最初へ

最上徳内

     

 

 昭和五年(1930)二月中の一夜、東京文理科大学附属図書館で『燈下雑記』と題する随筆を借りて見て、その中に最上徳内の『天然訓』と題する漢文の小著の収録せられてゐるのを知つた。それは『歴史地理』の二月号に島谷良吉氏の「最上徳内原籍地考」と題する一文が発表せられたのを読んで間のない頃だつた。『天然訓』の内容は「鮟鱇訓」「蝙蝠訓」「蜜蜂訓」「石豆訓」「漂流訓」「河豚訓」「饑饉訓」の七篇より成る。例を卑近に假りて道を説き、感想を述べて居り、教訓書といふよりも(むし)ろ随筆に近いものであるが、それも一時の筆のすさみらしく、文は決して巧みとは称し難い。しかし徳内にかやうな著述があり、その中には徳内その人の伝記を補ふべき資料も多少見えてゐるのが、私には珍しく思はれた。

 同書は今少し調べて見た上で、何かに紹介して見てもよいと思ひながら、他事に追はれて日を経てゐる内に、私は徳内に就いての一層大きな資料に逢著した。静嘉堂文庫に藏する会田安明自筆の随筆『自在漫録』の第二冊に、「最上徳内常矩(もがみとくないつねのり)が事」と題して、安明自身に徳内の伝を書いてゐる一章のあるのを発見したのである。安明は本多利明に学んだ有名な数学家であり、徳内とは同門でもあり、かたがた二人は熟知の間だつた。そして文化四年(1807)徳内五十三、安明六十一の歳にこの記は成されたのだつた。それには徳内が十回近くも蝦夷地に渡つた事実が記され、徳内の人物性行もまたその間に的確に叙されてゐる。尤もその中にも多少の誤謬(ごびゆう)のあることが後になつて知られたが、とにかくこの記は、徳内その人を知る上に、第一の資料とすべきであらうと考へられる。しかも自筆本のまゝ伝へられて来た『自在漫録』は、従来の徳内研究家の何人(なんぴと)の目にも触れなかつたらしいのである。

 これまで徳内のことを記したものには、明治四十四年(1911)十二月発行の『地学雑誌』第二百七十六号が「長久保、古川、最上、近藤四氏贈位記念号」として編輯せられてゐる中に、神保小虎博士の講演の筆記「最上徳内近藤重藏両氏に就て」といふものが載つて居り、同号には小林房太郎氏が執筆せられたかと思はれる「最上徳内近藤重蔵両氏の事蹟追記」の一文も附載してある。単行本には楯岡の人加藤隆瑞氏が少年読物として(あらは)した『最上徳内』の一書があり、間々(まゝ)参考に資すべき記載がある。

 なほ最近には、呉秀三博士の大著『シーボルト先生』の内に、シーボルトと交際のあつた人の一人として徳内の伝が十三頁に(わた)つて記されてゐるが、これには蝦夷関係の史実に精通せらるゝ河野常吉氏も補筆せられて居り、従来の徳内伝中最も調査が行き届いた、最も(くわ)しいものとなつてゐる。その外に徳内に関する事実の散見してゐるものは、『北海道史』その他極めて多い。しかしそれらの(いづ)れにも安明の書いた徳内伝は引用せられてゐない。私は『自在漫録』の「最上徳内常矩が事」の全文を発表の上、それを基として、徳内の事蹟を改めて根本的に研究して行つて見たくなつた。

 

     

 

「予(安明)が旧友最上徳内常矩は初めの名は(かう)元吉(げんきち)常矩と云ふ。出羽国村山郡最上館岡(もがみたておか)村の生れなり。館岡村は(いにしへ)最上出羽守義光の老臣館岡甲斐守の古城地にて、村高七千石にて在町なれども、新庄、秋田、津軽辺の往還筋にて繁昌の所なり。此所(このところ)多葉粉(たばこ)の名物にて切割多葉粉多くこれあり、他方へ売り出すところなり。故に徳内も幼弱の頃は多葉粉を切り割ることを以て家業とせり。生れ付異人(ゐじん)にて、(たゞ)書を読むことを好み、殊に天文算術を好み、其家業の内にもかたはらに算書を置きて、其術を考へ是を楽しみとす。人々と俗談もせず、(つね)人の応対もはきとせずして、友の交りも厚からずと云ふ。

 其後東都へ出て永井右仲(うちふ)正峯と云ふ算学者の門人と成れり。永井氏は本田(ママ)三郎右衛門利明の門弟にして、関流の算学師なり。もとより徳内は器用なる生れなれば、間もなく其師正峯よりも上手の算者とはなれり。

 或時永井と高との両士ふと思ひ立ちて、日本国中算術の執行(しゆぎやう)せんことを発す。殊に一千社に算の題額を奉納せんことを(ねが)ふ。故に江戸出立(しゆつたつ)の初めに、芝愛宕山の山門に一面の算額を奉納す。此時の名は高元吉常矩と書す。それより品川の駅に到りしに、永井正峯なるもの俄かに病み付きて大いに苦めり。故に徳内もいかんともすること(あた)はず。ひと先づ帰宅し療養せんと、正峯を駕籠に乗せて早々湯島の永井の宅へ戻り、重ねて全快の節を待ちて出立せんと、しばらく見合せ居たり。

 其頃蝦夷地(えぞち)見分の儀有之(これあり)御普請役(ごふしんやく)山口鉄五郎高品、庵原(いはら)弥六宣方、皆川沖右衛門秀道、佐藤源(玄)六郎行信、青島俊藏_起(のりおき)(または政教)の五人上命を(かうむ)彼地(かのち)に到る。時に彼地は北陰の辺地にして常人の行き難き島々多きゆゑ、豪傑の気象のものを選んで召連れんことを欲す。故に其人(そのひと)をえらぶ。時に徳内其事を伝へ聞き、兼ねて彼地へ渡らんことを(ねが)ふことなれば大きに悦び、青島俊藏が小者(こもの)と成りて蝦夷地へ渡りぬ。是は天明五年(1785)巳春(ししゆん)のことにて徳内が初度の渡海なり。是よりして最上徳内常矩と云ふ。

 此夏徳内は蝦夷地東の(かた)クナシリ島、ヱトロフ島、ウルーフ島の島々へ渡りしなり。其後度々渡海して、今文化四丁卯年(1807)まで八度の渡海なり。此時青島俊藏が下役(したやく)大石逸平と云ふ者カラフト島へ渡り、山丹国(さんたんこく)のピヤンユと云ふ者に逢うて、山丹国及び満洲のことなどを聞き(たゞ)しせしなり。此時庵原弥六は蝦夷地ソウヤに於て病死せり。其他別状なく翌年帰府せり。

 時に御上(おかみ)には御代替(おだいがは)りにして、時の執政田沼主殿頭意次(とのものかみ・おきつぐ)御勘定奉行松本伊豆守(秀持)退役ありしゆゑ、蝦夷地御用は流れになりしなり。故に彼地へ渡海して大きに骨折りし事どもも皆水の泡とはなれり。殊に青島俊藏は元松本伊豆守の家来にて平賀源内と云ふ儒者の弟子なり。故に勢ひを失して屈居せり。こゝに於て予(会田安明)最上徳内を引請けて世話せん事を欲して、青島氏が坂元の宅を(とぶ)らひ、引合せ終りて徳内がことを尋ねしかば徳内は早くも時の様子を見切り、ひそかに奥州へ下りしなり。

 其秘かに奥へ下りし仔細(しさい)を後に聞けば、是二度目の渡海にして、松前へ渡り、秘かに縁を求めてヲロシヤ国へ渉海せんとの心懸(こゝろがけ)なり。其訳(そのわけ)いかんとなれば、先にヱトロフ島へ渡りし時、ヲロシヤの人シメヲン・トロヘイと云ふ者に秘かに彼国の御朱印(パスポートか通行証か)と云ひつべきものを二枚もらひ請けたり。是を所持する時は、ヲロシヤ国の支配の国々へ到れば心の赴く(かた)へ行くこと甚だ易しとなり。故に徳内は秘かにヲロシヤの帝都に到り、彼国の地理を巡覧し、其後(かの)帝都の出張会所の紅毛人を頼み、又紅毛の人に交りてヱイロウハ洲を巡覧し、それよりリモア洲、アジア洲の国々島々を悉く巡覧して、後に長崎の港に帰帆(きはん)せんとの下心なりと云ふ。徳内が大胆豪傑なる気質は此等を以て考へ知るべし。

 然るに松前城下に他国の人の長滞留(ながたいりう)は禁制なる故か、或は松前にて彼を憎む仔細ある故か、滞留叶はずして一先づ津軽へ立戻れり。是より南部野辺地(のへぢ)船問屋(ふなどんや)(むこ)と成りて暫く産業を営み居たり。こゝにて一人の娘を設け、後に妻子ともに東都へ引取りしなり。

 時に東蝦夷地クナシリ島にて騒動あり。是はクナシリ島の乙名役(おとなやく)ツキノヒ・ウテクンと云ふ者兄弟大きに島中を騒せしことなりと云ふ。其騒動のことにつき再び上命を蒙りて、青島俊藏なる者蝦夷地へ(おもむ)けり。此時最上徳内は兼ねて南部に住居することを知るゆゑに、再び彼を案内者として渡海せり。是徳内が三度目の渡海なり。

 此時の御用、何か間違ひの筋ありしにや、青島俊藏は帰府の(のち)(あが)り屋へ()り、其翌日徳内は入牢(じゆろう)せしなり。是徳内が大難なり。

 最上徳内が入牢せし時の始末のこと、御普請役安藤三治郎と云ふ者予が方へ(とぶら)(きた)り物語して、(その)大丈夫なることを感心せしなり。()の安藤氏は青島の同役なるゆゑに其日の役にさゝれて差添人(さしぞへにん)となり、徳内を奉行所へ同道せしなり。時に御腰掛に暫く待ちて奉行の下城(げじやう)を待ち居たり。(はや)昼時にもなりしゆゑ昼飯を使ひしに、徳内も平気にて常の如く食事し、云ひて曰く、御下城は八ツ(すぎ)なるべければ、暫く間もあるべし。我等は御免を蒙りて一寝入り致さんとて、それよりゆうゆうと高鼾をかきて寝入りしとなり。其後奉行も下城ありて白洲も始まり、徳内を呼出せしかば、即ち安藤氏徳内を呼び起し白洲(しらす)へ出でしかば、段々御吟味の上入牢仰せつけられしなり。其吟味の度々(どゞ)徳内が答の様子常の心気(しんき)にて、入牢仰せ渡されても、畏れ奉ると答へしまで色をも変ぜず。少しも驚きたる気色もなく、実に大丈夫の心がけなるを安藤氏予に語りしなり。

 (この)入牢せし(みぎり)()のヲロシヤ国の御朱印は紙入(かみいれ)に入れ置きしまゝ、安藤氏が取計らひにして青島が外の家来へ相渡せしとなり。其後其預りし家来は何方(いづかた)へ行きしや相知らずして、(つひ)に彼の御朱印は紛失せしとなり。是徳内が出牢の後、予が(かた)へ訪ひ来りて物語せし趣なり。其後青島氏は揚り屋内にて病死せり。徳内も牢内にて病ひ甚だ危かりし時に、天の恵みありて不思議にも徳内が助命のこと出で来れり。蝦夷土人介抱(交易をいふ)のことは松前の制法にて、町人請(ちやうにんうけ)なれば、私欲のこと多くして土人難渋する趣相聞え、御上(おかみ)にて御試みなされ候ことに相成り、それにつき蝦夷地案内なるものは最上徳内にまさる者なし。故に先づ彼を出牢仰せつけられたり。此時徳内は遠国生れの者にて外に縁なき者なれば、本田(ママ)三郎右衛門師弟の縁あるにつき、即ち引受けて彼が病気を療養して、全快することを得たり。

 其後青島氏が一件一裁相済み、最上徳内は御普請役下役(したやく)に召出されたり。時に蝦夷地御用につき御普請役田辺安藏、大塚唯市郎外一人、同下役最上徳内の四人(めい)(かうむ)る。尤も最上徳内頭取(とうどり)たるべき旨仰せ渡さる。是徳内が四度目の渡海なり。此時徳内はカラフト島へ渉海をせしなり。

 其翌年又々渡海仰せつけられ、此時御普請役仰せつけられ、五度目の渉海なり。此時はクナシリ島、ヱトロフ島、ウルーフ島へ渉海せしなり。

 其後寛政十一己未年(1799)、蝦夷地新開のこと仰せ出され、松前志摩守(道広)は東蝦夷地の分召上られ、別に御金三千五百両づつ年々下されしなり。此時御書院番頭(ばんかしら)松平信濃守(忠明)、御勘定奉行石川左近将監(忠房)、其外大勢彼地へ渡海せしなり。此時最上徳内は(その)手先として渡海せり。是六度目の渉海なり。

 此御用中松平信濃守の取計らひ方、開業の御趣意に相応ぜざることもありしにや、御目付方(おめつけがた)にて内許(ないきよ)もありしよし。最上徳内は蝦夷地案内の随一なれば存寄(ぞんじよ)りもあるべきことなりとの内許ありしなり。殊に徳内は生れつきて大丈夫の気性ゆゑ、御上(おかみ)の御為にならざる筋は(こら)へ兼ねし気質ゆゑか、信濃守と大きに取りあひ、すでに帰府の(のち)存寄書(ぞんじよりしよ)を捧げたり。是徳内が大難渋の二つなり。松平信濃守は持高五千石、当時の重役なり。其下役を勤め高二拾俵三人扶持(ぶち)の小身にて、千に一つも勝つべき理あることなし。是則ち当時の権道なり、故に徳内は此度(こたび)限りと決定(けつぢやう)して待ち居たりしとなり。然るに徳内が存寄(ぞんじより)の趣宜しきこともありしにや、蝦夷掛(ゑぞがゝり)御免仰せつけられしばかりにて、別に身分のことには別条なし。此御用中、最上徳内は蝦夷地の道造方掛(みちつくりかたかゝり)なり。是までは別に道筋もなく、只舟にて通行し、或は海浜の砂場を通るばかりなり。然るに今度新規に山を開き谷を埋め、時の宜しきに随ひ往還の道筋を開き、程よき所に旅宿の小屋も出来(しゆつたい)せしとのことなり。其御用中最上徳内より御用筋の儀伺書(うかゞひしよ)差遣(さしつかは)せしとのことなり。然るに信濃守其伺書披見もせず、遥かに程経て封のまゝにて返せしとなり。此事につき徳内大いに憤りて云はく、私共儀は場所掛(ばしよかゝり)にて、遠方より御用の儀を伺ひ、或は注進いたし候。然るを御披見も無く返さるゝ、如何思召(いかゞおぼしめし)候や。万一異賊など襲来し、急変のことありて注進状など差上げ候こともあらば、御披見もこれなく手延(てのび)相成り候て事相済(ことあひす)み申すまじきなりと云ひしとなり。此一事は殊に信濃守も当惑せしとなり。それより徳内は蝦夷地御用を離たれ、(ほか)御用筋いろいろ勤めしなり。或は御林伐り出し、又は諸国浦々俵物(たはらもの)御用相勤め、或は西国へ行き或は奥羽へ行き、其後松平信濃守も蝦夷掛御免ありて駿府御定番(ごぢやうばん)となり、其後病死せり。

 其後文化三丙寅年(1806)西蝦夷地見分(けんぶん)の上命を蒙り、御目付遠山金四郎景晋(かげみち)、吟味役村垣左大夫(定行)の両人、彼地へ渡海ありしなり。此時最上徳内御両人の案内を一人(いちにん)にて勤めしなり。是七度目の渡海なり。

 此御用相済み帰府の後、最上徳内は御普請役元締(もとじめ)格に仰せつけられ、高八十俵三人扶持、勤金十両の株とはなれり。而して又出羽奥州の浦々御用にて在勤せり。時今卯年(1807)三月松前若狭守(章広)は西蝦夷地も一円に召上げられ、新規に高九千石の地を下されしなり。それにつき蝦夷地掛の役人多く出来(しゆつたい)し、最上徳内も調役(しらべやく)に立身し、高百俵三人扶持、勤金二十両の分限(ぶげん)となり、支配勘定の上席となり、又々蝦夷地に渡海せり。是八度目の渡海なり」

 

 以上が(会田)安明の「最上徳内常矩が事」の全文である。以下私は順序を追つて、徳内の一生を考究して行くこととする。

 

     

 

 徳内は、はじめ(かう)元吉常矩(げんきちつねのり)といつた、と右の安明の記中にある。数学家永井正峰と、算術の修行に出でようとした時、愛宕山の山門にその名の額を納めたといふから、一時さう名乗つてゐたのであらう。但し苗字の高は、高宮を修したのであつた。通称は元吉よりも前に房吉といつた。しかし天明五年青島俊藏の従者となつて蝦夷地へ渡つた時には、既に徳内と称してゐた。当時の公文書にも「竿取(さをとり)徳内」とあり、俊藏自身もまた『蝦夷拾遺』の附言に「(やつこ)徳内」と書いてゐる。なほ一時俊治ともいつてゐたらしいことが島谷氏の「最上徳内原籍地考」に見えてゐるが、それは天明の末年から寛政元年(1789)へかけて、野辺地に在住してゐた時の仮称であらうかと思はれる。(あざな)は子員、号は鴬谷、また甑山、また白虹斎といつたといふが、徳内自身は多くの場合徳内の通称を用ひてをり、鴬谷、甑山などの号を自ら書してゐるのを、私はまだ見てゐない。徳内の通称は、後に改めて億内ともいつた。

 徳内の素性については、寛政二年(1790)入牢の際の吟味書に、「羽州村山郡楯岡村百姓間兵衛(せがれ)」とせられてゐるが、加藤氏の徳内伝附載の系図には高宮甚兵衛の第二子となつてをり、八九歳の頃本家高宮間兵衛方に子守に遣られてゐたことが本文の中に見えてゐる。島谷氏の「原籍地考」に拠れば、徳内は後にその妹聟となつた島谷清吉の父の従兄弟に当り、徳内の実父は徳兵衛とある。そして徳内は立身の手段として楯岡の農高宮の子となつたのであらうと、同氏は推定せられてゐる。これらの点に就いては、なほ同地方の人々の調査を煩したいものがある。しかし島谷氏が徳内の楯岡の生れといふを頭から否定せられてゐるのはいかゞであらうか。会田安明はやはり徳内を楯岡村出生としてゐるのである。徳内が、友人の安明までに、生誕の地を偽つてゐたとは信じ難い。徳内の出生地は、他に有力なる証拠の挙らない限り、なほ出羽国楯岡とすべきではあるまいか。尤も入牢を許された時の判決文には「奥州野辺地村徳内」とあるが、この時には家が野辺地にあり、妻子も同所にあつたから、かやうに記されてゐるのであらう。それを以て野辺地出生の証左とはなし難い。

 徳内の生年についても、宝暦四年(1754)と五年(1755)との両説があり、四年出生ならば、歿した天保七年(1836)には八十三歳、五年ならば八十二歳となるのであるが、私は五年出生が正しいかと思つてゐる。直接徳内を識つてゐた岡本況斎も、徳内の享年を八十二としてゐるのである。本稿ではすべてその方に拠ることとする。

 

     

 

 徳内が少時煙草の生業に従事してゐたといふことは、安明の所記と所説とが一致する。加藤氏に拠れば、徳内の父甚兵衛は、農業の片手間に煙草屋を渡世してゐたのだといふ。安明の記には、(つと)に天文算術を好んだとしてあるが、前に引いた吟味書には、「幼年より医業を心掛(こゝろがけ)」とある。加藤氏の徳内伝には、谷地村の津軽屋に奉公の(かたは)ら庸斎といふ医者に学んだことが見えてゐるから、多少医学にも興味を持ち、世に出づる方便としても、医者にならうと思つてゐたのかと思はれる。

 呉博士の徳内伝には、徳内は十六歳から、二十余歳まで右津軽屋にあり、二十六の歳に父を失ひ、翌年一周忌を済まして江戸へ出たとある。徳内を宝暦五年(1755)の出生とすれば、安永九年(1780)に父が歿し、その翌天明元年(1781)に江戸に(きた)つたことになり、右に引いた吟味書に、「去る丑年(天明元年)御当地え出、本石町(ほんこくちやう)好身(よしみ)之方(のかた)罷在(まかりあり)云々(うんぬん)とあるのと一致する。徳内の寄寓した本石町のよしみといふは、どういふ関係の人だつたか分らない。

 吟味書にはその後にすぐ続いて、「音羽町一丁目家持(いへもち)三郎右衛門弟子に(なり)、算術天学修行いたし罷在候処(まかりありさふらふところ)」としてあるが、徳内の本多利明に入門したのはなほ後で、医を志した徳内は、幕府の医官山田立長の家僕となつて医術を学んだと加藤氏はせられ、呉博士もまたそれに拠つてゐられる。

 官医の山田には二家あつて、一は立長を代々の通称とした。徳内の就いたのは、その第三代で天明元年に六十八歳にして歿した敬之、号保庵になるわけである。但し徳内自身は、その『天然訓』の「河豚訓」の中で、「吾少而師事圖南先生学医」(我若くして図南先生に師事し医を学ぶ)云々といひ、その条に註記して、「山田宗俊、号圖南(となん)、著傷寒論集成十巻、権量撥乱一篇、傷寒考一篇」としてゐる。

 山田図南は名を正珍(まさたま)といふ。立長とは別になる今一つの山田家である。この人は少年にして秀才の名を馳せた菅麟嶼の孫になる。『皇国名医伝』に麟嶼(りんしよ)の子としてあるのは誤である。天明七年(1787)、年三十九にして父に先立つて歿した。徳内には僅かに六歳の長上であつた。その著『傷寒論集成』はその後寛政元年(1789)に上梓(じやうし)せられ、同五年(1793)に幕府に献上せられてゐる。図南と徳内との交渉については私は外に知るところがないが、とにかく徳内自身図南に学んだと記してゐる以上はそれが正しくて、立長に就いたといふ旧説は、多分山田が混同して伝へられたのではあるまいかと考へられる。そして立長の紹介によつて本多利明の門に入つたといふのも(あやまり)とすべきである。徳内が数学を湯島にゐた永井右仲正峰に学んだとは、安明の記に拠つて初めて知るところである。永井正峰は、未だその名前の聞えてゐない人であるが、本多利明門であつたといふから、安明とは同門だつたのである。利明は延享元年(1744)に生れて、徳内よりは十一歳の長上だつた。正峰の年齢は、多分利明と徳内との間にあつたであらうか。

 徳内の数学は、間もなくその師正峰の上に出でたといふ。徳内は更に正峰を通じて利明の門に入つたのであらう。全国周遊が、正峰の病のために見合された時、蝦夷地検分の議が起つて、徳内は随行することとなつたといへば、周遊の企てられたのは、天明四年(1784)中のことであつたらしい。

 

     

 

 徳内の蝦夷地巡検随行の事情を、安明は書き洩してゐるが、それは本多利明の代理として赴いたのだといふ。そのことは寛政三年(1791)十月の利明の上申書中に、「(さいはひ)前以(まへもつて)知る人にて御普請役青島俊蔵と申仁(まうすじん)右御用(がゝり)被仰付(おほせつけられ)候に(つき)、私儀も如何様之(いかやうの)御奉公筋にても彼地え罷越度旨(まかりこしたきむね)相頼候所、竿取足軽に召抱(めしかゝへ)可呉(くれべく)談申之(これを談じまうす)に(つき)取極(とりきめ)申候、然処(さるところ)私儀折節病気罷在候に付き、徳内と申者私門弟にて手前に差置申候間、私代(わたくしかはり)に蝦夷土地え差遣申候」云々とあるのによつて立證せられるのである。なほ右に拠つて、徳内が当時利明の家に寄寓してゐたらしいことも知られる。徳内は、検地の間竿(けんざを)を持つ竿取の名義で雇はれたのである。

 但し利明は、天明八年(1788)正月の奥書(おくがき)のある『赤蝦夷風説考』といふ書のはじめには、同じくその時のことを書いて、「こゝに於て余竊(ひそ)かに思案し、何とぞ御国恩の難有さを思ひ、(ひそ)かに謂はれを設け、其筋の者に便(頼)りこれを謂ひ、漸くに成りて、余末弟最上徳内といふ無縁人を彼地(かのち)瀬踏(せぶみ)(つかは)したり。いはゆる蝦夷地先陣なり。此者(このもの)天文算数は未熟たりといへども、(かの)土地風気異ることを検査の一助にもなれかしと思ふの微意なれば」云々といつてをり、天明八年正月に成つた『天明六年丙午蝦夷地見聞記』といふ書にも、殆ど同一の記載をしてゐる。なほ外にも、寛政三年(1791)正月の奥書のある利明の著『蝦夷土地開発愚存之大概』には、かねがね露西亜(ロシア)南侵の状況を探索してゐたことよりして、「聞けば聞く程、種々の不審なる事数多(あまた)ありて、国家の大事にも(かゝ)はらんやと、末弟最上徳内といふ者と(ひそか)(はか)つて、天明五六両年の内蝦夷(うちえぞ)土地検見(けみ)御用ありし時、先陣役に(つかは)しけり」といつてゐる。それ等の(いづ)れにも、利明自身病気してゐたために、徳内を以て代らせたとはしてゐない。或は病気云々は口実に過ぎず、徳内をして渡海せしむることは最初からの計画ではなかつたらうかとも思はれて来るのである。

 (ちな)みにいふ、右の『赤蝦夷風説考』は、巻頭に「最上徳内常矩著、本田三郎右衛門利明訂」としてあるが、本文は徳内の談話によつて利明が書いたものらしい。仙台藩の医工藤平助の同名の著とは内容が別である。『蝦夷土地開発愚存之大意』は、末尾に「北夷」「本田利明」の二印を捺した利明の自筆本らしいものが、史料編纂所に所藏する向山誠齋の『誠齋雑記』中に合綴(がふてつ)せられてゐる。

 (はか)らずも工藤平助の『赤蝦夷風説考』にいひ及んだ(ついで)に、天明五年(1785)の蝦夷地検分はこの書が動因をなしたことを一言しておきたい。

 平助の『風説考』は天明の初年に成つた。その意見の大要は、露国南進の対応策として蝦夷地を開発し、これと交易を行ふべしといふにある。当時としては実に破天荒の議論であつた。その説に動かされた勘定奉行松本伊豆守秀持は、一方配下の勘定組頭(くみがしら)土山宗次郎孝之をして意見書を出さしめ、『風説考』と合せて、天明四年(1784)の六月に老中田沼主殿頭意次(とのものかみ おきつぐ)にまで提出した。幕議の結果は、翌五年山口高品(たかたゞ)庵原宣方(いはらのりかた)、皆川秀道、佐藤行信、青島_(のりおき)五有司の蝦夷地派遣となるに至つた。そして有司派遣の目的は、蝦夷地の産業と露国に対する国防との調査にあつたのである。

 松本秀持に意見書を出した土山宗次郎は、天明三年(1783)に平秩東作(へづつとうさく)を内密に蝦夷地へ遣つて産業を調査せしめてゐることなどもあり、当時蝦夷通として知られてゐたのである。東作の蝦夷行に就いては、一二の新たに知つた資料によつて、私は今別に一文を起草してゐる。

 

     

 

 かくして青島俊藏の従者となつた徳内は、天明五年(1785)二月に江戸を発して、翌月松前に到つた。これが徳内の第一回の渡海であつた。時に年三十一である。

 こゝに今一つ考究して置くべきは、天明五年以前に於ける徳内渡海の有無である。従来の徳内伝の多くは、その郷里に在住中、煙草の行商人となつて松前に渡つたことを描いてゐる。しかしそれは奥羽にあつて、行商して各地に到つたといふ前提から生れた一の想像説に過ぎないのではあるまいか。後に徳内が私人として松前に到つたことをも渡海の回数の内に加えてゐる安明は、天明五年を第一回として、それ以前にさやうの事実のあつたことを認めない。本多利明もまたそのことは書いてゐない。徳内自身の『蝦夷草紙』にも、それらしい記載は見えない。外に確證の挙らない以上、行商として渡海したといふ旧説は否定すべきではあるまいかと思はれる。

 徳内は蝦夷に赴く途中、天明三四両年の饑饉に餓死した者の(かばね)の累々たるを見た。『天然訓』の中の「饑饉訓」には、「天明四辰年、南部津軽大饑饉、其民食人棄子、余明年経南部道津軽適松前、見途中饑死体骨積為塚者、不知何幾箇乎、此時列行者両三輩、皆聞餓死之説、無不流涕者」(天明四年辰の歳は南部津軽大飢饉にて、民は人を喰らひ子を棄つ。余、明年南部道津軽を経て松前にゆくに、途中、餓えて死せる体骨の積んで塚とせるを見る幾ばくかを知らず。この時行をともにせる両三人、みな餓死のことを聞きて流涕せざるは無し)云々といふ記載があるのである。

 

     

 

 同年四月二十九日、蝦夷地巡検使の一行は皆川だけを松前に止め、余は東西の二班に分れて踏査の途に上つた。徳内は、山口、青島と東蝦夷地に向ひ、釧路(クシロ)厚岸(アッケシ)霧多布(キリタップ)を経、八月中には海を越えで国後(クナシリ)島までに到つたが、既に時期を失して、風波のために前進することを得ず、同島に数日滞留の上で引返した。そして厚岸に下役大石逸平一人を残し、他は皆松前に帰つて越年した。

 庵原(いはら)、佐藤の一手は、西蝦夷地を検分して六月には宗谷(ソウヤ)まで到つた。庵原は樺太(カラフト)にも渡り、白主(シラヌシ)に上陸し、東岸は約三十里、西岸は約六十里ほど検分し、それより引返して宗谷に越年したのであるが、(はか)らずも霧気に当てられて、翌年三月十六日に、不幸にも同地に病歿する。佐藤は八月二十三日に宗谷を立ち、東北の海岸を隈なく検分して東蝦夷地に到り、十月八日に厚岸に着いたが、その時には、山口、青島等はすでに松前へ引上げた後で、大石逸平一人がそこにゐたのと会して、ついで松前に帰つた。大石は佐藤の命を受けて、厚岸より更に標別(シベツ)に赴いて、千島在留の露人について探索するところがあつて、(おく)れて松前に帰着した。

 翌六年(1786)正月二十日、最上徳内は先陣役となり、雪中に松前を発足して、再び東蝦夷地に向つた。七月七日厚岸着、十日に乙名(オトナ)(酋長)イコトイの手船に乗つて同所を出帆、二十日に国後島のイショヤに着き、そこに小屋をかけて野宿したが、翌朝海上に流氷が漂ひ来つて通船の便を失つたために、滞留の止むなきに至つた。その時徳内は、土地のアイノ等が氷から氷に飛び移つて、海鹿(あしか)水豹(あざらし)等を生捕る様を見て、その敏捷な動作に感嘆した。

 流氷の日を追うて融くるを待ち、徳内は二十七日にイショヤを発して、同島の南岸を舟航して東へ向ひ、四月十八日択捉(ヱトロフ)島に着き、ついで西岸を巡つて北行、五月四日朝六ツ(午前六時)に同島の内保(ナイボ)村に着き、翌朝同所を立つて、八ツ(午後二時)にシャルシャムに到つた。同島へは、宝暦六年(1756)に豆州浦賀の漁船が漂着してから三十年間、日本人の到つたことがない。それで村々からは女共まで浜辺へ出て徳内を珍しがつた。

 択捉島では徳内は、難船してこの島に到つたと称する露西亜人イシュヨ外二名を引見し、陽にこれを厚遇して、露國南侵の状況を探知した。ついでイシュヨ等を伴つて国後(クナシリ)に引返し、(トマリ)運上屋(うんじやうや)に右の露人を託した上、更に択捉(ヱトロフ)島に来り、七月の末までゐて、西岸、北岸、東岸を巡廻した。時には雲霧のために友船を見失ひ、辛うじて岩間に舟を着けて上陸し、食物もない巌窟に心細い一夜を明したことなどもあつた。

 進んで徳内は、得撫(ウルップ)以北の島々から、柬察加(カムチャツカ)の奥まで探検しようとし、最後の訣別までもして得撫(ウルップ)島に渡り、モシリヤに着船して、その北端までを極めた。これを邦人の同島に到つた嚆矢(かうし)とする。但しその時はすでに秋も更けてゐたために、以北の踏査は断念せざるを得なかつた。止むなく国後(クナシリ)に取つて返し、再びイシュヨ等と生活を共にして露語を学んで、更にその国情を探るところがあつた。八月初旬、徳内はイシュヨ等に帰国を命じて、択捉島へ帰させた。彼等は号泣して離別を悲しんだ。

 八月中旬には徳内は本島に帰つて根室(ネムロ)にあり、十七十八の両日には、西別(ニシベツ)川に鮭の網を打つたりした。天明五六両年の探検を、安明が一年に書いてゐるのは(あやまり)である。

 徳内の露人イシュヨとの応接のことは、前に挙げた本多利明の著『天明六年丙午蝦夷地見聞記』に最も精しいが、こゝには省略に従つた。

 

     

 

 なほ天明六年の踏査には、山口は竿取一人、小者二人と、正月二十六日に松前を出発して徳内の跡を追ひ、青島は更に後れて四月十日御用船五社丸に乗り組んで松前を出発し、五月択捉(ヱトロフ)島に山口等と出会して、同島を検分の上で帰途につき、八月三日には本島の厚岸(アッケシ)に着いた。それより山口は五社丸に乗つて、二十一日に松前に帰着した。青島は陸路を取つて、九月十日頃松前に戻つたらしい。皆川は病気のためになほまた後れて、六月二十八日に松前を出て、竿取一人、小者二人と共に東蝦夷地に向ひ、七月二十三日に厚岸に着き、同所に山口、書島等と会し、交易取調のために、後まで同所に留つた。

 一方大石逸平は、三月十二日に松前を発して西蝦夷地に向ひ、四月十八日に宗谷(ソウヤ)に着き、五月三日蝦夷船に同乗して同所を発し、十日樺太(カラフト)白主(シラヌシ)に上陸し、進んで名寄(ナヨロ)まで到り、同所より取つて返して七月七日に宗谷に帰つた。時に宗谷には、大石の後詰(ごづめ)として松前を立つた里見平三(ほか)小者二人が六月二十三日に到つて居り、諸事打合せの上、大石は更に七月十九日宗谷を立つて舟路東蝦夷地を迂回し、八月十一日に厚岸に着き、直ちに御用船五社丸に乗つて、山口等と共に松前に帰つた。

 大石逸平は、徳内と並んで天明五六年度第一回蝦夷地探検の殊功者であつた。徳内は逸平を以前から識つてゐたらしく、『蝦夷草紙』には、「無縁人大石逸平といふ者、予が旧友にて」云々と書いてゐるが、この人は浪人であつたといふ以外にはその出所も、その後の履歴も更に知ることを得ない。

 以上天明五六年(1785~6)の蝦夷地踏査の行程は、写本『蝦夷地一件』所収の報告書と、徳内の著『蝦夷草紙』とに拠つたが、なほ後者には、徳内が従者としたブリウエンといふ若いアイノに片仮名を教へたのに対して、松前藩から蝦夷等に文字を授くるは古来よりの禁制だといはれて、非難を受けたことなどが見えてゐる。

 すべて蝦夷地を未開発のまゝに置かうとし、その内情の漏洩するのを恐れた松前藩が、幕府の蝦夷地踏査を悦ばなかつたのはいふまでもない。巡検使の一行には松前家からも吏員を附して、多少の拘束をも敢へてしたのである。アイノに文字を教へたりした徳内は、つひに同家から後々までも注意人物視せられることとなるのである。

『蝦夷草紙』には、なほ土地の緯度を測つたことが一箇所だけ見えてゐる。徳内はこの時すでに地図などをも作つたのである。秦檍丸(はだあはきまろ)の『蝦夷島奇観』には、得撫(ウルップ)島の条の中に、「往年最上徳内始て此島に渡り、地図を製す」とあり『邊警紀聞』には、特に徳内とはしてないが、「天明五年乙巳に、御普請役山口鉄五郎等、幕府の命を蒙りて蝦夷のことを偵探し、大いに地図を訂正す」と記してある。徳内の地図に就いては、なほ後にいはう。

 これより先佐藤玄六郎は、五年の冬に一旦帰府し、翌六年二月当路に意見書並びに略絵図を提出して、改めて指令を受くるところがあり、再び蝦夷地に向ひ、五月二十二日に松前に到着して踏査のことに従つた。

 

     

 

 蝦夷地に於て、山口以下の人々が盛んに活動してゐた九月八日に、江戸に於ては將軍家治が薨じた。それと前後して蝦夷地開発の主動者であつた老中田沼意次(おきつぐ)は失脚し、直接開発の実務に当つた勘定奉行松本秀持は(しりぞ)けられ、つひに蝦夷地の調査は中止せられた上、山口以下は帰府を命ぜられた。成行とはいひながら、事業を中途に抛棄して帰らねばならなかつた人々の遺憾は、察するに(あまり)がある。

 山口等は二年に亙つた調査の大要を纏めて、『蝦夷拾遺』四巻を著した。書名は新井白石の『蝦夷志』を修補するの意であらう。同書には天明六年(1786)十一月の山口、庵原、佐藤、皆川、青島の五人連名の序文がある。同書は山口以下の在蝦夷中に成り、十一月には一行はすべて帰府したのであらう。『蝦夷拾遺』には、なほ佐藤行信一人の同年十月の序文のあるものもあり、別に青島俊藏の天明八年(1888)六月に書いた附言並びに別巻の添うてゐるものもある。右附言に拠つても、同書は俊藏の執筆するところであつたらしいことが想像せられるが、文化五年(1808)にこの書を手写した会田安明は『自在漫録』の第五巻の中に、『蝦夷拾遺』と同別巻とは、共に青島俊蔵の作るところとしてゐる。とにかく『蝦夷拾遺』は俊藏の編述に成つたのである。

 なほ右の『蝦夷拾遺』の附言には、青島俊藏は徳内のことにもいひ及んで、「赤人(露人)の応対通詞なく、互に(きん)せり。始め夷言をば、彼も少しく聞覚えたれば、借りてもて問答す。(やつこ)徳内といふ者意気あり。少しく天文数学の事にもわたりたれば、赤人に近づき馴れて寝食を共にして、略稍(ほゞやゝ)通ぜることあり」云々といつてある。天明五六年の蝦夷巡検に徳内は殊功があり、一行中でも重んぜられてゐたことが、これに拠つても窺はれるのである。

『蝦夷拾遺』は青島等の帰府前に、蝦夷地に於ける踏査の余暇に撰述せられた。然るにこの書は、松本秀持の逼塞(ひつそく)のために、官に(あぐ)る機会すらも得ないでしまつた。十一月四日に、先に帰つた山口、佐藤の両人は、御用これなし、勝手に帰府致すべきやうに、と申渡された。皆川と青島とは事務の都合上、帰府が後れたのである。

 徳内も、山口、佐藤の両人にはやゝ後れて江戸に帰り、それと同時に()を解かれたのであらう。その後しばらくの間徳内は、俊藏の家の厄介になつてゐたらしい。会田安明が、徳内を引受けて世話をしようと思つて、下谷坂本二丁目の俊藏の家を訪うたのは、その年の末か、翌天明七(1787)年の始めの頃だつたかと思はれるが、その時には徳内は既に江戸にはゐなかつた。彼は単身奥羽に下り、再び蝦夷に渡つたのである。これが徳内の第二回の渡海であつた。

 

     

 

 この時の渡海のことは、呉博士の徳内伝にも記されてゐるが、安明の記によれば、徳内は択捉(ヱトロフ)島に於て識つたイシュヨから、露国の旅行券を貰ひ受けてゐたので、それに依つて密航して、遠く欧州まで到り、大いに成すところがあらうとしたのである。

 然も徳内は、松前家からは危険人物視せられてゐた為めに、城下に滞留することすらも許されなかつた。ついで意を得ずして津軽に戻つた。

 江戸時代に密航して海外に到らうとする。大胆不敵の所業たることいふまでもない。但しそれ以前よりわが民の漂民の露西亜に到つて優遇せられてゐる者の多かつたことは、本多利明も『蝦夷地開発愚存之大概』の中に書いてゐる。徳内の挙は無謀に似て無謀ではなかつたのである。然も天は徳内のさうした(くわだて)を実現せしめなかつた。

 ついで徳内は、野辺地(のへぢ)の廻船業者で、遠縁に当る島谷清吉の妹聟となつて一女を挙げた。妻はお秀といひ、子供はおふみといつたと、加藤氏の徳内伝に見えてゐる。但し加藤氏が徳内の結婚を安永七年その二十四歳のこととし、お秀は十九歳だつたとしてゐられるのは、何に拠られたのであらうか、心得難いものがある。島谷氏所引の島谷清吉の答申書に「私妹婿に仕り候間、三箇年住居仕り候間」云々とある。徳内は大体天明七年(1787)から寛政元年(1789)まで、野辺地に在つたことが推定せられるのである。

 野辺地在住の三年間は、徳内は産業を営んでゐたとばかり安明の記にあるが、寛政二年の吟味書には、「百姓喜七店を借り、算術指南いたし居り候処」云々とあり、なほ後にいふ木村、武石両人の『北行日録』には、薬を売つてゐたとしてある。医学を修めた徳内は、売薬の傍ら数学などを教へてゐたのであらう。

 

     十一

 

 寛政元年五月上旬の国後(クナシリ)騒乱のことは、安明の記載に誤謬があるが、北海道史に譲つてこゝには絮説しない。野辺地にあつて騒乱のことを知つた徳内は、その状況を逐一青島俊蔵方へ報告した。幕府は騒乱の真相探索のために、俊藏をして長崎俵物(たわらもの)御用の名を以て松前へ出張せしめ、小人目附(こびとめつけ)笠原五太夫を俵物行商人に装はせ、常磐屋(ときわや)五右衛門と称して同行せしめた。七月に俊藏等は、野辺地に到つて徳内と会し、徳内は蝦夷地案内として、五太夫に随つて同十五日松前に渡つた。これが徳内第三回の渡海であつた。時に年三十五歳である。

 俊藏と五太夫とは、松前を発して別々に東西蝦夷地を探査して、九月には両人共に松前に帰つた。この時の徳内の行動は、今詳(つまびら)かにすることを得ないが、寛政二年(1790)に成った徳内の『蝦夷草紙』の「唄の文句の事」の条に、「西蝦夷地のそうや辺にて土人の風俗を見るに」云々の記載がある。天明五六年の踏査には、徳内は東部方面に赴いて、西蝦夷地には到らなかつた。して見ると、寛政元年の渡海には、俊藏は東蝦夷地に向ひ、五太夫は徳内と共に、西蝦夷地を宗谷まで到つたのであらう。国後島騒乱の内情探索に西蝦夷地に赴くことは、やゝその理由の解し難いものがあるが、騒乱の背後には露人があるとの風説があつた。その方面の事情をも探るべき必要があつたのである。

 この際徳内は、終始五太夫と行を共にした。松前に於ても、俊藏とは別の旅宿にゐたことが後の吟味書によつて知られる。

 俊藏等はやがて帰府した。十一月三日には、俊藏、五太夫連名の報告書を久世丹後守広民まで提出した。その中には、九月中旬に夷人等四十余人が松前に到つたのを、俊藏は旅宿に招いて款待(くわんたい)して、それとなく事実を(たゞ)したことなどを述べ、「尤表向通辞のものも有之(これあり)応対(つかまつり)候得共(さふらへども)、領主方に斟酌遠慮の筋も有之(これあり)夷共(ゑびすども)難申聞(まうしきけがたしと)と存知候儀は、召連候(めしつれさふらふ)徳内と(まうす)もの箇成(かなり)に通辞も出来、俊藏儀も少々は夷方言相弁(あひわきま)罷在候(まかりありさふらふ)(つき)、内々様子実意とも奉存侯趣(ぞんじたてまつりさふらふおもむき)相分り申侯」といつてゐる。徳内の蝦夷語はすでに通訳が出来るほどになつて居り、この度の渡海には大いにそれが役立つたのである。

 

     十二

 

 徳内はその後野辺地へは帰らずに、下谷坂本の青島俊藏の(もと)に同居して年を越した。俊蔵は徳内よりも四歳の年上であつたが、まだ独身で、小者(こもの)を一人使つて暮してゐた。然るにその後に至つて、俊蔵は国後(クナシリ)の乱後の処分等について松前家に助言したことが発覚し、翌寛政二年(1790)正月二十日に久世丹後守宅へ呼出されて、一応吟味の上揚屋(あがりや)に入れられ、翌日には徳内もまた捕へられて、即日入牢の身となつた。その時徳内の悪びれなかつた態度が、安明の記に拠つて見るが如くに知られるのを、私等は大きなよろこびとする。

 徳内も一通り訊問を受けたが、寛政元年の渡海には、徳内は俊蔵とは行動を別にしてゐたのであるし、且つ徳内と松前家とは天明五年の渡海以来感情の融和しないものがあり、藩政に助言するなどといふ事実のあるべき筈がなかつた。それらの点も明かになつた上に、なほ安明の記にある如く、獄中に病んだことなどもあつたからであらう、徳内一人は、まだ事件の判決前に、一時その師本多利明に託せられた。その時の五月朔日(ついたち)口達書(くたつしよ)はつぎの如くである。

此間御沙汰有之候(このかんごさたこれありさふらふ)一件に(つき)、蝦夷地御普請役見習(ごふしんやくみならひ)青島俊蔵方に居候徳内儀、音羽町一丁目家持(いへもち)三郎右衛門は元徳内に算術師範いたし候ものの趣相聞候間(あひきこえさふらふあひだ)呼出(よびいだし)引請願候哉之段(ひきうけねがひさふらふやのだん)相尋(あひたづね)候処、吟味中預け候はゞ一件相済候上にて身分の世話もいたし遣度(やりたく)依之何卒(これよりなにとぞ)預り申度旨相願(まうしたきむねあひねがひ)、書付差出候に付、徳内出牢申付、三郎右衛門え預置申候事」

 利明の音羽の家に移つて、徳内の病気は間もなく平癒したらしい。そして徳内は利明の(もと)にあつて、『蝦夷草紙』三巻を著した。この著は一箇月にして成つたらしく、同年六月十五日には、徳内は自らそれに序してゐる。

 本多利明は七月十二日附を以て、水戸の立原翠軒に前年中に、起草するところ蝦夷地開発に関する意見書を贈つた。翠軒はその意見書に、「本多氏策論」と題名し、始めにその時の利明の手簡をも附して、内密に一部の人人にも示した。その(うつし)が今日にも伝へられてゐるのであるが、利明の手簡の中には徳内のことも記されてゐて、当時の様子の窺はれるものがある。手簡の最初には「口演、本田三郎右衛門」とある。以下の文面は左の如くである。

 

「久々御容体も相窺不申上候。先以残暑の節被成御揃、弥以御機嫌好可被成御座と珍重御儀に奉存候。旧冬は被為掛御心頭御書被成下、早速四方之進殿より相届難有奉拝見候。其後早速御請仕筈之処、最上徳内儀、久世丹後守様御掛りにて御糺之筋有之、彼御役所え度々罷出申候。右一件に付萬事差控罷在候。然処今以不相済候に付、為相慎私方に差置申侯。然共何之別条無御座様子と相聞候。乍去公儀之儀に御座候得ば難計御座候。蝦夷国開業之大意相認差置候間、乍恐御約束に付奉入貴覧候。実に不学短才之妄説、奉入貴覧候も甚以恐入奉存候得共差上申候。不行届所は御慈愛思召を以御作略被成御校正被成下候上、可相成儀に御座候はゞ、宰相様(水戸藩主徳川治保(はるもり))御前御沙汰に相成候様仕度心願に御座候。尤此表白川君(松平定信)えは取次を以極内々に此通り之書奉入貴覧候。且此外に徳内が著述之蝦夷草紙と外題仕候小冊子三巻、絵入にて此度出來仕候得共、校訂未終候。相濟候はゞ且又可奉入貴覧候。猶期後便之時候。恐惶謹言。七月十二日、本田三郎右衛門、立原甚五郎様。

 猶々徳内一件相済候はゞ、奇説共御大切之筋共可奉申上候。以上」

 (久々御容体も相ひ窺ひ申上げず候。先づ以て残暑の節御揃ひなされ、いよいよ以て御機嫌好く御座なさるべしと珍重の御儀に存じ奉り候。旧冬は御心頭に掛けさせられ御書下しなされ、早速四方之進(よものしん)殿より相届き有り難く拝見し奉り候。

 其後早速御請けつかまつる筈の処、最上徳内儀、久世丹後守様御掛りにて御糺しの筋これ有り、かの御役所え度々罷かり出で申候。右一件に付き萬事差控へまかり在り候。然る処今以て相済まず候に付き、相慎ませ私方に差置き申侯。然れども何之別条御座なき様子と相聞え候。さりながら公儀之儀に御座候へば計り難う御座候。

 蝦夷国開業之大意相したため差置き候間、恐れながら御約束に付き貴覧に入れ奉り候。実に不学短才之妄説、貴覧に入れ奉り候も甚だ以て恐れ入り存じ奉り候得共、差上げ申し候。不行届きの所は御慈愛思し召しを以て御作略(ごさりやく)成され御校正下し成され候上、相ひ成る可き儀に御座候はゞ、宰相様(水戸藩主徳川治保(はるもり))御前御沙汰に相成候様つかまつり度き心願に御座候。尤も此表(このひやう)、白川君(松平定信)えは取次を以て極く内々に此通りの書貴覧に入れ奉り候。且つ此のほかに徳内が著述の『蝦夷草紙』と外題仕まつり候小冊子三巻、絵入にて此度出来(しゆつたい)つかまつり候へども、校訂未終(いまだおへず)候。相済み候はゞ且又貴覧に入れ奉るべく候。猶ほ後便の時を期し候。恐惶謹言。七月十二日、本田三郎右衛門、立原甚五郎様。

 猶々徳内一件相済み候はゞ、奇説とも御大切之筋ども申し上げ奉つるべく候。以上」

 

 北方問題にも常々注意を払つてゐた翠軒は、本多利明とも交際があつたのである。徳内ともまた相識つてゐたか否かは到然しないが、面識はなしとするも、徳内の名も翠軒の耳に熟してゐたのである。利明は右の書中に徳内の『蝦夷草紙』三巻が絵入りで出来たといつてゐる。『蝦夷草紙』は写本が相当に多く伝へられてゐるが、私はまだ絵のあるものを知らない。利明はまた同書の校訂のまだ済まぬことをいつてゐる。 徳内の『蝦夷草紙』に利明の加筆の跡の多いことは、既に『地学雑誌』の「最上徳内近藤重藏事蹟追記」の中にも記されてゐるが、そのことは右書簡によつても明かにせられる。翌三年の正月に利明は同書に序し、なほ十月には「蝦夷国風俗人情之沙汰」の名を以て、その書を幕府に献じてゐる。

 徳内は『蝦夷草紙正篇』三巻についで附録二巻を著した。附録の成つたのは何年か、いづこにも明示せられてはゐないが、その内容に寛政三年以後の渡海のことを記載せず、樺太島のことなど、或は大石逸平であらうか、他の談話によつて書いてゐるのを見れば、正編と同じく、やはり寛政二年(1790)に著したのかと思はれる。

『蝦夷草紙』は今に刊行せらるゝ機会を持たずにゐる書物であるが、つぎつぎと写し伝へられて、徳内の著書中では尤も多くの人々に親しまれ(きた)つた。最近に私の見ることを得たその一本には、「寛政十年戊午年初夏、宮木主膳多龍」とした奥書があり、その中に徳内のことを記して、極めて荒唐無稽の説を成してゐるのがをかしい。常人の企及し難い事功を立てた徳内は、その生前からかなり英雄視せられてゐたらしくも考へられる。さやうに見る時、この奥書にも多少の価値なしとしない。(ついで)にその一節をこゝに掲げて置かうと思ふ。

「此作者徳内といへるは、其産(そのさん)最上(もがみ)にして、最上はその姓にあらず。医家に成長し、天学をよくす。是を以て壮年に随ひ、蛮国に往来して異事を見る。又往昔(おうせき)蝦夷人に対して、矢に塗る所の毒薬を()めて蛮人をして恐怖なさしむと、其外奇事(はなはだ)多し。()つて白河侯の(ちやう)に達し、縲紲(るゐせつ)の中に捕ふ。侯則ち召出して庭前石上の天の高さを計らしむ。徳内勘考して速やかに答ふ。侯又再度召して曰く、前日の積り相違せり。今一度せよと。是に因つて再度考へて、前日(かんがふ)る所六寸相違せる趣を達す。(これ)(ひそ)かに前日より石上を六寸高くなし置いて見せしむる所なるに、果して符合せり。是に因つて疑惑を解いて以て公聴に達し、御普請役に召出さるゝと云へり」

 

     十三

 

 徳内は、利明の家から呼出されて調(しらべ)を受けたのであるが、同年七月十三日に、久世丹後守は根岸肥前守鎮衛(しづもり)と連名で、老中松平越中守に吟味書を(たてまつ)り、越えて八月五日に事件の判決を下して、「其方儀(そのはうぎ)不埒(ふらち)の筋も無之候間(これなくさふらふあひだ)無構(かまひなし)」との申渡(まうしわたし)をした。これに依つて、徳内は始めて青天白日の身となつた。この時の吟味書は、徳内の事蹟を(かんが)ふべき資料として、実に大きな価値を有する。既にこれまで部分的にしばしば引用し(きた)つたのであるが、こゝに改めてその全文を掲載して置きたい。

 

「一、俊蔵彼地(かのち)召連(めしつれ)参り候徳内儀、志摩守家来に内通等いたし候義可有之哉(これあるべきや)呼出(よびいだし)入牢申付、再応吟味仕候処(つかまつりさふらふところ)、羽州村山郡楯岡村百姓間兵衛(せがれに)候処、幼年より医業を心掛(こゝろがけ)、去る丑年(うしのとし)御当地え(いで)本石町(ほんこくちやう)好身(よしみ)の方に罷在(まかりあり)、音羽町一丁目家持(いへもち)三郎右衛門弟子に(なり)、算術天学修行いたし罷在(まかりあり)候処、去る午年(うまのとし)俊藏蝦夷地御用に(つき)罷越候節(まかりこしさふらふせつ)竿取に被雇(やとはれ)、彼地えも立入、地理人気心懸(こゝろがけ)見届罷帰(みとゞけまかりかへる)、其後奥州北郡野辺地村(のへぢむら)罷越(まかりこし)、百姓喜七(たな)を借り、算術指南いたし居り候処、(さる)(とりの)五月中蝦夷地において騒動有之趣(これあるおもむき)追々及承候(うけたまはりおよびさふらふ)(つき)、早速注進いたし候はゞ身分の功にも可成(なるべし)と存じ、俊藏方え書状を(もつて)申越候処、同七月俊藏野辺地村え参り、俵物御用として松前表(まつまへおもて)罷越(まかりこし)、品に(より)蝦夷地えも立入候に付、先年案内存候儀故(ぞんじさふらふぎゆゑ)召連可参旨申聞(めしつれまゐるべきむねまうしきけ)(もと)より彼地の様子も猶又見届存度(ぞんじたく)致承知(しやうちいたし)候処、蝦夷地騒動の様子も隠密に見届候御用向(ごようむき)にて、町人体のものは御小十人目付(おこじふにんめつけ)笠原五太夫にて、姿を替参(かへまゐ)候趣(さふらふおもむき)俊藏(ひそか)申聞候間(まうしきけさふらふあひだ)、野辺地より五太夫に差添(さしそひ)、蝦夷地案内のため松前表え罷越(まかりこし)(おも)に五太夫と一所に罷在(まかりあり)、俊藏旅宿えは折々参り候儀は有之候得共(これありさふらへども)、閑談等不致候間、志摩守家来え俊藏申談(まうしだんじ)候儀は(かつ)不存(ぞんぜず)、先年俊藏に召添(めしそひ)蝦夷地え罷越候節(まかりこしさふらふせつ)所々島々え相廻り、アツケシと申所(まうすところ)の蝦夷人フリウエンと申ものに片仮名を教へ、才智有之(これある)ものにて早速に(おぼえ)、其外土地の開発(おしひらき)候儀を相考(あひかんがへ)、蝦夷人共え申教(まうしおしへ)候事を、志摩守役人共は如何(いかゞ)(ぞんじ)、此者を憎み候趣相聞(あひきこえ)候間、中々以(なかなかもつて)屋敷え立入候儀は勿論、一通りにては松前表へ罷越候儀も難成候得共(なりがたくさふらへども)、此度俊蔵御用に付差添(さしそへ)参り候儀(ゆゑ)気遣(きづかひ)有之間敷(これあるまじく)と存罷越候儀に(つき)、志摩守家来え内通等可相成儀(あひなるべきぎ)にも無御座(ござなく)候段申之(これをまうす)、不埒の筋相聞不申候間(あひきこえまうさずさふらふあひだ)、出牢の上前書算術の師匠三郎右衛門え預置申候。落著(らくちやく)節無構旨申渡候様仕候(かまひなきむねまうしわたしさふらふやうつかまつりさふらふ)

 

     十四

 

 青島俊蔵は、同(寛政)二年(1790)八月五日に遠島を(おほせ)渡されたが、島へは赴かぬ内に、その月十七日に獄中に於て病死した。年はまだ四十歳であつた。

 俊蔵に就いては、私は知るところに乏しいが、その著述に通貨のことを記した『光被録』といふもののあることを、故内田銀蔵博士の著『近世の日本』に拠つて知り、ついで遠藤萬川翁に問うて、草間直方の『三貨図彙』の附録に、その書の添うてゐることを教へられた。

『三貨図彙』巻八に、佐久間東川の『天壽随筆』が載せてあるが、そのまた『天壽随筆』の追記をなす部分が、すなはち右の『光被録』だつたのである。同書の内容は、新井白石の『寶貨事略』、並びに右『天壽随筆』の後を受けて、明和二年以降天明三年に至る十九年間に、海外へ流出した銅の額、並びに海外より輸入した金銀銭の概数を叙して、わが国の通貨のいかに多くが失はれつゝあるかを数字によつて明示して、世人に警告を発してゐる。文中「予いにしへ天明二寅(1782)の秋より崎陽に在役して」云々とあるのを見ると、俊蔵は蝦夷へ祇役(ぎえき)する前に長崎に赴いて居り、それでかやうの経済方面の著述もあつたのである。平賀源内の門人で、本多利明などとも(つと)に識つてゐた俊蔵は、実用の学に志したのであらう。しかも師の源内と同じく獄中に歿するに至つたのは、また数奇な運命に翻弄せられた気の毒な人といはざるを得ぬ。

 (ちな)みにいふ、俊藏の名は書物によって_(のりおき)とも政教(まさのり)とも記されてゐるが、『蝦夷拾遺』に政教とあるのを見れば、初め_起といひ、後に政教と改めたのであらうと思はれる。

 寛政二年(1790)の下獄は、徳内にとつて大きな災厄ではあつたが、しかしこの時の調べによつて、その蝦夷地に於ける功績は一層明かになり、なほその有用の材たることが、幕府の当路にも認められたのであらう。無罪の判決を得た八月に徳内は普請役下役(ふしんやくしたやく)に挙げられ、十二月には更に(普請役に)昇進した。禍が転じて福となつたのである。

 なほ(ついで)に一言するが、寛政元年に徳内と行動を共にした笠原五太夫にも『蝦夷筆記』といふ著書のあることが、豊田天功の『北島志』の引用書目中に挙つてゐる。そして多分天功の見た本であらう、彰考館の図書目録にもその書名は載つてゐる。徳内のことを考へる上にも、右『蝦夷筆記』は有力な資料であらうと思はれるが、遺憾にして私はまだそれを見ることを得ないでゐる。

 天明五六年(1785~6)、幕府第一回の蝦夷地踏査に従事した五人の有司の内、後に残つた山口、佐藤、皆川の三人のその後に就いても私は知るところがないが、文化四年三月に、山口鉄五郎支配の下野国(しもつけのくに)足利郡上川崎村百姓逸八の寡婦はつが、よく舅姑に仕へて孝養を尽し、一夜盗賊の押し入つたのに、姑をかばつて、賊を取つて押へたことが上聞に達して、「女の身にて健気(けなげ)な仕方」として賞賜(しやうし)せられた。『日本藝林叢書』第八巻に収むる山崎美成の異本『名家略伝』に「義婦はつ」とした記載があり、別に屋代弘賢がこのことを韻語に綴つた「烈婦假名略頌」といふものが、『一話一言』巻二十一に収めてある。このはつ女のことに就いては、なほ(いさゝ)か疑問の余地がないでもないが、弘賢の「假名略頌」はよいもので、はつ女の面影がいかにもよく描かれてゐる。志ある人々の一読を勧めよう。あまりに余事に亙ることになるが、筆の序に附記しておくのである。

 

     十五

 

 普請役に登庸せられた徳内は、年を越えた寛政三年(1791)の正月に同じく普請役の田辺安蔵、大塚唯一郎等と蝦夷地に到つた。これが第四回の渡海であつた。田沼の後を承けて老中の首座となつた松平越中守定信は、また蝦夷地に注意を払ひ、それよりしてこの度の調査が行はるゝこととなつたのである。徳内は時に三十七歳であつた。安明の記に、役目が普請役下役としてあるのは誤である。この時は徳内が頭取(とうどり)だつた。なほこの時徳内が樺太(カラフト)に渡つたとしてあるのも千島の誤である。

 徳内は小人目付(こびとめつけ)和田兵太夫と共に、正月二十四日に福山に着し、相携へて択捉(ヱトロフ)島に渡つてシャルシャムに到り、更に進んで得撫(ウルップ)島に渡り、十一月四日に福山に帰着し、ついでまた江戸に帰つた。この間徳内は厚岸(アッケシ)に神明社を祀つた。

 翌四年に、徳内は第五回の渡海をした。閏二月十日に福山に着いたとあるから、帰府後直ちにまた出発したのである。安明の記に、この時普請役に仰せつけられたといひ、国後、択捉、得撫諸島に渡つたとしてあるのは、三年と四年との記載を顛倒したのであらう。この時徳内は和田兵太夫、並びに西丸与力(にしのまるよりき)小林源之助と共に樺太に出張し、西海岸はクシュンナイ、東はトーブツまで赴いた。その間に交易のために到つた山靼(サンタン)人、露人を通じて、松前家の士人等の満州官人との交通その他について探知するところがあつた。なほ後に引く徳内の近藤重藏(あて)書簡に、徳内が石狩に秋味(あきあじ)(鮭)交易に従つた事実が見えてゐるが、それはこの時のことだつたのであらうと思はれる。

 木村、武石両人の『北行日録』には、この時の徳内の渡海の目的は、蝦夷地交易、並びに金山見立(きんざんみたて)の御用のためだつたとしてある。

 後安政元年(1854)に樺太を巡視した鈴木茶渓の『樺太日記』には、名寄(ナヨロ)乙名(オトナ)シトクランケの家に、「寛政四年(1792)壬子五月廿六日、最上徳内常矩、和田兵太夫典恒、小林源之助豊」の添書があり、後に「文化五年戊辰六月廿日、最上徳内常矩」としてある文書を見たことを述べてゐるが、同文書は元に名寄(ナヨロ)の伊熊氏に所蔵せられ、史料編纂所はその影写を作つてゐる。それに拠つて樺太アイノの清国(しんこく)との交通の事実が知り得られるのである。史料編纂所本伊熊氏文書のことは、蘆田伊人氏から示教を受けた。和田、小林両人の本名も、私はこれに拠つて初めて知ることを得たのである。

 更に近藤重藏の著『邊要分界圖考』に拠れば、徳内にはこの時の樺太検分の記があつて、重藏もそれを使用してをり、露西亜(ロシア)人イワノの所持してゐる柬察加(カムチャツカ)からオホツカ、サガレン、樺太(カラフト)の辺の地図を徳内が摸写したこと、徳内自身も同地を測量したことなどの事実が記されて居り、この稿を発表してから、斎藤伊七氏の好意によつて見ることを得た『山形新聞』に載する三澤綱藏氏の講演筆記「最上徳内先生の事蹟」にも、松浦武四郎の蔵書目録に最上徳内の『樺太探見記』といふものが見え、紀州徳川家の文庫の目録にもその書名は挙つてゐて、書物の不明になつてゐることが述べてある。この書はいづこかに伝へられてゐさうに思はれる。何とかして探し出すことは出来ぬものかと思はれる。

 なほこの時、徳内は宗谷から利尻島に渡り、北見富士の称のある利後山(りむしりやま)に登つたが、つひにその頂上を極めずして下山したことを、志賀理斎がその随筆『筆のまにまに』の中に書き、別に古賀(どう)庵もその著『今齋諧』巻一の中にそのことを書いてゐる。『筆のまにまに』には、古来この山の絶頂まで到つた者のなかつたのに、「徳内は強ひて登らんことを欲して、蝦夷人共を召連れて、五合目程は登りけれども、それより上は兀山(ハゲやま)にて、砂ばかりありて、登れば後へ後へとすべり落つるをも厭はずして、是非に登らんとせしかば、俄かに山鳴動して一天掻き曇り、雲中に光るものありて眼を射るが如く、しかのみならず砂石を降らし、なかなか登山することならず。皆皆おどろき、命を拾ひたる心地して下山せしとぞ」としてある。理斎が徳内を識つてゐたことは、なほ後に挙げる『筆のまにまに』の一節に見えてゐる。これも徳内から直接聞くところであつたらうか。

 しかるに『今齋諧』の記載は、山中に亀の屍体を見ることがあつて、大分怪異的である。(ついで)にその条の全文を載せて置くこととする。

 

「初茂上徳内之経略蝦夷地、舟行達利意巒尓示里島、見島上山轡秀出、上工J雲日、大喜、以鳥此烏居蝦曳極邊山峰高峻乃爾、荷得一上、則唐秋山丹皆鷹在目前、因而覧地形、察海道、開地之功、由此可成臭、裏糧將登、山下昂堅止之日、上此山者衆、往々鰯山露之怒、以致禍殊、子必勿往、徳内奮日,犬丈夫何畏乎山霊、途登,繍至山腰・陰霧大起、荘不辮胆尺、逐蹄、明日天色清明、酒復登達山腹、復以大霧、不得前而蹄、又明日天色盆清朗、徳内大喜日、今日必得酬吾志、酒復登、纏経山牟、大霧如前、進而不止、瞭而有同風至、臭不可忍、猫不肯退一見巌下有一大輻死、長丈許、已近、臭盆甚、撲人鼻口、使人嘔臓欲吐、徳内寛返、蓋向者所謂鯛山籔之怒以致禍者、皆此死覇使然也。名村章説L

「初めて最上徳内の蝦夷地を計略せしとき、舟行してリイジリ島に達し、島上、山巒の秀出して雲日の上にあるを見る。大いに喜び思へらく、この島は蝦夷の極辺にありて山峰これ高峻、ひとたび登りうれば、則ち唐狄山丹(とうてきさんたん)皆目前に在り、因つて地形を()、海道を察し、地を(ひら)くの功、これより成るべしと。糧をつつみ(まさ)に登らんとす。山下の民堅く止めて曰く、此の山に登る者はみな、往々山霊の怒りに触れ、禍殃にあふ。()必ず往くなかれと。

 徳内奮ひていへらく、大丈夫なんぞ山霊を畏れんやと。遂に登れども、僅かに山腰(さんえう)に至つて陰霧大いに起こり、茫として咫尺(しせき)を弁ぜず、遂に帰る。明くる日、天色清明、すなはちまた山腹に登達すれども、また大霧を以て前途を得ず帰る。又明日天色ますます清朗なれば徳内は大いに喜んで曰く、今日ぞ必ず我が志酬はるべしと。すなはちまた登山するにわづかに山半を経て大霧(さき)の如し。されど進んで止まず、驟雨と飆風とあり、さらに悪臭の堪え難く、しかも退かざるに、巌下に一大亀の死せるを見る。大なること一丈、近づけば臭気甚だしく、鼻口を()ち人をして嘔吐せしむ。徳内もつひに引き返せり。蓋し先にいへる、山霊の怒りに触れ禍ひを致す、皆此の死亀の然らしむるかと、名村章のしか()ふ。」 (編輯室意読)

 

     十六

 

 寛政四年(1792)九月、徳内等の樺太探検中に、露国の使節ラックスマンが、わが国の漂民光太夫(ほか)二名を乗せて根室(ネムロ)に到つて通商を請うたことがあり、翌五年に幕府からは目付石川左近將監(さこんしやうげん)忠房等が松前に赴いてこれを引見したが、これには徳内は関係しなかつた。

 八年(1796)には英国の探検船が、薪水を乞はむがために虻田(アブタ)に到つた。翌年、同船はまた絵靹(ヱトモ)に到つた。海外との交渉はますます多事に赴かうとする。この時幕府に於ては、松平定信はすでに退職して、戸田采女正氏教(うねめのしやううぢのり)が首座閣老となつてゐたが、同十年(1798)目付渡辺久藏(つゞく)使番(つかひばん)大河内善兵衛政寿壽(まさこと)、勘定吟味役三橋(みつはし)藤右衛門成方(なりみち)の三人を蝦夷地に出張せしめた。渡辺、大河内両人への三月十四日の申渡(まうしわたし)には、「蝦夷地え(もし)当秋も異国船(かゝり)候儀も難計候(はかりがたくさふらふ)(つき)、其節見届(みとゞけ)のため、兼而(かねて)松前表え御遣置(おつかはしおき)候間、可致用意候(ようゐいたすべくさふらふ)」とある。十七日の三橋への申渡も、ほゞ同文である。三使の派遣は、外国船警備のためだつた。一行百八十余名、前例を見ざる大規模の派遣である。勘定奉行石川左近将監忠房は、江戸にあつてその事に(あづか)つた。

 この時徳内は、また大河内政寿の配下となつて赴いた。すなはち第六回の渡海である。時に年四十四歳だつた。この際近藤重藏も初めて渡海する。重藏は時に二十八歳、徳内よりは十六歳の後輩になる。

 三使は四月朔日(ついたち)に江戸を立つたことになつてゐるが、『視聴草』第六集五に収むる三橋成方(みつはしなりみち)の「蝦夷紀行」に拠れば、成方は四月十五日に発足してゐる。徳内は更に後れて五月二十日に出発して六月十六日に松前に着し、同二十二日同地を立つて東蝦夷地を調査し、七月二十六日国後(クナシリ)に於て、これより先に江戸を出でた近藤重蔵と邂逅する。それより相携(あひたづさ)へて択捉(ヱトロフ)に渡り、丹根萌(タンネモイ)(とゞ)まること二日、同島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てた。それには、「寛政十年(1798)戊午七月」として、その下に近藤重藏、最上徳内、並に従者下野源助、以下十三名の名前を刻した。八月朔日、一行は船を発して国後島のアトイヤに帰り、二十五日には(トマリ)から舟航、本島の野付(ノツケ)に帰らうとして風浪のために妨げられて、一度(トマリ)に引返し、翌二十六日に野付に着き、西別、アンネベツ等を経て厚岸(アッケシ)に到つた。十月九日に同地に祠を建てた。なほこの行に徳内は、虻田、絵鞆のアイノに馬鈴薯を与へて、栽培法を教へた。

 以上の行程は、『地学雑誌』の四氏贈位記念号所載の、徳内がヒラウントマリから近藤重蔵に()てた「午七月二十三日附」の書簡と、重田定一氏が、その著『史話史説』の中の「木村謙」の一章に、謙の日記『酔古日札』によつて旅程を明かにせられてゐるのに拠つた。木村謙は即ち右の下野源助である。

 なほ右の『酔古日札』には、徳内のこともしばしば記されてゐる。「近藤、最上を信愛すること、七十子の孔子に於けるが如し()。近藤抗急の性、後復(のちにまた)必ず反目の交となること見る可し」などとある。重蔵に信服してゐなかつた謙は、重蔵と徳内が意気相投じたのに対し、()いては徳内にも好感をもつてゐなかつたやうである。そして、「近藤、最上を得て、手前下部(しもべ)迄も疑猜(ぎせん)する。最上が讒口(ざんこう)を信ずるなり」云々とも書いてゐる。国後アトイヤの遠見山に源義経の社を建てた時に、徳内が剣術の型をして見せたことなどもあつたらしい。謙は、「近藤帯甲(たいかう)、徳内剣術可笑(わらふべし)」などとも書いてゐる。とにかく徳内をよく見てゐなかつたのであるが、謙自身も相当に癖のある人物だつた。同人を熟知してゐた小宮山楓軒の如きも、その随筆『懐寶日札』の中に、謙のことを、「常に酒を使ひ、人を凌ぐ狂生」としてゐる。『酔古日札』の記載も、多少割引して見なければならない。

 木村謙に就いては、こゝには詳述してゐる(いとま)がないが、同人は徳内の師本多利明と交際のあつた立原翠軒の門人である。すでに寛政五年に翆軒の内意を受けて、武石温と共に蝦夷地の動静を探索に赴いて、『北行日録』を書いてゐる。その書は『地学雑誌』に引用せられてゐるが、その内にも松前辺の浮説をそのまゝ信じて、徳内のために交易請負の商人等の迷惑することなどをも書いてゐる。謙が徳内をよく見なかつたのは、それらの浮説が先入主となつてゐたからでもあらうかと思はれる。

 

     十七

 

 しかし何れにもせよ、重藏は徳内によつて北地の探検に大いに便益を得た。それだけ重藏が徳内を重んじてゐたのは事実であつた。そのことは、大谷木(おほやぎ)醇堂の『醇堂叢稿』第三十三冊にも、次の如くに記されてゐる。

「文化年中北地開拓の時に当り、鎮台始め諸有司多く彼地に派遣せらるゝ中に、箱館の四内と称するものあり。これは箱館奉行支配組頭(くみがしら)と云へる御役名にて、其名何れも、即ち最上徳内(註記、蝦夷草紙、もしほ草、度量衡説統の作者)、菊池惣内、児玉嘉内、鈴木甚内、以上四内なり。徳内尤も傑出し、近藤重藏も多くこの人に便(たよ)りて、北地の事情を探究せしと云ふ」

 なほその後の附記には、開発の御用を(つかさど)つた松平忠明、石川忠房、羽太正養、三橋成方その他がいづれも人材だつたこと、附属の小吏の内では村上島之允、間宮林藏などが職務に勉励したことを述べてゐる。徳内と共に函館の四内の称のあつたといふ菊池惣内以下の三人は、当時の記録にその名の散見してゐるのを見てゐるだけで、私はまだこの人々の事歴を(つまびら)かにしない。

 醇堂は右『醇堂叢稿』の第三十六冊にも、前文とほゞ同一のことを記し、徳内の手記によつて重藏が益を得たことを述べてゐる。徳内の手記といふは『蝦夷草紙』を指すのであらうか。寛政二年(1790)九月の奥書のある徳内自筆の『蝦夷草紙』を、重藏の子孫の姻戚になる永澤平三郎氏の所藏せらるゝことが『地学雑誌』に見えてゐる。

 なほ『地学雑誌』の四氏贈位記念号には、徳内が国後ヒラウントマリから重藏に充てた書簡、並びに帰途各地から重藏に寄せた書簡数通が掲載せられて居り、同年に於ける徳内の行動はかなり詳細に知り得らるゝ。安明は何故か、徳内のこの年の渡海のことを逸してゐる。

 その外にも、同年渡海した小人目付(こひとめつけ)田草川伝次郎の小者(こもの)喜助の談話を同年の暮に筆記した『蝦夷譚』と題する一書を、私は無窮会神習文庫の藏本に拠つて一読したが、その中にも徳内のことが数条見えてゐた。その一条に、「大河内様はじめ、土屋鉄四郎様、小沢弥三郎様、根津清右衛門様、その外大勢アツケシまで御出にて、それより先はまた来年御出で候筈に御座候て御帰りなされ候。近藤十藏様、最上徳内様、長島新太郎(新左衛門の誤)様などは御用向別段の様子にて、格別跡より御出にて、近藤様より最上様は四十日程後れて御出で候へども、近藤へも近づき見すべしと仰せられ候が、果して間もなく御一緒に相成候よし。この三人は当年蝦夷地に御越年のよし。さやうなければ幾年にも残らず見究め候時はあるべからず。まづ四月より九月限りの旅行にて、アツケシまで当年御出で候て、また松前へ御帰り候ては、また来年アツケシまで御出御帰りのやうに相成り候」とある。

 蝦夷地巡見も、上役人達はたゞ役目として赴くに過ぎず、実際の仕事は、下にある徳内等が大方してゐた様子がこの中にも見えるが、しかし徳内も重藏と共に、その年蝦夷に止つたやうにいつてあるのは誤である。重蔵等は絵鞆に越年したが、徳内は十一月十七日に江戸に帰り、ついで石川忠房、堀田正敦等に面謁して、種々献策に及んでゐるのである。その時の「御口気様子覚書」「極内密御慈悲之趣覚書」の二篇が『地学雑誌』に抄出せられてゐる。

『蝦夷譚』にはなほ、徳内が往年東蝦夷地のニシベツ河で鮭の網を引かせたことなどが見えてゐるが、それよりも面白いのは、特に徳内の人物について語つてゐる次の如き一条のあることである。

「最上徳内様は不思議の方にて御座候。南部の辺御出生のよし。蝦夷地食類など何にても(あが)り候故差支無之(さしつかへこれなく)土を煮て()べ候所もこれある由、是等をも御上(おんあが)り、また鯨の油を飯にかけ、さつさつと(あが)り、驚き入り候。蝦夷言葉御巧者(ごこうしや)にて、松前の人々も感心(つかまつ)り居り候」

 徳内は蝦夷語に達してゐたばかりか、蝦夷人等と生活を共にして、鯨の油をかけた飯などが平気で食べられるほど、先天的の探検家に出来てゐたのである。択捉(ヱトロフ)島に食べられる土のあることは、徳内自身『蝦夷草紙』の中に書いてゐる。天明三年(1783)に蝦夷に到つた平秩(へづつ)東作の『東遊記』にも確か見えてゐたやうに思ふ。

 蝦夷開発の功労者の一人として、大谷木醇堂は村上島之允(しまのじやう)を挙げてゐるが、島之允こと秦檍丸(はだあわきまろ)もまた寛政十年の蝦夷踏査には加つてゐたのである。但し北地に病むことなどがあつて、終始重蔵等とは行動を一にしなかつたらしい。前に引いた同年七月二十三日に、徳内が国後(クナシリ)のヒラウントマリから重藏に()てた手簡には、「村上島之丞殿御同道可申筈之処(まうすべきはずのところ)、未だ御全快にも無之(これなく)、脈證得と(さう)し候上、甘草(かんざう)瀉心湯(しやしんとう)六七帖進置(しんじおき)申候」といふ一節がある。そして同年帰府後堀田正敦と徳内との「極内密御慈悲之趣覚書」には、近藤重藏と長島新左衛門とが一致を欠いたことのつぎに、「島之丞と重藏とは如何に候哉(さふらふや)」との正敦の問があり、徳内は、「不和之様子は一向無之(これなく)、重蔵より指図(さしず)いたし、地図、産物等探索甚出精仕(しゆつしやうつかまつり)候」と答へて、檍丸(あわきまろ)の功をたゝへ、次にまた「新左衛門と島之丞は如何侯哉」の問には、「不和の様子相見不申(あひみえまうさず)候得共、胸中落合候儀には無御座候(ござなくさふらふ)」と答へてゐる。

 檍丸は、その翌十一年にも渡海し、松平忠明に従行して東蝦夷を探検し、色丹(シコタン)島にも渡つた。檍丸にもこの時の紀行のあることが、遠山景晋(かげみち)の『未曾有記』の序文に見えてゐるが、その書は伝へられてゐるかどうかを知らない。檍丸は、徳内よりは一層事蹟の知れてゐない人である。私はこの稿を書き終へてから、檍丸に就いても覚書を作る機会を持ちたいと思つてゐる。

 なほ寛政十一年(1799)の蝦夷地踏査中に於ける三橋成方(なりみち)の行動は、前に引いた『蝦夷紀行』によつて知られる。その外『寛政紀聞』にも三使に関する記載があるが、こゝにはそれらは省略に従ふこととする。

 

     十八

 

 寛政十一年正月、幕府が松前氏に代つて蝦夷地の東半部を直轄し、七年計画を以てその開発に当ることとなつた。書院番頭(ばんがしら)松平信濃守忠明、勘定奉行石川左近將監忠房、目附羽太庄左衛門正養(まさやす)、並びに大河内政寿、三橋成方の五名がその(かゝり)と定められ、右五人の有司に従ふ諸役人七十名がそれぞれ決定せられた。そして徳内もまたその内にあつた。

 右有司等の筆頭に松平忠明が選ばれたことに就いては、寛政十年(1798)十二月に堀田正敦から老中戸田采女正氏教(うねめのしやううぢのり)に差出した伺書(うかゞひしよ)にも、忠明の力量があつてかやうの御用に適してゐることを述べて、内意を尋ねたところ、同人も、「兼而(かねて)一通りの御奉公のみにて朽果(くちはて)候儀を甚歎きをり、如何様之儀にても抜群の御用相勤(あひつとめ)、粉骨を尽し申度(まうしたき)心願にて罷在候趣(まかりありさふらふおもむき)」を申した由を記してゐる。蝦夷地開発の総宰として抜擢せられた忠明は、また一廉(ひとかど)の人材だつたのである。忠明は時に三十四歳、まだ壮齢であつただけに、功名心にも燃えてゐたらうと思はれる。

 なほ五有司の中の羽太正養は、歌なども詠んだ人で、蝦夷の風俗を歌仙にした「蝦夷鯉鱗吟」などいふものもあり、なほ蝦夷に関しては『休明光記』などの有用の著述もある。石川忠房もまた文書の(たしな)みがあつて、宮崎成身輯の『視聴草』には、この人の和文の紀行などが収められてゐる。なほ三橋成烈(なりてる)(あらは)した『孝子萬吉伝』には、忠房の萬吉のことを書いた一文が附録に添うてゐるが、これは涙なしには読み得られぬものである。鈴鹿峠の孝子萬吉を初めて世に紹介したのは、実に忠房だつたのである。成烈の右の著は写本を以て伝へられ、やはり『視聴草』にも収められてゐるが、忠房と成烈との記を要約して書いたのに過ぎない刊本の『孝子萬吉伝』のみが広く行はれて、成烈の著を知る人の少いのが遺憾である。

 更に余談の余談に亙らうとするが、今好事家(こうずか)の間に愛玩せられてゐる『詩仙堂志』は三橋成烈の編むところであり、そしてその養子が藤右衛門成方(なりみち)となる。成方もまた文学があり、(さき)に挙げた『蝦夷紀行』にも、しばしば歌を詠じてゐるが、その外にも浪人柏崎三郎右衛門の談話したものを整理して『柏崎物語』三巻を編み、それに「天明七丁未年(1787)七月廿五日」の序文を添へてゐる。蝦夷に活躍した幕臣に人材の多かつたことは大谷木醇堂の述ぶる如くであるが、またその幕臣達には文字の素養のある人々が多かつたのである。

 十一年の春、松平忠明は親しく蝦夷地の視察に赴き、徳内は道路の(かゝり)となつて出張した。『徳川実紀』には、天明五年(1785)以降の蝦夷地踏査については記すところがないのであるが、この月二月二十八日の条に至つて始めて、「書院番松平信濃守忠明、使番(つかひばん)大河内政寿、勘定吟味役三橋藤右衛門成方、寄合村上三郎右衛門成福、西城小姓組遠山金四郎景晋、同書院番長坂忠長等、共に蝦夷地の事承りて(いとま)給ふ。賜物差(たまはりものしな)あり」と見えてゐる。

 忠明等が江戸を立つたのは、三月二十日であつた。徳内は二月中旬頃に立つたらしい。これが徳内第七回の渡海であつた。時に年四十五歳である。安明が第六回としてゐるのは誤である。なほ安明が、この時石川忠房の渡海したやうに書いてゐるのもまた誤である。忠房と羽太正養とは、江戸にあつて事に従つたのである。

 松平忠明は、四月二十九日に松前に着した。徳内等はそれより先に同地に着いてゐた。爾後(じご)徳内は大河内政寿に属し、シャマニに到つて新道開通のことに当つた。羽太正養の『休明光記』には同所のことを、「(そもそ)も此所にはチコシキル、トモチクシなどいふ所ありて、蝦夷第一の難所なり。或は縄を下げ(はしご)をかけて渡り、または巌の間をくゞり、或は浪の打寄る隙を見て飛越る所もあり。殆ど人跡を絶する程の難所なり」といひ、つひに幕府の力を以て蝦夷地第一の通路を得たと記してゐる。当事者の努力は容易ならぬものがあつたのである。

 然もその時徳内は、総宰の松平忠明と意見の相違を来し、開発に当ること僅々二旬にして職を去つて帰府した。徳内自身もその時のことを、『蝦夷草紙後篇』に次の如くに記してゐる。

「蝦夷地はこれまで道たる道路なし。御用地となり、新道切り開きのあるは、千歳以来の御徳政にて、誠に恐れ奉るべき御事なり。仙台領は景行天皇の御宇までは日高見の国といふ蝦夷地なり。道を開かせられて大国良民となりたり。御用地の蝦夷ども良民となるならば、実に日本にまた一つありといへり。十五箇年前より蝦夷地に肺肝を砕くこと七度に及び、一命覚悟したるも両三度ならざれども、大業の新道(がゝ)りに当りたるはありがたしと思ひ、粉骨を尽して新道を開き、永続の御為にもなりたくと、五月十八より切り(かけ)けるに、念を入れたるはよろしからぬとて、六月八日に取放され、(よんどころ)なく引去り、それよりクスリ場所まで行き、何の事もなく旅行のみして帰府になりたり。帰路の節新道の様子を聞くに、シヨウヤといふ所には新道三筋付きたれども、此所を通る者もなし。莫大の御金を費して通る人もなき道三筋もあるは(やく)なき(つひえ)にて、勿体なき事と申すべきことなり。数萬両の御金を入れて、後年に至り開国の験の残るものは新道(ばか)りなり。その外に開国の基本となりたるものは未だ一事も見えず。家作の八九軒立てたればとて三四百両の入用なり」

 徳内の不平だつた様子は、この中からも看取せられるが、その忠明と抗争して容易に降らなかつたことは、(会田)安明の記によつてはじめて知り得られるのである。

 なほ『休明光記』附録巻二の、「未(寛政十一年)十月十八日、采女正(うねめのしやう)(戸田氏教)殿へ、左近將監(さこんのじょう)(石川忠房)進達、蝦夷地御用地中当冬越年、申年(寛政十二年)場所場所人数割合之儀申上候書付」といふ中には、「御普請役最上徳内、御鎗奉行(おやりぶぎやう)大久保遠江守組同心(とほとうみのかみくみどうしん)御普請役出役(でやく)長島新左衛門、浪人御普請役御雇(おやとひ)村上島之允、外御勘定方御目付方三人」と列挙した最初に、徳内の名も挙げられて居り、「右六人之儀、場所場所差向(さしむけ)前条同様為相勤(あひつとめさせ)、又は諸向(しよむき)繰合為相勤候積(くりあはせあひつとめさせさふらふつも)りに御座候」云々とある。「前条同様」といふのは、その前に挙げられた人々に、「右は当年場所場所引払(ひきはらひ)帰府(つかまつり)、御勘定仕上等為取調(おとりしらべのため)、来春折返御用場所場所へ差向諸事取扱候(つもりに)申渡置候儀に御座候」とあるのを指してゐるのである。しかし徳内はさうした指令には従はずに帰つてしまつた。身分は低くても、行動を自由にすることが出来たらしい。

 

     十九

 

 忠明は同年八月十七日に松前を立つて帰途に着いた。遠山景晋(かげみち)は大河内政寿等と、それより先八月十三日に松前を発してゐる。景晋は九月十四日に江戸に着き、十六日に朝参して朱印を返附した。忠明の帰府は十八九日頃だつたのであらう。

 忠明の人物に就いては既に一言したが、この時また渡海した遠山景晋の紀行『未曾有記』に、その強勇あまりて、いさゝか仁恕(じんぢよ)を欠いてゐるのを直言することなどが見えてゐる。年少気鋭の忠明は、十分に部下の信服を得てゐなかつたらしいのである。

 忠明は享和二年(1802)二月に蝦夷総宰を免ぜられ、翌年五月に駿府城代を仰せつけられ、文化二年(1805)二月、在職中に駿府に卒した。年は四十七歳だった。徳内よりは四歳の年少だつたのである。忠明の伝は、その臣広瀬安行に代つて、山梨稲川の撰したものが『稻川遺芳』に収められてゐる。

 寛政十一年(1799)の蝦夷地検分には、近藤重藏もまた赴いて、翌十二年の冬まで滞在した。

 徳内は同十一年六月に任を離れ、各地を巡同して江戸に帰つた。その後六年間は、蝦夷地と関係のない他の職務に従つた。享和年間には材木の御用のために八王子に到つたことが、『天然訓』に添うた同地の塩野知哲の序文に、「子員者東都之使臣、享和中督官材、客遊於此地」(子員〈徳内〉は東都の使臣、享和中に官材を督して、この地に客遊す。)と見えてゐる。塩野知哲、号は適斎、八王子同心で昌平黌(しやうへいくわう)に学び、『桑都日記』といふ大部の著書のある由を、三田村鳶魚(えんぎよ)翁から教へられた。その後清水庫之祐氏著『八王子を中心とせる郷土偉人伝』といふ小冊子を見たら、それにも知哲の伝は載つて居り、幕府官撰の『新編武藏風土記稿』、同『相摸風土記稿』の編纂にも携はつたこと、弘化四年七十三歳を以て歿したことなどが出てゐた。徳内よりは二十七歳の後輩だつたのである。

 

     二十

 

 文化元年(1804)の三月に、徳内の著『度量衡説統』六巻三冊が上梓せられた。同年二月の日附で、山本北山が序文を書いてゐる。

 それに拠れば徳内は嘗て北山を訪うて、荻生徂徠(そらい)の『度量衡考』、先師山田図南(となん)の『権量撥乱』になほ不備な点の存在するのを遺憾として、一書を撰述したい意志のあることを告げた。図南は儒学を北山に学んだ。その『権量撥乱』の序も北山が書いてゐるのである。北山は徳内の言を聴いて大いに喜んで、為めに慫慂(しようよう)するところがあつた。かくして本書は生れ出たのである。北山はさうした事由を記して、文の末尾に、「徳内為人、剛直質実、処事精力過絶于人、其学術実用出自此焉」(徳内の人となりは、剛直質実、事に処して精力人に過絶せり、その学術の実用たるこれに出づるなるべし。)といつてゐる。

 なほ同書の見返しに、「北山先生閲」ともしてあるのを見れば、その文章は多少北山が手を入れてゐようかと思はれる。山田図南の『権量撥乱』一冊は、天明四年に梓行せられてゐる。北山の序文のあること前述せる如くである。徳内の名は、この書のいづこにも見えてゐない。

『度量衡説統』には、北山の序文の外に、桂川甫周の跋文が添うてゐる。甫周、名は国瑞、通称は甫周、築地に住んで月池と号した。幕府の医官で、洋学者として知られてゐる。その著書の中には、漂民光太夫の談話を録した『北槎聞略』などもある。徳内はこの人の跋文を得たのである。但しこの跋文は、『度量衡説統』の刊本に添うてゐるのとゐないのとがあるらしく、『國書解題』の解説にもそのことに触れず、瀧本博士編『日本経済叢書』の所収本にも、やはりそれが落ちてゐる。割合に知らずにゐる人が多いのかも知れない。全文はすなはち次の如くである。

 

 最上生之述此書、捜索廣該、引證的切、山本氏序中已詳称之矣、吾不復贅論、独其於傷寒薬方分量、逐一手剤之、手煎之、而後定其説、吾欲其研精費神洵可尚矣、自吾輩世医事者、未嘗有如此研精費神者、医家観此書、人々其可不内愧乎哉。文化新元修禊前一日、桂川國瑞書」

「最上生の此の書を述するや、捜索広該、引證的切、山本氏の序中すでにつまびらかにこれを称せり、吾また贅論せず。傷寒論薬方の分量を独りそれ、逐一手づから剤し、手づから煎じ、しかる後に其の説を定む。吾は其の研精費神を(まこと)尚ぶべくおぼゆ。吾輩ら世に医を事とする者の、未だ嘗てかくの如く研精費神の者あらざりき。医家にして此の書をみて、人々内に愧じざる可けんや。文化元年修禊前一日 桂川国瑞書」

 

 医学を修めた徳内は、薬の量などについては、一々実際に当つた上に説を立てゝゐるのである。

 なほ『度量衡説統』の奥附(おくづけ)には、『八線真数表二巻』『八線対数表二巻』『加減代乗除法二巻』の三書を並記して、下に「未刻」と註してゐる。徳内のこれら数学に関する著書は、つひに梓行せられなかつたらしい。そして現在伝へられてはゐないのであらうか。『日本数学史』にも、右数書については一言も費すところがない。

 同年徳内はまた白虹斎の号を以て、刊本『蝦夷方言藻汐草』の序文を書いた。同書はアイノ語研究の最も貴重な文献として以前から知られてゐるが、いづこにも編者の名の挙げてないために、徳内の著述とせられて来た。前に掲げた『醇堂叢稿』の記載もまたさうなつてゐる。然るに『藻汐草』は、それより先に内容同一の一冊本が刊行せられて居り、それには徳内の序文はなくて、寛政四年(1792)五月四日附の通辞上原熊治郎、支配阿部長三郎の連名の跋文があり、それに拠つて同書は徳内の編著ではなくて、上原、阿部両人の共に編むところだつたことが明かにせられる。それらに就いては金田一京助氏の「蝦夷語学の鼻祖上原熊治郎と其の著述」の一文が『藝文』第四年第八号に掲載せられてゐるのを見べきである。

 但し上原、阿部両人編の『藻汐草』に、徳内は何故に序文を書いたのであるか。また序文の中に右両人のことに一言もいひ及んでゐないのは何故か。再刊に際して何故編者名を除き去つたのか。再刊本の見返しに「鈴騏園藏板」とある鈴騏園といふは如何。『藻汐草』と徳内との関係に就いては、なほ考へて見たい問題が多い。

 

     二十一

 

 文化二年(1805)の三月十五日、遠山景晋(かげみち)、村垣定行の両人は再び蝦夷地派遣の命を受けて、閏八月十三日に江戸を立つた。徳内もまた出張を命ぜられたが、この時も景晋等とは同行せずして先発した。時に五十一歳である。これが第八回の渡海であつた。

 景晋にはこの時の紀行に『未曾有後記』三巻がある、別にその顛末を詠じた巡辺行の長詩一編がある。巡辺行は『視聴草』九条の六に収められてゐる。なほ翌年西蝦夷踏査の報告書も、松前武四郎が手写して、『遠山村垣西蝦夷日記』と命名したものが帝国図書館に蔵せられて居り、それらに拠つてこの時の踏査を(つまびら)かにすることが出来る。

 景晋等は九月九日、重陽の佳節に三厩(みんまや)に着き、そこで順風を待つことが二旬余に及び、十月三日に至つて渡海した。これより先村垣定行は途に病んだために後れ、その属吏は景晋が率ゐて到つた。巡辺行には途中のことを、「秋天曠野走鉄(そう)。三厩裁海維良月」の二句に叙してゐる。

「松前客舎霜威通。尺蠖之屈龍蛇蟄」(松前客舎はきびしき霜におほわれ、虫けらも屈龍蛇蟄の体に)景晋等は松前に越年した。その間に徳内は、自ら編んだ孔子の年表を補訂してゐたことが、同書の野中龍渓の序文に拠つて知られる。なほその序の中に、徳内のことを叙して、「乙丑之秋(=文化二年の秋)、以公事至松前(公務により松前に至る)」としてゐるのに拠つて、徳内が景晋等よりも先に松前に着いてゐたことが判明するのである。「臘尽歳更霜雪中。渇日治装四方志。流()三月人春風。既望甲子味爽発」(霜雪のうちに臘尽き歳かはり。日ざしかわき装ひも調ひ気も四方にはずむ。かくて三月になり人も風も春。はやこの明け方には発つべしと)翌三年三月十六日、景晋等は松前を発して、北行宗谷(ソウヤ)に向つた。徳内はその案内役を勤めたのである。定行は七日遅れて、二十三日に立つた。景晋の一行は報告書に、「御徒目附(おかちめつけ)両人、吟味方下役(ぎんみがたしたやく)一人、御普請役三人、御小人目附(おこひとめつけ)二人」と記されてゐる。この「御普請役三人」の内に徳内もあつたのである。一行は、今度は主として陸路を取り、時に舟航の便を仮りて、五月十一日に宗谷に達した。滞留すること四日、十四日に帰途に就いて、十七日に抜海(バッカイ)で定行の一行と邂逅した。六月朔日(ついたち)石狩(イシカリ)に着き、そこに定行の到るを待つて十一日に出発、二十二日に函館に帰つた。日を費すこと八十五日である。定行は二日後れて十四日に帰着した。日を費すこと八十日であつた。但し『札幌区史』によれば、徳内は帰途一行と分れ、更に当別(トウベツ)札幌(サッポロ)附近を探検して、深く不毛の地に入つたのであつた。その折り当別よりの帰船に託して、一行中の東_元槙(とうねいげんしん)に贈つた詩に、「別離不待唱離歌。洲上相看鼓_過。西岸垂楊宛転水。櫓声南北是如何」(別離に離歌を唱ふを待たず。洲上相看るまなく鼓_(こえい)過ぐ。西岸の垂楊さながら水に転じ。櫓声南北のはやき是如何)とある。かくして一行は八月江戸に帰着した。景晋、定行は十五日に將軍に拝謁し、なほこの月報告書をも呈出した。前記の『遠山村垣西蝦夷日記』がすなはちそれである。そして十月には、徳内は普請役元締格(ふしんやくもとじめかく)に任ぜられた。

 

     二十二

 

 文化三年(1806)の遠山、村垣の西蝦夷踏査に、徳内の重用せられたことはいふまでもない。巡辺行には、「主簿従事各超群。籌幄謀野励建勲。朝三暮四新膝在。加之最上髯将軍。傾蓋如故魚得水」(役人はいずれも抜群、内でも外でも励んで働き、あれと云ひこれと云ふも常に変わらず。ことに最上髯将軍は、まるで魚の水を得たようで。)の一節がある。景晋は徳内を呼ぶに、髯将軍を以てした。晋のこう(難漢字)起、卓ろう(難漢字)にして義を好み、髯多きを以てこの異名があつた。景晋はその故事を用ひたのである。前年の冬籠(ふゆごもり)に、徳内は鬚髯(ひげ)を剃らなかつたので、容貌まで蝦夷化してゐた様子が、これによつて髣髴として眼に浮んで来る。

 そして『未曾有後記』には、四月十五日にオカムイの難所に於て風浪に悩まされたことを記して、「徳内は部下の一謀士、夷中凡百の人事わが物にしたる古兵(ふるつはもの)なり」と賞してゐる。

『未曾有後記』の巻頭には、狂歌に紀定丸(きのさだまる)として知られてゐる吉見義方の「しらいとをかむゐの国のゆゑよしをしるしつたふるふみ」といふ一文を添へてゐるが、それには景晋(かげみち)の官歴を述べ来つて、「そが西蝦夷地に至り給ひし時は、もとも珍かなる荒海のはしはしまでめぐり給ふ事にして、その地ひとたびおほやけの御□りし御時、其地の奉行たりし人々さへ見及ばぬさかひまでもらし給ふ事なし。有職(ゆうそく)の人々のめさへ()るまじき船も用ひがたく、すなどりせるものゝ乗りはしる、さゝやかなる舟に、従者一人、下つかさ最上何がしといへるもの一人を具し給ひ、わづか三人打ちのり、弥高(いやたか)き山のめぐり、目も及ばぬ大うみのおし出ぐちをよこさまにおしわたり、くぢらにしも限らず、ゑにもしれぬ大魚どものそびらを左みぎにさけ、或はおどろおどろしき風にいく月荒海をしのぎ、つゝがなくかへり給ひしなん。さはいへどかしこきおほん神のみまもりとさへ思ひ合せらる」云々としてゐる。景晋が誠意事に当つた様は、この『未曾有後記』に拠つて知られるのであるが、徳内はその景晋を輔けて功が多かつたのである。

 なほこの巡行中に捕獲した善知鳥(うとう)を、徳内が剥製にしたことなどもあつた。その剥製を志賀理斎が村垣定行の(もと)に見たこと、並びに後にまた徳内からこの鳥について聴いたことなどが、先に引いた理斎の随筆『筆のまにまに』の中に出てゐる。

 なほ『筆のまにまに』に載する野中新三郎の屋代弘賢(やしろひろかた)に充てた文化三年十二月十四日附の書簡に拠れば、弘賢もかねがね善知鳥を得たく思つて、新三郎に頼んで置いたので、新三郎は徳内と計つて西蝦夷に於て五羽を捕へて、一羽を弘賢に贈つた。理斎が見た善知鳥もその内の一羽だつたのである。なほ一羽は村垣から堀田正敦に贈つたことも見えてゐる。いづれもそれらは、徳内が剥製にしたものだつたらうと思はれる。

 善知鳥の外に、徳内が大鳥を打つたことも巡辺行の中に見えてゐる。「島小牧名宿昔縁。結根葱蘢生馬草。伯楽之儔有子員。忽帯火銃私人長。瞠目一看百尺嶺。鵬鶚正墜機声下。廻身旭日気凛然」この数句からも、徳内の壮姿が目に浮んで来る。

 

     二十三

 

 翌文化四年(1807)三月の始めに、徳内は帰郷した。そのことは『地学雑誌』所載の書簡に拠つて知られる。同書簡は、二月二十八日附を以て、尾花沢より楯岡の本陣笠原茂右衛門に充てたもので、その中に、「当分無事相勤(あひつとめ)、鹿島灘よりミチノク東浦、外ケ浜、象潟(きさかた)、ウヤムヤの関辺より、越後境(えちごさかひ)鼠ケ関迄にて御用(すみ)、今日尾花沢着之所、是より銀山見分両三日相懸り可申(まうすべく)候。右済次第尾花沢へ立ち帰り、夫より帰府(つかまつり)候。(そのおり)御地一着之(つもり)、近日には面会可仕(つかまつるべく)相楽罷在(あひたのしみにまかりあり)候」とある。それに拠つて、また徳内が鉱山の検分などをもしてゐたことが知られる。ついで徳内は帰郷の日の予定を述べて、当日は八ツ(午前二時)に尾花沢出発、四ツ(午前十時)頃楯岡着、母妹旧友等に面会、正午茶漬を済まして湯に入り、それより父の墓に参拝、帰つて小憩し、更に寺に行きて住持に対面、それより親戚故旧と小宴、七ツ(午後四時)頃に一通り済んだならば、望みにより論語の講釈をして、六ツ半(午後七時)か五ツ(午後八時)に至り、更に医者達の望みがあらば傷寒論を講じて、四ツ(午後十時)頃か九ツ(午後十二時)頃に至り、それより詩文和歌の話でもし、翌朝は七ツ(午前四時)に起床、正六ツ(午前六時)には新町に親戚を訪ひ、天童を経て昼には山形宿へ参りたいといつてゐる。この予定を見ても徳内のいかに精力絶倫だつたかが想像せられよう。そして論語、傷寒論を講じ、詩文和歌の話をしようとあるのなど、多少は衒学の気味があるかも知れぬが、徳内の学問はとにかく広かつたのである。予定は多分大体に於てその通りに実行せられたのであらう。

 この年三月に、幕府が西蝦夷をも直轄することとなつたが、前年九月には露船の樺太焚掠(ふんりやく)のことがあり、この年四月には更に択捉(ヱトロフ)にも(こう)してわが商船官船を襲ひ、倉庫を()いた。幕府は奥羽の諸大藩に出兵を命じて、蝦夷地を警護せしめ、六月二十一日には若年寄堀田正敦が、大目附中川飛騨守忠英、目附遠山景晋以下を率ゐて蝦夷地に赴いた。この時正敦は、国文で、『蝦夷道の記』三巻を著してゐる。そして徳内は、四月に函館奉行支配調役並(しらべやくなみ)に出身し、禄高百俵三人扶持、外に役扶持七人扶持を(きゆう)せられ、五月に江戸を発して函館に到つた。これが第九回の渡海であつた。安明は第八回と誤つてゐる。土民の子にして調役並に至るといふのは、当時としては異常の出世だつたのであらう。(やり)を立て輿(こし)に乗つて北行する徳内の得意知るべしである。五月二十八日附を以て、徳内が蝦夷の福島から同じく郷里の笠原氏に充てた書簡には、その情の歴然たるがある。この書簡もまた『地学雑誌』に掲ぐるところであるが、特にその全文をこゝに転載しておきたいと思ふ。

「今廿九日福島着之処、島屋飛脚を以て得御意(ぎよいをえ)候。当春は面会殊に種々御馳走に相成候。大勢の旧友に面会、誠に大慶(つかまつり)候。且又(かつまた)其節は痛入(いたみいり)の御土産、御内室其外御惣寮へ宜敷御礼申上度(まうしあげたく)候。将又(はたまた)私儀此度函館支配奉行調役並(しらべやくなみ)被仰付(おほせつけられ)不存(はからずも)懸結構(かゝりけつこう)相成(あひなり)(なほ)躑躅(つゝじ)()御月番御老中水野若狭守殿被仰渡(おほせわたされ)此度(こたび)出立(しゆつたつ)に付ても御暇(おんいとま)拝領物被下候(くだされさふらふ)に、右御席に罷出(まかりいで)候。難有仕合(ありがたきしあはせ)に御座候間、御吹聴(つかまつり)候。私母へも御物語被下度(くだされたく)奉願(ねがひたてまつり)候。此度は具足櫃、鎗両掛、合羽(かつぱ)、籠乗物に御座候。用人、侍、鎗持、草履取召連(めしつれ)、幕を打ち、旅宿札懸け置申候。是も御物語被下度候。扱又春中母の申聞(まうしきけ)候には、無據(よんどころなく)他借金(しやくきんほか)三両有之候由(これありさふらふよし)に御座候間、金三両外に此度結構に相成候御祝儀二両(あはせ)、金五両差上候。此旨も母へ被仰含(あふせふくめられ)、右金五両は御渡可被下候(くださるべくさふらふ)則相添差遣(すなはちあひそへさしつかはし)申候。此度西蝦夷松前共に被召上候(めしあげられさふらふ)に付、私も引出され罷越(まかりこし)候。明年秋か、明後年春ならでは帰府相成間敷(あひなるまじき)様子に御座候。右申上(まうしあぐ)べく如此(かくのごとく)に御座候。以上。五月廿九日、最上徳内、笠原茂右衛門様」

 

     二十四

 

 同文化四年(1807)には徳内は年五十三歳であるが、母はまだ壮健で、わが子の立身に逢ふことを得たのである。徳内は右の書簡に於ては、一身上のことを述べてゐるのに過ぎぬが、当時北海の警報の江戸に伝へられて人心の恐々恟々としてゐた有様は、『泰平年表』に、「かゝりしかば江戸の町々鍛冶を業とせるは家毎に番具足をきたへ、古着(ひさ)ぐ家は軒毎に陣羽織を懸けたり。是等を見るに世の中何となく物騒がしく、其事を預らぬ者も安からぬ心地するに」云々といひ、流言蜚語(ひご)のつぎつぎと行はれたことなどを述べてゐるのにも想像せられる。

 この時の江戸の状況を記したものは極めて多くて、今その一々を挙げてはゐられないが、『視聴草』七集の三に収むる「文化丙寅(三年)北辺騒動都下風聞」といふものには、また徳内のことも記されてゐる。

「最上徳内ひとたび蝦夷のかゝりは御免なりしが、此度(こたび)また被仰付(おほせつけられ)候て、霊岸島の役所へまゐり、即日より存寄(ぞんじより)を申したりと風聞」

 徳内についで、近藤重藏、秦憶丸(あわきまる)のことも、「近藤重藏十五日出立(しゆつたつ)の予定。十二日出立のところ支度間に合はず」また、「村上島之丞、中川飛騨守殿につきしたがひて発足のよしなり」と見えてゐる。

 蝦夷のことといへば、先づこれらの人々が噂に上つてゐる。ついで堀田正敦の江戸を発足する物々しい様子も叙せられてゐる。

「六月廿一日朝五ツ時、摂津守様御出立。御紋付絽の羽織、小袴、馬上筋違(すじかひ)御門より(やり)を伏せ被申(まふされ)候由、見物多し。鑓印は白ちりめん一幅の(きれ)なり」

 その後に徳内のことが今一条あるのであるが、「最上徳内、高橋三平両人は小船にて」とばかりで、惜しいことに後が断たれてゐる。

「平山行藏、此節上書せしとの風聞」行藏の上書は事実であつた。

「加茂眞淵が蝦夷の歌もあり。此節(このせつ)取りはやす人あり」とにかく世上は到るところ蝦夷地の風評だつたのである。

 この年の渡海には、徳内は江差詰(エサシづめ)を命ぜられたのであるが、秋には宗谷(ソウヤ)に転じ、翌五年(1808)には樺太(カラフト)に赴いて、同所を守る会津の兵を監察した。その翌六年(1809)にも、徳内はなほ蝦夷に在動したが、徳内と蝦夷地との関係はこれを以て終つたといふから、同年中くらゐに帰つたのであらう。帰府後徳内は御簾中御座敷添番(ごれんちゆうおざしきそへばん)に挙げられた。

 徳内の最後の渡海は足掛け三年に及んで、在留が最も長かつたのである。その間の行動を今詳(つまびら)かにし難いのは遺憾であるが、この稿を発表し始めてから、蘆田伊人氏は、徳内の記文一篇の添うた大砲の図一葉を提示せられた。しかも徳内の文は自筆で、後に甑山(こしきやま)の印も捺されてゐる。これは徳内最後の蝦夷地在留中に作つたものらしく、文筆は見るに足らないが、露船の来寇に際してわが防備がいかに無力で、官人等がいかに頼むに足りなかつたかを明らさまに語つて居り、当時の史料としての価値を有する。依つてまたその全文を掲げて置くこととする。

 

「文化四年、魯西亜官人彌加羅伊三陀羅伊茲者渡来於蝦夷北辺、其船名曰部礼賀阿亭利也、先到専努呂弗為寇、南部津軽両家藩鎮驚狂不更防、皆逃遽山林、沙奈有司虚其館走丘上、見寇賊放火於警営遂自殺、而後其船到利伊志利島、発大銃、官船二艘聞其響、出橋船、遽リョ(難漢字)而逃、魯西亜船相依望之、不聞人声、初怪不敢近、終覚人不在、而移乗見之、有阿蘭陀齎来之大銃、皆大悦曰、魯西亜所宝之器有五張、為戦争散諸国、其三張既得焉、其二張未知所在地二百余年、而今得帰其一於魯西亜也、実天賜矣、皆宴船上、叩舷而歌、曲後邪許高声挽而取焉、役蝦夷之輩、書此図、旦暮省之、則庶幾為忠勤之端乎。最上徳内源常矩識」

「文化四年、魯西亜官人「彌加羅伊・三陀羅伊」なる者蝦夷北辺に渡来す、其の船、名は「部礼賀阿亭利」といへり、先づ専ら「努呂弗」に至りて寇をなすに、南部津軽両家の藩鎮は驚狂してさらに防がす、皆遽てて山林に逃げ、沙奈(シヤナ)の有司はその館を虚にして丘の上に走り、寇賊の放火をみておそれて遂に自殺せり。

 而して後、其の船は利伊志利(リイジリ)島に至つて、大銃をはなてり。官船二艘其の響を聞くや、橋船(はしけ)に出でてあわて逃ぐ。魯西亜船相依りこれを望むに、人声を聞かず。初め怪しみて敢えて近づかず、終に人不在と覚りて、而して移り乗りこれを見あらはせり。オランダの(もた)らし来し大銃(おほづつ)あり、皆大いに悦び曰く、魯西亜の宝とする器五張有り、戦争して諸国を散じ、其の三張は既に得たれども、なほ二張の未だ在地も知らざる二百余年、今その一をなんぞロシヤに得て帰らんとは、実に天の賜ぞと、皆船上に宴し(ふなばた)を叩いて歌うたふ。曲後()高声ばかり挽き取りおはんぬ。

 蝦夷之輩を(えき)して此図を書かしめ、旦暮にこれを省る。則ち忠勤之端とするにちかしと。 最上徳内源常矩識」

 

     二十五

 

 蝦夷地との関係は終つても、徳内はその後もなほ官用を以て東奔西走して、相当に多忙であつたらしい。『天然訓』の塩野知哲の序に、「子員入官、爾後奉使命於四方、自筑紫、東尽奥羽及蝦夷諸島」(徳内は官に入り、爾後四方に使命を奉じて、筑紫より、東は奥羽および蝦夷諸島を尽くす)云々としてあつて、その足跡は、西は九州までに及んでゐたことが知られる。そして文化九年十年(1812~13)頃には、再び八王子にあつて、漆樹栽培並びに蝋の製造に従つたことが、同じく知哲の序に、「又自客載夏漆園製蝋之創業、僑居八王子街而指揮、是以屡得蓋簪而驩」(また先年夏来、漆園製蝋の創業に、八王子街に僑居してこれを指揮し、これを以て蓋し屡々会心を得たり)と見えてゐるのに拠つて判明する。その序は、「文化十年(1813)癸酉冬十月」とあるのであるから、徳内の八王子滞在はかなり久しきに(わた)つたのである。

 そして『天然訓』はこの滞在中に成つたのであらうと思はれる。その後に気が附いたのであるが、加藤氏の徳内伝には、徳内の著述の条の中には『自然訓』の名が見えて居り、彰考館の図書目録には、随筆の部に、「七訓、最上徳内述、享和年代、一冊、写」といふのが挙げてある。享和年代とあるのは疑はしいが、この『七訓』も、『自然訓』も、共に『天然訓』の別名なのではあるまいか。『天然訓』が、「鮟鱇訓」以下の七篇より成ることは、既に述べたる如くである。 徳内と八王子との関係は、私はたゞ右の塩野知哲の序によつて知るのみであるが、八王子には、なほ何か徳内関係の資料が残つてゐさうに思はれる。同地の方々の調査を煩したいものである。

 文化十四年(1817)十月二十六日に、徳内を伝した会田安明が歿した。年は七十一歳だつた。遠藤利貞氏はその著『日本数学史』に安明を評して、「人と()り温良恭謙を欠くと(いへど)も、学問の高邁なる、門人の盛んなる、当時関流の外に於て他に其の比を見ざるなり」としてゐられる。さうして矜持(きようぢ)するところの高かつた安明が、八歳の後輩の徳内を(もく)するに大丈夫児を以てしてゐるのである。

 それより後四年、文政四年(1821)三月十六日には、徳内の師本多利明が江戸に歿した。年七十八歳で、徳内に長ずることが十一歳だつたのである。利明に就いては既に諸家の研究があるが、その事歴には未だ不明の点が多い。そして徳内に関する資料が利明の著書の中より多少得らるゝに拘らず、徳内に拠つて利明その人を知るべきものを、まだ寓目せずにゐるの私は遺憾とする。

 

     二十六

 

 文政九年(1826)三月上旬に、徳内は初めてシーボルトと識つた。文政六年(1823)七月に来朝したシーボルトは、同九年の春江戸に参覲(さんきん)して、その時に徳内の訪問を受けたのである。シーボルトは時に三十一歳、徳内は七十二歳の老齢だつた。シーボルトはいかに徳内を見たか。以下呉博士の著『シーボルト先生』に拠つて、二人の交渉を略叙する。

 同年三月十日(陽暦四月十六日)の日記に、シーボルトは、「本日は如何に思料(かんがへ)見るも特に注目すべき日なりけり。最上徳内といへる日本人は、既に二日間に亙り余を尋ね来りしが、余は彼が数学及び之と近き関係ある学問につき、知識の深き人なるを知れり」といひ、なほ徳内は日本、支那、欧洲の数学問題について談じ、シーボルトが口外しないといふ約束の下に蝦夷図を貸与し、それについて蝦夷のことを語つたとしてゐる。シーボルトは熱心に徳内の談話を聴いて、日記の中にそれを書き留めてゐるのである。

 徳内のシーボルト訪問は、その後連日に及んだ。同十五日の日記には、「今日迄、毎朝老友最上徳内と蝦夷語を編次す」といひ、翌十六日には、「又最上の如き老友と、蝦夷語地理数学等の研究を継続するを得たり」と記してゐる。シーボルトが、徳内に会ふのに愉悦を感じてゐたことが、これらの記載から窺はれる。

 翌四月十二日に、シーボルトは江戸を発して長崎への帰途に就いた。徳内はわざわざ小田原まで見送つた。そして小田原に一宿して、十五日の朝シーボルトと別れた。同日のシーボルトの日記には、「小田原を発す。貴き老友最上徳内は江戸よりこゝ迄伴ひ来りしが、余は山崎の三枚橋にてこの勇しく功ある老人に分れたり」とある。二人の再会は期し難い。シーボルトと徳内と、互に感慨の無量なるものがあつたに違ひない。

 シーボルトの江戸在府中は勿論のこと、その往復の途次にも、わが国の新しき学術の研鑽に従事し、泰西の新文明に憧憬する人々は、競つてシーボルトを訪うた。それらの人々にシーボルトは何れも好意を寄せたやうであるが、その間でも最大の敬意と親愛とを寄せたのは、年齢の四十有余も隔つてゐた最上徳内ではなかつたらうかと思はれる。

 長崎に帰つたシーボルトは、その後通詞の吉雄忠次郎を助手として、徳内の著『蝦夷草紙』を翻訳してゐたことが、シーボルトの文政十一年(1828)十一月十日の日記に見えてゐる。『蝦夷草紙』は徳内の贈るところだつたのであらう。その他シーボルトの日本に於ける蒐集図書の内には、『最上徳内蝦夷図』、同じく『唐太(カラフト)島』『薩哈連(サガレン)(カラフト)島』『柬察加(カムチヤツカ)諸図』、最上徳内著『論語彝訓』巻之首、同『度量衡説統』等の名が挙げられてゐる。その(ほか)蝦夷松の写生図並びに標本を、徳内がシーボルトに贈つたことなども見えてゐる。シーボルトが帰国後に著した大著『日本』には、ぞれらの資料と徳内の談話とに拠つて、徳内の学術上に於ける功績を随処にたゝへ、なほ徳内の肖像をも一頁全面を費して大きく出してゐるのである。

 従来最上徳内は、北海の探検家として認められてゐるのに過ぎなかつた。数学家であつたといふ以外には、科学者として何等注意せらるゝところがなかつたのであるが、新たに科学者としても、徳内は見直されねばなるまいと思ふのである。

 なほ徳内の好意に対してシーボルトは、江戸発足の際に自己の頭髪一筋を抜いて、玻璃の器に入れて徳内に贈つたこと、帰国後にも書信を寄せ来つたことが、呉博士の引用せられた鍋島望城の『夜談録』に見えてゐる。

 

     二十七

 

 以上の記載は、大体呉博士の『シーボルト先生』に拠つたのであるが、この稿が発表せられ始めてから、関田駒吉氏は特に私のために、シーボルト著『日本属島探険記』英文版の一節を抄写して贈られた。氏の好意に対して、私は感謝の言葉を知らない。その条を訳出すればつぎの如くである。

「日本にたゞ一部のみ現存する蝦夷、千島列島、樺太、及びアムール河の徳内手写の原図を、一八二六年四月十六日に江戸に於て、この探険家自身から二十五箇年以内には出版すべからずとの約束の下に、予輩に譲られたことを特記したい。

 この尊敬すべき老人は、日本の北地事情究明に対する功績の偉大なるにも拘らず、七十二歳当時には、役目から放たれて、不幸と貧困との中に陥つてゐた。それは彼があまりに律義で、その発見を寸毫も己のためにせず、且つは年老いて、自ら膝を屈することをしなかつたからである。

 評価に絶した彼の諸地図が私の所有に帰して、一八五八年(安政五年)に漸く出版せらるゝに至つた事情は右の如くである」

 一八二六年四月十六日は、わが文政九年三月十日に当る。すなはち徳内とシーボルトと懇談した第一日だつた。その日徳内手写の諸地図は、二十五年間秘密を保つといふ契約のもとに交附せられたのである。

 徳内は御広敷添番(おひろしきそへばん)までに至つて、土民の子に生れた者としては稀れに見る出世をしたのであるが、その晩年はやはり恵まれてはゐなかつたらしい。シーボルトは、その不遇の原因の一を、徳内の硬骨(原稿は、魚ヘン)に帰してゐる。これは一面の真を穿(うが)つてゐるのであらう。徳内はつひに迎合者たり得なかつた。不遇は自ら甘んずるところだつたであらう。しかし数回の蝦夷地踏査に依つて得た豊富な知識も活用せらるゝことなしに一生を終らうとするは、徳内自身にとつては更にまた寂しいことだつたに違ひない。奇しき運命の手は、この老いたる探検家と知識欲に燃えてゐる西欧の若き博物学者を結びつけた。この二人が、各自の国籍年齢の相違を忘れて、いかに深く共鳴し合つたかは、恐らく私等の想像以上のものがあつたのであらうと思はれる。

 

     二十八

 

 徳内は、シーボルトと小田原に別れてから二旬を経た五月五日に、説文学者山梨稲川(とうせん)をその八丁堀の居に訪うた。稲川はこの年三月に、郷国駿河から江戸に来てゐたのである。稲川は時に五十六歳、徳内よりは十六歳の後輩である。『稻川遺芳』に収むるところの『東寓日歴』には、同日の条に、「最上億内訪余僑居(余を僑居に訪ひきて)、不値而帰(あはずして帰る)、<億内即徳内也> 億内註論語二十巻、嘗与余剖析古韻古文(かつて余と古韻古文を剖析し)、伏余論(余の論に服せり)、(ゆゑに)来訪(せる)也」としてある。

 その日稲川が、その(むすめ)と共に浅草観音へ赴いた留守を、徳内は訪うたのであつた。徳内はこの時既に通称を億内に改めてゐたのである。徳内の著した『論語』の註釈は、いふまでもなく『論語彝訓(ろんごいくん)』である。同書はこの頃既に完成してゐたのであらうかと考へられる。稲川はなほ右の文中に、徳内が嘗て稲川と古韻古文を研究したこと、それに就いて稲川の説に服したことを叙してゐる。こゝに嘗てといふのは、いつ頃のことだつたのであらうか。

 中二日を置いて、徳内は再び稲川を訪うた。八日の日記に、「最上徳内來訪、託余以論語序<自註論語二十四巻>」としてある。徳内の訪問の目的は、『論語彝訓』の序を乞はむがためであつた。『彝訓(いくん)』はその稿本が今国学院大学に蔵されてゐることを、研経会編纂の『四書現在書目』によつて知つてゐるが、私はまだその書を見てゐない。それで稲川自筆の序文が、同書に添うてゐるかどうかを知らない。稲川は、徳内の訪問を受けた五月よりして疫疾に罹り、僅かに一箇月余を経た七月六日につひに徳内に先んじて歿する。

『論語彝訓』二十四巻は、徳内の著書の内でも、最も力の籠められたものであらう。国学院大学所藏の稿本を、もし便宜が得られるなら見て置きたいものと思った。しかし同大学に何の縁故もない私は、採るべき方法を知らなかつた。然るに前文を書いて来た後に、無窮会神習文庫の井上頼圀(よりくに)博士の旧蔵本中には、何か徳内関係の資料がありさうに思はれたので、昨年六月初めの一日、私は同会を訪うて、司書の林正章氏に問ふに、徳内の著書を以てした。林さんは言下に、「徳内の著書なら論語彝訓(ろんごいくん)があります」といはれた。『論語彝訓』の名を無窮会に於て聴くのは、私には実に意外であつた。同書は数冊だけ井上博士の旧蔵中にあつたのを、二三年前国学院大学の原本を借写して完本にせられたのだといふ。林氏は直ちに同書を書庫から出して来て示された。私の更に驚いたのは、その内の首尾の両冊だけが刊本であることだつた。

 刊本になつてゐる一冊は、すなはちシーボルトの蒐集図書の内にも見えてゐる『論語彝訓』巻之首である。半紙判で、見返しに「塾中初鐫、彫刻雁金屋伊兵衛」とあるのみで、奥附もなくて、その刊年は全く不明であるが、シーボルトが獲てゐるのであるから、文政九年(1826)の春には、既に本書は梓行せられてゐたのであらう。「塾中初鐫(しよせん)」といふ。徳内は江戸に於て、塾を開いて諸生に教へてゐたのである。

 

     二十九

 

『論語彝訓』巻之首は、『彝訓(いくん)』全体の総論ともいふべきものである。そして第二巻より第二十一巻に至る二十巻が、『論語』の本文の註釈になつて居り、第二十二巻は助辞解、第二十三巻は孔子系譜、年表及弟子年表考、第二十四巻は詩文押韻策であり、最後のこの押韻策一冊がまた上梓せられてゐたのである。

 同書は見開きの上欄に、「文政十三年(1830)庚寅新鐫」、中央に「詩文押韻策」、右の肩に「太田方先生校、庵原東平先生訂、荷塘一きょ(再現不能)先生評」、左に「最上徳内著、江戸書林慶元堂製本」としてある。なほ本書には奥附もあつて、「文政十三年庚寅四月刻成」としてあり、発行書林も三都の五書肆が名を列ね、その内に見返しの慶元堂も和泉屋荘次郎として挙げてある。この書は首巻よりも数年遅れて世に出たのであらう。

『詩文押韻策』を閲してゐる三人の内の太田方はすなはち全斎、通称は八郎である。福山藩の儒者で、著名な音韻学者である。宝暦十年(1760)に生れて、徳内よりも五歳下だつた。庵原東平は前述の山梨稲川である。東平はその別号、庵原は駿河の庵原郡に生れたところから、かやうにも称したのであらう。山梨といふのも、先祖が甲斐の山梨郡に住したからであつた。

 荷塘一きょ(難漢字)は僧一圭、号荷塘のことである。嘗て長崎に在つて清音を学び、文政八年(1825)に江戸に来つて、儒家詩人達に支那小説の講義などしてゐた人である。天保二年(1831)七月に歿した。年は三十七歳である。その碑銘は講義を聴いた一人の朝川善庵が撰してゐる。

『詩文押韻策』には、なほ全斎、稲川の両人の序文も添うてゐる。全斎の序には、「文政丙戌孟冬」とある。既に文政九年にこの書は成つたのである。文中全斎は徳内を、「友人徳内最上氏」と呼んでゐる。二人は以前から識つてゐたのであらう。全斎は本書の刻の成つた前年文政十二年(1829)の六月に歿した。年は七十一歳だつた。

 稲川の序の終には、「文政九年季夏、書于江戸郭外僑居」とある。すなはち稲川は、徳内の訪問を受けた翌六月に序文の約を果して、その翌月に歿したのである。稲川も全斎も、共に『詩文押韻策』の刻本を見るに及ばなかつた。

『論語彝訓』は各巻を通じて、巻頭に「最上徳内述説、男効進訓点、平松権平脚注』としてある。文政九年には徳内七十二歳、効之進はその第四子であるが、すでにかなりの年輩になつてゐたのであらう。平松権平といふは徳内の門人であらうか。私はまだこの人について知るところがない。徳内が後に通称を億内に改めたことは、前に引いた山梨稲川の日記に見えてゐるが、『論語彝訓』にはやはり徳内としてある。両者を(あは)せ用ひてゐたのであらうか。

『論語彝訓』『詩文押韻策』の首尾二冊についで、その他の部分をも梓行する予定であつたことは、『押韻策』の奥附に「論語彝訓全廿四巻嗣刻」と記されてゐるのに拠つて知られるが、それらは大部ではあり、実際に刊行の運びには到らなかつたらしい。版になつた、『論語彝訓』巻之首、『詩文押韻策』も、伝本に乏しいのであらう。無窮会の所藏本以外には私は聞くところがない。

 

     三十

 

『論語彝訓』の全本を無窮会に於て見ることを得たのは、私には大きなよろこびだつた。然も私はその後浜野知三郎翁を訪うて、徳内と太田全斎とのことなどを聴いてゐる内に、翁が、「徳内の著書のかういふものがあります」といつて、本箱から取出されたのを見ると、それは『孔子年表』であつた。そして開けて見て更に驚いたのは、それが徳内の自筆本だつた。その書には本文の字句など、かなりに多く訂正せられ、欄外にも縦横に書入れがあり、貼紙もあり、附箋もある。巻頭には、たゞ「孔子年表、最上徳内識」とあつて、これが初稿本だつたらしいことが知られる。そしてなほこの書には、野中龍渓といふ人の序文が添うてゐる。この序は無窮会本には載つてゐなかつた。私は話を聴きながら、その全文を写し取つた。

 

「学問之道、在能誦古書通古言、識別古人之心、而察方今之事情、夫欲生数千歳之下、而研究数千歳之上、実難哉、蕩々乎宇宙間、誰能勝之、吾聞其語、未見其人也、最上徳内好学、豪邁英俊、精力過人、乙丑之秋、以公事至松前、旁午之間校訂孔子年表、以補先儒遺漏、余閲之、悉徴古書而叙之、隻言片句不敢臆断焉、其文簡而精、略而密、(ばく)矣周末、四方周流之跡、諄々乎可想焉、不翊有此挙、如塊皴考蝦夷考、亦皆好書、可以伝不朽、嗚呼生千歳之下、而研究千歳之上者、徳内有焉、今而後可謂吾聞其語、又見其人也。文化丙寅(三年)春二月、龍渓野中知書松前旅亭」

「学問之道は、能く古言に通じて古書を誦み、古人之心を識別し、而して方今之事情を察するに在り。夫れ、数千歳之下に生まれんと欲し、而して数千歳之上を研究するは、げに難い哉。宇宙の間に蕩々乎、誰か能くこれに勝<た>へんや。吾れ其語を聞くとも、未だ其の人を見ざる也。最上徳内は学を好んで、豪邁英俊、精力人に過ぐ。乙丑之秋、公事を以て松前に至り、旁午之間に孔子年表を校訂し、以て先儒の遺漏を補へり。余これを閲するに、悉く古書に徴してこれを叙し、隻言片句敢へて臆断なさず。其の文は簡にして精、略にして密、周末にさかのぼりて、周流之跡を四方し、諄々乎たる想ふべし、斯くの挙に羽ならぶるものなし。その塊皴考蝦夷考の如き、亦皆好書なり、伝へて不朽なるべし。嗚呼千歳之下に生まれ、而して千歳之上を研究せる者、徳内有りと。今より後吾れ其の語を聞き又其の人も見たりと言はん。文化丙寅(三年)春二月、龍渓野中知書松前旅亭」

 

 龍渓野中知といふは、如何なる人かを知らないが、「書松前旅亭」とあれば、やはり徳内と同じく蝦夷地に出張してゐた幕吏の一人だつたのであらう。この序は文化三年(1806)に成つた。『孔子年表』はかなり早く作られてゐたのである。なほ右の序文によつて、徳内に『塊皴考』『蝦夷考』等の著述のあつたことを知るが、これらに就いては全然聞くところがない。

『詩文押韻策』に拠つて、徳内と太田全斎と相識だつたことを知つた私は、ついで『日本藝林叢書』所収の『全斎墨叢』を検して、全斎が菅茶山に充てた十二月朔日(ついたち)附の書簡の中に、大分徳言といふ人のことについて、「近頃最上徳内、是もハゼの御用にて、其御料中をも通行候よし。亦為神農之言者(また神農の言もなし)、傷寒論の説もあるよし」とあり、分註に、最上屋敷は丸山はとなり、僕屋敷の下なり」としてある。その意がやゝ明瞭を欠くが、徳内が物産のことに関して、幕命によつて西行し、茶山、全斎の仕ふる福山藩の領内を通過したことをいふのであらうか。全斎の住居は、浜野翁に問うたら、同じく福山藩に仕へた伊沢蘭軒、北條霞亭等と共に、本郷西片町にあつたらしいとのことであつた。全斎が徳内の居を「僕屋敷の下」といつてゐるのを見ると、全斎の家は西片町の西寄りの坂の上にあり、徳内は坂下の八千代町、指が(さしがや)町辺にゐたのではなからうかと思はれる。文化中に成つた『東都諸家人名録』といふ写本に、徳内の住所がたゞ小石川として出てゐるのは、右の辺をいつてゐるのかと思はれる。とにかく二人の居宅は接近してゐたのである。

 全斎が徳内のことを報じた菅茶山は、徳内と交際があつたかどうか、浜野翁も記憶せられなかつた。しかし直接に識らずとも、徳内の名は茶山の耳に熟してゐたのであらう。

『傷寒論』を得意とした山田図南に学んだ徳内が、またそれに就いての一家の(けん)を持してゐたことは、右の全斎の書簡にも記されてゐるが、文化四年の帰郷の際にも、『傷寒論』を講じようといつてゐることが先に挙げた書簡に見えてゐる。徳内の医学に関する著書には、『傷寒論注釈』『調剤秘書』の二部が加藤氏の徳内伝に挙げてある。なほ実際に就いても、寛政十年東蝦夷巡見中に村上島之允の病気を診て、これに薬を与へたことなどが徳内の近藤重藏(あて)の書簡に見えてゐる。医学にも、徳内は相当自信を持つてゐたやうに思はれる。

『詩文押韻策』に評語を加へた一圭のことは、朝川善庵の撰んだ墓誌銘以外にはさしたる資料もない。今この『押韻策』以外に、徳内と一圭との交渉を徴するに(よし)のないのを遺憾とする。

 

     三十一

 

『詩文押韻策』の奥附には、『論語彝訓』嗣刻の予告に列べて、「孝経謹奉進全二冊出来(しゆつたい)」としてある。徳内の著書で刊行せられたものに、なほこの『孝経謹奉進』といふもののあつたことを知るのであるが、私はまだこの書を見てゐなかつた。

 然るにその後にまた川瀬一馬氏から、静嘉堂文庫に、『孝経』に関するる徳内の自筆本並びに徳内旧蔵本の『論語』があり、同文庫の漢籍の整理に当られた長沢規矩也氏が、(かつ)て徳内のやはり『孝経』に関する著書を購入せられたことのあるよしを聴いた。

 その後静嘉堂文庫を訪うた(ついで)に、川瀬氏から教へられた書物を借覧すると、それは『孝経白天章』と題する半紙判一冊で、紛れもない徳内の自筆稿本だつた。なほ同文庫で長澤氏とも会つて、入手せられた徳内の著書のことを尋ねたら、「こゝに持つて来てゐますから」とのことで、早速出して来て示された。そしてそれが他では見ることの出来なかつた『孝経謹奉進』だつた。私は徳内のこの書をまた知ることを得た。但し長沢氏の所藏本は上巻一冊で、下巻を欠いてゐたが、上巻だけでも見られたのを、私は大きな悦びとせねばならなかつた。

『孝経謹奉進』は、見返しを縦に四つにしきり、右から順に、「孝経上下二巻。最上徳内先生著。古孝経及古文今文鄭註四通流本七十余品之比校」「上巻。伝来大綱、孔序之解、歴代伝系、校本提目、便覧正文、古文略考」「下巻。古今七十余品之異同、錯乱確證、毎章対文押韻之考微、衍文圏嵌」「発行。日本橋通一丁目、嵩山房」としてある。これによつて内容の大体が知られる。徳内は、『論語』の外に、『孝経』をも徹底的に研究しようとしてゐたのである。

 なほ同書の巻頭には、「孝経謹奉進。最上徳内述説、男効進、壻祐次同校、外孫平松氏志藝訓点」とある。平松氏志藝は、『論語彝訓』の巻頭にも見える平松権平であらうか。もし然らばこの人は徳内の外孫だつたのである。

 

     三十二

 

 静嘉堂文庫に藏する徳内の自筆本『孝経白天章』は、『孝経謹奉進』の初稿本らしい。巻頭には、『論語彝訓』同様に、「最上徳内述説、男効進訓点、平松権平脚註」としてあり、内容は「伝来大綱」「孝経原始」「孝経来歴」「校本提目」「孝経白天章原文」「附言」「古孝経古字考」の数章から成つてゐる。但し最後の「古孝経古字考」は、早川敬明の撰ぶところに係り、末尾に、「文政丁亥(十年)秋七月望後一日、江戸早川敬明撰」としてある。この書の成つたのは、文政十年](1827)以後だつたのである。

『孝経白天章』と同時に、私はまた静嘉堂文庫に徳内旧藏の『論語』をも見せて貰つた。それは整版の二冊物で、徳内より以前には大田南畝が藏してゐたものだつた。巻頭に、「南畝文庫」「大田氏藏書」の二印があり、見返しに南畝の識語があつた。

『魯論古点本二冊、獲諸同寮小島氏、蓋博士家訓点、因題曰圓珠経、享和壬戌(二年)嘉平月、南畝大田(たん)題于杏花園」

 杏花園の下に文「杏園」の小印が捺してある。「同寮小島氏」といふは、まだ何人(なんぴと)かを知らない。

 そして同書の奥書にはまた徳内の識語も添うてゐた。

 

「南畝先生所珍藏之書、莫不奇古矣、此論語者吉漢官所謂国訓本也、今表圓珠経者、蓋此訓伝来之名歟、群書一覧載圓珠経之名曰、康保三年夏、右親衛源将軍、招翰林藤学士、初読論語、以之観之、圓珠経之異名已久矣、而其訓奇古者亦多矣、茲挙其一、憲問篇曰、不逆詐之逆為預也、攻之於切音家亦為預度之義〈字典引玉篇〉 先生所以高弃蓋於斯。最上徳内」

「南畝先生珍藏の書、奇古ならざらんや。此の論語は吉漢官のいはゆる国訓本也、今表に圓珠経とあるは、蓋し此訓伝来の名か。群書一覧の圓珠経の名を載せて曰く、康保三年(966)夏、右親衛源将軍、翰林藤学士を()んで初めて論語を読むと。これを以てこれを観るに、圓珠経の異名已に久し、而して其訓には奇古また多し。茲に其の一を挙ぐれば、憲問篇に曰く、不逆詐之逆為預也、攻之於切音家亦為預度之義〈字典引玉篇〉 先生所以高弃蓋於斯。最上徳内」

 

 署名の下に、「子員之印」とした円形の小印が捺してある。右の記事にいふ吉漢官は吉田篁(とん)である。『論語』の訓の奇古なるものの代表として挙げてゐる条の本文に当つて見たら、「不逆詐(アラカジメイツワラズ)」となつてゐた。徳内の右の記事は年月を記さないが、南畝(なんぽ)は文政六年(1823)の四月に歿して、藏書は間もなく売物に出た。徳内は多分書肆を経て同書を入手して、右の識語を附したのであらうと思はれる。徳内の歿後、裏松某に帰し、転じて中村敬宇の架蔵するところとなり、更に転じて静嘉堂文庫に入つたらしい。南畝の外に、裏松、中村両家の藏印のあることがそれを證するのである。

 

     三十三

 

『孝経謹奉進』は『論語彝訓』より先に成つたのであるが、『論語彝訓』について、徳内は『學初堅しん(難漢字)』一巻を著した。内容は、大學が孔子の遺書ではなくして乱世の書で、わが国体には合致せざることを論じたものである。この書は今自筆の稿本が、東京文理科大学附属図書館に藏せられてゐる。それには所々に貼紙して字句が訂正せられてゐるが、巻頭も最初書名を『大學焚稿』としたのを貼紙して改め、その次にもまた貼紙して、『論語彝訓』その他と同じく、「最上徳内述説、男効進訓点、平松権平脚註」としてゐる。

 そして右の姓名を書いてゐる貼紙を透かして、その下に「嚮所著之(さきにあらはせし)論語彝訓」云々とした小引が読まれる。それによつてこの書は、『論語彝訓』より後れて成つたことを知るのである。

 (さき)に私は、徳内を科学者として見直さねばならないことを述べたが、更に晩年の徳内は儒者として、経学者として研究せられなくてはならないものがあるのである。

 既述し来つた以外の徳内の交友に岡本況斎があつたが、寛政九年に生れて、徳内よりは四十二歳の後輩であつた況斎は、徳内の実学を認めても、その儒学を重視してゐなかつた。嘉永中に記した『相識人物志』の中に徳内を挙げて、「経済学実用に長ず。論語孝経などの註あれど反古(ほご)なり。天保七年(1836)死、八十二」としてゐるのである。果して徳内の経学(けいがく)が全然採るに足りないかどうか、その方面の専攷家(せんかうか)の研究を()ちたいと思ふ。

 これより先、文政九年に事を以て罪を()、近江国大溝藩に預けられてゐた近藤重藏は、同十二年六月九日に謫所(たくしよ)に歿した。年は五十九歳である。徳内はその時七十五歳になつてゐた。三十年前に千島列島の探検を共にした重藏の悲惨な最期に対して、徳内はいかなる感慨を抱いたか、今知ることを得ないのを遺憾とする。

 

     三十四

 

 晩年徳内は、家を更に本所回向院(えかうゐん)の側に移した。そして天保二年(1831)正月二十二日に、初めて松浦静山を訪うて蝦夷の話をした。静山は時に七十二、徳内は五歳上の七十七だつた。筆まめの静山は、それを『甲子夜話続篇』巻五十七の中に、精しく書留めてゐる。その始めに、「最上億内〈始の名は徳内〉なる者は世に知れる男なり。今は退老して予が荘の近所に住す。予これを知らず。然るにこの頃初て相見る。其話の略を記るす」として、「この頃とは天保二年正月二十二日也」と註記してゐる。静山は下屋敷を本所横網町の辺に持つてゐた。徳内の居とは目睫(もくせふ)の間だつたのである。

『甲子夜話』の記載は、二段組の国書刊行会本で全四頁に及んでゐる。その内には、徳内がアイノ等に伊勢皇大神宮の御神徳を(あが)むべきを説き、官許の上、アイノの幣物(へいもつ)を江戸芝の神明杜に献じたこと、ついで蝦夷の厚岸(アッケシ)に神明の祠を建てたが、後年近藤重藏と共に巡視の折には、風雨のために(こぼ)たれて、この祠の見えなくなつてゐたこと、依つて重藏と謀つて、再び社を建てゝ祭祀したこと、その日海上に紫雲のたなびくを望んだことなどが記されてゐる。

 徳内が近藤重藏と厚岸に到つたのは、寛政十年(1798)八月であつた。この地に神明社を再建したのは、その翌九月のことであつた。村尾元長氏の著『近藤守重事蹟考』には、このことが、「此地(厚岸)に神明社の祠宇あり。(寛政三年最上常矩建造するもの) 守重之を重修し、稲荷弁財天を合祀し、(かつ)碑石を建て、其顛末を記す」として、その碑の全文が挙げてある。

 なほ静山は、「億内(いはく)(それがし)彼地(蝦夷)に到りて見るに、松前氏と魯西亜(ロシア)行通のことありて書翰の如きも見及びたれば、江府(かうふ)言上(ごんじやう)せしこと有りしと、()もありしか」と記してゐる。蝦夷地総宰の松平忠明とも抗論した硬骨(魚ヘン)の徳内は、松前氏の私曲をも幕府へ報告してゐるのである。徳内が松前家から危険人物視せられてゐたことも、また所以(ゆゑん)があつたのである。

 

     三十五

 

 徳内は本所に於て晩年を送つて、天保七年(1836)九月五日に歿した。年は八十有二だつた。遺骸は本郷駒込蓬莱町の蓮光寺に葬られた。跡は次男の効之進が嗣いで、第二代の徳内となり子孫は相嗣いで今日に至つてゐる。明治四十四年(1911)、徳内は生前の功に依つて正五位を追贈せられた。

 私は昨年(昭和六年 1931)の暮に近い一日、蓮光寺の徳内の墓に展拝に赴いた。蓮光寺は、徳内と同じく奥羽の人だつた平野金華の墓のある浄土宗の寺である。金華の墓は東京府の史蹟に選定せられて、建札が門前に出てゐる。

 本堂に向つて左手になる相当に広い墓地を片隅から調べて行く内に、中央の辺に南面して、「贈正五位最上徳内之墓」とした、やゝ大きな自然石の碑を見つけた。裏に廻ると、中根香亭翁の撰した短文が刻してあつた。

「先生(ゐみな)常矩、字子規、出羽楯岡人、少壮渡北地(ほくちにわたり)(とゞまること)五年、天明以後屡奉命(しばしばめいをほうじ)巡硯千島樺太之地(ちしまカラフトのちをめぐり)積功(こうをつみて)列上士(じやうしにれつす)、天保七年九月五日卒、年八十二、明治四十四年、朝廷追録其功(そのこうをつひろくし)、贈正五位、諡曰(おくりなしていふ)最光院殿日誉虹徹居士。中根淑撰、市河三鼎書」

 その次にまた、「明治四十四年十一月建之」としてある。香亭翁は、遺族から示された材料に拠つて、この文を作られたものと思ふが、文中には不備の点が極めて多い。そして「少壮北地に渡りて留まること五年」とあるのは殊に宜しからぬ。香亭翁は私の敬慕してゐる人であるが、この碑文には失望を禁じ得なかつた。

 この碑は、徳内贈位後に建つるところである。寺にはなほその墓がなくてはならない。私は更に墓地の内を(くま)なく巡つて、やうやうにそれを探し当てた。右の碑の北二三十歩のやゝ東寄りに、西に面して白い苔の附着した櫛形のさゝやかな墓石のあるのがそれだつた。

 墓の正面には、上に洲浜の紋を浮出しにして、「最上院白誉虹徹居士。至光院勢誉香巌大姉。勝全院最誉法道居士」と、三つの戒名が刻せられてゐる。碑の方に記された徳内の戒名と文字の相違のあるのはどういふものであらうか。

 墓の右側と左側とには正面の人々の忌日が、「最、天保七丙申年九月五日。至、天保十一年庚子年六月二十六日」「勝、嘉永六癸丑年七月十八日」としてある。至光院は徳内の妻であらう。勝全院といふは分らない。

 なほ徳内の墓の筋向ひに、徳内の養子鉄之助の墓がある。正面に「最上鐵之助源常準之墓」、左の側面に「文化七歳在庚午五月六日卒」としてある。

 徳内の墓の現存してゐることを知つたのは嬉しかつた。しかし遺族の人々を除いては、この墓を弔ふ人は少いのであらう。それにしても蓮光寺にある墓石の内で、儒林の奇行家を以て知られてゐる金華の墓のみを史蹟として、国家的な功労者たる徳内の墓を逸してゐる東京府の史蹟指定の方針には不満が感ぜられて来る。

 

     三十六

 

 徳内の事蹟は一通り叙し終つたが、中途からまた他事に追はれて、末尾に近づくほど記述が粗略に流れてしまつた。徳内関係の資料は、今後まだまだ発見せられるであらう。徳内の事蹟は、更に大いに研究せらるべきてある。

 最後に楯岡出身の斎藤伊七氏から、書信を以て郷里に伝へられてゐる徳内の逸聞を寄せられたのを追記して置くこととしよう。

 徳内先生の生家は、今楯岡町の新町になる高宮間平の分家で、同じく今の新町にあつて、洗ふが如き赤貧であつた。

 徳内先生は幼時から大胆だつた。六七歳の頃、父の迎ひに、夜道一里もあるところへ出かけたことなどもあつた。九歳か十歳の時、弟か妹を背負つて守をしながら、寺子屋をしてゐる楯岡五口町のコガラ院へ行き、寺子達が習つてゐるのを後から覗き込んで見る。背中の子の泣くのを揺すぶりながら見てゐるので、邪魔だといはれて追ひ払はれることなどもあつた。それでも熱心に出かけて行つて、文字など寺子達よりもよく覚えてしまつた。

 後に谷地の煙草屋へ煙草切の弟子に雇はれたが、その前後の頃か、一日楯岡の東の甑岳(こしきだけ)に登つて村山(むらやま)平野を見下し、いつかはこの野を馬に乗つて通る武士にならうと決心した。

 谷地では、煙草切の(かたは)ら学問に励み、撃剣をも習つた。やがて煙草の行商となり、また貸金の取立のために、関山を越えて仙台方面に赴き、遠く津軽まで到つた。その間蝦夷地の事情などをも多少耳にするところがあつて,当時早くも北地探検の急務を痛感した。

 以上は斎藤氏の報告の大要である。候文体で書いてあるのを今改めた。文意は誤つてゐないつもりである。

 なほその後に羽倉信一郎氏から、寅軒(いんけん)井上鋼太郎氏の撰になる漢文の『最上徳内伝』をわざわざ写して贈られた。内容は従来の徳内伝から出てゐないが、その末尾に、近藤重藏、間宮林藏の両探検家を徳内に継いで起つた者として、「重藏の択捉(ヱトロフ)島に航するは寛政十年(1798)に在り、徳内に(おく)るゝこと十三年。林藏の樺太(カラフト)()りしは文化五年(1808)に在り、徳内に後るゝこと十七年なり。(しか)らば則ち北彊探検の先鞭を著くる者は実に徳内と為す。其の名声宜しく天下を震暴すべくして、世これを知るもの少く、重藏林藏の名は即ち三尺の童子猶ほこれを称するは、是れ何を以て(しか)()(そもそ)も亦た顕晦(けんとくわいと)(めい)ある耶。然りと(いへど)も方今皇威八紘に(ふる)ひ、樺太南半(すで)に我が版図(はんと)()す。徳内にして知るあらば、則ち(まさ)に地下に於て踊躍抃舞(ゆうやくべんぶ)すべき也」といはれてゐるのは同感である。この一節を仮りて以て蕪稿(ぶこう)の結語とする。

 

 追 記

 本稿発表後間もなく、徳内に就いての熱心な研究家が現れた。皆川新作氏がその人である。皆川氏はその後更に大いに根本資料の蒐集にも努めて、孜々(しゝ)として徳内研究に没頭せられて居り、その研究の一端は雑誌『伝記』誌上に、既にしばしば発表せられてゐる。その詳伝の大成せられるのも、(けだ)し遠くはないであらう。私自身は、その後徳内に就いては特に重要とせらるゝほどの資料も発見してゐず、たまたま寓目した零細な資料は、一々皆川氏に報告するだけで、手許に書留も残してゐない。それで本稿は、皆川氏の研究完成の曉には、全く過去のものとなるべきであるが、従前の徳内伝に比しては数歩を進めたつもりであり、その中間的なものとして残してもよいかと思つたので、敢へて、本書(『學藝史上の人々』)に加へて置くこととしたのである。

 

――完――

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/11/09

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

森 銑三

モリ センゾウ
もり せんぞう 近世史家・児童文学家 1895・9・11~1985・3・7 愛知県刈谷に生まれる。讀賣文学賞。江戸時代の人物伝記ないし文献資料の探索に空前の成果を上げた終生在野の碩学。昭和九年に伝記学会を設立し、機関誌「伝記」は厖大な史料蒐集と論策・表現に埋められた。かかる地道な導きによりまた多く文藝作品の開花に結びついたのを忘れることが出来ない。

掲載作は、はじめ雑誌「歴史地理」に「最上徳内事蹟考」(一~六)の題名で1930(昭和5)年6月起稿、8月、9月、11月、12月号および翌1931(昭和6)年2月、3月号で(2月脱稿)連載を終え、後年『学藝史上の人々』に、改題しさらに追記(1942〈昭和17〉8月)を附して収録された。一人物の丹念な追尋には創作とは自ずと異なるノンフィクションの至藝があり、あえて全容を迎え入れた。

著者のその他の作品