷々(るゝ)の理些々(さゝ)()解説を要せず、之を志す所に照し計画する所に考へば則ち明なるべし足下之を察せよ。

 

 戦争を直接体験することは、文学の創作または文学運動に、あるいはその両方に、きっと役立つだろう、だが説明し難いもの、言葉にならぬ飛躍が残って、それを、平生からぼくを見ている君たちには分るだろうといっている。おそらく子規は、司馬氏のいうように平均的日本人として戦争という国家的行事に昂奮していたと同時に、大江健三郎氏がロシヤ行きの二葉亭に見た(5)ように、明治のよき日本人として「モラリティの感覚」をそなえ、詩人というものはこのように生きるものだということを世に示したい、革命に加わるように戦争に出てゆくとき、自分の健康などは問題でない、という内部の声に導かれていたのかもしれない。そのさいも、俳句の自立という課題をかかえてであることはいうまでもない。このあと子規は、君たちは僕の志望を成敗にかかわらず見てくれるから君たちだけにうちあけるのだ、もし僕が倒れたら志を継いでほしいと結んでいる。子規は自分一個の生にこだわるよりも、むしろ国力の伸展にともなう一国文明の発展にこだわっている。

 

 皆にとめられ候へども雄飛の心難抑(おさへがたく)(つひ)に出発と定まり候 生来希有(けう)の快事に候

 小生今迄にて最も嬉しきもの

 初めて東京へ出発と定まりし時

 初めて従軍と定まりし時

の二度に候   (28・2・28、五百木宛)

 

 この上の望みとしては洋行と、意中の人を得た時だが、後者の方は全く望みなしだ、「非風をして聞かしめば之を何とか云はん呵々。」花柳の巷に耽溺し、愛人と同棲して社会からドロップ・アウトした非風を思い浮べているが、子規の構想するものは、非風流の自分一個の文学でも文学者でもない、もっと大きな状況にかかわるそれらだった。

 当時、子規がゆきつまって打開のきっかけを求めていたと考えることは可能だ。『小日本』終刊の怨念がそれで、友人たちにしきりに手紙で訴えている。しかし『小日本』に代る情熱の対象を求めて従軍した、というのはどうであろうか。両者は理論と実践の関係のごとく、従軍は『小日本』の延長線上にあったのではないか。

 子規の中のナショナリズムと文学改革とは接点を求めていた。その平行状態は『小日本』に見られる。両者は融合して大爆発を起すべき起爆剤を求めていた。戦争こそそれと思われたのである。

 

  三 『小日本』のナショナリズム

 

 従軍の一年前の明治二十七(1894)年二月に、当時政府の外交態度を攻撃して飽かず、そのためしばしば発行停止を食っていた新聞『日本』の別働隊として、同社から絵入新聞『小日本』が発行されると、子規がその主筆となったことは、わりあいよく知られている。この仕事を通して中村不折と知り合い、彼から絵で使う「写生」の概念を学んだことも知られている。が、子規がこの新聞にどこまでタッチしたか、その社説めいた巻頭論説も書いたのではなかろうか、とは誰も問題にしていない。久保田正文氏は、伝記で、「『小日本』では、俳句・俳論はいうまでもなく、竹の里人として短歌を発表しはじめたり、小説『月の都』『一日物語』『当世媛鏡(ひめかがみ)』をかかげたりして、なりふりかまわず奮闘したが、やはりうれゆきかんばしからず、七月十五日附で廃刊ということになった」(『正岡子規』昭42)という。なぜこういうのか。それは子規を狭義の文学者としてしか見ていないからである。改造社版子規全集第四巻の後記では、「『雛の俳句』『俳諧一口話』『募集発句抜萃』『亡友山寺梅龕』の諸編は『小日本』時代のものである」という。この巻が俳論篇ということもあるが何故『小日本』からこの四つを選んだのか。それは編集者たちが子規を俳人としてしか見ないからである。ところがこれらは短篇もしくは埋草にすぎない。時事俳句は沢山作ったが、竹の里人の短歌などは三首ほどにすぎず、どちらも埋草である。叔父への手紙にも「俗事閑暇を得ず俳句の研究は中絶の姿に相成残念に御座候」(3・31、大原恒徳宛)とある。この時の子規の本領は別にあった。

 これに関して一番くわしいのは古島一念の追憶である。

 

 小日本発刊の事は決したが()て之れが主宰たる人には(くるし)んだ、と言ふものは小新聞と云ふ柄の人は社中其人に乏しいので中には日南君を(わづらは)すべしとの説もあつたが是は牛刀鶏を()くの感がある……其他言論の士文章の人綺羅星の如く(なら)んでは居るがどこを見ても皆な豪気堂々大空に(よこた)はる連中で始末が悪るい、……そこで思切て子規君をやらせてはどうだと云ふ事になつた、……(あやぶ)み手は多かつた……君が常識のある事や其通常の文士でないことは其時事を俳句に応用する手腕に於て既に十分には認識しては居るものゝ何を言ふても新聞社界には経験の少ない人である、殊に社界の裏面は知らぬ方が多いのである、……従て其作る処の新聞がブマの事や間の抜けた事がありはしないかと(ひそ)かに心配して居つた、処が其新聞が出来て見ると、誠に小ぢんまりとした、だれ気味のないそうして品のよいものが出来て来た

 夫から程なく小日本も政治上の批評や報道を加味するの必要があると云ふので僕は日本新聞の余暇に助勢をすることと()つて君と机を(ならべ)て毎日一緒に居つたが……蒲柳(ほりゆう)の質である、然るに日々の小説を書くのみならず材料の取捨から原稿の検閲扨ては絵画の注文募集俳句の撰択或時は艶種(つやだね)の雑報まで自ら筆を(とつ)て朝から夕まで孜々(しゝ)として()まざる君の勉強力には驚いた、……(日本新聞に於ける正岡子規君)

 

 これによると「政治上の批評や報道」には古島が当ったようだが、右にも「(それ)から程なく」とあるように、後述するがかなり後になって古島と交代したので、それまではすべて子規の手になるものと思われる。論拠の一は当時子規宅に同居していた虚子の証言である。『小日本』の記者は子規と飄亭とただ二人、ほかに挿画に不折、校正に露月がいるだけで、飄亭は三面が得意だったというから、論説を含む一面は子規の直接の受け持ちであったろう。その二は、子規の性格と以後の日本新聞社における位置である。――「近来只多忙多忙と申候のみにて相くらし申候昨夜(など)大典(たいてん)(つき)明日の新聞へ附録相附(あひつけ)候ため十二時過迄居残り家に帰り候へば一時それから飯くひ侯へば一時半にも相成申候幸に身体健全に御座候……」(3・8、大原恒徳宛)大変多忙で、つきあいに金がかかってやりきれないとこぼしているが、得意のさまは言外に溢れている。「燕太平洋へのしてゆく」といった句も同様だろう。『仰臥漫録』中の美しい場面の一つ、吉原の朝、路を行く大シャグマのおいらんの裲襠(うちかけ)に朝日が映って龍か何かの刺繍がきらきらして美しかったという回想も、そうした働きと共にある或る日の遊楽だったからであろう。

「君の一生は概して不幸であつたが()し其中に於て得意時代なるものがあつたとすれば此時こそ先づ得意の時であつたと云はねばならぬ」と古島もいう。「其始め君を重んぜなかつた僕が真に君の材幹技倆を認め誠に君の識見に服し甚だ君の野心の大なるに感じたのは此時である」ともいっている。先輩の古島だけでなく、「大空に(よこた)はる連中」に子規を認めさせたのは、この五ヶ月余の実績をおいてはありえなかった。陸羯南の庇護は人の知るところだが、親友の甥で、病気に同情したというだけではあるまい。この期の全力的活躍あってこその不動の信頼であろう。それは新聞の統括で、当然執筆をも含む。

 第三に、何よりも文体が子規のものであることだ。たとえばパノラマの書き方を示したもの(2・11)がある。この好奇心も子規のものだが、「画工は尋常の技能の上に、高き(たな)によぢ登りて、大なる画面に対する程の胆だましひあるものを選ぶことに候、わづかの事に眩暈(めまひ)するやうなる人にては、役に立ち不申候」とある、気持の活溌さが裏で躍動している文体こそ子規のものであった。

 また、「児童徳育の一参考」(4・5)では士族にあった少年仲間の自治を紹介して、「然れども其方法の野蛮的なるに係はらず、其精神に至つては実に取るべきものあり」という。「廃刊の旨趣」(7.15)でも「(いやし)くも精神にして滅せずんば(ふたた)び他の形骸を仮りて世に出づるの時なしとせんや」という。これらは、「和歌の精神こそ衰へたれ、形骸は猶保つべし、今にして精神を入れ替へなば、再び健全なる和歌となりて文壇に馳躯(ちく)するを得べき事を保証致候」(歌よみに与ふる書)と逆だが、向じ方法である。

 また、田舎者の権威主義を嘲笑しているところ(6・19)も「歌よみに与ふる書」のその部分と重なるし、分類して並べておいて属性を抽出したり、予想される反論を出しておいてこれを論破する議論の進め方、また演劇改良に実験を主張し、菓子税に反対するなど用語、嗜好においても子規のものであるだろう。明瞭で裏がなく、ユーモアのたっぷりある、和文を混じた漢文書きくだし体というべき文語文体が、なによりもこれらが子規のものである証拠だと思う。

 創立三ヶ月で業務を拡張し無休刊にふみきるが、ちょうど議会が開かれる時で、「第六議会の問題」(5・16)あたりから、論調は議会批評を主としてこまかくなり、子規独特の大まかだがたたみかける弾力性やユーモアを失っていく、古島と交代したと思われる。そして六月下旬からまた子規らしいものが出だすので、論説は、はじめ子規が、中ごろ古島が、さいごは子規と古島が分担して、書いたと思われる。

 この論説で、子規は何を主張したか。対外硬=条約励行論である。これは『日本』派の主張で、政府の軟弱外交となしくずし内地雑居による条約改正の方向を攻撃し、現行の条約を励行することで相手方にも不便を感じさせ、正々堂々と条約改正をかちとれとの主張である。子規はそれを、子規らしいユーモアをまじえながら外人の横暴に対する国民的反発として描いている。

 

 日本人は即ち此帝国の主人なり、主人の国法は敬ふ可し、主人の風俗は重んず可し、殊に主人は誠意を開き、懇切を尽し、便利を与ふることに勉む、之に対して感謝を致す可し、是れ客の礼なるなり、然るに(かれ)外国人の多くの(てい)たらくは()ま如何に……

 此に客あり、主人の款待(くわんたい)(かたじけ)なしとも思はず、其慇懃に丁寧なるに乗じ、兼ねて主人が(しやう)ぜし座敷を打越之(これをうちこえ)、案内もなく断りもなく、づかづかと奧の(かた)へと押通らば如何に、加之(しかのみならず)主人珍蔵の物を懐にし、甚しきは其家の侍女に()れつき、或は其家の下男を擲着(ちやうちやく)しなば如何に、……是れ客の礼を知らざる者たるのみか、人の人たる道を(わきま)へざるしれ者なり……おぞましや今ま我国内には『境に入りては禁を顧みず』『郷に入りては郷に背く』の賓客夥多(あまた)ありて、日に国禁を犯し国俗を(みだ)しつゝあることを。是時に当りて主人の同胞に如何なる最後の覚悟かあるや、最後の覚悟、其最後の覚悟きかまほし。(主と客、3・16)

 

「主人が請ぜし座敷を打越え」がなしくずしの内地雑居を、「最後の覚悟」が政府の対策を指している。このような論調を、「無頼の外人を国外に放逐せよ」(3・31~4・3)「外人の取締」(4・6)「外人取締条例を設くべし」(4・7)頼母敷(たのもしき)国民、頼母敷(たのもし)からぬ政府」(4・11)「条約励行の気焔」(4・12)「不注意なる政事社会」(4・24~27)「商権回復」(5・5)「対外商略の強硬」(5・10)「対外硬は輿論(よろん)なり」(5・13)布哇(ハワイ)の外人上陸条例」(5・15)と続け、国防上重要の地には外人の来往を禁ぜよ、外人の営業を制限せよ、それが条約改正以前に必要だといい、開国進取に名をかりた政府、自由党の欧化政策を攻撃し、ひいては西洋文明の偽善を暴露する。――彼らは何ぞというとキリスト教国民というが、不品行なること言語に絶している、「彼等は我下等賤民の子女を誘ひて妾となす」それも五六人も蓄える、本国ではとても出来ないことを我国に来て平然と行い、風儀を腐敗せしめている、妾まではまだ許せるが、「彼等が公然たる我良家の婦女に迫りて無礼を加ふるの点に至りては堂々たる我同胞国民の(おもて)をば土足をもて蹴るものにして……」(4・1)という。

 西洋文明の一面が強者の文明であることをナショナリズムの立場から劣等感と共に受けとめている。この眼と眼の間の離れた青白い顔をした青年は、『日本』派の豪傑たち同様、白人の侵略を恐怖しており、その裏返った強硬論であった。

 また「下等賤民の子女」と「良家の婦女」との差別意識も『日本』派のものであった。子規も車税船税菓子税などに反対するが、それは貧富の差が今以上になって、「党中の尤も恐るべきもの」である「社界(ママ)党」の猖獗(しょうけつ)を恐れるためであった。そのほかあらゆる局面で階級対立を民族対立にすりかえるのは、国際的圧力という現実的条件のもとに日本の独立と統一をかちえようとする『日本』派に共通の思考であった。

 こういう子規=古島のナショナリズムは、朝鮮問題が連日新聞を賑わせる中で、はじめの「苛政を排する」朝鮮人民に対する純然たる同情から、しだいにヨーロッパに対する対外硬を朝鮮清国に対するそれへ転じていく。出兵が既定の事実となるや、国威と国益を伸張せよという(6・25)。平和よりも名誉を、という(6・29)。「対清韓政策の要素は、唯だ猛断の二字にあり」(71)といい、今日の時会を利用すれば、東洋に於ける盟主の地位に立ち、朝鮮の独立補達して列強がすきをうかがうのを断つことができる、断じて行えと開戦を唱導している。これが廃刊日の七月十五日であり、二十五日豊島沖、二十七日牙山の戦あり、宣戦布告は八月一日である。『小日本』の廃刊は、日本派が要求していた対外硬が戦争という形で実現したことと無関係ではあるまい。挙国一致がもたらされ、『日本』発行停止の可能性もなくなった。皮肉にも『小日本』の主張の実現は『小日本』の存在の必要をなくしたのである。子規はそのために文化、教育の面を担うつもりだったが。

 子規は、演劇改良では、理想と実際の中間の実験を勧めている。俳句の啓蒙、小説の批評、落語の改良など文化全般への改造的発言をしている。小説の創作では『当世媛鏡(ひめかがみ)』が、没落士族の怨念を持ち続け、許嫁(いひなづけ)を世に出そうと料理屋奉公までする女と、出世のためにはその女を棄てて欧化の世に媚びてしまう男を登場させた政治小説で、政府に屈した自由党を諷刺し、比べて新しくすすめられる結婚を(がえ)んぜず、自刃する女に不屈の民族魂を描こうとしたと思われる。だが、これ一つをのぞいて、古島を驚かせた子規の文化全体への野心は、その政治的主張とぴたっと重なるという具合にはまだなっていなかった。

「国民の統一とはおよそ本来において国民全体に属すべきものは必ずこれを国民的(ナショナール)にするの(いひ)なり」(陸羯南『近時政論考』)。かつての立憲の主張も自由平等の要求も、羯南(かつなん)の考えによれば、このことの具体化以外ではありえなかった。子規のねらうところの新文学もまた、「本来において国民全体に属すべきもの」であるが故に「必ずこれを国民的に」せねばならず、そのことが国民の統一を内的に完成することになるような文学であった。彼はその実現の方途を、その政治的主張との合一に求めて、遠く外征したものと思われる。

 

  四 俳句の自立

 

 子規文学成立の契機にナショナリズムを考える杉浦明平氏は、子規文学の長所も弱点もこれを『日本』派の基盤である地主階級に求めた。弱点としては、地主制の天皇制との癒着が子規文学の近代化の足をひっぱっているという。たとえば蒸気汽車の機械美を子規は認めず、従来の景物との配合の美を説いた、これは天皇制の暗い翳が落ちていたからだという(6)。少々唐突ではなかろうか。わたしは、これは下部構造と上部構造とを反映論的に対応させたために生じた無理で、配合論は天皇制に関係があるよりも、俳句そのもののおくれに、いわば俳句の自立ぐあいに閏係があるのだと思う。

 子規にとって文学が天皇を戴く体制の一環であることは確かだが、その意味はあの陸羯南の言ったように、本来国民全体に属すべきものを国民的にすることであり、同じことを主体の側からいうと、「君主と人民と相協同せる勢力すなわち国民勢力(ナショナールフォールス)」の手に文学をもとり戻すことであった。従軍によって子規が得たものもこのことの政治的軍事的成果(政府による成果でなく、政府をつき上げている天皇と国民との連合による成果)の確認と、今後の自己の進むべき方向の発見であったとすれば、戦後の仕事が、まず俳句の文学としての自立にあったことはいうまでもない。

 俳句の自立を子規は論争を含む批評を通して達成しようとする。俳句が力を得るにしたがって外部からの圧力が加わる。それに抵抗するばかりでなく、こちらからも積極的に押出す、それが批評で、その必要は日本の自立に日清戦争が必要であったのと同じことだ、と彼は考えている(7)。だから、漢詩や当時の和歌のように無風帯に安住することは、望まない。

 じじつこの時、総論として戦前の「獺祭書屋俳話」(明25)に対して「俳諧大要」(28)を、文学史再評価として「芭蕉雑談」(26)に対して「俳人蕪村」(30)を、また長篇随筆「松蘿玉液」(29)、長篇展望「明治二十九年の俳句界」(30) などの力篇を彼は書いている。

 このうち「獺祭書屋俳話」は啓蒙書で、俳諧の名称から、その歴史、将来、俳人紹介、素材紹介、現行入門書批判に及ぶが、中で俳諧の本質を滑稽とする通説にしばしば反対しているのが注目される。「只々和歌の単一淡白なるに対して其雅俗の言語混淆し其思想の変化多くして且つ急劇なるを謂ふのみ。」つまり言語が生き生きと雑多で、思想が現実的で複雑で、調子がきびきびしたものを俳諧の本質とする。ここに自立の萌芽はあるものの、まだ体系化されてはいない。

 それには「俳諧大要」をまたねばならない。この方は、原理論から俳句の特質闡明(せんめい)へ進み、入門から奥義へ進む戦闘的な概論で、その冒頭にいう。

 

 俳句は文学の一部なり。文学は美術の一部なり。故に美の標準は文学の標準なり。文学の標準は俳句の標準なり。即ち絵画も彫刻も音楽も演劇も詩歌小説も皆同一の標準を以て論評し得べし。

 

と。俳句は文学の一部であり、文学は美術の一部であると、分類・展開から抽象をくりかえして高まってゆき、逆にこんどは美の標準は文学の標準であり、文学の標準は俳句の標準であると、価値の規準は頂点から底辺まで同じものが下降、貫徹される。これは理想主義的かつ合理主義的な時代の精神の表れで、内在する普通の価値も、東洋のものでなく、「美」という西洋渡来の新観念であった。

「子規は早くからハイカラな新しい学問をした書生ですから、今までの人が云わない俳句とか歌が文学の一部分であるということを教えてくれた」(歌を作る一人として、昭22)と土屋文明氏もいう。だが、文学であるというだけなら土屋もハイカラな学問をした書生とおさえたように、子規の発明というより、『小説神髄』の冒頭などにも共通する時代の産物であった。重要なのは、それが俳句の側から言われ、「美」という普遍的価値への信仰が俳句の他の文学からの自立を保証したことだった。俳句は俳句であるが故の劣等感に陥ることはなかった。

 

 俳句と他の文学との区別は其音調の異なる処に在り。他の文学には一定せる音調有るもあり、無きもあり。而して俳句には一定せる音調有り。

 

 俳句と他の文学との音調を比較して優劣あるなし。唯々風詠する事物に因りて音調の適否あるのみ。……

 

 そこで「一般に俳句と他の文学とを比して優劣あるなし」となる。また「俳句の種類は文学の種類と略々(ほぼ)相同じ」となる。形は小さくとも、俳句に文学と同じだけの幅を持たせようとする。この考えはまた俳句が子規にとっては個人的な創造であるよりも、そうした個人の創造を縦にも横にもつらねて、共同で作ってゆく運動にほかならぬことを示している。この意味で寺田透氏の言葉は正しい。子規の仕えたものは「彼の自我の姿ではなく、文学の美そのものであった」と。「彼の念願としたのは、自分の俳句の完成以上に、まず同時代の共通財である俳句を復活せしめ美しくすることであった」(正岡子規論)と。

 子規にはのちの啄木の「悲しき玩具」や虚子の「俳諧師」などに通ずる自嘲的な気持がなかったのだろうか。小説家志望に挫折した彼にそれが全くなかったとはいえないが、彼にはそれを思いきりよく転換させるものがあった。その一つが上にのべた近代の合理主義であるが、いま一つは――

 

 美は比較的なり、絶対的に非ず。……

 

 美の標準は各個の感情に存す。各個の感情は各個別なり。故に美の標準も亦各個別なり。又同一の人にして時に従つて感情相異なるあり。故に同一の人亦時に従つて美の標準を(こと)にす。

 

 美の標準を以て各個の感情に存すとせば先天的に存在する美の標準なるもの有る無し。……

 

 美は相対的なものであり、その標準は各人その時の感情にある。人と時とを超越した絶対的な標準などありえない。このように個の権威を認め、変化する個の内部にのみ基準を置くことは、あの合理主義とは別のいま一つの近代、絶対的個人主義であろう。これは作法に展開すると、「俳句をものせんと思はば思ふままをものすべし」「俳句は只々己れに面白からんやうにものすべし」と、自由奔放に作れの説となる。がこれも個人主義そのものを目ざすというより、それによって旧来の因習を打破し、俳句の革新を進めるためであった。

 それ故に、美の標準は各個各自に存在するという絶対個人主義的な考えは、彼の場合一見それとまったく矛盾する次の考えと同居するのであった。

 

 各個の美の標準を比較すれば大同の中に小異なるあり、大異の中に小同なるありと雖も、種々の事実より帰納すれば全体の上に於て永久の上に於て略々(ほぼ)同一方面に進むを見る。譬へば船舶の南半球より北半球に向ふ者、一は北東に向ひ一は北西に向ひ、時ありて正東正西に向ひ時ありて南に向ふもあれど、其結果を概括して見れば皆南より北に向ふが如し。此方向を指して先天的美の標準と名づけ得可くば則ち名づく可し。今仮りに概括的美の標準と名づく。

 

 同一の人にして時に従ひ美の標準を異にすれば、一般に後時の標準は概括的標準に近似する者なり。同時代の人にして各個美の標準を異にすれば、一般に学問知識ある者の標準は概括的標準に近似する者なり。

 

 標準は個々にある、といって先天的標準を否定しながら、先天的標準といってもよい概括的標準を提出せざるを得なかったのは、個々をばらばらのまま放置はできなかったためである。時間においても空間においても、個の向うべき方向が示され、現在の位置と序列が示され、個と全体とは調和しつつ進むのでなければならぬ。そのさい、だんだんよくなるという進歩に対する信仰と、学問知識はそれによってわれわれが進歩の過程を進むものだという学問知識への信頼とは注目に値する。この秩序と進歩へのオプティミズムは、子規のものであり、明治という時代のものでもあった。俳句への劣等感を転換させるいま一つの契機とは、この全体との調和と進歩の信仰であった。これあればこそ俳句も全体の中で安らかに位置を保証される。

 この安心の上に子規は、修学第一期、第二期と、体験に基づく作法を展開している。そしてさいごに「文学専門の人に非ざれば()ること(あた)はず」という、プロである第三期において、多く俳書を読んで新奇陳腐の判別力を養い、空想写実の両方法に熟練して一種非空非実の大文学を製出し、俳句以外の文学に通暁し、文学以外の美術一般にも通暁し、さらに天下万般の学に通暁し、極美の文学を作る益々多からんと欲せよといったあとで、

 

 一俳句のみ力を用ふること(かく)の如くならば則ち俳句在り、俳句在り、則ち日本文学在り。

 

といっている。俳句が、つづまりは日本文学と等価なのであった。俳句は、日本文学の部分であるにはちがいないが、同時に日本文学そのものであった。新しい俳句を樹立することが、そのまま、日本文学をしっかと樹立することになった。彼が説いたのは俳句の他の文学・芸術に対する自立だが、そのことで俳句の社会的自立も、ひいては文学の民族的自立も達成されようとする。のちに歌よみに与えて、「日本文学の城壁を……外国の髯づら共が大砲を()たうが地雷火を仕掛けうが、びくとも致さぬ程の城壁に致し度」といったが、同じことを数年前、より直截(ちょくせつ)に「俳句在り、則ち日本文学在り」といったのである。

 子規の歌論の力強さについて中野重治氏は論理の力強さよりもその力の展開のされ方、「(かく)の加き薄つぺらな城壁は……」というような全体の調子によっていたろうといったが(8)、いいかえればそれは、論理的力強さを支えるものがあったということであり、わたしはそれを自己と国家との結びつきに関する確信であったと思う。だが子規は一方では伊藤博文の詩をこっぴどくけなすことで、俗世間ないし政治権力からの文学の自立説いている(9)。つまり彼は権力との癒着を望んだのではなく、むしろ天皇と国民との連合によって権力を挾撃(きょうげき)するという羯南の思想の文学的展開を示そうとしたのだと思う。その場合、その運動である統一=変革のエネルギーは、近代の理念に内在すると考えるよりも、主体である民族に内在するものと掴んだのではなかろうか。その最大規模の運動が明治維新であったのだから、彼は自分の仕事を維新の発展としてつかんだのではないかと思う。維新が政治の改革からさらに歩を進めて民衆の意識の内部に浸透し、いま人間の意識を、封建的な意識から近代的なそれへ脱皮させる段階になった。これには誰が何を以て当るであろうか。それこそ我であり、俳句を以てであると子規は考えたのではなかろうか。

 維新は現に進展しつつある。国内的な革命は抵抗を契機に一挙に国際的なそれに飛躍した。この、日本の道はまちがいではなかったと子規に確信させたものこそ、あの日清戦争「従軍」ではなかったか。そしてこんどは人間の意識の変革だと確信させたものもそれではなかったか。渡清の輸送船中で新聞記者ゆえに受けた屈辱もこの確信を強めこそすれ弱めはしなかったと見える。

 実地に従軍して維新の潮先きを見てきたことが、いま彼に執拗な腰痛を与えているが、それが同時に創造の夜明けをもたらしたのだと思う。

 さいごに、俳句の方法的自立が俳句の自立の重要な部分であることを言わねばならない。この方面で彼が写生という方法を得たことは周知である。そのためには、俳句の歴史上の現在に立って、写生が必要であることを彼は主張せねばならない。歴史批判つまり文学史再評価と方法的探索とが表裏一つの作業となる。もはやくわしくふれる余裕はないが、「芭蕉雑談」は権威の徹底的否定であり、大胆な偶像破壊である。そしてその破壊の後を「俳人蕪村」で蕪村に従いつつ俳句の文学性を建設しようとした。そこにおいて(また「松蘿玉液」などにおいて)「客観の事物をのみ描写し」という具合に、客観、客観的といい、あるいは絵画に写生といい文学に実験といってまだ写生の語を使ってはいないが、現代における俳句の自立の方法的根拠に、客観の事物=実際=実地の研究=生が必要だという認識に、しだいに子規はたどりつきつつある。そしてその時はちょうど彼が病床を動くことがむずかしくなる時であった。

 写生が必要だという発見が、まさにその写生が出来ぬという状況下になされた残酷さは、一代の宗匠子規をしてかえって写生を日常生活に結びつけ、写生概念を深めたといえる。またそれ故に、彼は時に想像を攻撃しながら想像を捨てないのであった。書くこと自体が慰めだが、いちばんの慰めは、かつてのわが姿や今の友の上を想像しつつ書くことであった。

「松羅玉液」の終りに近く、本格的発病のことが記された中にある、

 

  小夜時雨(さよしぐれ)上野を虚子のきつゝあらん

 

は、相当高いのではあるまいか。写生と想像は融けあい、心にイメージが拡がると共に、人を恋うる情感も溢れようとしている。

 だが、子規は想像力を核とした俳句の方法論をうちたてることはしなかった。彼の論の一特徴は、俳句の特殊性を絵画になぞらえて説明することだ。「俳句に詠ずる所の者を分つて二種となすべし、曰く小にして精なる者と大にして疎なる者と」(松蘿玉液)といい、画でいうと前者は小景近写、後者は疎画に当るという。これは俳句の形態的自覚にもとづいて絵画との類似を考えているので、画の写生を俳句に移す基礎になっている。これが杉浦明平氏の難ずるように彼が選択美、配合美にとらわれていたもとにもなっている。しかしこの「写生」という言葉が、子規の実作の全体を覆うものでも、俳句自立論の総体と見合うものでもないことは上にのべたことからも明らかである。まして子規の基底にある思想とは、それは、ここへきて再び平行線をたどりはじめるのではないか。

「明治二十九年の俳句界」は、虚碧の二人を世に出そうと大いにもちあげたものだが、

 

  妻の手や炭によごれたるを洗はざる  碧梧桐

  怒涛岩を噛む我を神かと朧の夜    虚子

 

 二人の作は、客観と主観と対照的だが、ともに子規の設定した道を、新調は一時の現象という彼の警戒をよそに、ずんずん進んで、「国民全体に属すべきものは必ずこれを国民的に」という埒を越え、俳句それ自体の新しさを求めてつっぱしっている。子規自身はといえば、「俳人蕪村」で、蕪村の造語がついに辞書中の一隅を占めるようになったことを見つけて、「英雄の事業時に(かく)の如きものあり」と、俳句の一語といえども国家的・国民的事業であるとの自覚を失おうとはしなかったのではあるが、あたらしい日清戦後の状況の中で、彼の思想と文学とは新たな乖離(かいり)をはじめるかのようである。

 

(1)子規「我が病」

(2)大江健三郎『核時代の想像力』(昭45)

(3)国木田独歩「愛弟通信」や、連合艦隊司令長官伊東祐亨が敵将丁汝昌に示した友情に見られる。

(4)久保田正文『正岡子規』(昭42)

(5)(2)と同じ。

(6)杉浦明平「『薄ッペらな城壁』をめぐって」(昭29)

(7)子規「明治二十九年の俳句界」

(8)中野重治『斎藤茂吉ノート』(昭17)

(9)子規「松羅玉液」

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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米田 利昭

ヨネダ トシアキ
よねだ としあき 評論家 1927・1・6~2000・4・13 東京府北豊島郡滝野川町(現・北区西ヶ原)に生まれる。

国文学者で歌人でもあり、掲載作を、「文学」1973(昭和48)年3月号に初出の頃は、宇都宮大学助教授であった。主に詩歌を通じ周到堅実犀利な論旨で示唆豊かに日本の「近代・現代」を髣髴とさせる論説を多く遺した。遺族からの出稿を得、記憶さるべき論客として「招待」する。

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