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三つの棺

   一

 

「どうか大した怪我でなければいい。」

 お島は心に念じながら、じめじめした溝板を踏みならして路次から通りへ出た。妙に胸の鼓動が高鳴つて、汗ばんだ頬を撫でる四月の微風が、(いと)わしく、一層彼女の心を動揺させた。街にはいつもの通り自動車が走り、長蛇の高架電車が音もなく停車場のホームへ吸い込まれて行つた。道で戯れている子供達も老人も、大股に往來(ゆきき)する行人の面々も、彼女には一切が苦痛を知らない解放された人々のように、明るく、嬉々として見えた。それは春枝が怪我した――という驚きと不安とに駆り立てられながら病院へ急いでいる彼女に、これらの外景のすべてが、彼女とは何の関係もない、冷やかな存在として羨ましい眺めであつた。頭の中は春枝のことで一ぱいだつた。どんな変事が我が子の身の上に持ち上つたのであろうか。彼女は風になぶられる(びん)の後れ毛をかき上げながら歩いた。

 そして電車通りへ出た。お島はそこで組合旗を先頭にした一隊が労働歌を合唱しながらやつて来るのに出会つた。ひよつとすると甚吉の組合かも知れないと思つた。段々近づくにつれてその歌声はいよいよ高らかに、元気に充ち満ちて街中へ鳴り渡つた。甚吉が居たら何と言おうか。お島は一寸思い迷つた。

「おいお母さん、どこへ行くんだね。」

 案の定彼女が行列と摺れ違おうとする時、自分を呼ぶ息子の声がしたので、お島は思わず踏み止ってその方を見た。

「甚吉かい。」

「どこへ行くんだい。」

 甚吉は母親の顔色を読んだらしく、行列から出て来て訊くのだつた。

「今お店からね、春枝が何か手を怪我したと言つて来たから行くところだよ。」

「手を?」

「まあ行つて見ないことには分らないけどね………。」

「さあ、どんな怪我かな。」

 甚吉は眉毛を一寸寄せて考えるような恰好をした。

「お前達はどこへ行くの?」

「僕が代りに行つてやつてもいいけれど、今日は大阪の方から応援団が来るんでね、東京駅へこれから迎えに行くところだが――困つたなア。是非僕も行かなくちやならんが………。」

「いいよ、私行つてくるから、お前遅れると悪いから早く行きなさい。」

「じやそうして下さい。放つて置くようで悪いが今日は少し早く帰つて来るから。」

「いいともさ。」

「頼みます。」

 甚吉は最後の言葉を言い終らない内に、お島の傍を離れて次第に遠ざかつて行く行列の後を追つ駈けた。彼女は一寸振返つてまた歩き出した。

「甚吉の工場も一体いつになつたら仕事が始まるだろう。」

 お島は心の中で呟いた。あの鉄のように屈強な甚吉の体格を見ると、我子ながらもその凛々しい姿に惚れぼれした。そして、一文の稼ぎもせずにいつまでも遊ばせて置くことが勿体なく思われて、つい年寄りじみた愚痴も出るのだつた。

 甚古は富豪松本義直氏の経営にかかる日本造船所の職工であつたが、事業不振の故で大部分の組合幹部を含む約五十名の職工が馘首されて以来、ストライキに入つてもう七十余日を経過していた。組合側も寄附金を集め、行商団を組織して覚悟の持久戦に入りはしたものの、あまりに争議が長引くにつれて次第に費用の捻出に悩まされ、いたく全員の志気も衰えて、何となく皆の顔には疲労の影が差し始めていた。この間に時の海軍次官にして汽船会社長であるS氏が、「おれに任せろ。」と調停役を引受けて出て来たが、会社はこれを断つて頑固に罷業(ひぎよう)職工と対峙した。彼等にとつて目の上の(こぶ)である組合を、この際徹底的に撲滅するため、あらゆる機関を動員していた会社側は、この長い罷業中に罷業団の切崩しを試みるは勿論、強制出勤をも命じて不応職工に対する処分を従業員規約に依つて処断する等、あらん限りの智恵を絞つて威嚇した。組合を脱会した帰参職工に対しては特別賞与を与えて、これを優遇するということも発表された。そして一方には臨時職工がどしどし採用され出した。それにも拘らず罷業団員の結束は益々固められ、文字通り一絲乱れぬねばり強さでこの笑うべき愚策を冷やかに眺めていた。遂に会社側は弾丸兵糧共に尽き果てゝ、罷業団が兜を()ぐ潮時の来るのを待つために(こん)くらべの持久戦に入つたのであつた。彼奴等を窮乏のどん底に追い込めてしまえば必らず前非を悔いて復帰するだろう。結局はこつちの思う壷へ入る。これが骨の髄までしやぶらずには置かない資本家根性の彼等の意見であつた。山の手にある宏大な社長の邸宅が襲撃され、今度の争議を捲き起す原因を作つて、全職工の怨みを買つた重役の自動車が襲われると、会社側も暴力団を雇入れ、反動ゴロツキと気脈を通じ、工場の要所々々に鉄条網を張り廻らして愈々頑固に高圧的に対峙した。そして官憲はそれに三倍する力で深刻化し行く争議を妨害し、ことごとに手足をもぎ取るような弾圧を罷業団の上に加えた。かくて争議は七十余日を経過する今日、尚依然として解決の曙光さえも認められず、激しい戦いの後の、あの疲れた、無気味な沈黙の中に睨み合つていたのである。

 

   二

 

 病院の中は静かだつた。南に面した待合室の窓からは、硝子を透してぬくぬくした太陽の光が射し込んでいた。遠く看護婦らしい若い女の電話をかけている声が、夢でも見ているようになごやかな空気を破つて聞えて来た。

 待合せている患者は、石膏を嵌めた左手を首から吊している鍛冶工風情(ふぜい)の若者と、上品な口髭を生した紳士の二人きりだつた。お島はこの部屋で待つ間もなく、呼びに来た一人の看護婦に導かれて薬品の匂いの漂う廊下を二階へ上つて行つた。そして看護婦が幾つ目かの部屋の前で止まつて扉の把手を押すと、彼女もおずおずとその後へついて這入つた。

 お島は直ぐそこに控えている店の主人と職長の姿を認めた。

「あ、これは内儀(おかみ)さん。この度はどうもとんだ粗相が起りまして、何ともお気の毒で申訳がありません。」

 主人が直ぐ立上つて謝るように頭を下げながらこう挨拶すると、お島も面喰つてお辞儀した。

「何しろ突然の騒ぎで丁度私が工場に居ない隙に起つたもんですからびつくりして、取敢えずこちらへ担ぎ込んだような訳ですが、でもそれ程の怪我ではないようですから御安心下さい。」

 お島は聞き終るとまあよかつたと思つた。

「いいえ、却つてどうもお手数かけて相済みません。」

 お島は極めて慇懃(いんぎん)に礼を言いながらまた頭を下げた。心配する程の怪我でもなさそうな主人の口振りは、今まで自分の頭に蔽い被さつていた重苦しい不安を、一枚一枚皮でも剥くように軽く明るくして行つた。するとこの時、彼女は泣くような呻き声に気がついて耳をそば立てた。

「そして春枝はどこにいるのでございましようか。」

 お島はまた不安になつて来たのでこう訊いた。

「今あつちで手当して頂いてるんですがね、少し入院して養生する必要があるというんで、一切もう病院の方にお任せしてあるんです。」

 職長が代つて隣室を指差しながら立つた。動物的な断末魔の叫びに似た呻き声はなかなか止まなかつた。春枝が苦しがつているのだと思うと、お島は自身、針で刺されるような痛みを感じた。

 約十分の後一切の手当が終つて春枝は三階の病室へ運ばれた。医師はお島を呼び止めて、貧血を起す(おそれ)のあること、ここ二三日が最も危険な状態にあること等を口早に注意し、特に看護婦を一人頼むようにと命じた。

 それは病室というより、物置と言つた方が適切な程の三畳敷だつた。二尺に三尺位の窓が申訳に一つ附いているきりで、鼠色の扉を除いて、他は壁も天井も一様に胡粉を塗りこくつた薄汚ない色だつた。その埃にまみれて艶を失つた畳や、空気の動揺にさえふらふらと動いている壁に引つかかつた(すゝ)は、一見してこの部屋が物置であつたことを物語つていた。四人の看護婦が怪我人を担いで這入つただけで狭い部屋の中は一ぱいになつた。

 店の主人や職長も帰り、看護婦達も皆引上げて行くと、お島は始めてこの箱のような病室の中へ這入つた。そして娘の枕元へべつたりと座つた。

「春枝! とんだことになつたね。」

 彼女は言いながら青ざめた娘の顔をしげしげと見戌(みまも)つた。涙が蒲団の上に溢れ落ちた。けれども春枝は母親の名を呼ぶだけで、両の眼を細く明けた儘、熱にうかされたように間断なく呻くばかりであつた。

「春枝!」

 お島は娘の名を呼び続けた。甚吉の工場が罷業して以來、一家四人の生活は春枝の稼ぎとお島の内職に頼るより外なかつた。それに今また稼人(かせぎて)をとられては、米代の半分もとれぬ彼女の内職だけでどうしてやつて行けるというのか。

「春枝! 私だよ。母ちやんだよ。」

 お島は娘の顔を覗き込みながら何度も繰り返し彼女の名を呼んだ。

 

   三

 

 春枝は甚吉より三つ年下で二十歳だつた。甚吉と同じ造船所の仕上師であつた彼女の父が、起重機の下敷となつて悲惨な最後を遂げた年、春枝は小学校を卒業すると、直ぐあるセルロイド玩具工場の女工となつた。が、欧洲戦争の終熄に伴い、突如襲い来つた金融恐慌の余波で、春枝の工場もまた一夜の内に閉鎖されて以來、彼女は団扇屋やボール箱屋の内職にも出かけ、凸版会社の女工にもなつたが、他の仕事に比較してずつと割のいい賃銀がとれるというある知人の世話で、四年前の夏今の製本工場に勤め出したのである。

 春枝が勤めていたその製本工場は男女工合せて約三十人余、殆んど月刊物専門の製本屋であつた。仕事が一時に押寄せて来ると、警視庁できめられた規則などは全く無視されて、夜十時までもやらなければ帰されぬ日が幾晩も続いた。丁度彼女が怪我した日もそんな夜業が四日も続いた後で、仕上つた雑誌の耳を()つ仕事の手伝いとして、断截機についていたのだつた。彼女の仕事としては単に耳を截つべき雑誌を機台の上に載せることと、既に截たれたものを下へ(おろ)すだけのことではあつたが、どうした間違いか――そしてこんな間違いはよくあるものだが、積重ねた雑誌の耳を叩き揃えているところへ、把手が卸されてがたりと截歯(たちば)が左手を喰い切つたのであつた。

「あッ!」

突然絞めつけられるような叫び声がしたので、男女工等は総立ちになつて駈寄つた。彼等は直ぐ断截機にへばりついている春枝の姿を発見した。

「おい! 早く把手を上げんか。」

 誰かが叫んだ。そして把手はまたがたりと音をたてて上げられた。機械も雑誌も真赤な鮮血に彩られた。

「おい! 手拭でも何でもいいから早く持つて来てくれ。」

 真先に駈寄つた一人の男は怒鳴るように言いながら、倒れそうな春枝の身体を支えてその手を機械から引離した。

 六尺平方面積に亙つて堆積された幾万枚の紙が、把手を卸すがたり

という音と一緒に切り断たれる鋭い刃物が装置されているのだ。機台の上には手のひらを真一文字に切りとられた五本の指が残つた。それは実に鮮かな切口であつた。

「春ちゃん大丈夫だ。しつかりしないといけないぜ!」

 血にまみれた手を手拭で捲きつけながら今一人の男が元気づけた。けれども彼女は呻きもしなかつた。彼女は青ざめて気絶していた。

 

「春枝や、痛みはどうだえ?」

 明る日お島は病院の門の開くのを待つて箱の病室を訪れた。春枝は母親の声に頭を枕から滑らしてそのくぼんだ眼を向けた。

「気分はどうだえ?」

 お島は座りながら言つた。医師の命に従つて雇入れた看護婦は、廊下へ出てこつこつ氷を割つていた。

「うとうとするだけでちつとも眠れないの。」

 春枝は乾いた唇を動かして力なく言つた。風呂敷包みで背負えるだけ持つて来た毛布や蒲団や必要な道具類を、お島はその枕元で解いていた。彼女は娘のこの声を聞くといくらか明るい気持になつた。割合にしつかりしていると思うと安心した。まめまめしく馴れた手つきで働いてくれる看護婦に手伝つて、畳を拭いたり窓の硝子戸を磨いたりして部屋を掃除した。

 十時頃昨日の若い医師が一人の看護婦を連れて繃帯を取替えにやつて来た。春枝は顔を外向けた儘痛がつて子供のようにヒーヒー泣き続けた。そして一人の看護婦は患者の手をしつかり押えていた。

 お島はおずおず繃帯の解けて行くのを見ていた。春枝の痛がる声は彼女の心臓を突き刺した。そして血に滲み通つたガーゼが取除けられると、お島は中から覗き出た指のない化物のような脹れ上つた手を見てびつくりした。

「まあ……。」

 彼女はそれつきり見る勇気が出なかつた。これは大変だと思つた。傷はそう大して心配する程でもないとのことであつたのに、眼のあたりに見た手には全く慄え上つてしまつた。

「その場限りのいい加減なことを言つて(だま)しやがつた。」

 お島は心の中で呟いた。そしてこんな不具にしてしまつた主人をどうしてくれようかと思つた。驚きと悲しみとのために顔中が熱くほてつて、彼女は娘の消え入るような呻きを聞きながら、窓から外を見下していた。荷馬車やトラックが忙しそうに往つたり来たりした。その度毎(たびごと)に木造の病室ががたがた震えた。

「とうとう不具者になつてしまつた。」

 

   四

 

 約二週間ばかりの間に春枝は二度までもコロロホルムを嗅がせられて疾患部の手術を受けた。その度毎に少しずつ切断されて行く彼女の手は、摺古木(すりこぎ)のように段々短かくなつて行つた。そして今日また三度目の手術をすべく医師の宣告を受けたのである。

「私もう死んじやつた方がいゝわ。じりじりに切り刻んで行つて一体どこまで切取つて行こうつてんだろう。こんな腕なんかちつとも欲しくはないから、一層のこと腕のつけ根からもぎ取つて貰つた方がよかつたんだわ。」

「お前、そんな自棄(やけ)を言うもんじやないよ。少しでも残して置こう、助けたいと思えばこそ先生だつて苦心していらつしやるんじやないか。それがまた人情というものだからね。」

「一寸か二寸、腕が長く残つたからと言つて何になるの? 何かに役立つことがあつて? え? こんな丸太のような腕はもう私にはいらないのよ。だから先生にもそう言つて頂戴!」

 春枝はかん高い声でヒステリックに叫んだ。母親の優しい慰めの言葉も無駄だつた。入院以来どうかすると、ヒステリー様の発作が彼女に起ることを感じて内々心配していたお島は、またかと思つて口を(つぐ)んだ。

「え? 母ちゃん、そう言つて頂戴よ。何度も何度も切り直して、きつとあの人達は丸太ん棒と間違つているんだわ。この上私を苦しめないように、一層のことつけ根から挽切(ひきき)つて貰うようにそう言つて頂戴!」

「ああ、言つて上げるとも。いくらなんでもあんまり度々だからね。でも今度だけはおとなしく我慢してね……。」

 お島はむずかる子供をあやすように言つた。逆上して来そうな春枝の気持を極力(しず)めさせるため、彼女ははらはらしながら言うべき言葉に迷うのだつた。春枝が度々の手術を嫌う氣持には十分同情出来るが、医師だけを唯一の頼りにして任せ切つている彼女にとつては、唯医師の命ずるところに従うより外なかつた。

「いつだつておとなしく我慢しているじやないの? 私はもう手術なんかいやだわ。あんな気味の悪い魔睡薬を嗅ぐのはいやだわ。それよりかこの儘でいゝから死んでしまいたい。死んだ方がましだ。ねえ母ちやん、死んでしまいたいわ。私を家へ連れて行つて頂戴。」

 春枝は駄々子のように叫んだかと思うと顔を蒲団の中に埋めて泣き出した。泣きながら「早く死んでしまいたい」を繰返すのだつた。するとお島は途方にくれて、向うへ向き直りながら窓からぼんやりと往来を眺めた。丁度口争いをした後の親子のように、二人はお互に背中合せとなつて長い間泣き続けた。

「母ちやん。」

 暫らくしてから春枝が声をかけた。母親の(やつ)れた顔がこちらを向くと、春枝は急に我にかえつて、慌てて涙の眼を押隠した。そして打つて変つた晴々しい顔付で話しかけた。

「ねえ母ちやん。私今朝それは面白い夢を見たのよ。どんな夢と思つて?」

「さあ、どんな夢だろうかね。」

 お島は安心してにこにこしながら春枝の枕元へにじり寄つた。

「手の指が()えて来た夢なの。知らない間に手のひらが出来て一本一本指が立派に出来てるのよ。物を掴むことも出来るし、拳を握ることも出来るし、まあ嬉しい癒つたんだわ、自分が手を怪我していたことなんか嘘だつたのかも知れないわ。まあ嬉しいと思つていると、どうでしよう。夢じやないの。私がつかりしちやつたわ。」

「まあ……。でも見そうな夢だね。」

「なくなつた手がまた木の芽のように出て来るなんてことはない筈なのに、いつの間にか指が生えて来る夢ばかりなの。」

「何と言つても仕方がないんだからね。一日も早くこの病院から出られるようにならなければ……。」

「でもこの写真を見ると不思議なものね。どの写真もなくなつた左の手がはつきり写つているじやないの。何の考えもなく無雑作にとつたつもりだけれど。」

 春枝は枕の下に敷いていた二三枚の自分の写真を取出して飽かず眺め入つた。つつましやかに膝の上で組んだ両の手や、手提げをさげたなごやかな丸味のある左手を、彼女は一枚一枚何か新らしい不思議なものでも発見した時のようにじつと見詰めた。

「私だつて早く帰りたいわ。こんな病院なんか全く癪だわ。いくら私が健康保険に這入つてる女工だからつて、あんまり不親切過ぎるじやないの。あの院長の物言う時の態度を母ちやんはどう思つて? お役目で仕方なしにやつているような風だわ。」

「仕方がないよ。一文もこつちから出ている訳じやないんだから………。」

「だつてかねて私達は健康保険の掛金を毎月とられていたじやないの。政府(おかみ)だつてお金を出してるつて言う話だわ。立派に薬代を払つている病人と同じじやないか。それにこんな狭苦しい物置なんぞへ押込んでしまつて……。早く私帰りたいわ。」

「甚吉もそんなことを言つてたが、長いものには捲かれろ――で仕方がないよ。早くよくなつてさえくれゝばね。」

「……でも私がよくなつて家へ帰つたらそれから先きをどう暮して行くだろう。私は不具者だわ。」

「そんなことをお前、今考えなくたつていゝよ。兄さんも居るんだから。」

「遊んで食つて行ける身分じやなし、自然考えるようになるわ。一本腕だつて何だつていゝから、私は自分に出来るだけのことをして、一心に働いて行くわ。いつか、ほら、兄さんが話したことがあるでしよう。お友達と浅草で酒を飲んで、ひどく酔つて夜遅く帰つた晩、観音様の裏辺りで一人のお婆さんに面白いところがあると言つて引つ張られて行つた、あの魔窟の話よ、床にもぐつている女の蒲団をめくつたら、両腕ともない素裸の女が笑顔で客を迎えたという話……。たしか紡績にいる時手をとられたと言つてたわね。そんな姿になつては全くそうするより仕方がないわ。私だつていざとなつたらどんなことでもやつて行く決心だもの。」

「まあお前、そんなことを言うもんじやないよ。さあ、薬を()んで少し眠りなさい。」

 お島は慌てゝ打消すように春枝の話を遮つた。薬瓶を持つた手が妙にがたがた震えた。春枝は水薬を嚥みほすと呟くように言った。

「一本腕だつて生きて行けるわ。」

 

   五

 

 お島が病院に行つている間、家ではお千代が唯一人母親の内職の手伝いなどして待つていた。彼女は尋常六年生でもう眼の前に卒業を控えていたが、甚吉の工場の争議勃発後、間もなく争議団員の子弟等と同盟休校を決行して争議の渦中に捲込まれていた。造船所従業員の通学児童が過半数を占めていた彼女の小学校では、それでも毎日授業は続けていたが、ストライキが長引けば長引く程、彼女は学校が懐かしくなつて母親を困らせた。

「早く学校へ行きたいわ。でないと遅れてしまつて卒業も出来なくなるんだもの……。」

 お千代は泣き顔になつてよく母親へあたつた。学校が好きで成績のよい子だけに、お島はあまりに長引く同盟休校には次第に不安にもなつて来ていたが、自分の家の子だけを学校へ通わせることは義理にも出来るものではなかつた。そして彼女はその度毎に一時脱れの慰めを言つて、やつと納得させて来たのである。遂に争議はいつ果てるとも解決の見込つかなくなると、一家の窮乏は益々加わり、春枝は病院にやられ、彼女の内職さえも碌に出来なくなつているので、時たま本部から貰つて来る二升三升の米が、今では彼等一家の露命を繋ぐ唯一のものとなつていた。最後の勝利はこつちのものだと、よく言つていた甚吉の気休めが、単なる気休めに終るようなことになりはしないか。お島にはそんなことが不安でならなかつた。

「ねえ母ちやん、今M工場からこんな葉書が来てよ。愈々明日から出勤しろつて……。」

 (たすき)をかけて仕事台の前へ座つていたお千代は、帰つて来た母親の姿を見ると一寸仕事の手を止めて、嬉しそうに頬笑んだ。

「そうかい。どれ?」

「朝は七時出勤だつて。」

「まあよかつたわね。都合よく這入れて……。」

 お島はお千代から葉書を受取つた。包みきれぬ喜びの色がその唇の周囲に微かな皺を描いた。

「でも割合に早く決つたものだね。」

 そしてお島は葉書の文面を読んでしまうと、ほつと安心したような安らかな笑みを浮べながら、まともにお千代の顔を眺めるのだつた。

「いくら位お給金をくれるだろうね。」

「まだ年がいかぬから安いだろうけれどね。いくらだつていゝよ。毎日きまつて取れるんだから。」

「どんな仕事か知ら。」

「お前のような子供にだつて出来る仕事だもの。た易いことだろう。」

「私姉ちやん見たいな怪我をすろようだつたら厭だなア。」

「キャラメル工場だからそんなことはないよ。どうせ仕上仕事だろう。大丈夫さ。」

 そして二人は久し振りに伸び伸びした気持で話続けた。朝晩春枝の看護で病院へ通う疲れも忘れたように、お島は羽織をぬぐと直ぐお千代を相手に仕事を始めた。すると丁度そこへ呼出しの通知を貰つて健康保険署へ行つていた甚吉が帰つて来た。

「実に馬鹿にしていやがるよ。」

 甚吉は下駄をぬぐより早く、怒鳴るようにとげとげしく呟いた。

「どんなことだつたかい?」

「実に馬鹿にしているんだ。春枝の入院が明後日で満二十日になるから、明後日は病院を引払うようにと言うんだ。二十日間以上の入院は今までも例がなかつたし、とも角今後は家へ帰つて養生してくれと言うんだ。」

「明後日と言つたつてお前――今日これからまた手術を受けることになつているんじやないか。また三日間位は動くことも出来ないようになるのに………。」

「それでそのことをいろいろ弁解して見たんだが、どうしてもこの上病院に入れて置く訳には行かぬと言いやがるんだ! 予算の都合でやつているんだから、一人だけを特に許して養生させることは出来ねえと言いやがるんだ! 冗談じやない、では何のために健康保険署なんて役所が出来たんだ、こんな時に心配なく養生させるためだと言つて作った健康保険じやないか。何のために保険の掛金をとつているんだと(なじ)つてやつたけれどね、数の多い中だから君等がそう単純に考えているような訳に行かぬと言いやがつたよ。『単純』に考えているような訳には――なんて、まるでペテンに掛つて吠えたてる男をなだめるように、白々しく規則だから例だからと、てんで病人の状態なんかはちつとも聞いてくれないんだ。」

「病院の先生だつてまあ一月半も入院すればいゝだろうと言つていたのに、二十日間ぽっきりとはひどい。今日また手術しなければならないのに………。」

「医者の注意や病気の状態を言つて頼んでもどうしても聞いてくれないんだ。かねて健康保険のことは聞いていたがね、こんな不便なものとは思わなかつた。役人達を唯喰わせて置くためにおれ達から毎月掛金を取つているようなもんだ。おれ達は(だま)されているんだよ。いくら口をすつぱくして言つても(らち)が開かぬから帰つて来たけれどもね。考えるといまいましくつて仕様がねえや。」

 甚吉はいつになく興奮して時々唇を噛んだ。手術直後に重症の春枝を運ぶ母親の心配を、少しでも尠くするために彼は慰めの言葉を十分用意してはいたが、内職の仕事に眼を廻している二人の肉親を見ると、押えきれぬ憤怒が一時に爆発したのだ。物憂い気にボール箱の一つ一つへ仕上げのレッテルを貼つている母親の老い込んだ姿や、妹の傷々しい姿は、妙に彼の闘志を鈍らせて感傷的な気持にした。

「却つて病気を悪くするばかりだのに、誰がそんな薄情な命令をするんだろうね。弱つたことになつた………。」

「が仕方がない。お母さん! 意気地がないようだが、こゝは涙をのんで我慢して病院から引取るよ。今に時期が来ればいつまでもこんなことをさせちや置かぬから……。きつと今に思い知らしてやる。」

 そして甚吉は昼飯も食べずに出て行つた。

 

   六

 

政府(おかみ)の都合もあろうけれどね。せめて今一週間も経つてからだと助かるんだが。」

 ふとい溜息がお島の口と鼻から漏れた。絶対安静を要する手術直後の春枝を、どういう方法で運んだものであろうか。考えただけでもお島にはそのことが残酷に思われて、一本一本髪の毛を引抜かれるような恐怖に襲われた。それにしても春枝の手は一体どうなるのであろう。入院以来経過が面白くないと言つては、もう二度も外科手術を受けているのに、よくなるどころかまたしても三度目の手術を受けなければならない状態にあるのだ。その度毎に腕は段々摺古木のように短かく切り詰められて行く。春枝の泣言も決して無理ではない。こう思うとお島の両の眼からは、突然大粒の涙が溢れ落ちた。不具(かたわ)なら不具なりでいゝ。早く達者になつてくれれば後はどうにでもなる――。それなのに今の彼女には全くとりつく島もないのである。いくら声高に呼んでも誰もそれに答えてくれる者のない曠野に置き去られた小羊のように、彼女は全く途方にくれてしまつた。そして我が子(いと)しさに唯声を忍んで泣くより外なかつた。

 午砲(どん)が鳴り、昼飯を仕舞うとお島はまた出かけた。手術は午後一時から始まることになつているのだ。

 病院ではもうすつかり仕度が調(とゝの)つていた。お島が春枝の箱を訪れると、間もなく一人の看護婦が時間の来たことを知らせに来た。すると春枝は直ぐ寝床の上に起上つた。

「ねえ母ちやん、私明後日退院するんだつてねえ?」

 春枝は母親の顔を見るとだしぬけにこう言つた。手術後の経過に影響するようだつたら――とそのことばかりを気にして退院のことを春枝の耳には入れない決心でいたお島は、こう()かれると一寸びつくりした。

「……お前誰から聞いたの?」

「兄さんが来たのよ。何もかも聞いたわ。」

「そうかい、此処へ来たの? も少し猶予して貰いたいつて兄さんが保険署へ行つたけれどね。どうしてもいけないそうだから……。」

「却つてその方がいゝわ。早く家へ帰りたいんですもの。」

「しかしお前、家にいてはこんなにみつちり養生することは出来ないよ。せめて今一週間でもと思つているけどね。」

 二人の親子は箱から出て行つた。春枝の傷ついた方の手は袂の中に隠れていた。彼女の腕がもう半分きりよりないことは、肩のそげ工合やだらりとぶら下つた残りの腕が、歩くごとに袂の中に動いているのでもよく分つた。それは何となしに間の抜けた歩き方でもあつた。嘗ては如何にも娘らしく丸々ともり上つていた両の肩も、痩せて味気なくひよろひよろしていた。髪の毛も艶がなかつた。そして箔押しをさせてはその早さとヤレを作らないことに於て、工場中随一と言われていた右の手は、今その相棒たる左の手を失つて空しく母親の手に握られているのである。

「千代ちやんが明日からキャラメル工場へ行くんだつてね? あの子もとうとう学校を卒業することも出来なかつたんだわ。」

 手術室の扉を押しながら春枝が言つた。お島は看護婦達へ会釈した。室の三方を摺り硝子で張りつめられた手術室はこの病院の他の建物とは全く独立したもので、まともに太陽の光を受けた同じ硝子張りの屋根からは、遮られた日光が程よく射し込んで春枝を素晴らしく明るい愉快な気持にした。それは彼女が病室として換気や通風孔の、本来あるべき衛生的設備さえない狭苦しい箱の中で、終日を過しているからに違いない。けれどもお島にはこれと全く違つた感情を起させた。先ず部屋の中央に据えられた防水布張りの黒い手術台が何よりも彼女には恐ろしいものに思われた。あの上に(よこたわ)つたが最後、殺すも生かすも一切の鍵が医師の手に握られているのだ。お島にはこの冷い無気味な存在に対して毎度恐怖なしにこれを見ることは出来なかつた。それが今も扉を排して最初にその黒い骨組や、それを取巻く金属製の外科用器具類が眼に映じた瞬間、臆病な彼女は自身メスを突き刺さゝれるような不快な面痒(おもがゆ)さに心のすくむのを覚えたのであつた。

「ではどうぞ………。」

 一人の看護婦がこう言いながら早速促すように手術台の方を指さした。湯気を立てゝ煮たぎつている消毒器のじいじい言う音も、コンクリートの床の上を歩く看護婦達の下駄の音も、一切は何物をも乱すことのない静かな室内の空気の中に、恐ろしく底深い響きを立てた。そして部屋中に漂うている生温い瓦斯(ガス)の匂いが一層彼女を不安にした。

 春枝は看護婦に助けられながら黙つて手術台の上に(よこた)わつた。何の不安も恐怖も抱いていなさそうな春枝の容子はいくらかお島の気持を明るくした。そしてやがて白い手術衣の袖を肘の上までまくり上げたこの家の院長増田博士が、若い一人の医師を連れてやつて来ると、彼女は一礼しただけでいつものように三階の箱の中へ帰つて休んだ。彼女はそこで、一切が終つて死人のように担架で運ばれて来るまでの約三十分ばかりを、身を切らるるような(おのの)きに駆り立てられながら待つた。ようやく一人前の女になろうとしている娘を、とうとう不具者にしてこれからの長い生涯を台なしにしてしまつたのだ。今更悲しんだとて何にもならないことながら、彼女は我が子の行末を考えると真暗(まつくら)な息づまる思いがした。誰があの不具者の面倒を見てくれるものか。やつぱり製本屋の主人に交渉して解決するより外ない。

 お島は春枝の全快と同時に、製本屋との間に話をまとめなければならぬことで、甚吉と相談した二三日前のことを思い出した。入院以来一切の費用は殆んど向う持ちで、その上日給の半額ずつを貰うことが、最初は気の毒で済まないようにさえ思われたが、哀れな春枝の姿を見るとそんな考えはきれいに消えて、唯刃(やいば)のように研ぎすまされた怨みばかりが残つた。

「甚吉に談判して貰おう。」

 不途(ふと)この時、お島はガソリンの爆音に思わず顔を上げて窓から往来を眺めた。警察署の前に列んだ三台のトラックに、顎紐をかけた警官がぎつしり乗つて走り出すところだつた。でこぼこの道を、中の警官達は肩を()つゝけ合いながら地響きを立てゝ過ぎ去つた。

「何処へくり込むんだろう。」

 また新らしい微かな(おのの)きがお島の胸に湧いて来た。

 

   七

 

 その夜、明日から工場へ通い始めるお千代のために、お島親子がすつかり仕度を調えてもう寝ようとしている時であつた。時計は十時を少し過ぎたところだつた。そこへ「今晩は」と声がして一人の男が這入つて来た。

「幸ちやんだわ。」

 お千代が言つた。客は直ぐ向う裏の長屋に住む、同じ甚吉の仲間幸一であつた。

「ね、おばさん。今夜大変なことが持上つたよ。甚ちやんがまた引つ張られたよ!」

 幸一はその顔の如く、下駄をぬぐより早くぶつきら棒にこう言つた。お島は今夜また争議団の演説会があることを聞いていたし、内心息子の身の上を案じていただけにまたかと思つた。

「甚吉だけじやないでしよう。」

「うむ、二十人位捕つたろうと思うが、演説会で検束されたんでなくて、重役の八木の野郎の家へ大勢で押かけたんだ。おれなんかうまく逃げて帰つたけれども、甚ちやんは先頭に立つていたもんだから、運悪くとつ捕つちまつたんだよ。」

「まあ、そしてどうなつたの……?」

「一口には話されないがね、ざつと言えばこうだ。」

 お島親子が眼を丸くして彼の一言一句に傾聴すると、幸一は本来の話下手な自分の言葉を、どうまとめて話したものかと努力しているものゝように、ひと揺り肩を揺つて、唇を引歪めた。その眼は微かな青黒い興奮を帯びて彼女等をじつとまともに見つめ、乱れた頭髪は汗にまみれて額を半分蔽うていた。そして言おうと思うことがなかなかすらすらと出て来ないのを自分の故為(せい)ではないと言つたように、途切れ途切れに話しだした。

「……今夜の演説会も散々中止を喰つた後、とうとう解散になつてしまつたもんだから――。」

 彼はこゝでまた話を切つた。するとお島は一瞬その分厚な唇の重く閉じられたことに、もどかしい焦燥を覚えながら、大事な報告をなすために来た彼として、幾分不似合にさえ思われるその落着なさに、却つて小面憎(こづらにく)い程の冷静な態度で(けわ)しく然も微妙に動く相手の口の周囲の小皺を眺めた。この愛すべき男の容子は、総てがいつの間にかお島親子の唇に微笑を描いていた程おかしなものであつた。そして(ども)り勝な彼の報告がだらだらと長い間続いた。が、作者は言葉の持つ藝術味を尊重するが故に、至つて聞きづらいとげとげした彼の話を、その儘こゝに書きつけることが、同時に結局読者のためにもひどく興味を()(おそれ)あるを思うので、左に彼の報告の大体を簡単に記して置くことにする。

 まだ時間は早かつたが、例の通りその夜の争議批判演説会も臨席の警部補に依つて解散を宣告されると、ぎつしり詰めかけていた聴衆も争議団員も、満場総立ちとなつてどつと喊声をあげた。演壇の警官に向つて一時に怒声罵声が放たれた。そして誰が歌うともなく、どこからかインタナショナルの歌が鯨波(とき)のように起つて来ると、一同はこれに和して足踏みしながら会場からなだれ出た。

 場外には警官の一隊が垣を作つて立つていた。各所に警官との小ぜり合が始つて、幾人かゞ検束されて行つた。追い散らされた彼等は、三々伍々、別れ別れに歩き出した。歩いて行く内に五人が十人となり、更に二十人四十人と黒い固まりは殖えて行つた。長い時日に亙る争議の後のあの疲労と倦怠から全員の志気をふるい立たせるため、更に第二段の闘争を展開せしめる言わば序幕の演説会に於て、如何に覚悟しているとは言え、争議の真相を伝えて一般大衆の批判に(うつた)ゆべき言論の自由を、完全に封ぜられてしまつたことは、彼等が(おさ)えに制えていた憤怒の情を一斉に激発させた。

「おい。豚の家へ突進するんだ!」

 誰かゞ叫ぶと、一同がそれに和した。

「そうだ、そうだ!」

「突進しろ!」

「何もかもやつちまえ!」

「豚の家を叩き毀してしまえ!」

「行け、駈足!」

 期せずして彼等の歩調は早くなり、いつの間に固まつたのか約百人ばかりが一団となつて、八木重役の屋敷を目がけて駈け出した。乱れた足音と喊声に、彼等の気勢は(いや)が上にも上つて殺気立つた。そして一団となつた彼等の力は訳もなく頑固な八木家の門を打破り、玄関へ乱入し、手当り次第に硝子窓や障子や電燈を打割つて、粋をこらした応接室や客間を、見る影もなく泥靴で蹴散してしまつた。護衛のためにこの家へ止宿しているらしい五六人の若者が、どやどやと出て来ていきなりピストルを撃ち放つた。抜身の日本刀をひつ(さげ)た二人の壮漢が、何やら大声で唸りながら彼等の前に身構えた。この時、甚吉の直ぐ背後にいた幸一は、さつと総身に粟を生ずる悪寒(おかん)を覚えたという。けれども群集はそんなことにはお構いなしにどつとなだれ込んだ。暗の中に白刃がぎらりと光つた。ピストルが続いて乱射された。玄関から応接室へかけて満ち溢れた群集は、兇器を持つ彼等を撃退するために、椅子や花瓶やその他の有合せ物を手に手にとつて投げつけた。そして幾人かは群集の下敷となつて起上ることも出来ずに動物的な悲鳴をあげた。敵も味方も一緒になつて扉を破り、窓を破つて植込みの中へ溢れ出た。かくて間もなく、急を聞いて駈けつけた警官の一隊に、二十何名が捕縛されるまでの約十五分間を、彼等は胸のすくような忘れ難い悲壮な快感を経験しながら、奔馬の如く荒れ狂うたのである。

 お島は寝床へ這入ると、もう一度幸一の話を思い出して頭の中に描いてみた。不安で容易に寝つかれなかつた。

「怪我でもしなければいゝが………。」

 これが彼女にとつて一番心配の種だつた。無鉄砲で向う見ずな息子の性格は、こうした検束騒ぎがある毎に、これまで幾度彼女を眠らせなかつたであろう。が、彼女は一面何者にも動じない息子の強さをも信じていた。「またか……」と度々の検束を平気で受流せる位に馴れてもいた。そのことが今、幾分彼女の不安を(やわ)らげた。彼女はいつの間にか眠つていた。そして夜が明けた。

 

   八

 

 せき立たせるようにしてMキャラメル工場へお千代を伴うて行つたお島は、八時頃になつて帰つて来た。そして休息する暇もなく、いつもの仕事台を持出して座つた。するとそこへ昨夜の幸一が元気のいゝ声を張り上げて這入つて来た。

「おばさん、大変なことになつちまつたよ。」彼はせき込みながらぶつきら棒に言つた。「昨夜八木の野郎の家へ暴れ込んだ仲間の内に、二人死人が出来たんだとさ。実に驚いたよ。新聞にもこんなに大きく出ていやがるんだがね。」

 彼は持つて来たその朝の新聞をお島の仕事台の上にひろげた。

「まさか甚吉はやられちやいないでしようね。」

「それは大丈夫だ。ほら、ちやんと名前が出ているんだ………。」

 幸一は被害者の住所と名前を読んで聞かせた。お島も一緒にそれを覗き込んだ。

「何でそうひどくやられたの?」

「二人とも日本刀で滅多斬りにされたらしいんだ。この外に負傷者が二十四名と言うんだからな。」

「まあ、貴方なんか随分運よく脱れたものだわね。」

 お島は羨ましそうに幸一をまじまじと見つめた。するとこの時、がちやがちやと忙し気な佩剣の音がして入口の格子戸が()いた。そして「御免」と言う声と一緒に巡査が現われた。幸一は本能的に障子の陰へ身を隠した。

内儀(おかみ)さん、一寸。」

 巡査は横柄な態度でお島をさし招いた。

「はい。」

 お島は玄関へ立つて行つた。そして手をついた。

「何だか警察へ直ぐ来てくれるようにと本署から電話で言つて来たんだがね、これから直ぐ行つてみて下さい。」

「あ、左様で御座いますか。どんなことでで御座いましようか。」

「行けば分る。」

「あ、左様で御座いますか、どうも御苦労様で御座います。」

 巡査は言い終るとさつさと行つてしまつた。

「何のためにおばさんを警察へ呼ぶんだろう。」幸一が待ち受けていたようにこう言つた。「今度のは事件が案外大きい事件だからかな。」

「どうせ甚吉のことでしよう。」

「何しろ死人を出している仕末だからな。」

「そんなに大きな騒ぎになつたものですかね。」

「しかし心配する必要もないでしよう。おばさん、直ぐ出かけるの?」

「え、ああ言つていましたからね。」

「僕も本部へ行くんだ。途中まで一緒に行こう。」

 そして二人は出かけた。

 お島は甚吉に関して警察署へ呼び出されることは始めてだつた。今度こそきつと重い刑罰を喰うのではあるまいかという不安が、夕立雲のようにぼんやりと心の隅に湧いて来た。そして警察署の門の前まで来ると、彼女はその(いか)めしい頑固な建物に威圧されて一寸頚を引込めた。それに引代え、軒を列べた隣りの病院は、何と物軟(ものやわ)らかな親しみ深い建物であろう。春枝は今頃自分の来るのを待つているに違いない。お島は歩み止つて高い病院の三階の窓を見上げた。それから安心したように警察署の重い扉を押して這入つた。

 署内はがらんとして人の気がなかつた。水を撒いてきれいに掃き清められたコンクリートの床の上を、お島はおずおず歩いて行つた。そして受附の席で何か書きものをしている巡査の前へ行つて来意を告げると、巡査は

「あ、そうか。ではこつちへ来なさい。」

 と委細承知しているらしい顔付で、筆を置いて立上つた。お島は巡査の後へついて行つた。(ほこり)にまみれた薄暗い通路を抜け、小使部屋の前を横ぎつて階段を上つた。元気のいゝ掛声と一緒に打合う竹刀(しない)の音が静かな朝の空気を破つて空にこだました。

 お島は巡査について一つの部屋へ這入つた。そこには金筋入りの肩章をつけた警部と私服の男とが、別々のテーブルに向つて何か書類に眼を通していた。

「川村甚吉の母が参りました。」

 巡査は警部へ恭々しく一礼して言つた。お島も妙な得体の知れぬ胸騒ぎを覚えながらお辞儀した。

「そうか、ではこちらへ。」

 警部は一瞥を与えて、(かたわら)の椅子をお島に勧めた。彼女はその椅子に腰かけることが、何となく恐ろしくて躊躇された。

「どうぞ、かけて下さい!」

「はい。」

 命令するような警部の声に、(おびや)かされてお島はおずおず椅子へ腰かけた。

「実は外でもないですが、貴方の家に不幸な出来事が持上つたんです。」警部は巻煙草にマッチを摺りながら続けた。「あまり突然の出来事なので、びつくりすると困るですが……貴方は昨夜、日本造船の争議団が、重役の屋敷を襲撃した事件を知つておりますか。」

「はい、伜の知合いの人から聞きましたのでよく知つております。」

「ふむ、その襲撃隊に加つて暴行を働いた貴方の息子の川村甚吉もです。検束して昨夜署へ拘留して置いたんだが、昨夜遅く便所の中で首(くゝ)つて自殺したんです。」

「……あの、甚吉がですか。」

 見る見るお島の顔は青白くなり、唇が痙攣的に引きつつた。

「まあ、そう驚かずに聞いて下さい。もともと川村甚吉は現場から検束される時、かなりやられたらしく傷手(いたで)を負うていたんだが、何故彼が自殺しなければならなかつたかに就ては、今のところ皆目見当がつかんです。唯私一個の想像するところに依ると、どう見ても今度のような事件を惹起したら、先ず十年の懲役を覚悟しなければならぬ。然も川村の家庭の事情や、自ら先頭に立つてこの暴力団を指揮したという責任上、いろんな複雑した微妙な事情が(から)んで川村を苦しめたものと思われる。争議解決の機会を早く求むる上にも、実際、今度のような事件を惹起すことは、十分考えなければならぬところだが――川村は拘留されてから、自分のしたことが、決してよくなかつたことに気がついたのだろう。そして同志に合す顔がないと思つて自殺を決心したという風にまあ解釈しているんです。」

「いゝえ、でも……自殺なんかする筈がありません。そんな息子ではありません。」

 じつと警部の顔を見つめていたお島は、突然、気狂いのように口走つた。頬へ溢れ出た涙を拭こうともせずに、醜く唇を引歪めた儘、泣顔を警部の眼から離さなかつた。それが警部には(いど)まれているように凄かつた。

「自殺するような息子じやありません。違います。」

「馬鹿ッ!」

 警部は今までの優しい態度を急に改めて大声で怒鳴つた。するとお島は始めて顔を袂で蔽うた。

「何のためにお前はそんなことを言うんだ。現在自殺しているんじやないか。親として突然息子の自殺を知らせられることは、定めしびつくりするだろう、力を落すだろうと内心同情しいしい優しく言つているのに、お前は警察が嘘でも()くと思つているのか。それに違いますとは何だ。もともとお前の教育の仕方が悪いばつかりにあんな社会主義かぶれの息子を持つたんだぞ。社会のために害毒を流すような息子を生んで、お前こそ国家に対して済まぬとは思わぬか! 世間に対して申訳ないとは思わぬか! お前の息子のような出来(そこな)いは、却つて日本のためにならぬ。彼奴が生きてさえ居れば極刑に処してやるんだが、卑怯にも死んじまいやがつたからもう何も用はない。邪魔になるから死体を引取つてさつさと帰れ!」

 警部は部屋中割れかえるような声を張りあげて怒鳴つた。そして隣りの私服に

「君、案内して引取らせてくれ給え。」

 と命じた。お島は長い間顔を上げなかつた。そして容易に動こうとしない彼女を、私服は半ば慰めるように、半ば威嚇しつゝ引立てて部屋を出た。

「お前があんなことを言うから叱られるんだ。」

 私服がお島を省みながら言つた。けれどもお島は黙つてついて行つた。頭がぼんやりして、足が地についていないようにふわふわした。何が何やら一切が彼女には信じられなかつた。そして階段を降り、長い通路を抜けて演武場の入口に来ると、私服は「こつちだ。」と言いながら靴をぬいで上つた。お島も夢中で下駄をぬいだ。広い道場の一方の壁に、規則正しくかけられた撃剣の道具や柔道衣の、埃つぽい汗の匂いが鼻をついた。

「それでね内儀さん、家へ運ぶには人手がいるだろうが、何なら小使にそう言いつけて、俥屋を呼びにやつてもいゝよ。」

「はい。」

 私服の事務的な言葉に、お島はどつちともつかぬ返事をした。彼は大股で畳の上をみしみし踏みしめて「こゝだ」と言いながらさつと次の部屋の戸を開けた。と、お島は、卒然として入口に立ちすくんだ。見よ、そこには色青ざめた息子が、最早永遠に甦ることなき死体となつて横わつているではないか。頭に鉢巻された繃帯には黒ずんだ血がべつとりと滲み出で、紫色に斑痕を残した右の頬は膨れ上つて、一文字に食い縛つた口元が、如何にも無念さを語つているようである。その着ている服もずたずたに引裂け、頭髪は泥にまみれている。それはどう見ても昨日まで、あのように若々しく元気であつた彼とは、全く似ても似つかぬ傷ましい姿に変り果てゝいるのだ。

「甚吉、甚吉!」

 お島はいきなり、蔽い(かぶ)さるように死骸に飛びついて息子の名を呼び続けた。絶望と怒りと悲しみとの交々(こもごも)なる感情が、腹の底から湧き上つて、思わず大声で泣き出した。けれども息子は棒のように固くなつていた。

 

   九

 

 争議団本部では昨夜の重役邸襲撃で、敵の(やいば)に横死を遂げた二人の犠牲者を、ようやく棺に納めたところだつた。そこへ甚吉の変死が伝えられた。居合せた同志は意外なこの報知に、暫らくはぽかんとしてお互いに顔を見合せるばかりだつたが、やがて一斉に悲痛な叫びをあげて××を罵つた。

「首を(くゝ)るなんておかしいぞ。」

「この際川村がそんなことして死ぬとは思われぬ。」

「あ奴は自殺するような男じやねえぞ。」

「みんな、嘘だ! 出鱈目(でたらめ)だ!」

「徹底的にこつちで死因を調べてやれ!」

「おい、これから直ぐ手伝いをやつて、川村のお袋にその儘死体を引取らぬよう言つてやれ。」

「これは××の犬どもがきつと企んでしたことだ!」

「一切××の奴等が言うことを信用するな。」

 狭い場内はざわめいた。そして若い五六人の同志が直ぐ飛び出した。

 部屋の中央には真赤な布に包まれた二つの棺が列べられて、心づくしの花束がそなえられ、哀愁を帯びた赤い蝋燭の()がゆらゆらと揺れていた。

 本田義助、新井五郎というのが二人の犠牲者の名前である。二人ともまだ三十歳には届かぬ年配で、本田が親一人子一人の気楽な水入らずの生活をしていたのに引替え、新井には臨月近い腹を抱えた身重な妻と、女の子とがあつた。

「昨夜あの子、演説会が終つてからわざわざ帽子をとりに来たんですよ。外套なしでは寒い晩だつたので、もう今夜は失礼して寝たらどうかいと言つたんです。それが貴方、是非行かなくちやならぬと言つて出たんですが、虫が知らせたんでしよう。顔を見せに帰つたんですよ……。」

 たゞ一人残された本田の母おくらが、泣き声で言つた。新井の妻も同じ身の上話に誘われて啜り上げた。そして時々肩で太い息を入れた。唯、女の子だけがこの部屋の中の空気とは一切無関心に、母親の身体に絡みついたり、見馴れぬ男達の顔をしげしげと見つめたり、蝋燭の灯を吹いてみたりなどした。そして、皆はこれらの遺族を中心に、ぐるりと棺を取囲んでいた。始終人が出たり入つたりして、落着いて座つているものがなかつた。

「これが病気で死んだとでも言えば諦めもつきましようけれどね、あんな、なぶり殺しにされて、どうして諦められますもんか。畜生ッ! 義助を返してくれ、義助を返してくれ!」

 おくらは誰に言うともなく次第にヒステリックな声で怒鳴つた。そして子供のように大声をあげて泣いた。

「お(つか)さん、本田も新井もおれ達のために死んだんだぜ。決してこの儘犬死にはさせぬ。死んでおれ達に百倍の力と勇気とを与えてくれたんだ。おれ達の手できつと仇を討つてやるから、あんまりそう悲しまないでおくれよ。」

 部屋の隅の方から、一人の男が響きのいゝ声でおくらに声をかけた。けれども彼女は駄々子のように、唯肩を震して「義助を返せ」とくり返すばかりだつた。

 やがて表の方に大勢わいわい言う声がして、先刻、飛び出して行つた男達が帰つて來た。山形に毛布を被せた吊台を先頭に、皆がその後へぞろぞろと続いた。そして吊台は一旦土間に(おろ)された。

「おい、どうだつたんだ。」

「どうもこうも病院じや裁判所からの許可證がなければ、無暗に解剖することは出来んと言うんだ。」

「ふむ、出来んようにしていやがるんだな。」

「折角××医専の病院まで運んだんだけれども、仕方がないから帰つて来たんだ。」

 皆力抜けがしたようにぽかんとしてしまつた。

「よし、ではこつちで、もう一度医師の検視を受けて貰つとこうじやないか。」

「それがいゝ。」

「異議なし。」

 皆が賛成した。そして早速医師が迎えられた。

 お島は面窶(おもやつ)れした顔で、甚吉の死体を取囲む男達の肩の間から、始終涙を拭き拭き、恐わ恐わに覗いていた。片頬のうす黒くむくれ上つている何かでしたたか撲られたらしい斑痕が、彼の形相(ぎようそう)を別人のように恐ろしく凄く見せた。医師は頭の繃帯をとつた。

「おい、耳朶(みゝたぼ)を切られているじやねえか。」

 今まで繃帯で隠してあつた耳の傷口が、彼等の眼の前に現われると、突然、誰かがこう言つた。

「おや、どうも凄くやりやがつたもんだな。」

「昨夜やられたのとは違うようだぜ。」

(ちげ)えねえ、こ奴は大変だ。」

 死人の右の耳朶が、そのつけ根から鋭い刃物でぷつつり叩き斬られている。あるものは眉をひそめ、あるものは顔をそむけ、またあるものは悲痛な声を上げて唸つた。けれども医師はそんなことには関係なく、死人の上半身を裸にして腹を指頭で押して見たり、首の周囲を叩いたりした。胸に二ヵ所と首の周囲に一ヵ所の刀痕があつた。何れも長さは一寸ばかりで、殊に首の方の傷は、裂かれた切口から薄赤い肉が血に滲んでめくれ出ている。

 医師はそれから更に口を開け、眼瞼(まぶた)を引つくり返えして丹念に検診したが、結局、肝心な点である縊死か他殺かの確定となると、解剖して見なければ実際の死因を突き止めることは出来ない、と言う漠然とした結論を残して帰つてしまつた。

「こんな不可解な変死を、一体、おれ達はその原因を知ることさえ封じられているんだ。」

「みんな彼奴らがぐるになつて一晩の内にやつたことだ。」

「この刀傷だつて、きつと××の奴らがナマクラ刀でやつたものに違えねえ。」

 彼等は内に燃ゆる激昂と憤怒とを、如何にもそれに違いないと思わせるような想像に結びつけて爆発させた。実際、今の世の中で、僅に彼等へ与えられている自由の範囲内では、その死因に幾多の怪しむべき疑惑があろうとも、これ以上詳細に亙つて(しら)べることは許されていない。それ故に、結局、彼等はその欲する真の原因を知ることなく、事件は疑惑の儘、余儀なくうやむやの内に葬られねばならなくなるのだ。これが正義に燃ゆる彼等が精一ぱいなし能うところのものである。

 一方、彼等は今暁以來、襲撃事件の突発に伴つて、文字通り一網打尽の大検挙に逢い、組合幹部の殆んど全部を失うていた。二人の犠牲者の葬式も、どうしたらいゝかに就て、取敢えず委員を設けて組合の手でこれを鄭重に葬ることゝし、その儘遺骸は遺族と協議して引取つたのだが、益々猛烈に検挙の手を伸ばして来る官憲と闘いながら、他方、第三第四の闘争を展開せしむるための、組合臨時総会を目前に控えている矢先、この疑雲に包まれた同志の死体が持運ばれたのである。彼等はやりばのない(いきどお)りに胸を焦して矢鱈に唾を吐いた。

 

   十

 

 晩に、ある真宗寺から僧侶が呼ばれてその夜の通夜が始まつた。八畳と六畳との襖を撤去して一室とした正面には、新たに持込まれた甚吉の棺と共に、三つの遺骸が列べられ、急拵えの祭壇には、果物やお菓子がそなえられた。そしておくらは、線香の火の絶えるのが気になるように、始終、線香ばかり立てゝいた。新井の妻は、ねんねこの中に眠りこけている女の子を抱いて、お島とひそひそ囁いては時々眼尻を袂の先で押えていた。その傍にお千代はじつと端座して子供らしいその澄んだ瞳を、ゆらゆらと燃える蝋燭の灯に注いでいる。

 部屋は組合員と友誼団体の代表者及びその他の弔問客で一ぱいだつた。煙草の煙と線香の薫が濠々と立ちこめて、一人々々の顔には一様に共通した興奮の色が漂うていた。

「警察では、明日の葬式を見越して、五十人以上の葬列はいけないと言つて来やがつたんだがね、そのことで今二人の委員が掛合に行つてるんだが………。」

 胸に赤と黒のリボンをつけた葬儀委員の一人がいうと、その横に座つていた元気のいゝ、坊主頭の男が、打消すように

「そんなことが出来るもんか! 組合員だけでも千二百人からあるんじやねえか。おれは友誼団体として、××労働組合の名誉にかけても、明日の葬列にはきつと加わる。」と気色ばんで怒鳴つた。

「あ奴らはきつと、葬列を利用して妙な示威行動にでも出られると――という、彼奴ら一流の恐怖から、(あらかじ)め会葬者にまで制限をつけやがつたんだよ。」

「構うことはねえから、会葬者は全部焼場まで列を作つて行こうじやねえか。同志を散々なぶり殺しにしやがつた上、おれ達のさゝやかな心づくしにまで弾圧を加えるという乱暴はこつちが許さぬぞ! 何て血迷いごとを言いやがるんだろう。」

「葬式が三つ一緒になつているのを知らねえ訳でもあるまいがね。葬式の会葬者を制限するなんてことは前代未聞だな。とに角卑屈な彼奴らの狼狽だから、笑つてそんな命令なんかを聞く必要はないじやないか。」

「おれ達の貴い同志の葬式を、彼奴らの泥靴で踏みにじられないようにしなくちやならねえぞ。」

「しかし、頭から××の注意を黙殺してかゝる訳にも行かぬしね………。」

「構うことはねえ。(ことごと)くおれ達の行動を封じるような警察の注意を、一々聞いていた日には何も出来ないじやないか。この葬式を盛大に意義あらしめなければ、第一死んだ同志に対しても済まぬ話だぞ。」

 部屋の隅で、グループを作つて語り合つていた彼等は、次第に、いつの間にか興奮に熱して拳を固めていた。何のために三人の同志が一時に殺されたのか――。彼等を(おさ)えに制えている権力者への限りなき憤怒と怨みとを、そしてこれらの暴圧の内に潜む彼等のカラクリを、一般民衆の前に曝露して、今回の襲撃事件の真相に触れしめようと内々計画していた彼等は、幾分消極的ではあるが、彼等に与えられた絶好の機会であるこの葬式を利用するより外にないのである。そこへ葬式に参列し得る会葬者の数に突然、警察から横槍を入れられては、彼等の溢るゝ友情が、黙つてこれに屈服させはしなかつた。

 が、やがて僧侶の読経(どきょう)が始まると、彼等も議論をやめて、数旒(すうりゆう)の組合旗に護られている同志の遺骸の方へ眼を向けた。僧侶の底深い()びた読経(どきよう)の声は、遠く遠く奈落の底へ追いやるように、長く余韻を引いて一同を思わず極楽浄土の扉の前まで誘うて行くようだつた。誰も咳一つするものがなかつた。おくらは僧侶のすぐ後に座つて、手を合せて口の中で何かお題目を唱えていた。新井の妻もお島もお千代も、そしてその後へ続く一同の面々も、一様に燃え上る三本の蝋燭に眼を注いで、じつと身動きもしなかつた。

「これで義助も、迷わず冥途へ行くことが出来ます。はい、どうも御苦労様でございました。」

 読経が終ると、おくらはさも満足そうに僧侶の前へ、手をついて礼をのべた。そしてまた線香を何本か立てた。お互いの口からは、ほつとしたように太い溜息が漏れた。肩で息を入れるものもあつた。またざわめいて来た。遺族も弔問客も、慌ただしい殺気だつたこの空気の中に、果てるともなく通夜の夜は更けて行つた。

 

   十一

 

 翌日、春枝は病院の箱の中へ横臥して、呻いていた、手術後、彼女を襲うている神経の疼きが、熱鉄を結びつけられているように片方の腕に集つた。彼女は始終夢ばかり見続けていた。身体がふわふわと宙を飛び、身軽にはね廻つて、呉服屋ヘセルの新柄を見に行つたり、電車に乗つたり、活動に行つたり、お千代の髪を結つてやつたり、まとまりもつかぬ幾つもの幻が、次ぎ次ぎに現れては消えた。するとまた、締めつけるような痛みが傷口を襲うて、忽ち全身に拡がつた。そして彼女は唯無抵抗に呻きをあげるより外仕方がなかつた。

「兄さんが死んだつてことも、きつと嘘だわ。夢に違いないわ。」

 春枝は不途、今朝母親に聞かされた甚吉の死を思い出すと、自分の頭に去来する幻と同じものではないかしらと思つた。二日前の若々しい元気な兄の笑顔が、彼女のすぐ枕元から覗き込んでいるように思われる。するとこの時、彼女は遠くから鯨波(とき)のように押寄せてくる規則的などよめきを耳にした。長いこと、彼女は兄の幻を眼の前に描きながら考えていた。次第にその鯨波は彼女の身辺に近寄り、愈々リズミカルに、天地を貫く群集の合唱(コーラス)となつて迫つて来た。

   弾圧の斧ひらめきて

   我等が同志は(たお)

   血に狂う屠殺者の

   かざせる斧は冴えぬ

「……まあ。」

 春枝はこの歌を聞くと、今まで(しな)びていた身体中の情熱が、一時に(ほとば)しり出てくるのを感じた。一瞬、彼女の唇には(こま)かい微笑の小皺が描かれ、顔は、晴れやかに、美しく輝いた。

「まあ、どうしましよう………。」

 春枝はうろたえたように独りごちながら、懸命の努力で寝床の上に起きあがつた。そして窓際へ()い寄つた。

 直ぐ、赤い布に包まれた三つの棺が、彼女の病み疲れた両の眼に映つた。その先頭に押立てられた風に(なび)く三旒の旗には各々黒々と故人の名が記され、(ひつぎ)の後に幾百と続く労働者達は、しつかりと腕を組み合つて、顎紐の警官に護られながら声高に歌つてやつて来るのだ。思いなしか、行列の一隊は隣りの警察の前に差しかゝつた時、その踏み鳴す足音は一段と活気づき、声は愈々高く鳴り響いたように思われた。それは丁度、彼等が一様に抱いている溢れるばかりの憤怒の情を、警察の厳めしい建物に叩きつけているようでもあつた。すると突然、警察署から一群の警官が葬列目がけてばらばらと飛び出した。そして護衛の警官と一緒になつてその行手を(さえぎ)り、一斉に行列の中から手当り次第に検束した。

 群集はこの不意打に激昂し、猛り狂い、どつと(とき)の声をあげた。幾十人もの男が目と鼻の警察の玄関へ引張られて行つた。群集は最早列を乱し、喊声をあげながら、幾本かの組合旗と共に殺気立つて往来一ぱいに渦巻きもみ合つたが、どこに伏勢していたのか、やがて別な警官の一隊に包囲されて、彼等の自由は全く奪われてしまつた。

「早く裏門の方から蹴込んでしまえ。」

 肥つた金筋の署長が、サーベルの柄を握つて部下の一隊を気忙しげに指揮した。演武場で武術の稽古をしていたらしい柔道衣姿の男や、小手をはめて竹刀を握つた儘の男達までが出て来て、彼等を無理矢理に引立てゝ行つた。故人の名を記した三旒の旗は警官の一隊に没収され、幾本かの組合旗もずたずたに引裂かれた。総てこれらは五分とたゝない内に、電光石火的に行われたのである。そして後には、どう手を下していゝか分らずにうろうろしている三つの棺と、棺担ぎの葬儀(ともらい)人夫と、喪服を着けた数人の遺族だけが残つた。

 春枝は一番最後の三つ目の棺の後に、今にも泣き出しそうなおろおろしたお千代の姿を見つけると、急に眼瞼が熱くなつてくるのを覚えた。多分、母親が今日の葬式に、大急ぎで縫い直してくれたのであろう。まだ一枚も本截(ほんだち)の着物を持たぬお千代の着ている銘仙が、すぐ春枝には自分のものであることが分つた。

「千代ちやん!」

 春枝は胸に迫つて思わず妹の名を呼んだ。お千代はその声を聞きつけると、怖えたような眼つきで病院の窓を見上げた。そして間もなく、時ならぬこの騒ぎに往来が一ぱい人出で埋つた中を、三つの棺は遺族のしめやかな足なみに歩調を合せて、静々と焼場へ向つて行つた。

 やがて警察署の裏手から、どつと悲壮な鬨の声があがつて、天地にどよめく××歌が鯨波のように起つて来た。

 

     (昭和三年六月「文藝戦線」)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/01/24

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山内 謙吾

ヤマウチ ケンゴ
やまうち けんご 小説家 経歴不明。

掲載作は、1927(昭和3)年6月「文藝戦線」の初出。5年後の小林多喜二虐殺を予告し、国権と雇用の陰惨・酷薄を労働者家族の体臭とともに悲痛に告発し証言している。山本勝治とともに「文戦」派新人として活躍していたが、1932(昭和7)年の検束以後に文学を離れたか。

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