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軍旗はためく下に(抄)

司令官逃避

  ――陣地は死すとも敵に委すること(なか)れ。(「戦陣訓」より) 〈陸軍刑法〉

第四十二条 司令官敵前ニ於テ其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ隊兵ヲ(ヒキ)ヰ逃避シタルトキハ死刑ニ処ス。

 

 司令ニ任スル陸軍軍人トハ(イヤシ)クモ軍隊ノ司令ニ任スル以上ハ其ノ団体ノ大小、任務ノ軽重ヲ問ハス又司令ニ任スル者ノ将校タルト下士タルトニ論ナク総テ(ココ)所謂(イハユル)司令官ナリト解セサルヘカラス。

 

 昭和十九年末、太平洋戦争における日本軍はすでにサイパン、グワム、テニアンを奪われ、陸海軍の主力を結集したフィリピンのレイテ島でも惨敗を喫し、十二月十五日には陸海空の圧倒的な戦力をもった米軍がルソン島の南、ミンドロ島に上陸、フィリピン防衛を担う第十四方面軍司令部の置かれたルソン島の中心マニラ市街は連日の空爆に(さら)されていた。特攻機はつぎつぎに基地を飛立っては還らず、内地では沖繩決戦、本土決戦が叫ばれていた頃である。

 そのような情況下の十二月二十八日、台湾の高雄を出航した輸送船団が、米軍の戦闘爆撃機や潜水艦を警戒しながらバシー海峡を渡り、無事にルソン島北部の北サンフェルナンドに着いたのはほとんど奇跡的だった。マニラに入港する予定を、沈没艦船が多くてマニラ湾へ入れないので北サンフェルナンドに変えたのだが、無事にルソン島の土を踏めるかどうか、凍るような気待で危ぶんでいたのは戸田上等兵だけではなかった。

「しかし同じことさ。どうせおれたちは助からない」

 昼夜兼行の荷揚げ作業にへばった様子で、小休止の煙草を一服つけると、永野上等兵が投げやりに言った。現役で張切っている若い兵隊たちと違って、戸田も永野も支那事変に従軍し、今度で二度目の応召だった。それまではふたりとも徴用工だったし、年齢は戸田が一つ下の三十四歳、体つきは柔道三段という永野のほうが逞しいが、東京の場末で育った環境なども似通っていた。

「どうせ助からないか」

 戸田は鸚鵡(おうむ)返しに呟き、おれの声も大分投げやりだなと思った。入港後間もなく敵の戦闘爆撃機P38の猛攻をうけ、船団十隻のうち八隻が撃沈され、その残骸のマストが入江のあちこちに夕日を浴びていた。

 ――いや。

 戸田は心の中で首を振った。リンガエン湾に映る燃えるような夕日を眺め、感傷的になっている自分が気に入らなかった。戦争は負けるだろう、だから戦死するかもしれない、しかし、まだほんとうに死ぬとは思っていない、永野も感傷的になっているだけではないのか。

「ほんとうに助からないと思ってるのか」

「まず助からんね」

「あんたも死ぬのか」

「おれは大丈夫さ。絶対に死なない」

「なぜだ」

「おれは運がツイている。支那でも、普通なら死ぬところを、おれは何度も助かってきた。クジ運もいいし、たとえ部隊が玉砕するようなことになっても、おれだけは生残る自信がある」

 永野は生真面目な表情で、自分に都合のいい解釈をしていた。額の広い長い顔で、徴用工の前は化粧品会社に勤めていたというが、戸田に較べれば遥かに楽天的な男らしく、性格も多少ズボラだった。戸田は洋画の配給会社に勤め、アメリカや西欧の映画が輸入されなくなってぶらぶらしていたところを徴用に引っぱられ、軍需工場でプレス工をやらされていたのである。

 北サンフェルナンドは、緑の椰子並木に縁どられた小さな港町だった。しかし、先着していた守備隊の兵士の話を聞くと、住民の大半は何処へか逃去り、残った住民も初めの頃は友好的だったが、米軍優勢の噂が高まるにつれて日本軍兵士に侮蔑的な態度を示すようになっていた。軍票が日ましに下落して、町外れの露店て売っているバナナが一本三円から五円、黒砂糖一塊三十円、正価十五銭の煙草「金鵄(きんし)」が一箱二十円から三十円もする。煙草や罐詰などは軍の横流し品で、月給二十四円の上等兵にはむろん手が出ない。また、家々の柱に「かつかしぬるか」というペンキ書きの平仮名が至るところで眼についたが、それが「勝つか死ぬるか」と分ったときは、

「厭なことを書きやがるな」

 永野上等兵も不吉を覚えたように言った。先着部隊が決死の覚悟を促すために書いたらしいが、全部平仮名にしたのは漢字の読める華僑がいたせいだという。

 いずれにせよ、無事に入港したものの上陸した途端に爆撃をくって、それから数日は穏かに過ぎたが、年が明けて正月五日の夜半、大隊本部へ命令受領に行った小柴兵長が飛ぶように戻ってきた。

「いよいよ来やがったぞ。無線将校が復誦しているのを聞いたんだ。敵の船団がポロ岬沖に現れた。すぐそこだぜ」

 小柴兵長は息を切らして、声が上ずっていた。

 

 ――わたしは少し酔っています。話が前後したら注意してください。しかしまだ大丈夫、杉沢中隊長のことでしたね。分っています。あんたもどうぞ遠慮なく飲んで、お互いに手酌でやりましょう。

 敵の艦砲射撃が始ったのは翌六日の未明でした。砲弾音で眼が覚めたんです。中隊は住民が逃げたあとの空家を宿舎にして、分隊ごとに分散していましたが、艦載機のグラマンも蜂の大群みたいにやってくるし、その機銃掃射の怖さといったら、腰が抜けたようになって逃げられない兵隊がいたくらいです。とにかく伝令がきて山のほうへ退避しろというので、泡をくって逃げました。どういわけか、逃げるのは海軍のほうが早くて巧かった。わたしたちが外へ飛出したら、海軍の兵隊がどんどん逃げてゆく最中だった。わたしたちのほうはてんでんバラバラです。マンゴーや椰子林の斜面を無我夢中で逃げた。それでも、多少は安全と思われる山の中腹で一息いれたら、不思議に中隊の者がまとまって、砲弾に吹っ飛ばされて欠けた者はいましたが、ほかの隊の者は一人も紛れこんでいなかった。あとで考えると、みんな無意識のうちに中隊長の動きについていたようです。

 温厚な、実にいい中隊長でした。部下を叱りつけるときでも、決して大きな声を出さなかった。わたしより三つか四つ年上だったでしょう。支那事変で北支に従軍してから予備役になり二度目の応召まではカメラ会社に勤めていたと聞きました。甲幹出身の中尉です。子供が三人いるということも聞きました。ちょっと渋い感じの男前で、臆病なひとだったとは思いません。

 しかし、中隊全員の素質はあまりいいと言えなかった。装備もひどかったし、三十歳過ぎの補充兵と、沈没した船から這上った丸腰の海没組ばかりで、(いき)のいい現役兵は海没組の中のほんの僅かだった。上陸してから臨時に編成された特設中隊ですが、(ひが)む奴は半端な兵隊を寄せ集めたようだなんて言ってました。

 もちろん、だからといって杉沢中隊長が半端な将校だったわけじゃありません。

 山の中腹から見下ろすと、北サンフェルナンドの沖合は敵の艦船が、まるで観艦式に集ったみたいに百隻以上も浮かんでいる。わたしは夢を見ているようで、信じられない気持だった。

(すげ)えな」

 永野上等兵も呆然としたように言ったが、それが夢ではない証拠に、艦砲射撃を滅多やたらにぶちこんでくる。一息入れるどころじゃありません。大隊本部へ連絡を出したけど、何処へ行ってしまったのか、砲撃でやられたのか、それっきり戻ってこない。通りかかったほかの隊の者に聞いたらバギオヘ行くというので、わたしたちも這上るように山をのぼってバギオヘ向いました。バギオは松の都といわれたくらい松林の多い避暑地で、当時は山下大将の方面軍司令部や大使館員などもマニラから移ってきていました。海抜千五百、東と北の岡にしゃれた教会があり、白い壁に赤や青い屋根の別荘ふうな家が点在し、緑の芝生に囲まれた美しい湖もありました。目抜き通りには喫茶店や映画館もあったようです。しかし、わたしたちが行ったときはもちろんごった返していて、

「何をしに来たんだ」

 連隊副官の藤巻という大尉が、杉沢中隊長の顔を見るなり怒鳴りました。眼の窪んだ平べったい下品なつらで、呉服屋のおやじだったという四十歳過ぎの男ですが、えらそうなひげを生やして、北サンフェルナンドヘ戻れというんです。中隊長もずいぶん無茶だと思ったらしいけど、命令では仕様がありません。上官の命令は天皇陛下の命令と心得よですからね。わたしたちはぶつぶつ言いながら引返しました。

 ところが、北サンフェルナンドは連日の艦砲射撃と空爆で全く見るかげもない。ナパーム弾で椰子林も丸坊主に焼きつくされ、杉沢中隊は山あいに陣地を構えましたが、ろくな装備もない有様で、陣地といっても壕を掘っただけです。砲弾がとんでくるたびに壕へもぐって、友軍機がやってくる日を待つばかりだった。敵はすでにリンガエン湾に上陸していたし、友軍機はほとんど特攻隊で潰滅状態だったのですが、それはあとで分ったことで、兵隊たちはどこで噂を聞込んでくるのか、祭提燈のようにリンガエン湾に浮かんでいる敵船団の灯を眺めて、

「あれは日本海軍に湾口を封鎖されて出られないせいだ」

「アメリカ兵はパンがなくて、カレーライスばかり食わされているっていうぜ」

「二月十一日の紀元節を期して連合艦隊の大攻撃が始るので、友軍機がこないのは、そのときのために満を持しているらしい。ここにいれば高見の見物で、コテンパンに敵がやられるところを見ることができる」

 などと、のんきなことを真顔で言合っていました。そんな状態でも、かならず日本が勝つと信じている者が大部分だったんです。こっちはカレーライスどころか、乾パンも食えないでいたのに、今考えるとおかしいけれど、アメリカ兵のカレーライスを羨しがる者はいませんでした。いえ、結構です。ほんとに結構、わたしは手酌が好きなんです。近ごろ血圧が高いし、あまり飲めるほうでもありませんが、ほかに愉しみもありませんからね。どうですか、この漬物は。割合さっぱりしてるでしょう……。

 

 ――青いバナナは渋くて食えません。でも昼間は敵の観測機が空をまわっているし、爆撃の目標になるから火を使えないが、ゆでると渋味がとれて大根みたいな味になります。それに塩を加えると甘くなって、バナナの木の芯も食べました。(なま)のままか、煮て食ったこともあります。食べられる部分はほんの親指くらいで、味は殆どありません。パパイヤは実がなかったけれど、幹を輪切りにしてぐつぐつ煮るんです。堅い(たけのこ)みたいでちっともうまくないが、何しろ腹ぺこでしたからね。食べられそうな物は何でも食べました。ぐつぐつといえば、軍靴や革帯を三日も煮込んで食べたこともあります。これは大分あとのことで、栄養があると思ったんです。しかし靴はやはり食べる物じゃありません。スルメみたいにしゃぶっただけですが、まあ関係のない話はよしましょう。

 とにかく紀元節を過ぎても、日本の連合艦隊はいっこうにやってこない。砲弾は相変らず飛んでくるし、フィリピン人のゲリラも活溌になって、全滅させられた小隊もでてきた。敵の陸上部隊が攻め上ってきたら、もちろん突撃して玉砕するほかないので、中隊長もさすがに覚悟を決めていたようです。もうカレーライスの噂をする奴なんかいません。わたしなども、覚悟というほどではないが、ここで死ぬんだと思っていました。  

 ところが、北サンフェルナンドの裏山にこもって一か月ほど経ったとき、ふいに大隊から伝令がきて、バギオヘ転進することになった。

「助かったな、おい」

 永野がほっとしたように言いましたが、内心はみな同じ気持だったと思います。バギオまで山道を約一週間、日中は谷間に隠れて眠り、行軍はもっぱら夜です。ゲリラを警戒するためで、その点、中隊長は非常に慎重で、部下を大切にしていました。負傷した部下を置去りにして、先へ行ってしまうような隊長とは違っています。

 しかしバギオに着いて、助かると思ったのは束の間でした。最初に行ったときの松の都という美しい印象は爆弾とともに吹っ飛んで、どこもかしこも焼跡だらけ、方面軍司令部のあった綜合病院もやられて退避壕にもぐっている始末です。わたしたちが着いたときも、どこがやられているのか、地ひびきのような砲声が聞えていました。そして、ようやく着いた杉沢中隊に与えられた次の任務は、バギオ防衛のためグリーン・ロードのキャンプ・(スリー)を死守しろという命令です。

 バギオとマニラの間は約二百キロありますが、マニラから平坦なルソン平野を北上して、急な坂道をバギオに至る十キロの道路がグリーン・ロードです。平地から一キロごとにキャンプ・(ワン)、キャンプ・(ツー)というように道標が立っていて、キャンプ・10まであるうちのキャンプ・3です。曲りくねった道は片側がジャングルで、反対側が崖になっている。その最前線の守備に、最も装備が悪く、ロートルの補充兵と丸腰の海没組ばかりの杉沢中隊が命じられたわけです。隊員は百六十人くらいいましたが、装備は擲弾筒(てきだんとう)三筒に兵隊の三八式小銃だけ、軽機関銃もなければ無線も有線もない。もちろん海没組は小銃も持っていない。特設中隊はいつも継子(ままこ)扱いで、いちばん割の悪い役ばかり押しつけられる。大隊長にしてみれば、子飼いの中隊が可愛いというのでしょう。とにかく杉沢中隊はキャンプ・3の道標辺を中心に展開し、第三小隊が右側高地、指揮班と第一、第二小隊が左側の高地にこもりました。

 それでも、初めの頃はマニラから退却してくる部隊や、水を汲みに下りてくる兵隊が往来して、糧秣(りょうまつ)の補給もどうにか続いていました。しかしそれも二月末頃までです。往来がなくなると同時に、補給のほうもぱったり跡絶(とだ)えてしまった。マニラ方面に残っていた部隊は退路を断たれたんです。バギオの主力部隊も動きがとれなくなっていたらしく、糧秣受領に行った兵隊は、自活しろと言って追返されてきました。自活しろと言われたって、食い物があるような所じゃありません。仕様がないから交替で、山岳地帯のジャングルを三里も四里も這いつくばってイゴロット族の芋畑を探し、その晩は芋畑の小屋に泊り、翌日帰隊するという生活を何日かつづけました。イゴロットは山岳部族です。畑になりそうな所を切拓いて火をつけ、その灰と腐葉土を肥料にして芋畑をつくり、土地が枯れ、芋を食いつくしたら次の畑へ移動するらしい。彼らは豚や犬も飼ってたようですが、わたしたちが見つけたのは食いつくされた跡の芋畑ですから、残り芋の屑ばかりで、たいした収穫があったわけじゃありません。敵の観測機は一日じゅう空をまわっているし、友軍機は依然一機も現れない。連絡兵が帰らなかったり、水汲みに下りた兵が機銃でやられたり、マラリアで死ぬ者もでて、その心細さといったらありません。

「いつまでこんな所にいろというんだ」

「軍司令部も連隊や大隊本部も、とうにバギオをずらかったんじゃねえのか」

 苛立ったように言う兵隊もいました。夜は厭な声で猿が啼きます。もう誰も不安を隠せなかった。楽天家で喉自慢の永野さえ、全然下手な歌を歌わなくなりました。「勘太郎月夜唄」なんていうのが得意だった男です。

 そのうち迫撃砲の大きなやつがぶちこまれだして、敵の遊撃隊と出遭ったのは確か三月十三日と憶えていますが、萱の藪っ原にいた指揮班の七人が自動小銃をくらって全員戦死、翌日はキャンプ・1の反対側の山中でわたしの所属していた小隊がやはり敵の遊撃隊とぶつかり、自動小銃の攻撃でたちまち半数以上がやられた。重いばかりで骨董屋に売りとばしたほうがいいような三八銃と、バリバリ撃ちまくる自動小銃とではまるっきり勝負にならない。逃げるのが精いっぱいで、戦う余裕などありません。どこをどう逃げたのか自分でも分らない。夢中で逃げました。この日は第一小隊も敵と遭遇して十二、三人戦死しています。敵は眼前に迫り、このままでは死を待つようなものです。わたしたちは中隊長の判断で、飲水のある沢へいったん退避しました。部下を犬死させたくないと思ったら、ごく当り前の行動でしょう。

 ところが、それまで中隊を放ったらかしにしていた連隊副官の藤巻大尉が、部下を三人つれてふいに現れたんです。そしていきなり、守備地点を勝手に放棄したというので怒鳴りだした。有無を言わせません。中隊長が弁解しようとしたら、「口応えするのか」と言って、わたしたちが見ている前で、軍刀で滅多打ちです。顳顬(こめかみ)に青筋を立てて、まるで気ちがいだった。「きさまはそれでも帝国陸軍の軍人か、恥を知れ、恥を。敵に遭ったらなぜ死ぬまで戦わんのだ。上官の命令を何と心得ている。ここで腹を切るか、さもなければ軍法会議にかけてやる。きさまのような将校は連隊の名折れだ」罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせながら、殴り放題です。

 中隊長は黙って殴られていました。奥歯を食いしばるようにして、じっと殴られていました。「畜生!」思わず唸った兵隊がいます。わたしも中隊長を助け、副官を叩っ殺してやりたい衝動に駆られました。しかし副官の部下は軽機を敵に対するように構えていたし、上官の命令は絶対だった。中隊長が我慢しているなら、わたしたちも我慢するほかどう仕様もなかった。分りますか。わたしは口惜しくてたまらなかった。中隊長はもっと口惜しかったに違いない。呉服屋のおやじだった野郎が、階級が一つ上というだけで、国のために召集された中隊長を殴っているんです。厭ですね。つくづく軍隊が厭だと思った。連隊本部で楽をしている副官などより、中隊長のほうが遙かに危険な前線で命を懸けていたんです。ほんとに畜生! と思いました。あんたはそう思ったことがありませんか。厭でしたね。どうにもこうにも腹が立ち、厭でたまらない気持だった……。

 

 ――いえ、わたしはまだ酔っていません。毎日飲んでいても、酔いのまわりが早いときと遅いときがある。その日の気分によって違うようです。まわりが早いから気分がいいとは限らない。きょうは遅いけど、非常に快適な気分です。あんたはあまり召上りませんね。お見受けしたところ痩せていらっしゃる。太っているより痩せたほうが健康らしいが、もう少し太られたほうがいい。そのためには何より酒です。ビールやウィスキーは駄目、やはり日本酒です。わたしが飲むようになったのは、戦争に負けて還ってからですが、煙草も麻雀もやらない代わりに、酒だけは欠かさない。わたしから酒をとったら何もなくなってしまう。酒とつるんで生きてるようなものです。酒の機嫌で河内山、あれは面白い芝居でしたね。でも酒の機嫌で河内山というのは講談の文句ですね。それとも浪花節だったかな。浪花節だとしたら、虎造ではなくて勝太郎でもなくて、確か木村友衛でしょう。浪花節の声色が巧い兵隊がいたけど、そいつもフィリピンの山ん中で戦死しました。いえ、副官の藤巻大尉は酔っていたわけじゃありません。戦況が悪化して気が立っていたかもしれないが、正気で殴っていたんです。そしてさんざんぶちのめしてから、「きさまを軍法会議にかけてやる。別命あるまでは守備地点に戻って、一歩も動いてはならぬ」と言捨てて引揚げました。

 そのあと、心配して見ていた小隊長や下士官が駆寄りましたが、杉沢中隊長は、

「済まん」

 とひとこと言ったきりだったそうです。副官に対してはついに謝らないで、部下に済まないと謝ったんです。僅かひとことに、万感の思いがこもっていたに違いありません。

「軍法会議にかけられたら、どうなるんですか」

 小柴兵長が人事係の青柳曹長に聞いていました。

「死刑さ」

 青柳曹長は寝そべったまま答えました。自動小銃で両足をやられ、体を起こせなくなっていたんです。中学で国語を教えていたという、おとなしい曹長でした。

 その日は戦友の遺体を埋葬したり、負傷者の応急手当などで日が暮れ、小柴兵長とわたしが附添って、分隊長の三浦軍曹をバギオの野戦病院へ後送する命令を受けたのは翌日です。負傷兵でも動けない者は仕様がないが、三浦軍曹は崖から落ちて左腕を折り、迫撃弾の破片で右足もやられていたけど、ビッコをひきながら歩けないことはなかった。背中いちめんに見事な刺青(ほりもの)を彫って、親の代から大工の棟梁だったという威勢のいい軍曹です。いくら威勢のいい棟梁でも、左腕が肩の附け根からブランブランで、ビッコをひいていたのではサマにならない。後送されるのは、戦友を見捨てるようで厭だと頑張っていましたが、中隊長の命令で承知しました。前の日の戦闘で小隊長が戦死し、本来なら三浦軍曹が小隊長に代わるところだったから、責任を感じて頑張ろうとしたのでしょう。しかし実際の話、ろくすっぽ武器も食糧もないのに、負傷兵は足手まといになるだけで、それに中隊長の気持としては、どうせキャンプ・1は守りきれないのが分っているから、なるべく多くの部下を後方へ逃がしてやりたかったのだと思います。軍法会議にかけられれば自分は死刑、残った部下はアメリカ軍の餌食です。だから後送を命じられたのは三浦軍曹のほかにも何人かいて、それぞれ二人ずつ兵隊が附添いました。わたしなどはお蔭で助かったようなものです。

「うまくやったな、戸田」

 永野上等兵はわたしにそう言いました。露骨ですが、真実をついてます。わたし自身、キャンプ・1から一歩でも離れれば、それだけ命が延びた気がしました。

「すぐに戻るさ」

 わたしが永野に答えたのは強がりに過ぎません。小柴兵長と交替で三浦軍曹に肩を貸し、グリーン・ロードは空爆が危いので、予め探しておいた野牛の通るジャングルの小径を、疲れて息が苦しくなっても休む時間が惜しく、早くバギオヘ行きたい一心で山道をのぼりました。後送が決ったら、三浦軍曹も同じ気持だったんです。喘ぎ喘ぎ二キロくらい這上ったとき、ふいに銃声がひびきました。ダダダダ……、という自動小銃の音です。そのときの三浦軍曹の素早さには驚きました。傷の痛みに耐えて、ビッコをひいてようやく歩いていたのに、「敵だ!」と叫ぶなり、転がるように沢を滑り下りて岩蔭に隠れた。小柴兵長もわたしも夢中で彼のあとから岩蔭にもぐりましたが、手榴弾が爆発するような音が聞えたのはその直後です。それっきり何の物音も聞えない。わたしたち三人は顔を見合わせたまま、しばらく口がきけなかった。岩蔭から出るに出られない気持ですが、いつまてもじっとしているわけにもいかない。フィリピンの三月はいちばん気候のいい乾期です。日ざしは熱いが、湿気がなくて、特に山中では日蔭に入るとひんやりするほど涼しい。空を見上げると、バギオ山系の稜線がくっきり浮かんでいる。空の色は吸込まれるような青さです。つい何分か前に銃声が聞えたなんて信じられない。

「いい天気だ」

 わたしがまず外へ出て、何となく呟きました。ほかのことを考えていたのに、思わず口にでた言葉です。すると三浦軍曹も小柴兵長も「そうかい」てなことを言って、まるでお天気をみるように這出してきました。銃声を聞き、戦友がやられていると分りながら、三人とも逃げてしまったことにうしろめたさを感じていたんです。しかし、戦場で助け合うなどという美談には嘘が多い。簡単に助けられる場合は別でしょうが、支那事変に従軍した経験でも、他部隊がいくら苦戦していても直属上官の命令がなければ救援に行かない。軍隊というところは辻褄さえ合えばいいので、命令されてもわざと時間かせぎに遠まわりして行ったりする。だからその逆の立場で、わたしのいた隊が苦戦していたとき、曹長について山砲隊へ救援を求めに行ったことがありますが、命令系統が違うと言ってあっさり断られました。しかし当り前かもしれません。みんな自分の身が可愛いのです。わたしたちは一時間くらい様子を見てから、ふたたびバギオヘ向いました。戦友の死体を見つけたのは一キロくらい先です。負傷した下士官を担いで先発した三人のうち、一人は火焔放射器でやられたらしく、丸焦げで顔も分りません。あとの二人も血だらけになって、とうに息が絶えていたようでした。わたしたちは険しい道を必死でよじ登り、ようやく、サント・アモスの山頂に着いたのが夕方です。ここまでくればバギオへ四メートル幅くらいの道が通っているし、もう一息です。わたしたちはほっとすると同時に、三浦軍曹がどうにも動けないというので、休むことにしました……。

 

 ――軍歌が聞えるでしょう。となりのレコード屋ですよ。うるさくて仕様がないが、近頃は軍歌のレコードがよく売れるそうです。全く変な世の中になってきました。酒を飲みながらあれを聞いていると、つまらないことを思い出していけません。この近所で、家内にまでわたしは戦争ボケだなんて言われてますが、確かにそうかもしれない。忘れてしまえばいいことを忘れられなくて、積極的に何かをやろうという気が起こらない。しかし、これは愚痴じゃありません。話をつづけます。サント・アモスでしたね。

 サント・アモスの山頂附近は、ほかの部隊がいて、輜重隊(しちょうたい)の大行李(車輌)も何台か駐っていました。松林の路傍で一個中隊くらいが飯盒(はんごう)で飯を炊いている風景を見たときは、何しろ友軍の兵隊をまとめて見るのが久しぶりで、非常に妙な気がしたことを憶えています。こんなのんきな野戦生活が、まだあったのかという驚きです。それほど食糧に困っている様子も見えません。この分なら日本軍も大丈夫かと思ったくらいです。松林の奥へ行ったら、フィリピンの若い女と歩いている将校もいました。少しも悪びれないで、将校の特権みたいなつらをして歩いていた。わたしたちは、迫撃砲でやられたらしい馬の肉を奪い合うように切取っている兵隊がいたので、強引にその仲間に割込み、その晩は上陸以来初めての肉料理にありつき、満腹したらわたしも小柴兵長も動くのが厭になり、天幕にくるまってぐっすり寝ました。

 ところが、次の日バギオへ行くと様相がまるっきり違っている。バギオまでの道筋は月見草のような白い花がきれいだったが、バギオ市街は爆撃で廃墟のようだった。この前行ったときよりもっとひどい。

「どこの隊だ」

 擦違った若い将校が、横柄な態度で聞きます。

「杉沢中隊です」

小柴兵長が答えました。

「弱虫中隊だな。何をしにきた」

「三浦軍曹殿負傷のため、後送してまいりました」

「きさまら、勝手にずらかってきたんじゃないのか」

「中隊長殿の命令です」

「ふん」

 将校はいかにも軽蔑するように鼻を鳴らし、そのまま行ってしまった。

 わたしたちの中隊はいちばんビリッけつの第八中隊ですが、第四中隊の関兵長に出会ったのはそれからすぐです。一中隊から順に、各キャンプごとにグリーン・ロードの守備に当っているはずで、四中隊ならキャンプ・7にいなければならない。その四中隊の関兵長が、

「何をしにきたんだい」

 最前の将校と同じようなことを小柴兵長に聞きました。ずんぐりした補充兵で、悪気のある男じゃありません。

 小柴兵長は最前の将校のときと同じに答えました。

「すると、八中隊はまだキャンプ・1にいるのか」

「当り前だろう」

「お宅の中隊長は軍法会議にかけられるという噂だぜ。知ってるか」

「知っている。さっき会った若僧の将校に、弱虫中隊と言われた」

「どうして逃げたんだ」

「敵さんに撃ちまくられて退避した。もちろん一時的退避だが、そこを副官のばか野郎に見つかった」

「噂とは違うな。杉沢中隊は敵が怖くて、ジャングルに逃げているところを見つかったと言われている」

「それは誤解だ。あくまでも一時的退避で、己むを得ない行動だった。考えてみても分るだろう。こっちは古ぼけた三八式で、敵は自動小銃を撃ちまくる。まともにぶつかったら敵うわけがない」

「分っているさ。敵は重火器を装備し、ロケット弾まで撃ちこんでくる。だからおれたちは後退さ」

「大隊長の許しを得たのか」

「もちろん大隊長の命令がなければ動けない。六中隊も七中隊も引揚げている」

「すると、残っているのは八中隊だけか」

「そうらしいな」

「うむ」

 小柴兵長は唸った。(かたわ)らで三浦軍曹が青い顔をしていた。中隊長は軍法会議にかけられる、そして部下の将兵は罰として最前線に食うや食わずのまま残されている、そう解釈するほかはなかった。

「それでおれたちは弱虫中隊と呼ばれているのか」

「むくれても仕様がない」

「呉服屋の副官が喋り散らしたんだな」

「喋り散らしたわけでもないだろうが、そういう話はすぐに伝わる。杉沢中尉はインテリだ。呉服屋のおやじは劣等感を抱いている。陸士出の若僧は威張りたがるだけだが、特進将校の中には陰険なのがいるからな」

「そんなことは理由にならん」

「確かに理由にならん。しかし軍隊では、どんなことでも理由になる。あるいは、理由になることでも理由にならない。将校は殿様商売だ。呉服屋のおやじは、たまたま機嫌が悪かったのかもしれない。このところ大分荒れ気味という噂を聞いた」

「なぜだ」

「知らん。あるいは女に振られたというだけかもしれない。最近、惚れていた混血に逃げられたらしい」

「しかし女に振られたからって、そんなばかなことがあるか」

「ばかなことなら、そこらじゅうに転がっているさ。この街を見ろ。これほどやっつけられて、日本軍は手も足も出ないんだ。たいてい頭がおかしくなる」

「それでおれたちが弱虫中隊か」

「言いたい奴には言わせておけ」

「キャンプ・1では食い物がなくて、みんな飢えているんだ。戦死者も二十名を越えた。病気で死ぬやつも出てきている」

 小柴兵長の声は呻くようだった。わたしも口惜しくてたまらなかった。小柴兵長は普通のサラリーマン出身で、口数は少いが割合ムカッとしやすい男です。しかしそのときは呻くように言っただけで、野戦病院の道順を聞き、関兵長に別れました。

 ところが、野戦病院といっても屋根を吹飛ばされた焼跡で、天幕を張ったり板囲いをしたりで、寝台ひとつない有様だった。そうしてようやく辿りついたのに、

「ここはおまえらの部隊がくる病院ではない。所属が違う」

 受附で焚火にあたっていた衛生下士官に、あっさり断られました。バギオには野戦病院がもう一か所あったんです。三浦軍曹がわたしの肩につかまって倒れそうになっているのを見ながら、こっちの事情を聞こうともしない。所属もへちまもあるもんかと思ったが、仕様がありません。

 しかし、もう一か所の野戦病院へ行っても、冷い扱いは同じでした。

「入院したって仕様がないぜ」

 衛生兵がそう言うんです。

 わたしは理由を聞きました。

「見れば分るだろう。薬もなければ食物もない。動けなくなったのが残っているだけだ。動けるうちに原隊へ戻ったはうがいい」

「――――」

 わたしは返す言葉もなくて、三浦軍曹を見ました。原隊へ戻れないことは分っています。戻れば戦友の足手まといになって乏しい食糧を減らすばかりです。小柴兵長が文句を言いましたが、衛生兵は同じことを繰返すだけで、

「何処へでも、ここから抜出せるやつが羨しい」

 と言出す始末です。

 そこヘ、一週間ほど前に後送された内海伍長が、わたしたちが来たことに気づき、板囲いの奥から手招きしました。見違えるほど痩せこけて、起上る力もないんです。そして最初に言った言葉が、何か食う物はないかということでした。入院しても治療を受けられず、薬もないし、たまに青いパパイヤ入りの小さな握り飯をくれるが、到底飢えを満たすには足りない、歩ける患者はみんな病院を出て、芋畑で暮らしているらしいというんです。

 わたしはショックを受けました。つい前の日、サント・アモスで馬肉を食ったなんて嘘みたいです。三浦軍曹のショックは、もちろんわたし以上だったに違いない。

「それで――」三浦軍曹が内海伍長に言いました。「内海は何の手当も受けないで、寝てるだけか」

「そうだ。こうして寝てる以外にない。動けんからな」

「しかし、このままでは死んでしまうぞ」

「死ぬ。分っているんだ。ここを出て行ってもやはり死ぬ」

「傷の具合はどうなんだ」

「見たいなら見せてやる。パックリ口をあけて、(うじ)が湧いている」

 内海は腹に巻いた(さらし)を解こうとした。血がにじんている晒だった。

「見たくない」

 三浦軍曹は内海を抑え、途中の芋畑で掘った一握りの芋を与えた。自分の分を、全部やってしまったんです。まわりの傷病兵が、雑嚢からつかみだしたその芋を、食い入るようなギラギラした眼で見つめていた。みんな飢えていたんです。名ばかりの野戦病院に放置され、傷の痛みに耐え、動くこともできず、このままでは死ぬと分っていながら、みんな飢えていたんです。あれでは栄養失調で死んでしまう。

「どうしますか」

 病院を出て、三浦軍曹に小柴兵長が聞きました。

「おれは死んでやる――」三浦軍曹はふいに烈しく言った。「何だあのざまは。あれが傷病兵に対する軍のやり方か。おれを軍司令部へつれて行ってくれ。軍司令官の前で自決してやる」

「短気を起こしちゃいけない。三浦さんの気持は分る。おれだって腹が立ってたまらない。しかしそんな真似をしたら、中隊長に迷惑がかかる」

「中隊長はどうせ軍法会議だ」

「そうと決ったわけじゃない」

「とにかくおれは死んでやる。歩けるうちに何処かへ行けなんて、死ねと言われたようなものだからな。きさまがそう言うなら、ここで死んでやる。おれがどんなふうに死んだか、みんなに伝えてくれ。危いからどけ」

「何をする気だ」

「どかないと、とばっちりをくうぞ」

 三浦軍曹はいきなり手榴弾の安全栓を抜いた。異常な眼つきだが、精神に異常をきたしているわけでなく、内海伍長に芋を与えたときから、覚悟を決めていたようだった。

 わたしも小柴伍長も慌てて抑えようとした。

 しかし、歩けないはずの軍曹が突然二十メートルくらい走った。バギオにくる途中、自動小銃の音を聞いたときの素早さと同じです。いざとなった場合の精神力としか考えられない。

 ところが、三浦軍曹の叩きつけた手榴弾というやつは不発でした。二発とも不発です。手榴弾というやつは全く不発が多くて、わたしも魚をとるつもりで使ったことがあるけど、やはり不発だった。

 不発と知った三浦軍曹は、その場に坐り込んでしまいました。わたしと小柴兵長はほっとして駆寄ったが、どうにも慰める言葉がない。軍曹の涙を初めて見ました。ぼろぼろ涙をこぼして、体を震わせているんです。よほど口惜しかったか悲しかったか、背中いちめんに彫物をした威勢のいい大工の棟梁が、左腕がぶらぶらになり、足の傷もかなり深くて痛かったはずです。それが死のうとして死ねなかった。わたしたちが病院に入るようにすすめても、首を振るばかりです。無理もありません。入院すれば内海伍長と同じです。腹をへらして死を待つ以外にない。といって、負傷した体で原隊へも帰れない。わたしたちにしても、軍曹を放って帰るわけにはいきません。そのうち日が暮れてくるし、わたしたちもどうしたらいいか分らなかった。それで、とにかくその晩は近くの空家に泊り、あとは翌る日になって考えることにしました。別荘ふうの小さな空家が、松林のあちこちにまだ焼け残っていたんです。寒い晩でした。月が明るくてね。月のひかりが窓からさして、松風の音が聞えていました……。

 

 ――ところが翌る朝眠を覚ますと、三浦軍曹の姿が見えないんです。いつ外へ出たのか、小柴兵長もわたしも気がつかなかった。しかしあの傷ついた足では、そう遠くまで歩けると思えない。三浦軍曹は、わたしたちの迷惑を察して姿を消したに違いなかった。前の晩、わたしは松風の音を聞きながらすぐに眠ったが、三浦軍曹は一睡もできなかったのかもしれない。わたしたちは廃墟のバギオを、通りすがりの兵隊に尋ねながら、隅から隅まで探しました。しかし、軍曹はどこにもいなかった。もちろん病院にも入っていない。あるいは首を吊っているのではないかと心配して、松林の奥のほうまで探しました。四中隊の関兵長にもまた会ったので聞いたが、やはり知らないという返事だった。連隊本部へ行ったときは、

「何をしてるんだ」

 陸士出の生意気な将校に頭から怒鳴りつけられました。そしてほかの中隊を探し歩いたときも同様ですが、逃げてきたのではないかと疑われ、杉沢中隊が退避したことについて、さんざん皮肉を言われました。副官の藤巻大尉には会いません。本部に行ったときはいなかったんです。

 わたしも小柴兵長も、どんなに歯ぎしりしたか知れません。ほかの中隊のやつらは、三浦軍曹が逃亡したとみているのです。

 わたしたちは探し疲れ、暗くなってから帰途につきました。三浦軍曹後送の附添いを命じた中隊長の言葉には、帰らなくていいという含みがあり、だから永野たちに羨しがられたが、バギオで噂されている中隊の不名誉を知って却って戻る気になり、夜なら敵の攻撃もないし、月明りに照らされたグリーン・ロードをいっきに下って行きました。キャンプ・6のあたりまてくると、左側は岩盤を剥きだした峻嶮がそそり立ち、右の崖下は急流が白い飛沫をあげて流れています。それまで一人の日本兵にも会いません。

「やはりみんな引揚げて、おれたちの隊だけ置去りらしいな」

 小柴兵長が呟きました。すでにバギオで分っていたことです。わたしたちは中隊の安否が気になっていました。ところどころに兵隊の遺体が転がっていたが、それらは栄養失調で落伍したらしく、杉沢中隊の者ではありません。

 ところがキャンプ・5を過ぎて間もなく、

「丸川じやないか」

 小柴兵長が倒れていた兵隊を見て、ギクッとしたように言いました。同じ分隊の丸川一等兵です。肩から胸の辺にかけて血がべっとりついている。声をかけたが、息はありません。手に触ったら冷くなっている。口をあけ、月を仰ぐように眼を開いたまま死んでいる。その百メートルほど先にも、始終顔を合わせていた中隊の兵が二人、折重なるように倒れていた。

「いけねえな」小柴兵長が言った。「みんなやられたぜ」

「もう少し先へ行ってみよう」

「無駄だ。全員やられている」

「しかし――」

 わたしは迷っていた。バギオの様子を中隊長に知らせたかった。

「無駄だよ」小柴兵長がまた言った。「この様子では中隊長もやられている。自分だけ生残るようなひとじゃないからな。連隊や大隊本部のやつらは、軍法会議の代わりにキャンプ・1の死守を命じて、自分たちが逃げる時間を一日でも多く稼ごうとしたに違いない」

「しかし、軍法会議にかけると言ったのは副官の独断だろう」

「守りきれないと分っているキャンプ・1を、死守しろと言えば同じことだ。あの呉服屋の副官はなぜキャンプ・1まで下りてきたと思う。初めから死守を命じるつもりできたのさ。ところが、ちょうど中隊が退避しているところを見つけたので、軍法会議を口実にしただけの話だ。どこかで犠牲を出さなければならないとしたら、特設中隊がまず生贄(いけにえ)にされる。分りきったことじゃないか。その証拠に、ほかの中隊はバギオヘ引揚げている」

「悪く解釈すればそうだろうが、副官の最初の気持は、おれたちの中隊もバギオヘ引揚げさせるつもりできたのかもしれない」

「そうは思わんね。それだけなら伝令を寄越せば済む。わざわざ副官がくることはない。とにかく、おれはもうやめたぜ」

「やめた?」

「兵隊をやめたのさ。冗談じゃねえや。そう虫けらみたいに殺されてたまるもんか。野戦病院へ行ったときから、ずっと考えていたんだ。戸田は考えないのか」

「考えていた」

 考えないわけがありません。三浦軍曹を病院へ送り届けたとき、軍は兵隊を見捨てていると思いましたからね。負傷兵が行くところもないなんて、軍司令部の参謀連中は防空壕の中で作戦を練っていたかどうか知らないが、何処へでも好きな所へ行けという衛生兵の態度は、軍隊がもう壊れている証拠だと思った。冗談じゃねえや、わたしもそう言いたい気持だった。自殺しようとした三浦軍曹の気持も分るような気がする。ぼろぼろ涙をこぼして泣いたのは、悲しみや口惜しさのためばかりじゃない。理窟をこねるわけじゃないが、軍が兵隊を見捨てるなら、兵隊が軍を見捨てて悪い理由はない。バギオヘ行かずに残っていたら、わたしも小柴兵長も死んでいたんです。

「こんな物は邪魔なだけだ」

 小柴兵長が小銃を谷底へ抛った。わたしも小銃を投げ捨てた。軍隊手帳も破って捨てた。そしたら、急にさっぱりした気分になりました。まごまごしていて、グリーン・ロードで敵に遭遇したら逃げ道がない。わたしたちはジャングルに入り、芋畑を探して歩いた。キャンプ・3に戻って、中隊の最後を見届けたい気持は残っていたが、敵にやられる恐怖のほうが強かった。所持品は銃剣一本と、万一の場合の自殺用に手榴弾を二個、ゴボウ剣は芋を掘るためです。しかし、芋畑は簡単に見つかるもんじゃありません。見つかっても大抵掘りつくされている。それでも芋畑を見つけると、周囲にバギオ春菊というのが生えていて、これは兵隊が勝手につけた名前ですが、春菊のお化けみたいな大きな野草で、アクがないので結構うまく、四、五日はどうにか暮らせたもんです。マッチがなくても、拾った懐中電燈のレンズに太陽をあてれば、火種をつくることもできる。山の中を歩いていると、隊を離れたのはわたしたちだけじゃなくて、時おり三人か四人くらいの連れにぶつかって、方面軍司令部はアシン川上流の山岳地帯へ撤退したらしいなどという情報も耳にした。

「野戦病院の患者は置去りだよ。動けないのは空気注射で死なされたが、ほかは残っているって聞いた」

 ある兵隊はそう言って去った。内海兵長や、三浦軍曹の消息は聞けなかった。十人、十五人とかたまって山中を放浪している兵隊もいた。彼らは一様に楽天的で、それは絶望を通り越して諦めがついたのかもしれないが、飢え死しなければそのうち戦争が終り、祖国へ還れるようなことを言っていた。水を飲みに沢へ下りたとき、

「陸軍さん――」

 海軍の兵隊に声をかけられたこともあった。ハダシで、服もぼろぼろで、芋をわけてくれという頼みだった。わたしたちは芋と岩塩を交換したが、近くの岩穴に四十人くらいの下士官や水兵がいるという話で、海軍も陸軍も同じなのだと思い、それからまた山へのぼって芋畑を探しにゆく途中、猫を見つけたときはつくづく日本軍が四散したという感じがした。本来なら猫なんかいるわけがないので、飼主に捨てられて、その猫も腹ぺこでうろうろしていたらしく、小柴兵長がすぐに猫を補えようとしたが、猫の逃げるほうが早く、かりに捕えたとしても、あんな疲せ猫ではろくに食える肉などなかったでしょう。野豚を見つけたこともあったが、やはり補えそこなったし、

「サント・アモスヘ行ってみないか」

 隊を離れて二十日くらい経ってから、小柴兵長がふいと思い出したように言った。サント・アモスの山頂附近には輜重隊がいたし、飯盒で飯を焚いていた兵隊が多勢いたことを思い出したんです……。

 

 ――何しろ腹がへってましたからね。岩塩をなめて、たまに屑芋と野草にありつく以外は、ほとんど食物らしい物を食べていない。小柴兵長がサント・アモスを思い出した途端に、わたしは飯の匂いを嗅いだような気がした。ところが、方向が分らなくなっているから何日も同じ所を回り歩き、ようやくサント・アモスに着いたら惨憺たる爆撃の跡です。山容まで変っている。輜重隊のトラックは残っていたが丸焼けで、兵隊の死体があちこちに転がり、食糧のありそうな所を探したがやはりきれいに焼かれている。しんと静まり返って、まるで死の世界です。松林の奥へ入ったら、女が素っ裸で死んでいた。前にきたとき、将校がつれていたフィリピンの女だった。

「うまそうだな」

 小柴兵長が言った。

 わたしはドキッとした。女の白い尻を見て、同じことを考えていたからです。淫猥な感じも、憐憫の情も湧かなかった。無意識のうちにうまそうだと思っていたことを、小柴兵長に言当てられたようでドキッとしたんです。しかし、もちろん食べなかった。フィリピンでは人肉を食ったという話を聞きますが、わたしたちは食わなかった。でも、あのときを思い出すと、もし小柴兵長がいなくて、わたし一人だったら食ったかもしれない。逆に、小柴兵長一人だったとしても、やはり食ったかもしれない。それほどわたしたちは飢えていたし、女の尻はとてもうまそうに見えた。白かったから、死んで間もない死体だったと思います。人間が、生きるために牛や豚を殺していいなら、人間を食ったっておかしくないじゃないか。わたしはそんなことも考えていた。あのときなぜ食わなかったのだろう。わたしは今でも考えることがある。しかしわたしは食わなかったし、小柴兵長もうまそうだと言って、悲しいような薄笑いを浮べただけだった……。

 

 ――話がそれましたね。レコード屋の軍歌がいけないんです。あれを聞くとどうもいけない。酒が陰気になってしまうんです。どういうわけか、死んでいた女の尻と、永野上等兵を思い出す。永野に会ったのは、サント・アモスへ行ってから四日くらいあとだった。わたしたちは相変らず芋畑を探し歩き、でたらめに歩いていたのに、いつの間にかキャンプ・1の近くの沢に下りていました。そのときは水を飲みに下りたんです。

 すると、草っ原に横たわってもそもそ動いている兵隊がいた。頭の上で両手をひらひらさせて、何の真似か分らないが、両足も変な具合に動かしている。顔に見憶えがあって、げっそり痩せてはいたが、第二小隊の滝本という分隊長だった。声をかけても返事をしない。眼をあいているが、わたしたちを見ようとしない。どこを見ているか分らない眼で、同じ動作を繰返している。何か呟いているみたいだが、低い声で聞取れない。頭が狂っていたんです。

 ところが、滝本分隊長からほんのちょっと先にも兵隊が倒れていた。沢に下りると、兵隊の死体が転がっていることは珍しくない。大抵、水を飲みにきて、そのまま死んでしまった兵隊です。だから別に珍しくもなくて、

「こいつ、割合いい地下足袋をはいているぞ」

 ボロボロの地下足袋をはいていた小柴兵長は、早速その兵隊の地下足袋を脱がせようとした。すると、

「おれはまだ生きてるんだぜ」

 その兵隊が言った。

「え――?」

 小柴兵長はびっくりして聞返した。

 確かに生きていたんです。薄眼をあけて、その兵隊が永野上等兵だった。小柴兵長もわたしも二度びっくりです。骨と皮ばかりに痩せて見る影もないが、永野に間違いありません。

「永野か」

 わたしが聞きました。

「ああ」

 永野は弱々しく頷いて、眼に力を入れるようにわたしを見た。わたしが分ったようだった。

「どうしたんだ」

「おれは死なないよ」

「中隊長はどうした」

「死んだ」

「小隊長は」

「死んだよ」

「青柳曹長は」

「みんな死んじまった。勇敢に戦ったけれどな、おれしか生残っていない」

「いつやられたんだ」

「きさまが行っちまった日さ。よく戻ってきたな」

「戻ったわけじゃない。きさまはどこをやられたんだ」

「おれはどこもやられない。みんなやられたが、おれはツイてるからな。腹がへって動けないだけだ。芋はないか」

「ある」

 わたしは小指くらいの芋をやった。しかし、彼はすでに噛む力がなかった。そして「水をくれ」と言った。

 わたしは水を汲んできてやった。

 しかしそのときには、永野は小指くらいの芋をくわえたまま息を引取っていた。わたしたちの姿を見て安心したせいかもしれない。水は彼の唇を濡らしただけだった。眼を閉じて、いくら揺すっても、二度と眼を開かなかった……。

 

 ――これでおしまいです。お喋りをして、余分なことまで聞かせてしまいましたが、だから杉沢中隊長は、軍法会議にかけられたのではありません。戦死です。戦死というより、一副官の独断か、もっと上の奴らの命令か分らないが、とにかくそいつらのために、中隊長だけではなく、百人以上の兵隊が死地に追いやられ、全滅すると分っていながら全滅したんです。杉沢中隊を犠牲にして、果してどれほどの大局的な作戦効果があったか知りません。わたしのような一兵卒は、ただ自分の体験を語る以外にない。杉沢中隊の汚名が残っているとしたら、とんでもない誤解だと言いたいだけです……。

 

 ――どうしたんですか。もっと飲んでくださいよ。わたしは少しも酔っていない。血圧なんか気にしていません……。

 

 ――中隊長の遺族は広島の原爆で亡くなられたそうです。三浦軍曹や内海伍長の消息は聞きません。小柴は元気でやっています。年に一度か二度は会いますが、伊豆の温泉で旅館のおやじになっています。副官の藤巻は死にました。五年ほど前です。復員後、アメリカ軍の出入り商人になって大分儲けたという話で、呉服屋から衣料品の卸問屋(おろしどんや)の社長になり、偶然ですが、問屋関係の宴会が小柴の旅館であったとき、藤巻も現れたそうです。もちろん藤巻は小柴を憶えていなかった。しかし小柴のほうが忘れやしません。藤巻が現れたのは戦後十年くらい経った頃ですが、腰の低いじじいになっていて、小柴が杉沢中隊の生残りだと言っても当時を忘れたふりをして、しきりに首をかしげていたそうです……。

 

 ――藤巻の死は新聞で知りました。顔写真はぼやけてましたが、角張った顎で、太い眉に憶えがありました。すれ違いに刃物で殺されたという記事で、その後のことはよく知りませんが、犯人は分らずじまいのようです……。

 

 ――まだ軍歌をやってますね。いらいらしませんか。わたしはいらいらして、たまらなくなることがあります……。

 

 ――昨夜は三浦軍曹の夢を見ました。ぼんやりした夢ですが、眼を覚ましたとき、ことによると彼は生きて還っているのではないかという気がしました。大工の棟梁だったという軍曹のことですが……。

 

――了――

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/03/10

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結城 昌治

ユウキ ショウジ
ゆうき しょうじ 小説家・俳人 1927・2・5~1996・1・24 東京都品川区に生まれる。

掲載作は、1970(昭和45)年第63回直木賞を受賞した『軍旗はためく下に』(同年7月中央公論社刊)中の第3話一編を抄出した。

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