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民本主義を論ず

 民衆的示威運動を論ず

 

  一 民衆的示威運動の来歴

 

 本年(大正三年=1914)二月、例のとおり日比谷において民衆の示威運動があった。問題としては、減税問題などもあったけれども、主なるものは海軍収賄問題であった。同じようなことは昨年の二月にもあった。昨年二月の方は今年よりは運動も激烈で、その結果とうとう桂公を内閣から追い出してしまった。今年は政府の方の準備が行き届いておったためであろう、昨年ほどの大騒動もなく、また結果としてはこれぞというほどのこともなかったけれども、ともかくも政界に一転機を起こさんという意気込みであったということは、今年も昨年も同一であった。昨年もあり今年もあったから、また来年もあるということは、必ずしも断定はできぬけれど、かくのごときことは今後一種の流行となり、容易にその跡を絶たざるのみならず、おそらくますます盛んになるかもしれぬと思われる。

 いったいこういうことは、いつごろから始まったかと考えると、明治三十八年(1905)九月、ポーツマス条約に対して国民が不満だというので、日比谷で大集会を催したのがはじまりとみてよかろうと思う。もっともずっと古いことをいえば、一部の労働者が上野に集まったとか、芝公園に集まったとかいうことはあったようだけれども、それはそのときだけで終わって、後になんらの影響を残さなかった。民衆が政治上において一つの勢力として動くという傾向の流行するに至った初めはやはり三十八年九月からとみなければならぬと思う。もっとも三十八年九月のときのは、国民の不平が期せずしてあらわれ、それにたまたま点火するものがあって爆発したので、昨年や今年のように、全然民衆が受動的(うけみ)になり、多少二、三の人から煽動(せんどう)されたような気味のとはいささか事情を異にするようだけれども、しかしいずれにしても、民衆的示威運動としての政治上の意味は同一のものとみてよい。

 

 さて、しからば、こういう運動はいったい政治上からみて、あるいは立憲政治の発達というようなことからみて、喜ぶべきものであるか、あるいは呪うべきものであるかということは、われわれにとって大いに研究を要すべき問題であると思う。

 

  二 一面において喜ぶべき現象

 

 民衆が多数集まって騒ぐということは、だいたいにおいて実は憂うべき現象である。しかしまた他の一面においては、日本今日の憲政の発達といううえからみて、この民衆的示威運動という現象は、一つの喜ぶべき現象であるとすべき方面もある。それは政治問題の解釈ないし政権の授受に関する終局の決定を、民衆の判断の左右するところたらしむるという意味において、または民衆の判断を政治上重要なる意義あるものたらしむるという点において、私はこれを喜ぶべき現象であるというのである。

 もちろん従来とても、民衆の判断というものが、まったく政治上において無視せられておったわけではない。しかしながら問題解決の終局の帰着点というものは、多くの場合において、決して民衆にはなかった。ごく手近い例を申すならば、今度の議会において貴族院が、海軍拡張費に七千万円の削減を加うることになったというので、さて山本内閣はその結果どうなるだろうかという問題について、三月三日の『朝日新聞』には「山本伯と政友会」と題する一つの記事があった。その書いて居るところによると、政友会ではいかなる手段をもってしても政権を離れまいとする希望をもって居る。しかるにもし山本伯が辞職するということになったならば、その代りを西園寺侯のところへもって行くというのも一説だけれども、西園寺侯では、侯自身に再起の念がないのみならず、昨年二月の事件のために宮中や貴族院辺において、多少おもしろくないという関係もある。そんなら原敬氏が内閣を組織したらという説もあるが、それでは宮中はもちろん、貴族院や枢密院の辺が収まりが着くまい。あるいは伊東・清浦もしくは寺内という方面へ交渉したらどういうものかというような意味合いである。この記事によってみてもつまり、政権の帰着の問題になると、人民とか民衆とかいうことはいっこうに念頭においてなく、ただ貴族院や枢密院辺の通りがよければそれでよいということになる。もしも民衆を問題決定の帰着点として、すなわち民衆を後援として立つということならば、政友会は何を苦しんで、総理大臣になる人を外に求むる必要があろう。政友会はともかくも衆議院において絶対多数党であるにかかわらず、自分が単独に内閣を組織することができず、貴族院や枢密院辺に通りのよき人を総理大臣に借りて来なければならぬということは、民衆の判断というものを、政治上、結局において認めないということにほかならぬ。今日もすでにこういう考えがあるんだからして、昔はむろん民意というものは政治上において顧慮されなかったのである。それで昔は政権の授受ということはごく隠密の間に行なわれて、表面にはいっこうにあらわれなかった。たとえていえば、少し古いことになるが、明治十四年の政変のごときは、なぜ大隈伯が野に下ったかなどいうことはちょっと外界にわからないというかたちになって居る。しかしこれはまだ憲法施行前のことであるから、しばらくおいて問わずとするも、憲法施行後においても、政権の推移というようなことは、決して万人環視の中に公明正大に行なわれてはいなかった。久しい間、いわゆる超然内閣などいうことが唱えられて、内閣はともかくも議会内部の勢力の変動とは没交渉でおらんとするの態度を示した。むろん、議会の勢力の外に全然超然として居るということはできなかったけれども、しかしながら多くの場合において、憲法施行当時の内閣の変動というものは、たいていその当時のいわゆる藩閥の内部できまってしまった。だからして、外からは、何故黒田内閣が倒れて伊藤内閣ができたかというようなことは、ちょっとわからなかった。少なくともその内閣の変動というものに、民意ないし民意の代表者たる議会の勢力関係とは、直接の交渉はなかったようである。その後いわゆる藩閥も、薩派と長派と分かれて権力を争い、後には長派の中でも、山県公の派と伊藤公の派と分かれて暗闘をするとかいうようなふうで、政権の授受ということは、一部の人の内部––すなわち表面にあらわれない事情でもって決定されておった。その後、政党というものがだんだん発達して、政友会のごとき、ともかくも有力なる政党が出て来るというと、政府もまったくこれを無視することができぬということになり、ここに初めて民衆的勢力というものが、政権の推移に関する問題についても、大いなる影響を与うるに至るかと楽しんでみておったのに、いつの間にやら政党の幹部が政府と、これも外部からはわからない内密の妥協をして、すこぶる公明を欠く政権の授受をやっておった。いわゆる数年前の桂公と政友会との情意投合なんということは、政治上からみるというと、一つの迷宮であって、外からは何が何やらさっぱりわからぬものである。それで政治というものはいっこうに公明正大を欠いてしまった。したがってこういう内密の事情に通じたものでなければ、政治ということができなくなり、政治というものはいちじるしく専門になってしまった。かくのごときは決して立憲政治の健全なる発達ではない。どうしてもかくのごとき暗室政治というものは打ち(こわ)さなくてはならぬものである。しかしてこれを打ち毀すにはどうしても民衆の力をかりるよりほかはない。いわゆる民衆の示威運動というものは、政界の弊風そのはなはだしきをいたして、尋常の手段ではこれを破ることが難いので、やむをえず起こらねばならぬわけになったのである。これがだんだんに盛んになれば、一方においては政界の暗流に浮沈して居るものを警醒(けいせい)し、他の一方においては民衆をしてますます政治ということに趣味を深からしむるからして、この点に憲政の発達のうえにはなんらか貢献すべき部分をもって居ると思わるる。いわゆるこれは民衆の自覚の結果であって、またこれを促す原因である。ゆえによしんば受動的(うけみ)であったとしても、これが民衆の自覚を促す機会たることを得ば、この意味においては確かに喜ぶべき現象といってもよいと思う。

 

  三 何故に民衆の自覚を喜ぶべしというか

 

 世の中にはずいぶん頑固な人があって、民衆の勢力の張ることを非常に忌む人がある。民衆の勢力が張るということは何か社会主義的な危険思想でも蔓衍(まんえん)するように考えたり、あるいはフランス革命当時のモッブの騒擾(そうじょう)などを連想したりして、非常にこれをおそるべきかつ忌むべきものと考えて居る人がすこぶる多い。これは老人や、それからまたいわゆる官僚などの間にずいぶん根底が深い。しかしながらよくこれらの頑固な考えをもって居る人を観察してみるというと、なかには民衆の勢力が張れば自分らがよってもって立って居るところの地盤が崩れる、自分らの現在の境遇というものを防衛するためには民衆の勢力を抑うる必要がある。そういう境遇にあるところからして、意識的にあるいは無意識的に民衆の自覚ということを喜ばなくなる人がある。しかしいずれにしてもこれは利己心であって、もとより耳を傾くるには足らぬ。しかしまた他の一部においては、こういう利己心を離れて真に憂国の至情からして民衆の自覚ということに一種の疑いをもって居るものもあるようである。

 しかしこれらの人は、思うにただ物の一面を見て居る人である。物にはもとより利害の両面があるのであって、民衆政治(デモクラシー)にももとより弊害はある。しかし弊害を挙ぐるならば寡人政治にだってやはり弊害がある。もしその弊害を比較するならば実は寡人政治の方が弊害が多いのである。ただ寡人政治はいわゆる暗室政治であるからして、曲事が外にあらわれない。民衆政治は明けっ放しの政治であるから、少しの曲事もたちまち眼につく。ゆえに世人はややもすれば民衆政治の弊害を挙げて、寡人政治の弊害を忘るるの傾きがある。いわんや寡人政治における勢力階級〔閥〕の中に居る人にはよほど聡明な人でも、その寡人政治の弊害というものは見えるものじゃない。

 いったい国家の政治というものは公明正大を第一義とする。事の善悪を問わず、原則として一点の秘密あることを許さない。しかるに民衆を基礎としない少数の専門政治家が、内々に相談をして政治をするということになると、その人がどんなえらい人でも、またあるいはどんな立派な人でも、必ずいろいろの情実というものができるものだ。たとえば役所で物を買うときにしても、いつでも公然多くの人の眼の前で買入れをやるならば安心だけれども、そうでないある特別の人から物を買うことになれば、いつの間にやらそこに弊害を生ずる。これは現に今日やかましい海軍収賄問題でも明白である。だれか帝国海軍軍人の忠君愛国の念を疑うものがあろうか。しかもこの中に非常な一大弊害の蟠屈(ばんくつ)して居るというゆえんのものは、畢竟(ひっきょう)これはそのいっさいの買入れや何かを黒幕の中でやっておったからである。もしも彼らが、海軍というところは玻璃(ガラス)張りの箱のようなものであって、何をやってもみんな外から見えるという考えがあったならば、こんな弊害は決して起こらなかった。その他こんな例はいくらでもある。たとえば三月十七日の貴族院の予算総会において、(でん)健治郎・石黒忠悳(ただのり)男等が海軍省が室蘭製鋼所を助けたという不法行為を指摘したるがごとき、これもその一例であって、政府はこれに対して理義明白なる答弁ができなかった。由来陸海軍などはずいぶん事柄を秘密にして居るところだから、こういうことのあるのはやむをえぬとしても、現に人の眼の前で政治をして居るべきはずの政友会と桂公でさえこそこそと妥協したというようなことがあるではないか。その間にいろいろな弊害があったということは、だれもみな感じて居るけれども、なにぶん内密でやることであって、明白な証拠がないから黙って居るのである。

 こう考えてみれば、少数専門家の政治というものは、どんなによいものでも民衆政治よりよいものでない。そしていったん政権を取ったものは、とかくこれを自分の専門にしたがる。これを取る際には民衆の後援によってとったものですら、これをゆくゆくは自分の専門にして、ほかのものの(うかが)い知ることのできないものにしたがるの傾きがある。それでこれを打ち毀すためには、どうしても民衆の勢力というものを立てて行かなければならぬ。どこまでも民衆の勢力を立ててこれをして政治上に重きをなさしむるにあらざれば、とうてい政界の潔白を維持することができない。この点において私は断じて民衆政治論者である。そしてこの点からしてまた私は今回の現象は一面において賀すべきものであるというのである。

 しかるにこの議論に対して世の中にはいろいろの反対論がある。その

(第一)は日本の国体に合わぬとか、あるいは日本の憲法に(そむ)くとかいうような議論である。しかしこれはとんでもない(あやま)りであって、民衆の意思を法律上絶対最高のものとするなら、そりゃむろん日本の国体のうえから許すことのできない説であるけれども、しかしながら主権者がその政治を行なわせらるるにあたって、民間の考えを御参考になさるということは、何も国体とは相渉(あいかかわ)ることはない。どうせ主権者は事実上御一人のお考えで政治をなさらぬ。だれかに必ず御相談になる。ただこれを少数のものに御相談なさるか、多数のものに御相談なさるかという差である。もし民衆政治を国体に合わぬというならば、寡人政治もまた国体に合わぬわけである。なんとなればその間にただ御相談なさるものが少数か多数かという差しかないからである。日本の国体はそんなものじゃない。また陛下の御精神も決してここに(おわ)さぬ。現に、明治天皇陛下は維新の際、「五箇条の御誓文」を発せられて、その中に「広く会議を興し、万機公論に決すべし」ということを仰せられてある。民衆政治を日本の国体に合わぬなどという説をなすのは、それは君主と人民とを敵味方にして、そして貴族とかいうようなものをその中間において、君主の民衆に対する防御線としたところの昔の(あやま)った考えの遺物である。こういう謬った考えは、不幸にして現今もなお存することは疑いないようだ。いわゆる貴族を皇室の藩屏(はんぺい)というが、その藩屏の文字が明らかにこれをあらわして居る。藩屏とは外敵を防がんとする防御線の意味である。秦の始皇帝が匈奴(きょうど)を防ぐに万里の長城を築いたようなものである。そしていわゆる藩屏をもってみずから居るものは、人民を皇室の敵とみて、自分ひとりが皇室のお味方であると考えて居るのである。しかるに民衆政治というものは、皇室に忠義を尽くすという役目を、いわゆる藩屏者流だけの特権とせないで、ひろく一般人民に与えんとするものであるんだからして、藩屏の連中からみれば、いかにも自分の特権が()がるるようなわけになって、そこで民衆政治が国体に背くなどという、ちょうど近ごろ大学の特権を廃するというので、これほど明白な問題に、社会のもっとも賢明なる階級を代表すべき大学が反対するのとよく似たものである〔私は大学に関係あるけれども、私一己の考えとしてはもっとも熱心なる特権廃止論者である〕。もしそれ民衆政治が帝国憲法に背くという議論に至っては、これは法律論と政治論とを混同するの誤解から来るものである。法律の研究に政治論を混同することは学問の発達のうえにもとより忌むべきことである。しかしながら法律論から政治論を駆逐するの(きわみ)、法律論をもって政治を律せんとするの弊もまたこれを避けねばならぬと信ずる。法律というものはただ一定の方向を示すにとどまるものであって、その運用は自由である。ゆえに法の範囲内で政治上の慣例の生ずるのは当然である。たとえていうならば、大臣の任免権が君主にありということは、これは憲法上の一原則である。しかしながら、この原則の範囲内で政党内閣という政治上の慣例の生ずることは何も差支えはない。なるほど大臣任命の終局の権は君主にあるんだけれども、事の実際において、君主が全然独断で大臣を任命なさるということは、少なくともわが国においてはない。必ず君主が何人(なんぴと)かの奏請を待ってそれに基づいてお決しになる。どうせ何人にか御相談になるということであれば、その相談に(あずか)るものをどこに取るかということはこれはいわゆる憲法の運用上の問題で、すなわち政治的慣例の発生する余地の存するところである。しからば政党内閣制が一つの慣例として発生しても、なんら憲法と相抵触することはない。もしも政党内閣の制度が大臣任命の大権と相容れずというならば、山本伯が大岡育造氏を奏請して文部大臣の任命をみたるも、また君主の大権の侵犯といわなければならぬ。政党内閣を法律上に認めるというならむろん違憲という問題が起こるだろうが、しかしながら一の慣例としてこれに拠るということならば、何も憲法と抵触するということはできない。またある人は慣例でもともかくも実際においては君主の大権を制限することになるではないかと難ずる。しかし実際上の話をいうならば、政党内閣でなくたって、現にわが国において行なわれて居るところの、前内閣が後継内閣をその辞職の際に奏薦するという慣例や、また時として数名のいわゆる元老が集まって後継内閣の人選を相談するという慣例のごときも、また君主大権の制限といわなければならぬ。かつまた政党内閣という制度が固まっても、それでももしも君主がその慣例を破って、つまり大権本来の行使をなされようと思えば、なすことができるのである。現に政党内閣の制度のもっともよく固まって居るところの英国において、政治にはもっとも遠ざかっていたもうべきヴィクトリア女皇ですら、ときどき大臣の選任に干渉して、そのときの総理大臣を苦しめたという例は、最近に至って女皇の日記の公刊によって明らかになった。英明の君主がひとたび立って自分の考えを行なうということであれば、慣例なんていうものはいつでも無難に破ることもできるものである。ゆえに政党内閤という制度ができあがっても永久に君主の大権を制限してしまうものであるということはできない。また反対の

(第二)は無知の人民に政権に参与せしめるというのは子供に刃物を預けるようなもので、非常に危険なものだという説である。これもしばしば聞くところの反対論である。政権に参与するには、まずその政権参与の何たるかを知らなければならぬ。政治ということについて相当の知識が発達していなければいかぬという人がある。しかしながら私の考えでは、この説も民衆政治というものの本体を誤解して居るものだと思う。民衆政治は人民の相当の発達を前提とすることは一点の疑いを容れない。しかしその政治的方面の発達を絶対的の必要条件とするものじゃない。政治上のことなんていうものは、これは普通一般の人民はむろんのこと、よほど教育を受けた者でもそうよくわかるものじゃない。そういう高等なる程度の発達を民衆政治はつねに必ずしも、絶対的に人民に要求していない。たとえばこのごろ問題になって居るところの営業税廃止の可否いかんとか、あるいは地租軽減の可否いかんとかいうような問題を、国家的立場からして正当に判断しろといったって、これは大学の学生をつかまえたって、わかるものじゃない。代議士の中にだってわからぬ人がずいぶんあるだろうと思う。そういう問題の利害得失の判断をし得るものでなければ、政権に参与せしめないというなら、これはプラトーのいわゆる哲学者だけが政治をするという理想論になってしまう。民衆政治では、人民が自分のこれはと認むる人を議会に送って、その人をして議会でもって大いに活動させるんだが、この場合には人民から選ばれんとするものは、自分の政見を述べてこれを人民に訴える。その際に人民はいろいろな具体的の問題についてどっちの政見がよいというようなことを、十分に判断し得るなら、もとよりこれに越したことはないけれども、しかし実際は、多くの場合において人民はここまで判断するだけの力をもって居るものではない。それからまたかりにどっちかがよいとしても、その政見というものは時によって変わり得るものである。自分の選んだ人はいつまでも同じ政見であるということは必ずしも期しがたい。そこで民衆政治は人民に、その政見によってその判断をしろというようなむつかしいことをつねに要求するものでない。むろんこれもできればいい。できぬとすれば民衆政治はそんなら何を最小限度の要求として人民に臨むかというに、これは人格の判断である。つまり候補者になって争って居る人が、どっちが立派な人であるか、どっちが信頼するに足る人であるか、どっちが国事を託するに足る人であるかということを判断することを要求する。だからして人民が細目の政治上のことの判断などは、どうでもよいが、ただ心術の真偽を理解して、偽を(にく)んで正に(くみ)し、すべての正しきものを理解してこれに同情し得るだけのものがあれば、それで民衆政治を行なうにたくさんである。これだけのことを民衆政治はまずもって人民に要求するのであって、しかしてこれだけのものは、政治とか法律とか経済とかいう専門の知識がなくても、すべて人間として何人も持ち得る能力であるからして、これは決して過当の要求ではない。しかしてこの点からみるというと、多少の遺憾はむろんあるけれども、日本人民は決して民衆政治を行なうの資格ないものということはできぬ。しかのみならず一般民衆はいろいろな直接の、かつ具体的の利害関係にとらえられない、したがって個々の政治問題を考うる場合においても案外に公平なる意見を立てることができるものである。政権の参与を少数の人に限っておくというと、これがいろいろな利害団体と交渉がついて、国家問題に対して適当公平なる判断をなし得ないことがあるものである。たとえば今度の織物消費税廃止運動についても、一時はいわゆる当業者の意見というものは廃止に一致しておったようであったけれども、中ごろその足並みがよほど崩れた。したがって議会における運動の反映もまた歩調の一致を欠いた。これは何故かというと、機元(はたもと)と販売業者との間に利害の反対を来たして、織物税廃止を不利益とするところの販売業者の連中が盛んに運動をはじめた結果だということである。もしそれ航路補助法案が、各種の会社の運動によって、理論上からみて解することのできないようなへんてこなものになってしまったというのも、いかに国家問題が各種利害関係の運動から左右されて居るかということを示して余りある。そのことに当たって居るもの、またこれと近い関係に立って居るものは、とかくその境遇を超越して公平な判断をなし得ないものである。したがって、時にはそのことにまるで関係のない局外者の無責任な言論を聞くということも必要である。これを戦争に(たと)えても、戦略は直接に軍隊を指揮して居るものをさしおいて、比較的疎遠の地位にある参謀官連中の、いわば無責任の言論によって決するというのも、この点においてなかなか意味があると思う。ゆえに人民をして政権に参与せしめるということはこの方面からいっても大いに主張すべき理由があると思う。ついでにいうがこのことはまた同時に選挙権を拡張すべしという議論の根底にもなると思う。反対論の

(第三)は、またある他の一部の人は民衆政治の盛んなところには、つねにいろんな弊害を伴うということをいう。しかしこれはどこをさしていうのか。近ごろ日本では米国をモッブ政治などとののしって民衆政治の弊害に苦しんで居る国の標本と唱えて居るものがある。しかしこれは例の排日問題などで憤慨して居るところの感情論でなければ、まったく米国近来の政治史を知らざるところの暴論である。米国は、むろん民衆政治の弊というものを極端に暴露して居る国である。しかしながら他の一面において民衆政治の長所というものをも極端に発揮して居る。いま、場所によっては弊害と長所とかわるがわる争って居るところもあるが、しかしながら概していえば、その弊はすこぶる少なくしてだいたいにおいて民衆政治の利益を享受して居る。ことに中央政府のありさまなどをみるというと、実に羨望に堪えざるものがあるんで、決して政府の大臣などの間に収賄などというような忌まわしい嫌疑だに受くるものはない。今の大統領のウィルソンはむろんのこと、先代のタフトにしてもあるいはその前のルーズヴェルトやマッキンレーにしても、みな世界の歴史を飾るに足るべき偉人である。いな米国は建国以来、多少でも道徳上批難すべき人間は大統領に選ばれたことはない。その大多数は品格において、技倆(ぎりょう)のうえにおいて、優に一代の偉人であったのみならず、世界歴史の華というべき人物に富んでいる。つねにこういう人物を挙げて政権を託するところの米国を、いかにしてわれわれは民衆政治に苦しんで居る国と罵倒(ばとう)することができるか。またある人はイギリスでは選挙権拡張以来、議員の種が悪くなったという人がある。なるほどこれもある意味において正しい。なんとなればイギリスの議員というものは古来貴族や金持などがなったので、いわゆる精神においても外形においてもゼントルマンの集まりであった。それだから議員はみなフロックコートを着て、行儀正しくやって来るし、おたがいを呼ぶにもわが名誉ある紳士(オノラブル・ゼンツルマン)と呼びかける。実に行儀は立派なものである。しかるに選挙権が拡張された結果として、約二十年来だんだん労働者の代表者というものも議員に出て来た。そこでフロックコートを着ないで議場にはいるものもあるようになった。伝うるところによれば、一八九三年ケーア・ハルデーが労働者を代表する最初の議員として議会に出席したときは、汚ない労働服を着て鳥打帽をかぶって議場に現われて、六百の議員を吃驚(びっくり)させたということである。ちなみにいうが、ケーア・ハルデーは八つの歳から鉱山の鉱夫で、学校の教育なんてものはまるで受けたことのない純然たる労働者出身である。その後この種の議員がだんだん()えて、一九〇七年の労働党成立の最初の総選挙には五十人のこの種の議員を送るに至った。この点からいえばフロックコートが汚ない背広になったり、シルクハットが鳥打帽になったりしたんだから、種が悪くなったともいえる。しかしながらこれらの人は外形はゼントルマンでないけれども、精神までゼントルマンでないかというに決してそうでない。現にケーア・ハルデーのごときは道徳の点からみてもまたその人の見識の点からみても実に見上げた立派な人物で、さきに風采のあまりに従来の議員と違って居るので、むしろ軽蔑の眼をもって彼を迎えた議員は、日ならずして彼はわれわれの何人よりも、より以上の尊敬に値すべき人物なりと嘆称せざるを得なかったとのことである。その他同じく労働党の領袖(りょうしゅう)たるラムシー・マクドナルドのごときも、その着物こそ汚なけれ、その人物に至っては総理大臣のアスキスと相対して決して遜色(そんしょく)はない。今より両三年前、ヴィクトリア女皇の像の除幕式にドイツ皇帝がお出になったときに、皇帝は一夕マクドナルドを御旅館にお招きになって、数時間の長きにわたる会見を賜わったということである。現内閣の大立物たるロイド・ジョージのごときもまた選挙権拡張のおかげで代議士となった一人である。もしもロイド・ジョージが、後年イギリスの歴史を説く場合にあたって、グラッドストーンや、ビーコンスフィールドらに劣らざる大人物と認めらるるであろうという私の観察をして誤りなからしめば、つまり英国における選挙権の拡張は、英国の議会の種を悪くしたどころか、かえって反対にかくのごとき大人物を供給したのだといいたい。

 これを要するに、民衆的勢力の盛んなところには、いろいろな弊害が多いというのはまったく事実に反する。さらにスイスとか豪州とかの政治が理想的の政治として嘆称されて居るという事実をみたならば、思い半ばに過ぐるであろう。フランスはいささかいけないんであるけれども、それでもわが国にみるような弊害はない。もし政治上いろんな弊害があるという国を数うるならば、むしろ民衆的勢力のもっとも少ないロシアを挙ぐべきである。

 要するに民衆政治というものは、一部の人の憂うるがごとき(いと)うべきものでなく、かえって大いに歓迎すべきものである。一歩譲って是非得失の論は別問題としても、ともかくも民衆政治というものはこれ一の勢いである、世界の大勢である。憲法学者が何といおうとも、藩屏者流が何と論じょうと、民衆の勢力は日一日に張りつつあるんだから、なんともしようがない。私はこれを助長した方がよいという議論であるが、よしんばこれを悪いものとしても民衆政治をまったく抑うるということはできないということだけは、明白に認めて、そして国家の大計を案ずべきであると思う。

 

  四 しかし他面においてわが国今日の民衆運動は大いに憂うべきものあり

 

 民衆の運動というものは、まず自発的であって、かつ積極的である場合に、大いに政治上において重んぜらるべき値打を有するものである。人から煽動されて起こるのではどうもおもしろくない。なんら一定の要求がなくってただ破壊的に騒ぐということであっては、はなはだ憂うべきものであると思う。三十八年(1905)九月の騒動は、あれは全然自発的ということはできぬけれども、ともかくもある一定の要求というものが人民の間にあって、それが鬱結(うっけつ)して今にも爆発しそうになっておったところへ、これに点火するものがあって起こったのであるからして、ずいぶん非難すべき乱暴も行なわれたけれども、これに一種の意味はあったように思われる。しかるにこのごろのはどう考えても積極的かつ自発的とは思われない。どうもこれは、民衆の勢力というものはこれを結束してみるというと案外に強いものであるということを、三十八年九月に経験したところの一部の人が、ふたたびこれを利用して、事をなそうという頭があって、これらの者が煽動して、あるいは煽動せんとする計画に乗ぜられて起こったようなふうに感ぜられる。ことに今年の騒動のごときは全然消極的で、すなわち政府反対ということが唯一の主眼で、ほかになんら積極的の主張というものがない。民衆的示威運動ということは外国にもずいぶんある。しかし外国のはたいてい積極的の主義主張がある。たとえば一九〇七年以前のオーストリアの民衆運動のごとき、昨年四月大爆発をみんとし、今日なおときどき行なわれて居るところのベルギーの民衆運動のごときは、選挙権の拡張、もしくは選挙法の改正ということを眼目として居る。今日、ドイツ、オーストリア等でしばしば行なわるるところの示威運動は、食料品の値段の下落を目的とする関税改革を要求して起こって居る。フランスで労働者がときどき示威運動をやるのも、たとえば非戦論とか、軍備拡張反対とか、または三年兵役反対とかいうような標目を掲げて居る。単に現政府に反対するという漠然たる目的に騒いで居るようなところはない。こういう消極的の考えで騒いで居るというと、いつでもその手段が破壊的になって、革命的になって、やれ焼打ちだとか警察官との衝突だとかいうことになる。これでは全然フランス革命当時の乱民の騒動と何も違うところはない。もう一つは近ごろの民衆運動はいつでもどうも受動的である。自発的でない。現に日比谷公園に集まって居る連中をみると、何も積極的に主張のある人間が来て居るんじゃない、また積極的の主張のあるものは、そんなところへ来ない。来るものは時勢に慨するとか何とかいう、感情は(たか)ぶっておっても、まずだいたい脳中無一物であるところの下層級の人か、もしくは無責任の学生。しかしてこれらのものはいちばん煽動に乗りやすい。したがっていちばん危険な分子である。ここについでをもって申し上げるが、学生がこういう運動に参加するということは、これは今日の文明国ではロシアを除いてはほかになかろう。英・米・仏・独のような放胆な教育をして居るところは、学生は平常盛んに政治を論じて居るけれども、こういう運動にはいっこう加わらない。画一主義の教育を施して、個性の尋常なる発達を妨げており、かつ政治のことに携わることを厳重に取り締まって居る国ほど、学生がこういう運動に参加したがるようだ。現にロシアに騒動が起こったといえば、その中心は必ず学生だ。いったい私は学生の政治を談ずることはいっこう差支えないと思う。しかし民衆の運動の中心となったり、少なくともこれに参加するということは、学生にとって好ましいことじゃない。この点はロシアの例などを(かんが)みて識者の一考を煩わしたいと思う。

 要するにわが国今日の民衆というものは、いま申したようなわけであるから、容易に野心家の利用するところとなるという傾向があると思う。これではますますフランス革命当時のモッブと違わないものとなるので、とうてい民衆の健全なる発達ということを期することはできない。民衆運動というものは自発的に起こって、そして積極的の主張に基づいて起こるんでなければ、政治の発達のうえにはおもしろくないものである。西洋の多くの示威運動などの例を見ると、たいていみな一定の主張の下に自発的に起こるんだからして、集まる者は多くは現実の問題に現実の利害関係をもって居る者ばかりだ。現に私の見聞したところによると、示威運動に参加するものは通例中年の労働者階級の人で、たいてい女房・子供を連れて来て居る。それだからその運動には明白に、一つの国民的運動という色合いと意味とがあらわれておって、それと同時に非常に静穏なもので、決して破壊的のようなことはない。こうなければだめだと思う。

 この点からみるというと、最近の政治運動のごときは、新聞で何といったってあれは実は国民大会じゃない。しかしながら、むろん私はあの運動をもって、国民の考えとまったく没交渉のものとはみない。ただ、あれでもって国民の意思のそのままのあらわれとするわけにはいかぬと思う。いずれにしてもわが国今日の民衆運動というものは、ある意味において一つの政治上の進歩とはみるけれども、他の一面において非常に不健全な方向に向かって居ると思う。

 

  五 畢竟するに憲政の失敗

 

 民衆運動に、よしんば前項に申したような弊害がつきまとっていないとしても、実は民衆運動の盛んに起こるということは畢竟(ひっきょう)するに憲政の失敗を意味すると信ずる。何故かというに、立憲政治というものは他の言葉をもっていえば議会政治である。すなわち議会は民意によって動き、政府は議会によって動くとする制度である。なるほど憲法論においては議会は民意と交渉なしなどという議論もあるけれども、これは乾燥な法律論で、政治の議論のうえにおいて顧みる必要はない。政治上の立前からいえば、民意は議会を監督し、議会は政府を監督するものである。

 この議会政治にも近ごろはいろんな反対の議論が起こって来た。その反対の議論のおもなるものの一つは近ごろ流行のサンジカリズムで、一つはレフェレンダムである。サンジカリズムの議論では、民意をして議会を通して発動せしむるという間接の方法は、民意を如実に発動せしむるゆえんではないという立場からしていわゆる直接行動ということを唱える。議会政治を否認して、ストライキやらその他の革命的手段を推奨して居る。レフェレンダムにおいては、議会は国民の意思をつねにそのままに発表することができないものであるという事実を認めて、ただ国民全体の意見を、問題のたびごとに徴するということは不可能であるからして、通常の場合においては議会政治を認めているけれども、重大な問題に限って、不完全なことのあり得るところの議会によらずして、国民の意思を直接に聞こうという考えに基づいて居る。この二つの考えはともに議会政治もしくは代議政治というものに反対の考えをもって居るものである。

 しかしながら右のごとき反対があるにかかわらず、議会政治というものはだいたいにおいて今日最良の制度であるということは疑いない。豪州の一九〇〇年の憲法、スイスの一八七四年の憲法、最近におけるアメリカ合衆国の中の十ばかりの州の憲法では、このレフェレンダムというものをある一定の条件の下に認めて居るけれども、その他の国においてはこれすらも認めない。みな等しく代議政治という主義を採っている。これ畢竟この制度は今日のところ考え得べき最良の制度であるからである。私はこの点は同じ考えである。

 私の考えでは最良の政治というものは、民衆政治を基礎とする貴族政治であると思う。いわゆる貴族政治だけで民衆政治なければだめである。今日、わが国の政治はまさにこの弊に苦しんで居る。また、いわゆる民衆政治だけで貴族政治という方面なければ、これもまただめである。フランス革命当時の歴史がこれを証明している。そこで国民が一つの偉大なる精神に指導せられて動き、また、その精神をもっとも多く体得して居るものが、また国民の監督を受けつつ政治をするということであれば非常に結構だと思う。しかしてかくのごときが実は本当の民衆政治だと思う。しかして今日の英国はまさにこれである。英国において政治をするところのものは社会上・道徳上・知識上のみな貴族階級の人である。彼らはその品格と知識とをもって国民を指導し、しかしてまた国民の感情を全然無視せずしてその要求の那辺(なへん)にあるかということをみて政治をして居る。であるからしてどこまでも基礎を民衆主義において居る。アメリカはときどき脱線するけれども、だいたいにおいてやはり英国と似ている。フランスは小党分立のために往々、民衆主義と貴族主義との調和がうまくとれないことがある。ドイツでは二つのものの間に直接の交渉がないようになって居るけれども、貴族主義の方がなかなか利口で容易にぼろを出さぬ。で程度の差はあるけれども、ともかくもだいたいにおいて民衆主義を基礎として政治が立派に行なわれて居る。これがすなわちレフェレンダムなどよりも代議政治というものを私が採るゆえんである。なんとなれば予のいわゆる貴族的民衆政治はこの代議政治においてはじめて可能なるものであるからである。

 さて、この代議制度が、その運用がその本来の理想のごとく円滑に行なわるれば何も事がない。これが円滑に行なわれないときに初めて民衆的示威運動というものが起こるものである。今日西洋の文明国で民衆運動の行なわるる場合には二種ある。一つは国民の小部分たる一階級がその要求を貫徹せんがためになすもので、たとえば英国の婦人参政権運動のごとき、または諸国における一部分の労働者のストライキのごときこれである。これらは国民全体の要求とは違う。であるからしてだいたいにおいて国民の承認を得ること難い。ゆえに彼らは非常手段に訴えて社会を威嚇(いかく)して、そしてその目的を達せんとするものである。第二のものは国民の大多数がその要求をば立憲政治の尋常の方法では貫徹することができないというときに行なわれるものである。これは制度そのものに瑕疵(かし)のある場合によく起こるものである。そのもっともいちじるしい場合は、選挙法が不都合なために人民の多数の希望が議会にあらわれて来ない、したがって議会でもって多数の要求を達することができないという場合に行なわれる。たとえばオーストリアにおける選挙権拡張運動のごときすなわちこれである。オーストリアでは一九〇七年に全然普通選挙になった。このオーストリアの新選挙法はこの点において世界の模範的の法といってよい。しかしこの法律のできる前は一八七三年の法律が行なわれておった。この法律によれば、国民を四級に分けて、第一級の大地主というものはこれは法人も婦人もみな含んで居るが、少数の団体でありながら、議員総数三五三人の中で八十五の議員を出し、第二級は都会における商工業者であって、十円以上の税金を収むる二十四歳以上の男子は一団となって二十一人の議員を出して居る。第三級は商業会議所および工業会議所であって、これは一一六人出して居る。さらに第四級は第二級と同じ条件を()たして居る田舎の農業家の団体であって、これは一三一人出して居る。それで農業者は一万人以上で一人の代表者を出して居るし、商工業の会議所は二十七人でもって一人の代表者を出して居る。大地主は六十三人でもって一人の代表者を出して居るわけになって居る。この制度のはなはだ不都合なるのはいわずして明らかである。そこで国民の大多数を占めて居る労働者階級は盛んに選挙権拡張を主張した。政府ならびに議会はむろん自分の勢力の失墜するのを恐れて承知しない。そういうことであれば民衆は示威運動をするよりほかに途はない。後に至って十円という制限は五円に下がり、また一八九六年には民間の要求が激しいものだから、政府はさらに第五級の選挙権者というものを作って、財産上の制限にかかわらない一般の人民に選挙権を与えた。しかしながら彼らの代表者を出し得る数はわずかに七十二人に過ぎない。そこで紙のうえでは普通選挙は()かれた。しかしながら四二五人の議員中たった七十二人では労働者の要求というものはまるでものにならぬ。ここにおいて民衆はさらに完全なる普通選挙を要求するという趣意で盛んに示威運動をやって、この間にいろいろの曲折はあるが、一九〇七年に初めてその目的を達した。

 また同じような趣意で、ベルギーにおいても近ごろ民衆の示威運動というものがある。昨年の四月、同国の社会党の首領で、今日世界的偉人の一人とみてもよいところのヴァンデルヴェルデは、すこぶる大規模のストライキをやるという計画を立てた。これはひとりベルギーのみならずヨーロッパ全体の利害に関する大問題であるというので中に熱心仲裁する人があって、実行はされなかったけれども一時は世界を騒がした。これも何かといえば選挙法改正の要求だ。ベルギーでもなるほど普通選挙の制は採用して居る。またいわゆる比例代表制度の模範として称せられて居る国であるが、しかし他の一面において同国の選挙法というものははなはだ不公平である。なんとなれば財産と年齢と教育の程度と、それから職業の種類、また未婚者であるか既婚者であるか、また子供の有無等によって、ある者は一票の投票権を有し、他の者は二票、三票の投票権を有して居る。そこで保守的のものは人数が少なくとも選挙場裡ではいつでも勝つという結果になる。こういう選挙法の結果として、ベルギーでは保守派が今日すでに三十年間政権を握って居る。もっとも従来久しく自由党と社会党とは調和しなかった。しかしてこの二つの党派は単独にては保守党に当たることはできなかったから、保守党の政権を握っておったことはやむをえぬけれども、一九一一年、初めて自由党と社会党とは提携した。そこでことによったらば自由党と社会党というものは保守党を(くつがえ)すことができるかもしれんということを予想する者あるに至った。かつまた同国においては人口の増すとともに議員の数を増加するという憲法上の規則がある。そこで一九一〇年末の人口調査の結果として議員の数は新たに二十名を増加して、一八八人にするということになった。しかして議員数の増加ということに均霑(きんてん)する地方はおおむね自由党および社会党の盛んなる工業市地方であるからして、この点からみても自由党と社会党というものはよほど都合のよい状態にあった。そこでまず一九一一年八月、示威運動をやった。さすがはストライキの本場と称せられて居るベルギーだけあって、秩序整然としたものがあったということである。この年の十月に各地方議会の議員の改選があった。この選挙では自由党と社会党との提携は見事に成功して保守党を圧倒したところが少なくなかった。そこで一九一二年五月の国会の総選挙ではいよいよ保守党は没落して、天下は自由党と社会党のものとなるだろうと、敵も味方も、国内でもまた外国でも疑うものはなかった。ところが総選挙の結果は案外にも、保守党は崩れざるのみならず、かえって前よりも党員を増した。そこで世人は吃驚したが、また他の一面においてこれ畢竟、選挙法が不都合であるからだという感を深くした。人数からいえば、自由党・社会党の連合ははるかに保守党を凌駕(りょうが)して居ることは、統計上一点の疑いない。しかるにもかかわらず、議会において多数を占めることできぬというのだから、自由党・社会党が現選挙法に大不平をいだいてその改正を迫るはまず当然といわなければならぬ。しかして保守党ならびにこれを基礎とするところの政府は、現選挙法そのものが自分らの権力の根拠なんだからして、この要求には断固として応じない。そこでもって社会党の側は、「天下を騒がしてまことにお申し訳はないが、ほかにいたしかたがないからやむをえないんだ」というて涙を(ふる)ってこの大々的示威運動をなすということになった。

 要するに西洋では、右申したような場合に民衆的の示威運動が行なわれて居る。いずれにしても、立憲政治の尋常(ノルマル)な運動じゃない。ゆえに立憲政治の失政とみてもよい。あるいは憲法政治の瑕疵の一つの結果とみてもよい。しかし瑕疵であってもあるいは失敗であっても、こういうふうに堂々とやるならばまだ頼もしいと思う。日本のはどうかというと、悪く解釈をすると現在の政府を倒すことに利害関係をもって居るものがその目的を達するの手段として民衆の勢力を利用するのではあるまいかと疑わるる点がある。せいぜいよく解したところが、いわゆる多数党と政府と結託をして曲事を行なっている、しかして議会における尋常の手段では、これを糾弾することができぬからして、そこで示威運動に訴えるのだとみるよりほかはない。こういう次第でもって示威運動をやるのは、天下一品であって、わが国のほかにあまりその例はあるまい。どうしても健全なる発達の徴候とみることはできぬようである。

 

  六 いわゆる専制的憲法論にも同情すべき点あり

 

 わが国においてこの民衆的運動というものの真相が右のようであるとすると、これではたして民衆は十分に議会を監督することができるやいなや疑わしい。現在のことを申せば議会を監督すべき民衆がかえって煽動家に利用せられて居る気味があるではないか。もし民衆に議会を監督するだけの働きができぬとならば、民衆政治というものは十分にその効用を発揮することができぬ。したがって民衆の監督の外にある議会をして政府を監督せしむるということは、一面においてはなはだ危険なことであるといわなければならぬ。こう考えて来るというと、議会の権限を広く解釈するということは日本の現在のうえにはたしてよいものだろうかどうかという疑問は当然起こらざるを得ない。先ごろ新聞で伝うるところによると、帝国大学の上杉博士は、帝国議会が不信任案や上奏案を議するのは憲法違反である、日本の憲法は議会に対してかくのごとき問題を議すべき権能を与えていないと、学生に向かって教えたということであるが、上杉博士ははたしてかくのごときことをいったかどうかは私は知らない、しかしかくのごとく帝国議会の権能を非常に狭く解釈をするという憲法論は、一部の人の間に確かに行なわれて居るということは事実らしく思わるる。純粋の法律論としてかくのごとき結論に到達するのは別論として、老人などの間には日本の現状に鑑みて、真に憂国の至情よりこの種の憲法論を是認せんと欲するものも少なくないと思われる。こういう人の考えには実は私も無限の同情を表する。民衆の状態かくのごとく、議会のていたらくかくのごとしとすれば、議会に行政監督の広い権限を認むるということはよほど危険なことである。しかしながら他の一面からいえば、もし議会の権能というものをかくのごとく狭く解すべきものであるならば、すなわち法律と予算を議定するということだけにとどめて、ほかは何事についてもその意思を表示することができぬとするなら、議会を設けたという特別の意味は消滅するであろう。昔のように元老院というようなものにこの任務を託してもよかろうし、あるいは今日の法典調査会というようなものにこの任務を託してもよいはずだ。わざわざ議会のごときものを設けたという意味は決してそんなものじゃない。わざわざ面倒な手続きを尽くして議会を設けたというものは、畢竟これを政治の中枢として十分なる活動をなさしめて、一般の政治を完全に監督せしむるという趣意にほかならないのである。しかしてこの任務は議会が十分に民意を代表しかつまた十分に人民から監督されて居るということでなければこの目的は達せられない。しかしてわが国の現状は遺憾ながらこの目的を達するにいまだ満足すべき程度に発達してはいないのである。しかし、さすればといっていったん民衆政治というものを理想的なる政治主義と認定する以上は、私は一部の短見なる論者とともに、議会の権能をきわめて狭く解釈して、一時を弥縫(びほう)するということにはとうてい左袒(さたん)することはできない。むしろ憲法政治に通有なる解釈はそのままこれを採って、そして他の一面において民衆の開発にさらに大いに力を捧ぐるこそ識者の心がくべきことと思う。

 

  七 民衆運動に対する今後の方針

 

 民衆政治はわれわれの結局の理想であるとすれば、どうしても現今存在するところのもろもろの欠点は取り除いてこれを善導して、そしていわゆる憲政有終の美を()さしむるに尽力をするほかにしかたがない。これにはいろいろの方面からその途を講ぜねばならぬと思うが、だいたいにおいて二つの方面があると思う。

 第一の方面は憲政の運用を円滑ならしむる方面の改革である。いったい民衆の騒動ということはとかく憲政の運用が円滑を欠く場合に限りて起こるんだからして、これを円滑にしておけば心配はない。円滑ならしむる方法としてはいろいろなことがあるだろうけれども、まず第一着には選挙権の拡張と、選挙区の公平なる分配であると思う。選挙権が拡張されてもドイツ帝国議会の選挙法のごとく、選挙区の分配が不公平であっては憲政の運用が妙ではない。それから政党内閣の樹立ということが、憲政の運用を円滑ならしむるに必要な改革である。もっとも政党内閣が完全に行なわるることについては二大政党の対立ということが必要である。政党が二つの大きい団体にまとまるかどうかということは、これは勢いの決するところであって、選挙権の問題のごとく一片の法律できまる問題じゃない。ゆえにわれわれの努むべきところとしては、少なくとも政党内閣の発達を妨ぐべきもろもろの事情があるならば、それを取り除くということでなければならぬ。このことについてはほかにまた多少の意見があるけれども、これは他日改めて意見を述ぶる機会があるだろうと思う。

 第二に民衆それ自身の開発のためにいろいろなすべきことがあると思う。それにもだいたいにおいてさらに二いろある。その第一はいうまでもなく経済的開発である。どうも生活が楽でないと軽挙妄動(もうどう)しやすい。かつまた野心家などからして利益を掲げて利用さるる恐れがある。たとえばメキシコにおいて、昔から今日まで騒動の絶えない、その一つの原因は、貧民が多くして野心家が多少の給料を餌にして人を集めると、いくらでもその人のために兵隊になるものがあるのと、一遍その味を覚えたものは、正業に就くよりも兵隊になっておった方が飯が喰えるからして、()めらるることを非常に(いと)うということにある。同じようなことはシナにもある。苦力(クーリー)などを集合して革命の旗を挙げたけれども、一度革命騒動が収まってからはこれを解隊するに非常の困難があった。こんど政友会でもって三多摩の壮士をいくらかの金をくれて雇って来たというのも多少似たところがある。つまり金で働くような人間が多くあるということは非常に危険なことである。恒産あれば恒心あると昔からいってるんだから、民衆の勢力というものを健全なところに落ち着かせるには、どうしても社会政策を大いに行なって、下層階級の生活の安固を計るということが必要だと思う。この点はよくドイツとフランスとを比較すればたちまちわかる。ドイツは、社会党などの議論はフランスよりも激烈であって、社会党の勢力もフランスよりも非常に強いにかかわらず、ドイツの社会党はフランスのそれに比して実際上大いに穏健なのは、畢竟ドイツはビスマルクの見識に基づいて大いに社会政策を行なって労働者の生活というものがすこぶる安固であるからである。

 しかるに顧みてわが国の状態をみるというと、社会政策などいうものは一つも行なわれていない。いな下層階級の利害というものはさらに顧みられていない。今年の二月二十一日の貴族院予算会において、三宅秀・桑田熊蔵らの諸氏は、工場法をすみやかに実施せよということを政府に迫った。ところが山本農相は答えていわく、「財政整理その他の都合上、遺憾ながら実施することを得ずしてやむをえず延期す云々」。「その内容においてもまた一方に可なれば他方に不可なる等の事情もあり云々」。一方に可なれば他方に不可だというのは、暗に放府は資産家の圧迫を受けておって工場法の実施を躊躇(ちゅうちょ)して居ることを示して居る。いったい日本の工場法案は、工場法などといって世界に出して恥ずかしいほどの、労働者保護の手薄い法律であるのに、それですら資本家の圧迫を受けてできないというのは、いかに下層階級の利益が無視されて居るかということを明示して居る。しかして財政上の都合で延期したというけれども、工場法実施の準備金はわずかに五万円である。一方においては産業奨励特別免税法案という美名の下に特権の事業家に保護金を与うるというような制度を考えて居るところの政府が、もっとも大切な労働者の問題に、わずか五万円の金が出せないという理屈はないはずだと思う。

 その他こんど行なわれた租税軽減の諸案のごときも、桑田博士が二月十九日の予算会議において述べられたとおり「その減税方針はあるいは富者に偏し、あるいは資本家に偏し、下級民に対しすこぶる不公平なるうらみなきを得ず。昨年減税の所得税は最下級民の均霑(きんてん)するところにあらず。今年すでに衆議院に提出の相続税のごときもまたしかり」で、下層階級の生活問題などいうことは、ほとんどまったく、政界の省みるところとなっていないようである。三月九日の衆議院の委員会が、国民党提出の外国米輸入税廃止案を、農業奨励という理由で、否決したるがごときも、米を買って食うところの貧民よりも、米を売って贅沢をする地主の利害を先にするものであって、これもまた社会政策の趣意には全然背くものと思われる。これを要するに、今日わが国の政界においては社会政策ということはほとんどまったく実際において顧みられないといってよい。これはわが国の将来にとってもっとも憂うべき現象であると思う。

 次に民衆それ自身の発達のために考うべき第二の点は、その精神的の開発の方面である。この中でまず第一着に考うべき点は、民衆の政治教育を盛んにするということである。これは今まではさっぱり行なわれていない。いったい政治教育のもっとも大事な機関というものは政党である。西洋なぞでは、政党はもとより直接に民衆の教育ということを主眼にして居るのじゃないけれども、平素自分の立場を民衆に訴えて、そしてその民衆の間に自分の根拠を()えようとして居るからして、つねにあらゆる方法をもって民衆に接することを怠らない。まず演説会をよくやる。新聞を出す。時々の問題について絶えず小冊子などを発行して居る。しかるにわが国の政党はいかん。有力な機関新聞をもって居るか。また時々の問題について党の立場を説明すべき小冊子などを出して居るかというに、ちっとも出していない。西洋であれば、たとえば二個師団増設問題というがごときものがあるとか、あるいは海軍の拡張問題というがごときものがあれば、各政党はただちにこの問題を説明して、そしてこの問題に対する自党の意見をもっともわかりやすく書きあらわした小冊子を出して居る。われわれ外国人でも、時事問題について一定の意見を立てようとすれば、政党本部の付属の本屋に行けばよい。そのほか各政党は毎年詳細な年報も発行するし、また時には立派な研究の立派な本を発行し、これを安い値段で売り弘めて、事実上民衆を大いに政治的に教育して居る。しかるにわが国ではこれが行なわれていない。これも畢竟、選挙権がまだ制限されて居るんだからして、そこで賄賂(わいろ)その他の買収手段が行なわれて、選挙は必ずしも言論に訴えなくてもよいことになって居るからである。さればわが国では平素、民衆を教育して自分の党派の立場を説明して居るということは、党勢拡張のうえから必要なことでない。そこでこの方面を怠って居るのだろうと思う。政友会にしても、同志会にしても、国民党にしても、また中正会にしても、一つも堂々たる継続的の機関新聞というものはない。その党報のごときもある党では発行はして居るけれども、内容はすこぶる貧弱なもので、また、その頒布にも勉めていないからして、雑誌屋の店頭などに飾ってない。読まれても読まれなくても差支えないという顔つきをして居る。いわんや時事問題に対して適切な意見を小冊子のかたちにおいて発行するなどいうことはほとんど一つもやっていない。演説はよくやる。けれども政府党となるとさっぱりやらない。たとえば昨年桂公を倒すときには、政友会の連中も他の党派といっしょに盛んに演説会をやった。しかしいったん政権を握って政府に立つというと、もう民衆には用はないというような顔をして、さらに公開の演説などにも出て来ない。そこで民衆は反対党の演説だけを聞く。つまり片一方だけを聞く。いわゆる片言もって訟を断ずであって、政府の悪い方だけを聞くから、考えが消極的・破壊的になるのも無理はない。現にこのごろ新聞その他の論調によってみると、いわゆる営業税全廃論が盛んなようである。しかしながら学説上からいうと、営業税の今日の賦課法は、あるいは適切を欠いて居るかもしれぬけれど、これを全廃するということはまた決して正当でないということに説が定まって居るということに聞いて居る。こんなことも民間の攻撃に対して政府もまた()ってその弁明を民衆に訴えるなら、民衆はここに正当な判断をなす機会を得るんであろうと思う。しかるに政府側は何もいわぬからして、民衆は片一方のいうことばかりを聞いて判断することになる。ひとり民衆に訴うることを怠るのみでない、政府がまた議会においてする答弁のごときでもその不親切を極むること驚くべきものである。ことに外務大臣の答弁のごときは、あるいは「これ外交の機微に関するがゆえにここに明言するあたわず」とか、また、あるいは「帝国政府は全力を尽くして該案の解決に力を(いた)しつつあり」などといって、さらに()に落ちるような答弁をしてくれぬ。いったい外交は秘密というけれども、たとえば三国同盟のごとくドイツがロシアから戦いを(いど)まれたときに、オーストリアが(たす)けるとかいったようなことは、むろん秘密とすべきものだが、そんなこと以外は、何も秘密にすべき必要ないのみならず、かえって平常事情を明らかにしておく方が国のためによいと思う。かの幕末にあたって、幕府は開国のやむべからざることを万々承知しておったけれども、なにぶん民間では海外の事情に通じないために尊王攘夷(じょうい)の説が激しかったからして、幕府は開国の必要ということと、民間の攘夷論との間に板挟みとなって、非常の窮境に陥ったのも、一つには時の政府が外交を人民に秘密にした天罰である。私、ひそかに思うに、今日の対米外交においてもあるいは政府はこういう窮境に陥っていやしないかと思う。もしも対米外交の次第を早くから民間に明らかにしておいて、いわゆる日米問題に対して民間の輿論(よろん)をば正当の解決をなすように導いておったならば、今日政府はあるいはこの問題についてよはどその苦痛を減ずることができたかとも思う。しかしこれは私の一片の推測に過ぎないんだからして事実に当たらぬかもしれぬ。しかしながら政府・政党ともに、この大切なる民衆の政治教育を等閑に付して居るという(とが)めは免るることできまいと思う。

 精神的開発のいま一つの方面は、狭義の精神教育––これは主として道義的開発の方面をいうのである。すなわち民衆を開発して正義の声を理解しこれに同情し、またこれに響応するだけの素養を作ることにつとめたいと思う。もしこれがないと民衆政治というものは、ややもすれば腐敗堕落して、その堕落の底から浮かび上がることができぬことになる。この点においてわれわれのもっとも感ずべきはアメリカである。ことにニューヨークの市政においてこれをみる。ニューヨークにおいては例のタマニーホールというものが跋扈(ばっこ)しておって、同市の市政のうえにすこぶる大いなる障害を与えて居る。一時はその弊害は極端に達するも、しかも何人(なんぴと)かひとたび起って獅子吼(ししく)すれば、さすがにアメリカの民衆の精神の底には、その正義の声と共鳴するものがあって、民衆また猛然として起って腐敗の空気を一掃しなければやまないという意気を示す。現に近ごろ三十そこそこの一青年が、ひとたび起って市政の刷新を唱えてついに挙げられて市長になり、とっぴだがしかしまたすこぶる痛快な改革をなして、在来の弊習を一掃しつつあるという報道のごときは、われわれの何ともいえぬ欽羨(きんせん)の感情をもって聞くところの話である。こういう程度まで民衆の精神的発達を引き上げるということは非常に必要なことであって、かつこれは間接であるけれども、実は民衆政治の発達のうえからいっていちばんに根本的な点であると思う。この点については私は世の教育家ならびに宗教家諸氏に向かって多大の期待をもってその尽力を要請せんとするものである。

(初出『中央公論』大正三年四月号)
 

 民本主義鼓吹時代の回顧

 

   一

 

 私がいわゆる民本主義の鼓吹を目的とする論文を『中央公論』に書いたのは大正五年(1916)一月である。「憲政の本義を説いてその有終の美を()すの途を論ず」と表題も長いが紙数も百ページにあまる、あのころとしては珍しい長い論文であった。しかし内容にはもとより別段の新しみもなければ、とくに識者の注目をひくに足るべき創見もない。ゆえに一部の人からは、いたずらに冗漫を極めたかつ浅薄な駄論として(そし)られたのであるが、しかし一般の論壇は案外これを重視したものとみえ、いろいろの人からいろいろの評論が書かれたばかりでなく、私の論文を中心としてさらにまたいくたの波紋がえがかれ、爾来こうした方面の政治評論はとんと隆盛を極むるに至ったようである。これしかしながら私の論文になんら卓抜の見あるがためにあらず、ただそれがちょうどあのころ政界の問題になりかけていたほとんどあらゆる点に触れ、かつこれに相当詳細なる釈明を与えつつ、当時欧州先進国等の提示せる諸解決をややわかりやすく書きつらねたからではなかったろうか。ゆえにもし私の論文に多少の取るべきところありとせば、そはその学的価値に存するにあらず〔この点はむしろ今日私の大いに慚愧(ざんき)するところである〕、たくみに時勢に乗ってその要求に応ぜんとした点にあるのだろう。したがって私があの論文において何を語ったかを吟味するは、また一面においてあの時代の要求の何であったかを明らかにするゆえんにもなると考える。以下、当年の時勢を語らんとして少しく私自身を語るに過ぐるを許されたい。

 

   二

 

 あの論文において私の主張せんとしたところは、要するに次の数点に帰する。ただしいま手もとに原文を持っていないからいちいち精密に対照するわけには行かぬが、記憶をたどって書いても大した誤りはないつもりである。

一 近代の政治は人民の意向を枢軸として運用される、またかく運用されなければならぬ。この意味において輿論はすなわち政界における最終的決定者だ。

二 いわゆる輿論は形式上人民の多数によって作らるる。これを逆にいえば、いかなる思想も一人でも多くの賛同を得ることに努めなければ「輿論」という特別の地位を占め得ない。したがって「輿論」の生成の実際的過程にあっては、つねに諸思想の生存競争が行なわれる。しかしてこの生存競争の正当に行なわれるかぎりにおいて、多数の支持協賛によって生まれる輿論に道徳的価値が認められ得る。これと同時に、合理的に行なわるる生存競争が一般民衆に対して多大の教育的効果あることもまた申すまでもない。

三 「輿論」となるべき思想そのものは、概していうに、現代の民衆の直接に与り作るところではない。それの実質的創成はつねに少数の哲人に待たねばならぬ。したがって政界の進歩を(つかさど)る指導的原理は、少なくとも現代にあっては、必ず少数哲人の作るところである。ゆえにたとえばモッブによる一時的政権専占というがごとき例外変態の場合を除けば、あらゆる形態の政治は内容的にはみな哲人政治だといえる。

四 ただ近代の政治は、少数哲人の思想をただちに指導原理としてこれに最高の形式的地位を与えぬ点において、旧時の専制政治と違う。専制政治においては、何が最高最善の思想であるかを機械的に決め、これに反対する考えの存在を絶対に許さず、しかしていっさいの問題の解決をこれに託して安んじ得べしとする。これに反していわゆる近代政治にあっては最高最善と称するものの多数存在するの事実を認め、そのいずれをもって真に採るべしとするかは、直接に利害の影響をこうむる一般民衆の明知によって判断せしめんとする。ゆえにいわゆる輿論を実質的に創成するものは少数哲人だけれども、これを形式的に確定するものは民衆だということになる。

五 この点において近代政治の理想とするところは絶対的民衆主義とは相容れない。十八世紀末の欧大陸に一時流行したような、しかして昨今ある一部の人が宣伝的にいいふらすような、一般民衆それ自身がただちにすべての問題の決定者たるの能力を完全に具備すとなすがごとき説明は、とうていその納得し得るところではない。実際の運用からみても、今日の民衆はつねに少数専門の指導者を必要とし、いわゆる指導者はまた民衆とふだんの接触を保つことによってますますみずからの聡明をみがいて居る。要するに民衆は指導者によって教育され、指導者は民衆によって鍛錬される。彼此たくみに相連なるのこの関係を表示せんがために、私はことさらに貴族的平民主義だの平民的貴族主義だのという言葉を使ったこともある。

六 かく論じて私は、近代政治の理想は要するに最高最善の政治的価値のできるだけ多くの社会的実現を保障するところにあると説いた。しかしてそれの数ある特徴のうちもっともいちじるしいのが民衆の意向を重んずるという点にあるので、かりに私はこれに民本主義の名称を与えたのであった。

 ここに、ついでにちょっとことわっておきたいのは、民本主義という言葉は私の作ったものではないことである。民主主義と率直にいってはその筋の忌諱(きい)に触れる恐れがある、これを避けてこんな曖昧(あいまい)な文字を使ったのかと非難されたこともまれでないが、そんな非難はあえて気にかけるにも当たらぬとして、事実私の作ったものでないことだけは、一言これを明白にしておきたい。私がこの文字を使ったのは、当時すでにこれが多くの人から使われておったからなのだ。もっとも多くこの文字を使っておられたのは茅原華山君であったと記憶する。欧州留学から帰りたての私は突如こうした用例に接し、なるほど便利だと思って、ちょっと踏襲してみたまでの話、実はあまり適切な表現とは信じていなかった。ゆえにその後の論文には必ずしもこの例に拘泥せず、率直に民主主義と書いたこともたびたびある。民本主義なる文字の創唱に関してはかつて茅原華山君が自分でおれが作ったのだと名のられたことを記憶して居るが、同じようなことを上杉慎吉君の書かれたものの中に見たこともある。

七 さて右の趣旨を貫徹するための制度として、現今開明諸国に通有なる立憲代議制は適当かというに、これには種々の異説がある。本質的にだめだという説もあり、そうでないとしても今のところとうてい改善せらるべき見込みは立たぬという説もある。いわゆる議会否認論も昨今なかなか優勢だが、しかし私は在来の憲政運用にいくたの欠陥あるを認めつつ、なおこれに改善を加えて、理想的状態に向上せしめ得るとする通説の立場を執り、この見地から主としてわが国の現状を批判し、二、三の改革意見を述べたのであった。当時フランスなどにてはサンジカリズムの運動がだんだん頭をもたげつつあったけれども、全体として大した勢力ではなく、ロシアはいまだ帝政の下にあったので、議会否認の見地に立つ諸説明には、当時として実はそれ以上深き攻究を払う実際的必要もなかったのである。

八 今日の立憲代議の制度の下において、前述の理想を貫徹せしめんには、何よりもさきに下院の地位に深甚の注意を払わねばならぬは論を待たぬ。この点においていちばんに問題になるのは普選の実行だ。ただし普選といってもそこには種々の段階がある。何がもっともよく下院を少数有産階級の独占から救い出し、これを完全に多数民衆の利害休戚(きゅうせき)の発現所たらしめ得るか。この目途を明瞭に意識してのみ、はじめてもっとも正しきかたちにおいての普選法が()られ得る。ドイツではただ普選といったのでは間違いが起こるとて、「普通・平等・直接・秘密の投票権の獲得」を叫んでおった。選挙権の単純なる拡張だけでは何にもならぬのである。次に大切な問題は民衆をして正しく投票せしむるよう細心の注意を施すことである。選挙期は、理想的に進行すれば国民一般に対し驚くべきほど深刻な教育的効果を伴うものであるが、一歩を誤るとこれと正反対に取り返しのつかぬ大弊根を植えつけることにもなる。甲乙いずれになるかは主としてもとより国民自身の問題だけれども、国家の力をもって多少干渉のできぬこともない。これと同時に、また教育された国民が何者にも邪魔されず良心の命ずるまま自由に投票し得ることでなければこれまた何にもならぬ。これがためにも相当に国家の力の働く余地はある。かくして私は普選の実行とともに選挙取締規程のとくに慎密の攻究を要するゆえんを説いたのであった。けだしこれがなければ、下院は真に民衆意向の発現とならず、爾余の改革は畢竟砂上の楼閣に過ぎぬことになるからである。

九 さていっさいが注文どおりに運んで、下院が完全に民意を表現する機関となったとする。さすれば下院の意思決定は国家内において最高最善の価値を要請し得る地位に立つのだから、その中の多数党が進んで内閣を組織するという慣行を生ずるは自然でもあり正当でもある。私は政党内閣または議院内閣論を支持して、いわゆる大権内閣説なるものの謬妄(びゅうもう)を指摘するにずいぶんと骨を折った。今となってはあんな問題に力こぶを入れたのが気恥ずかしく思われるほどだが、これも時勢だからしかたがない。大隈内閣のようやく影が薄らいで来たときとて、こんな幼稚な憲政論が実際上なかなかの大問題であったのだ。多少身辺の危険を覚悟せずしてはあの程度の論陣でも張り通すには困難であったと聞いたら、当節の青年諸君はさだめし不思議に感ぜらるることであろう。

十 下院の多数党が政権を掌握するとなっても、もしこれが他の対立機関によって不当に障害されるようではいまだもって十分に民意の暢達(ちょうたつ)は期しがたい。ここに不当にというは、貴族ならびに枢密院のごとき憲法上の諸機関は、これを存置すべきやいなやの根本論はしばらくおき、今日の制度においてはやはり一種必要の牽制機能を期待されて居るからである。ただしかかる牽制機関は、ややもすればその特殊な優勝の地位を奇貨として、とかくその権能を不当に濫用したがるものだ。ことにわが国にこの憂えあるは人の知るところ。これをどうにか始末せではせっかくの民本政治もゆがめられがちになる。かくして一方は貴族院に対し他方は枢密院に対し、政府および下院ははたしていかなる態度をもって臨むを可とするか。その間に難問題を生じたとき、これを解決するために、はたしていかなる政治的慣行の成立を希望すべきであるか。これまた慎重に研究せなければならぬ。私はあの論文においてとくに上院に対する関係をややくわしく論じたと記憶する。

十一 公制度としての牽制機関に対してすら右のごとしとせば、私が制度によらざる牽制機関の存在を許さざるは申すまでもない。それの随一に軍閥があるが、これにもあの論文では深く言及しなかった。枢密院と軍閥とのことは後年別の論文において私の所見を発表したことがある。

十二 それから専制政治の排撃に関連して帝国主義に鋭鋒(えいほう)を向けたこともあるが、これもくわしくは述べない。

 

   三

 

 以上述ぶるところによってあの当時何が政界の問題であったかの大要はわかるだろう。さて今日はどうかというに、普選はすでに実行された。しかしそれが私の提唱したものとは似ても似つかぬものなるはすでに読者の推知せらるるところであろう。大権内閣などいうものの今後ふたたび出現する見込みはまったくなくなったとしても、政党内閣は今日はたして民意暢達の実を挙げて居るか。何よりも大事な選挙界の潔白は依然としてはなはだ頼りなしとせられて居る。しからば大正五年代に問題となった諸点は今日なお依然として解決されずに残って居るといっていい。ただ今日は識者机上の理論としては、以上の諸問題はすでにほぼ十分に研究し尽くされたようである。性急な青年は今やさらに躍進して次代・次々代に実用をみるべき問題の考察に没頭して居る。これ今ごろ憲政改革論などをうんぬんするのが、いかにも時代遅れらしくみゆるゆえんであろう。しかし忘れてはならない、実際問題としてはこれがまだまだ新しい題目としてつねにわれわれの解決を迫って居ることを。

 

   四

 

 大正五年代、私のいわゆるデモクラシー論のごときが一般世上のにぎやかな話題となったのは、一つには時勢の要求に応じたのとともに、一つにはそのころまだそういう方面の研究が普及ないし流行していなかったためではあるまいか。これも手っ取り早く私自身の経験を語ってその説明に代えよう。

 私が初めて大学の門を潜ったのは明治三十三年(1900)である。そのころの書生は、先生の講義を忠実に理解するのが精一杯で学校以外のことにはまるで興味をもたなかった。多少社会的に交渉あらんと努める仕事としては、せいぜい教室を借りて演説の稽古をするくらいが関の山であった。これを思えば昨今の学生の気魄(きはく)には涙の出るほどうれしいものがある。教授諸先生も政府の顧問的の仕事が忙しかったとみえ、休講も多かったし学生に接近する機会などはほとんどなかったようだ。一年生のとき一木喜徳郎先生の国法学講義に心酔し、一日大いに勇を鼓して〔当時私は格別内気で臆病であった〕先生を九段上の私邸に訪うて教えを乞うたことがある。会ってはくだすったが、君はドイツ語が達者に読めるか、でないと話にならぬといったふうの簡単な問答に辟易(へきえき)してほうほうの体で引きさがり、うっかり教授訪問などをするものではないと悔いたのであった。こんなわけで、どうしても学問がわれわれの活きた魂に迫って来ない。それからどういうものか私は早くから政治学に興味をもっていたとみえ、一日こっそり上級のその講義をぬすみ聞きしてみた。講師は木場貞長氏、駄洒落(だじゃれ)まじりに一冊の洋書を机上に開いて政治は術なりやいなやとかなんとか述べておられた。そのときは何とも気がつかなかったがいま考えるとブルンチュリーの紹介であったらしい。これでもってみても、当時の最高学府の青年が近代政治の理解を全然欠いておったことに何の不思議もないだろう。

 私自身の眼をこの方面で大いに開いてくれられた第一の恩人は小野塚教授である。同博士は三十四年欧州の留学から帰られ、私の二年生のとき私どもにその最初の政治学の講義を授けられた。この講義で私の受けたもっとも深い印象は、先生が政治を為政階級の術とみず、ただちにこれを国民生活の肝要なる一方面の活動とせられたことである。先生は盛んに衆民主義という言葉を使われた〔ちなみにいう、先生はデモクラシーを衆民主義と訳されたのである〕。こんなことは現代の人たちには何の不思議もないことだろうが、実はかほどまでに専制的政治思想があのころ天下を横行していたのである。憲法布かれてやっと十年にしかならないのだから、考えてみればまた怪しむに足らぬことかもしれぬ。

 ひるがえって実際の政界をみると、明治三十四年六月できた桂内閣に継いで同じく三十九年一月には西園寺内閣の成るありてわずかに政党内閣の端を開いたとはいえ、いわゆる情意投合の文字は両者の間に奇怪至極の連鎖あるを露骨に表白して、いまだもって政党内閣制の慣行的成立を謳歌(おうか)するを許さず、やがて日露戦役の勃発をみては、ここしばらくは海外発展の盛容に陶酔して国民はおのずから専制的政治思想に追随せざるを得なかった。明治の末期ごろからさすがにしばらく世運の動き始めをみせたとはいえ、こうかぞえて来ると、欧州大戦の起こるころまでわれわれは、実に眼前の政界に対し、そのまさにあるべき理路のうえに厳格なる検討を加うる余裕をもたなかったのである。

 しかしわが国にも早くから民主的政治思想はあった。明治十五、六年代の自由民権論はしばらくおく〔当年の自由主義者のほとんどことごとくが後年専制思想の走狗(そうく)となった事実をみても、最近におけるわが自由思想が直接に往年の伝統をつぐものでないことは明白だ〕、近年におけるこうした方面の開拓者は、なんといってもいわゆる社会主義者の一団であるといわなければならない。これにも種々のグループがあっていちがいにはいえぬが、これらは他日の論究にゆずることにする。ただ後年の自由思想ならびに運動が概して直接間接にこの方面に淵源(えんげん)するの事実は、はじめから明瞭に、これを認めないわけには行かぬ。かく申す私からが、まずその一つの例をなすものである。

 私をして社会主義の研究に眼を開かしめた恩人は故小山東助君である。彼は私を無理に引っ張って文科の故中島力造教授の講義に侍せしめた。社会倫理の講義というのだが、内容は徹頭徹尾ソシアリズムの講義であった。机上に携え来られた本をそっとのぞいたらフリントの『社会主義』である。そこで私もただちにこれを丸善に求めて読んでみた。あまりいい本とは思わなかったが、しかし中島教授の口から聞いたロドベルツスとマルクスとの学説の関係などは今に少しは覚えておる。そのうちにだんだんこれだけでは満足できなくなる。けれども不幸にして大学の講義にはそのころ社会主義を説明してくれるものはほかにはとんとなかったのである。坪井九馬三先生の政治史の講義では少しばかりバクニンとクロポトキンとを聞いた。金井延先生の経済学ではドイツのゾチアリステン・ゲゼッツの話を聞いた。いずれも社会主義と社会党とは不正不義なものと押しつけられるだけで、私の要求するものとはだいぶ距離が遠い。これがついにこれまた小山東助君の手引きによっでしばしば社会主義者の講演会に出席し、ひそかに安部磯雄・木下尚江の諸先輩に傾倒する因縁を作ったゆえんである。

 そのころ早稲田大学の浮田和民先生は毎号の『太陽』の巻頭に、自由主義に立脚する長文の政論を寄せて、天下の読書生の渇仰の中心となっていた。私もこれにはずいぶんとひきつけられた。そして膝もとの帝大の先生はとみれば、穂積八束先生は申すに及ばず、ほかの先生でも、たとえば英国も選挙権の拡張後いちじるしく議会の品位がおちたなどのでたらめを臆面もなく公言するのたぐいで、どうも頼るべき師表が見出だせぬ。ただ小野塚教授とはまもなく格別の親しみを覚えるようの間柄になり、一年間の講義を聞いた後も、引き続きいろいろの機会に薫陶を受けたのは、私の終生忘るあたわざるところである。

 ついでにいっておくが、ちょうどそのころ〔三十四、五年ごろ〕から大学の諸教授もわりあいにゆっくりした気分で学生に接するようになったと思う。今から回顧するに、それ以前にあっては政府でも、条約の改正だ、法典の編纂だ、幣制の改革だと新規の仕事に忙殺され、したがって学者の力をかる必要も繁かったので、帝大の教授は陰に陽にたいていそれぞれ政府の仕事を兼ねさせられていたものらしい。今日は閣議がありますからとて講義半途に迎えの腕車に風を切って飛んで行く先生の後ろ姿をうらやましげにながめたこともしばしばある。ところが明治三十四、五年のころになると、政府におけるそれらの用事もひととおりは片づいたばかりでなく、少壮役人の中にだんだん学才に富む人物が輩出して、ために大学の教授の助力をかる必要がなくなって来た。なかには役人でありながら専門の学者を凌駕(りょうが)すると評判されるような人も輩出する。今の文相水野錬太郎君・前首相若槻礼次郎君のごときはその中の錚々(そうそう)たるものであった。こういうわけで帝大の教授と政府との腐れ縁は漸をもって薄らいで来るのであるが、ここから私はおのずから二つの結果が生まれて来たと考える。一は前にもいったようにはじめて教師と学生との間の親密の連鎖を生じたことで〔これもだんだん学生の激増のために永くは続き得なかったが〕、二は教授の境遇を独立にし意識的にも無意識的にもなんらの拘束を感ずることなく自由に研究し公表するを得しめたことである。その以前の教授の立場が自然政府の弁護者たるの臭味に富みしは疑いなき事実であるとすれば、日本の学界における自由思索の発達は、一面においてこうした妙なところに隠れたる連絡を保つことをも看過することはできぬのである。

 かくして私は大学卒業〔三十七年〕の前後かなり自由主義の訓練は受けた。ところが社会主義の研究に至っては当時いまだ決して便宜ではなかった。世間が一般に社会主義を危険視したからでもあるが、第一格好の書物を得ることがむつかしかった。しかし何よりも私の社会主義研究の熱意を薄からしめたものは、いわゆる社会主義者の放縦なる生活であった。回顧するに、私がまだ学生であったころ故小山東助君とシェッフレの『社会主義大綱』を会読し、その解し得ぬところを(ただ)そうといろいろの主義者を訪ねたのであった。いちいち姓名は挙げぬが、なかには現存の人も多い。かくてそれからそれと種々の人に遇う機会を得たが、当時一方において清教徒的キリスト教信仰に燃えていた私には、彼らのある者の行動に、服しがたき多くのものを見出だしたのであった。そんなところから私は、一度私どもの出していたある同人雑誌のうえで彼らに論戦をいどんだことがある。それはいかに社会問題の解決のための一致共同が大事だとて、安部磯雄・木下尚江・石川三四郎諸氏〔当時私はこの三人をとくに名ざしたと記憶する〕のごとき人道主義者が幸徳君のような無神論者と平気で事をともにして往けるはずがない、自分の仕事を本当に貴いと思うなら、以上三君のごときはすみやかに幸徳君らと(たもと)を分かつべきであるというのであった。これに対し、木下君は『直言』誌上でまじめに相手になってくれた。数次論戦を重ねて居るうち、木下君の声言にもかかわらず、社会主義の一団はついに分裂の厄を免れなかった。これを縁に私はやがて島田三郎先生の仲介で木下君と相識り、私が大学を卒業した翌年の夏には、小山東助君の肝入りで、同じ年に早稲田大学を卒業した大山郁夫・永井柳太郎の二君を本郷台町の小山君の下宿に請じ、木下君を中心として一夕懇談会を催そうとしたこともある。木下君と小山君とにはなんらかのもくろみがあったのかもしれない。小山君がまもなく東京を去り、私もシナに往ったのでこの会合はなんらの結果をも産まずして消滅に帰したのは、今でもときどき思い出して遺憾の情を覚えて居る。

 日露戦争が一方において国民を帝国主義的海外発展に陶酔せしめたとともに、他方国民の自覚と民知の向上とを促しておのずからデモクラチックな思想の展開に資したことは、すでに人のよくいうところである。私は明治三十九年の一月からシナに(おもむ)いて満三年をかの地で暮らし、日露戦争の直接の影響として起こった中国の立憲運動の旺盛(おうせい)なるに驚いたのであるが、明治四十二年一月、日本に帰って来て、民主思想の大いに興隆しつつあるにいっそうの驚きを感じたのであった。帰朝後久しぶりで学生に接してさらに意外の感に打たれたのは、彼らが普通選挙だとか政党内閣だとかの実地の問題を多大の興味をもって研究して居ることであった。私が学生であったころのこと大学の向いの喜多床から出て来るとたん、一枚の印刷物をもらったのを何かと読んでみると「普通選挙期成同盟会の(げき)」と題してある。よく新聞を騒がすのはこれだなと思う間もあらせず、後ろから来た警官に二の腕を取られ本富士署に同行を求められたのを回想すると、実に隔世の感がある。それでもまだこのころ社会主義の研究は今日のように安心しておおびらにはできなかったのだからたまらない。

 こういう雰囲気を脱け出でて、私は四十三年四月、欧米留学の途に上った。留学三年にあまるいくたの見聞が後年の私の立場の確立に至大の関係あるはもちろんだが、なかんずくとくにここに語っておきたいのは、(一)英国において親しく上院権限縮小問題の成行きを見たこと、(二)墺都ウィーンにおいて生活必需品暴騰に激して()った労働党の一大示威運動の行列に加わり、その秩序整然一糸みだれざるを見て、これでこそ国民大衆の信頼を得るに足るなれと大いに感服したこと、(三)一九一二年のベルギーの大同盟罷業を準備時代から目のあたり見聞し、秩序ある民衆運動のいかに正しくかつ力あるものなるかを痛感せしこと等である。大正三年春の『中央公論』に寄せた「民衆的示威運動を論ず」るの一篇は主として右の見聞に基づくものであった。なお右のほか私はフランスにおいてしばしばサンジカリストのストライキをも見た。目的のために手段を(えら)ばぬことに(はら)を決めれば、いかに最小の努力で最大の効果を奏し得るものかを如実にみて、将来の労働運動に一転化の来るべきを予想させられたのであったが、私の性分としてこれにはどうしても好意を寄せ得なかった。組合運動の遅れたフランスの労働界が、英国などと異なり、いちじるしく精神的訓練も物質的準備も欠くとすれば、いわゆる直接行動に走りがちになるのもやむをえぬのであろう。ニヒリストが圧迫の極度に獰猛(どうもう)なる専制露国の特産物であるように、サンジカリスト的行動方針も実際的環境と離しては考えられぬのかもしれぬ。はたしてしからばこれが仏国に発達せるはやむをえぬとして、少なくともただちにわが国にもこれを入るべきやいなやは大いに考究を要する点であろう。

 そのほかいいたいことはたくさんあるが直接の関係がないから略する。概言するに、欧米留学中にあって私はとくに力をいれて、従来(しいた)げられていた階級がいかにしてその正当なる地位を回復せんとしつつあるかの方面を観察攻究したのであった。けだし西洋にあっては帝国主義ようやく行き詰りの色をみせ、これよりは弱者のふたたび息を吹き返す時節の到来すべきを思わせていたからである。

 私は大正二年の七月に帰朝した。たとえかの憲政擁護運動なるものがその実まじめな根蹄(こんてい)を欠くものだとしても、明治と大正との政界は、この世代の移りを境として、実に重大の変異がある。一時、寺内内閣の高圧政策によって自由思想に加えられる威圧のすこぶる強烈なるものありしとはいえ、民間における溌剌(はつらつ)たる機運の醞醸(うんじょう)何人(なんびと)の目にも隠し得なかった。しかして欧州大戦がこれに勃発の好機会を与え、ついに今日の時勢を作るに至ったことはいまさら事新しく論ずるまでもあるまい。それでも大正七、八年の(まじわり)まではまだなかなか思想の自由は十分与えられたのではなかった。これに対する拘束は官憲側から来ないとしても、社会的制裁のかたちを取ってきびしく迫り来ることがまれでない。私の身辺に起こった浪人会一件のごときはまずその最後のものとかぞえても差支えなかろう。その後の変遷は別の方の説くにまかすとして、ただ最後に私は、あのころから今日に至る六、七年が、また実に思想と運動との進展に関し、実にいちじるしい飛躍の時代をなすものであることを一言するにとどめておく。

(初出『社会科学』昭和三年)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2006/03/16

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吉野 作造

ヨシノ サクゾウ
よしの さくぞう 1878・1・29~1933・3・18 政治学者 宮城県古川市生まれ。大正デモクラシーにおける代表イデオローグ。政治の目的は民衆の利福にあり、政策決定は一般民衆の輿論の尊重よるべきであるとし、大日本帝国憲法枠内で立憲政治の実現を意図した。民衆は政治の監督者であり、主動者でないとするなど、主権の所在と運用を明確に区分した。そのためデモクラシーの論理を挫折させたとの批判も受けたが、専制国家的な状況下にあった時代においては、極めて勇気のいる発言であった。代表論文に1916(大正5)年、中央公論1月号に掲載された『憲法の本義を説いて其有終の美を済(な)すの途を論ず』がある。

掲載作は『民本主義を論ず』と総タイトルを付し、「民衆的示威運動を論ず」「民本主義鼓吹時代の回顧」の2篇を収載した

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