最初へ

訣れまで

 朝

 

地下のコバルト照射室まで歩いて通えたのは 一月前ま

でであった。

十日前までは 車椅子をわたしが押した。

いま 父は ベッドから起きあがることができなかった。

風の舌が湿っぽい朝まだき 洗面所で口をすすいでいる

と 隣にやってきた少女が いきなり抱えていた花瓶の

花をぐいと一掴みに投げすてた。

百合 菖蒲 牡丹 竜胆

一瞬宙に舞ったとりどりの鮮やかさが 冷たくわたしの

眼にしみた。

少女は頬をふくらませ 逆さにした花瓶から音をたてて

水を流すと からになった花瓶も棄てた。それから手を

洗い 顔を洗った 乱暴にいつまでも。

長い髪に隠された横顔をみやりながら 少女が懸命に洗

い流しているものが ようやくわたしにもわかってきた。

怒りのわけが やっとわたしにものみこめてきた。

こらえきれずに洩れたかすかな呻き声が 小さなその肩

をふるわせている傍らをぬけて わたしはそっと父の待

つ部屋へ引き返した。

麦の秋になっていた。

 

 

 

 窓

 

思いがけない間近さに迫る山頂の城や どこまでも列な

る鈍色の家並みを縫ってきれぎれにのぞく二色塗りの橋

のこと そのむこうに 今は空を丸く刳り貫いて静止し

つづける ついこのあいだ終わったばかりの博覧会場に

建つ観覧車のことなどを話した。

そればかりを 話しつづけた。

ベッドのひとからはみえない背の低いコンクリート屋根

の縁に 二羽の鳩がひっそりと止まっていることや 遅

れてやってきたセキレイが一羽 その傍らでしきりに尾

を上下させていることなどを眼の隅に捕えながら みえ

ないもののことは告げまいと思っていた。

退院したら海のみえるところへ行きたい、と 聞いたと

きにも だから潮騒に耳を傾けるふりをして涙を隠した。

セキレイの尾の刻んでいるものが 残された父の命であ

ることを知りながらわたしは大きく頷いたのだ ほほ笑

みさえ添えて。

 

 

 

 水の中へ

 

たちのぼるぞうげ色の靄がすこしずつ少しずつ濃さを増

し たどる径はますます細く けれどもとぎれることは

なく 水音だけがまるで飼い馴らされたけもののように

ひっそりとより添って わたしの眉のあたり扇状にさし

だされた橙色の微光は なまあたたかい舌でまたも執拗

にくり返す もうすぐですよ——。

ためらいがちに踏みだす身体ごとかるがると抱きとられ

て仰向けに流されてゆく ただよってゆく 水の褥 波

のゆりかご 空の蒼と水の青のとけあうあたり あの懐

かしい顔が静かにほほえんでいるのだが 名さえはやお

もいだせず やがて 湿った羽毛いちまいに瞼が 鼻孔

が 唇がふさがれ おおいつくされ しだいにうすれて

ゆく意識のきわ とぎれとぎれにきこえてくるのは す

でにひとすじの光のなかに消えはてた顔の 歪んだ唇の

いまわの声 も・う・す・ぐ……

 

 

 

 失くしたものは

 

さくら吹雪に誘われて春の逝く日 きれぎれな眠りの岸

に打ちよせられた夥しい花びら そのひとつひとつにく

るまれた砕片。丹念に掬い集める指に絡みつく羞恥 た

ちのぼる悔い。やがて完成されたジグソーパズルのよう

に浮かびあがることばたちの在りし日の姿 生まれたば

かりのみどり児のような。人目に触れることなく消えて

いった あれはわたしの意識の水面を束の間たゆたい沈

んでいったものたちの ついに結び得なかった映像 語

り得なかった想い 今も深いため息の奥の。

とどけられた手紙の 行間を漂うかすかな気配に 薄い

鼓膜を緊張させる午後 窓の外では猛々しい驟雨 横な

ぐりの。葉裏を返して揉み合う樹々の 冥い在処を露わ

にされたものたちの鋭い叫び 交錯する恐怖。飛沫を散

らして突っ切る翳を片頬の隅に捉えながら なおも硬直

させる全身に またしても聴こえてくるのは 生まれる

前に死んでいったものたちの 声にならない声 言葉に

ならない言葉 あの深いため息の奥の。

 

 

 五月に

 

五月闇の底に蠢く

あれは わたしが

産みおとすはずだった

やさしい殺意

あからさまな慰藉

とおい日の子守唄よりも

なお寒々と

 

父よ

あなたの耳の底に

小人たちの輪舞は

いまも花を降らせるか

 

ひとすじの煙となって

たちのぼっていったあなたの

かたく合わされたしろい指に

奪われたままの叫びが

しきりに背を刺す

こんな夜には

生まれたままの全身に

しとどに濡れたことばだけをまとい

さえざえとあおい

あなたの眼窩を泳ぐ魚となって

なくしたものと

得ることさえできなかったものの

ひとつひとつのはるけさを

いつまでも いつまでも

巡りつづけていよう

 

 

 

 雨のスケッチ

 

いく日も降りつづいた雨のあとで 苔のように息をつめ

て わたしのこころに生まれてきたものをそっといたわ

りながら なおも降りやまぬ雨脚をたどって 稜線を隠

す重い雲へとさまよわせた視線を ふいによぎって消え

たのは 塒へ急ぐ鳥の翼だったろうか それとも暁方の

夢にしばしば訪れ 決まって背を向けて佇つひとの は

じめてみせたあれが噛みしめられた唇だったのか もと

より確かめられようはずはなく ただ 沁み透ってゆく

眩暈にも似た哀しみのしずかにゆっくりとはぐくんでい

るものを さらにやさしく庇いながら せめてひそやか

な決意へ実れと貧しい指を合わせる耳に とおくかすか

に身じろぐもののけはいがする。

 

 

 

 風

 

堅い座席に凍りついたこころを座らせて 視線をじっと

裡側に据えているだけで まちがいなく遠ざかってゆく。

あれほど必死に押し留めようとしたものは沈んでゆく夕

陽だったのか それとも……。

それにしても遅い電車だ いや速すぎるのだ。

もう駅を七つ数えた いや六つだったか。

残照 砂浜 オニガサキムラ

松林に点在する白い家家。ゆれている漁火。ゆれている

窓。隣の少女の黒い鞄。肩をおおって胸へあふれた髪。

ひろげた髪を波に梳かせながら 崩れてゆく砂のトンネ

ルをみつめていたのは わたし。ついさっき。はるかな

はるかな ほんのさっき。おき忘れられた赤いシャベル。

おき捨てられてゆく駅たち。つぎつぎと現われては飛ば

されてゆく線路沿いの町町。ひきずってきた冥い海。

潮騒 風紋 ハマボウフウ

たぐりよせる時の重さと刺し違えながら 聴いていたの

は風の音 風に曝される骸のわたし。

 

 

 

 桐の花

 

山すその火葬場に

ひっそりと いま

霊柩車が入ってゆく

 

柩によりそうのは

とおい日の

わたしか

 

蓮池のほとり

しんと空をさす

桐の花

 

父よ

そちらからも

みえますか

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/05/10

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山中 以都子

ヤマナカ イツコ
やまなか いつこ 詩人 1944年 愛知県に生まれる。

詩集「訣れまで」により、2001年度日本自費出版文化賞。内8編を自抄して掲載。

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