最初へ

徳川家康論 二

  (一)

 鳴呼(あゝ)(わが)家康は世の人の(つひ)に往く所に往けり。彼の小さき存在は消へたり。大なる宇宙は彼を呑み尽くしたり。雲は依然として風に漂ひ、雨は依然として地を湿(うるほ)せり。されど人類の最も大なる英雄は遂に黄土と化したり。人の生るゝや自ら好んで生れたるに非ず、天地万有は(その)不可思議なる全力を凝らして一人(いちにん)を生じたり。天地万有は彼を試練し、彼を教育し、彼をして或る事を地上に()さしめたる後、更に彼をして死なしめたり。(この)秘密、此秘義、誰か之を解するものぞ。嗚呼(あゝ)(わが)家康も遂に此難解の秘密に捉へられたり。而して永遠(とは)の海に呑まれたり。

 

  (二)

 

 家康は最も健康なる身体を有したり。彼は若年の時より七十余歳に至るまで毎日馬に乗り、毎日三発の発砲を試み、毎日的ある巻藁に向て弓を試みたり。彼は世に珍らしき善騎にして其死の病を得るまで鷹狩に従事したるのみならず、少年時代より水泳を好み、以て老年に至れり。慶長十五年(一六一〇年)七月、彼年六十九、駿河の瀬名川に川狩し興に乗じて自ら游泳したり。彼は五十九歳にして其妾清水氏に義直を生ませ、六十一歳にして正木氏に頼信を生ませ、六十二歳にして頼房を生ませたり。徳川氏の所謂三家なるものは則ち此三子の後なり。彼は大なる人間なりしと共に大なる動物なりき。

 

  (三)

 

 彼の身体の極て健康なりしが如く彼の精神も亦其死に至るまで強く且雄々しかりき。秀吉は六十三歳を以て死にたれども其晩年の心理状態は(すこぶ)る病的なりき。彼は明国皇帝の誥交(かうぶん)を読ましめて之を聞くまでは大切なる国交の意義すらも(さと)ること能はざりき。彼の病むや諸将の目前に於て(しばし)ば泣きたりき。されど家康は之に反せり。彼は死ぬるまで其精神の修養に怠らざりき。彼は書籍を愛読し、(しばし)ば人をして貞観政要を講ぜしめて之を聴きたり。彼は東鑑(あづまかがみ)に於て最も深き興味を発見し頼朝の人物と其政治とに同感したり。彼は勿論読書生に(あらざ)りき。されど彼は読書の趣味を解したり。晩年の彼は治国の術を読書の上に求めたり。既にして彼は不治の病に(かか)れり。元和二年(一六一六年)正月彼の田中に猟するや、鯛を(かや)の実の油にてあげ其上に(にら)をすりかけて食ひたりしが其夜より腹痛したり。是を彼が自ら病めりと自覚したる初とす。彼は急ぎて駿府に帰れり。一旦は()したるやうにも思はれしが又悩めり。三月の末に至りて彼は医の進めたる一帖の薬を飲めり。されど間もなく悉く之を()したり。彼は自ら其起たざるを知りて復た薬を用ひざりき。病は日に重くなれり。されど彼の心は依然として其常態を失はざりき。彼は病床に侍したる秀忠及び重臣と共に身後の事をのみ談じたり。是より先き福島正則は幕府の忌む所となり久しく江戸に留められて国に帰ることを得ざりしが彼は其死に(さきだ)つこと三日、正則を病床に招き帰封の(いとま)を与へ、名物の茶入を贈り、而して曰ひき。「先年(けい)の事を秀忠に言ひそやすものありしかば、秀忠は卿をして久しく江戸に滞留せしめたり。予、今、卿の異心なきことを卿の為に秀忠に分疏したれば、心を安んじ帰国し両三年も在国せられよ。但し斯く言へばとて卿、()し此後秀忠に対し遣憾あらば(すみやか)に兵を起さんことも心まかせたるべし」と。正則涕泣して退き、駿府の執政本多正純に対し「正則、太閤の世に在りし時すら当家に対し(いさ)さか二心なかりしを、唯今の上意は余り情なき御事なり」と怨みたり。正純家康の病床に至り之を報ず。家康喜んで曰く、「もはやそれにてざつと済みたり。其一言を聞かん為なり」と。七十五翁は其死に至るまで其心の強健を失はず、其最後の血液をさへ国家の治安に用ひ尽したり。是豈(これあに)生れながらの英雄たるのみならんや。彼は其日進月歩の修養に於て、其友人たる秀吉の遠く及ばざる所なりき

 

  (四)

 

 彼は蒲生氏郷(がまふうぢさと)より「人に知行を過分に与ふる器量なきが故に天下の主になり得べきものに非ず」と云はれたり。長久手(ながくて)(いくさ)に池田信輝の首級を得たる永井直勝に織田信雄(のぶかつ)は五千石を与へんと欲したり。されど彼は言ひき、「家康の家人(けにん)左程(さほど)の賞行ひしこといまだ候はず」と。斯くして彼は僅に千石を与へしのみ。榊原氏の家臣中には其祖康政が家康に依りて館林十万石に(ほう)ぜられしことに関する伝説あり。曰く、

 

「関東御討入の時、家康公へ太閤仰せられしは、今度国替にて殊に知行も増し候間、定めて諸士へも加増ありつらん。井伊、本多、榊原の者共には何程給りたるにやと御尋ありしに、家康公、太閤の大気を御存候ことなれば、三家の面々へ五万石づゝ取らせ申すべくと存る由仰せられしかば、それは小禄なり、十万石づゝもたまはり候はゞ大概当り申すべくと御申上なされ候。之に依て十万石下されける。さるにより押つゝしき大身もなく、大須賀五郎左衛門殿へ漸く三万石、酒井左衛門、酒井雅楽助(うたのすけ)、是等の衆も同様に下されける。太閤上意ありしまゝ始めは三四万石と思召されけれども御気をはらし、五万石と仰せ上げられしに、いまだ太閤の御心には過半(たが)ひたるなり。十万石に御なり候は太閤の御詞故と其砌(そのみぎり)も申しけるなり。」(見聞随筆

 

 家康は二百五十万石の主たりし時も其重臣には三四万石以上を分つことを欲せざりき。彼が井伊直政、本多忠勝、榊原康政に十万石、(もし)くは十万石以上を与へたるは秀吉の勧告に従つて其意を()げたるものゝみ。されど是れ猶ほ(わづか)に関東の主たりし時なればと云ふを以て其家臣の不平を慰むるを得べし。独り関原(せきがはら)の大勝に至ては是れ実に大なる土地を其功臣に分配し得べき好機会なりき。されど彼は依然として封土を分つに(やぶさか)なりき。そは此戦争の論功行賞として其家臣の禄を増したるものは井伊直政が六万石を増して十二万石の箕輪(上野)より佐和山十八万石に移り、本多忠勝が二万石を増して十万石の大多喜(上総)より十二万石の桑名(伊勢)に移り併せて其子の忠朝に大多喜の新封五万石を与へられたるを以て其増封の高の最も多きものとし、其他は僅に数千石乃至(ないし)一二万石を増したるのみ。故に唯だ此一面より彼の為す所を見れば彼は独り其子弟に厚くして其士を虐遇したるものと(いひ)つべし。何となれば彼は此時に於て其子の秀康に五十七万石を増して十万石の結城(下野)より六十七万石の福井(越前)に(うつ)し、忠吉に五十四万石を増して忍(武蔵)の十万石より清洲(尾張)の六十四万石に徒したるに関はらず、其功臣には(わづか)に一万石の増封をさへ容易に与へざりし跡あればなり。彼は此点に於て真に人に知行を過分に与ふる器量なきものゝ如く見へき。されど是れ楯の半面のみ。彼は此論功行賞に於て其宿将老臣に地を頒つこと甚だ(すくな)かりしに関はらず、彼と共に東軍に加りたる豊臣氏の諸将に対しては殆んど賜与に濫なりと云ふべき程に加封したり。則ち二十万石の清須(尾張)を領したる福島正則が三十万石を加へて五十万石の安芸備後両国の主となり、十五万石の吉田(三河)を領したる池田輝政が三十七万石を増して五十二万石の播磨を得たるが如き皆此例なり。此一面より見れば彼は寛闊なる秀吉よりも更に甚しき寛闊を示したり。一方に於ては親臣宿将に禄を(をし)み、一方に於ては極て大なる土地を外様大名に与ふ。彼の為す所は殆んど解すべからざるに似たり。されど其結果より見れば是れ実に彼の政治家たる智術の寓する所なり。何となれば彼の親臣、宿将は其封土の小なるに依りて常に相合して江戸、駿河を仰ぎ、外様大名は其封土の大なるに依り自ら其力を頼んで孤立し、斯くして彼は此権衡に依りて天下の治安を保つことを得たればなり。頼朝は嘗て国司、領家、土豪の間にその家人を分配して守護地頭としたり。旧き勢力の間に(はさ)まりし新しき勢力たる守護地頭は旧き勢力たる国司、領家、土豪の亡びざる間は鎌倉家人の同情同感に依りて自己の存在を主張せざるを得ざりき。頼朝は此権衡に依りて鎌倉家人を統一したり。諸国に散在する鎌倉家人は国司、領家、土豪に対して自己の力の弱きを感ずると共に鎌倉を仰ぎて主となし、其指揮の下に統一したり。斯くして彼等は国司、領家、土豪を圧倒して政界の主人たるを得たり。是れ彼等は其弱きを感じたる時に於て最も強かりしなり。思ふに家康が頼朝に私淑したりと云ふものは或は此点に在らん。彼は其家人をして弱きを感ぜしめんが為に外様大名に比すれば小さき封土を与へたり。彼等は其弱きを感じたるが為に江戸、駿河を中心として其足並を揃へたり。彼は斯くして善く外様大名を圧倒するを得たり。然らば則ち彼が其家臣に過分なる知行を与へざりしもの必しも其吝嗇なるに依らず、実は其政治家たる権略に出づ。彼は斯くして天下を其掌上に(めぐ)らすことを得たり。

 

  (五)

 

 彼は信長の倹約なりしが如く倹約なりき。彼は江戸に移りたる始には其玄関の階に船板を用ひたるを其儘にして改め造らんともせざりき。彼の鷹狩に出でて田舎の人家に宿するや夜に入れば自身の居る所に蝋燭一台、鷹を夜据(よずゑ)する所に一台、併せて二台を用ひたるのみ、其の余は必ず油火を用ひたり。彼は用なきに蝋燭に火を(とも)し置くことを好まず、必ず直ちに之を消さしめたり。彼は小袖の垢つきしは必ず幾たびも洗はせて之を用ひたり。奉書一枚と雖も彼は空しく費すことを好まざりき。所謂大御所様時代と雖も彼の鹵簿(ろぼ)の倹素なるは(あだか)も一個の小諸侯の従者に似たるものありき。斯くして彼は常に豊かなる財力を保つことを得たり。彼は年々自ら代官を招集し自ら租税の収支に関する報告を受けたり。彼は貿易に依りて国を富まさんとし、葡萄牙(ポルトガル)西班牙(スペイン)の商船が(しばし)ば西国の海岸を(おとな)ふが如く関東の海岸をも訪はんことを望みたり。彼は関原の戦捷と共に京都、堺、大坂、長崎等の大都市を幕府の直轄とし其富を指揮すべき位置を取れり。是れ皆彼をして群雄を雌伏せしめたる所以(ゆゑん)なり。何となれば彼は是れに依りて群雄中に在りて兵力の独り大なりしのみならず、其富の力も亦独り大なるを得たればなり。されど彼の最も成功したるは貿易に非ず、倹約に非ずして実に金鉱の開鑿(かいさく)に在り。彼は関原役(せきがはらのえき)後金鉱の開鑿に依りて多量の黄金を積むを得たり。佐渡、石見、伊豆、駿河の金銀鉱は日本歴史に比類なき黄金の産出を見たり。彼は是に依りて最も大なる富国として群雄を圧し、斯くして三百年の治平を開きぬ。

  (六)

 

 信長の人を治むるは気を以て圧したるものなり。彼は生れながらの餓鬼大将にして善く其猛気を以てあばれ馬たる天才を乗こなしたり。家康は(かく)の如き餓鬼大将に(あらざ)りき。

 

  (七)

 

 秀吉の人を治むる術は信長に同じからず。彼は自己の心胸を以て直に人の心胸に触れんと試みたり。彼は人たらしの名人なり。而して其善く人をたらし得たる所以のものは彼が無巧無技にして直ちに真性情を流露し来りし為なり。甫庵太閤記に「信長の時代に秀吉は毎度差出たるが為に、信長に叱られ、朋輩に笑はれたれども一向平気にて依然として差出たり」とあり。太田牛一の記に依れば、彼は天正五年(一五七七年)八月に信長に届けず、自由に北国より帰陣したりとて大いに信長に譴責され、同七年(一五七九年)九月に備前の浮田と和談の事を信長に問合はせず一了簡(いちれうけん)にて挨拶したりとて播磨に追ひ返されたり。さりながら彼は何程叱られても毫も念頭に掛けず、行雲流水の自然なるが如く、奥もなく底もなく、何時にても晴天白日の如く、からりとして居たるが故に気むづかしき信長に信任せられたり。彼は長上に対しても此の如し、他人に対しても亦た此の如し。島津征伐の時、彼は薩摩国川内まで至りしに義久は黒衣となり、彼の本営に来りて謝罪降伏したり。彼は義久に向ひ「其方(そのはう)居城鹿児島を一通り見たし、まづ先へ(まかり)帰り、馳走すべし」と云へり。義久は彼の為めに必ず抑留せらるゝならんと予期したりしに反し、直ちに鹿児島に帰るべしとの言を聴き(かへつ)て大に驚き、「私儀は是に(まかり)在るべく候。御馳走の儀は年寄共へ申し付くべし」と云ひたり。されど彼は平然として言ひぬ「いやいや、此上は心置きなし。早々居城へ罷帰り馳走申すべし」と。彼の(かく)の如き態度に対しては流石の義久も我を折りて心服せざる(あた)はざりき。伊達政宗も同じ待遇を以て彼に籠絡(ろうらく)せられたり。他人ならば義久、政宗は虎狼に均しき大敵なりとて彼の如くに彼等を野放しにせざるならん。されど彼は坦懐(たんくわい)、虚心、直ちに我心を以て人の心に結び、一旦降参なりとして腹の底を打出して以て之を善遇したり。請ふ下の記事を見よ。

 

 佐野天徳寺家来藤野下野(しもつけ)を連れ立ち信玄、謙信へ目見えに出でしに両人ながら急度(きつと)(いたし)たる挨拶なり。佐野首をあげ対せんとしつれども威強く其儀に能はず。後天徳寺、下野用の事ありて太閤へ目見(めみえ)に出でし時に披露すると均しく、「やれ天徳寺まゐられたるか」と傍へ御寄り、「扨々(さてさて)久しく逢ひ申さず、能くこそまゐられたり」とて膝をたゝき、殊の(ほか)御念比(おんねんごろ)(ぶり)なり。(武功雑記)

 

 彼の群雄を待つこと此の如し。戦国の世、人心険にして測りがたき時、彼、独り真肝膈(しんかんかく)を吐露して隠す所なく蔽ふ所なく、天真爛漫として直ちに人の肺腑に迫る。天下の群雄之が為に動かされて恍惚たりし状況を想像すれば彼は真に人たらしの名人にして所謂男藝者の類なりと云ふも可なり。彼は生れながら夜の明け放れたる如き快闊の気象なりしを以て一たび彼に近づきしものは一生其親友たらざるは無く、たとへば敵国同様の間柄にても一見の時、直ちに彼に心酔したるもの多し。天正十一年(一五八三年)五月下旬家康の寵臣石川伯耆守(はうきのかみ)数正が彼への使者を勤めたるは数正が彼に誘惑せられたる始にして数正は遂に家康に対して失節の臣となれり。同十六年(一五八八年)北條氏直の臣板部岡江雪齋が氏直の為に彼への使者を勤めたる時も彼は板部岡の才を愛し、板部岡も彼を愛したり。大久保七郎左衛門は純乎たる三河武士にして御家大事とのみ思ひたる貞実至極の硬直漢なりき。されど彼は或時秀吉に甘き話を持掛けられたり。大久保後に至りて人に語りて()ひき、「其時何といたしたることに候や、底心より太閤の御心根、(かたじけな)く存じ奉り候事(なのめ)ならず、とかく太閤は名誉なる大将にて候」と。かゝる頑固も危く忠臣の節を踏みはづさんとしたる彼の引力は唯だ直ちに其心肝を吐露して他人の心肝に投ぜんとしたる分け(へだて)なき態度より生ず。此人たらしの上手に逢ひ、様々に持ち掛けられたりしかば鉄石心の家康と雖も遂に屈せざることを得ず、甘んじて其下風に立つに至りたり。(かく)の如くにして信長は意気を以て人を圧し、秀吉は性情を以て人に触る。独り家康に至ては色彩(すこぶ)る鮮明ならず。彼は信長の如き猛志を現はさず、秀吉の如き人たらしにも非ず。世事、愛嬌に乏しかりしと雖も、さりとて威を立て気を使ひしにも非ず。彼は何となく鈍重なり。何となく不透明なり。されど其功、既に成り、其業既に立つに及んでは(あだか)も大なる銅柱の屹として岩上に植ゑられしが如し。何人(なんぴと)も之を動かすこと能はず。我等は仮りに之を名づけて裸角力(はだかずまふ)の勝者たる権威と云ふ。嗚呼是れ裸角力の勝者たる権威なり。何となれば彼は力を以て群雄を圧したるものなればなり。

  (八)

 

 家康は徹頭徹尾力の信者なり。秀吉が示威運動の名人にして広告術の奥の手に通じたるは論なし。(すなは)ち信長の如きも広告の上手なる人物にして安土城の魏々堂々たる建築も、天正九年(一五八一年)二月京都にて天覧に供ぜし馬揃も、瀬田の橋の建築も、詮じ来れば日本国中に自己の威光を示す大広告ならざるはなし。独り家康に至ては何処までも質素にして却て自ら其光沢を消すを(つと)めたり。信長は本願寺の大坂開城を促せし時勅使の下向(げかう)を奏請し、秀吉は諸国を征伐するに往々勅命を仮り、錦旗節刀を賜はりて出陣したれども、家康は未だ嘗てさる行動に出でざりき。秀吉は島津を征伐する時、本願寺に命じ、薩摩、大隅の門徒を内応せしめたれども、家康は関原の戦にも本願寺を利用することを拒みたり。凡そ家康の頼む所は唯だ自己の力に在り。我力以て天下を征伏するに足るべくばそれにて可なり、其外には何の上手も入らぬことなりとは思ふに家康の心事ならん。彼はたとへば裸体となりて土俵の上に角力を取る力士の如し。我力敵を倒すに足る故に我は日の下開山の横綱となれり、此外には詩も語もなし、我は強く汝は弱し、我は支配し、汝は支配せらる、是れ当然の事なりとは家康の群雄に対する心事なり。さればこそ関原の戦後にも家康は誰に遠慮もなく直ちに勝者の権利を実行し、国土を自身に忠なりしものに分割し、豊臣氏の旧臣たりし大諸侯にも城普請(しろぶしん)其外の国役を申付けたるなれ。かくて家康の態度が、余りに傍若無人なりしかば、慶長十五年(一六一〇年)名古屋城普請の時、日頃は家康党なりし福島正則も不平に堪へず、「近年、江戸駿府両城の普請にて諸大名みな疲労したり。さりながら駿府は大御所の御座所、江戸は将軍家の御座所なれば苦労に存ずるものもなし。然るに此名古屋は庶子の居城なるに、それまでも我々に普請申付けらるゝは余りの事なり」と云ひき。家康と雖も勿論さる不平の声を耳にせしことあるべく、又さる不平なきに非ることをも知りたらん。されど彼は如何なる不平にも頓着せず、我、汝に此事を命ず、汝之を好まざれば(すみやか)に自国に()せかへり謀叛(むほん)すべし、然らば早速ふみ潰しくれんと云ふ態度をのみ示したり。是れ誠に諺に云ふ木にて鼻をこする挨拶なり。さりながら天下何人(なんぴと)も起つて之に抗する能はざりしは家康の力が絶大にして之に触るれば自己の運命を粉砕すべき危険あるを知りしが故のみ。秀吉の遺言は諸大名に対して只管(ひたすら)に「頼む」「頼む」と拝み(うち)を試みたるものにして其幼子を思ひ家の将来を苦慮する真情を披瀝したるものなれども、家康の遺言は之に反し「将軍の政道よろしからず、万民難儀することもあらば誰にても其任に代らるべし」と云ふに在りき。吾、我力を以て天下の将軍たり。卿等(けいら)の力、()し取つて我家に代るべくは代るべし、我は敢て怨まずと云ふ。其言何ぞ露骨、無愛嬌を極めたるや。家康が裸角力の勝者たりしこと(ますま)す以て明かならずや。彼既に力を以て天下を取りしものなり。然らば則ち何の世事を要せん、何の愛嬌を要せん、(そもそ)も亦何の意気の壮烈なるを要せん。家康の伝記の信長、秀吉に比して色彩に乏しきこと(むべ)ならずや。

 

  (九)

 

 然らば政治家として家康の価値は力の信者たる点に在りしが故に、其事迹には意気の壮烈なるものも無く、性情の人を動かすものもなしとて、信長、秀吉に比すれば家康は見劣りする人物なりとすべき()。決して然らず。静かに人生を見れば何ものか是れ力の競争に(あらざ)る。勝者とは何ぞや、力を較して人に勝ちたるものなり。治者とは何ぞや、力を以て人の上に立ちたる階級なり。法律とは何ぞや。力あるものが其建てたる社会を維持する方便なり。人生の裸体的事実は要するに吾、(なんじ)を殺す()、汝、吾を殺すかの問題を決するに在り。他の語を以て言へば我力以て汝を支配するに足る()、汝の力以て我を支配するに足る()を決するに在り。独逸のフリードリヒ大帝は実に此力の信者なりき。マキャベリも此力の信者なりき。ナポレオン大帝も勿論此力の信者なりき。現代の文明諸国と雖も其心の最も深き所を探らば誰か此力の信者に(あらざ)らん。家康はマキャベリの如く、フリードリヒ大帝の如く、大ナポレオンの如く力の信者たりしのみ。力の信者は必しも残忍、酷薄の怪物に非ず。家康は力の信者にして自ら其の力を頼みたるが故に其政治は却て煩瑣ならざりき。弱き犬は高く()ゆ。自ら恃む所なきものは小策、小術を弄すれども我力以て群獣を圧するに足ると信じたる大象は之に触れざれば必しも恐ろしきものに非ず。されば家康の政治を目撃したる板坂卜齋(ぼくさい)は「家康、御仕置は大に御座候而(さうらひて)世話(せわ)しなく、細かきことはなし」と云ひたり。彼が関ケ原の敵将宇喜多秀家の身を隠くしたるを追究せず、戦争のありし年より足掛四年に及び始て薩摩より護送したりしを助命し八丈島に流したるも、大阪に籠りし浪人に心まかせに仕官を許したるも皆大象の動かざる如き寛闊粗大の政治なるに依る。酒に酔ふものは遂に醒め、恋に落つるものも後には覚る。壮烈なる意気、真摯(しんし)なる性情は(もと)より人を動かすべし。されど是れ一種の饗宴のみ。饗宴は遂に散ず。人は最後に裸体的真理に還る。裸体的真理とは何ぞや。人生は力の支配を(まぬか)れざること是なり。

 

         (大正四年七月)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/01/08

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

ePubダウンロード

山路 愛山

ヤマジ アイザン
やまじ あいざん 思想家 1864・12・26 ~1917・3・15 江戸(東京都)浅草鳥越の天文台屋敷に生まれる。窮乏のうちに独学自修、メソジスト派により受洗し徳富蘇峰の「國民之友」に刺激され文筆で立つを決意するも執筆、編集出版、政治活動、教壇など多彩に活動をひろげた。史上の偉人の評伝を得意とし、独立評論社より1915(大正4)年7月刊行の『徳川家康』は代表作として殊に知られている。

掲載作は、その人物評に当たる「徳川家康論二」の全文である。

著者のその他の作品