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魔笛

 銭湯はひつそりしてゐた。

 あから顔の肥つた男が、よたよたとタイルの流し場から姿を消すと、男湯は三村ひとりになつた。浴槽に脚を伸ばして、揺れる湯気を眺めてゐると、うつとりとした睡気に似たものが瞼に漂ひ始めた。そのまま眼を閉ぢた。だが、耳はなにかを聞いてゐた。

 桶の音、湯を使ふ音に混つて、女の声が響いてゐた。女湯もすいてゐるのか――どうやら話してゐる女客二人だけらしい。高い天井にはねかへつて来る女の声は明るく弾んで、ひそやかな筈の会話はその笑ひ声といつしよに三村の上気した顔の上に降つて来る。なにを嬉しさうに話してゐるのか? 女は着物をぬぐと、心まで裸になるらしい。あからさまな響きを帯びて、浮づつた調子の言葉が続く。だが、三村はそれをはつきり聴いてゐたのではない。ただうつらうつらと聞いてゐた。

 ――ねえ、その後、むかふからはなにも云つて来ないの? フミエさん、あんたほんとに偉いわね。でもよく思ひ切つて出て来たわ。わたしにはとても出来ない。

 しばらく途絶えた会話の後で、不意に沁々とした言葉が聞えた。

 ――そうかしら、誰だつて辛抱出来る筈ないわ。あんただつて我慢が出来るものですか。逃げ出さずには居れないのよ。わたしだつて随分こらえたんだけど――

 ――そいで、なにも云つて来ないの?

 ――それがね、とてもしつこいの。手紙を寄越したり、この前なんか、間に人を入れたりして、帰つてくれつて膝詰談判よ。

 ――やつぱりそうなのね。もうあんたとこうして背中を流しあつたりすることなんかないと思つてたのに。あんた少し痩せたわね。

 ――痩せるわよ。わたしもうどこへも行きたくないわ。

 三村はぎよつとした。眼を開いて、ぢつと耳をそばだてた。女のひとりはフミエと呼ばれた。聞いてゐると、どうやら声を知つゐる。話の意味も全く解らない訳でもない。いや、もし彼女が文江であるならば、三村はその言葉の意味の深さに茫然とならざるを得ない。女は文江なのであらうか? やつぱり文江はこの街に住んでゐるのか? いや、この街に又もや帰つて来てゐるのであらうか?

 三村は浮かしてゐた体をしやんとして、浴槽の中に突つ立つて、ぢつと耳を澄ましてみた。しかし、会話はそのまま途切れてしまつて、湯を使ふ音だけが慌しかつた。

 三村はそつと浴槽を出て、湯舟の縁に腰をおろして、なほも女湯の気配に耳を傾けた。だが、聴きたい言葉は聞えなかつた。新しい女客が増えたらしい騒々しい桶の音が天井に響くだけだつた。

 こうしては居れない――とふと気がつくと、急いで体を拭いて、あがらうとした。表で待つて、文江であるかを確かめたい。文江ならば会つてみたい――と思つた。

 だが、会つてどうするのだ。文江に違ひはないかも知れない、だが、会つてどうなるのだ――と気がつくと、三村は再び浴槽に帰るよりほかはなかつた。ぐつたりと疲れたやうに、再び脚をのばして、文江らしい女とその友達とが交わしてゐた会話を考へてみた。

 文江は又この街に帰つてゐるのか?

 三村は体の力が抜けるやうな気がした。嬉しいのか、嫌なのか、安心したのか、困つたのか。三村はただぼんやりと湯に浸つてゐた。云ひやうのない心の状態に身を委せながら。

 

       *

 

 五年前の春の午後、三村は手拭を懐にしてこの銭湯に来る途中で、ひとりの女に会つた。道で女に会ふのは何も珍らしいことではないが、表通りに出る細い横丁を三村が懐手をしてぶらりと抜けやうとした時、五六間先を三尺の結び目をゆらゆらさせてゆつくりと歩いてゐる女があつた。三村はそのうしろ姿を眺めるともなく眺めながら、同じ間隔を保つたまま女の後から歩いて行つた。

 不意に女はちらりとふり返つた。美しい鼻条だ――三村はそう思つただけだ。すると再び女はふり返つた。その顔には笑ひがあつた。三村は急に心がしやんとした。ぼんやりと女のうしろ姿を追つてゐたに過ぎない眼が、女の頬を掠めた微笑を見てとると、なぜ女は笑つたのか? と心は考へ始めたのだ。この時もし三村がこういふことを考へなかつたら、女と三村とはそのままの距りを保つたまま、この横丁を抜けて行つたに違ひない。そして、永久にその距りが続いたであらう。だが、春の午後の風呂へ行きたいなどと思ふぼんやりした状態の中で、ふと眼に映つた見も知らぬ女のなにげない微笑が、三村の心にひつかかつて、心を眼覚めさせたといふことはどういふ訳であらう。

 三村は女のうしろ姿を激しくみつめながら、女の笑ひの理由を考へた。知つてゐる女であらうか? いや違ふ。こちらは知らなくてもむかふは知つてゐるのか? そんな筈はない。見かけたこともない恰好をしてゐる。ではなぜ女は笑つたのか? 三村の歩みは少し速くなつた。さて、不思議なことは、女の歩みが少しのろくなつたやうに思へたことだ。三村が自分の歩みの変りかたに気付かずにそう思つたのか、ほんとうに女の歩みが遅くなつたのか、それはちよつと解らない。三村には女がゆつくり歩き始めたやうに思へた。そして、いづれにしても、女との距りは次第につまつて来たのである。

 やがて、三村が女に追ひつきさうになつた時、女はみたびふり返つて、殆んど横に来てゐる三村に笑顔を見せてしまつた。

 思つてゐたよりもずつと若々しい頬に浮かんだ意味の解らない笑ひを間近で見てしまふと、三村は女がなぜ笑つたかなどと考へてゐたことを忘れてしまつた。三村はちよつと肯いてみせた。女は皓い歯を見せて、さらに笑つた。三村はもう何も考へる必要はなかつた。

「どこへ行くんです?」

 女は笑ひをいつさう(しな)やかにしながら、

「ちよつとそこまで――」

「かひもの?」

 女は頭をゆすつて笑ひ続けた。優しい眼もとで三村の奇異の眼を仰ぎながら、なんの不安も疑ひもなく、素直な輝きを宿してゐる瞳は少女らしいものさへあつた。ふたりは並んで狭い横丁を抜けて行つた。お互ひ体を斜めにして、顔を眺めあふのに都合のいい姿勢をとりながら。袂や肩をうちつけながら、

「お風呂ですの?」」

 表通りに出ると女は立ち止つた。三村もそれに釣られて、

「ええ」と女にむかひあつた。

 その三村を軽くはづして、

「ぢやまたね、さよなら」

 女は一度ふり返つて、例の笑顔を見せたりしたが、やがて電車線路を横切つて、鈴蘭灯の並ぶ小路に消えて行つた。三村は放心したままで、すぐ左側にある銭湯ののれんをくぐつた。

 三村にはどうしても女の心が解らなかつた。なぜ笑ひかけたのか? 三村の知つてゐる筈はない女だ。しかも、古い知合いのやうに話までした。三村が話しかけたのは、女の表情に三村の言葉を待つ色が見えたからだ。三村が追ひつくのを心待ちに、なんの不安もなく、むしろ喜んで、その言葉を期待してゐた風に思へたからだ。しかし、それは彼の眼の誤りではなかつたか? とすれば、なぜ女は逃げもしないで、彼の話しに応へたのであらう? やはり女は三村を待つたのか?

 ――三村はどうしても腑に落ちなかつたのはそれであつた。どうして、あの女は彼を知つてゐるのか? 知らなければあんなことが起ることはない筈だ。やがて、三村は考へるのを止めた。解ることではなかつたから、いつか又、女に会つたら解るかも知れないと頭をもたげる疑ひの芽を押さへることにしたのだ。だが、女とはその後永く会はなかつた。

 

 あの夏の午後、三村が銭湯から出て来ると、思ひがけなく、セルロイドの湯道具を持つて、簡単服を着てゐるその女と顔を合した。女は思はす、あらつ!と云つた。三村も慌て気味に、やあと――唸つた。

「し、ば、ら、く――」

 女は変に音を切つて、懐かしさうに笑つてゐた。のれんをくぐつて入らうとはしなかつた。眩しい西陽に眼をちらちらさせながら、ふたりは佇んで、話をした。女はなんの不思議もないやうな顔で、三村に変りはないか? と訊いたりした。三村もそれにつりこまれて、返事をしたりしてゐたが、どうも心は不安であつた。どう考へてもこの女とそれほどの知りあひではないやうな気がして心が落付かなかつた。しかし、嬉しかつた。

「ね、あなたどこ?」

 女は急にまことしやかな顔で訊ねた。三村は横丁を入つて右へ曲つた所の三階だての家だと答へた。

「遊びに行つてもいい?」

 女は顔をかしげて媚びてみせた。

「いいですよ、どうぞ」

「ぢや、行くわよ。ほんとに――」

 三村は肯くより他はなかつた。女はその答へに心から満足したらしく、ぢやいづれ――と婉やかな笑顔を残して、のれんの彼方に消えて行つた。三村は暗い横丁を歩きながら、女と初めて会つた春の午後、そして、遊びに来る――などといふ女の意外さを考へ続けてゐたが、どうもはつきりしなかつた。しかし、心は娯しかつた。女はほんとに来るのだらうか?

 女はなかなか訪ねては来なかつた。三村は女が来たとき、留守をしては悪いと思つて、トタン屋根の暑い三階の狭い部屋でうだりながら、散歩に出るのさへ我慢して、二三日は心待ちしたのだが、いつか馬鹿々々しくなつて、もう女を待たなかつた。それにしてもおかしな女だ。いつたいどこに住んでゐるのか?

 いづれこの近くには違ひないのだが。

 三村が、女を待つことをすつかり忘れた頃、暑い七月の午後、不意に女は三階の部屋にやつて来た。三村は扉を開けた時、立つてゐるのがその女であつたときには声が出なかつた。だが、女はけろりとしてゐた。

「暑いわね、毎日。なにをしてたの? よくゐたわね。ゐないかと思つたんだけど……」

 幾度も来たことのあるやうな口振りだつた。三村はすつかり押されてしまつた。女はすすめる迄もなく、やくざな椅子に腰を降して、

「洋室なのね、ハイカラね、畳の上に坐りたくなることなあい?」

 汚れたハイカラな洋室なるものの四周を眺めたりした、三村は訳が解らなかつた。女はなにをしに来たのか?

「わたしどうも椅子は苦手なの。この上に坐らしてもらふわよ」

 しばらくすると、女は部屋の半分を占領してゐる安物のベツトの上にちよこんと坐りこんでしまつた。

「これみんなあなたのものなの?」

「いや、みんな部屋についてるんです」

 女はなるほどといふ風に肯いて、

「よくこんな所で暮せるわね」

 高座に出た噺家のやうにベツトの上からみおろしてゐる女を、低い客席から眺めながら、三村はすつかり気のいい客になつてゐた。女はひとりでしやべつてゐる。三村は下からそれに耳を傾ける。

「あなた、ショウバイはなあに?」

 ひと月ほど前から失業してゐる、その前には新聞の広告取りをしてゐたのだが、と答へると、それでよく喰べてゆけるわね、と女は問ひ詰めた。三村は今度は白州へ引き出されて奉行の調べを受けてゐるやうなものだつた。少し退職手当をもらつたから――と答へると、女は安心したらしく肯いた。

「この部屋、暑いわね。たまらないわ。外へ出ましやうよ」

 女は急に腰を浮かした。三村は賛成した。ぢつと、客席から勝手な話をきいてゐるのが我慢がならなかつたのだ。ことに取調べられるに至つては。

「出やう。その方がいい。屋根がトタンだから暑いんですよ」

 だが、今日の息苦しさはそのせいばかりではない。正体の解らない来客のせいだ。

 三村と女とはけだるい暑さの中をあてもなく歩いて行つた。近くの公園にはいつてみたが、街の中の申訳みたいな公園では、なんの涼しい筈もなかつた。

 女は市松模様の浴衣に夏帯をしめて、三村といつしよに歩くのはいつものことのやうに馴れた恰好で、終始しやべつてばかりゐた。だが、三村は暑さにへこたれて、女の奇妙さに心を塞さがれて、いい加滅なうけ応へをするだけだつた。しかも女はそれを少しも気にしないで、楽しさうにさへ見えた。ゴミ箱のやうに路傍にとり残されてゐる真昼の喫茶店があると、女は先にどんどんはいつて団扇を持つたままゐねむりをしてゐた少女を驚かしたりした。――。ソオダア水頂戴! 女は高らかに叫んだ。少女は不満らしい顔つきで、渋々腰をあげた。客は誰もゐないし、薄暗く埃りつぽい。三村はなまぬるいソオダアに魅力を感じはしなかつたが、女だけは音をたててストロオを吸つて、あげくはそれをポンと鳴らした。馴れた手つきで指にからませて――三村は女の職業だけは解つた、と思つた。それにしても、どういふつもりなのか?

 場末の映画館の前を通ると、――ちよつとはいつてみない?――女は胸から財布を抜いて、三村の答へを訊きもしないで、窓口に寄つて行つた。

 近くにゐていちどもはいつたことのない三流のこやであつたが、客の多いのには驚いた。とても急には坐れなかつた。女は三村の肩に手をかけて、苦しさうに喘ぎながら、背のびをしてゐた。納涼のお化けの出て来る映画だつた。女は面白さうに笑つてゐた。三村の腕に頬をあてて。

 不意に三村を放して飛び去つたかと思ふと、斜め左の前の方から、大きく手を振つて三村を呼ぶのだつた。座席をうまく見つけたのか――どうやら女にしてみれば三村とふたりだけで映画を観てゐるつもりらしい。三村は暗い中でも周囲に照れ臭かつた。

「ぐずぐずしてちや、駄目ぢやないの」

 女は三村がやつと近付くと叱つたりした。

 三村はスクリーンより傍らの女に気をとられ続けてゐた。嬉しさうに声を忍ばせたり、時々は三村の脇腹をこづいたりさへしながら、三村をひやりとさせる名も知らぬ女の方が、はるかにお化けなのであつた。

 映画館を出ると、やつと陽は西に傾いてゐた。

「おなか減つたわね。なにか喰べましやうよ」

 陰気臭く朱に塗つた支那料理屋の前で、女は三村をふり返つて、

「こんどはあなたが、おごるのよ、いい?」

 三村はお化けからとうてい逃げることは出来さうにもなかつた。

 チヤアハンにシウマイを喰べて、満足さうな顔をしてゐる女と、しまひまで心のすつきりしなかつた三村とは、横丁を抜けた所で別れたのだ。女は出掛ける時間だから――と云つた。三村は女の職業だけは確かに解つた。

「面白かつたわね、また遊んでね」

 女は子供のやうににこにこして去つて行つた。

 その後、女はまたしばらく現れなかつた、三村もたまには会ひたいとも思つたし、それよりも女の素性や名前ぐらゐ知りたいやうな気もした。それがいつかうに解らないことは奥歯にものがはさまつたやうな感じで不快でもあつた。しかし女の居所は解らないし。会へない限り、確かめる方法もなかつた。

 

 その次に女が現れた頃には秋風がこの街に吹いてゐた。やはり不意に三村を訪ねて来たのだ。女は昨日も会つたやうな顔をしてゐた。夏の日のやうにベツトに坐つて、相変らずにしやべつてゐた。三村はそれを眺めてゐた。

「キミはなんていふの?」

「わたしの名前?――文江よ」

 それつきりだつた。今迄三村がそれを知らなかつたことを馬鹿にしたやうな口振りだつた。三村の名を知らないことなどには更に頓着しないらしい。

「キミは幾つなの?」

「十八よ」

 女はうるささうに云つて、

「映画に行かない?」

「またあそこかい?」

「あそこつて?――ああ、けふはもつといいとこへ行きたいわ。これぢや駄目ね。わたし着換へて来るわ。連れてつてね」

 女はベツトから降り立つた。

 三村は女がひとり合点で、着換へに帰つてから、しばらくはぼんやり腰掛けてゐた。どこへゆくつもりなのか。一流のこやで例のやうにやられるのもたまらないが――と思つたりしながらも、まもなく女が誘ひに来ることに気が付くと、帯を解き始めた。

 やつとネクタイを結びかけた頃、忍びやかなノツクが聞えた。もう来たのか、馬鹿に早いな、それにしても文江のノツクは乱暴な筈だが、いたづらをしてゐるか? 三村はしばらくほつて置いた。ノツクはそのまま断続した。

 腹立たしく扉を中から開けた時、そこに立つてゐる女を見ると三村はぎよつとした。文江ではなかつたのだ。

 かつて妻だつた女、圭子がすつくと立つてゐた。三村は声が出なかつた。圭子も黙つて眼を伏せた。

「どうしたの? いつ帰つてきたの?」

「けさ着いたの。驚いた?」

 圭子はにやつと微笑むで、

「はいつていい?」

 三村は慌てて肯いた。

「びつくりしたよ。なぜ報らせなかつたんだ?」

 それには圭子は答へずに、恐る恐るそつと部屋にはいつて来た。ぐるりと壁を見廻して、

「すゐぶん変つたとこね」

 そしてなぜか安心したらしく、やつと、柔らかい表情になつて、

「ずつと元気なの? 手紙も出さずにごめんなさい」

「いや僕こそ失敬してた。よく帰る気になつたね」

 圭子は小娘のやうにこつくりをして、三村に優しく微笑んだ。――わたしの欲しいのはそん言葉ぢやなくつてよ、解らないの? といふ顔で。

 三村と圭子がいつしよになつたのはそれより四年の昔だつた。踊場で知りあつて、ちよつと激しい経緯のあとで、ふたりはいつしよになつたのだが、圭子は三村の甲斐性のないのを嫌ひ、生活の苦しさよりも、出世をしさうにも思へない男の将来に見限りをつけて、満洲へ働きにゆくと云ひ出した。その言葉の裏には、三村にもつとしつかりして頂戴、といふ意味があるのだとは知つてゐたのだが、はつきりしない職業を転々として、心の荒んでゐた三村は、好きなやうにすればいいと投げやりな返事をしてしまつたのだ。その甘えたやりとりが、いつか大きい溝となつて、ふたりは多分に未練を残しながら、意地半分で別れたのだ。そして圭子は満洲へ行き、三村はこの街に移つて来た――その圭子が不意に帰て来たのだ。

 三村はなんの通知もなく、眼の前に現れた昔の女の幾らか痩れた眼もとを眺めてゐると、泣きたい心にもなるのだつた。懐かしかつた。よく帰つて呉れた、と云ひたかつた。だが、なぜか素直にその言葉が出ないのだ。黙つて圭子の手を執つた。圭子は静かにすすりあげた。

 しばらくぼんやりとむかひあつてゐたが、ネクタイを結びかけたままの三村の恰好に気が付くと、圭子は濡れた瞼をまたたかせて、

「どこかへ出掛けるの?」

 その言葉で三村は、はつとした。まもなく文江が来る、困つたことになつた。文江は例のやうにしやあしやあとするだらう。圭子に文江とのことを説明することは難しい。女にこういふことの真相を納得させることほど困難なことはない。ことに、こうして遠い所から三村の許へ帰つて来たばかりの圭子に、嫌な思ひをさせるのは辛い。三村はまごついた。どうするか? 三村はとつさに肚を決めた。

「うん。どうしても出なきやならない用事がある。すぐ帰るから待つて呉れない?」

 三村は外に出て文江を待ち、なにか巧い口実を作つて文江を断らうと思つた。

「そうを。ぢや、わたしもちよつと行つて来るわ。荷物を取つて来るの。あなたのとこへ置いてもらへるかどうか解らないから、預けて来たの。いいんでしやうね、持つて来ても」

 三村は圭子の言葉に素直に肯いた。

「いいとも、僕のとこより他に行くところがあるんですかね。変な遠慮はしないこと。ここぢやとても暮せないが、とにかく荷物は持て来給へ。あとでゆつくり相談しやう」

「ぢや、そこまでいつしよにね」

 三村は再び困惑した、文江と会ふに決つてゐる。いつたいどうしたものだらう? 三村は考へながら鏡の中の自分の顔に問ひかけた。うまい智慧が浮ばない――

「支度く出来た?」

 のんびりした声に続いて、文江がぬつとはいつて来た。

「あら、お客さま?」

 文江は圭子の姿をみると、三村を仰いだ。

 思ひがけない邂逅に扉をしめるのを忘れてゐたのか。三村は言葉がつまつてしまつた。文江の眼から逃れると、圭子の顔をそつと覗いた。圭子の瞳は深い悲しみと、激しい詰問とを秘めて、さつきまでの明るさをすつかり失つてゐた。三村の眼をぢつと見返してゐた。三村は圭子の眼からも逃れなければならなかつた。

「ぢや、わたしちよつと行つて来ます」

 不意に圭子は小さく呟いて、その中に三村にだけ解る激しい非難を籠めて、するりと文江の傍を抜け出した。三村は圭子を呼ばうとしたが、なんと云つていいのか、声も出なかつた。急ぎ足に階段を降りるハイヒールの音が、三村の乱れた胸に痛かつた。圭子は誤解した。圭子は帰つて来るであらうか? なんといふ可哀相なことをしてしまつたのか。それにしても圭子はここに居ればいいのに。立ち去るべきは文江ではないか。三村はそれを知つてゐるのに、なぜ圭子が去つたのか。三村は呆然とするより他はなかつた。

「どうしたの? あのひと。急に帰つちやつたわね」

 文江は三村の傍によつて来た。なんといふ女なのか。三村は怒る気持にもなれなかつた。黙つて文江の顔を眺めた。

「さあ、行きましやうよ」

 文江は体をゆするのだ。三村は黙つて帽子をとつた。なるやうになるより他はない。こういふ時の人間の力といふものはなんと頼りないものであらう。馬鹿な圭子だ――三村は文江に投げるべき怒りを圭子に投げつけて、肚の中で呟いた。いそいそと三村のネクタイの歪みに手をかけたりする文江には手も足も出ないのだ。文江と並んで降りる階段には圭子の残した怒りの涙の跡がにぢんでゐるやうな気さへした。

 文江と三村とが横丁を表通りの方に抜けて行くと、中年の男が通りから折れてやつて来た。文江は不意に歩みを速めて、

「ねえ、知らない振りして通つてね。お風呂屋のとこで待つてて頂戴。知つてる人なの」

 三村を置いてその男に近付いて行つた。三村がふたりの傍をそつと通り抜けると、文江はけろりとした顔で中年男に何かぐずつてゐた。

 銭湯の前で待つてゐると、やがて文江は小走に寄つて来て、

「ね、ごめんなさいな。あのひとはわたしが姉さんにしてるひとの旦那なの。時々わたしを監督に来るの。これからいつしよに姉さんの所へ行かなきやならなくなつちやつた。だからけふはかんにんして。あしたきつと、訪ねて行くわ」

 三村はあつけにとられてしまつた。ほつともしたが、あまりな馬鹿らしさに驚きもした。

「いつておいでよ。いいよ。僕のことは」

「怒らないでね。あした必らず行きますから」

 なにも来てもらふ必要はない。怒るも怒らないも、怒るのならとつくに怒つてゐる。この女はなにも知らない。いい気なものだ。

 三村は独り部屋に帰つて、この三十分許りの間に起つた出来事の奇妙さにぼんやりしてゐた。とんだ人騒がせをして消えた女、愚かな自分、それよりも愚かに思へる圭子の誤解。彼女はなぜ自分の立場を主張しなかつたのか。久しぶりに帰つて来て、昔の男の部屋で見も知らぬ若い娘に会つて、三村とその娘との間に割り込めない自分だ、と考へたのであらう。三村には遠い昔の女になつてしまつてゐる、と信じたのであらう。なんといふ誤りだ。圭子が再び戻つて来たら、その愚かさを笑つてやらう。そして温かく迎へてやらう。三村は暮れてゆく秋の夕闇の中で、ぽつねんと腰を降して圭子の帰つて来るのをひたすらに待つた。文江のことなどは忘れ切つて。圭子と再び楽しく暮らすことを夢みてゐた。仲良くしやう。と切なく思つた。

 だが、圭子はつひに帰らなかつた。翌日もその翌日も――三村は淋しさに打ちのめされた。文江が約束も拘らず翌日、来なかつたことなどを忘れてゐた。ただ圭子のことだけを案じて暮した。圭子はどこへ行つたのか?

 やがて、冬が来て、三村は友達に誘はれて初めて行つた郊外の踊場で、圭子とめぐりあつたのだつた。三村はその後、圭子は又満洲にでも行つてしまつたことと思つてゐたので、圭子の姿をみつけた時にはさすがに胸が詰まつた。東京の踊場を探しても圭子はゐなかつたのだ。

 まもなく三村はこの街を去つて、圭子の住む郊外に移つて行つた。圭子との暮しが再び始まつたのだ。しかし、その生活は一年とは続かなかつた。

 

       *

 

 二年の後三村は再びこの街に帰つてゐた。圭子と別れて転々として、揚句に落付いたのはこの街であつた。しかも同じ三階の部屋なのだ。圭子となぜ再び別れなければならなかつたか? それはふたりは同じことを繰返したからだ。そのうへふたりの間に決定的な溝を作つたのは文江のことだつた。もし圭子が三村の許へ帰つて来た日、文江が現れたりしなかつたら、ふたりはうまくいつたかも知れない。三村がどんなに文江とのことを説明しても、また圭子が表面はそれを問題にしなかつたにしても、あの秋の午後、三村の部屋で味つた圭子の苦しみは拭ひ難いものだつた。忘れ得ないものだつた。三村をはつきり他人だ、と決めざるを得なかつたのだ。ふたりはその後偶然にめぐりあつて、三村はあの日のことを詫び、圭子はそれを許しはしたが、ふたりはかつて激しく愛しあつた日のことを懐かしんで、再びいつしよになつてはみたが、ふたりはつひに永い結びを保ち得なかつた。いつしよに暮す男女には、その相手を自分の為のみに生かしたいといふ激しい心がある。しかも、その心があまりにも激しいために、却て相手を失ふのではないか。三村が圭子を愛してゐたことは事実だし、圭子も三村の許へ遠い満洲から帰つて来るほどの心を持つてゐたのに、自分の思ふやうに相手がならないこと、殊に三村が圭子に飲ませた煮湯の熱さは、ふたりの激しい恋情の故に、ふたりの結びを拒んだのだ。三村が相変らずに生活がはつきりしないことが続くと、圭子は業を煮やし、その不満をさらに怒りに変へたものは、あの帰つて来た日の悲痛な記憶なのだつた。それがどうしても許せなかつた。離れてゐれば許せることも、いつしよにゐれば許せなくなる。そしてこういふ心こそ、愛の正体であり、恋の正体でなくてなんだらう。ふたりは激しく愛しあひながら、そのためにこそ思ふままにならない相手に愛想をつかした。そして別れるより他はなかつたのだ。

 圭子と別れてから、働いたり、失業したり、二年ぶりにこの街に帰つた時には、三村は又も失業してゐた。秋の半ば過ぎであつた。

 ある日電車通りの向側を、ふたり並んで通つてゐる女達のひとりが、どうも文江らしく思へた時、あの女はまだこの街にゐたのか、と考へたりして、変なもので懐かしくさへ思つたりしたが、わざわざ確かめる気にもなれないままに、その時はそれきりになつたのだが、木枯が埃をあげて渡る頃、またも銭湯にゆく途中で文江とばつたり会つてしまつた。文江は買出した野菜をいつぱい抱へてゐた。

 翌日の朝、文江は三村の部屋にやつて来た。

「わたしここへ来たことあるわ。いつここへ帰つて来たの?」

 文江は古い記憶を呼びもどさうとしてゐる風に見えた。

「あなたはなんて云ふんでしたつけ――」

 三村の名を覚えないで別れた彼女は訝しさうに眉を寄せたりした。三村だと云ふと。ふうんといふ顔をして、

「わたしの名前は知つてゐて?」

「知つてるよ。文江さんだ」

「よく覚えてゐるわね、あなたとはどこで知りあひになつたのかしら。ずゐぶん前ね」

 三村はふと思ひあたつた。昨日久振りに顔をあはした時、文江はかつて初めて会つた時のやうに微笑んで立ちどまつた。三村は、深い感慨に浸りながら、ずつとここにゐたの? と訊いた。文江は激しく頭を振つて、半年ばかり前から、だと答へた。だが、三村が驚いたのはそんなことではなかつた。三村を確かに知つてゐるといふ顔はしてゐたが、三村とかつて、どういふ交際をしたのかは殆んど覚えてゐない風に見えたことだ。三村がふと奇妙ななつかしさに襲はれて、また遊びに来ない? と云つた時、文江は、どこへ? と訊き返した。昔のところにゐる、と云つても、彼女には解らなかつた。新しく説明した上で、やつと文江はそれぢや近いうちに――と肯いたのだ。そして今、ここへ来てみて、やつと昔に来たことがあるのを思ひ出した風なのだ。とすると、初めて文江と横丁で会つた時、彼女は三村を誰か他の男と感違ひをして微笑みかけたのではなかつたのか? その時もし三村が、知らない女だ、とその微笑を黙殺して通り過ぎたら、文江は人違ひに気がついたであらう。たが、三村が、その笑ひを受けて、さも馴染らしく話しかけたので、文江は人違ひだとは夢にも思はなかつた。少しは変に思つたかも知れないが、知つてゐる男だと信じたに違ひない。そしてふたりの奇体な交渉が始まつたのではなかつたか? 昨日の出会ひにしたつて、彼女は三村の顔は知つてゐるが、どういふ知りあひかは全く覚えてゐない風であつた。三村がもし知らない顔で立ち去つたら、彼女は三村を知らない男を人違ひした、と思つたかも知れない。三村は謎だつた二年あまり前の女の心が解つたやうな気がした。

 三村はその考へを確かめてみるために、二年前の春、ふたりは偶然、横丁で知りあつたんだ、と説明してみせたが、文江はそれを頑として承知しなかつた。――わたしは知らない男に道で話しかけられて、返事をしたりする女ではない――と主張した。さらにその夏、ふたりで映画を見たこと、チヤハンを喰べたこと、それさへもはつきりは覚えてゐない風だつた。それを否定はしなかつたが、そんなことをしたかしら? といふ顔だつた。さらに三村が驚いたのは、あの秋の午後、三村を映画に誘ひに来て、途中で姉さんの旦那といふ男に会つて、映画見物を中止して別れたこと、そしてそれつきりふたりは会はないでしまつた、といふ忘れ難い事実をさへも、文江は全く覚えてゐないことだつた。あの日の文江の行動が、三村と圭子との間にどんなに大きい影響を与へたか? といふことは知る筈はないにしても、着換へ終つて三村の部屋へやつて来た時、そこに見も知らぬ女、圭子がゐた。そして、さつと姿を消してしまつた。それが彼女のせいだつた、位のことは覚えてゐるのがあたりまへに思へたが、文江はどうしても思ひ出せない風に見えた。

 三村は不思議なものを見るやうに、記憶といふものの乱れのひどい女の中でも、こんなのは全く珍らしいに違ひないと思ひながら、文江の顔をまじまじと見た。

 膚はあくまで白く、瞳はうつとりとして、十八だと云つた昔からみると、頬も少し落ち、変な老け方はしてゐるが、通つた鼻条の両側にはつねに美しい媚びが漂つてゐる。三村は自分の記憶が誤つてゐるのではないかとさへ思つたりした、しかし、そんな筈はない。この変な女のために、三村はこうしてこの三階に又帰つて来るやうにさへなつてゐるのだ。

 女はその後、思ひ出したやうに三村の部屋を訪ねて来た。朝早くやつて来たかと思ふと、夜遅く少し酔つて息をはづませて、――お紅茶のましてよ――などと、三村を驚かしたりした。三村が感冒にやられて寝てゐた時には、変な名前の売薬を買つて来て、三村がアスピリンをのんでゐるから、と云つても承知しないで、これでなければ駄目だ、と頑張つたり、道で会つた牛乳屋を口説いて、瓶ごと買つて来たんだといふ牛乳をわかして呉れたりした。三村が問ひもしないのに、彼女がひとりで語つた所によると――

 文江は新潟の生れで、母が継母なので、十七の時に東京へ出て来た。そしてこういふ女のきまりのやうに、喫茶店で働いたらしい。そしてこの空気の荒い大都会は、この少女をどんな風に痛めたのか、それは彼にも語られなかつたが、だんだん出世をして、一流のカフエに働くやうになつた。と彼女は云つた。そして一年あまりこの街を去つてゐたのは、それまでもひつこく世話をしませうと云つてゐた男の好意を受けて、渋谷の方で暮したからだといふことであつた。どうしてここへ帰つて来たかと訊ねると、

 ――わたしが我侭だから怒つてしまつたのよ。旦那がある人にわたしを見せる約束をしてわたしを会社に呼んだ時に、わたし嫌だつたから、すつぽかしたの。そいでわたしが旦那に恥をかかしたでしよ。それで怒つたの。わたしそんなに怒るんなら出て行くつて飛び出して来ちやつたの。

 文江は、しかし、今もその旦那の御恩は忘れてない。わたしが我侭で悪かつた、とは思つてゐる。だから、今でも箪笥の上には旦那の写真が飾つてあるの、毎晩寝る時には、おやすみなさい、をしているのよ、と真面目な顔で云ふのだつた。

 三村は、この漂々とした風に見える若い女が、自分では少しもそれを不安にも思はないで、生きて居れるといふことの意味の深さに驚いた。彼女にはなんの不安もないらしい。強いものだ。この女の生き方はこれ以外にはないのであらう。そしてよそめからはどんなにそれが危つかしく見えたにしても、女自身がそれを少しも知らないとすれば、それで立派なものなのだ、それでなんの不

満があらう。その旦那といふのは、いつか映画に行かうとした時に会つた男に違ひない。文江は彼を姉さんの旦那だ、などと、嘘を云つたのだが、そんなごまかしを三村にしたことはけろりと忘れてゐるに違ひない。

 文江が強く生きてゆけるのは、なんの不安も不満もなく生きてゆけるのは、全くよけいなことは忘れてしまつてゐるからだ。自分に都合のよくない記憶をきれいに捨て去つて生きてゆけること、それがこの女の生活力の強さの理由らしい。

 三村にはやつと二十歳のこの女が、なぜかどつしりしたものにさへ思へて来た。文江はそれほどしやんとして、顔にはなんの憂ひもなく、素顔のままで美しかつた。そして二年前に見た時よりも、ずつと大人になつてゐて、落付きが出来てゐた。この都会の上にどつしりと根を生やして生きてゐる、強い女のひとりに見えた。

 三村が病気になつたりするのは喰物が悪いかららだと、

「カレーライスなんかばつかり喰べてちや駄目よ。わたしがいい所へ連れてつたげる」

 こんなことを云つて三村を誘ひ出して、近所の三村が今迄知らなかつた定食屋へ連れて行き、

「おみをつけを喰べなきや駄目よ。大根おろしが体にいいのよ」

 三村がその好意をもてあましてゐるのも構はずに、

「おばさん、おみをつけもうひとつ頂戴。しらすおろし頂戴」

 と大きな声で註文した。そして深い感動が喉ににつまつて、苦しんでゐる三村が、それに箸をつけるのをぢつと横から見てゐるのだ。

 三村か失業してゐることを聞くと、

「あんた機械のことは解らないの?」

 解らないと答へても、

「あんたにその気持があるんなら、旦那の所へ行つて頼んで来たげる。工場を自分で持つてゐるんだから、どうを?」

 と三村を困らせたりした。

 三村は文江に会ふとなんとも云へない深い強い想ひに胸がせまるやうになつてゐた。それは彼女を恋したのでもなければ、嫌がつたのでも勿論ない。女といふものの不思議さのためだ。さういふ三村の沈痛な顔をみると、

「体が悪いんぢやないの? どこか温泉でも行きなさいよ」

「そんな身分ぢやないんだよ。ごらんの通り――」

「わたしが連れてつてあげてもいいわ」

 三村はその好意は嬉しかつたが、そんなことはたうてい出来なかつた。

「わたしお金は少し持つてるのよ」

 そして三村にその経済的余裕を納得させやうとして、この着物はいくらだとか、この帯は特別あつらえだとか、ハンドバツクは何百円だとか話して聞かせた。三村はそれに感歎してみせることで、彼女の好意に答へることが出来るだけだつた。

 女はいまも銀座の方で働いてゐると云つた。どこだとは教へなかつたが、あなたなんか決してそんな所へ行つちや駄目よ、と厳しく云つた。

「ああいふ所はひどい所よ。お客にご商売の景気はつて訊くでしよ。そして、いいつて云へば、ぢやお祝ひにシヤンパンを抜きましやう、つて云ふし、悪い、つて云へばそれぢや景気なほしに、つて、どつちにしたつてポンポン、シヤンパンなんか抜いちやふの。そしてお金を使はせることばかり考へるのよ」

 やがて、冬が来た。女は度々三村を訪ねて来た。多くは三村を慰め励ますために。

 ある日、女は急に三村さん――と恐らく初めて名を呼んで、

「ね、わたしと結婚しない?」

三村が驚いて顔を見ると、女は真剣な表情をしてゐた。

「ね、いや?」

「いや、嫌ぢやないよ、だけどあんまり突然だし、僕はこんな男だから、キミを不幸にするだけだ」

「ううん、それは解つてゐるの。だげど、わたしなんかシヤウバイをやりたいの。それにはひとりぢや駄目でしよ。やつぱり男がついていなくちや――」

 文江は店を出したいのだと云つた。そして、そんな金があるの? と訊ねると、旦那と別れる時にもらつたものが貯金してあると答へた。

「だけど、僕はとてもそんな店のことなんか解らないし、キミの手足まとひになるだけだよ。それよりもキミがそんな金を持ってることなんか、やたらに男に話すものぢやないよ。なんと云つてもキミは若いんだし、ひどいめにあはされると大変だ」

 文江はふふ、と軽く笑つて、そんな心配はないと肯いた。

「あなたにその決心がつけばいいんだけど――」

 そつと自分の胸に呟くやうな声で云つた。

「ありがたいけど、それはよく考へてみてよ。せつかくのキミの財産をなくしたらそれきりだよ。慎重にしないといけない」

 文江はそれには答へなかつた。そして、さういふ話は二度としなかつた。三村は淋しい気もしたが、この可隣な女に縋つて、その生涯に暗い影を作る恐れのあることをする気にはなれなかつた。

 春のまだ浅い頃、女はふとこんなことを云つた。

「わたしお嫁にゆくかも知れない。後妻なの。どうせわたしはちやんとした所へはゆけない体だから、行つてみやうかとも思ふんだけど。子供がひとりあるつていふの。東京ぢやない、田舎の方――家からやかましく云つて来るの」

 三村は女の話を聞いてゐると、二十歳で後妻に行かねばならない女の身の上、女の歳を急速に老けさせる都会のすさんだ風を思つて、なんと答へていいか解らなかつた。

 それつきり、文江は三村を訪ねて来なくなつた。この近くだとは知つてゐたが、女の住んでゐる所をはつきり知らなかつた三村にとつて、女の消息をこちらから確かめる術はなかつた。春が逝き、夏が過ぎ、三村は女のことをふと想ひ出して、なんとも云へない懐かしさに胸が痛んだし、どこでどうして暮してゐるのかと案じたりすることはあつたが、恐らくは田舎へ後妻に行つたのであらう――と考へて、ひとり、文江といふ女の残して行つた記憶を辿つたりして暮した。

 しかし、いつかそれも忘れることが多かつた。ところが、さらに――

 その秋には三村には召集が来た。三村はこの街の暮しにも疲れてゐたし、どの職業も永くは続かなかつたし、この召集は確かにひとつの救ひであつた。ちやんとした働きが出来る。しかもそれは国家の為に少しでも役立つ。三村は死んでもいいと思つた。三村は心から勇んでこの街を去つて、決められた任地へ向つたのだ。だが、三村といふ男はどういふ運命に生れたのか、永い都会の生活は、健康を知らぬまに蝕ばんでゐた。彼は戦地へも行けず、内地の病院で月日を送つてしまつたのだ。この時ほど三村は自分を哀れに思つたことはない。せつかくの働き場所が出来て勇んだのに、かへつて社会に迷惑をかけるとは――三村は一年の後、不甲斐ない男として、召集解除になつた。

 三村はこれからどうするかにほとほと迷つた。そしてつひに考へあぐねて、帰つて来たのは東京であり、またも住んだのはこの街であつた。ここより他に行くところはどうしても三村には思ひつけないのであつた。健康だけはやつととりもどすと、せめて、銃後の奉公にと、肚を決めて働き口だけはみつけたのだが――

 ――文江はまたこの街に帰つてゐるのか? 後妻に行つた婚家を出て来たのであらうか?

 三村は客の次第に混んで来た浴槽にひたりながら、さきほど聞いた文江らしい女の言葉を頭の中で繰返してみた。

 また文江に会ふかも知れない。文江は変つてゐるだらうか? しかし、会つたとてどうにもならない。それにしても、この街はなんといふ街であらう。

 銭湯を出て、三村はみたび帰つて来たこの街のことを考へながら、またみたび帰つて来てゐるらしい文江のことを想ひながら、裏通りに抜ける横丁をぼんやり歩いてゐた。木枯は埃を捲きあげて、この汚れた街を抜けて行つた。

 ガードひとつを距てて銀座からほど近い街。なぜこんな街に三村や文江はいくたびも帰つて来たのであらうか。記憶の悪い文江でさへも、この裏町を忘れないとは。時代も移り、世間も変り、ふたりの周囲も昔のままではない筈なのに、彼等を呼びよせたのは何であらう?

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2007/03/05

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井上 立士

イノウエ タツシ
いのうえ たつし 小説家 1912・3・19~1943・9・17 大津市生まれ。陸軍幼年学校から早稲田に入るが中退。小説を書き始め、同世代の十返肇、田宮虎彦、野口富士男、青山光二、船山馨ら8名と青年芸術派を結成、機関誌代わりに出した同人の作品を収載した『青年芸術派』(昭和16年 明石書房)に「男女」を発表。恋愛心理の描写で独特な個性を発揮していたが、昭和18年粟粒結核で急逝した。同人の仲間であった十返肇は「彼の死は敗北でなかった」と昭和20年に出版された『現代文学代表作全集49』(万里閣 「華燭」所収)解説にいい、高見順は「生きてゐたら戦後は必らずや華々しい活躍を見せた作家だと思ふ」(『文学界』昭和31年11月)と評した。

掲載作は『新創作』(昭和17年2月)初出。

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