「清さん一時俺が持たう。」
でつぷりと肥つた五十恰好の日焦けのした男は前に歩いてゐる色の青白い若者に声をかけた。
「なあに、親方、重くも何ともありませんから……」
清さんと呼ばれた若者はかう言つて肩にしてゐる振り分けの荷物をもう一方の肩にかへた。前の方の荷は四角な木の箱を白い布で巻いて、さらにその上を人目に立たないやうに鬱金の風呂敷でつゝんであつた。後の方の荷物は蔓で編まれた山籠で、中には鏨や鎚のやうなものが、飯盒や二三枚の着物といつしよにごつちやにして入れられてあつた。誰の目にもこの島の海岸のアンチモニー鉱山の工夫だといふことは一目で察せられた。二人はともすれば、だんまりこんで歩いた。
「これなら尚少し遅く立てば宜かつたなう。」
親方は黒く煤けたパナマを脱いで、汗を拭いてちよつと太陽をかざしながら言つた。八月末の午後の太陽はこの島国の嶮しい山々の背を照らしてゐた。泥炭の屑のやうにくだけた山の背の道は、十日に一人か二十日に一人の旅人を迎へるだけで、野茨や木苺が両側から道を掩うてゐた。岩に反射した太陽の熱はぎらぎらと照りかへして幾度かこの二人の旅人を眩ますやうにした。
「しかしこの山だけは太陽があるうちに越しませんと難儀ですからなあ。」
清さんはかう言ひながら滴るやうな水々しい木苺の実を口に入れた。
冬の海の風をまともに受けて幹の途中からぶつゝりと断ち切られたやうな櫟の林が、帯のやうに山の腰をめぐつてゐる森林帯を通り越してからは、山は一面の芝草に埋められてゐた。釣鐘草のやうな形の藤紫の花や、チウリップに似た紅い花や、草菖蒲が一面に高原を埋めてゐた。
「今日は朝鮮の山がよう見えるぞなあ。」
清さんの後から随いて歩いてゐた親方は草の上に腰を卸して、煙管をぽんとはたいた。黒い海と白い波を越えて夕陽を受けた南朝鮮の山々が、赭ちやけた尾根の輪郭をくつきりと水浅葱の空に投げかけてゐた。
「沖は大分荒れてるやうですねえ。」
「あゝ白い波頭があねえに見えるんぢやなう。」
二人はまた歩き出した。遠い谿の底で蝉の声が聞えた。秋らしい風が高原の草花の上を滑つて吹いて来た。道は今までの嶮しさに引き替へて山の背から山の背へと緩やかな傾斜をもつてつゞいた。
「あの三角柱ぢやつたなう。」
親方は山の背の鞍部を一つ越して向うの山の背に立つてゐる測量基点の三角柱を指さして言つた。
「えゝさうでしたねえ……」清さんも向うの山の背の三角柱を眺めた。二人はそれつきり何にも言はないでまた歩みをつゞけた。親方にも清さんにも新らしい色々な寂しい思ひ出が湧いて来た。
「姐さんがあすこに立つて待つてるかも知れない。」
清さんは不図かう想つた。それでも二三歩あるいてゐる間に清さんは肩にしてゐる骨甕のことを想つた。清さんは寂しい絶望と悲しさとを感じた。
「あすこぢやつたなう、お菊のわろがもう歩けんというたのは……」
親方には四五年前内地からこの島に渡つて来た時、同じこの山の背を伝うて歩いてゐた折のことが想ひ出された。自分の背に負ぶつてゐた男の子のことまでもが浮かんで来た。其の男の子は鉱山に着いて間もなく死んだ。
妻が草鞋に足を喰はれて清さんの肩に負ぶさるやうにして山を下つて行つたことなどを想へてゐると、親方は寂しいうちにも吹き出したくなつて来たりした。
「でも何もかもわやぢや。」
親方は清さんの肩の骨甕を見まいとしたが駄目であつた。
「清さん、代らう……」
親方はかう言つて清さんの肩の荷に手をかけようとした。
「親方、何でもないんですから……」
清さんは逃げるやうにして親方の手を放した。
二人はまただんまりこんで歩いた。
樹の株をころがしたやうな黒い石が段々に重なつて道を塞いでゐた。やがて道はすつかり草に掩はれてしまつた。
二人は一直線に三角柱を目あてに谿をのぼつて行つた。
「清さん……」
「親方……」
二人は時々深い草のなかに影を見失ふことがあつた。かちかちと後ろの山籠のなかの道具がぶつ突かり合ふこともあつた。ごとごとと前の荷の骨甕が揺れるたんびに寂しい音を立てることもあつた。清さんにはたゞ一人で何時までも草のなかを掻き分けて寂しい穴の底にはひつて行つてゐるやうにおもはれた。そして二度と太陽や人の顔や人の声のない暗い世界にたつた一人ではひりこんで、泣けるだけ思ふ存分泣いて見たいとおもつたりした。
「清さん……」
清さんは親方の声を聴きながらもわざと聞えぬ振りをして応へなかつたこともあつた。それでも草を掻き分けてゐる音がしばらく絶えると清さんは自分から親方を呼んだ。
「この辺であつたらう……」
灰のやうな白い細かい苔につゝまれた岩を滑りながら清さんは想つた。清さんの心にもその折のことがはつきり浮かんで来た。男の子を背負つた親方はずんずん先きになつてこの山を下つて行つたのであつた。姐さんを負ふやうにして山を下つた清さんはなかなか急いで歩けなかつた。二人は幾度も深い草のなかに道を失はうとした。姐さんのほてつた頬がすれすれに清さんの頬に触れた。上気したやうな姐さんの頬はやつともの心を覚えたばかりの清さんの心にもたまらなく美しいもののやうにおもはれた。姐さんの手を引いてゐながらも清さんは幾度も女の柔かい手を意識した。
「清さん、もう妾歩けない。二人で死んぢまひませうか。」
姐さんは苦しいなかにもかう言つて笑つた。清さんは女の手を握つて黙つて山を下つて行つた。
「親方……」
清さんは急に親方を呼んだ。どこかで「こつちだこつちだ……」と呼んでゐる親方の太い声が聞えた。
「標高六二〇米三……」
清さんは読むともなしに標柱に刻まれてある文字を読んだ。日蔭になつて黝ずんだ白嶽が、長い鋸形の影を重なり合つた幾つもの低い山の背に投げかけてゐた。そこからはまた白嶽の背を越して銀のやうな海が空とひたひたになつてゐるのが見えた。
「あの海のわきが鉱山だ!」
親方も清さんもさう思つた。けれども二人ともお互に口に出すことを怖れた。鉱山は二人にとつては余りに寂しい思ひ出の土地となつてゐたから。
炭を焼く白い煙が紫に煙つた谿底から上つては海の方へなびいてゐた。
「佐郷までは尚二里もあらうかなう?」
「さうですなあ……」
「佐郷の手前に行きや大けな河があるで、思ふ存分体拭いて行かう。」
二人は離ればなれに歩いた。また沈黙がつゞいた。重なり合つた山と山との間に深い暗影をつくつて日の光りは衰へて行つた。麓の谿々には淡い霧が漂ひ始めた。清さんは歩くのもいやになつた。急に亡くなつた姐さんのことがいろいろ想ひ出された。
「なぜ姐さんはあのやうに急に亡くなつたのであらう?」
十三の歳はじめて清さんが親方の家に伴はれて来た時は、姐さんは二十一か二で、親方とは親子ほど年がちがつてゐた。清さんは子供心にも美しいやさしい小母さんだとおもつた。姐さんもまた清さんを自分の弟か何ぞのやうにおもつて可愛がつた。
「錦絲堀知つてて? さう、曳舟も……」
姐さんには娘のころ立つて来てしまつた東京の町外れが懐かしかつた。親に死に別れたといふこと、同じ東京に生れたといふことまでもが姐さんには二人を結びつける何かの因縁であるやうにおもはれた。そのころ姐さんは親方と一緒に山陰道の雪深い海岸にゐた。親方はそのころから夏から秋にかけて海に出て、潜水機械をつかつては鮑を取つた。姐さんと清さんは何時も喞筒のハンドルを動かすのが役目になつてゐた。親方は潜水服を着て海のなかに下げられた梯子に足をかけた。
「こればかりは身内の者にして貰ふと安心じやからなう。」
姐さんと清さんが重い冑を親方に冠せるとき親方は克くかう言つて笑つた。そして喫みさしの煙草を静かな水の面に捨てた。清さんは冑を冠せて捻子をしめた。姐さんは静かに空気ポンプのハンドルを動かしてゐた。怪物のやうな鉄の冑や、ゴムの赤い潜水衣が見えなくなつてからは時折ぶくぶくと水の泡が船の周囲に音を立てて浮かんだ。姐さんは大阪で覚えたといふ唄などうたふこともあつたが、大抵は黙つて機械的に手を動かしてゐた。
冬の海が荒れて仕事ができなくなると、親方は鑿や鶴嘴を担いで、雪深い銀山の仕事に出かけた。親方の家には何時も五人や六人の男たちが親方を頼つて厄介になつてゐた。男たちも親方について銀山に行つた。清さんだけはまだ姐さんと一緒に海岸の家にのこつてゐた。雪の深い夜、戸外には風の声一つもしない静かな夜、清さんは榾の火が滅えるまで姐さんと東京の話をした。
「妾東京に帰つたつて家もないんだけど、奉公したつて良いから帰つて見たい。」
榾火が滅えてしまつてからも二人は灰を掻きまぜた。そのたんびに小ひさな火がのこつてゐて二人の顔をちよつとの間紅く照らした。
雪解の滴れが時たま軒をすべるのがばさと仄かな音を立てて雪のなかに滅えた。夜更けてからきまつて丹波行きの馬車がぼうぼうと喇叭を吹いて雪のなかを通つて行つた。
「こんな家から逃げて東京にかへりたい……」
姐さんは戸を明けて真つ白な雪の町を見た。
黒い海と暗い空には限りもない星がまたゝいてゐた。姐さんにも清さんにも明るい大都会が耐らなく恋しかつた。
「おつ母さんだつてあるにはあるんですよ。しかし父が早く亡くなつたものですから……妾が大阪につれられたのもほんとは売られたやうなものなんですよ。それをまたこゝの親方が貰ふことになつたのです。」
姐さんは雪の夜など克く清さんに話した。姐さんはまだ夫婦といふものがどんなものだか、男といふものがどんなものだか少しも知らない間に親方に貰はれたのであつた。
母につれられて里にかへつてゐたころも姐さんの母親は「この子さへなかつたら」と言つては何かにつけ姐さんに辛くあたつた。姐さんは子供心にも早く母親のところから出なければならない、それが母親を安楽にさせる方法だと考へた。母親は姐さんを捨てるやうにして再縁した。
「この家さへ出たら仕合せがあるにちがひない。」
姐さんは大川端の倉の窓から、濁つた大川の流れを見ては幾度もさうおもつた。
「母が尚すこし温かな心をもつてゐましたら、こんな家に買はれるやうにして来ることもなかつたのですに。」
「しかしおつ母さんだつて、あなたを不仕合せにさせるつもりではなかつたでせう。」
「母だつて、叔父の家に母子で厄介になつてるのは苦しかつたにはちがひないんですけれど……」
此島に来てからも二人は克くこんなことを話し合つた。
何処の鉱山に行つても、漁場に行つても姐さんは直ぐに若い人々の間の噂の中心になつた。誰れも彼れも親方ほど仕合せな男はないと言つた。それでも親方は酒をあふつては料理屋から料理屋へと夜を更かすことが多かつた。
雪の深い山陰道からこの島に移つて来るとき姐さんは身重であつた。それでもこの島に着いて間もなく親方は姐さんの横腹を蹴つたのでおなかの子は流れてしまつた。
親方はその日佐須奈の町に行つて、大漁目当てに内地から渡つて来てゐた女と、一日遊んで帰つて来たのであつた。
「きさまは亭主が他の女を買うても口惜しいとは思はぬか。きさまはあはうぢや。」
親方は姐さんの親切や真心を信じてゐた。けれども親方は何時も姐さんとの間に一枚のへだたりを持つてゐた。姐さんは一度でも夢中になつて親方に何うするといふことはなかつた。
「お前はやきもちといふことを知らんのか?」
親方は酒を飲んではかう言つた。親方はもつともつと姐さんにやいてもらひたかつたのであつた。けれども姐さんはつひぞ嫉妬といふことを知らなかつた。
「いくらでも酒を飲まして置いた方が宜いのよ、うるさくなくつて!」
姐さんはかう言つては幾らでも親方に酒を飲ました。
「妾だつてこの家に来たころは男といふものを大事にしようとおもつたんですよ。けれど今ではそんな面倒くさいことはいやになつちやつたの。」
男の子が死んでからこつち姐さんの心は一層すさんで行つた。
「人間てものは振り出しが大事ですわねえ。振り出しが悪けりや一生うだつは上りませんよ。」
姐さんは克くかういふことを言ふやうになつた。
「では、一度振り直して見たら何うです!」
清さんはこの時ばかりは何だか取りかへしのつかぬ悪いことを言つたやうな気がした。
「えゝ、振り直して見ても宜いんだけれど……こんなことは嘘なのよ。」
姐さんが笑つたので清さんはやつと安心した。二度とそんなことを言ふものぢやないと思つたこともあつた。
男の子が死んだので小ひさな土饅頭の墓が浜の松林のなかに築かれた。姐さんはヒステリーのやうになつて朝から松林のなかを歩いてゐた。
「死んぢやつた方があの子のためにもましだつたでせう。」
姐さんは清さんにかう言つた。
子供が死んだ頃から親方は大抵家にゐるやうになつた。姐さんは面と向つてはつひぞ親方と諍などすることもなかつた。親方は自分の娘のやうに姐さんを可愛がつた。
×
「宜え凪になつやうぢやなう。」
親方は沖を見ながら後から歩いてゐる清さんに話しかけた。黒い潮の上を幾十里の間幾万とも知れぬ白い帆や紫の帆が動くともなく動いてゐた。島の浦々から夕風を受けて船出する漁船は、まるで巣をはなれた白鳥のやうに、空とも水ともわかぬ縹渺の間を走つてゐた。
「今年は烏賊は大そう宜いといふことですなあ。」
「さうかも知れんなう。」
親方は気のないやうな返辞をして谿底の方をのぞいてゐた。
「清さん、流れの音が聞えはせぬかなう。」
清さんも立ちどまつて谿の方の音を聴いた。蜩の声が一しきり聞えた。
「こりや、佐郷に着きや、とつぷり日が暮れるかも知れんなう。」
親方は懶ささうに歩き出した。二人はまた黙りこんで歩いた。
親方には姐さんの美しかつた眼や、胸や、優しかつた心がけや、何時も子供のやうで頼りなかつたいぢらしさなどが犇々と浮かんで来た。親方は幾度も深い吐息をついた。
「俺には最うあのやうな世界は二度と来まい。俺はたゞ死ぬる日を待つてるばかりぢや。」
親方はかう想つた。姐さんといふ女があつたばつかりに親方の世界が今日まで意味があつたやうにおもはれた。
「花だつて咲くのは五日か十日ぢやからなう。」
親方は吐き出すやうに言つた。ほんたうな人間の仕合せな時間といふものもやつぱり一生の間のほんの少かな間であるのがあたりまへのやうに思はれた。
島で一番大きいと言はれる佐郷の川原に出た時は日はとつぷり暮れてゐた。広い川原が白く夢のやうに暗い谿の底を縫うてひろがつてゐた。
「もうさすがに秋ぢやなう、冷たうて良うはひれぬ。」
親方は頭から肩あたりに冷たい水を浴びながらさう言つた。
清さんは荷を磧の上に置いて、足を投げ出したまゝ、犬蓼の上に坐つてぼんやりしてゐた。
「姐さんを火葬にしたのもこのやうな川端の山であつた。」
清さんはつい咋日のやうな気がした。火葬場といふもののない島では内地から来た人たちは大抵は土葬にして髪や爪だけを持つて内地にかへつた。親方や清さんは姐さんの亡き骸を島の土にするには忍びなかつた。たまに旅の人々が使用する火葬場といふのは川に沿うた小高い松林のなかに、竈のやうに掘り下げた窪地であつた。人々は竈のやうになつた窪地に石を畳んでその上に姐さんの棺桶を置いた。棺桶の下と上と一面に松の枝を投げかけた。親方や村の人達はしつきりなしにやまねこ(地酒)を飲んだ。火をつけてから間もなく村の人達は帰つて行つた。親方と清さんは燃え切つてしまふまでゐたが、親方はぐでんぐでんに酔つて、泣き出しては清さんを困らせた。黒鳥がくつくつと啼いては松林の煙を追うて翔んだ。清さんまでもがしまひにはそこにあつたやまねこを徳利から口づけにあふつた。
×
二人が今夜泊ることにして来た江村といふ家は村の入り口で聞いて直ぐにわかつた。江村といふ男は海岸で親方の厄介になつた男の一人であつた。この島に来てからも親方は夏から秋にかけては鉱山から下つて海に出てゐた。そして潜水器を使用しては海産物を取つてゐた。江村は鮑取りの上手な男であつた。江村の家もこの島によく見る郷士の邸風な建物で、低い石の塀をめぐらしたり、玄関には式台見たいなものがくつついてゐたりした。江村は暗い奥から出て来た。
「それはまあひどいことぢやしたなあ……そして何時亡くなつてぢやしたかなあ?」
江村は薄暗い五分心のランプを掻き立てながら訊ねた。
「恰度昨日が四十九日にあたつたのぢやがなう。」
親方は草鞋をぬぎながら力ない返辞をした。
「四十九日が間は霊も家の軒をはなれぬ言ひますでなあ。」
人の宜ささうな江村の母親が洗足の水を運びながら言つた。
「それがたいそう急な病気でものの二時間と立たない間に死んだのぢやからなう。」
親方は清さんが肩から卸したばかりの包みを見ながら言つた。
「正午少し過ぎでしたらう、私が浜から帰つて来ると姐さんは冷たくなつてゐたのです。」
「それはまあ……」
「何でも暑いのに戸外に出て張り物をしてゐたといふことぢやがなう。」
「えゝ、私が行つた時にはまだ張り板もそのまゝで、まだ一枚のなんか乾いてもゐなかつたのです。」
「まあ何とか尚ちよつと早かつたら思ふがなう!」
「それで何ちふ病気ですかい?」
「まあ脳貧血やら、脳充血やらいふものやらう。」
「まあむごいことぢやなあ……」
「いや、みんな人間の因縁ぢやで何うも為やうない。」
「さうとでもあきらめんぢやなあ……」
清さんは風呂敷包みをはゞかるやうにして縁の端に置いたが、江村は無理にとつて床の間に上げた。江村の母親は線香を焚いて拝んだ。
江村の家内もそれに出て来てみんなに挨拶した。そしてかの女が引つこんで間もなく酒の用意ができた。
「何もありませんが、今夜はゆつくり泊つて飲んで行つておくれ親方……」
江村は親方に盃をさした。江村が佐郷川で捕つたといふ鮎やら、海で捕つたといふ魚などが膳の上に並べられた。
馬糞や秣の発酵する臭ひがかすかに漂うて来た。
「それでは内地に帰つて、二度とこつちへお出でにもならんのぢやなあ……」
「子供も亡くす、家内も殺すしたんで、よう居る気にもなれんからなう。」
親方は盃を江村にかへした。
「何ですかい、やつぱり故郷の方へぢやすかい?」
「いんや、故郷いうてはないも同じぢやでなう。まあ内地に着いた上で何処に行くか決めよう思ふんぢや。」
江村は清さんに盃をさした。
「あのやうによい姐さんはありませんぢやしたがなあ。」
「俺の口からいふのも妙ぢやが俺にはよすぎとつたかも知れんハハハ……」
親方はちよつと床の間の方を向いて笑つた。
「さう言やあ姐さんには大分若いやつらはさわいでゐましたよ……なあ清さん。」
江村は笑ひながら清さんの盃を受けた。
「しかし、お菊といふ女はもとさむらひの出ぢやいふのでか、さわがれたりするのがきらひでなう。」
「それで親方も安心ぢやつたのさ、でなけれや親方だつてあのやうな美しい姐さんを放り出して鉱山なんぞにこられるものかなあ。」
「お菊ばつかりや、あいつは女の石部金吉といふんぢやらうハハ、……」
親方は眼を細くして笑つた。
「清さん、何うしたのぢや、ちつともいけんぢやないか。」
江村はぼんやりしてゐる清さんの盃にさした。
「おい飲めや清さん、若いもんが……」
親方までもが盃を清さんにさした。
「いや、私もう飲めません。疲れたせゐかすつかり酔ひがまはりました。」
「清さん、何いふか、内地にかへりや、これで島のやまねこが恋しいこともあらう。」
江村は清さんの肩を抱くやうにして燗徳利を清さんの前に押しつけた。
「清さん、お前ほど仕合せものはなかつた。あのやうに姐さんに可愛がられて……」
「お菊の奴、清さんいやあ、まる血でを分けた弟のやうに思うとつたのでなう。」
「大分清さんをうらやんでる奴もあつたよ。」
「お前もその一人ぢやつたらうハハヽヽ。」
三人が一緒に笑ひ出した。
親方も江村も大分酔うてゐた。清さんは縁端に出て涼しい風に胸をはだけた。山と山の間に深く抉られたやうな空は暗かつた。飽くまでも高く、飽くまでも澄んでゐた。限りもない星が暗い淵をのぞいてゐた。
ことことと秣桶の音がした。若い女の澄みちぎつた麦搗きの唄が、軽い杵の音に交つて聞えた。
「姐さんは何故あんなに早く死んだのだらう?」
清さんには姐さんの死が自然でなかつたやうにおもはれたりした。
「女つてつまらないものよ。妾なんか何のために生まれて来たんだかわからない。親にも可愛がられないで、一生ほんたうに誰も頼るものがないんですもの。」
姐さんは清さんと二人切りのときしみじみと語つたことがあつた。
「一生のうち、たつた一度で宜い、思ふ存分泣いて見たい、笑つて見たい。」
姐さんはよくかう言つた。母親につれられて叔父の家に厄介になつてゐた姐さんは、娘のころからどのやうな悲しいことがあつても、顔に出して泣くことはできなかつた。
「この子は何て意地つ張りでせう。」よく叔母はさう言つて姐さんをつねつたりした。それでも姐さんは一度だつて、人の前で声を立てて泣くやうなことはなかつた。親方の家に来てからもさうであつた。一度だつて姐さんは親方の前で泣いたことはなかつた。
「清さん、何うしたんでせう。清さんの前だけでは妾は泣けるやうな気がしてならないのよ。泣かして頂戴。」
姐さんはかう言つて眼を赤くしてゐた。
親方が鉱山に籠つて海岸に帰つて来ない夜など、清さんはよく暗の底に啜り上げて泣いてゐる姐さんを見出した。
「眼をさましてお気の毒でしたね。堪忍して頂戴、妾の病気なんですから。」
姐さんは子供のやうにすゝり上げて泣いた。
「自分でも分らないんですよ。でも、かう泣けるだけ泣いてしまふと宜いんですよ、妾は昔からかうなんです。」
親方すら姐さんが人にかくれて泣いてゐたといふことは知らなかつた。
死ぬ少し前だつた。
「清さん、妾が死んだら、あなたも死んで頂戴。」
姐さんは冗談に言つたことがあつた。
ついこなひだであつた。親方が鉱山から下りて来て、明日から海にはひらうといふので、姐さんと清さんは潜水器の手入れをしてゐた。
「お菊、空気筒をよく見といておくれ、それが生命の綱で、いつち大切ぢやからなう。」
親方はさう言つて浜の方へ船を見に行つた。
姐さんはいつまでも空気筒を調べてゐたが、そこには一つの罅もなかつた。
「清さん、これで大丈夫だわねえ。」
清さんは一応調べて見た。が、そこには何の異状もなかつた。
翌の日、船に乗つてからであつた。姐さんが真つ先きに空気筒に小さな罅がはひつてゐるのを発見した。
それでも姐さんは親方には、言はないでこつそり清さんに言つて修理さした。空気筒は鋭利な小刀のやうなもので五分ばかり切られてあつた。
「何うしたんかい?」
親方は空気筒を繕うてゐる清さんの手許を見ながら訊いた。
「少し孔が出来たんです。」
「水にはひらぬ前で宜かつたなう。」
親方は何でもないと言つた風で煙草をふかしながら、方錐形の木の枠に硝子を張つた覗きで海の底を見てゐた。
「親方も不仕合せな人さ、妾のやうな女を貰つたんですから。」
親方が潜水した後でハンドルを動かしながら姐さんが清さんに話した。
それから四五日経つてからだつた、姐さんが死んだのは。
「親方、もう仏さまのおのろけは大概にしてさ、うんと飲まうぢやありませんか。」
筒抜けた声を出して江村が今度は大きな椀を親方にさしてゐた。
「飲むとも。」
かう言つて親方は椀を受けとつた。
そしてなみなみと注いだ酒を一息に飲みほして、江村にさした。江村もまた一息に飲みほした。
「相かはらずお前もいけるなう。」
親方はどろんと曇つた眼を瞠るやうにして言つた。親方の手は顫へてゐた。
「酒を飲むのと、戦するのが昔から島の男のしやうばいぢやつたからなあ。」
江村はかう言つて床の間を眺めた。
「わしどんが幼かときは、ただこゝにはちやんと甲冑櫃があつたんですが、親父が酒のかはりに売りこくつたんですたい。」
「お前も手伝うたんぢやろ。」
「いゝや、親父の奴が酒と、それから博多から来とつたじやうもん(美人)に夢中になつてぢやすたい。」
「それぢや親父さんは戦争もでけんだつたらう。」
「戦争したなあ、蒙古が来たころぢやすたい。」
「そいぢや大昔ぢや。」
「うんにや、そいでも島の人間は今でも戦は上手ぢやす。去年もわしどもあ大演習に呼ばれて内地に行つたが、警備隊の兵隊がいちばん宜う働いたですよ。」
「酒飲むことと女郎買ふことばかり働くんぢやろ。」
「女郎買ひも働くにや働いた。ばつて柳町のじやうもんは宜か、あればつかりや内地が宜か。」
二人の酔漢は大きな声を出して笑つた。
江村のおかみさんが飯をはこんで来たのは麦搗き唄も聞えなくなつてからであつた。江村の老人は二三度床の間の線香を立てかへに来た。
×
清さんは何うしても眠れなかつた。酒と山越しに疲れた体中に、鋭い神経がいやが上に鋭く働いた。佐郷川の流れと遠い海の響きが絶え間なく近い山に谺した。勝手の方では老人とおかみさんは一目も寝ないで準備をしてゐた。親方も眠れないで二三度起き上つては水を飲んだ。江村の高い鼾のみが夜つぴて絶えなかつた。
「清さん、それでは夜が明けるまでに港まで出ることにせうかなう。」
細くしたランプの心をかきたてながら親方は煙草に火を点けた。
おかみさんが来て江村をゆり起した。江村はなかなか覚めなかつた。
「そいぢやどうしてもこの夜なかに立つとですか?」
江村は眼をこすりながら言つた。
「そいぢや馬にして行きなはれ。」
老人が庭に下りて親方と江村の顔を見ながら言つた。
「夜の道は馬ぢや危ない。わたしが港まで行かう。」
「いやそいぢや気の毒ぢやから、明りだけ貰うて行かう。」
江村は山一つ向うまでといふので、炬火を持つて先きに立つた。清さんは荷を振り分けにしてかついだ。
「さよなら……厄介になりました。」
「あい、さよなら……」
老人と江村のおかみさんは泣いてゐた。そして清さんの肩の風呂敷包みを拝んだ。山にかゝるまで江村の家の明りだけが白い佐郷川のほとりに見えた。
「良い心持ちぢや。」
親方は胸をはだけながら冷たい風をうけて、先きに立つて歩いた。満天の星河は秋らしい清爽の気に充ちてゐた。幾万と限りもない漁火が玄海を埋めて明滅してゐた。大きな山蛍が道を横切つて滅えた。
「こゝいら冬になると鹿が出ますよ。」
江村が親方に話した。
「山猫なら今から捕れますよ。あいつは悪い奴で、夜になると鳥の塒にやつて来るのですたい。」
親方は疲れたかして幾度も道ばたに腰を卸しては煙草を喫んだ。江村一人がのべつに話しつゞけた。
「清さん、内地に行つたらあんまりじようもんを泣かせちや罪ばい。」
清さんは黙つたまゝ歩いた。親方の煙草の火だけが後ろの方で遠く時々明るくなつた。
嶺に達したころ炬火は燃え切つてしまつた。それでも山の背は明るかつた。白い道がかすかに青い草原を縫うて走つてゐるのが見えた。
「それではこれでおわかれとせう……いや、どこまで来て貰つてもはてはないから……」
「それぢやまたどこぞで逢ふこともありませうで。」
「落ちついたら知らせるから……」
江村の立つてゐる黒い姿が空に投影して久しいこと嶺の上に見えてゐた。
「やまねこにたゝられたと見えて体がだるい。」
親方はともすればおくれがちになつた。
「清さん、俺いつとき代つて担がう……」
清さんに追ひついては親方がかう言つた。
二人は何にも語らないで白い道を歩いた。
「何時までもこのまゝの夜道がつゞけば宜い。」
二人はさうおもつた。
ぱたぱたと二人の足音が静かに聞えた。黒鳥がくゝくゝと草のなかを鳴いて走つた。
「親方、あれが港の燈台でせう。」
清さんは立ちどまつて山の裾の方を指さした。そこには暗い山の陰に際立つて明るい火が燃えてゐた。
「もう直きぢや、一休みして行くことにせう。」
親方は投げ出すやうに体を草の上に横たへた。清さんも親方の傍に行つて腰を卸した。草地の蚊が時折り耳をかすめて飛んだ。
二人は青い葉を折つて焚いた。白い煙がくつきりと草原を這うて海の方へなびいた。白い波頭が山の根を噛んでゐるのが銀の帯のやうに見えた。
「もう東も白んで来るぢやらう。」
眠さうに親方が言つた。
二人は限りもない空の星と沖の漁火を見つめたまゝ黙りこんでゐた。二人は何時とはなしにうとうとと眠つた。親方の鼾が高くきこえた。
清さんが眼をさました時には、既う夜はすつかり明けてゐた。海には灰色の帆が限りもなくつゞいた。空はすつかり曇つてゐた。壱岐の勝本の鼻が少かにどんより見えるだけで、内地の島影は見えなかつた。
暗い玄海の面を燻し銀のやうな白い波が、涯もなく流れては、雲や空のなかに滅えて行つた。
絶望と困憊とをたゝへた親方の顔の色は土のやうに見えた。親方は他愛もなく眠つてゐた。力ない呼吸と鼾とが土の底から洩れて来るやうにおもはれた。
清さんは全身の骨と筋肉とが一つづつ離れ離れになつたやうに懶かつた。
清さんはぢつと親方の死人のやうな顔を見つめてゐた。そこには鬱金の風呂敷包みが草の上に横たへられてあつた。
清さんは子供のやうになつて泣いた。
大正六年十月「早稻田文學」