最初へ

死の家

 今年の梅雨は例年にまして、雨が多かつた。雨ばかりではない。風さへ加はつて、秋のあらしの様になつて、風をきらふ弓子を、(いや)がらせた。

 久しぶりで今日は、晴々とした、好い天氣になつた。丁度日曜日である。毎朝きまつて六時になると起しに來る小間使の初が、日曜日だけは、弓子の室の雨戸さへ、起き出るまでは開けずに置くのである。

 弓子は四畳半の化粧部屋へ這入つて、初の持つて來てくれる一ぱいの桶の湯と水指の水と空虚(から)のバケツとで、朝の身じまひをする。髪を解かしてかなり手数の掛かる庇髪(ひさしがみ)()つて、歯を磨く。それから西洋お白粉で薄化粧をして、學校行の着物を着て、袴を穿()いてしまふまで、(およそ)四十分程は掛かる。今朝は()あ様が亂れ箱の中に入れて置いて下さつた着物を着た。薄青に白上がりで、匹田(ひつた)青海波(せいがいは)を出した友仙絽縮緬(いうぜんろちりめん)(ひと)へに、長襦袢は肉色無地縮緬の襟を掛けたクリイムの絽縮緬に着物と同じ模様の友仙である。帯は白地に銀糸で荒い手綱(たづな)の出してある、金春(こんぱる)唐織(からおり)の丸帯である。ぱちんを締めるのに、緩過ぎたり長過ぎたりするのを、幾度も直してゐるうちに、結んだ帯が解けてしまふ。弓子はじれてゐたが、やつとの事で支度は出來上がつた。

 茶の間へ出て見ると、自分のお膳が一つ丈出てゐて、初がお給仕に來てゐた。小さい時お父う様に別れて、一人のお兄い様は今京都の大學に行つてお出でなので、東京の住まひは、母あ様と二人切りである。

「わたし一人なの。そんなに遅いかね。今日一日潰すのだと思つて、ゆうべ十二時迄起きて復習をしたもんだから、すつかり寝過したわ。かあ様は。」

「福島の奥様がお出になりまして、お二階に入らつしやいます。」

「福島の奥様。」

 弓子は此間中から度々言ひ込んで來る自分の縁談に違ないと思つた。やうやう學校を卒業する迄は、結婚はさせないと、極めて下さつた母あ様を、又迷はせにお(いで)になつたのか。誰がおよめになんか行くものか。今日見舞に行く筈になつてゐる、鵠沼で死に掛かつてゐるばあやだつて、およめにさへ行かなかつたら、肺病になんかならずに済んだかも知れない。内に奉公してゐる間は、風を引いたことも稀であつたぢやないかなどと思ふ。

 弓子は長年自分を育ててくれた乳母が、丁度七年程前に急によめに行つてしまつたのが、不思議でならない。いつまでもお嬢様のお傍におりますと、口癖のやうに云つてゐた乳母が、俄に人の女房になつて、今迄の倍もある大きな丸髷に結つて、お白粉(しろい)をこてこて塗つたのを見たときは、弓子は子供心に可笑しく思つた。

 乳母の夫は結婚後間もなく大阪の郵便局へ赴任した。乳母が泣きの涙で弓子に別れてから、もう七年立った。長い間來る手紙も來る手紙も、自分の軆の弱くなつたことばかりが書いてあつた。たうとう二月程前に、子供を連れて、夫に送られて、鵠沼在の實家へ歸つて來た。安心したせいか、汽車の旅に疲れたのか、めきめき病氣が重つた。母あ様がお醫者を頼んで、鵠沼まで診察に行つて貰つたが、肺結核のひどひので、お醫者にも見限られてしまつたのである。

 此頃は日々お嬢様々々とばかり云ひ暮らしてゐる。或る日なんぞは便所へも行かれぬやうになつてゐる體で、どうしても一遍東京まで出て、弓子に逢つて來ると云ひ出して、家中を騒した。そこで乳母の兄がおとつひわざわざ弓子の内へ來て、母あ様にその話をしたのを、弓子が聞いて、今日執事の山尾を連れて、九時十分新橋發の汽車で、鵠沼へ行く事になつたのである。

 弓子は御飯を濟まして、母あ様の二階から降りて入らつしやるのを、新聞を讀みながら待つてゐた。そのうち八時が過ぎたので、二階へ上がつて行つて、母あ様に挨拶して出掛けることにした。

 弓子の乗り込んだ二等室は、かなり込んでゐた。連れが男なので話もなく、人形の様におとなしく兩手を膝に載せて、發車を待つてゐた。後れ()せに、若い一人の紳士が這入つて來て、弓子の眞向ひに腰を掛けた。見るともなしに見合せた紳士の顔は、はち切れさうに肉附いた頬と頬の間に、赤子の口のやうな極く小さい口が附いてゐる。ちよいと見て、弓子は可笑しいと思つた。こんな事が好くあるので、噴き出してはならないと、一しやう懸命我慢してゐる。折々山尾の話し掛けるのに簡單に答へて、只脣を()んで體に力を入れて我慢してゐる。丁度横濱へ着いた。二三人連の外國人が立ち上がつて車を出しなに、出し(ぬけ)に赤い薔薇の花束を弓子の手に渡して行つた。弓子は不意の事で、美しい花に氣を取られて、少し可笑しさが薄らいだ。やれ嬉しいと、はつと息を衝く暇もなく、眞向ひの男は空氣枕をかばんの中から取り出して、息を入れ始めた。空氣枕は段々ふくらむが、頬つぺたは小さくはならない。却つてますますふくれて來て、今にも枕も頬も一齊にはち切れさうに思はれる。弓子は目を瞑つて見まいと思つたが、幻のやうに空想の畫き出す頬と枕とは、實際より一層ふくらんでゐる。殆ど停止する所を知らない。たうとうぷつと噴き出して、ハンケチで顔を掩つた。

 藤澤に着いたのは十一時少し過ぎであつた。停車場前の茶屋で休んで、弓子は東京から持つて來たサンドヰチツや西洋菓子や果物を取り出して食べて、山尾にも分けて遣つた。結核の病人のゐる所で、物を食べない用心をして、こゝでいろんな物を食べたのである。

 そこで車を(やと)つて、道のでこぼこした田舎道をがたがたゆられて出掛けた。線路を通り越して横へ曲ると、ま餘程遠いのに、乳母の家の大きな松の木が見える。弓子は子供の頃兩親に連れられて乳母の家へ來たことがある。松の木の多い鵠沼村(くげぬまむら)でも、此松は優れて大きく高いので、乳母は自慢してゐたのである。傍に少し背の低いのが二本並んでゐてそれに注連縄(しめなは)が張つてあつた。此の松が元からある、その下へ乳母は、弓子の家を下がる時貰つた一時金と、それ迄の貯金とを合せて、二階建ての家を立てた。その頃乳母の云ふには、不断は兄に貸して置きますが、海水浴にお(いで)になる時には、婆あやの内へお出下さいと云ふことであつた。今思へばあの家は乳母が死所に立てた様なものだ。弓子はさう思ふので、乳母の家へ近寄る心持が、いつか遊びに來た時とは丸で違ふ。

 松の木は目の前に見えてゐても、がたがた車が乳母の家に着くまでには、かなり時が立つた。最初に弓子を見附けたのは、土間で爲事(しごと)をしてゐた乳母の母親で、それが飛んで出て來た。そして「好く來て下さいました」を續けざまに言つて、二階建ての乳母の家へ案内した。戸口の内は廣い土間である。そこへ這入つて覗き込むと、六畳と八畳との下座敷があつて、その奥の方の間に自分の知つてゐた其人とは思はれぬ様に痩せ衰へた乳母がゐた。

 乳母は弓子の來るのを知つてゐたか起き上がつてゐた。そして「お嬢様ですか」と云つた切りで、泣いてゐる。それを見ると、弓子の目からも涙が出た。これは全く豫期してゐない涙であつた。けふ死に掛かつてゐる乳母を見舞ふと云ふことは、弓子が爲めに果さなくてはならない義務に過ぎなかつた。そして乳母になんと云はうかと思つて考へるのが苦になつた。泣かれようなんぞとは思はなかつた。その目に涙が出た。弓子は重荷を(おろ)したやうな氣がした。もう別に何も言ふ必要はないのである。

 暫くハンケチを顔に當ててゐた弓子は顔を上げて云つた。「ばあやお土産があつてよ。これはかあ様とわたしとで拵へたのよ。掛けて御覧。」

 紫絣の銘仙に、クリイム色の絹の裏を附けた下掛である。それを乳母に着せ掛けて遣つた。

「それからばあやの食べられさうなお菓子を色々持つて來てよ。牛乳の中へ入れる様にと思つて、ココアもあるのよ。それから婆あやが寝てゐて眺める様にと思つて、造花を持つて來たの。まだ稽古し立てだから随分まづいわよ。ほら、つづき茨に菊に桔梗に朝顔に蓮。これで習つた丈みんなよ。」

「お出を願ひました上に、色々頂戴物をいたしましては濟みません。早く直つてお禮に東京のお邸へ伺ひたいと思ひますが。」

 十日持つか持たぬかだと、醫者に宣告せられてゐる、窶れ果てた乳母を、弓子はどう慰め様もなかつた。

 乳母の枕元には、弓子のかぶきりで被布(ひふ)を着た冩眞が飾つてあつた。その後も庇髪やら高島田やら、幾らも冩眞を送つた筈だが、乳母にはやつぱり自分が手なづけた頃の弓子が戀しいのと見える。弓子の冩眞の隣に六つ(ばかり)の、目の醒める様に美しい男の子の冩眞が並べて立ててある。乳母には今年此位の年頃の男の子が出來てゐるのだが、冩眞は乳母の子にしては餘り美し過ぎる様である。

「この子供は婆あやの子なの。なんといふ好い子だらう。」

「大阪に居りました頃、好く御主人のお子様と人に間違へられましたが、やつぱりお嬢様を大切にお(あつかひ)した癖が抜けないと見えると云つて、好く宅でも笑ひました。」

 乳母は寂しい笑顔をした。

「子供は連れて來てゐるのね。」

「はい。今しがた母屋(おもや)の人達が宿へまゐりますのに附いて行きましたが、もう歸る頃でございます。お嬢様がお嫁にいらしやるまでにはあの子が十四になります。それ迄はわたくしは石にかぶりついても死にはいたしません。」

 乳母の青い顔は薄赤くなつた。そして目が異様に光つてゐる。詞とそれを言つてゐる人との矛盾とでも云はうか、何か不合理なやうな處のあるのが、弓子には不快に思はれた。

 次の間では山尾が乳母の母親に(しきり)に御飯の支度をことわつてゐる。それを聞いて弓子は云つた。

「病人のあるところへ來て騒がせては濟まないと思つて、途中で食べて來たの。ほんとよ。」

「わたくしが病氣でないと、詰まらない物でも、お嬢様のお口に合ふ物を拵へますのに。それでもお薩の新を先程掘らせたのが、ふかしてある筈でございます。どうぞあちらで少しでも召し上がつて戴きたうございますが。」

「薩摩芋は相變らず結構よ。では御馳走になつて來るわ。」

 薩摩芋なら皮があるから好いと弓子は思つたのである。そして山尾と一しよに母屋の奥座敷へ行つた。切角支度をしてあるのだからと云つて、山尾は色々の物を一人で食べてゐる。給仕に出て來た母親は、病人の事を云つては泣く。それを山尾が旨い事を言つて慰めてゐる。母親は涙がはらはらこぼれるのに、兩手を顔に當てるでもなく前掛で拭くでもなく、全くの手放しで泣くのである。弓子はこの今迄見たことのない泣き方を妙だと思つて、皺だらけの老人の顔を見てゐたが、ふいと可笑しくなりさうになつたので、さつき汽車の中の空氣枕の紳士を笑つた様な事になつてはならないと、脣を()んで餘所見(よそみ)をしてゐたが、とうとう席を遁れて、病室へ歸つて行った。

 丁度乳母の子供が歸つて來てゐた。冩眞にもまして美しい子である。乳母はくれぐれも母を失ふ此子の事を弓子に頼んだ。

 後に乳母が亡くなつてから、此子は京橋で待合を出してゐる、父親の妹の内へ引き取られた。その家へ遊びに來る羽左衛門や高麗藏が役者にしたいから、養子にくれろと、度々望んだが、子供が聴かなかつたさうである。

 山尾に促されて、弓子は歸支度(かへりじたく)を始めた。實は「死」の家を離れるのが嬉しかった。そして堪へがたさうに名殘を惜む乳母を見て、自分を一瞬間不満足に感じた。

 乳母は縁側迄這ひ出て來て、見送つた。もう四時近いのである。片蔭がすつかり出來て、一面の青い畑の上を凉しい風が吹いてゐる。車の廻りには近所の子供が珍らしさうに集まつて來た。「東京の女は妙だなあ。夏首巻をしてゐらあ」なんぞと顔を見て云ふ。きたない子等の中に乳母の子は別物の様に美しく見えた。

 弓子は「さよなら」と云つて車に乗つた。鼻を垂らして、赤いくしやくしやした目をした子供達も聲を合せて「さよなら」と云ふ。乳母の家の人達はみんな出て來て見送つた。車はがたがたと細いくねくねした道を動き出した。弓子が振り返つて見ると、乳母はどうして登つたか二階の窓から幽靈の様な顔を出して、こつちを見送つてゐる。弓子は「死」の影が自分に附いて來るやうな心持がした。

 

──完──

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/06/13

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

ePubダウンロード

森 志げ

モリ シゲ
もり しげ 作家 本名森茂子・鷗外夫人 1880・5・3~1936・4・18 東京に生まれる。

掲載作は、「森しげ女」の名乗りで1911(明治44)年9月1日創刊「青鞜」第1巻第1号所載の小説。長谷川時雨、岡田八千代、与謝野晶子、国木田治子、小金井喜美子らとともに「森しげ子」は青鞜社賛助員であった。雑誌「青鞜」は主幹格らいてう(平塚明子)による感想「元始女は太陽であつた」により喧伝され一時代を画した。創刊号巻頭には与謝野晶子の「女」宣言でもある「そぞろごと」が掲載され、此の「電子文藝館」にも抄出してある。

著者のその他の作品