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私の万博体験~モノとヒトの出会いのドラマ~

目 次

 人類は地球上に与えられた資源を活用して物を創造した。物は知恵の結晶であり、技術、業の結晶であり、特に古代文明社会から現代に至るまで、無限の発明、発見を通じて物を創造してきた。商品が100年を経過するとそれは「博物」になるという規定がある。しかし例えばダイムラーベンツが開発した、デシプロ型エンジンによる自動車は、100年を越えたいまでも実用化されている。物づくりにこだわり、物を愛して来た人類は、最近では宇宙基地までも製造するに至り、ともすれば素朴な日常生活の必需品を軽視し、経済社会もまた実体経済から離れ、物中心の経済から金融市場だけの経済にややもすれば偏向してしまったきらいがある。我々は再度「物志向」「物の価値」に拘る必要があるだろう。限られた地球上の資源を活用し、有効活用するためにも、この価値意識を増幅させる必要があろう。物は文化という足で歩くことが出来る。人類がその価値を長い間、忘れなかったように。

 序章 博覧会の起源 西洋と日本の原点

  原型としての「ムセイオン」。祭堂から学堂への発展。

 アレキサンダー大王は、家庭教師のアリストテレスの影響を受け、東方世界への関心が強く、広く各地産品の収集に努めた。世界の学術、文化、芸術の港・都市、アレキサンドリアは、都市全体が博覧の会場であり、そこにテーマ館としての「ムセイオン」が設置されていた。現在の「ミュージアム」の原型である。「ムセイオン」の以前は「ムーサイ」(ミューズ)であり、学術、芸術の9人の女神の祭堂だった。ここには、アミューズメントという思想が存在しただろう。これは大きく括れば「知的遊戯」「知的代謝」の都市だったともいえる。

 15世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパにおいて、様々な珍品を集めた博物陳列室があった。それは「驚異の部屋」と呼ばれた。イタリアから端を発して、ドイツ語圏に拡大され、王侯貴族から学者、文人の間でも作られるようになり、その収集は自然、人工に限らず、珍しいものであれば分野を問わず一緒に展示された。まさに古今東西の珍品ショールームであり、分類学が確立する18世紀半ばまで継続された。医学、数学の道具、植物動物関連の標本、文献などに加え、異国の武具、天球儀、地球儀、東洋の陶器などを収集し展示した。

 今日の博物館の前身となったものも多く、大英博物館はハンス・スローン卿の「驚異の部屋」の収集物を基にしたといわれている。

  東洋のダビンチ 平賀源内の“博会”イベント

 我が国では、エレキテルで有名な平賀源内が、全国から植物を中心に江戸に集め、我が国最初の博覧会を開催した。源内は享保13年(1728年)に現在の香川県さぬき市に生まれ、13歳のときには、すでに本草学を学んでいたといわれている。29歳で江戸に入る。宝暦7年(1757年)我が国初の「薬品会」を開催したわけだ。

 源内は合計で5回の開催に係っているが、5回目では自身が主催し「東都薬品会」とネーミングし、1,300種もの物産を集めた。またこのなかから重要と思われる360種を選び出し、分類し、形状、性質、効用、用法、産地などを解説した全6卷から成る「物類品隲」(ぶつるいひんしつ)を著している。源内の考え方は鎖国時代における我が国の自給自足促進、国益増進を目指し、海外に頼らなくても「深山幽谷と尋ねればなきにしもあらず」というわけで、輸入に頼っていたボウショウ、チクセツニンジン、オウレンなどを発見し、また砂糖キビの栽培と砂糖の製造方法を紹介するなどの役割を果たした。杉田玄白は「この男、業は本草家にて、生まれ得て理にさとく、敏才にしてよく人気に叶ひし生まれなりき」と記している。「土用の丑の日」のキャッチコピーを書き、これを定着させたり、魚類図鑑、万歩計、源内焼、測量機、毛織物製造、寒暖計、浄瑠璃、狂言そして金山事業まで手がけた。まさに「物」に徹底して拘った江戸の奇才であった。

  源内から100年 第1回ロンドン万国博開催

 1851年に英国のハイドパークで、第1回ロンドン万国博覧会が開催された。これには25カ国が参加した。ビクトリア女王の時代であり、夫君アルバート公の活躍で開催にこぎつけ、大成功を収めた。水晶宮といわれる奇抜で斬新なテーマ館が作られたことで有名である。我が国が国際博に出展したのは、1867年の第5回パリ万博からであるが、この時は幕府、薩摩藩、佐賀藩の出展であり、正式な日本政府出展は、1873年の第6回ウイーン国際博覧会からである。1867年のパリ博では、浮世絵の出品が、モネ、ゴッホなどに遠近法の手法が斬新で大きな影響をヨーロッパの画壇に与えたりした。また1873年のウイーン博には、名古屋城の金の鯱がわざわざ降ろされ展示物として出品された。

 我が国では第二次大戦が始まる頃の1940年に、紀元2600年を記念した「日本博覧会」が、東京晴海埠頭一帯で開催されるはずであったが中止となった。現在も機能している勝鬨橋はシンボルブリッジとして建設されたものだった。1996年の東京「都市博覧会」も中止になった。どうも東京は2度の開催機会を逸した。

2005年には「愛・地球博」が愛知県で開催されたが、1989年の名古屋市、市制100年記念の「世界デザイン博」の協会、ソフトプロデューサーを担当したこともあり、日本開催の国際博覧会で、初めて観客として見る機会をえた。

 昨年・2008年にはスペイン、サラゴサで国際博が開かれた。最近の博覧会は、閉会後の都市計画をにらみ、計画される傾向が強い。この博覧会も都市計画の一貫であるが、2010年の上海国際博は、入場者が1億人を超えるのではないかといわれている。中国「長江デルタ都市圏」を包含する博覧会として期待されている。

 第1章 戦後日本民族の大移動 共通体験の場・博覧会

 「何かがあるぞ。日本は動くぞ」……そんな予感を感じて人々はやって来た。大混雑しても、肌でなにかを感じ、共通体験したことが、後の日本をつくったのだろう。世界の知性や技術や成果品をいっぱい乗せてやって来た。 

1951年(昭和26年)。小学校6年生のとき、大阪復興博覧会で「テレビ」を見た。

 いまでいう10インチくらいのテレビ。NHKの実験放送で、当時の人気歌手、笠置シヅ子の歌うメロディーに映像が動く。それが何なのかよく分からなかった。「すごい」という感動よりも、混雑で押されて、早く通過しなければならないなかで、目前の機械の意味がわからなかった。しかし自分史のなかで、初めて見たモノクロテレビ映像は、いまでも鮮明に覚えている。

1969年。新聞社をやめて大阪万博に飛び込んだ。時の経済界の大御所、石坂泰三氏、土光敏夫氏が、当時通産官僚だった池口小太郎氏(堺屋太一氏)の提案をのんだイベントであった。電通に依頼され、数々の民間企業出展のための企画書を書いた。電通のスタッフも私も手探りでフォーマットはなかった。これはいま言ってる「企画書」というものを作成した初めての経験だったと思う。“まあ、理想の小説を書けばよい。”……そんな感じで書きはじめた。そのなかに「電力館」があって、テーマは「大陽の狩人」。プロデューサーは小谷正一さん。毎日新聞の記者から、系列の民間放送局最初の開局記念イベントを創られた方。井上靖さんとたしか同期生で、それは作品「黒い蝶」の題材になった。その他「闘牛」などもそうだ。企画書の基本コンセプトを書くためには、本人に会う必要がある。小谷さんに取材を申しいれた。「君か、僕に会いたいと言うのは。ひょっとして、淀野隆三の息子か、なにか関係あるのか?」と開口一番言われた。「息子です」「そうか、ええもん書いてくれや。まかすから」で終わってしまい、ポイと席を立って出てしまわれた。後に「当らん・当り・当る・当る・当れ・当れ……喝采の実証」というその当時のヒットメーカーを取り上げた小谷さんの著書で、取材スタッフをやったが、亡くなるまで交流が続き、多くのものを学ばせていただいた。

 電通がコンペで勝ったなかから、東芝IHI館の広報担当として会場に常勤した。パビリオンは黒川紀章氏の設計。鉄で創造した森であった。石川島播磨造船の油圧の技術を活用し、上下する太いシャフトに支えられた「すり鉢型円形」の500人収容劇場がまるでUFOのように空中に昇り、地上から13mの360度の映像劇場にドッキングした。総合プロデューサーは泉眞也氏。30代の頃だ。後の国際博は同氏と共にやった。映像制作は当時の「岩波映画社」だったが、総合プロデューサーは吉原順平氏。監督・藤久真彦氏。のちに「三神真彦」のペンネームで、この素材を小説にして「太宰治賞」を受賞された。カナダ、ニューヨークなど海外ロケによる映像が挿入された。チームが作成したコンセプトは「希望・光と人間たち」だった。映像制作の基本モチーフも同じコンセプト、テーマにしたがってシナリオが構成された。

  モントリオール博に学ぶ 多様な映像手法の登場

 我が国での国際博覧会開催が決まったとき、ほとんどの人間が博覧会って何なんだ、どうやってつくるの、とその手法がわからなかった。カナダで先に開催された「モントリオール万博」を見学に出かけた。かつてロンドン万博にサムライ姿で見学に出かけたのと、事情の違いは「開催国」になることだけだったろう。モントリオール万博では、各パビリオンが圧倒的に映像が多かった。通産など官僚関係者、出展企業関係者、制作関係者などが個々に同博覧会を視察し、それぞれが「ああ、映像だ」と考えた。かくして大阪万博のとくに民間パビリオンは「映像」を軸に出展作品が構成された。

 カナダ・モントリオール万博が映像博覧会になった理由がある。当時のカナダ政府の文化、産業振興策として映画産業が選定されていた。国家の組織のなかに「映画庁(フイルムボード)」が新設されソフト、ハードの人材養成に力をいれていた。このなかで中核に据えられたのがIMAX(アイマックス)である。使用するフイルムの大きさはとてつもなくでかい。70㎜の15パーフォレーション(フイルムの両端に走る送り穴の数)である。それまでの最高は、ディズニーが開発した「アイワーク」であり、これは70㎜×8パーフォレーションだった。余談であるが、このアイワークという名称はディズニーの良きパートナーであったイブ・アイワーク氏が開発したものである。初期のアニメーションフイルムの開発も彼の手によるものだった。

 大阪万博は、千里ニュータウン開発の一環として、会場が選定された。竹やぶを伐採して、100萬坪という敷地が確保された。道路整備の核は名神高速道路の会場乗り入れのほか、御堂筋から直接アクセス出来る道路と地下鉄が新設された。世界各国が参加した。いわゆるBIE認定の一般博であり、クラス1の指定に従いBIEの加盟国としては出展しなければならなかった。

 テーマは「人類の進歩と調和」だった。アメリカ館、ソビエト館、そして日本館が大型パビリオンとして配置された。アメリカ館の主展示は「月の石」。西口ゲートから、毎朝数万人の来場者がアメリカ館に向かって走った。広い会場の道路はアメリカ館を目指す人々で埋めつくされた。おとなの男性の「拳」くらいの大きさの「月の石ころ」をみるために、開場後十数分も経てば、3重、4重に来場者が列を作った。3時間、4時間待ちが閉館時間まで続いた。

 ようやく「月の石」と対面する。「止まらずに進んでください」の連呼で、10秒ほどしか見ることが出来なかっただろう。表面的には唯の「石ころ」である。「見た」と言うよりは、10秒のために4時間も待つという共通体験に意味があった。

 この石の展示はかなり高い位置にあった。したがって全員が、一斉に見上げたわけだがその当時の観客の表情は誰も輝いていた。月の石を見上げ、凝視する目は真剣そのもだった。

  実物展示に拘ったソ連館 ロシア博品ショールーム

 「北口ゲート」の雄は、ソビエト館である。アメリカ館と同様に来場者は東ゲートから、開門と同時に走った。ソビエト館はアメリカ館とは異なり、当時のソビエト連邦の科学技術、特産品、文化芸術品などの「博品ショールーム」として構成された。

 売店ではあらゆる記念品が売られた。レストランはその当時で1万円のコースで宮廷料理まで注文することが出来た。チャイコフスキーが使った「ピアノ」などの歴史的価値の高い実物展示、それは産業商品までにも及んだが、デパートで商品を見るごとく、来場者は個々の展示を上階から各階を見ながら降りるという具合だった。混雑しているデパートの各階を見て回るようであったが、かなり時間をかけて粘る人が多かった。たとえ素通りしたとしても全館が訴え掛ける「ソビエトの凄さ」は十分に伝わるものだった。私はロシア宗教の男声合唱に魅せられ、会期中に当時のLP盤を数枚買い込んだものだった。

 スイス館はパビリオンのかわりに、電光で輝く1本の「樹木」を出品した。幹から枝までが金属でつくられ、電光で輝く枝や葉がデザインされた。昼間の群衆には、通過点でしかなかった。スイス国出展とは誰も認知しなかったかも知れない。このスイス館の近所に、鉄製の彫刻が協会出品として配置されていた。「大阪のスズメを大砲で撃つ」というタイトルの大型ピストルのような彫刻があった。そのような屋外造形物が最初のトライアルだが、混雑の日には日よけの休憩場であったが、専門家たちにはおおいに刺激される展示手法であった。したがって、大阪万博は「照明のデザインと造形展示」のデビュー空間でもあった。こういった造形や屋外電飾デザインが、万博終了後に、大阪、東京の都市空間に出現した。

 日本の制作者に多くのヒントを与えた前回の開催国だったカナダは政府館に加え、ケベック州、オンタリオ州、ブリティッシュコロンビア州がそれぞれ独自のパビリオンを出展した。カナダ出展の全体に受けたイメージは「ウッディー」感覚だった。カナダ政府館は、四方がスクエアーな木造で形成され、中央が広場であったが、日本でいう「大きなコマ」のような傘型のシンボルが配せられていた。四方を取り囲む木造の広場サイドをミラーで囲み、そのシンボルが大きく、遠く幾重にも連続して写りこみ、万華鏡のような美しさを見せた。このようにカナダは政府館に加え3州が独立したパビリオンを出展し、各州の特色を表現していた。

 私が担当した東芝IHI館に最も近かったのは、ブリティッシュコロンビア館だったが、このパビリオンは外観が数本の巨大な生木を持ち込み形成されていた。まるでカナダ杉が会場にそびえ立つ迫力があった。

 偶然であったが、岩波映画が撮影した3人の若者、総持寺の若い修行僧侶、ニューヨークでジャズ奏者として成功を夢みるトランぺッター、そしてカナダをヒッチハイクする日本の女性という3面ずつの若者の生き様を描いたなかで、カナダをヒッチハイクしていた女性が、なんとブリティッシュコロンビア(BC)館の儀典係として勤務していた。開幕前の多忙な時だったが、偶然BC館を訪問する機会があった。「どこかで会いました?」となんとなく聞いてしまった。彼女は「実はお宅の映画に登場しています」という。私は当時会期中は広報担当だった。早速記者内見会の前日に、朝日新聞の友人記者にこっそりとこの話をした。「自分とご対面!おもろいやないか。やろう!」ということで当人を呼び、スクリーンの自分と対面する本人の姿が本版の社会面を飾った。5段抜きの大きな記事として報道してくれた。産経のかつての仲間に、特落ちさせることは出来ない。その事情を話し、ギリギリ朝刊に間に合わせる時間に、万博ページに掲載してもらった。

  西高東低の人気館 マスコミ連の前評判

 記者プレビューが終わると、開会式である。日本の各界超一流の人が招待された。川端康成ご夫妻も出席された。当時の佐藤栄作首相とは、鎌倉で山ひとつ隔てた“隣人同士”の関係で、特に夫人同士で仲良くされていた関係もあったし、協会事務局長が今日出海さんだった。雨が降り始めるなかを協会来賓室で、今さんと同席の川端さんを捉まえた。そして強引にパビリオンにお連れした。当時小さな電気自動車が協会で用意されていた。今さんは父・隆三の同級生であり、父・隆三の臨終真近に牧師さんを連れて病室に来られ「ボンボヤージュ」とお互いに声を掛け合ってくださった仲だった。父は牧師さんが病床に現れ、ミサを受けたわけで驚いていたが……。

 その前は今さんが文化庁長官時代に、川端さんのノーベル文学賞受賞時に、私は特派員で随行し、今さんともストックホルムで会っていた。「君は水野(当時産経の社長、水野茂夫氏)のとこをやめたの」とちょっと驚かれたようだった。

 大阪万博の参加国、機関は76。そして日本館、日本企業クループ、単独パビリオンで32企業が参加した。各国館では前述したように、アメリカ館が西口に、ソビエト館が北口に、そして日本館が東口に配置された。

 記者の内見会がひととおり終了した時点では、各マスコミは「西高東低の万博」という表現を使った。しかし開幕してみると、東口の「三菱未来館」が来場者の間で人気館となった。三菱未来館は、動く歩道に立って、天井から左右側面におおわれるような展示を見て行くというものだった。

 専門用語では「ところてん式パビリオン」と表現していたが、大混雑で平均で、3時間待ちなどというパビリオンに比較して、来場者の流れはスムーズであった。最近では珍しくない「動く歩道」が、当時としては画期的であったことも重なって、「待つ」「歩く」ことに草臥れた来場者が、せめて一館でも見て帰りたいという願望をかなえてくれる、比較的待ち時間のすくないハケのよいパビリオンであった。内容も未来の夢が模型や映像で描かれ、次々と目の前に現れてくる。そういった条件が重なり、日本企業出展のパビリオンでは一躍有名になった。

 この三菱未来館の成功は、その後の博覧会の形式に大きな影響を与えた。博覧会を設計・計画し展示手法を考慮するためのノウハウは、70年代の日本にはそのエキスパートは存在しなかった。前述したとおりモントリオール万博に学んだ日本企業の制作陣は「映像」展示に印象付けられ帰国したといえる。この映像手法は「バッジ方式」といわれ、いうなれば来場者の「袋づめ」であった。具体的にいえば、上映時間13分の長さで、劇場に誘導し、1回上映で500人の観客に見てもらうとなると1時間に4回転。2,000人の来場者となる。1日に13時間として26,000人が見てくれる。26,000人×183日間で、475万8,000人である。これは私が担当した、東芝IHI館の実際のケースである。この場合は、全会期中の会場入場者数の10%という計算である。日本企業の出展では、このバッジ方式が多かった。代表的なもので、東芝IHI館、電力館、鉄鋼館、ふじ館、みどり館。

 ところが博覧会では“先進国”の欧米諸国館では、どちらかといえば「ところてん式」動線を重視していた。典型は「英国館」であろう。いかなる内容のショーであろうと、1時間に1,800人に来場してもらい満足な情報を与えるためには、2分間で60人ずつに情報に接してもらう必要がある、という計算をした。そこで採用されたのが、「マルチ情報提供」である。32台のプロジェクターを使い16のスクリーンに英国の文化、芸術、建築、生活などの紹介を2分間隔で見せる。大阪万博では、これをじっくり見るには、観客は忙し過ぎた。しかしマルチ映像との出会いにすべての日本人は驚いた。

 スカンジナビア館はこのスライドプロジェクター技術をフルに活用し、公害問題に真正面から取り組んだパビリオンだった。来場者は入り口で「紙のスクリーン」を渡される。その手に持ったスクリーンで、天井から投射される映像を受けて進む。中央から右がマイナスの世界、左がプラスの世界だった。公害に対する警告や生活のあり方が映像や文字で投射された。これも大阪万博のお客には「奇異」であり「面白くない」ものだった。殆どの来館者が素通りした。仲の良いスカンジナビア館の広報官からある日相談を受けた。

「みんな素通りしてしまう。どうすれば良いだろう?」「そうだね出口の扉を閉めて中で滞在させるようにしたら……」とアイデアを出した。数日後に電話があり「駄目だ!今度はみんな出口の前に集まり出口が開くのを待っている…」これには私も絶句してしまった。

  平和社会の共通体験 会場参加で大きな価値

 「人類の進歩と調和」をテーマにして、来場者は「多くのパビリオンを見る」「待つのはいや」「こ難しいのはいや」「スタンプ押せば見た証し」というわけで、その当時の日本全体の感性で「ただ前へ進む」というエネルギーの渦巻きにすべてが飲み込まれた感があった。アメリカ館、ソビエト館、フランス館、英国館、イタリア館、チェコ館はそれぞれバッジ方式ではなく「動線に沿って映像や展示を見ながら進む」形式であった。

 ただアメリカ館のように「月の石」という所を数秒間で通過するために、6時間待ちと言った異常なる混雑が生じたといえる。「月の石」の前を通過すれば、あとは「なにも覚えていない」見方が殆どだったろう。しかし万博で「待って、待って月の石を見た」という共通体験は、日本人にとって大きな財産であったろう。平和の共通体験は、大阪万博が日本人に提供した、最初の「知的財産」だったと信じている。

 日本企業のパビリオンで、その他記憶しているのは、松下館の日本庭園を配した数寄屋造りの日本式建築のパビリオン。それにタイムカプセルが埋められた。サンヨー館では「カプセル風呂」が展示された。水着の女性がそのお風呂に入るのが、外から見えて、自動洗濯機のように体を洗っていた。水着姿のファッションショーを、市民が見たのは初めてではなかったか?これだけで隠れた人気館だったのかも知れない。ワコールはこれまであまり知名度のない企業だった。パビリオンのなかで結婚式を支援した。司会はターキー(水の江瀧子)と略称で呼ばれた人気女優だった。松竹少女歌劇団では男役として、一時代を築いた人だった。会期が終了に向かうと、万博内の“職場結婚”が目立った。コンパニオンで結婚式を擧げる勇敢な女性もいた。

 ところでコンパニオンは結婚が決まると、会期中に相手の男性から「コンパニオンを辞めろ!」といわれることが現象として目立った。その訳は「自分の妻になる女性が、大衆の前にさらし者になってるのが耐えられない」というものだった。抜け落ちることは、パビリオンを運営するものにとっては、戦々恐々の出来事だった。

 女性文化産業として、現在は確たる地位にあるワコールが、大阪万博から“起業”したようであり、女性の地位と女性文化の急速な発展を痛感させられる象徴的な参加だったといえる。

 来場者数6,400万を単純に183日間で割ると、1日あたり約35万人の入場となる。しかし私の記憶では1日あたり80万台の日が数日続いた。会場はどこに行っても、人が波をつくり、道路脇では多くの人が居眠りしていた。食堂は人であふれ、人工池の周辺は足を水につける人でごった返した。それでも黙ってお目当てのパビリオンの周辺を待ち行列が何重にも取り囲んだ。

 来場者のなかで最もエネルギッシュだったのは「農協さん」と命名された地方の農業就業者たちの団体だった。同じ色と柄の帽子をかぶり、まるで武者軍団旗のようなでかい旗印を先頭に、3列縦隊が動く。その群団は全体でひとりだった。ムカデの行進のように、その群団が交差し、また堂々と移動する。日本人の持つすさまじいエネルギーを感じさせた。全国各農協では、たとえば数年前から「旅行積み立て」が始められたように、万博見学を企画した農協が多かったようだ。これこそ後の「旅パック」の原型だろう。

 パビリオンは見られなかったが、外国館のコンパニオンがサインをしてくれた、ハローと声をかけてくれた、それだけで万博に行って良かった!という報告を読んだことがあった。農業の衰退と地方格差で悩む日本の現状を最も悲しんでいるのは、この万博に参加してくれた「農協さん」だといえるだろう。

 一方ではハンディキャップに悩む人々が、公然と市民と共通の参加の場を持った大イベントだった。各パビリオンとも受け入れでは万全の体勢を整えた。特別動線の設置から特別ゾーンの設定などで、その対応に懸命だった。

 運営サイドからいえば、この万博で定着したのが「警備会社」であり、警官ではない特別な「警備員」の登場であろう。お揃いの制服がどこか警官と似ていて、私にとっても初体験であり、どのように対応すれば良いのか困惑したものだった。

 会場の混雑は会期前の計画を見事に裏切るものだった。たとえばサイン計画である。大阪万博用のピクトグラムが作成された。典型的だったのは「トイレのサイン」。開会前にはこのサインは美しく、中で働くものには機能してくれた。しかしあらゆるサインは目立たず、大衆のなかに埋没した。結局は「トイレ」とか「手洗い」とか、手書きで大書されたサインがべたべたと張り出され、それが大きな役割りを果たしたということが、いま考えるとなぜか痛快でもあった。

 これは最近の博覧会でも大きなイベントをやる会場などでも、同じ現象を繰り返している。またそれにトイレでいえば、いまでも日本の公共施設では、どうも女性トイレが少ないようだ。女性の生理、心理というものがデザインされていないのか、男性設計者が多いからだろうか。

  NHK「現代の映像」 主人公として出演

 会期がそろそろ終わりに近づいたころのことだ。NHKの記者の取材を受けた。「あなたにとって、博覧会は何でしたか?」…この質問には参った。複雑骨折している患者に「骨折とは何か?」と聞かれたようなものだ。私は思わず「玉屋、鍵屋で見事に散って行った現代の花火だったのでしょう。ただその残像を、如何に我々は未来に受け繋いで行くか?ということでしょう」と禪問答のような答えをした。その日はあとは雑談をして終わった。

 翌日その記者(松井さんと言った)が再度現れた。そして「現代の映像」という番組の担当で、昨日の話を軸に30分番組の主人公で出演して欲しい……名刺には社会部記者とあったが、有名番組制作ディレクターであった。

 当時の「現代の映像」はNHKのなかでは有名ドキュメント番組で、ちょっと斜眼に構えて世相を斬るようなところがあった。えらいことになった。「じゃあ、私が基本シナリオをつくります。それをベースにやらせてくれるなら」と言ってしまった。その結果「花火の残像」という事で基本構成を書いた。当時ビデオカメラはなかった。撮影はアイモのフイルムカメラを廻し、録音は別撮りだった。

 撮影では、たとえば西口ゲートから、パビリオンに出勤する私を撮影するために、数百メートル離れたフランス館前から「歩け」という指示がくだる。ハンディカムなども無いから、手旗信号みたいな合図で歩き始める。「三和みどり館」の全天全周映画のなかに「花火」のシーンがあった。冒頭ではそれが活用された。わたしの大好きな農協さんにも取材が飛んでくれた。農地のなかでお百姓さんが思い出を語ってくれた。この番組は映像アーカイブとして、名古屋NHKで「愛・地球博」開幕前に再放送され、名古屋NHKからCDを頂戴した。

 閉幕し各パビリオンの取り壊しが始まったなかを、1シーンの撮影のために歩いた。早朝にアメリカ館を目指して走ってくる数十列の大群衆を黙って受けとめた西口からの大きな道路も、私一人しか歩いていなかった。

 しばらく歩くと道路で二人の若者が、キャッチボールをしていた。わずか閉幕1週間ほどで、これほど会場が空間として変貌したのに驚いた。イタリア館のあのスキップ構造の美しい外壁が、がんがんと音を立てて崩れ落ちていた。万博条例では、閉会後の取り壊しが、義務づけられていた。観客のいない会場に、実体が存在してはならない。建物もそれを承知であるかのような風景だった。見てはならないのか。来てはならないのか……と真剣に感じたものだった。万博会場も巨大な都市空間である。ただ都市と圧倒的に異なるのは、万博会場には「住む人がいない」ことだ。それに気がついたとき、ここはやはり「残像だけを残す幻影の都市」だった、と言い聞かせながら歩いた。

 開幕前の準備段階。あらゆる職業が担当別に集まって、一つの目的に向かって、開幕を秒読みしながら、それぞれが仕事をしていた。制作者の博覧会は会場での「最後の仕上げ」の段階で、実際には終わっていたのだと思う。しかしこの時期は楽しかった。開幕前のレストランは、西口ではチェコ館が営業していた。そこに建築家、映画製作者、プロデューサー、コンパニオン、現場担当の展示作業、電気工事の人…外国人、日本人…みんながここで昼食を食べた。誰かがチェコ人のウエイターに「チョイ待ち!」を教えたらしい。急いでオーダーをしようと呼ぶと「チョイ待ち!」が返って来た。なつかしい思い出であると同時に、我々制作者は開幕の瞬間に最終走者の観客にバトンを渡して、本来の役割りは終わっていたのだろう。

 ただこれだけの会場をつくり、長い時間をかけ「発酵」させたエキスが、183日間で消え去っていくことがなぜか虚しく、日本伝統の「瞬間芸術」としての「花火」と割り切ってみたが、その知的余剰を自分化するには、しばらく時間が掛りそうだ、と感じたものだった。チェコ館は閉幕後に、展示した彫刻や絵画を中心に、オークションを開いた。かなりの高額で売れたらしい。それを聞いてなぜかほっとした。

 最近の国際博覧会は、後利用という計画まで含めて設計されている。閉幕後にそこに新しい都市が誕生する。

  「IMAX」との出逢い その後3作品をプロデュース

 巨大映像「IMAX」の制作は、一度は体験してみたい映像システムであった。機会あるごとに映像制作案として、IMAXを提案したが制作費、劇場設置費が高く、なかなかその機会が得られなかった。

 私は中部電力の浜岡原子力科学館のなかで、OMNIMAX採用の最初の機会に恵まれた。OMNIMAXは円形ドーム型の劇場で上映される。そして撮影、映写方式もIMAXシステムが使え、平面型巨大スクリーンでも上映が出来た。

 撮影したのは「ビーバー家族の詩」=約28分=だった。コンセプトは「ダムを創る自然界のエンジニア、ビーバーを、中部電力は尊敬し、見習いたい」ということを訴えようとした。この採用に当たっては中部電力の理解とIMAX社=本社カナダ=の映像制作担当副社長、ローマン・クロイター氏の指導を受けた。

 監督はスチーブ・ロウ氏で、親子でIMAXに取り付かれた情熱家だった。私はカナダ・バンクーバーに、博覧会制作準備で張り付いていたローマンに会いに行った。1986年のバンクーバー国際博覧会「交通博」の開幕直前の頃だ。英語で話す時は、こちらから一方的にまず“言いたいこと”を一気に話しまくる戦法を取る。突然に話題と関係のない質問など、相手に先手を取られると心理的に負けてしまう……という思い込みがその頃は働いていたのだ。

 「小学の時代にディズニー制作のビーバーがダムを造る映画を見た。最近ではそういう子供の好奇心をそそる映画がない。IMAXという巨大精彩画像、高性能音響システムで制作をしたい。

 1985年のつくば「国際科学技術博覧会」のサントリー館で「スカイワード」=カナディアン・ギースが主人公の自然映像=を見た。あの映像のような世界をビーバーで描きたい。ついてはその時の監督だったスチーブ・ロウ氏に監督就任を打診して欲しい」……と言ったことを、私はしゃべりまくった。ローマンは黙って聞いていて、「分かった」と言って立ち上がった。そして電話機に手を伸ばし、スチーブに直接電話を始めた。携帯電話がまだ普及していない時代だ。ローマンはかなり長い電話をしてくれた。モントリオールにいるスチーブ。時差が3時間有るはずだ。そんなことをフト思った記憶がある。ローマンは電話を切ってこう言った。「スチーブは興味深いと言っている。スチーブにからだを空けてここへ来させることにしました。明日には到着するでしょう。基本的には私も大賛成だ。ぜひ素晴らしい映像を制作しましょう」。ローマンがIMAX社を代表して「監修プロデューサー」(associateproducer)に就任してくれることなど、制作期間中の映像撮影機材のリースが可能なのかのチェックなど、その後も精力的に動いてくれた。

 初めて出合ったスチーブは、いまで言えば、あの韓国の俳優・“ヨン様”をそのまま大きくしたような、どちらかといえば我々東洋人に近い雰囲気があった。最初の出逢いの強烈な思い出は、彼が到着した翌朝に、ホテルレストランで打ち合わせを始めていた時のことだ。ホテル前の教会が騒がしい。ウエイターにスチーブが聞いた。英国・チャールズ皇太子と当時のダイアナ妃が教会に来られるというわけだ。博覧会の開会式にご出席のために滞在されていたのだ。お互いに“仕事が優先!”のような態度で話しを続けていたが、野次馬であってもやはり一目見たいという感情が沸いて来る。しかしローマンもスチーブも言わない、私も言わない。しかし会話がうわずっている。「ちょっと休憩しませんか」と切り出した。ローマンがにやりと笑った。3人が一目散にホテルを出て待ち受ける群衆のなかに紛れ込んだ。

 人間の心理は年齢、国境を越えてどこも同じだ。あとで仲良くなってからスチーブは、思い出話しとして、制作スタッフにこのエピソードを話した。いわゆるインテリと自称する者が、会議をやめて“拝謁”に行こう!と言い出せなかった心理ということをスタッフに話し、ヨドノが「休憩を取ろうと」言ってくれて、「このヨドノとは仲良く行けると思った」と言った説明を付け加えた。たしかにその共通体験のあとは、3人の関係がはるかに良くなったのだった。

 カナナスキスのカナディアン・ロッキーの麓の国立公園内に、スチーブが、巨大ビーバーダムを発見した。全長で100mを越えていた。そこに飼いならされたビーバーを数匹放ち、数週間の訓練で、すでに住んでいたビーバーと棲み分けが成功した。池のそばにある白樺の木を鋭い歯で切り倒し、池に運び入れダムを造っていくビーバーに驚きを感じながら撮影を続けた。

 浜岡の原子力科学館ではいまだに上映されている。最近DVDで売り出した。アマゾンネットなどが扱っている。

 第2回目の制作は、世界デザイン博覧会(1989年)のNTTパビリオンで公開するために、アイマックス方式で、アメリカスカップのアメリカとニュージーランドの一騎打ち戦をサンディエゴ湾で撮影した。第27回のアメリカスカップであったが、前回のレースでアメリカチームにルール違反があったことをニュージーランドが、ニューヨーク法廷に訴えた。その判決は「海の上のいざこざは、男らしく海の上で決着をつけるべし」という粋なものだった。

 ニュージーランドは全長で133フィートの超大型ヨットを建造した。これに対してアメリカは全長60フィートのカタマラン(双胴船)で迎え撃った。

 レースの結果はアメリカの圧勝だった。スタートの時点からNZは離され、双方が競り合うシーンは撮影出来なかった。シーンの殆どは空撮でそれぞれの艇を追いかけた。ハワイマウイ島での「世界ウィンドサーフィン選手権」の撮影、ラスべガス郊外でのランドヨット大会のシーンを加えて、映像のテーマである「風との戦い」(Racing theWind)を描き、名古屋デザイン博のなかで高い評価を受けた。会期後は、世界のIMAXシアターで上映された。この時の監督は撮影ともにグレグ・マキュバリーであった。事務所は故大森実氏が住んでおられたラグナビーチであり、ロス空港から通うのには遠くて閉口した。

 その後、1992年だったかに、私は私用でラスべガスのシーザースパレス・ホテル内のオムニマックス・シアターに入場する機会があった。偶然であったが「ビーバー」「風との戦い」を2本建てで上映していた。この奇遇には驚いた。海外の上映権はスチーブ・ロウが保有していた関係で、詳しい上映スケジュールは聞いてなかったわけで、自分のタイトルの入った映像を観客として見るのはなんとなく恥ずかしく、観客の反応がやはり気になった。同シアターマネージャは「観客に紹介したい」と提言してくれたが、固辞をし、冷や汗をかく思いで、自分の作品と海外初の再会をしたのだった。このシアターは、同ホテルの大改造で数年前に姿を消した。

 第3回目の制作は、長野県主催の信州博覧会「長野県館」で、アイマックス映画を制作した。タイトルは「アルプスシンフォニー」とし、長野県の自然、文化、産業、祭りなどを全県取材、撮影をし、25分のフイルムとして完成させた。長野県は海に面していない数少ない県のひとつであるが、日本列島誕生の時に、最初に海底から隆起した場所でもあった。つまり「信州はかつて海だった。」

 日本アルプスの壮大な姿はそれを実証しているものであった。その自然が創造するイメージは、カナダのロッキー山脈の雄大さに重なるものがあった。自然はどこを撮影しても美しく、雄大であり、またそこに住む人々は自然のなかに溶け込み生活の営みが完成されていた。諏訪神社の御柱祭では、奉納のために切り出した樹を運ぶ神事は感動的だった。急斜面で大木を転がし、運ぶ人々の姿を、アイマックスは感動的に捉えた。

 制作チームは、電通テックであったが、カメラワーク、編集、音楽(久石 譲氏)ともにアイマックスの特徴を巧く引き出してくれた。シアトルのパシフィックサイエンスセンターでの「世界IMAX FESTIVAL」に出品し金賞を得る事が出来た。

 アイマックスの撮影は、1,000フィートのフイルムが入ったマガジンを活用する。時間にしてわずか3分である。しかもワンフレームの大きさがわかっているだけに、カメラマンの苦労は十分に察しられた。予算が無尽蔵にあるわけでない。「ドル札が回っているような緊張がある」とビーバーのカメラマン、アンディー・カザニックが冗談とも思えない真面目な顔で言い切ったことをいまだに覚えている。

 上海でどこかのパビリオンが、この映像方式をぜひ採用して欲しいものだ。上海政府としては、この博覧会が終了したあとの都市開発計画が、すでに出来あがっている。まさに博覧会が終わったあとに、新しいBetter City, BetterLifeを世界の人々に指し示す理想の都市が築かれるだろう。そのとき上海は新しい上海になるだろうと確信している。

 第2章 沖縄返還記念 海洋型博覧会の開催

 沖縄でBIE認定の「特別博」として「沖縄国際海洋博覧会(EXPO’75)」が1975年に開催された。この博覧会の意味は、沖縄県民にとっては、アメリカの統治から完全に離れ「沖縄県」になった大きな象徴であった。

 オイルショックに見舞われ開催日が当初より大幅に遅れたが、「海洋国日本」を世界各国と認定し合う国際的「海の祭典」でもあった。

  綱渡りの作業 奇跡的なBIE認可

 沖縄の祖国復帰は、1972年の5月15日だった。同年の2月1日には「財団法人沖縄国際海洋博覧会協会」が設立されていたが、開会を1975年3月とするのが当初の計画だった。開催まで3年しかなかった。

 BIEから承認を受けるためには、1972年5月に開催される理事会で承認を受ける必要があった。大阪万博時では、3年前には、千里丘陵で起工式が行われていた時期である。2月29日に、沖縄政府行政首席名をもって閣議決定がなされた。その基本構想は、会場「本部半島周辺」、会場面積100ha、会期は1975年の3月2日~8月31日と決定した。テーマは「海−その望ましい未来」。これらの内容で、1972年の5月25日のBIE理事会に提出され、特別博として承認された。“期限までに間に合わせる”ことはまさに日本人特有の才能というべきだろう。

 事業計画委員会によって、海洋博の基本構想がまとまったのは、1972年の6月だった。それを受けて、会場計画委員会で、マスタープランである会場基本計画が急ピッチで作成された。会場中央にあたる本部半島突端の「夕陽の広場」で起工式が行われたのは開幕2年前の1973年3月2日のことだった。会場全体は、魚のクラスター、民族・歴史のクラスター、科学・技術のクラスター、船のクラスターでゾーニングされた。クラスターとは葡萄のフサのこと。全体は繋がっているが、フサごとにまとまった果実をつけている。

  魚のクラスター 海洋生物園のチームに参加

 1973年の4月だったか、槙文彦総合設計事務所から電話を受けた。高名な築築家の事務所からの電話。企画屋というよりは、全体のまとめと、協会に提出する文章作成のような仕事と思えた。大阪万博以来、あまり博覧会に興味はなかった。しかし長電話で色々質問してみると、槙文彦氏の事務所は、ハード、ソフト、運営を一貫して企画推進されることがわかった。しかも政府館である。これは画期的な発注形態だ。

 数日後に槙事務所で、担当の渋谷盛和氏と面談した。後にわかったのだが京都市立伏見高校から東大の建築に入ったエリートだった。私は隣の学区の京都府立桃山高校の卒業だった。渋谷氏は槙先生のスタッフらしく、知的さ、ダンディーさを持っていて、滅多に関西弁は使わなかった。数年後に独立し、前章の「アイマックスとの出逢い」の紹介ページで書いた中部電力浜岡原子力科学館の設計を依頼した。若くしてガンで死去された。惜しい人材である。いまごろ天国で世界各国の新しい建築を俯瞰しているだろう。

 その渋谷氏は度々「黒潮の海を切り取って持ってくる」という表現を使った。つまり屋内では世界最大の大水槽による水族館の完成なんだと力説した。大水槽は12×26×3.5mだった。水量約1,150t。ちょうど深さ3.5mの25mプールを側面から見るのだと感じた。ここに120種類、8,000匹が遊泳する。「いやこれは大変だ。」魚釣りもしたことなく、御馳走になるだけの関係だ。

 プロデューサー会議には「お魚(プロデューサー)」が出席された。大水槽の魚群には上野水族館館長の杉浦宏氏。あとで触れるイルカ、ジュゴンに関しては鴨川シーワールドの鳥羽山照夫氏が担当された。かくしてこの海洋生物園の課題はかなり明快だった。総合Pは槙文彦氏、展示Pは泉眞也氏と“生き物P”の共生作業だった。

 魚たちが棲む水槽の水圧をガードする大水槽はガラスか新素材か、魚たちの毎日の食事はいかなる“犠牲魚”で、どの程度を大水槽に放魚するのか。その調達と備蓄基地は……。私が最も興味を持ったのは、大水槽で起こるだろう“食べ合い”のイメージであり、それは「食物連鎖」について基本を学ぶことだった。

  ポストモダニズムの雄 その国際的尖兵

 「魚クラスター」全体の配置計画、そのなかに海洋生物園を配置しデザインする。政府からの与件は、植生として原植生を保存し、伊勢島、備瀬崎を望む海への眺望を重視する。観客に対する日陰の確保は言うまでもなかった。

 槙文彦氏のデザインは、極めて上品で、柔らかい。一見弱そうに見えるが全体的にはフォルムとしての美しさを保ちながら、時には強さを感じさせた。

 ポストモダニズムという運動は、一種の芸術革新運動であった。それは思想的哲学的なものから発展して、建築界にも及んだものといえる。1980年代の我が国での建設ブームの時には、有名な日本の建築家がトライした思想でもあった。しかし、この「ポストモダン」という考え方は、いうなれば「近代主義のあと」と概念づけされているだけで、作者自身が「これポストモダンです」と宣言すれば、批判することはできない曖昧な思想だったといえる。

 槙文彦氏のデザインを見ていると、その建築された作品の「機能の意味と役割」がシンプルに伝わる、利用者側からは、安全で便利に使えることなんだろうと理解した。1980年代にアメリカのリゾート開発などで、パステルカラーでなにかロココ調を想起させる建築を見ると「なぜこうなったの?」という意味と必然性を感じさせないものがやたら目立った。

 海洋生物園は、アーチ状のフォルムが全体の基本となり、フォロニックなアンサンブルを奏でた。色調のレンガ色は、回廊通路などにも統一された。

 ところで、21世紀、現在の都市空間のなかにも、ポストモダンをコンセプトにデザインされた建築作品は残っている。しかし最近の東京を中心とした都心での高層ビルなどは、CGデザインによって、かなり画一した作品が多いようだ。外装の色もメタリックで、同じような画一的なビルが乱立している。なんら思想を持たない高層ビルでは、結局はその建築物の価値と存在証明は、すべての利用者の「利用と満足」によって決定されるのだろう。そういった視点からも、かつてのポストモダン主義時代の作品には、まだ建築家の創造表現が前面に押し出されていた感じを受け、利用者も新しい何かを感じることが出来たのだ。

  黒潮魚のドラマ 大水槽の住処に泳ぐ

 エントランスホールは、サンゴの海、深層の海の小水槽が展示された。問題は25mプールに匹敵する7,000匹の“魚の棲み処”の技術的、演出的、生理的完成であった。大水槽に棲む魚たちに、餌を供給する。これは生理的な処理である。水槽のなかで“食い合い”がある。大きな魚は小さな魚を食べる。また棲む環境を黒潮の海と同じく、水温を22~28度に保ってやる必要がある。すべてが上野水族館を超えるものだった。特に各種の魚たちの安定した共生の姿が、特に私にはイメージが沸かなかった。方々の水族館の見学もしたが、演出については、舞台照明のように、例えば「エイ」などをピンスポットによって、照らし出す必要があるか、群游魚を照明で追いかける必要があるか。展示Pの泉眞也氏が、喧々諤々やっていたある日に、静かに「なにもやらないほうがいいでしょうね」とぽつんとつぶやいた。それが「大正解」だった。「黒潮の海を切り取ってくる」……という表現が、私にはいかにも建築家らしく思えた。“山を切り取って”は当たり前の表現である。しかしこの表現は聴覚を刺激した感じがした。

 海流はグリーンランドを起点にして、2000年かけて地球を1周するらしい。その海流の流れが激しいところと、ゆったりと流れる場所がある。ハワイ近辺はその流れがゆるやかで、海洋学者は、地層ならぬ海層を調べる。最近流行の「深層水」などというのは、静止して動かない部分の深層海流からくみ上げたものなのだろうか。

 海流に乗って移動する魚、ある固定された場所で海流に影響されずに棲む魚たち。大水槽をじっと見つめていると、まるで都市社会の人々の棲み分けと移動の変化を思い起こさせた。海流の2000年のドラマのなかに「黒潮」がある。そのわずかではあるが“切り取った”という意識は、やはり「魚たちの棲み方」を切り取った。それは都市社会に棲む我々の棲み方、食べ方、動き方のアナロジーだったのだ……と結論づけられそうだ。

 イルカスタディオや沖ちゃん劇場のイルカたちが、調教師と慣れ親しみ対話をして行くのも素晴らしい「共生」だった。沖縄でイルカに出会い、それに刺激され、カナダでビーバーの映画を制作した。双方とも知的な姿、行動、表情に出会った。イルカはかつて「陸」に棲んだことがあった。しかし海に帰ったのだ。何故だろうか?

  前田GPP事務局への参加 4つのミッションの完遂

 NHKの会長に3期9年在任し貢献された前田義徳氏が、1974年1月沖縄国際海洋博のゼネラルプランニングプロデューサー(GPPと略称)に就任されることになった。GPPには主催国日本政府と政府から運営実施を委託された海洋博協会との間の意思疎通を図り、海洋博の計画、建設準備、実施運営を円滑ならしむる総合プロデューサーの機能が期待された。この権限を担保するため、前田氏は通産省(国際博担当)、外務省(海外出展担当)、科学技術庁(海洋開発科学技術、産業担当)の3省庁から特別顧問就任要請を受託された。

 GPPのミッションおよび遂行状況は、大要次のように整理することができる。

 まず、第一には会場建設の促進である。

 前年の73年世界を震撼させた第一次オイルショックにより、日本でも諸物価が高騰し、海洋博の建設の当初の予定価格では応札が見込まれた事業者が逡巡したため、会場建設の着手が停滞した。そこで政府予算を増額することで、建設実施を促進することであった。前田氏は着任後直ちに日本政府トップ(首相)との折衝により、予算の増額を果たし、最大の出展者である日本政府の出展パビリオンはもとより、会場内インフラおよび会場へのアクセス関係施設の日本政府担当部分についても、入札が成立し、会場全体の建設に弾みが付いた。

 第二には、外国政府への出展勧奨である。

 海洋博は先述したように、沖縄県の本土復帰を記念して着眼された主旨から、沖縄県民のために文化施設を含む社会基盤を整備することが画されたこともあって、計画当初から出展者は日本政府が重きをおき、これに協賛する主旨で“国内大手企業グループ”が出展することが、早くから決まっていたが、国際博であるためには多数の外国政府、外国企業からの出展参加が不可欠であるにもかかわらず、これが思うように進展しなかった。前田氏は“海外出展特命大使”の役割を担って、中東への使節団派遣、中南米諸国駐日大使への勧奨、南北アメリカ諸国への勧奨キャラバンなどを行った。これにより結果的には40カ国・機関の出展参加が実現した。出展参加はパビリオン出展はもちろん、各国の海洋にまつわる伝統行事や芸能の実施、各国ナショナルデーの実施、各国保有の帆船等の船の来場も決定した。帆船の中では開会式に合わせて、大型帆船が来場した。チリからのエスメラルダ、コロンビアからグロリアなどである。

 第三には、会場計画は高山英華氏をヘッドとする会場計画委員会で完成していたが、運営全般、行催事全般、政府出展館内容調整、開会式、ナショナルデー、閉会式を含む式典全般、その他会期中のVIP及び出展国からの来賓儀典など、いわば最後の詰めの部分への総合調整である。教育者として日本国民に、また誠実な研究者として沖縄県民に信頼の篤い、大浜信泉海洋博協会会長(閉会直後に病死された)の補佐役であったともいえる。

 前田氏は運営計画委員会を主宰して、最後のつめを精力的に行った。公式行事として開会式、各国ナショナルデー、日本のナショナルデー「日本の日」、「沖縄県の日」、日本各都道府県が派遣した各地域の伝統催事「日本の祭り」などが円滑に行われるようにした。

また、海に関する文化事業として国際シンポジウム「海に平和を」「総討論――海」、海洋文化講演会、お魚博士による講義などもあった。さらに、政府出展館における各種催し物にもプランの段階から各パビリオンに協力した。

 第四には、海洋博終了後の利活用への対応を支援することである。海洋博は日本が、沖縄が、“海を通じて世界が一つになる”ことを目指したものであり、このいわば理想郷は、何らかの形で沖縄に残したいと日本政府および海洋博関係者は考えていた。前田氏も同様であり、GPPの立場から、これの実現に努力された。海洋博終了後、会場跡地は日本で4番目の国営公園に収まって、かなり手厚い国策によって世界に誇れる記念公園に日々成長を続けている。政府出展では、海洋文化館は完全に存続し、海洋公園は亜熱帯の植物をさらに充実させ、一大展示・研究センターとなり、水族館は世界一の水槽を具備した「ちゅらうみ水族館」に生まれ変わっている。海洋博では「初めに後利用ありき」が理念とされていたが、それが見事に実現された。

  博覧会に命を賭けた男 故・荒山柑氏

 以下は、前田GPPをサポートした部隊にまつわるエピソードである。

この事務所の運営を電通に依頼され、電通はこれを受託し、当時営業総務局長だった豊田年郎氏ほか水島太蔵氏など数人が出向された。

 私は海洋生物園の企画作業が一段落し、実作業が実施チームに移行していた関係で、豊田氏からの参加要請を受託した。当時の博覧会事務局のスタッフや性格、人的な繋がりは海洋生物園の作業報告のために、足しげく協会に日参していたことで熟知していた。当時協会には、荒山柑氏(故人)という極めて優秀な企画調整室長がいた。政府館の連絡担当は海洋文化館、アクアポリスともに絶えず報告書の不備を指摘された。そのことでも有名な室長でもあった。我々は“アラ柑”と呼んだ。

「豊田さん、このアラ柑だけはまず挨拶に言って、徹底して仲良くなってください」最初の発言がこれから始まった。銀座の青柳という寿司屋の2階の小部屋での話しだ。豊田さんはその後、電通の仕切る博覧会の陣頭指揮をとり、最後は副社長を勤めた切れ者だった。「豊田」対「アラ柑」というのは、名コンビになるだろうと思えた。

 私の肩書きは、通産省国際海洋博研究員だった。私は最初は会期中のイベント企画担当だった。事務所では、電通から応援もあり、豊田さんの指示で海、海生物、夕日、星、愛、出会いなどかなり多くのキーワードを作成し、キーワードごとにアイデアを書き込み、それをボードや壁に貼付けて、アイデアを振るい落としたりした。当時はパソコンもなくすべて手作業だった。開会式、「日本の日」などはオフィス・トゥー・ワンが実施チームだった。この事務所に所属していた故阿久悠氏も企画会議に参加していた。

  海洋文化の集結基地 ネシア=島々=中核的存在

 沖縄海洋博の会場はシーショアに沿って細長くデザインされた。海洋生物園からイベント会場の水上ステージまで、丁度会場の端から端となり約3㎞ほどの距離があった。イベントの会議のために、ある日の日中に海洋生物園から徒歩で水上ステージまで行くことにした。歩けど歩けど到着しない。熱射に照らされ丁度アクアポリス付近で、体がふらふら揺れ、まっすぐ歩いていない自分に気がついた。それが何なのかよくわからなかったが、日射病寸前とはこのことかという不安が頭を横切った。民間パビリオンも工事中で、人々が忙しく動いてることは眼に入った。路脇にベンダーなど一切なかった。しばらくよろよろと歩いていると、強烈な喉の乾きを感じた。しかし立ち寄る施設がない。完成したアスファルトの道を歩いているから、自分の認識は“いずれ到着するだろう”という都会的な意識が根底にあった。しかしこの熱さは想像を絶するものだった。喘ぎ喘ぎ、休み休みながら到着した。

 沖縄の熱さの貴重な体験だった。この熱さのなかの観客は……それを思うと海岸に沿った“弓形”の配置は理想ではあったが、観客を考えると、特に本土からの観客には十分の注意を呼びかける必要があると痛感した。

 意地になって帰路も歩いた。今度は小さな瓶に水を入れて持参した。夕暮れだ。沈み行く太陽を夕日の広場から見た。空を真っ赤に染めながら沈み行く太陽は美しかった。思わず祈りたい衝動に駆られた。太陽が沈み、しばらくすると急に冷気を感じさせる。自然の素晴らしさと怖さを味わう。そしてやはり沖縄は「琉球国」であったように、熱帯という生態系に属することを痛感した。

 海洋文化館は、ポリネシア、メラネシア、ミクロネシア、東南アジアそして日本という展示構成だった。収集品は各圏から購入、借用などで1500点を数えた。「ネシア」とは、ギリシャ語で「島々」を意味する。島の生活、島と島の交流、はるか彼方の島への渡来。沖縄は“ネシア”が交差し、集結する。“ネシアのコア的存在になる”ことを祈った。

  沖縄県の誕生 海洋文化への始動

 海洋博は1975年7月19日に開幕し、1976年1月18日に閉会した。会期中の入場者は350万人だった。この当時はオイルショックの影響で不況時だった。それに本土の人間にとっては、依然と沖縄は遠い存在だった。しかし沖縄が現在は極めて近い存在であることは、高校野球大会での出場校の活躍がわかりやすく我々に教えてくれる。いまだに教科書問題、基地問題に揺れる。しかし沖縄の本土復帰は日本の歴史に大きな意味を与えている。

 ただ残念なのは、海洋文化という大きな文化が、島国の海洋民族的でなければならない日本で育たないことだろう。リゾート関連の研究者は「海岸文化」という。海岸べりにホテル、そこにプールがあり、テニスコートがある。海洋に大型ヨットや大型ボート船で、乗り出して行くという「海洋文化」はいまだに大きくならないという指摘だ。海洋文化は“男の文化”であろう。西欧諸国ではたしかにクルージングを楽しむなどの「マリーンクラブ」がある。しかし日本では漁業権の関係などもあり、ヨット専用基地などを広大な面積で取ることは極めて困難である。その後アメリカ・サンディエゴで撮影したアメリカス・カップのレースでは湾内を軍艦と漁船と大型タンカーとヨットが、まるで陸路のように交差しながら航海していた。ヨットの係留は数千台に及んだ。我が国の海洋レジャー、リゾートの開発は、21世紀に本格化するのだろうか。

 最近「世界一周船の旅」にリタイア組夫婦などが、盛んにエンジョイされるようになった。海洋への関心というのは、様々な形で胎動し始めているのだろう。そして沖縄は、今後はアメリカにおけるハワイ州のような存在になろう。沖縄の「日本化」「アメリカ化」は決して行ってはならないし、沖縄の「沖縄化」こそ日本にとって大きな風土価値、環境価値、文化価値を創出するものと思える。

  「来場者」が感じたことは何か?

 まず第一には、「平和な世界」を強く感じたということが挙げられよう。

「平和」と「未来」は万国博の共通理念であるから、当然とはいえ海洋博ではこのことがことのほかに会期を通じて、ことごとに意識されていたところに特徴があった。

 沖縄が太平洋戦争において、国内唯一の地上戦場となり、県民は凄絶な犠牲を強いられたことを知らない人はいない。戦後から27年アメリカの統治下にあってようやく昭和47年5月「本土復帰」したことも日本国民なら知らない人はいない。

 また、海洋博を訪れる人たちにとっては、来場までの長いアクセスの途路、巨大な米軍基地を垣間見ないでは済まない。不気味な黒い長距離爆撃機等々がいやおうなく目に入る。ベトナム戦争は膨大な犠牲の後に海洋博の開会前の年に終わったが、沖縄基地が米国の世界軍事戦略において重要な役割を果たしていること。海洋博のサイトに達するまでに人々の神経の皮膚はひりひりと痛み、戦争のない世界を、平和を希求する思いに駆り立てられたのは当然のことである。

 会場では“海を通じて世界が一つになる”という理念のもとに、展示や催事が行われていて平和な世界のありがたさを自然に感得することになる。公式行事のトップとして行われた7月19日午後からの開会式には世界各国の代表者(政府代表、大使、出展者等)、日本代表者(名誉会長皇太子・同妃両殿下、三木首相、国会議長、最高裁長官等の三権代表者等)、沖縄県代表者(県知事等)など数千人が参列した。海洋をテーマにする博覧会らしく、行催事のメイン舞台はEXPOポートに近い穏やかな海面にしつらえられたポートサイドシアターの水上ステージで行われた。トミーバートレットの水上スキーショー、沖縄伝統船、サバニとハーリーが勇壮なさばきを競うなかで、テーマソング「さんご礁に何を見た」が開会を告げ海洋博のテーマ、「海、その望ましい未来」をシンボライズする演目が繰り広げられた。挨拶では世界の平和がメッセージとして述べられ、これらのすべてはNHKの同時中継によって日本中に、また世界に送られた。

 会場を回って沖縄館に入ると平和を希求する沖縄県民から熱いメッセージが投げかけられた。海洋博は海をテーマにする特別博だからそれだけでいいとはいえ、開催地の特異な事情が来場者にことさらに訴えかけたということがこの博覧会の最大の特徴であったのではないだろうか。

 第二には、海の偉大さを感じ、海を通じて世界を感じたということが挙げられる。

 海洋博の来場者は、地表の3分の2は海であること、3分の1の陸上に住む生物は、人類を含めて海を通じて交流し、発展してきたことを改めて認識することになった。

 外国館や世界各国から来訪した船舶(コロンビアのグロリア、チリのエスメラルダなどの帆船を含む)、また、サンフランシスコからシングルハンド級で、あるいはハワイのオアフ島から太平洋を横断し海洋博会場にゴールしたヨットの冒険家たち、占星による古代からの航海術、星術航法によりミクロネシア、ヤップのサタワル島からはるばる来航したチェチェメニ号の実験航海など、海を通じて世界が一つになることの意義を実感させた。この勇敢で英知に満ちた航海は映画に記録され、海洋博後に内外でキャラバン上映されて感動の輪を広げた。

 第三には未来に向けた人類の関心が海に置かれることのイメージを実感させたことが挙げられる。

 J・F・ケネディは米国が60年代の半ばようやく宇宙技術において、ソ連を凌駕する自信を抱くにあたって“人類の関心は「宇宙から海へ」向けられるべきだ”と述べた。このことが世界先進国を宇宙競争から海へ向かわせることになった。日本でも実業界では、70年代初め海洋開発産業協会が活発な活動を行うきっかけをつかんだ。

 このような背景の中での海洋博では、海上未来都市のプロトタイプをキャッチフレーズにして、アクアポリスが展示された。長さ104m×巾100m×高さ32m、総重量15,000tの半潜水型の巨大な白亜の海洋構造物は、当初の構想の一部に過ぎなかったが(オイルショックの影響で構想も規模も縮小を余儀なくされた)あくまでも美しいエメラルドグリーンの海域に壮麗に浮かんだ海洋博のシンボルとなった。

 海は一般の人には日常的には案外近くて近づきにくい存在であるが、アクアポリスは海洋に棲むことの親しいイメージと海洋資源開発による人類生存の維持の可能性を来場者に考えさせたと思う。外国出展のなかでも未来における人類と海との関係をアピールしていたし、2つの国際海洋シンポジウム、第6回「海に平和を」と「総討論――海」でも熱心に議論され関心を高めた。

 第四には、海の生物との共生、環境の維持について考えさせたという点を挙げておきたい。

海洋博会場は100haだったが、4分の1は海域にあった。EXPOビーチ、アクアポリスと海洋牧場、EXPOポート、ポートサイドシアターなどが海域会場にあった。これらは人工物ながら世界一美しい沖縄の海にハーモナイズしていた。

 海洋牧場では「獲る漁業からつくる漁業へ」をテーマに、ブリ、ハマチ、タイなどの養殖が行われ、餌付けの模様が水中カメラを通してアクアポリスへの来場者にマルチスクリーンで見せた。世界一の規模と内容といわれた水族館と水生生物園では魚や海洋生物に親しむ仕掛けが工夫され人気を博した。会期中に希少哺乳類のジュゴンが死ぬ事件があったが、生物との親しみを深め共生と環境維持への関心を強めることにもなった。

 第五には海洋に関わる文化、海浜植生への関心を深めることになったということがある。

海は古来人類に豊かさをもたらし、時には災厄を与える存在であるが、海なしに人類は生存できない。沖縄にはニライカナイという伝承があって、今でも海の向こうから幸せを持った人が来ると信じられている。この考えをもとに多くの歌謡、踊り、文学、芸術が生まれ伝承されている。このような海洋文化は世界レベルでは、海洋文化館や外国館に出展され、各国のナショナルデーで紹介された。日本に関しては民間企業館や沖縄館での展示や日本の日、沖縄県の日での催しでレビューされた。

海洋博会場は陸域が4分の3、海域が4分の1、陸域と海域には傾斜があることもあって会場は、海に無限に広がっているような大きな空間を構成していた。

 この空間を演出するため、中央部の高台を「夕陽の広場」とネーミングし、アクアポリスと結ぶ導線を夕景鑑賞にも適するようにゾーニングされた。また、日没後の海域を水中照明で演出したり、大きい会場空間から空へと多色の巨大サーチライトが移動掃射するなどの空間演出を施して感動を高めた。また、海浜には独特の植生が自生し、また人手により育成されていた。

 第3章  学園、研究都市構想 科学する心の醸成

 関東で数多くの候補地から、学園、研究都市として筑波が選定された。これは「頭脳」部分の首都移転プロジェクトでもあった。東京教育大学が筑波大学として、生まれ変り移転した。博覧会のデータ収集やヒアリングでは多くの研究所を訪問して、教えを請うこともできた。その意味でも、つくば科学博は多義的な意味を持つ博覧会であった。

  関東圏での博覧会 科学技術と学園都市

 1950年代に、東京への都市集中化が顕著になり、1959年に首都圏整備委員会が設置され、首都機能の1部を移転させることが計画された。1963年には、その候補として、富士山麓、赤城山山麓、那須高原、筑波山麓が挙げられたが、霞が浦からの取水、それに地形的に平淡な土地に恵まれていることから、現在のつくば市、牛久市に4,000haの研究学園都市建設を決定した。学園都市は、都内の市街地になくても、機能上は差し支えない施設の集団移転だった。パリからニースに学園都市が出来たり、ロンドンからミルトンキーンズなどに新しい都市機能が移転したのに似ている。結果としては2,700haに縮小されたが、現在では300に及ぶ研究機関、13,000人を有する世界有数の研究学園都市となっている。

 まず最初に会場予定地を見学したころには、すでに学園都市は機能していたが、1985年3月17日から同年9月16日までの184日間にわたって開催された。テーマは「人間、居住、環境と科学技術」であり、48カ国、37の国際機関が参加した。総入場者は、2,033万人だった。別会場的につくばセンタービルがあった。これは複合施設であるが恒久施設として開発されたものである。全体設計は磯崎新氏だった。

 1985年の国際科学技術博覧会(科学万博―つくば'85)では、はじめてプロデューサーをつとめた。本格的デビューだったといえる。政府歴史館のサブ・プロデューサー、みどり館の制作プロデューサー、東芝館の企画・広報ディレクターと3館を担当した。政府歴史館は、泉眞也氏がプロデューサー、大阪、沖縄から3度目の国際博博覧会で共働したわけだ。みどり館と東芝館は、電通チームとしてコンペに参加し勝ち取った。

 この3つのパビリオンのうち、最も早期段階から勝つために始動したのは、みどり館であった。みどり館とは、当時の「三和銀行グループ」であり、この加盟企業は80社以上で構成された。コンペには15社程度が参加するという情報が電通に入っていた。電通は三和銀行担当営業が中心となって情報収集を進めていた。当然、三和銀行が音頭を取るというのが前提であったが、それが定かではなく、電通の三和グループ各企業担当の第5営業局各部が動き、どうやら日立造船が幹事社で、しかもバイオテクノロジー(以下=生命工学と記す)に絞ることが最終決定となった。

 1983年当時が準備段階。その頃は新聞でさえ生命工学について触れる機会が少なかった。基礎からの勉強である。幸い私の従兄弟の清水剛夫が京都大学の燃料化学の助教授だった。何回か京都に通って特訓を受け、また京都大学名誉教授の渡邊格先生に会うことを薦めてくれた。渡邊名誉教授は、高分子生物学の大御所で、のちにノーベル物理学賞を受賞された利根川進氏とは師弟関係にあった。会ってみると気さくで、べらんめー調の素敵な先生であった。理論だけでは駄目で、とにかくコンペに勝つための具体的な実施計画が必要だ。パビリオンの建築デザイン、映像方式、展示内容などを具体化するためには、コンセプトから一貫した「ストーリー」がいる。それを作成するのが、私の役割であり、そのために起用されていたわけだ。「できない」とか「辞めます」とか言っている暇もなかった。無我夢中で先生方の話を聞き、部隊が集めてくれたデータを読み、そのころ数冊が出ていた「生命工学」関連の本を読みあさった。当時45才だから徹夜、徹夜でも平気だった。

 リチャード・ドーキンスの名著『セルフィッシュ・ジーンズ』(利己的遺伝子)が、大きなヒントをくれた。イメージがわくようになったのは、ドーキンスのおかげである。コンペ参加にあたっては、ビデオ映像を使うことになった。現在でも存在する旧銀座電通の最上階が作業場であったが、いつの間にかスタディオに変った。電通はメカやソフトで多彩な人材がいた。一晩で20分のビデオ映像が完成した。この当時のチームで活躍したなかには、現在電通本社副社長の森隆一氏などがいた。詳細は省略するが、とにかくコンペで勝ち抜き、電通に決定した。しかし映像は競争相手だった三和グループ企業の東宝映像と共同制作が条件だった。

  建物2つの球形ドームで細胞融合のイメージ

 大きなドームは高さ20mの緑色。それに少し小さな白色のドームを接合させた。緑は生命の芽生え。白は未来の可能性を象徴させた。モニュメントとしてパビリオン前面に巨大なDNA螺旋構造を組み上げた。鉄骨造4階建てドームをテントで覆った形だった。展示は生命工学の世界の創造。「ホロンシアター」と「テクノ・ドーム」が主展示。映像劇場は中央にスーパー楕円形のスクリーンをメインに置き、上下、左右に補助スクリーン。5面マルチスクリーン構成にした。生命体が動くようなイメージを、5面スクリーンで形成してみたが、映像内容の構成とシンクロ(同期)と映像ソフトの作成で大変な苦労を重ねた。その当時では難しいCGで、二重螺旋構造の動きを制作したが、コンピュターの容量が小さく、わずか十数秒のCGに1カ月以上かかったことを懐かしく思い出す。このシーン以外はアニメを多用した。食料、資源、エネルギー、医療、環境の問題がすべて解決されている“バイオ星”に、少年が訪れるというストーリーだったが、この21世紀になって、依然と問題は解決されていない。むしろ悪化の方途を辿っている。「バイオドーム」の展示の大きなテーマは「地球緑化計画」だった。ハナキリンとオーレンという異種間植物の細胞融合に成功した京都大学の顕微鏡撮影に成功した貴重なフイルムや遺伝子操作の基礎的方法、それに稲の原種からハイブリッド栽培までを展示したりした。昭和天皇、博覧会行幸の際に民間館として、我がパビリオンのご来館を賜った。当日は渡邊格先生をはじめ、5人のエキスパートが先導した。ご質問の度に足が震えたのを記憶している。昭和天皇のご質問は極めて高度であった。

 二重螺旋構造発見者のワトソンとクリック。クリックからメッセージが取れそうだという朗報が、アメリカの友人から届いた。あらかじめ下交渉ができていたが、会える確率は100%ではなかった。それでも、サンディエゴのソーク研究所まで飛んだ。早朝にロスを出発し、リムジンを乗りつけ玄関で待った。結果として、午後3時ころに会えた。待っている間に、研究所の建築デザインを見て回った。ここはルイス・カーンの設計で、彼の傑作の一つと評価されているものだった。「ピカソが来ても恥ずかしくないものをデザインしてください」というのが発注時の依頼だったそうな。外見はコンクリート、広場にも樹木とか造形は一切使われてなく、その空間から見える海の青さとのコントラストが印象的だった。そしてその後でクリックの部屋に通されると、冷たいコンクリートのイメージが突然に真っ青の海を背景にして、クリックはデスクに座っている風景に大転換した。海側は全面ガラスであり、逆光線になるためクリックの上半身が輝いて見えた。床は木材、壁の周辺もしかりで、ウッディーな感触が暖かさを奏しだしていた。この空間の転換には圧倒された。1枚のパビリオンへのメッセージを頂戴するためだったが、ソーク研究所の素晴らしい環境やクリックに直接出会えた収穫は大きかった。そしてそのメッセージはパビリオンに写真付きで掲載できたことから、プレスティージが俄然あがった。このソーク研究所の空間に入れたことは、まさに幸せそのものだった。「もうDNAは卒業だ。いまは『脳と意識』の研究です。意識も物質ですから、なにか解明できるでしょう」というのが最後の言葉だったが、ドーキンスの知識が多少有ったので、人間が進化させた「意識」というものが、DNAに反逆する力があるというくだりを想起し「なるほど」と納得したものだった。

  ○△□の平面構造 黒川紀章の3つのパビリオン

 つくば科学博では、ゾーン分けをし、それぞれのゾーンに景観を統一させるための建築家が起用されていた。黒川紀章は「グリーン・ゾーン」の担当プロデューサーであったが、同時に個々の民間パビリオンの建築担当者でもあった。東芝館はそのなかのひとつであったが、形としての3大要素である○△□を基本にしたパビリオンをデザインされた。平面、立体、その複合と3つのパビリオンが出現した。その一つであった東芝館は、平面にこの三要素を配置するデザインだった。エントランス、シアター、展示室という構成である。

 映像では、監督がダグラス・トランブル。「ショースキャーン」という超精彩映像のシステムを開発していた。これは通常のフィルム、1秒間に24コマ流れるものが、彼の手法では1秒間に60コマが流れる。これだけ高精細で映写できるわけだ。第1回の彼のチームが日本に来て、詳細ストーリーと映像イメージを披露したのだが、自然の美しさをミクロに描くものだった。いわば自然映像詩として、見事なものだったが、おとなしすぎることで別案を要求することになった。ダグラス・トランブルは映画『未知との遭遇』などの宇宙船のデザイン、『ブレードランナー』の監督など、未来都市とか宇宙人の高度な宇宙船デザインの大家であり、それは『スターウォーズ』のジョージ・ルーカス・チームの登場まで続いた。私はロスに飛び、ストーリーのイメージ・ディスカッションに参加した。結局は研究所を訪れた少年が、知能ロボットの案内で、最先端技術に次々と出会い、体験していくというストーリーを軸にした。縦11m、横24mのスクリーン、23台のスピーカーは当時としては、超立体映像環境だった。

 展示コーナーは劇場の後部座席からアクセスすると、突如吹き抜け空間に、実物大の宇宙通信衛星模型が天井から吊り下がっているのに出合うものだった。それを見上げながらスロープを降りると、バイオエレクトロニクスからはじまり、当時の最先端エレクトロニクスの総体を展示していた。ロボットによるコマ回しは子供たちが驚いた。大きなコマが軸線を安定させて廻る。また超音波による胎児造影。胎内でオシッコをする元気な男の子の映像には若い女性が見入っていた。超音波診断はいまでは乳房診断などにはかかせないものだが、当時はメディカル科学技術としては最先端であり、その技術を庶民に普及する大きな役割を果たしたものだった。

 展示のスケールが大きく実機を持ち込み、パフォーマンスとしての価値の高かったのは、郵便局の住所番号読み取りによる「区分け機」の実演だった。郵便番号をセンサーが読み取ると、はがき、封書が所定のボックスに運搬される。この運搬はゴムベルトが担当する。普通は見られないベルト運搬部分が見えるので、ベルトの間に挟まれた手紙が無数に動くさまは壮観だった。この技術は現在の鉄道改札機の切符送りや様々なところで使われている。この時代は、依然としてスーパーコンピューターの時代だった。メモリーチップの要領も比較にならないほど小さかった。勿論パソコンなどは普及せず、ワープロの初期実用化が始まったころだった。ちなみにこの時期に購入したワープロはその当時で80万円だった。IC産業の発展はこの当時の基礎を踏まえているが、要領の大きなチップの開発が、結局現在のIC産業全体を支えているのだろう。

  政府出展「歴史館」 稲と鉄をコンセプトに

 政府館として、テーマ館、歴史館、サイエンス・パーク、多目的映像ホールなどが創られた。そのなかの歴史館のサブ・プロデューサーを担当した。私の役割りは、我が国の科学技術の歴史をいかなる形で展示するか、を調査・研究し、それを実際の展示ワーキング・チームに“与件”することだった。あらゆる方面の歴史書をあさり、また各分野の学者、専門家に取材することから始まった。我が国の機械文明は、明治期の海外からの技術者の指導によるものが多かったが、そのころの契約では、当時の総理大臣以上の高給を取り、それだけに、例えば機関車の開発・指導などでは、日本で新しい技術を入れ込むなど、失敗の許されない海外指導者は、多大な貢献を果たしてくれた。しかし弥生、縄文から急速に発展した室町時代、明治から大正、昭和、戦後と一貫した視点からのコンセプト設定が必要だった。プロデューサーの泉眞也氏に、ある程度の下調べから得た自分なりのコンセプトと展示展開イメージを報告しなければならなかった。様々な資料を読み込んだが、結局はナマの声を聞き、取材を重ねているうちに、底流に流れているのは「稲と鉄」というイメージにたどり着いた。

 稲は=ソフト系、鉄は=ハード系として据える。個々の時代の詳細は、ワーキング・チームに任せば良い。重要なのは、まさに小説のようなストーリーであった。そして科学技術は、日本文化と大きな関わり持つ。刀師が敬虔な心で祈りを忘れず、自然に感謝した「匠」の精神。また多くの「祭り」と関連した「稲の文化」の実りへの感謝。それが稲系でいえば、最先端の光ファイバーまでに直結している。また海外からは「伝える文化」を同時に摂取していたはずだ。我が国が、西洋技術に学んだだけではなく、それを改良したりし、日本化する能力に長けていた。

 歴史館のワーキング・チームは、当時の通産省の展示産業振興策として、展示5社に新会社を設立させた。いまでいうSPC(特別目的会社)だった。各社は自社の精鋭を送り込んだ。実施設計計画策定までは、各社精鋭が競い合い、結果として極めて精度の高いものが完成した。閉幕後に1985年の全展示作品のなかから「通産大臣賞」を受賞したが、それに相応しいクオリティーがあった。

 つくば科学博の目的の一つは、青少年に科学への関心を高めてもらうためのものであったが、その頃の就職では、理工系が優遇されていたのは事実であり、各大学への進学も理工系志願が多かった。しかし現代ではIC技術の高度な進展により、生活のなかに「技術」が組み込まれている。こういった時代には、余程の科学技術に対する興味と関心がないと、かなりハイレベルの科学技術が、実際の生活のなかで見えている。そのためか学力テストにおいては、他国に比べて数学能力が劣っていたりしている。あらゆる分野において、好奇心の抱ける時代に夢中になって取り組めた世代は幸運だったろう。

 第4章 再び大阪へ 我が国初の「環境博」

  花・みどりの自然価値 展示から環境への転換イベント

 1990年の4月1日から同9月30日の183日間にわたって、大阪市鶴見区の鶴見緑地を会場に開催された。国際花と緑の博覧会だが、通常は“花博”と呼ばれた。会場の広さ140ヘクタールで、83カ国、212の企業団体が参加した。会期中の総入場者約2,312万人だった。

 この博覧会はAIPH(国際園芸家協会)とBIE(国際博覧会協会)が認定したものであったが、日本は特別博を1985年に行ったばかりであり、認定の取り方としては、まずAIPHの園芸博としての許可を得て、AIPHからの支援を受けてBIEの認定を受ける形となった。したがって会場は、中央の大池を中心に「野原のエリア」とし、その両サイドに「街のエリア」と「山のエリア」をデザインしていた。BIEの認定がもし実現しなかったら「街のエリア」は切り離して開催されたであろう。その意味では極めてユニークな国際博だった。1980年代の後半に、我が国はバブル経済の最盛期を迎えたが、その恩恵に預って企業からの寄付金が集まり、いうなればバブル経済が残した20世紀最後の最大イベント事業だったとも言われた。

 なぜなら1989年には、市制100年を迎えた大都市の横浜、名古屋、福岡市がそれぞれ大きな博覧会を開催した。実はこの花博も最初は大阪市の市制100年記念行事としての博覧会規模でスタートしていた。いうなればこの大阪市制「100年博」だけが国際博覧会に昇格したともいえる。したがって20世紀終幕の日本は、博覧会のオンパレードだったと言ってもよい。大阪の花と緑の博覧会のあとに、信州博覧会、和歌山世界リゾート博覧会と、これは県主催の博覧会が実施され、それぞれ地方の活性化で大きな成果を収めた。

  大阪「花の万博」は21世紀の博覧会のあり方を暗示していた

 大阪「花の万博」の特性は、やはり会場レイアウトにあったといえる。会場中央に大池があり、その両翼に街のエリアと山のエリアが造られたことだろう。大池は会場の特性を人工的でありながら、自然環境の価値というものを来場者に感じさせたし、特に「咲くやこの花館」への来場者の行列は驚かせた現象だった。展示場は四季の移り変わりによって、展示された花の種類がかわった。その移り変わりを見るために、来場者は何度も会場に足を運んだ。真夏の暑い大阪の会場で、花を見るために「咲くやこの花館」にできた長蛇の列には、関係者も「街のエリア」に出展した企業パビリオンの制作者も戸惑ったものだった。

「博覧会の風景が展示価値を持つ」という現象というか観方が、日本の博覧会で顕著になったのは、この「花の万博」が初めて創造した貴重な出来事であった。海外で行われたモントリオール博やセビリア博などでは、わざわざ会場に来て木陰で読書をする風景などとして定着していた。しかし考えてみると、日本人のイベントへの参加というものは、大抵急ぎ足で「出し物」を中心に見て回る習性というものは、遺伝子に組み込まれたごとく継承されていた。しかし70年の大阪博のときの時代とは、全く違った博覧会が30年後に、まさにおなじ大阪で花開いたわけである。

  政府苑 庭園型のパビリオン構成

 政府苑は、当時の建設省と農水省の合同出展パビリオンだった。私は統括ディレクターを勤めた。パビリオンの構成は大きな庭園のなかに、5つのパビリオンを配置し、それぞれが回廊で結ばれるものだった。この制作チームは、各パビリオンを1社の展示会社が受け持った。つくば科学博での歴史館は、一つのパビリオンを展示企業から選ばれたエキスパートが、合同で制作にあたったために、どうしても特定の人間が“独奏”する格好になった。その方式に比較すると、1社担当方式は、企業の総力合戦であり、テーマもその企業にマッチしたものになったと思えた。

 最初の入り口に最も近い「自然・科学館」は、商工美術社、「文化・伝統館」は日展といった具合だった。プロデューサーとディレクターの違いは、戦争でいえば前線に出て一緒に戦うか否かの違いだろう。制作過程では、私は5社を廻った。そして共に作品を制作した。そして個々の具体化を、農水省、建設省の担当官に説明する必要があった。また修正が出た場合は、その理由を徹底して説明する必要があった。展示チームに理由なく修正をさせることは、立場上出来なかったからだ。双方の信頼を得るためには、将棋ではないが何十手も先を読む勉強と発想が必要だった。これは辛いが、大変実感のある充実した仕事だった。

 最も苦労をしたのは、建築との擦り合わせだったかも知れない。なぜなら館の建設については、建設省の近畿地建から設計会社に発注されていて、ソフトより早いペースで設計作業が走っていた。その基本設計を修正させるには、まさに完全な理由と展示ストーリーなどの理由づけが必要だった。いやそれに創造への情熱をこめて話し、修正の必然性を根気よく説明する必要があった。この博覧会では、これまでの博覧会が「物展示」が中心だったのに対して、会場環境としての池周辺や山のエリアの自然、それに「咲くやこの花館」の花、などが来場者を引きつける価値を創出した。これを主導したのが、女性の観客だった。勿論、民間館が出展した「街のエリア」は若者や家族連れでにぎわったが、花の観賞のためにパビリオン前に行列が出来たことは、関係者に予想外の歓びを与えた。夜間入場割引き時間には、近所に住む方々のリピート入場が多かった。

  三井・東芝館 70年、85年から3度目の担当

 これまでの国際博覧会では、東芝館は三井グループでありながら、単独でパビリオンを出展していた。しかしこの90年の花の万博からは「三井・東芝館」と合同で出展することになった。全体の総責任者は、三井不動産の故・坪井東会長であった。

10数社の作品コンペで、審査員はグループ企業の若手が担当された。電通チームとして企画から手伝う事になった。70年、85年とも東芝館を担当したわけだから、落選するわけにはいかなかった。電通も東芝担当営業、三井グループ担当営業が張り付き、博覧会室の錚々たるメンバーが加わった。実際の演出を担当するデザイナーというかパフォーマーの人選で、最後に残ったのは、1986年のカナダ・バンクーバー「交通博」のGM館でホロビジョンによる「スピリットロッジ」を演出して話題を呼んだボブ・ロジャースを起用することになった。ボブへの交渉役は、電通から当時、都市開発センターの局次長で博覧会の責任者だった八木澤昌治氏が担当、それに私が加わり、ボブの事務所に乗り込むことになった。八木澤氏とは、最初から「交渉は3日間だけ」と決めていた。長引くようだったら諦める。そして日本でチームを編成する。2日目までごたごたした。最終と決めていた3日目に、“どうせまとまらないなら、言いたいことを自分で言おう”と思い、2日間ただ黙って聞いていた私は、突然立ち上がりブロークンな英語で話しはじめた。

 「花というのは、人間の物質的な欲望の象徴のようで、樹木は精神的な欲望の象徴のようなものだ。だから花は華麗で多様だが、樹木は飾らず、その精神を静かに我々に教えてくれる。そういった花の華麗さと、樹木の精神的な存在性を訴えるようなパビリオンを造りたい。それに登場するキャラクターが、たとえばそれぞれが楽器の形をしていて、ハーモニーを奏でるような物語りなどにもこだわってみたい。そのためにあなたが必要だ」。このような内容だったと記憶している。それで決まったわけではないが、アメリカ流の駆け引きから、話しがクリエーティブなものに転換する契機となったのは事実だ。それまでは作業継続保証があるか、とか支払い方法は、など内容に関係ない話しに終始していた。それからは内容の話しに集中することになり、ボブもすっかり経営者からクリエーターに戻り、契約することになった。

 限られた時間での10数社プレゼンでは、ビデオを使った。ドキュメンタリーのような構成で、通常のプレゼンでは常識破りの演出を採用した。プレゼンには、ボブもやって来た。私は彼に「時間がないから、英語はダメ、難しい話もダメだ、“任せなさい!”とだけ言ってくれ」と教えた。プレゼンの待機の間も「マカセナサイ」を繰り返し練習していた。わざわざロスから飛んで来て放った言葉は「任せなさい」だけだったが、ビデオと合わせ外国人と日本人のコンビが審査員の前に立ったわけだから印象は強かっただろう。

 展示構成は、小劇場でロボットと映像が絡み合うボブ得意の「ホラビジョン」を採用した。東芝製の工業用ロボットの1台が音楽の先生で、生徒ロボットが3台、同型のものを使用した。生徒ロボットの1台がいたずらっ子で、クラシックの「月光のソナタ」を練習するのだが、悪さばかりするいたずらっ子につられ、ジャズの大演奏に変化してしまうというストーリーを、実際のロボットに映像が絡む手法を完成させた。

 この制作と調整は大変な作業だった。劇場の演出空間全体をミリ単位の座標軸で区割りをし、その設計図をボブサイドと東芝技術サイドが持ち、秒単位での動きをそれぞれロボットと映像の動きに落としていくのだ。例えば3台のロボットがシャボン玉を出すシーンがあった。生徒ロボットの3台が一斉にアームを上げ、シャボン玉の吹き出しパイプを上げる、それに映像がかぶって実際のシャボン玉は、映像で合わすわけである。この作業は大変だったが東芝ロボットの技術チームが、実際の劇場空間サイズにロボットを設置して、座標軸に従って正確な動きをインプットさせた。最後の仕上げは、勿論実際の会場の劇場で行われた。ボブサイドからは、照明、音楽、映像関係者が、2週間ほど徹夜態勢で参加し完成させた。

 大劇場のほうは、フラワープラネットと題した大型スクリーンに、セル画ではなく絵画タッチで描くアニメーション映像を採用した。楽器をイメージさせるキャラクターが協力し合って、ハーモニーを奏でて、公害という悪を撃墜するストーリーだった。従来のセル画による制作から、一人の作家が絵画として描き上げ、連続映像として完成させた。映像放映システムは、ディズニーが完成させたアイワーク・システムだった。70ミリフイルムの8パーフォレーションで、約25分の長さで完成させた。この映像作品は、博覧会終了後に、欧米の映像コンテストのアニメーション部門に出品し、数々のグランプリを受賞した。その都度ボブからトロフィーが送られて来て、感慨ひとしおであった。彼はマジック技術にも長けていて、実物の登場人物を消すなどの映像、音響、役者を複合化させるショーが得意だったが、さすがに4台の巨大ロボットは消すわけにはいかなかった。

 パビリオン設計はコンペではなく、黒川紀章氏に決定されていた。「淀野さん、ソフトを先行させて。あなたの制作意図をちゃんと表現するからね」とだけ言ってくれた。2つの劇場がスーパートラスによって、吊り構造で完成しているイメージを設計してくれた。外観はテント構造で、夜間にはそれをスクリーンのように使い、花模様を映写したりした。思わぬ予想外の出来事があった。この2つの劇場は実は、自立していて、あたかも“吊り構造”のように見せかけていたのだが、そのロープの数本をカラスが食いちぎってしまった。意外な侵入者にはらはらさせられた。

 第5章 2度の開催中止 東京「幻の博覧会」

  東京都市博覧会の中止 ポイント・オブ・ノーリターン

 1990年の大阪・花博が終了し、その後は1996年開催の東京都の「世界都市博覧会」に係っていた。これまた電通チームとして、テーマ館のコンペ参加のための企画策定やその他「映像館」などの企画で「city issmiling」をモチーフに実施設計を進めていた。最も進行していたのは「三井東芝館」であり、90年「花博」の制作チームだったボブ・ロジャース社のリック・ヒントン氏とともに、具体案を作成し制作に取りかかっていた。

 会場は東京都の第7番目の新都心である「お台場」だった。

 会場計画から協会出展館、民間館は同じく制作に着手していた。青島新都知事が「博覧会中止」を公約に選挙戦で、鈴木都知事との選挙対決に勝利した。

“制作をストップしなければならない!”……これは大変な事であった。

 東京都は当然のこと、参加各国、国際機関、民間企業の出展者は、作業をストップせざるを得ない。乗り物でいえば、急ブレーキがかかった。その当時に良く引き合いに出されたのが「ポイント・オブ・ノーリターン」という言葉だった。これはジャンボジェット機が、成田からロスを目指して飛行したとする。そこでもしエンジントラブルでも起こした場合に、もう成田へ引き返せないポイント(地点)がある。最寄りの空港に緊急着陸するか、不時着するしか方法がない……つまりそういった時期に「中止」が決定されたわけだ。

 選挙民の都民は、そんなことは想像だにしない。いうなれば、すべてのパビリオン関係者や企業は“不時着”を余儀なくされた。欧米との契約では、日本サイドとしては「完成保証」を盛り込む。そして逆に、日本サイドとしては一方的なキャンセルの場合は、全額を支払うことになっている。海外チームへ発注されたところは、この適応を受けたケースが多かった。多大な損害である。三井東芝館の「幻の博覧会」の記録集を、その当時に発刊したのが精一杯の抵抗だったかも知れない。

  都市のテーマは、上海へ better city, better life

 東京の都市博覧会のテーマが上海で実現したことは極めて大きな意味がある。その後皮肉にも東京という都市は、都心部で盛んに大規模開発が行われた。まず会場予定地だったお台場の開発。あの広大な用地の殆どに、進出したビルが立ち並ぶ。レインボーブリッジで結ばれ、敷地内をモノレール“ゆりかもめ”が走る。かつては「船の科学館」だけがあり、東雲ゴルフ場などがあったりしたが、現在ではテーマ館予定だった国際展示場はじめ、フジテレビ、ホテル、企業ショールーム、複合商業施設、最近では温泉施設までが進出した。

 「ゆりかもめ」の発着駅の起点である新橋は、もとの新橋貨物操車場後が、「汐留シオサイト」として生まれ変わり、汽笛一声新橋の懐かしき「機関車時代」の文明開化のモニュメント・イメージが少し薄くなり、“汐留”の近代化スケールとクオリティに食われてしまっている。

 現在でも残る新橋駅前広場は、テレビ時代幕開けの頃は、プロレス中継で力道山がアメリカ人の巨体をなぎ倒すのに、テレビモニターの大観衆が喝采を送った場所であった。現在は淋しく横たわる機関車のあたかも「石炭煙」を懐かしむかのように、スモーキングスポットで、愛煙家が煙草の煙を吐いている。

 「シオサイト」には、麹町から日本テレビが居を移した。電通が築地から本社を移した。共同通信社が本社を構えた。ここにもホテル、ビルオフィスを含む複合施設が数多くそびえ立つ。この周辺は古い新橋時代の雑居ビルと新しいシオサイトが共存し、奇妙なバランスを保っている。

 テレビ放送会社といえば、すでにテレビ朝日は、六本木ヒルズに移転したし、TBSは大規模開発をほぼ完成させ、超高層の本社ビルにサカスというイベント広場付きの複合施設が完成した。テレビで放映されるためか、オープン時からいまだに人の波が押し寄せている。

 この赤坂を乃木坂に向って登っていくと、防衛庁跡地に「東京ミッドタウン」が最近開発された。このすぐそばには「新国立美術館」が完成した。黒川紀章の遺作だ。このエリアは六本木と隣接している。しかし乃木坂を超えるには、結構長い坂であるためかTBSエリアとは回遊が形成されていない。人間の生態とは不思議な現象を起こすものだ。

  この1年の異常経済 開発に沸いた都心の崩壊

 東京にアブク(泡)のように湧いた経済。土地を扱う不動産業者には、バブルの再現のように物件が動いたらしい。一般の都心の住宅の値段が跳ね上がったわけでもないが、まとまった大きな土地の需要はかなり高かったようだ。庶民の生活は楽ではないし、団塊の世代の大量退職を契機に年金問題で騒ぎ、依然未解決であり、また温暖化現象で環境問題が叫ばれるなかで、東京都心の新名所は次々と登場した。大きな開発については、すでに記述したが、このほかで顕著だったものは、いわゆる“駅前開発”であろう。

 いま大きく変貌しようとしているのは渋谷駅前である。池袋と渋谷を直結させる地下鉄の駅舎建設で、駅前明治通りはゴッタ返している。かつて東急文化会館のあったエリアは機能しなくなったせいか、ハチ公前の交差点付近は人で溢れ動かないような混雑だ。この新駅は安藤忠夫氏の設計。自然空間で開放されプラットフォームから地上まで直接に空気が流れる構造になっている。渋谷はまさに「谷の底」の街である。六本木通りの上を高速道路が走りそれが明治通りと交差して、JR、東横線、井の頭線、地下鉄銀座線が階上を走る。谷の底から這い上がるイメージだ。古くからの銀座線が階上で停まることに、誰も苦情を言わないのが不思議なくらいである。かつては「階段街」だった。田園都市線は地下だが、これを改装しているがエスカレーターの設置場所がないのか、階段を疲れても登らされる。またこの街ほど駅周辺の開発が遅れている街はないだろう。選挙といえば必ず渋谷だ。谷の底に人々がゴッタ返しているからだろう。

 秋葉原の駅前の開発には驚かされる。隣の神田駅などとは異なって、ITの街にふさわしい玄関口に生まれ変わった。少し過去になるが、大崎駅前開発は秋葉原同様に成功した開発に入るだろう。

2008年の前半まで続いたバブルはまさに、泡のごとくアメリカのサブプライムローンの影響で、その景気は吹っ飛んだ。欧米の資金が動いていたからだ。それでも東京には、都心地では、もはや巨大開発が可能な「余地」はないとされている。

  日本の特色駅前価値 多様な交通、多様な機能

 日本では「駅前」という概念が極めて重要である。いまだに不動産広告では、必ず「駅から徒歩10分」などと明記してある。もう既に自動車社会が成熟し過ぎているのに、徒歩何分にこだわる。これは、マイカー族であっても、通勤には使わないことが、決定的な要因になっているようだ。

 東京の開発は、山の手線に点在する渋谷、新宿、池袋などを中心に、そこを起点とする私鉄が、沿線を開発し住宅ゾーン、商業施設が沿線各駅に出現し、東京圏というものを形成してきた。東京は他の都市に比べて、駅前が多いのだ。そしてJRの大崎駅や秋葉原駅前のように、土地に新たな価値をつけて駅前が活性化される。渋谷のようにすでに開発し尽くされたエリアに、また新しい地下鉄を通して駅前価値や機能を高めようとしている街がある。

 都市公害としての人工的温暖化現象などが叫ばれない時代では、外国人からすれば、これは奇妙な現象だったらしい。現に英国大使館やカソリック関連などの私立学校などは、駅前とは関係のない自然的価値によって土地が選択されている。しかし地球全体の環境と都市のあり方を考えるとき、大量輸送システムが機能することが極めて重要であり、アメリカのロサンゼルスから来る訪問者などには最近では好評で、JR、私鉄とうまく乗りこなして喜んでいる。

 日本で残念なのは、リバーフロントの使い方が不得手であることだ。お台場の開発や川端の高層住宅などが、隅田川河口の東京湾岸エリアに展開されているし、汐留から浜松町にいたるエリアでの沿岸開発があるが、晴海エリアは勝鬨橋以降開発が途切れている。また大阪のように市内中心部を川が流れているのに、リバーフロントに背を向けてビルが建っているままである。

 上海博はリバーサイドの両岸を活用する。南浦大橋から盧浦大橋にいたる両岸の会場にアクセスするには船も利用される。高速鉄道、地下鉄、道路、川とそのアクセスは多様である。各国の出展パビリオンも当然ながらデザインもさることながら、リバーフロントでの景観にマッチしたデザインで出展するだろう。世界の文化が建築とともに取り入れられ、Better city, Betterlifeを築きあげてきた上海である。それだけに、水を活用する都市のあり方を創造し提案し未来へ発信する博覧会になるであろう。

  物志向への転換 原点に戻る

 現在の経済は実体経済から離れ、証券化されたものの取引や、バーチャルに架空の取引でまるで空中戦のように取引が行き交う。商品取引といえども、実際に石油や穀物が倉庫から倉庫へ動く訳がない。株式市場も1日で数兆円が増えたり、減ったりしている。そういったなかで、ようやく各国は実体経済の重要性に気づき始めた。

 現在の経済はすべて心理で動き、人為的操作によって操られる。元々「経済」とは「家庭の世話をする」=eco=家族、nomis=世話をする=という意味であった。それは証券取引とか株価の操作ではなく、家族が豊かな生活が送れるだけの、衣食住の安定供給さえあれば、我々の生活の大部分は満たされるはずであった。

 そして資本主義社会は、絶えず市場に潤沢な供給があり、生活者はその豊富な市場から、多様な選択が可能であった。しかし世界の物資の供給は不安定となり、飢餓で苦しむ国家が続出している。いずれは先進国も自給自足の経済が崩壊し、日本人であれば「おにぎりとみそ汁だけで我慢する」といった覚悟が必要な経済社会が目の前にきているような状況である。

 経済の原点は「贈与」であった。隣国同士の支配者が、隣国にあって自国にないものを贈与し合った。それが遥か離れた国家間に拡がった。それは物々交換に変化し、市などでは米と反物を交換する市場を形成した。しかし現在の経済は“蜃気楼”のような一部の人間が操作する人工的な経済社会である。しかし物にこだわり、物に感謝する社会を取り戻すことの重要性に、我々はようやく気づき始めている。その意味からも発明、発見、そして各国の生産物やそのための技術などを紹介し合ってきた博覧会には、人類の基本的な生活のあり方を何時の時代にも模索してきた役割があった。物づくりの大切さを知り、物づくりに必要な人材を育成する社会システムの構築が最も重要であることを教える原点が、博覧会であったことを再認識すべきであろう。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2009/06/11

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淀野 隆

ヨドノ タカシ
よどの たかし 亜州友好協会理事。1937年生まれ。京都市出身。産経新聞記者を経て(川端康成ノーベル賞特派員など)、国際博覧会、博物館などのプロデューサーを歴任。元・電通総研客員研究員。著作としては、「日本広告発達史」(内川芳美編、電通刊)下巻執筆。

掲載作は「2010 上海EXPO」(上海万国博協会発行)に「国際博を駆け巡った『人間証言』」と題して、5回にわたり掲載したものに加筆した。

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