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宝物をくれた人たち(抄)

目 次

脳神経外科医 ジェラール・ギュイオー

   ―世界的脳外科医との出逢い―

 私が四十五歳の時、青天の霹靂、クモ膜下出血で倒れた。

 二週間も意識不明で、母と六歳になる娘はどれほど心配したことだろう。

 手術は成功したが、人工の骨を入れることになり、これがうまくいかない。

 三ヶ月間の入院中に、主治医の川合省三先生から、フランスに世界的に優秀な脳外科医が居るということを噂話として聞いていた。

 川合先生は、

 「どうしたもんかなあ!あなたはヨソモノを受け付けない体質だからなあ―――」とおっしゃり、私は意を決してこの有名な脳外科医のドクターに手紙を書いた。

 返事はすぐに来た。

 「あなたの手術がうまくいったことは幸運です。主治医に感謝しなければなりません。

 ご質問にお答えします。人工骨について私の意見を申し上げましょう。

 クモ膜下出血の手術そのものはとても重要な手術ですが、人工の骨について言えば、クモ膜下出血は家でいえば大黒柱が折れたようなもの、頭の骨の欠損は(ひさし)が少し欠けたようなもの。だから無理をして人工の骨を入れる必要はないと思います。日常、堅い物に当たらないよう注意・用心すればいいのです」

 この三十年間、私には頭部右側の骨はない。何かに当れば即脳味噌だから危険である。ステージに上る時も、車を運転する時でも、真夏でもかつらの下に小さなヘルメットを被る。

 

 この手紙をいただいてしばらく経った頃、演奏会で弾くためパリへ行った。私はすぐドクター・ギュイオーの勤務していらっしゃるパリ郊外のフォッシュ病院を訪ねた。

 適切なアドヴァイスをいただいた恩人に直接お礼を言いたかったからである。

 はじめてお会いしたドクター・ジェラール・ギュイオー。

 背が高く、がっちりとした体格、物静かな話し振り、私は即座に親近感を抱いた。

 話をしているうちに、彼は芸術に造詣が深く、ご自身も大したオルガニストであること、娘さん達もみんな音楽家であること。私達は胸襟を開いて話がはずんだ。

 何度も渡仏するうちにご自宅での食事やお茶に招ばれ、奥様やお嬢さん方とも親しくなった。長女コレットは声楽家で、しかも私の母校、エコール・ノルマル・ド・ミュージック・ド・パリで教鞭を執っていた。

 

 一九九四年の秋、コレットは連れ合いのノエル・アレクサンドルの仕事のため、夫婦で来日した。その仕事というのは、彫刻の森美術館開館二十五周年記念に催される、“知られざるモディリアーニ”の美術展のためであった。

 

 ノエルの父君、ポール・アレクサンドルはモディリアーニと強い友情の絆で結ばれた医師であった。

 ポール・アレクサンドルはモディリアーニがイタリアからパリに来た一九〇六年から一九一四年にかけて彼の描いたほとんどすべてのデッサンを直接買い取り保存していた。モディリアーニの死後、これら素描の作品をもとに、亡き友人画家の伝記を書こうと思ったが、多忙な医師という職業のかたわら故、これは完成しなかった。そこで彼の息子、ノエルが父の遺志をついで書き進め、“知られざるモディリアーニ”を完成・出版したのである。

 出版記念をかねてこの美術展を、彫刻の森美術館、上野の森美術館が企画・主催してノエルは招かれ妻同伴で来日した。

 

 コレットと私。この時二人の音楽家は以前から意気投合していたので演奏会も計画していた。私の学校のショパン・ホールでのコンサートで、フルーティストでもあるノエル・アレクサンドルは私達の出来栄えを誉めてくれた。

 

 打ち上げの会も終り、ホッとしたとき、コレットはパリに居るギュイオー博士に電話をかけた。

 「パパ! 無事に終わった!お客さんも大勢入ったし、パパの好きなフォーレの“ゆりかご”も上手に歌えたわ。シノブがいい伴奏をやってくれたの!」

 「ギュイオー先生!! コレットと協演できて最高です。ほんとうにうれしいですわ」

 受話器をとおして久しぶりに聞く博士のお声は少し興奮したように、いつもに似合わず大声で、

 「良かった、良かった。二人ともうまくいったんだね。僕も聴きたかったよ! 次はパリだね」

 

 私の病気をきっかけに、フランスの脳外科医ジェラール・ギュイオー先生の知遇を得て、その素敵なご家族とも親しくなった。

 医学と芸術がからみ合ったこの不思議な(えにし)―――。私は好きなアメディオ・モディリアーニの作品を観る度に、世界的脳外科医のことに思いを馳せる。

大屋政子バレエ研究所理事長 大屋政子

   ―浪速の貴婦人―

 一九六〇年代の半ば、いつだったか年月は覚えていない。しかし、強烈な印象は消えることがない。

 

 大阪でユベール・ド・ジバンシィがファッション・ショーを開催した。私は当時のフランス総領事のご招待にあずかり、うれしがりだから喜んで出席した。

 会場は大阪のフェスティバル・ホールだったが、グランド・ホテルからホールに向かう巾広く長くて大きな階段を、開演前にド派手な裾の長いイヴニング・ドレス、花をいっぱいあしらった大きな鍔広の帽子、胸にはヨーロッパからアフリカに至る国々の勲章がぶら下がり、イヴニング・ドレスの裾を二人の若い男衆がうやうやしく持ち、ゆっくりと階段を上っていく婦人と出くわした。

 大屋政子さんである。いつも彼女は貴婦人然として、それを自負していた。

 それは、まるでどこかの王宮で見るお姫様のようであった。

 

 終演後、グランド・ホテルの大広間でレセプションがありジバンシィと、その頃、映画“麗しのサブリナ”以来、ジバンシィのファッションがお気に入りの女優オードリー・ヘップバーンも一緒で、二人は大広間入口で立礼のためお客を迎えていた。

 私は前を行くマダム・大屋のドレスの裾を踏みつけないようにと気を遣いながら立礼の順番を待った。

 大屋女史はジバンシィに何やら声を掛けながら握手をし、かたわらに立つ、オードリー・ヘップバーンに、やにわに抱きつくや彼女の両頬にキスをした。

 細身のこの有名女優は、絢爛豪華な衣装の肥った日本女性から、突然抱きつかれ、びっくりした様子だったがニコニコと笑っていた。

 

 マダム・大屋と私は、いろいろなパーティやレセプションに同席する機会が度々あった。いつかもパーティでお喋りをしていたら、ある出版社の男性がつかつかと我々に近づいてきて、

 「○○出版社の者ですが、お二人で浪速女の対談集を出したらどうでしょうか?」と、話しかけてきた。

 即座に彼女は

 「なんやて? そらええわ。二人で大阪のええとこも悪いところもぶちまけたろ。これはおもしろいがな」と、とても乗り気になった。

 それから何日か経った日の夜半、彼女から電話が掛かってきた。

 「ヤマダか?(彼女は親しい間柄ではサンづけはしなかった。それは彼女独得の友情の表現でもあったようだ)

 こないだの対談のことやけど、今日せえへんか?午前二時に室生寺まできてほしいねん。ゴルフ場の側にウチの家があるさかい、そこへ来て! そっちから車で飛ばしたら一時間で着くやろ」

私は開いた口が塞がらなかった。

 「夜中にそんなん無理ですよ。わたし、朝が早いし――昼間は授業せんならんし――」

 「そうか。そやけど散髪屋かて誰かてウチが来てくれ言うたら、夜中の一時や二時でもすっ飛んで来るんやで!まあ、そんなら日ィあらためるしかないな」

 この対談の件は、これっ切り立ち消えとなった。

 

 当時のエール・フランス支店長は、

 「航空会社も大屋さんのようなお客さんが何人もいてくれたら、儲かるんですけどね」と言った。

 彼女は仕事柄、年に何回も飛行機を使う。それもファースト・クラスばかり。その上この人は亡夫の座席も確保するという。機内食のサーヴィスの時には、スチュワーデスに、

 「ちょっとあんた、お父ちゃんの御飯は?」

 と、食べることもない食事を運ばせる。

 

 いつも大ぶりの信玄袋を持っていて、その中味は世界の有名人と一緒に撮った写真がはいっており、それらをみんなに見せるのがうれしそうだった。

 

 ある冬の夜、パーティからの帰り際に、会場出口で、

 「ヤマダ、途中まで送ったげるわ」

 帝塚山にある彼女の邸宅と、鶴ヶ丘にある私の学校は同じ方面なのである。私はタクシー代が助かると思って好意を受けることにした。若いお抱えの男性運転手が後部のドアを開けた時、

 「ちょっと、あんた。コートは座席の隅の方、できるだけウチから離れたとこにおいてんか! ウチは毛皮のアレルギーやねん」

 「わかりました」

天王寺に着いて、

 「ここでええわ。どうもありがとう」と、降りかけたとき、またもや彼女は振り返り、私を見て

 「あんたの毛皮ニセモンやろ? その証拠に、ウチ蕁麻疹出えへんかったもん」

 

 万事がこうだった。

 豪放磊落で無邪気、こわいものなし、それでいて賢い。

 このキャラクターは、日本女性では滅多にお目にかかれない。

 いや、世界中捜してもあんなにおもしろい女性はいないだろう。

 名物女が居なくなって淋しい。

作曲家ジャック・イベール夫人 ロゼット・イベール

   ―身に余るしあわせ―

 パリで弾いた何度目かのリサイタル。

それは十二区の小さなホールだった。

 終演後、楽屋に小柄で上品なフランス人のマダムが彼女の友人達と一緒に訪れてくれた。

 「はじめまして! マドモアゼル。私、ロゼット・ジャック・イベールと申します。

日本のお嬢さんが亡き主人の作品を弾くというのでお友達を連れて聴きに来ました。

主人の望んだエスプリがよく表れていてうれしかった。ジャックもきっと喜ぶでしょう。ところで、こちらに滞在中に私宅へ食事に招待したいのですが、ご都合は如何でしょうか?」

私の尊敬している好きな作曲家、ジャック・イベール先生の奥様!! なんという奇遇であろうか!!

 「奥様、もちろん喜んで!」私は有頂天だった。

 数日後、ヴェルサイユにあるイベール家の館にお邪魔した。昼食の前にサロンから螺旋階段を上った二階廊下の突きあたりにあるマエストロの仕事部屋に案内していただく。

 東と南に窓が開け放たれた気持ちよく明るい部屋である。

 数日前に弾いた組曲、「物語」のエピソードを話して下さり、

 「ほら、ご覧なさい。彼の書いた下書きですのよ」

 印刷されていないイベール先生の手書きの楽譜を私は食い入るように見せてもらった。

 あの時以来、「物語」を弾く度に、

 「私はマエストロの草稿を見せてもらったのだ。他のピアニストが弾く『物語』とはちがうものを表現するのだ」という、不思議に身近なものを感じるようになった。それは私の心の底に何かしら、ほのぼのとした暖かさを満たしてくれるようだった。

 

 一九八一年、パリ十七区ペリエ大通り一四九番地にあるジャック・イベール記念館で演奏するチャンスをいただいた。

 イベール愛用のエラールのピアノで、私がイベール先生の作品を弾く。

 演奏会の企画はロゼット夫人で、曲目の注文も彼女からのものだった。

 マホガニー塗りのピアノは、「これが私自身の音?」と疑うほどまろやかな音色を出してくれた。

 この時もヴェルサイユのお屋敷と、あの明るいイベール先生の部屋、何よりも奥様が大切にいとおしんでいらっしゃる草稿のことを想いながら指を運ばせた。

 弾き終った瞬間、彼女は小柄な身をひるがえしてステージにかけ上がり、私を強く抱きしめるや熱いキスをしながら、もうすでに親しいチュトワイエ(Tu toyer)〈注 親子間、友だちなど親しみをこめて慣れ慣れしく“あんた”“僕”“君”などで話す〉で、

 「あんたはとてもいい演奏をしてくれたわ! きっとジャックも満足しているワ」

 この時ほど嬉しかったことはない。尊敬する作曲家ジャック・イベールの奥様が、私を抱きしめてチュトワイエで話してくれたのだもの―――。あの時の聴衆の「ブラヴォー」と盛んに叫んでくれた声も絶対に忘れることができない。

 

 奥様自身も大した芸術家で分野は異なるが彫刻家としては有名で、大木など自然の材で大きな作品を手がけておられた。ヴェルサイユのお屋敷にはサロンにも庭にも完成されたもの、制作中の作品が所狭しと置かれていた。

 私はいつも人とのめぐり逢いの不思議さを思う。

 パリ十二区の小さいホールで私がイベールの「物語」を弾かなかったら―――。

 その時、名もない日本人のピアニストが、亡夫の作品を弾くことなど、その未亡人が全く知らずにいたのなら―――。

 私達は永遠に会うこともなかった。

 何かのひき合わせで私達は会い、親しくなり、彼女は何度も私に弾くチャンスを与えて下さった。いつも暖かくやさしい手紙で励まして下さった。

 

 イベールのピアノが置いてあるパリ十六区のアパルトマンのサロンで、大きくて白い猫とたわむれながら、熱い紅茶と手作りのクッキーでもてなして下さったイベール夫人。

 

 思い出す度に、懐かしさと惜別と感謝の念が胸にこみ上げてくる。

アルフレッド・コルトー

   ―コルトー先生が教えて下さったこと―

 パリのメトロ、マルゼルブ駅を降り、地上に出るとすぐ左手後方にモンソー公園、右手向こうに3階建てのエコール・ノルマル・ド・ミュージックの建物が見える。

 一九一九年、コルトー先生によって、

 「欠けたところは何もない。様々な一般教養と専門教養が調和している」と、定義した教育体系によって、その目的は教育者、演奏家を養成すると同時にフランス文化の隆盛に寄与するということでこの学校が創立された。

 一九二七年、ベル・エポックの真っ只中、ド・マレシィ侯爵夫人が邸宅を寄贈して、現在のパリ十七区マルゼルブ大通り一一四番地に移転したのである。

 パリにはめずらしい一戸建の古い邸宅。廊下や教室を歩くと床がキィキィと音を立てた。

 

 キャンパスの広い日本の大学生活の経験からみれば、それは、まことに質素で手狭で「これが学校?」と驚くくらいである。

 しかし、内部の造りは凝っていて、さすがにもと侯爵夫人邸。二階にあるサン・クルー城を模倣したモザイク、猫脚のテーブルや椅子、小さな調度品に至るまで芸術味溢れるものが沢山あった。

 私が授業を受けた教室はマルゼルブ大通りとカルディネ通りの角に面した、古びたマントル・ピースのある古城の一室みたいな部屋だった。

 上着のポケットに手をつっ込み、薄暗くて曲がりくねった細い廊下でコルトー先生とよくお会いしたものである。そのポケットにはいつも数多くのライターとパイプが入っていて両側が膨れていた。先生はヘビー・スモーカーだった。

 

 パリでは夏休みは誰も居なくなる。洗濯屋も八百屋もすべて店を閉めてヴァカンスに田舎へ出かける。

 当然、コルトー先生だってパリにはいらっしゃらない。長い夏休み中の個人レッスンは国境を越えてスイスのローザンヌにある先生のお屋敷まで行かなければならない。

 さあ、困った。二、三日滞在の安宿はローザンヌにだってある。しかし、ピアノがない。

 パリを発つ前に、カトリック系の学校にたずねてみたら、レマン湖の近くにある女子校のピアノを貸して上げるという。この学校で少し指慣らしをしてから先生のお宅に伺う。呼び鈴を鳴らすと、いつも奥様が黒い小型犬を抱いて玄関のドアを開けて下さった。

 コルトー先生は、最初から最後まで黙って聴いて下さり、どんな作品を弾いても技術的にこまかい指導はなさらず、

 「シャガールの絵を見てごらん」

 「マラルメの詩を読んでみることです」

 「一度ノルマンディ地方へ行って、いい空気を吸っていらっしゃい」

 などとおっしゃるので、最初は戸惑ってしまったが、フランス語がかなりわかるようになると、暗示的なことを意味していらっしゃるのだとわかるようになった。

 

 日本のピアノ教授法は、メトロノームでテンポ通り規則正しく弾けるようにとか、手の甲に小銭を乗せてこれが落ちないようにしろとか、やれ、肩の力、腕の力がどうのとか、それこそ重箱の隅をつつくように指導するのがレッスンだと思っていた。

 日本の音大では専門教育の他に教職課程を取れば体育や化学の実験だってやらされる。

 一体、音楽の勉強と何の関係があるの!?

 

 コルトー先生は違っていた。冒頭の彼の定義のように

 「欠けたところは何もない。一般教養と専門教育が一体となり調和している」と。

 これが芸術をする者の姿勢ということだ。

 目から鱗が落ちるとはこのことである。

 「先生! 日本にもここエコール・ノルマル・ド・ミュージックのような学校が必要です!音楽にどっぷり浸かって勉強できるところが―――」

 私が、こう言ったとき、コルトー先生は大きくうなずいて、

 「本当に日本でもそうできるといいネ」と、笑っておられた。今から五十年前のことである。

 私は自分が創設した学校をマンモス校にはしたくない。少人数制で家族的、教師も学生も一人の人間として尊敬し合える雰囲気の中で音楽を勉強していきたい。

 コルトー先生の遺志は、今もあのマルゼルブ大通りにある一〇〇年近く経った、ド・マレシィ侯爵夫人の建物の中で根強く息づいている。

 コルトー先生が私に下さった宝物、それは、

 「規模が小さくても中身の濃い芸術の創造、人間育成に努力しなさい」と、いうことだと思っている。

 こういう類まれな音楽家、教育者の最晩年に、地球の反対側にいる私が出会えたことは、最高に幸運であり、人生の奇遇を思う。

声楽家 平井三紗子

   ―戦 友―

 一九五七年、初秋のパリ。

何としてもピアノがうまくなりたい。そう決心してここに来た。しかし、お金もないし、フランス語もよくわからない。別便の船便の荷物もまだ着かず心細くてえらい所に来てしまったなと思いつつ、音楽生宿舎のホワイエ・ミュージカルの四畳間ほどの自室の小窓を開けてみる。

 中庭をはさんで反対側の建物の向こうに、どんよりと淀んだパリの空が見える。

 その時、向かい側の建物の二階の小窓が開いて漆黒の長い髪の女の子が顔をのぞかせた。あっ、東洋人だ!私は日本、中国、韓国、ヴェトナムの区別すら判断する余裕なく、

 「あんた、日本人?」と、とっさに大声をかけた。

 「そうよ」向かい側の女の子も叫ぶ。

 「今、そっちへ行く!」この時ほど日本語が通じた喜びは筆舌に尽しがたい。

 

 京都生まれの東京芸術大学出身の声楽家、平井三紗子さんとの交遊はこの時からはじまった。

 「折角苦労して留学できたのに、今更フランスで日本人とつき合って、このパリで日本語で話す必要なんてないと思うのよ。お互いフランス語でいきましょう」彼女は開口一番こう言った。

 「そうね」と、心細げな私。

 「Vous avez compris? Vous etes d'accord?」

 ヴザヴェ コンプリ? ヴ ゼット ダコール?(わかった? 承知したのね?)

 「うん。えーっと、Oui」ウィ(はい)

 変った人、むずかしい人だと思った。

 しかし、彼女は京都西陣の大きな帯問屋のお嬢様。祖父は、その昔、関西財界の大立者であり、いわゆる著名人であった。だから、彼女は上品でおっとりしていて明るい性格だが、およそ出しゃばりとかイケズとかいう類ではない。

 彼女はスコラ・カントルムでイルマ・クラシィ女史に、私はエコール・ノルマル・ド・ミュージックでコルトー先生にと、お互いに授業がはじまり忙しくなると最初の約束もどこへやら、彼女のほうから日本語が出た。

 「ものすごうシンドイわ。こんなんやったらそのうちにぶっ倒れてしまうわ」

 「そうやね。まぁ、お互いにがんばるしかないやん」

 そして、二人の日本の女の子はお金が足りないといっては日本大使館さしむけのアルバイトで日本の歌を唄ったりピアノ曲を弾く。

 田舎の公民館、古城、学校での“日本フェスティバル”に、出稼ぎに行くのである。

 ごく小額のギャラだが、交通費は込み。しかし、おいしい食事は食べ放題。お土産にはチーズ、パン、果物など持たせてくれる。

 私達、ピアニストと声楽家はコンビを組んでこのアルバイトを“お座敷”と呼んでいた。

 「それ! お座敷が掛かった!」と喜び勇んでスーツ・ケース一つをぶら下げて出稼ぎである。二人とも多才!ピアノ、唄の他に生花、茶の湯、日本舞踊の真似ごとも注文があればやらなければならない。(二人とも一応生け花、茶道は免状を持っていた!)

 スーツ・ケースには剣山、花鋏、扇子、日傘などが入っている。しかし、とにかく疲れはててパリに戻ったものである。

 いわば、三紗子とは戦友。

 舎監にせき立てられて、たった五分間の入浴時間に二人で狭いバス・タブを使ったこと、冬の寒い時期に毎晩一列に並んで中庭のタンクから洗顔用のお湯をもらい重いバケツで二階の自室まで運んだこと、大衆浴場みたいなタイル張りの天井の高い殺風景な宿舎食堂で二人とも涙ぐみながらまずい昼食や夕食を食べたこと。

 

 彼女の理想としたフランス語での会話は、もうその頃は使用せず、もっぱら関西弁ばかりだった。

 

 夏休み、冬休みになると陸続きのイタリア、ドイツ、スペインの留学生たちは帰省するのに私達二人は休暇で空っぽになったパリで、

 「日本は遠いねェ」「帰るといってもお金ないしねェ」と、愚痴ってばかりいた。

 お金に不自由しても、私達の間には一切貸し借りはしなかった。

 「ちょっと小銭無いから貸しといて!」と、いうようなケチな根性は持っていなかった。

 私が金銭にきっちりしているのは親の躾もあるが、パリで西陣のお嬢様と生活を共にした影響も大きかった。

 

 帰国後、彼女は大阪・京都で何度かリサイタルもやり、伴奏を引き受けた私は、

 「やっぱり、すごい!」と思った。

 ステージの立ち姿も見事。声もよく出る。ステージ・マナーも抜群にいい。専門はフランス歌曲。素晴らしい女性だった。

 五十代に入ってすぐ、アッという間に卵巣癌で亡くなり、相棒を失った私は途方に暮れた。

 すばらしい友だち、人間としての魅力をいっぱい持っていた人。私に宝物を沢山残してくれた人。

 三紗子! 私達、また会うときがあるかしら?

ピアニスト 原 智恵子

   ―孤高のピアニスト―

 終戦後、現在のように連日連夜コンサートがなかった頃、朝日会館で

“原 智恵子ピアノ独奏会”を聴いたとき、なんと美しい人という印象が強烈だった。

 ピアノを習い始めた中学生の女の子にとっては、機械のようによく動く白い指先、タイトなイヴニング・ドレスに巾広い赤いベルト、ステージ上での優雅なたたずまい、それは戦時中のモンペ姿の女性たちばかりを見てきた私にとっては息をのむほどの驚きだった。

 

 神戸女学院大学四回生のあるとき、その人が音楽学部で演奏して下さるということで、学生達は当日を待ちわびていた。

 グレーのプリーツスカートのシックなスーツ姿で彼女が現れたとき、私は、その昔、ステージで見た憧れの“原智恵子先生”を間近でみた。

 コーラス・ルームと名付けられた少し広い階段教室で、彼女はシューマンの“謝肉祭”や、ショパンの“バラード”などを聴かせてくれた。

 この頃の私はピアノの良さもむずかしさもわかっていたから、「やっぱり、すごいピアニスト」と、あらためて感心したものである。

 アメリカ人教授が、アンコールに

 「マダム。ブラック・キイ、プリーズ」と、所望した。彼女は即座に

 「おゝブラック・キイ。O・K」と、笑みをたたえながらショパンの“黒鍵”をいともたやすく見事に演奏した。

 その時、私は「これがプロというもんなんだわ」と、実感した。

 

 大学卒業後、留学するまでの半年間、私は二、三度彼女に個人レッスンをしてもらった。月謝はべらぼうに高かった。一回のレッスン料が、当時の一般的な先生方の月謝の五倍はあったと思う。

 レッスンの場所は、彼女が常宿としていた中之島の“新大阪ホテル”の一室であったり、神戸NHKのひと部屋であったりした。

 

 いつか、ドビュッシーの“練習曲”を何曲かみてもらったとき、

 「正直言って、私、この曲知らないのよ。

 だから、お手本は弾いて上げられないけれど、まあ、一度弾いてごらんなさい」

 私は、なんと正直な方かと思った。普通ならば教える側は生徒に対して不安を感じさせるような、こんな言葉は言わないものである。

 私は、この時彼女のことがいっぺんに好きになった。

 お手本は示されなかったものの、的確なアドヴァイスは、月謝の高いことなど吹き飛ばす位に値打ちのあるレッスンであった。

 

 「コルトー先生に師事できることになりました」

 「まあ!よかったわ。私からもお口添えをしておきましょう。パリで勉強するからといってガムシャラにならないことね。あの街の良さを(じか)に肌で感じ取ることが勉強になるのよ。」

 そして、留学中に困ったことができたら、この方に、あの方に相談しなさいと、何人かのお友達を紹介して下さった。

 

 パリに着いて心細かった最初の頃、ある日、原先生から電話がかかってきた。

 「どう? 元気?今、パリに居るの。お友達の家に泊めてもらっているのだけど、よかったら、お茶をご馳走するからいらっしゃらない?」

 私は懐かしさでいっぱいになり、喜び勇んで、彼女の友達の家がある十六区のアパルトマンに駆けつけた。呼鈴を鳴らすと、衿元を打ち合わせた日本の着物のようなガウンを着た原先生が出迎えて下さった。

 「メトロ(地下鉄)で、どうも風邪をうつされたらしいの。こんな格好でごめんなさい」

 イヴニング・ドレスでも、スーツでも、ガウンでも、何を身につけても凛とした威厳があった。

 いつか、誰かが、

 「原 智恵子さんって、終戦後、横浜かどこかで進駐軍の将校達の集まるパーティでピアノを弾いてくれって頼まれたとき、

“私は世界的に有名なピアニストです。食事の席で、ナイフやフォーク、お皿などガチャガチャ雑音をたてる所で弾くことはできません!”って断られたそうよ」と、いうのを聞いたことがある。

 私は、さもありなんと思った。

 いつも毅然として、プライドが高く、ご自分の信念を曲げない強いものを持っている方であった。

 

 一九五九年、世紀の恋で結ばれたチェリスト・ガスパール・カサド氏とイタリアのフィレンツェの広大なお城に住み、人も羨やむしあわせな時期を過された。

 

 晩年、巷では彼女のことを、やれ()けただの、やれアルコール依存症だとか、かまびすしく噂をしたが、そんなことはどうでもよかった。

 大学生の頃、またパリで会った頃の原先生に親切にしていただいたこと、貴重なアドヴァイスをいただいたこと、それらを思い、ヨーロッパの貴婦人の凛とした雰囲気をかもし出す彼女の面影しか思い浮ばず、それで十分であった。

 カサド氏との再婚にしろ、日本の楽壇から遠のいたことにしろ、すべてご自分の信念を貫いて生きた、見事な人生であったと思う。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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山田 忍

ヤマダ シノブ
やまだ しのぶ ピアニスト、音楽学校校長、エッセイスト。1934年 大阪生まれ。主な著作は、『ピアノのあいまに』など。

掲載作は『宝物をくれた人たち』(2008年1月たる出版刊)からの抜粋。

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