最初へ

卑怯者の弁

   

 

「国家には色々な側面があり、従って、色々な解釈が可能である。しかし、国家というものをギリギリの本質まで煮つめれば、どうしても軍事力ということになる。ところが、その軍事力の保持が、日本の徹底的弱体化を目指して、アメリカが日本に課した『日本国憲法』第九条によって禁じられて来たのである。日本は『国家』であってはならなかった」

 と、清水幾太郎先生は「節操と無節操」という論文(『諸君』昭和五十五年十月号)のなかで書いておられる。これは、論としては、まことに単純明快、その通りである。そうは思っても、私などは、どうしても、ひっかかるものがある。いや、国家=軍事力というところに、理窟ではないところの生理的な反撥が生じてくる。

 清水先生は、こうも書いておられる。

「しかし、私は思うのだが、『古い戦後』から『新しい戦後』への苦しい転換のエネルギーは、戦後に生れた諸君自身から出て来なければならない。『古い戦後』の甘い空気を吸って育った諸君、『日本国憲法』の無邪気な受益者である諸君の中に求めるほかはない。私のような明治生れの単純な戦前派や、大正及び昭和初期に生れ、複雑に屈折した感情を持つ戦中派は、もう転換の主役ではない。主役であってはならない。主役は戦後派で、戦前派や戦中派は、必要に応じて、彼らの役に立てばよいのである」

 あるパーティーで、突然、スピーチを指名されたことがあったが、そのとき、高名な評論家である司会者は、私のことを「戦中派コムプレックスの権化」と紹介した。世間の見る目はそういうものかと思い、ちょっと驚いたが、つまり、清水先生は、お前なんかは相手にしていないと言っているのである。たしかに、私なんかが「転換の主役」になれるわけがないし、なろうとは思わない。しかし「複雑に屈折した感情を持つ戦中派」を抹殺し、その感情にアイロンを掛けてしまう方向を考えるとゾッとしてくる。私は、国家=軍事力という問題は、実際に太平洋戦争に参加した戦中派に任せたいと言ってもらいたいと思っているのであるが。あるいは、中国や南の島で戦った兵隊の一人一人の胸に訊いてもらいたい。

この清水先生の文章は、なかなかに律動感があって美しいし、あんたが主役だと言われた戦後派の若い人たちは、快感をおぼえるかもしれない。しかし、戦中派コムプレックスの権化であるところの私は、この文章に、ある種の(にお)いを感ずるのである。これは聞いたことのある言葉だぞと思う。戦中派の諸君! そう思わないか。私には、どうしても、次の言葉がダブって聞こえてくるのである。

「ナンジラ青少年学徒ノ双肩ニアリ」

 実を言えば、私なんかは、当時、ちょっといい気分にさせられたほうの一人である。大人は駄目だ、オヤジの世代はもう駄目なんだ。ちょっぴりとそう思った。

 清水先生の「節操と無節操」は『日本よ国家たれ—核の選択』(文藝春秋刊)という書物の「あとがき」として書かれたものである。そこで、行きつけの近くの書店へ買いにいったのであるが、まだ入荷していないということだった。

『日本よ国家たれ』は、最初は清水先生が自費出版され、それが『諸君!』に転載されたものであるので、『諸君!』七月号の「話題の爆弾論文」というキャッチ・フレーズのついている「核の選択—日本よ国家たれ」のほうを読むことにした。この号は「(たちま)ち売切れた」そうであるが、私は、読者のすべてが清水先生の論旨を熱烈に支持したとは思っていない。

 私は清水先生の論文に対する反論を書こうとは思っていない。むしろ、おっしゃることはその通りだと思っている。また、清水先生が無節操であるかどうかを論ずる気持はない。正直に言えば、そんなことはどうでもいい。さらに、日本国憲法が無効であるかどうかを考えようとは思わない。成立の過程なんかどうだっていいじゃないかと思う。結果がよければいい。

「しかし、国際政治の戦国時代を生き延びるためには、如何に辛くても、核の問題をリアリストの眼で見なければいけない、アイディアリズムやセンチメンタリズムは、どんなに悲壮でも、現実の役には立たない」(「節操と無節操」)

 これもその通りである。私は、センチメンタリズムでしかものを書けない。しかし、清水先生の話題の爆弾的論文を読んで私の得た感触は、清水先生のおっしゃるように行動しても結果は決して良くはならないということである。日本のためにも世界のためにも良くはならない。

     *

 昭和二十年八月十五日に、私は日本陸軍の兵隊であって、米子附近の山中の小学校にいた。そこが兵舎である。終戦を知って号泣する兵隊がいた。また、反対に、躍りあがって喜んでいる兵隊もいたのである。彼は、これからは英語も話せるしダンスも出来る、おおっぴらに女も抱ける、俺の時代が来たと言って喜んだのである。

 私はどうかというと、そのどちらでもなかった。戦争のない世の中というものがどういうものかわからないというのが本音だった。当時、一部で、日本の女性は、米軍によって、すべて凌辱(りょうじょく)されるという(うわさ)があった。この噂があったということは事実である。また、日本の男は去勢(断種)されるという噂もあった。このへんになると、私の記憶はアイマイになってくる。

私は、日本は戦争に負けたのだから、兵隊である私は殺されても仕方がないのだと思っていた。

 これは後のことになるのだけれど、私の卒業した中学では陸軍士官学校や海軍兵学校へ進んだ学生が多かったのだが、彼等は、クラス会で会うと、彼等同士でひとかたまりになってしまっていて、そっちへ行くと、俺たち、もう一度ヤルゾと(ささや)きかけてくるようなことがあった。彼等の歌う軍歌は、ちょっと異質の感じがあって、まことに力強いものがあった。私には彼等の気持が理解できなかった。いったい、どの国と、なんのために、誰のために戦うのか、まるでわからない。

 私には、日本の兵隊としてアメリカに対して復讐(ふくしゅう)をちかうという気持は、ぜんぜん無かった。戦争はまっぴらごめんだった。そもそも、日本の国を守ろうとする気持がない。どうなったっていいと思っていた。忠誠心は皆無だった。

 ここからは奇妙なことになるが、しかし、日本の愛する女性たちは守りたいと思った。私は十八歳だったのだけれど、漠然と、日本の愛する女性たちが蹂躙(じゅうりん)されるのだけは我慢できないと思った。日本の愛する女性と言ったって、具体的なイメージがあったのではない。だいたい、私は、女を知らない少年だったのである。ここから、さらに脈絡のないことになるのであるが、日本の愛する女性を守るためには去勢されてもいい、仕方がないと考えるようになった。まったくナンセンスなのであるが、かなり本気で、そんなことを思っていた。

私は睾丸のない男になってしまった。戦後の私には宦官(かんがん)という言葉が一番ぴったりくるように思われた。戦後という時代は、私には宦官の時代であるように思われるのである。アメリカが旦那であって日本国はその(めかけ)であり、日本の男たちは宦官であって、妾の廻りをウロウロしていて妾を飾りたてることだけを考えている存在であるように思われた。

 戦争に負けるというのは、そういうことなのではあるまいか。あのとき、命を助けてやったのは誰なのかと言われれば、私には一言もない。

 

   

 

 清水幾太郎先生の書かれた『諸君!』七月号の「核の選択」という論文は、発売当時にザッと目を通すという程度には読んでいた。また、その号がよく売れたということも聞いていた。これは、いわゆる「戦後」の日本人に対する挑戦状のようなものであるから、私にも感慨がなかったわけではない。しかし、大勢の人がキナ臭イと言いだすと本当にキナ臭クなる(おそ)れがあると思ったので何も書かなかった。その手には乗るまいと考えた。

 ところが、「核の選択」批判に答えるという『諸君!』十月号の清水先生の「節操と無節操」という論文を読んでいるときに、我慢がならなくなってきた。特に「大正及び昭和初期に生れ、複雑に屈折した感情を持つ戦中派は、もう転換の主役ではない。主役であってはならない」というところでカッとなった。戦争の直接の被害者(こういう言い方は好まないが)は戦中世代である。また、高度成長を含むところの経済復興を担ったのも戦中世代である。変なことを言うようであるが、月給なんかでも常に暗い谷間を歩かせられた。初任給が七千円から一万円というあたりで就職し、私たちの後を追いかけるように追いかけるようにして世の中の経済は良くなっていったのである。労働組合の大会などで、若い社員が景気のいい発言をすると、お前等、誰のおかげでそんなことが言えるのかと思ったものである。日教組(=日本教職員組合)の講師団の一人であった清水先生が「全国○○万人の教員を収容できる刑務所は日本にはない」というアジ演説をぶったことをかすかに記憶している。そんなふうに戦中派は常に不安な道を歩かせられた。そうして、いま、もうお前等は相手にしないと言われると、これじゃあ立つ瀬がないという気がしてくる。相手にされなくても結構だし、主役になろうとする気持はこれっぽっちもないのであるが、戦中世代の一人の言いぶんを聞いてもらいたいと思うようになってきた。これを書いている現在でも、挑発に乗せられているのではないかという疑いが大きくなってきているのであるが。(『諸君!』編集部諸君! あまり挑発しないでくれたまえ)

     *

 物騒なことを言うようであるが、私は、戦争というものが、それほど嫌いでも厭でもなかった。これを戦争ゴッコとか、運動会の騎馬戦に近いものに考える場合のことであるが——。私も軍国少年だった。と言うより、軍国少年たらざるをえない状況だった。もとより死は覚悟していた。当時、二十歳以上の自分の姿を想像することができなかった。私たちの相言葉は、太宰治の短篇小説集のタイトルであった「晩年」だった。死は、いまよりもずっと近いところにあった。「もっとも美しく生きることは、もっとも美しく死ぬことである」という臨終の際の神父の御説教みたいな言葉で洗脳されてしまっていた。私にとって困るのは、私が死ねば母が歎き悲しむということだけだった。家の近くに住む長唄の師匠が、ポマードで固めていた頭を坊主刈りにされてしまって、(たすき)を掛けて出ていったまま帰らぬことだった。フィリピンで戦死した彼の母と道で会うことだった。私に妻子がいたら、もっと事情は変ってくると思うが、母が泣くだろうと思うと、それだけが(つら)かった。

 私は勇敢に戦い、塹壕(ざんごう)から真先きに飛びだして戦死してやろうと思っていた。

 軍隊の任務は戦争をすることであり、戦争に勝つことを目的としていて、そういう仕事に従事しているためにわずかながら月給も貰えるのだと思っていたが、入隊してみると、まるで違っていた。軍隊で、私は戦争の話をしたことがなく、また聞かされたこともなかった。軍隊にいるより家にいたほうが、ずっと戦争について知る機会が多かった。軍隊に入れば、敵の(ねら)いがどうであって、我が軍の兵力がこんなふうで、こうやって戦うんだという解説があったりするのではないかという期待があったが、そういうことは一切なかった。軍隊というのは、自分たちの仕事である戦争について触れてはいけないところだった。考えてみれば当然のことかもしれないが、私は面白くなかった。死ぬつもりで来たのに、どうやって死んでいいのかわからない。

 またまた妙なことを言うが、私は、軍隊も、それほど嫌いではなかったし厭でもなかった。学科は易しいし、演習は健康にいい。三度三度のメシは喰わせてくれるし、時には、民間では手に入らないフルーツや甘味品が支給される。軍旗祭では演芸会があり酒も出る。想像していたよりは、ずっと気楽なところだった。第一に、家族の心配をしないですむというのが有難い。私は、実際に、東北出身の古年次兵に、こんなにいいところはないと告白されたことがあった。

 しかし、どうにも我慢がならないのは、内務班のことであり、そのおそるべき瑣末(さまつ)主義にあった。そのことを考えると、いまでも体が(ふる)えてくる。

 軍靴(ぐんか)の裏には(びょう)が打ってあり、その鋲の数を訊かれて答えられないときは、軍靴の裏を()めさせられるのである。あるいは営内靴(スリッパ)でもって殴られるのである。悲惨な私刑については多くの人が知っていると思う。およそ戦争とは無関係な場所である。

 私は、員数とか要領ということが嫌いだった。私の中学の教練の教師は、

「なにごとも要領じゃ」 

 と言うのが口癖になっていた。彼の体には軍隊が()みついているように思われた。

 航空自衛隊を卒業して広告会社に勤めている知人に聞いたら、いまでも物干場(ぶつかんば)では盗みがおおっぴらに行われているそうである。それが要領であり、やはり「員数をつける」という言葉が使われているそうだ。とにかく、泥棒が賞讃され、被害者は屈辱的なリンチを受けることになる。要領というのは狡猾(こうかつ)ということである。少年であった私は、これが我慢できなかった。大人になりきれない私は、いまでも、これが駄目だ。軍隊では、狡猾な男が褒められ、偉くなるのだった。

 連合赤軍が、彼等の目的のために、どういう「仕事」をしたかを私は知らない。しかし、彼等が仲間同士で(いが)みあい、凄惨(せいさん)な私刑を行い、ついには殺しあったことを誰もが知っている。日本人が軍隊組織を持つと、ああなってしまうのだ。戦争も軍隊も、それほど嫌いではないけれど、軍隊組織は厭だというのは、そのあたりのことである。

 戦争が終ってからのことであるが、分隊に軍靴が新しく支給されることになり、どういうわけか、私に上等な靴が当ってしまった。ちょっと赤っぽいのが気になったが、皮がなめらかで、やわらかく、何よりも有難かったのは、私の足にぴったりと合うことだった。

 これで靴ずれとマメとから解放される思った。この編上靴(あみあげぐつ)を、隣の班の上等兵がどうやって取りあげたかということの委細は、もう記憶していない。

「おい、山口よう、お前さん、いい靴を持っているじゃないか」

 最初は、そう言って近づいてきた。狡猾と(へつら)いを()きだしにした、なんとも陰惨な笑顔だった。私としては、かなり抵抗したのである。第一に、上等兵の言いぶんは、理不尽だった。第二に、もう戦争は終っているのであって、その編上靴は登山靴に適していると思われた。第三に、狡猾と諂いに屈するのが厭だった。率直に交換してくれと頼まれれば話は別だ。

 あるとき、私は、上等兵に廊下へ呼びだされ、自分の銃を持たされた。

(ささ)(つつ)! 半ば(ひざ)曲げ!」

 私にそういう姿勢をとらせて、彼はどこかへ行ってしまった。

 

   

 

 その上等兵は、私に、捧げ銃、半ば膝曲げ、という命令を下して、どこかへ行ってしまった。私は、ピンクレディーの『ペッパー警部』で猥褻(わいせつ)だというので問題になった姿勢を取らされていた。およそ二十分ぐらい、そうやっていると、膝頭のところがぶるぶると震えてくる。自然に(しり)が突き出てきて、いよいよ滑稽な恰好になってくる。当然、廊下を通りかかる兵隊は、私に屈辱的な揶揄(やゆ)をあびせかけることになる。銃が重くなる。そういう姿勢で銃を持つと、信じられないくらいに重いものなのだ。手も足も震えてくる。

 まったく馬鹿馬鹿しい。戦争はもう終っているのである。しかも、その上等兵は、よその班の兵隊である。私に落度があったのではない。彼は、ただただ、私の編上靴が欲しかったのである。私は、自分としては、忠勇無双の兵士として、死に場所をもとめて軍隊にやってきたと思っていたのに——。

 軍隊とはそういうところである。およそ、戦争とは無関係なところである。日本人の、いや人間の醜悪な性格が無限に拡大され、あるいは凝縮される場所である。私の友人で、軍隊に郷愁を感じ、去年亡くなるまで、それだけを生き甲斐(がい)にしていた男がいるが、その彼でさえ、ある上官が演習で事故死したとき、思わずバンザイと叫んでしまったと話してくれたことがある。私の経験などは微々たるものであって、もっと悲惨な思いをかみしめている男が、数限りなくいるのである。

 清水幾太郎先生は「すべての国家が、もはや戦争することの出来ない国家、国家でない国家になるのではないか」(『日本よ国家たれ』)と心配されておられるが、戦争することの出来る国家だけが国家であるならば、もう国家であることはゴメンだ。

     *

 私が入隊したのは甲府の部隊であったが、入隊してすぐに空襲に会った。甲府の市内がすべて焼き払われるような大空襲であったが、二日か三日経ったとき、営庭に、七、八人の人間が泣き叫びながら入ってくるということがあった。お(ばあ)さん、母親、子供たちという一団であって、幼児もいた。彼等は一人残らず顔から血を流していて、お互いに(ののし)りあっていた。空は晴れあがっていて、泣き叫ぶ声は兵舎に(こだま)していた。これは地獄の光景だと思った。

 聞いてみると、そのなかの男の子が不発弾をいじっていて、みんなが輪になってのぞきこんだときに爆発したのだという。市内の医者を探すことができなくて、軍隊へ行けば軍医に手当してもらえると思ってやってきたのだと、母親が泣きながら語った。

 そのときの印象はまことに強烈であって、ずっと長い間、その光景が私の瞼の裏から去ることがなかった。その後、私は爆発物というものを異常に怖れるようになって、それだけが原因ではないのだけれど、いまだに台所のガス、風呂場のガスに点火することができない。これは戦争の後遺症だろう。

 この場合も、もっと悲惨な光景を目撃した人が数限りなくいるのであるが、戦争というもの、戦争の際の銃後というものを煮つめれば、こういうことになってくる。

 私は、戦争というものは、すなわち「母の歎き」であると思っている。戦争となると、不思議なことに、死ぬことは怖くなくなってくる。しかし、私が死んだら母が歎き悲しむだろうと思うと(つら)くなってくる。それは本当に辛い。「君死に給うことなかれ」と母親や愛人に言わせることが辛いのである。

     *

 私が戦後に読んだ書物で、もっとも感動したのは大岡昇平さんの『俘虜記』である。

 なかでも、戦場で大岡さんが米兵に遭遇する場面が圧倒的だった。

 

 谷の向うの高みで一つの声がした。それに答えて別の声が、比島人らしいアクセントで『イエス、云々(うんぬん)』というのが聞えた。声は澄んだ林の声を震わせて響いた。この我々が長らく遠く対峙(たいじ)していた暴力との最初の接触には、奇怪な新鮮さがあった。私はむっくり身をもたげた。

 声はそれきりしなかった。ただ(くさむら)を分けて歩く音だけが、がさがさと鳴った。私はうながされるように前を見た。そこには果して一人の米兵が現われていた。

 私は果して射つ気がしなかった。

 それは二十歳くらいの丈の高い若い米兵で、深い鉄兜の下で頬が赤かった。彼は銃を斜めに前方に支え、全身で立って、大股(おおまた)にゆっくりと、登山者の足取りで近づいて来た。

 私はその不要慎(ぶようじん)(あき)れてしまった。彼はその前方に一人の日本兵の潜む可能性につき、(いささ)かの懸念も持たないように見えた。谷の向うの兵士が何か叫んだ。こっちの兵士が短く答えた。『そっちはどうだい』『異常なし』とでも話し合ったのであろう。兵士はなおもゆっくり近づいて来た。

私は異様な息苦しさを覚えた。私も兵士である。私は敏捷(びんしょう)ではなかったけれど、射撃は学生の時実弾射撃で良い成績を取って以来、妙に自信を持っていた。いかに力を消耗しているとはいえ、私はこの私が先に発見し、全身を露出した敵を逸することはない。私の右手は自然に動いて銃の安全装置を外していた。

 兵士は最初我々を隔てた距離の半分を越した。その時不意に右手山上の陣地で機銃の音が起った。

 

 結局、大岡さんである「私」は米兵を撃たない。その心理を以下延々と反省をこめて、論理的に倫理的に分析する。「私」の行為は、味方に対する裏切行為でもあった。私は、こんなふうに分析することのできる兵隊がいたことに感動した。

 

 私がこの米兵の若さを認めた時の心の動きが、私が親となって以来、時として他人の子、或いは成長した子供の年頃の青年に対して感じる或る種の感動と同じであり、そのため彼を射つことに禁忌を感じたとすることは、多分牽強附会(けんきょうふかい)にすぎるであろう。しかしこの仮定は彼が私の視野から消えた時私に浮んだ感想が、アメリカの母親の感謝に関するものであったことをよく説明する。

 

初めて読んだとき、そうだと思い、いまでも私はその通りだと思う。戦場で殺しあうときには罪悪感は失われてしまっている。「私」の行為は裏切行為であるかもしれないが、一人のアメリカの母親を救ったという事実は動かしがたい。辛いのはそこのところだ。

核戦争となれば予測のつかない悲惨なことになるのは明らかであるが、ヴェトナム戦争でもイラン・イラクの戦闘状況を見ても、戦争というものを窮極的に絞って考えると、一人の男と一人の男が対峙する姿が浮かんでくる。そのときに射つか射たないかである。

 戦争が終ったとき、私は、どうしていいかわからなかった。前に書いたように、これからは宦官(かんがん)の時代になり、私は宦官になるのだと思った。

 大岡さんの『俘虜記』を雑誌で最初に読んだのは、まだ終戦直後といっていい時代だったのであり、私はその文章力と、人間を正確にみつめようとする目に感動したのであるが、それとは別の一種の爽快感を味わった。それは、今後の自分の進む道がはっきりしたということである。

 多分、私は、大岡さんと同じ状況に置かれたならば敵を撃たないだろうと思った。そこから進んで、私は、撃たれる側に立とうと思うようになった。

 これは不戦の誓いというような勇ましいものではなく、私はその種の運動に参加したことはない。しかし、撃つよりは撃たれる側に廻ろう、命をかけるとすればそこのところだと思うようになつたのは事実ある。具体的に言えば、徴兵制度に反対するという立場である。

 

   

 

 私は宦官になってしまった。しかし、神州清潔ノ民の気概が少しは残っていたので、命をかけるとすれば、再軍備反対の方向だと思った。私たちの年代の者は、すぐに「命をかけるとすれば」という考え方をする。当時、私の家は鎌倉にあって何人もの米兵が遊びにきていたのであるが、母は何かというと「降るアメリカに(そで)()らさじ」と言うのが口癖になっていた。すなわち、和気藹々(あいあい)と見えて、その裏は一触即発という感があった。まだ、死はごく身近なものであって、隣あわせで暮していたような気がする。

 政治にはかかわりたくない、かかわってはいけないと思っていたが、再軍備とか徴兵制度復活ということになれば、そこだけは話が別だと思っていた。命を捨てるとすればそこのところだ。

『俘虜記』が先か新憲法の公布が先か、もうわからなくなっている。それに接したのは、ともに昭和二十三年のことである。麻雀をやっていて凄く良い配牌のときに「夢ではないか」と叫ぶ人がいるが、憲法第九条を知ったとき、私は「夢ではないか」と思ったものである。こんな幸運があっていいのだろうか。命をかけなくていいだけでなく、日本国が私の命を守ってくれると約束したのである。

 私は、職を失って、まったくの失意の状態であったときにサントリーの宣伝部に就職することができたし、父の借金を返すために書いた雑文が小説として評価され、いきなり文学賞を受けるなど、およそ信じられないくらいの幸運にめぐまれた男なのであるけれど、わが生涯の幸運は、戦争に負けたことと憲法第九条に尽きると思っている。

「私には三つの幸運があった。敗戦と憲法第九条と、いまの女房にめぐりあったことだ」という冗談を、酒席で何度くりかえしたことか。

     *

『日本よ国家たれ』と清水幾太郎先生は言う。国を守れと言う。

 その場合の国家、日本国とは何であろうか。国家を代表するものは日本国政府である。日本国政府とは、すなわち自由民主党である。自由民主党を操る者は田中角栄である。田中角栄のために命を捨てろと言われても、私は厭だ。私は従わない。

 日本人を守れと言う。しからば日本人とは何であろうか。

     *

 最近のニュースで美談が報ぜられたことがあるだろうか。死にかかった老婦人が一億円を施設に寄附するという類のことは美談ではない。当人の自己満足であり、どうせ相続税で持っていかれる金である。およそ、日本人の毅然(きぜん)たる態度、毅然たる行為が報ぜられたことがあるだろうか。

 裁判官が、自分の担当する女性被告人の肉体を要求する。彼女は金を貰ってこれを許す。警察官がスーパーで万引する。自衛隊の隊員の不祥事などは、これを聞くこと初中終(しょっちゅう)である。

 団体を組んで、朝鮮、台湾、東南アジア諸国へ女を買いに行く男たち。

 医者の資格のない男が、女性患者にあらゆる猥褻(わいせつ)な行為を行う。あげくは、大金を取って、悪くもない子宮や卵巣を摘出する。資格のない男は、摘出したものをイカの塩辛の瓶に貯蔵して「子宮コレクター」と自称する。その男から献金を受ける市長、市会議員、国会議員、厚生大臣。

 国を売るという破廉恥な罪に問われている刑事被告人であるモトの宰相を、連続最高点で当選させる県民たち。そのモトの宰相にキンタマを握られている国会議員たち。

 ムハマド・アリがアントニオ猪木に格闘技を挑んで、これは演出上のことであるけれど「醜い日本人(ジャップ)」と叫び、罵詈雑言(ばりぞうごん)(わめ)き散らしたとき、私は、そうだ、その通りだ、もっと言えと思ったものである。

  マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや

 これは寺山修司の絶唱であり、記憶で書いているので字句の正確を期しがたいが、たぶん間違いはないと思う。これは寺山さんの初期の作品で、少年時代のものと思われるが、詩人の烈々たる祖国愛に同感することを禁じ得ない。

 こんな日本国を、こんな日本人たちを、どうやって、なんのために、命をかけて守る必要があるのだろうか。卑怯者である私は、ひそかに、そう(つぶや)くのである。

     *

 余談になるが、富士見産婦人科病院の事件について、友人である弁護士が、こう言った。

「お前なあ、医者の資格のない男が女性患者の陰毛を剃るなんてことは、たいしたことじゃないんだよ。怖いのはね、陰毛を剃ることぐらいしか出来ない、資格のある医者が何万人もいるっていうことなんだよ。

 考えてごらんよ。何千万円だかの金を出して、金だけで医科大学を卒業した、ボンクラでどうしようもない医者がいっぱいいるんだよ。無資格の男は罰せられるから、まだマシなんだよ。ボンクラ医者はね、手術なんて、とんでもない。何も出来やしない。富士見病院にはね、まだしも、手術のできる医者がいたっていうことなんだよ。氷山の一角っていうのはこのことだね。

 それからね、もっと怖いのは、病院経営が(もうか)るってことを日本全国に知らせちゃったことだね。資格なんてなくたっていい。女医と結婚して病院を建てて、悪くもない女のお(なか)を切って、ハイ四十万円、ハイ五十万円って、これは儲りますよ。もともと健康なんだから死にっこないしね」

 被害者同盟の人たちは、富士見産婦人科病院の関係者は、すべて八つ裂きにしたいぐらいの気持でいるだろうが、事務局長に対する迫り方、攻撃の仕方は、どうも感心しない。いや、日本人的でありすぎるように思われる。厭なことだろうけれど、こうなれば金で解決するより他にない。かりに子宮一箇の値段が一億円ということにでもなれば、全国の産婦人科医は慎重にならざるをえないだろう。子宮を返せとか、手術した女医の子宮や卵巣を取ってやれと言うのでは問題は解決しない。

 事務局長に対して、だんだんに、お前も可哀相だけれどと言ったりするのを見ると悲しくなってくる。事務局長が土下座して涙を流して、額を床にすりつけて、額から血を流して謝罪すれば、いったんは気が済むのではないかとさえ思われてくる。これは軍隊における私刑と似てきてしまうように思われた。

     *

 再軍備ということになれば、こういう日本人たちで軍隊が形成されることになるのである。私の軍隊経験は、わずか二ヵ月であったにすぎないが、それでも経験のない人にはわからないかもしれない。こういう日本人たちに、お国のためという大義名分があたえられるとどういうことになるのか。私には、もう想像がつかない。国家のためとは言うけれど、国家が、いったい私たちに何をしてくれたかと言ったのは花森安治さんである。

「古今東西、国家間に、(つば)ぜり合いとでもいうような緊張した均衡があって、それで平和が可能になっているのが通例である。無気味な兵器の整備と配置、死を覚悟した多くの人間の組織と活動、それが二つ以上の国家のそれぞれに存在するというのが平和の裏面である。真実である。明るいソフトな表面は、暗いハードな裏面と一体のもので、裏面が崩れれば、一夜にして、表面は何処かに消えてしまう」(『日本よ国家たれ』)

 卑怯者である私は、「ハードな裏面を持ちましょう」という提案に(くみ)することはできないし、怖気(おじけ)づいてしまう。それに、第一に、これ、金がかかる。

 

   

 

「憲法改正は、衆参両院で三分の二以上の賛成が得られ、更に、国民投票で過半数が得られなければ、これを行うことが出来ない、というのであるから、改正は殆ど不可能である」(『日本よ国家たれ』)

 殆ど不可能ということが私にはよくわからない。美濃部さんの「橋の哲学」とは違って三分の二以上であり過半数である。これは清水幾太郎先生の頭のなかに、国民の平和を願う気持を打ち崩すのはとうてい無理だという前提があるからだろう。ご自分にも、戦争も再軍備も良くないという考えがあるからだろう。

 それならば、皆の厭がることを強行しようとする考えはどこからきているのだろうか。私にはまったくわからない。

「すでに(清水幾太郎の)『スポットライトを浴びたがる』といった評は固定化している」(朝日新聞、六月十八日付)という類のことなのだろうか。

 ただし、私は、憲法改正についての論議は、その成立過程とは無関係に、なされてしかるべきだと考えている。

     *

「日本という経済大国は、資源、エネルギー、食糧を遠隔の地から輸入し、製品を同じく遠隔の地へ輸出するところに成り立っている。これは、一般に考えられているよりも大きな意味を持っていると思う。一方、資源やエネルギーが欠けていながら、しかも今日の地位に到達したというのは、ただ一つ、日本人の能力及び勤勉によるものである。日本には、日本人という資源しかないのである。私たちは、この人間的資源という宝を世界に誇ってよい。しかし他方、万一にも長い海上輸送路の安全が脅かされれば、経済大国は瞬時にして崩壊する。それなのに、日本は、日本自身の軍事力によって、海上輸送の安全を確保しているのではない。それを漠然と他に頼っている。この点を考えれば、誰にしろ、経済大国と言いかけた途端に、口元が醜く(ゆが)むであろう」(同)

 私には床屋政談しかできないが、これも床屋政談の域を出ていないのではないか。これは、制海権、制空権を持てという意見であるが、そうなったときのことを考えるとゾッとする。軍事力のない現在でも、日本は経済的圧迫を加えられているのである。ABCDラインの経済的圧迫によって大東亜戦争が勃発(ぼっぱつ)したというのが定説になっているが、日本が制空権を持つような軍事大国になるならば、間違いなく「この道はいつか来た道」になるだろう。

 私は、制空権も制海権も持たずに経済大国になったのを誇りに思うことはあっても「口元が醜く歪む」ようなことはない。

     *

「フランスの権威ある大辞典は、平和という言葉を定義して、『国家が戦争をしていない状態』と素気なく言っているが、『国家が戦争をしていない状態』は、多くの場合、国家間——或いは、国家群間——に軍事力のバランスが保たれていることによって可能なものである。古今東西、国家間に、(つば)ぜり合いとでもいうような緊張した均衡があって、それで平和が可能になっているのが通例である。無気味な兵器の整備と配置、死を覚悟した多くの人間の組織と活動、それが二つ以上の国家のそれぞれに存在するというのが平和の裏面である」(同)

 大使館を占領し、職員五十数名を人質にとるというのは宣戦布告と同じなのではなかろうか。アメリカの強大な軍事力をもってしても、こんなことになってくる。まして、タテマエ論者の多い日本人が軍事力を持つとすれば、こんな事態を黙って見ていることができるだろうか。

     *

 不思議な経験をした。

 私は、しばしば、所沢の西武球場へ野球を見に行くのであるが、この西武球場では、試合前に国歌が演奏され、選手はグラウンドで整列し、脱帽して直立不動の姿勢をとる。観客も起立して脱帽する。

 私は、性来、単純な人間であって、国家には国歌があったほうがいいと思うし、大勢の人間が同じ行動をするというときの一種の快さを好んでいたので、必ず起立して脱帽していた。それどころか、一緒に行った友人に「立とうじゃないか」と起立を促すことさえあったのである。

 ところが、清水先生の「話題の爆弾論文」を読んでからは、国歌が演奏されても起立することができなくなってしまった。金縛りにあったようだった。

 そうして、背中に、何とも言えない不快な痛みを感じた。いきなり背中を棒で突かれるのではないかという恐怖を感じた。そういう時代が来るのではないか。いや、絶対に来させてはいけない。目の前の人工芝のグラウンドが学徒出陣の場になるのではないか。いや、そいつだけは御免だ。命を捨てるとすれば、そこのところだ。そういう思いが去来して体が(ふる)えてくるのである。

 ある人は、すでに自衛隊というものがあるではないか、再軍備反対と言うのはナンセンスだと言うかもしれない。しかし、私からすれば、志願と徴兵、就職と徴用とでは天地の開きがあるのである。

(いず)れにしろ、国家というものを煎じつめれば、軍事力になり、軍事力としての人間は、忠誠心という人間性に徹した存在でなければならぬ。自分を超えたものの存立及び発展のために自分を(ささ)げ、それによって深い満足を得るという傾向、それは万人の内部に潜む人間性であるが、この傾向を純粋化したところに、軍事力としての人間が実現される」(同)

 忠誠心と言うけれど、いったい、何のための、誰のための忠誠心なのだろうか。「自分を超えたものの存立」とは、いったい、何のことなのだろうか。私にはわからない。わからないものに「自分を献げ」ることはできない。「それは万人の内部に潜む人間性」であるとおっしゃるが、そうすると、私は人間ではなくなってしまう。私は、まったく理解に苦しむのであるが、こういう声は、三十五年前、四十年前に、さんざん聞かされ、教育されてきたあの声とよく似ているということだけはわかるのである。背中が痛み体が慄えてくるのはそのためである。

「しかし、日本が侵略されるというのは、ただ国土が敵軍によって占領されることではない。国民が気高く死んで行くことでもない。敵兵によって掠奪(りゃくだつ)が行われ、男たちが虐殺され、妻や娘が暴行されるということである」(同)

 ああ、聞いた聞いた、これも聞いた。これも、あの時の声とそっくり同じである。社会学の大先生に向って、こういうことを言うのはどうかと思われるが、私の乏しい知識と貧しい頭脳からすると、こういうのがデマゴギーということになる。

     *

 何か、ずっと、わかりきったこと、当りまえのことばかり書き続けているようで、気恥ずかしくなってくる。それに(くら)べれば、清水先生の論文は、まことに勇気ある発言だと思わざるをえない。げんに、利口な人たちは、清水論文について何も言わない。それが当然だろう。

 しかし、マッチ一本火事のもとということもあるじゃないか。戦中派コムプレックスの権化としては黙っていることができなかった。私は小心者であり憶病者であり卑怯者である。戦場で、何の関係もない何の恨みもない一人の男と対峙(たいじ)したとき、いきなりこれを鉄砲で撃ち殺すというようなことは、とうてい出来ない。

「それによって深い満足を得る」ことは出来ない。卑怯者としては、むしろ、撃たれる側に命をかけたいと念じているのである。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/03/12

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

山口 瞳

ヤマグチ ヒトミ
やまぐち ひとみ 小説家 1926・11・3~1995・8・30 東京都に生まれる。1962(昭和37)年「江分利満氏の優雅な生活」で直木賞受賞。

掲載作は「週刊新潮」に永く連載した「男性自身」の新潮社刊単行本シリーズ16『卑怯者の弁』(1981 昭和56年3月初版)から、同題の5章を抄出した。戦後「平和論」者として一方の雄であった清水幾太郎につよく異を唱えて、山口自身の戦中体験と「反戦」の思いを吐露している。イラン・イラク戦争当時の「弁」であり、いましも2003(平成15)年3月、アメリカのイラク攻撃・北朝鮮の核脅威が洋の東西を烈しく揺する「有事」の際にいて、清水と山口の相隔たる論旨は、俄然新たな議論を悩ましく誘い出すのではないか。

著者のその他の作品