女性作家七人語
湘烟女史 中島俊子
湘烟女史は、必ずしも作家といふ分類にピッタリと納まる人ではないが、明治及びそれ以後の女性に就いて語るときには、政治であらうと、婦人運動であらうと、社会運動であらうと、文芸であらうと第一に出される大きな名だ。それだけ偉い女性だ、偉いといふ点では明治以後、下田歌子を除けたら、これ程偉い女性はゐなかつたらう。人真似もかういふ真似はいゝと思ふから、私も湘烟女史のお話から始める。
女史の伝記はいつか詳しく紹介してもいゝと考へてゐるが、此の号ではいづれ誰かゞ書かれるかとも思ふから伝記は避けて逸話といふ側面だけから話さう。
湘烟女史の本姓は岸田氏、俊子といふのが名だ。お父さんの藤兵衛といふ人は大して偉い人でもなかつたらしいが、お母さんの多可子が偉い女性で、俊子の才分は可成りお母さんの薫陶にもよつてゐる。俊子は小さい時から非常な秀才で、九つで京郡十五番組小学校の試験に応じて第一等特等生になり、十で京都第一俊秀生といふのに及第したので(こんな事は当時の新聞に度々見えてゐる)府知事は官費で中学校に入らせ(当時高等女学校などなかつたのだ)更に欧学校で英語を勉強させた。此の時から名声
十五で新設の女子師範学校に入つたが、間もなく余り勉強したので病気となり、一年程家で養生してゐた。ところが、昭憲皇后の
宮中奉仕が、足かけ三年、明治十四の秋十九の時辞退した自由の身に帰つた。表面の理由は病気といふのだが、然しこれは誰しも使ふ謙辞だからそればかりでもなからう(殊に辞退直後母と共に東海道の徒歩漫遊などをやつてゐるところを見ても普通の病気だつたとは思へない)。俊子の胸中、何か慨するところ憂ふるところがあつたかなかつたか、それは今日では、全然暗黒文字となつているので、わからないが、たゞ一篇の詩が、その辺の消息をいさゝか洩らしてゐる。「宮中新聞を読んで感有り」といふのだ。
宮中無一事 終日笑語頻 錦衣満殿女 窃窕麗於春 公宮宛仙境
杳々遠世塵 幸有日報在 世事棋局新 一読愁忽至 再読涙霑巾
廉士化為盗 富民変作貧 貧極還願死 臨死又思親 盛衰雖在命
誰能不酸辛 請看明治世 不譲堯舜仁 怪此堯舜政 未出堯舜民
詩の末二句を誦したのみでも、俊子の胸中に何があつたか、察しがつく。十四年冬土佐に遊んで、自由の志士坂崎
土佐は自由民権発祥の地だ、俊子の土佐行がたゞ病身を養ふためのみであつたか何うか、此の頃の交通不便な時代に、京都から高知まで、更に九州地方まで転地療養をしたなどゝは、常識では考へられない。恐らくは一種政治熱の洗礼をうけるための巡礼行であつたらう。明治十五年四月一日、俊子は、日本立憲政党の客員として、始めて演壇に立つて、覚醒せる「婦女ノ道」について雄弁を振つた。わづか一年だが、何といふ急変化ぞ、前の宮中女官が今度は女民権家として自由民権、男女同権、女性の自覚を高唱しやうといふのだ。この始めての演説の時の新聞記事によると、満場全く艶殺され、たゞ恍惚として俊子の雄弁に聞きほれ、俊子が壇を下つても酔へるが如く、夢みるが如くであつたといふ。
これ以後俊子は大阪を中心に諸方へ遊説した。さうして同志を起して女子教育の大学校を作り、女性の自覚と進歩を計ることを畢生の目的とした。景山英子の如きも、俊子の演説を聞いて奮起した一人だ。俊子の人気は素晴しいものであつたが、
俊子が旧立憲政党総理中島信行の継室となつたのは、明治十九年二十四の時といふ。中島については知る人が多いから略す、この頃、今の久萬吉氏がいくつ位であつたらうか。
俊子は詩が上手であつたし、和歌も相当うまかつたし、文章も達者なもの、『湘烟日記』でその見本に接することが出来る。小説としては『善悪の岐』(女学雑誌)『山間の名花』(都の花)の二篇発表されてゐるが、前者は、リットン卿の『ユージイン・アラム』を作り替へたものだ。
香雪女史 下田歌子
女性としての偉さの点で中島湘烟と対立出来るのは、香雪下田歌子だ。
歌子女史は八十近い高齢で健在だが、もう大体女史一生の事業は終つたと見てよからうから、歴史的人物として語らう。
歌子女史は従来英雄型女性の典型にされ、それだけに
歌子女史は元来逆境で鍛はれた人だけに性格上強い烈しいところがある。宮中奉仕の前には全く苦学の生涯といつてもよかつたらう。和歌文学に堪能といふ名が世に聞えて、初めて宮中に召されたころ、それが歌子女史として一番生々とした生活の時代だつた。宮中奉仕数年、退下して、下田猛雄氏と結婚した。然し夫が病気がちだつたから、普通の幸福な生活ではなかつた。夫の死後又宮中に仕へ、洋行して華族女学校を監督するといふ順序になる。女史のことが、よく彼これと新聞に出たのは、この再奉仕以後のことだ。
女史は昭憲皇后の御信任がとてもあつかつた、その為めか宮中での羽振りがもちろんよくて、
彼女が世間に考へられてゐたやうに、果して私行上淑徳を
女史一代の著作集を『香雪叢書』といふ。昭和七年から刊行されゐるが、その眼目だといふ『源氏物語講義』はまだ完成されてゐないらしい。(もう完成されたといふ)。然し源氏物語講義よりも吾等にはその第一巻の日記の方が面白い。そこには所々に彼女の社会的関心、労働女性への同情、労資問題の憂慮が見えてゐるからだ。例へば明治二十九年の日記(浦づたひ)の八月三日の条に福井の羽二重織場を視察したところに、——
この工女等が業を執る時間を問へば一日十六時間賃銀を問へば多きも一ヶ月僅かに六七円少なきは四円にも至らずとぞ泰西各国に在りては諸職工等の諸料甚だ高価なるにもかゝはらず彼の
とある。その三十二年の日記、信越紀行、須坂の条を見ると、彼女は工女等の境遇に同情し、慨然として救済の志をさへ起してゐる、「工女等道に立ち並みて手合せつゝをがみ頭は垂れてかしこまり居たるさま言ひがひ無き我を頼もしきものにして、己れを水火の中より救はれやせんと思ふらん。さるを若し我が志ならずして中空になりもてはてたらんにはこのあはれなる姉妹にむくべき面こそ無けれ」云々。
歌子の名は、彼の作歌技能の優秀をほめて昭憲皇后のつけて賜はつたものといふ。宮廷歌人としては、又和文家としては、相当認められて然るべきだらう。たゞ作家的技能に至つては(作品がないので)論外だが然し偉大な女性として、代表的な一典型なので、湘烟女史と対照的に語つて置く。
曙女史 木村榮子
女性作家といふ点からせば、先駆的な一人は、曙女史木村榮子だ。
曙女史は浅草広小路の有名な牛肉店いろは(木村荘平)の娘だつた。画家の木村荘八氏等と兄弟にならうかと思ふ。いろはは牛肉の本場神戸から移つて来たので、曙女史の榮子も、神戸で生れたのだ(粟本鋤雲の落胤だといふ話がある、話としては面白い。)子供の時から賢い子であつたが、女の子の癖に外遊びが好きで、山や海岸で、男の子達と一緒になつて遊んだので、ずいぶん活発なものだつた。東京へ来てから、三田の南海小学に入学し、十四で卒業すると東京高等女学校に入つた。美人ではあり、学問は出来(英仏二国語に通じ、音楽手芸なども人並以上によくした)、態度も活発だし、言葉も爽やかだつたので、人気者の一人だつたらしい。明治十七八年頃から婦人の洋装が大流行を極めたが、榮子は率先して洋装党になつた、だが、当時の舶来品崇拝とは反対に、その洋装には国産品を用ゐたので、教師も同窓も感心したといふ。榮子は更に我が国の織物や縫取物など女子一般の手芸品に改良を加へて、これを輸出品として盛に外国に出さうといふ志を起した。一つはこれが女子にふさはしい国益を計る道であり、一つは女子の家庭内職として恰好のものだからだといふのだ。ところで丁度女学校も卒業といふことになつたので、榮子は先生の丸橋光子等と計り、先づ実地修業且つ下見分として外国に留学する計画を立てた。然しかよわい少女の一人旅を、両親が許すわけではない。いろいろ言葉をつくして留めたので、一時延期といふことになつた。
洋行を思ひ切つた榮子は、まるで考へを入れかへたものゝやうに家業の手助けをし、急がしい客の出入り、店の帳簿の調べなどから、自身で前掛垂をして女中の代りまでしたといふ。(間もなく結婚)。
かうして我にもなく忙がしい日を送つてゐるうち、ある時ふとかう感じた、文学の中でも物語や小説を書綴ることが本来女子にふさわしい仕事なのだ、一つ文学をやらう、殊に明治文明の聖代に女文学者の一人もないのは遺憾至極だと、それで店の暇を盗んで小説一篇を作り、饗庭篁村の紹介で読売新聞に出した。これが曙女史の処女作「婦女の鑑」で、作つたのは明治二十一年、新聞には二十二年一月三日から二月二十八日迄連載され、十八の少女の作として一寸人を驚かしたものだ。
「婦女の鑑」以後、一年余りの間に、彼女の筆になつた作品はざつとかういふものだ。
「勇み肌」江戸新聞(二十二年五月)
「曙染梅新型」貴女の友(二十二年七月より)
「操くらべ」読売新聞(二十二年十月)
「わか松」読売新聞(二十三年一月)
その他まだあらうも知れない。そのうち「曙染」は脚本であつて小説ではない。
二十三年五月流行感冒にかゝり、それから何うも健康を
何分にも年が若いのであり、経験も文章も不十分だらけで、先づ纏つたものは「婦女の鑑」ぐらゐのものだ。これとて小説としては、今日からいへば、先駆的作品といふ以外に何れ程の意味もなからう。たゞ文学史的にいふとき、時代の理想を反映してゐる点で、又その中に自伝的要素を織り込んである点で、注意されるに足りる。
侯爵吉川義國の妹娘秀子(実は弟の一人娘なのだ)は外国留学の間際に自分の知らぬ恋敵(清といふ青年がひそかに秀子を思つてゐるので)から陥入られ、父の不興をかひ、家出する。姉の國子、友人コゼット、エヂスなどが秀子の味方となり、殊にかつて秀子の世話になつた春子が身売り同様にして金をつくり、秀子を外国に送る。秀子は苦学してケンブリッヂ大学女子部を優等で卒業する。彼女は在学中工夫し、婦人の手芸を盛大にして国家に貢献しようとし、米国に渡つて向上で実地練習をする、この間英国にゐても、米国にゐても日本女性の名誉を発揮するを忘れない。やがて彼女は、父侯爵の密命でそれとなく彼女を監護してゐた義兄とあひ、義兄に伴はれて帰朝する。さうして父の喜びと許諾を得て、手芸の工場を造り、貧民救済に当らうとする。これが『婦女の鑑』の大筋だ。全篇殆んど会話だらけで、趣向もまとまらず、何の為めに枝葉をのばすかわからぬところが多く、人物の描写もまるでなつてゐない。実に先駆的といふ取柄以外には、欠点だらけな稚拙極まる作物だが、此の時代の社会改良理想、実業万能主義を反映してゐる点で(明治の開明的女子教育の成果ともいひ得やうが)、記憶されるべきものだ。
若松しづ子(巖本かし子)
明治十六年のことだ。横浜山ノ手のフエリス女学校に英語の演習会があつた。これは語学の練習と娯楽をかねた催しで、教員や生徒は、或は朗読、或は対話、或は吟誦或は演説といふ風に、各々その得意とするところを来賓の前でやるのだ。来賓といつても単に父兄といふのではない、欧化万能思想の当時だから、当代の名士方がわざわざ招かれて来たものだ。プログラムも大方すんで、会も終り方になつたころ、二十前後と見える婦人が、質素な何の飾もない通常の服を着け、演壇に上つてシェークスピヤの詞曲を暗誦した。清んだ高らかな声で、語調もよく節に協ひ、目をとぢて聞いてゐると日本人が外国語を話してゐるやうではなく、英国人が自分の国の大詩人の詞を
この島田かし子が即ち、後の若松しづ子だつたのだ。しづ子には創作もあるが、その方は余り知られず『小公子』その他の翻訳家としてのみ有名だ。これは一つは彼女の語学的才能がずばぬけてすぐれてゐたので、主に創作同様に立派な翻訳文学を提供したからだ。
父は会津若松の藩士。彼女の生れたのが元治元年
米婦人の許で生長して米婦人の学校に入つたのだから、語学的天才なのももつともなわけだ。
だが彼女は結婚前から肺患だつたから、結婚後は全く半病人だつた。平生床につくことが多かつたので、退屈しのぎによく英詩英小説の類をよんだ。(勿論その前から英文学に深い造詣をもつてゐたことは、前記の通りだ)。その揚句、ふと病余のすさびといふつもりで『小公子』を訳して、女学雑誌に掲げたのだ。寝たまゝ訳文のことを考へ、考へがつくと起きてスラスラと原稿一回分を書き、終ると又ねるといつた塩梅だつた。これが原本六回分たまつたので、巖本氏が二十四年十月、試に出版して知己諸友にくばつて批評を乞ふたところ、その賞讃は大変なもので、この一篇で文名が定まつた。
彼女は文学的趣味が深かつたが、多年教師として教化的方面に没頭して来たゞけにその理想は家庭改良、社会の改良といふやうなことにあつて、何も意識的に文学で名を残すなどゝいふ考へはなかつたらしい。むしろ本来筆を執り始めたのも、この理想の実現に幾分でも貢献しようといふつもりからだつたらう。彼女が『小公子』以後方々の雑誌に載せた翻訳なり作品なりが数十篇に及んでゐるが、それ等には、いづれもいゝ意味で、この理想を具現させたいといふ心くばりが見えてゐる。だが彼女の異常な文学者的天分が、彼女自身の意識無意識の如何にかゝはらず、いつの間にか彼女の名を明治時代第一流の
彼女は巖本氏に嫁して三児を得た。だが巖本氏との間にはこれといふ
二十九年二月五日、明治女学校が焼亡した、彼女は此の時はもう重態であつたのだが、学校焼亡の打撃が致命傷となつたか、十日に急逝した。年三十三といふ。
彼女の死がいかに人々から惜まれたか、全く樋口一葉をのぞけば明治文学空前のものといつてもよかつた。その頃の女学雑誌には、数号にわたつて追悼詩歌や記事が出てゐるが、これは単に彼女の作家としての才能だけではなく、女性としての徳望の然らしめたところであらう。
一葉女史 樋口夏子
一葉については専門の研究書もある位で、今更偉い偉いとほめ直すまでもない。
一葉の全集を読んで見ると誰にでもわかることだと思ふのだが、恐ろしく急に大人になつて行くのが眼につく。大人になつた原因はもちろん女性としての自覚で、内外両面からウンと一時に苦労をなめさせられたからだ、外面的、即ち物質方面、生活方面の苦労のことは、今何もいはないことにするが、内面的の苦労について一寸言はう。内面的の苦労とは、小説道の師と頼んだ半井桃水との恋愛問題だ。
一葉は一面古い女のくせに恐ろしいまでに勝気なところがあり、桃水に対する感情なども、自分の敗北を意識したくないからか、恋でない恋でないといつてゐるが、そんなことはない、恋も恋、執拗な恋なのだ。この遂げられぬ恋の心が、一葉の芸術をどれだけ急速に進歩させたか知れない。一葉は死ぬまで桃水のことを内心あきらめきれずにゐたらしい。
此の恋愛問題を皆が不思議がつてゐる。桃水は何う
今日桃水を研究するなどゝいつたら、若い文学愛好家諸君のいゝ笑ひ物にされてしまふだらう。然し桃水の人物は、その小説からだけで判断されたら、何かひどく不公平なことのやうに思はれる。桃水は対州厳原の人、宗家の家臣で武士だ。朝鮮に近いだけに早くから海外に奇功をたてようといふ志を起し、度々朝鮮へも渡つた。だが事志と違つて功を成さず、却つて家族の衣食のために小説を書かなければならぬことになつた。いはゞ志士くづれだ。一葉のうけた印象を綜合していふと、不遇の美丈夫といふわけだ。それに、最初から一葉を尋常の女性として見ずに、異常に優遇してゐる。此の情が、身にしみたに違ひない。桃水は酒ものみ、女もかふ、品行が修まらぬので、一葉の周囲の人々が用心しろといふ、然しかういふ点が却つて一葉の心を桃水の方に引きつけ、あゝお気の毒なと思はせたであらう。殊に一葉も武家出の娘だ、不遇の武家に同情する、それだけでも恋は成り立ち得る。此の恋愛は、少しほり下げて考へると少しも不思議ではないのだ。
一葉を桃水から遠ざけたのは、恐らく競争者をもつて自任してゐた一女性の流言や中傷などもあつたらしい、日記に片鱗が見えてゐる。
私は一葉と桃水の恋愛には同情する。だが、これが円満に進行して、樋口夏子が半井夏子になつてゐたら、明治文学史上の一大問題だ。桃水は好家妻を得て、半生の幸福に酔ふことが出来たかも知れない。然し今日吾等の手に『一葉全集』が残されてゐたか何うか、疑問であらう。惨酷だが、一葉の失恋が吾等の文学的幸福となつてゐるのだ。
一葉が名を成してから、いろいろな男性と知り合つた。作家もあるし、書生もある、同情者も理解者もあるし、娘達もあつたらう(日記でわかる)。一番よく出入りしたのは「文学界」の連中、平田
一葉が和歌和文の師と仰いだ中島歌子は、水戸浪人林某の寡婦だが、これは準江戸子で、派手好きな素行の修まらぬ、世間人であつたといふ。一葉は世間的知識の豊富なところから、よくそのvirginityを疑はれるが、その世間的知識は一つは環境と、一つは此の世間人のお師匠様の話から綜合したところが大分あつたらうと思ふ。孤蝶氏もこの点はさう言つてゐる。
一葉は素直な女性ではない、明朗な女性でもない。少し激した、ひがんだ、つむじの曲つたところが見える人だ。こゝらにも遂げられぬ恋の余波が出てゐる。
稻舟女史 田澤錦子
才人美妙を社会的に葬る契機となった稻舟事件の主人公田澤錦子は、今日でいふと、悪い意味での文学少女の典型的存在だ。文学にあこがれて、美妙に接近し、その妻となり、家庭不和から家出して自殺した云々といふのが、いはゆる稻舟事件の概要だ。
だが今日では、稻舟の死は自殺でなく過失だといふことに定まつて来たらしいから、この点だけ美妙は罪が軽くなつたものといひ得やう。
然し別様の点で美妙の罪を重くする材料が出て来たらしい。それは、従来は稻舟の方から美妙の名声にあこがれて近づいて行つたとなつてゐるが、何うもいろいろな材料から調べてみると、美妙の方が、その名声を利用してあどけない程若い稻舟を seduce したものらしい。稲舟事件の世間に現れたのは明治二十八九年のことだが、美妙と稻舟との関係は二十四年頃からあつたのだ。二十四年といへば、稲舟がまた女学校の生徒時代だらう。我楽多文庫に出た「情詩人」といふ美妙の小説をよむと、いかにも才人くさいにやけ小説家が、女学生やその他幾人かの女性にやいやいいはれてヤニ下つてゐるところがあるが、あれは美妙の空想の所産ではなくて、恐らく人気者美妙の実験を写したものだつ
たのだらう、さうして稲舟の件も、恐らくさういふ美妙の数々の女性征服のうちの one caseに当るものだつただらう。
稻舟の創作には——
「萩の花妻操の一本」 (二十七年)
「清少納言名誉
「医 学 修 業」 (二十八年)
「し ろ ば ら」 (同)
「峰 の 残 月」 (二十九年)
「小 町 湯」 (同)
「残怨日高夜嵐」 (同)
「五 大 堂」 (同)
「月にうたふざんげのひとふし」(同)
等もあるが、初めの方のは美妙の手伝があるとかいふ。然し「しろばら」その他、当時の若い女性の作としては、一寸有望と思はせるものがある。一応は読み返されて可い作家かも知れない。
花圃女史 田邊(三宅)龍子
本当をいへば、新しい女性作家の開山、つまり女性作家の「春のやおぼろ」は、花圃女史なのだ。
女史が明治二十一年に小説『藪の鴬』をもつて文壇に出たのが、丁度春のやの『当世書生気質』に相当する。然かも創作の動機が『書生気質』をよんで動いたもので、春のやの閲を乞ひ、その世話で金港堂から出たといふのだから、何から何まで縁が深い。
花圃女史が一葉と併称されるのは、中島歌子の同門だつたからで、実は花圃の方が先輩になる。
一葉の小説に入つたのが、金の必要からであるやうに、花圃もさうだつた。この点では曙女史や若松しづ子などゝは違ふ。花圃は名家の出で、父蓮舟(太一)氏は幕末名士の一人だが、蓮舟は時勢に対する不平から茶屋酒に日を暮して家計が傾いてゐた、それを助けようといふので小説に深入りするやうになつたのだ、といふ。処女作の『藪の鴬』も、矢張りさうで、これは兄君の一周忌をする必要から急いで認められたものであるといふ。花圃女史自ら語つていふ、この原稿料三十三円二十銭云々。一枚イクラといふのであつたらう。
花圃は一葉と違ひ、語学が出来たので翻訳もやつた。文芸倶樂部の第二回閨秀小説号に出た「蛇物語」などがそれだ。もつと外にもあらう。だが彼女は小説家になりきつてしまふつもりはなく、書くときは狂気のやうに書いても、書いたものは二度読み直さぬといふ程文章には熱心でなかつた。それでいつとはなく家庭婦人となつてしまつたが、然し『藪の鴬』は、処女作としては、案外老練なところがある纏つた作だ。作者は東京高等女学校に学んだので、よく女学生の生活などを描いてある、いはゞ『当世女性気質』といふべきものだ。「社会の利益」、「健全な家庭」、「労働神聖」、「華族万能思想の打破」などゝいふ理想主義は、やはり女子教育の進歩による時代への目醒めを語るものであらう。明治女流文学史では花圃の名はもつと重きをなさなくてはならぬ。
花圃女史の偉いのは、一代の哲人三宅雪嶺を夫として選んだことだ。女史は才色双美、おまけに田邊家は名家と来てゐるから、貰ひ手も望み手も随分沢山あつたらうが、その数多いハイカラ紳士、ブルジョア子弟の中から
語るべき人、語らなくてはならぬ女性もまだまだある、小金井きみ子、北田薄氷、田村とし子、長谷川しぐれ、平塚明子など沢山あるが、何うも種々な故障で書けない。中で北田薄氷だけは是非書かうと思つたが紙数がなくなつたのでやめた。他の人々についても種々伝聞はあるが、女性を語るに(歴史的存在になつてゐれば格別)あまりな無遠慮も何うかと思はれるから、一応やめて置くことにした。紫琴女史の古在豐子夫人の如きも是非語らるべき人だつたらう。大塚楠緒子については、本誌十一月号〔物故文人独談議参照〕で語つたことがあるので、今度はわざと省いたが、まだ彼女の話はつきない。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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