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ノートル・ダムと25年

 遥かなノートル・ダム

 ノートル・ダムの姿を見なくなってから、もう一カ月半経った。十何年かのパリの生活の間、この石の伽藍(がらん)は、いつも私の視界にあった。冬の霧の中に奥深く影絵のようにかすむ時、マロニエの花の香る五月、一点の雲もない朝の空から降り注ぐ太陽の光を浴びて、白銀の(いろり)のように輝く時、あるいは、あらしを孕む日暮がた、慌しく流れる黒雲の下に、夕陽に赤黒くそのはだをけば立たせて、みにくい巨獣のように横たわる時、私の心はあやしくそれに共鳴し、ある時は、自分の中に深く沈潜したい想いに駆られ、ある時は、自分が世界をみたす光の中に融けて空無になるかと思われ、ある時は、赤熱する情念がうずくのを意識するのであった。こうして歳月は流れ、季節は繰り返し、私は年をとっていった。それは、ノートル・ダムのことだけではなかった。自分を(めぐ)るすべてのもの、すべての人との係わりの中にも同じようなことが起り、そして私は年をとっていった。だから、ノートル・ダムは私にとって、一つの機縁にすぎなかった、とも言えるであろう。何の機縁か、と人は問うであろう。しかし正直のところ私にもそれはよくは判らなかった。しかしそれが何かの機縁にすぎなかったことは確かであった。

 やがてノートル・ダムの内部がだんだん見えるようになってきた。あの巨大な双生児のような二つの角塔は、驚くほど太く頑丈な石柱で内部から支えられ、その石柱は塔の上から下ってくる莫大な重量の働く力線の数だけの石柱の巨大な(たば)であった。このいわば分析的な量感に溢れる大石柱は本堂の内面にそって二列に(なら)び、上部は穹窿(きうりゅう)形に交叉して高い石の天井を支え、祭壇を中心とする一つの大十字形の空間を定義しているのであった。この空間は単に量的なものではない。ヴィトロー(玻璃窓(はりまど))からさし入る多彩な光とオルガンの響きと祈りとは、その空間を外部に対してさらに質的に限定している。そしてこの内面の質がそのまま石になって凝固したものが、目の前に見るノートル・ダムなのである。上から降下する力の辿る線は、ゴチックの尖形の窓となり、上昇する祈りは塔や窓の先端となり、迫持(せりもち)に支えられた建物の全体は、一つの音楽的な調和を具現する。建物があれば内部があるのは当り前ではないか、と言ってはならない。そんなことは頭で考えたもの、つまりつまらないものであって、上があれば下がある、右があれば左があるということを出でない。頭で考えるのではなく、感ずる、内部があることが感ぜられてくる、ということ、これはそう手っとり早く起ってくるものではない。ただここで重要なことは、頭で解ることと感ぜられてくることとは決して同じではなく、雲泥の差がある、ということである。そしてこの第二の道、感ぜられてくるということは、対象がそのあらゆる外面的、したがって偶然的なものを剥奪され、内面に向って透明になってくることであり、それは対象が対象そのものに還ることだ、と言い換えてもよいであろう。それを私は感ずるという言葉でしか言い表わすことができない。そしてこれが経験の第一歩なのである。ところでこのことは、換言すれば、すなわちこの、経験の第一歩だということを別の言葉で言えば、我々の側においてもまた内面が始まる、ということ、さらに言い換れば、我々自身が空虚でないものになり始める、ということなのである。そこに理解するということと感ずるということとの根本的相違がある。感ずるということ、すなわち感覚の一つの状態が自分の中に形成され始めると、それが限りなく深まりうるものであることが判ってくるであろう。いま、私は感ずるということをこれ以上説明することができない。ただそれがヨーロッパ文明の根柢にある、在る、存在する、という思想に非常に近い何ものかである、ということだけを言っておきたい。またそれがというものと似てはいても全く異るものであることをつけ加えておきたい。

 こういう考えに到って、私のパリにおける生活は次元と展望とが全く一新されるようになった。こうして、私は、私なりに、パリとフランスと、そしてヨーロッパとを知り始めたのである。それは、カタクリ粉を湯で()ねると不透明な混濁した半流動体ができるが、それがある瞬間からおもむろに透明になり始めるのによく似ている。これに必要なのは時間であり、忍耐である。ある経過がなければ、この道程は絶対に検証されないのである。それはまた冒険でもある。というのは、感ぜられることは、決して予見することができず、すくなくとも意識にとっては、突然、ある日、ある瞬間にはじまるものだからである。一六一九年のある日、ある時刻、デカルトを襲った「驚くべき学問の根柢」の啓示はまさにこういうものであった。かれはその「方法叙説」においてはこの経験を語ることを注意深く避け、「方法叙説」あるいは「精神指導の規則」によって方法的に獲得した知識の確実性をも懐疑する形而上学的探究の基礎として、「我思う、故に我在り」を置いた。この間の消息は十分に考察しなければ何も言えないのであるが、かれはこの根本命題において、真実に思考する、ということの経験をえたことを表現しているのではないであろうか。

 とは言え、冒険は単なる冒険ではない。その前に、深い内面の促しがあり、それによって人は冒険に身を投ずるのである。そして、この促しによって人が一身を賭する、という点において、真の経験は体験とは断然類を異にするのである。これは意志ということの最も深い姿の一つであろう。カタクリ粉を捏ねているうちにたまたま何か透明なものを見付けるというのではなく、混濁した半流動体のカタクリ粉そのものが、ある瞬間から、透明になってくるのである。

 促しから冒険を通して直の経験ヘ、これが今の私には思想に到る唯一の道であるように思われる。そういう道程において、ノートル・ダムは、それ自体において、一つの思想であり、私にとっては一つの機縁になったのである。

 ノートル・ダムを想いながら少しこみ入ったことを述べてしまったが、私の真意は、ノートル・ダムが私につきまとって離れないことを言いたかったのである。一カ月半前から私は自分の生れた日本に十一年ぶりで帰り、古い友人達に会い、いろいろのものを見た。そしてそのたびごとにノートル・ダムを想ったのである。これは比較というような問題ではない。まして日本とフランスとの優劣の問題ではない。それはむしろ一つの驚き、と言った方がよいかも知れない。十一年間、さらには十六年間、フランスの風物とその文化の中に埋没して暮した私が、自分の中に形成された教養のさらに奥にある、かの地では夢の中にしか息づいていなかったような生れた国に再び帰り、そこで新しく流れ入る感覚が、自分と衝突するどころか、自分の中に一つの秩序をさえ形づくるのを意識したのであった。それは一見異質のように見える二つの文化が、相互に破壊しあう代りに一つの存在の序列のようなものの中に入り、衝突するとか相互に補いあうというのではなく、それぞれにそういうものとして、そこにあり、私の内部には自分の経験がそのものとして成長する、ということを意識したのである。それは、自分の経験は、自分の経験であって、フランスでもなければ日本でもない、ということである。この点は誤解を招くおそれがあるので少し説明したいと思う。こういう事態はある一人の人間が純正に日本人であり、あるいはフランス人であるという事実を些かも変えることではないのである。ただ、自分の中に経験が形成されはじめる時、それは一個の人間を定義するものであって、日本人あるいはフランス人を定義するものではない、ということなのである。日本人、あるいはフランス人を定義するものは、すでにそこにある。そのあらゆる偶然性をもってそこにある。しかしそれは人間を定義するものではない。経験において、人間である日本人、人間であるフランス人、あるいはもっと端的にいえば人間がそこに現れるのである。そういうことなのだと思う。この際、問題の中心になる経験というものは、植物や動物や人種のように自然的にあるのではなく、また国籍や市民権のように外的条件によってあるものでもなく、ある一つの促し(それは個人になるための種子であり、また本当の社会の基底である〉から出発して冒険を通り、経験の形成に到るのである。それは一つの事実であり、人間となる、人間そのものに本質的に属する歴史であり、経験そのものはある経験を超えるものを定義することによって、歴史と伝統とに参与するのである。それは予めその成果を測定することはできない。他面から言えば、人間が自己の自然と外的条件に克っていく歴史でもある。

 こういう内面的事実に立脚する時に、日本とフランスとは新しい序列の中に入る。これもまた経験における事実であって、いろいろと工夫してでっち上げた観念的構成物ではない。それは日本とフランスとが日本とフランスそのものに還るということでもある。

 こうして私は、一方において(というのは他方にさまざまな困難な問題があるからであるが)、安らかに日本に帰り、その中で一カ月半暮した。日本人ではあっても、海外で長く暮した者として、困難な現実の問題のみちた日本について語ることは、十分に慎むべきであり、むしろ聴くことから始めなければならないということは心得ているつもりである。ただ私も日本人であり、海外で私が出会ったさまざまの困難な事態は、日本の困難な事態の反映であり、それ以外ではありえなかったのである。その意味では私も日本の中にいたのであり、その問題に触れないわけにはいかなかったのである。

 私がはじめてフランスに渡ったのは、一九五〇年八月であったから、それから十六年の歳月が流れたわけである。当時は戦後五年を経たばかりで戦災の跡もまだなまなましく残り、我々は連合軍の軍事占領下にあって、フランスに渡るのにも日本政府発行のパスポートはなく、占領軍の出国許可書一葉を携えていただけであった。その後講和条約も欧米諸国と結ばれ、新憲法も発布され、東京を始め、戦災各地の復興も行われた。

 日本は変わった、と言われる。そして、事実、それが非常に大きい変化であったことは言うまでもない。しかし、こうして年を経てこの変化したという東京に帰ってきて、私は、やはり同じ東京に戻ってきたという圧倒的な印象をどうしようもなかった。どこがそうなのか言葉で述べることはむつかしい。しかしそれが同じ東京であり、同じ日本である、ということは動かしがたい印象であった。たしかにそれは印象であった。検証された事実ではなかった。しかしその印象は圧倒的であって、頭で纏め上げた事実などでどうなるものでもなかった。そして日が経つにつれて、この印象は確認に変っていった。

 東京は外観の上でさえ変っていなかった。高速道路、高層建築、そういうものも戦争があろうがなかろうが当然東京が造るはずであった高速道路、高層建築にほかならなかった。この近代化は東京の近代化、さらに適切に言えば近代の東京化であって、それ以外のものではなかった。これは明治以来の日本の西欧化、より正確には西欧の日本化であって、全く軌を一にしているというほかはない。そこには何の新しいものもなかった。東京は旧い東京のままでそこにあった。私は今ここでそれがよいか悪いかを問題にしているのではない。一つの認定について語っているのである。そして私は、こういう東京に触れた時、深い安堵の念を覚えたことを否定することができない。丸の内のビル街も高速道路も例外ではない。濃淡のニュアンスを帯びた灰色の建物の群れは、まさに東京の、あるいは日本のビル街である。こういう東京の内部にいれば変化は大きく感ぜられるかも知れないが、外から帰ってくると、それは明治から連続した日本である。それは外からくるものを決してそのままでは受けつけず、日本化せずにはおかない、あるいは外部のものに、そのままでは、耐えられない日本なのである。それはさらに遠く(さかのぼ)って、千数百年前の大陸文明の摂取以来一貫して認められる日本の大きい傾向である。こういうことは、外形だけの問題ではなく、言葉、考え方、生活様式の隅々まで支配している。言葉一つを取って見ても、かの圧倒的な中国語の影響の下に記載語としての日本語が成立したにもかかわらず、その影響は記載法と語彙の面に限られ、日本語の文章の生命的部分である動詞、助動詞、助詞など、日本人の考え方そのものを表現する部分は驚くべき頑強さをもって存在し続けてきたのである。はては、かの漢文において見られるように、中国文を日本文として読むという離れ技まで演ずるに到ったのである。

 私は、長いフランス滞在中、日本人の思想について講演することをフランス人からたびたび依頼され、哲学者の集会や大学都市などにおいて、何回か連続して日本人の思想について考えた。私の注意は、始めのうちは、以上述べたような意味における日本人の思考法の特色に向けられ、殊に言葉の分析を通して、また大陸の文化、ことにその思想、宗教の日本化の道程を通して、日本人の思考に接近しうると考えていた。これはある意味から言えば間違っているとは思わないし、この方向を厳密に辿ることによって確実ないくつかの成果を手にすることもできるであろう。またある意味で、日本文化の歴史はこの意味の分析を典型的に行いうる稀有の実例の一つであろう。しかしやがて私は、こういう分析を典型的に行いうるということ自体に、またそういう事態そのものに不安になってきたのである。それは私の中にひそやかに成長し始めていた経験と、その性格と構造とにおいて、根本的に矛盾する事態だったからである。それはさらに端的に言えば、そういう事態は、日本とその文化を定義しえても、一個の人間としての個人というものをすこしも定義してはいない、ということであった。自己の促しというものは、本質的には、そういう非個人的な傾向に対立するものである。非個人的と言っても、具体的な経験が開始される時、各個人の中に働く促しの実現をはばむ要素として個人の内部に自覚されるほかはないのであって、経験はそういう自己の内部における対立を本質的に含むものであり、それを超克して促しの指し示すところに赴き、冒険に身を投ずること、またその結果なのである。私がしばしば引用する句をもう一度引用することを許されるならば、それはアランの言う「自己の自己に対する対立」であり、パスカルの「自己の自己に対する同意」なのであって、両者は同じことを意味しているのである。そしてはじめの出発点となる促しそのものは、一見漠然としたものでありながら、欲望とは根本的に異るもの、いな、はじめは欲望と混在して見分けがたく働いていても、やがてそれと鋭く分離しはじめるものなのである。こういう言い方がはなはだ独断的に見えることを私は承認する。しかし私にはそう言うよりほかはないのであって、それはまた経験というはなはだ厄介な、一切の説明を拒否するものの特質に基くのであり、またそれなしには、個人というものの究極性は根本的に喪われてしまうのである。これには一点も甘いところがあってはならないし、内容的には厳密きわまりないものである。それ故に本当の経験というものは、本質的には、直接的提示ができないものなのであって、それにある「名」をつけることができるだけである。だからそれを定義し、表現するにはどうしても象徴的な道を採らなければならないのである。そうではなく直接に提示可能なすべてのものを私は体験とよび、経験と厳密に区別するのである。そして、直接に提示可能なものは、まさにそのことによって、個人の経験ではないのである。パスカルは、そういう深い促しを「本能」と呼び、デカルトは「真理の種子」と呼んだ。キリスト教はそれに「召命」という名をつけ、こういうものにカントは最も形式的な定義をあたえた。そういうものが人を冒険に投ずるのである。そしてそれを表現することは、本質的には、ある行為、あるいは文学や芸術の創造的行為によってのみ可能となるのであり、またそこにそういうものの最も深い存在根拠が見出されるのである。それは体験のもつ直接的提示の可能性とはおよそ対蹠的なものであり、それは不断に暗示と象徴のまわり道を辿り、それを見る者の側にも、その人の経験の成長を必要条件として求めるのである。そういうわけであってみれば、本当の経験は必ず誤解されるのがほとんどその宿命だと言ってよいであろう。

 こういう風に見てきて、日本文化の在り方をふりかえるならば、そこに体験的要素がきわめて強く、外国から入ってきたものを、その経験の根柢まで掘り下げて思索することをせず、むしろ逆に新しいものを自己の体験で理解しうるものに変化させようとする傾向が無意識のうちに強く働いていたように思われてならない。もちろんこういう体験的傾向はそれ自体はわるいものではもちろんなく、ある場合には大きい長所でもある。しかし、事柄が思想、文学、芸術などの、本来経験に固有の領域に入ってくると、時として致命的な欠陥を現わすように思われるのである。

 東京が依然として東京であることの発見から、話がまたむつかしくなってしまった。昔の人は、和魂漢才とか和魂洋才とか言って、こういう傾向を直裁に表現したが、それはもちろんそれを是認する心構えで言っているのである。東京をそういうものとして印象づけられたことは、そこに、古い江戸時代からの建造物の美しさを更めて認識することによってさらに強められた。東京は幸にして何から何まで灰燼に帰することからはまぬかれた。たとえば、本郷の赤門や寛永寺の五重の塔などは、それを見ていると、その美しさに目をみはるばかりであった。しかし何と言っても圧巻は旧江戸城の城壁と城門、それらを含む濠割で繞らされた一帯である。それはそれ自体実に美しいが、私を打ったのは、たとえば馬場先門や平河門の辺りで、そういう江戸時代の建造物が濠や広大な空間を挟んで櫛比(しっぴ)する近代的なビル街に対して立ち、そこに醸し出す対照であった。そして驚くべきことには、この対照の中に一種の調和が表われているのであった。灰色の巨石を重ねた城壁、その上の土手や松、白と黒のひきしまった城門のかもし出す調和は、反対側にある濃淡の差のある、規則正しい直線で区切られた、灰色の大ビルディングの群れと呼応して、それに圧倒されるどころか、全体の風景の中心として、広大な力学的構成を可能にしているようにさえ思われた。これは単なる印象であろうか。あるいはそうかも知れない。しかしすくなくとも私には、旧江戸城が、その内部の宮城は戦災で灰燼に帰したとしても、その規模と構成とによって、近代化された東京を見事に支えてたじろがないのを感じたのである。そしてそれはまさに、そのビル街が、よかれあしかれ、日本人によって摂取された近代欧米風のビルだというところに理由があるように思われた。だから私には、その印象的な調和は単なる偶然とは思われないのである。もし今のビル街の代りに、パリのように密度の高い、個性の強い町がそこにあったとしたら、調和は果して破れないであろうか。様式的統一をかく、その意味でほとんどアモルフとも言える東京のビルは、その色と形体だけによって、すなわちその純粋な外面性の故に、旧い江戸城の布置と折合っているのかもしれないのである。ここで本来ならば、日本文化そのものの性格と本質とに関する論議がなさるべきであろうが、今はそれをしない。それには、これだけではあまりにも材料に乏しいし、また只今はこの点について何かを述べるための用意に欠けている。だからここでは、私の印象的な感じをいうに止めるほかはない。ただ私自身の考えでは、こういう、体験的に成立してくるものに反抗し、したがって最も深い意味で自分自身に反抗し、促しに従って自己を求めていく時に堆積してくるものが経験であり、したがって外面的に文化現象の流れを分析したものは、それが言語であれ、造形であれ、文学であれ、思想であれ、日本人の経験を明らかにするどころか、日本人が真の経験を自己の中に確立するための一番手強い敵でさえそれはある、と思われることがしばしばある。それは過去の日本人が本能的に感じていたところのものであるように思われる。聖徳太子以来歴史上の優れた日本人が大陸文明の只中に送られ、信仰、思想、芸術の源泉に汲もうとしたことは、体験としての日本化に対する暗々裡(あんあんり)の抵抗であったと思われる。あるいはまた逆に、かの国学におけるように、日本そのものの源泉に還ろうとしたことも、形は異っていても、本当の思想と経験とを特色づけている根源性を恢復しようとする運動であったと思われる。しかし本当の経験の根源は自己の中にあり、自己を一個の人間として定義する基礎となる自己の中の促しにある。そこに本当の思想と経験との人とともに更新される新しさがある。そこに一人一人の人間が自ら責任を負いうる根拠がある。こうして体験は自己との戦闘を通して不断に経験へと転換されなければならない。人間的(ユマン)とはこういう人間の事態のことを言うのであろう。過去、現在の日本文化の営みも、その普遍的法則を出ることはできないであろう。純粋の体験もない代りに、純粋の経験もないであろう。ただ大切なことは、体験から経験へのこの転換を活溌にすることであり、後者の前者に対する度合をたえず高めるように努力することである。体験は、その本質上、群をつくり、徒党を組む方向にむかうが、経験は、その本質上、孤独な個人をつくり出すのである。この問題はもうこれ以上言うことは無意味であろう。

 日本で私は、幼い日に自分が生きていたところどころを通りすぎた。これはそれ以上の意味はないのであるが、それは私を深く感動させた。長い海外生活で、一番しばしば見る夢は、私の幼年時代や少年時代のことである。もちろん夢のことであるから、アナクロニズムに充ちている。そこでは五十歳をこえた私が幼少年時代の世界の中に、無邪気に生きているのである。私はタクシーに乗って数回甲州街道を新宿から調布多摩川の方に往復した。私は生れてから幼少年時代、この街道に面する角筈の一隅で育ったのであるが、その頃は京王電車も代々木(今の明治神宮西参道口)と府中の間しか通っておらず、中央線の電車も甲武電車と言っていた。山手線は通っていたが、小田急もなく、新宿駅までは歩くか人力車しかなかった。家も疎らで、私の家の辺りは、二三軒しか立っておらず、大きいガスタンクまでの間は一面の茶畑で、近所をながれる神田上水には大きいはやがたくさん泳いでいた。私が父母や祖母と住んでいた家は、もと質屋が建てた頑丈で広い日本家屋で大きい倉がついていた。この家は、パリ生活の間、私がしばしば夢で見たのであった。父は私が十四歳の早春なくなったが、この父の死は私に深く刻みつけられていると見えて、父は死んだ人間として夢には決して出て来なかった。真夜中にふと気がつくと、広い家の雨戸がまだどこもしめてなく、それをしめる人は自分だけしかいないことを思って限りない恐怖の念に襲われるところで目がさめて見ると、ちゃんと鍵をかけたパリのアパートにねている自分を見出す、などということもあった。数年間、一家の事情でほかのところに住んだ外、私はこの家で敗戦の前年まで暮した。家は戦災で焼けた。それと、戦争末期から、一九五〇年パリに赴くまで、本郷追分に寮生活をしたことが、日本での住居についての私の全過去であった。

 タクシーの窓から、昔天神橋とよばれる神田上水にかかっていた橋のたもとにある大銀杏の木が、やはりそこに生えているのを見て、自分の家のあたりを確認した。道幅は広くなり、京王電車は地下に入り、明治神宮西参道からは高速道路が大きいカーヴを描きながら甲州街道に入っていた。街の昔の面影は消えていたが、それでもそれは昔の配置の輪郭を存し、それと再認することは簡単にできた。その銀杏の木だけが、周囲に大きい建物がたくさんできたのに反比例して、小さくなって見えただけである。

 私は、その時、タクシーの中で、その昔をなつかしい、と思っただけで、ほかに何の感想もなかった。昔と今との相違も、海外ヘ行った私が幼い日の自分とどう関係しているか、ということも、一切考えなかった。ただある時間が流れ去った、ということだけをまざまざと感じ、それは、この場合、なつかしいという一言でつくすほかなかったように思われるのである。タクシーは瞬く間に、幡ケ谷の方に進んで行った。いま、ふり返って考えてみると、私の中にあるすべてのものは、すでにその昔にみな私の中にあったようである。ただそこには、父が死んだあと、私を見る目が欠如していたように思われる。だからそれは時の流れとなり、なつかしさになるのであろう。父がずっと生きていたら、それはなつかしさ、というようなものではありえなかったような気がするし、また父の死を私が生れる時まで押しやって、幼少年時代全体になつかしさを流れさせているような気もするのである。そしてそれは相当に強い私の生きる姿勢であったように思われる。ある意味で、成人してからの私の生活というのは、この消え失せた父の目が少しずつ再現しはじめ、生きるということが単なる時の流れではなくなる過程であったように思われるのである。しかしそういうことまではタクシーの中では考えなかった。つまり父の死は、私の中における経験の自覚を少くとも十五年おくらせたのである。私において、自分の経験の起源を問題にするならば、それはフランスへ渡ったことではなく、父の死をめぐる私の姿勢の中に求められなければならない、と思うのである。

 そういうわけで、私にとってフランスに渡ったことは決して大事件ではなかった。現象面のさまざまな混乱した異常な情況にそれが包まれていたとしても、またいろいろな事件をそれが派生させたとしても、それ自体は大事件ではなかったのである。だから、大学生になってから触れたものは、もう私には、なつかしさという情感を伴って(よみがえ)ってはこないのである。

 大学の赤門や上野の五重の塔の美しさは、過去のなつかしい追憶とは何の関係もない。それは現在の感覚である。本郷通りを歩くと、三十年前の私の問題がほとんどそのまま現在の私の問題であり、それは連続した一つの道程として、(ほの)かななつかしさは、それに押しやられてしまうのである。それでも、幼い日の追憶はおりに触れて吹き出してくる。動物園で象の小屋へ行くと、昔の赤煉瓦の建物の一部が残っていたり、猛獣の小屋や猿の大きい網籠(あみかご)が同じところにあったりすると、思わずなつかしさの想いが溢れてくるのであった。

 父がなくなる前の年の夏、大磯へ行ったが、湯河原へくる電車が大磯を通ると、大きい枝ぶりの松並木の旧街道の一部や昔いた家の辺りが、ほとんど変らず、また父と一緒に行った根府川が、その頃はまだ熱海線の鉄道工事の最中で、石ころだらけの斜面に仮小屋のような駅があったのがなつかしく思い出された。そして崖の上から見晴らせる相模湾だけが同じように青々と拡がっていた。大島は霞んで見えなかった。沼津と静岡の間で、京都へ行く東海道新幹線の列車の食堂車から、晴れた秋空にそびえる雪を戴いた富士を見たことも深く印象に残っている。

 こういうことは、フランスへ来てから、十何年ぶりでフランスの同じところを通った時の想いと全く同じで、その意味では、日本とフランスとの区別はまったくなく、すべて淡い、たそがれのような色調の過去の中に一様に埋没している。そして日本とフランスとは、私の主観的情感とは何の関係もなく、日本は日本として、フランスはフランスとして、それ自体に還ったのであり、それはもう主観主義とは何の関係もない私の経験の対象としてそこに存在しているのである。両者の文化が種々の点で相違するのは当然であるが、そのために私の経験が混乱することは決してないのである。対象がそれ自体に還る時、それは私の中におのずから一つの秩序をあらわすことを知ったのである。そういうわけで、経験は対象を対象それ自体に還らしめる力でもある。さらに詳しく言うと、対象が単にそれ自体になる、というのではない。それは当り前のことでそういうことを言うのは無意味である。対象が、私にとって、対象自体に還ることをそれは意味するのである。それは対象よりもむしろ私自身の変化であり、それは自己の自己に対する不断の戦いでもある。

 十一年前、南まわりの旅客機で日本へ帰った時には、夕方、太平洋上から遥か西に横たわる日本列島を望見し、深く感動したが、今回は、グリーンランドからアラスカの北を通り、ベーリング海峡から、アリューシャン列島に沿って、日本に接近した。遠く水平線上に千島と北海道、さらに本州を黄昏の光の中に望見した。しかし昔の感動はもう帰って来なかった。ほとんど無感動、無関心とも言える状態で私は日本に近づいた。しかし本当は、それは無感動でも無関心でもなかった。私は自分の中に、日本が、抒情の波に乗るにはすでに余りにも深く沈澱し、何か名づけるすべもないものに変容して、存在しはじめているのを意識していた。他の何ものとも共通項をもたないような究極的な要素としての自己そのものとしてそこに息づいているのを秘かに意識していた。一人の人間として、徹底的に行動し、働けばよいのだ。そこには、自分にとって、もっとも深い意味で日本が表われている筈だ、とこう考えた。私には、日本人であることはそれで十分であるように思われた。日本人であることが意識的な出発点となってはいけない。我々はいやでも応でも日本人として終るようにすでに生れているのだ。それをどうすることもできないのだ。そうとすれば、最も広く深い地平から、全ての力を傾けて、この終結点へ向って歩むべきではないであろうか。それのみが日本人であるということを自分なりに最も豊かにする道ではないであろうか。それは、人間となることと日本人であることとが一つになる唯一の道であるように思われる。

 東京へ着いて間もなく、東横ホールで、親友木下順二君の「夕鶴」を見た。そして、一人になられた山本安英さんのつうを見た。感動はやはり大きかった。ホールは最終日で中学校の生徒さんで一杯だった。気のせいか、山本さんの演技が十数年前よりもっと表現的になっているような印象をうけたが、これは客観的にはどうか判らないし、長途の旅行の直後で疲れてもいたので、何とも言うことはできない。ただ私は、「夕鶴」を見ながら、この芝居がもう私の心のふるさとに確実になっているのを意識した。それは何の理屈もなしに、そういうものであった。十六年前に毎日ホールで始めて見た時のように感動し、同じところで涙が出た。舞台は、戦争直後と今日とでは、格段な差があった。しかしそういうものが、これが芝居にとって大切なものであるにもかかわらず、ほとんど意識されないほど、「夕鶴」はそれ自体の美しさでそこにあった。この「美しさ」は何であろうかと考えた。木下君にはその後何度も会っているのに、そのことは話せなかった。というのは、それこそは観衆の一人である私が自ら考え、自ら解かなければならない問題であると直感していたからである。ただ私は、十六年の歳月が自分にも社会にも蒙らせた多くの変化を考え、また自分も自分の国である日本も暴風雨を孕む未来を望んでいることを考え、それらのすべてを貫通している「夕鶴」の美しさを思った。それは何かを定義しているのだ。そこには作者木下君と山本安英さんはじめすべての俳優とまたこの上演に参加したすべての人の働きの結晶である一つの経験があるのだ。だからそれは何かを定義しているのだ。何を?人間?日本人?しかし、もし何を定義しているかを言おうとすると、その何かを表わす言葉は計るべからざる重味をもっているはずだ。一つの言葉、この芝居全体が表現し、定義している一つの言葉、この作品に冠せらるべき真に伝統的な言葉、その言葉決定的に置くことは詩人が決定的な一語を置くと同じくらい大切な、深い意味をもったぬきさしならぬ行為であることだけが判っている。観衆も、それが本当の観衆であろうとすれば、こうして一人一人自分の中に創造の行為を営むことになる。この芝居のもつ感銘は、そういう破目ヘ我々を追いこむ。こうして私も自分の貧しい経験の世界へ追い返される。そこでしか私のさがす言葉は見つからないであろう。私は、どこかで、経験は一人の個人を定義する、と言ったことがある。しかし同時に、それは個人であって個人主義ではない、とつけ加えた筈である。私は、この芝居を見て、本当に個人になることだけが、この芝居に参与する、つまり人間の共同を成立させる条件である、ということを一つの実例によって教えられたと思う。これは限りなく厳しい道である。山本さんも木下君も一人の道を歩いている。そしてこの共同の経験を見事に成立させた。経験が個人という唯一つの置き換えることも避けることもできない究極的なせまい道を通って、大きい共同の世界へ、社会へつき抜け、そういうゆたかなフォルムを形成するのを見るのは深い感動である。その意味で経験社会的であることがその本質である、とも言えるであろう。こういうことは、理屈としては三文の価値もないものであって、実現して、そこに存在しはじめた時にだけ意味がある。この芝居の存在はそれを私に見せてくれた。こういうことは今の社会において、おそらくは昔にあっても、稀有のことである。何となれば、そういうことは「哲学」という名で呼ばれるものの全体をそこに含むからである。

 上演が終って出て来ると、入口には、いま芝居をみた生徒さん達がガヤガヤしている。おもては車と通行人が行き交う乱雑な東京であった。けれども、この「夕鶴」という作品はもうすでに存在している。それは、現在の存在だけではなく、将来への希望でもあるように思われた。存在はどんな情況の中でも耐えて行くからである。耐えることは存在が本当に存在であることを実証する唯一の道程であるように思われる。うかうかしていても存在しつづけるものは単なる自然物であり、自然物は結局崩れ落ちる。作品、古典、そういう名で呼ばれるものの本当に厳密な意味での勁さはそういうものではなく、デカルトがいうように、瞬間ごとの決意によって人間的に、社会的に持続するものにのみ許されるのだと思う。安易なものはここには一つもない。一つ一つ自分の内と外との、またあらゆる種類の障害をめぐり、処理し、克服して進むとまた別の障害が群がって出て来る。こうしていつ果てるともない辛い歩みが続くのである。それは、人間の道徳、そのあらゆる徳目を発揮しても尽きない障害の海である。蜘蛛の網の目のように張りめぐらされた困難のその中を一歩一歩、面倒がらず、億劫(おっくう)がらず、細心に、綿密に、また大胆に歩いて行かなくてはならない。「夕鶴」を見、木下君と話をし、山本さんにお目にかかっていると、そういうことを感ずるのである。この感じに言葉をあたえることは、私にはまだできない。

 旧い東京を新しい東京の中に再び見出したというところから出発して大変困難な問題に行きついてしまったようである。しかし幾多の接触を通して、私は現在の日本が直面しているむつかしい問題に、いろいろな面から触れることができるように思われた。それは一言でいえば、存在の欠如である。あるいは経験の、と言い換えても構わない。同じことである。ある新聞に書いた時は、その同じものを空虚さと表現した。ある時には、私はそれを日本がアジアにおいて置かれた困難な位置によるものではあるまいか、と考えた。

 第二次大戦後、世界には大きい変動が起った。それは甚だ多岐な理由によるものであり、それを一々あげることはできない。その中で植民地の解放と共産主義革命による新しい中国の出現と社会主義体制の進展とは、最も大きい事件の中に数えることができるであろう。

 現在のところ、その波紋はアジアに集中的に表われている。共産主義中国はいろいろな形でその革命の徹底を計りつつ、蒋介石政権下の台湾と対峙し、朝鮮とヴェトナムとは南北に分裂し、インドネシア、ラオスは左右の間に大きく揺れ動き、インドとパキスタンとはカシミール問題で対立している。それに加うるに、中国を東南から繞る全領域にはアメリカの基地群の網が張りめぐらされ、その上中国とソ連とは絶えずイデオロギーの対立を示している。世界中でこれほど危機が集中的に醸されている地域はほかにないであろう。その中にあって、ヴェトナムでは冷戦は熱戦に転化し、その前途は容易に見透しを許さず、最悪の事態さえも恐れられている。日本は片面講和と安保条約によって、国際的には、当分決定的にアメリカ陣営に組み込まれ、アメリカが戦争にある程度以上深入りすると、日本もそれに捲き込まれる公算が大きい。大震動の後の安定がまだ実現していないのに、ある方角に日本が国運をかけてしまっているこの状態は何と言っても大きい不安を我々に抱かせざるを得ない。この大きい不安が、物質的状態の改善と相俟って、国民を享楽を究極の目的とする生活へ赴かせるのは解しやすいところである。日本の現在の消費生活にあらわれたコンフォールの熱狂的追求は外から来た人の目を驚かせるのに十分である。日本が現在一方の陣営に組みこまれ、しかもその組みこまれていること自体に何の熱意も確信もなく、一方の陣営に属する利益だけを享受して、その犠牲を避けようとする中途半端な、みえすいた態度は、日本が国運をある意味で賭けざるをえない事態に対して、人々を十分以上に懐疑的にする理由になっている。私は何も軍事基地反対論者、ヴェトナム平和論者、中国との国交回復論者のことを言っているのではない。日米軍事同盟賛成論者の胸中の不安と懐疑のことを言っているのである。こういう状態に対して、反対論が起るのは当然である。しかしその反対論も現在ではかなり疲労し始めているように思われるのである。こういう状態は極めて危険で、人々を外から来る情報に対して必要以上に敏感にしてしまう。それに対して希望的解釈を行なったり、傾向的報道をしたり、あるいは外国の動向や態度が国内の運動に対立を起したりして、人々はますます帰趨に迷うのである。それで直接的には自分の一身一家、大きい目ではせいぜい自分の直接属している会社、学校、商店、役所のことを考えるばかりである。日本のこと、それは非常に複雑で、かつ自分達の力に余り、そんなことを余り考えていると足もとの生活が崩れて来る、そんなところに落ちついてしまう。これが危険な傾向でなくて何であろうか。というのは、自分達の一身一家も、属する会社、学校も、実は日本全体の運命をほかにして考えられず、その運命如何によっては、すべてが一夜のうちにくつがえってしまうことを知っているからである。だから私の会ったたくさんの人々は、内心ほとんど絶望的になっているのである。そして、この絶望的な心境が、私が戦争中に見た絶望感と、その外観ではなく、質において、余りにも同じであるのに、ほとんど慄然(りつぜん)するのである。戦時中、人々は、相継ぐ敗戦にほとんど絶望していながら闇に奔走していた。そして何かうまい事が起って局面が一変して大した事もなしに済むのではあるまいか、と絶えず外の事を気にしていたのである。私は、敗戦直前の昭和十九年に、今は死んだある政府の高官が、部下にかしずかれながら、「日本には必ず天祐神助(てんゆうしんじょ)があります」と私に語ったのをきいたことがある。かれは本気でそう信じていたのである。そう信じたいから信じていたのである。これは難局に直面した時に人がもつ一種の気分であり、確信でもなければ、根拠のある立論でもない。しかし、それが政府の大部分の官吏の態度だったのである。それでは、一般国民の方は、それよりはましだった、と言えるであろうか。

 私がこういう不愉快なことを言い出したのは、物質的には、戦争中とは比較にならないほど豊かになった今日、非常によく似た心理状態が瀰漫(びまん)しているからである。これは今日ことに危険である。というのは、戦時中は、本当に、客観的状態は、日本にとって絶望的であった。絶望は当時の日本の本質に根ざしていたからである。

 ところが今日は、日本の本質とその客観的情況は一変している。日本を救い、その将来の展望を開くのは、日本国民の意志に依存するようになっているからである。それは言うまでもなく、主権在民と戦争抛棄(ほうき)を基底とする新憲法が成立しているからである。それからもう一つ、日本人は各自の責任のある生活をもっている、という一事があるからである。いかに軍事基地に覆われていても(これは遺憾なことであるが)、政府には公に、現下のヴェトナムの情況について、戦争反対の声明をすることはできないのであろうか。その根拠は憲法であり、それを力あらしめるのは国民各自の生活であり、平和は人間生活そのものの要請だという一大原則である。政府がそのような公の声明をなし、国民全体の生活から湧き出す要求がそこに反映しているならば(主権在民ということの意味は、それ以外のどこに求めることができるであろうか)、外国はそれを尊重せざるをえないであろう。これは決して空理空論であるとは思わない。そういうことの「力」を信じないならば、どうして「戦争抛棄」を憲法の基礎の一つにすることができるであろうか。あの暗く、真に絶望的であった戦時中に比べて考える時、憲法の基礎が全く変り、国民が営々として生活し働いているのに、同じような絶望(外形は多分に異るが)に陥るということは、いかに国際情勢が複雑であるとしても、日本のどこかに何かが欠けていると考えるほかはない。というのは、こういう状態の危険性は非常に大きいからである。

 しかし、これから先は、私は何か言うことを躊躇する。それはもちろん私もその一員としての日本人の決意実行の問題だからである。ただそれだけだからである。それは我々すべてが終戦時に感じたことであったが、現在またその本質上ほとんど同じ事態があらわれて来たことは深く考えさせられるところである。ただ私は決して失望したくない。日本という社会がそういう悪い素質をもっているなどとはなおさら考えたくないし、日本人が戦前、戦後に達成した多くのことは、そういう運命論に多くの反証を提供している。私はこう考えている。日本は明治以来、欧米文化に触れて新しい歩みを始めた。第二次大戦とその結果は、その最初の試練であり、決算であった。その結論として、新憲法が生まれた。今はそのあと始末の時期であり、大病後の恢復期である。大切なことはあと始末をおろそかにしないことである。無数に障害が出て来ても驚かず、障害を障害として認識することを誤たず、それを一つずつ処理していくことである。正しい民主国となる自主的な努力をほとんどせずに、民主国になってしまった日本に事後処理の問題が深刻なのはむしろ当然ではないであろうか。

 そう考えると、先に述べた「夕鶴」の上演とそれをめぐる当事者の人々の忍耐と努力とは、今日の日本のすべての営みの範型にならなければならないと思う。外形のことではない。そしてそれは一人一人の中にその人の経験を生み育て、大切にすることである。こういう傾向が少しずつ成長する時、効果は加速度的に増していくであろう。そして国民の生活と経験とが憲法の実質的裏うちとなる時、日本にはおのずから一つの力強い方向が表われてくると思う。

 私は上述のことを、あらゆるイデオロギー的関心を離れて、すでにある憲法と生活という疑いえないものだけから出発して考えてみた。それは私にとって、一つの常識に属することであり、その意味で今、すぐに始められることである。ということは、私にも広い意味で何らかのイデオロギーがないということではない。しかしこういう常識的基盤がないとそれはしばしば非常に危険なものとなり、平衡を失するにいたることが多いと考えられるからである。

 こうして問題は再び人間における正しい経験の形成にかえってくる。それの欠けているすべては空虚となり、表面だけのものとなる。経験といえば簡単である。しかし、世界何十億の人がいようとも、その人の数だけの異った経験があるわけであり、それは並大抵のことではないのである。

 パリへ赴く前の数日を、湯河原で静かにすごしている。十国峠へ向う山のはざまの旅館には客もほとんどなく森閑としている。ただ谷川のせせらぎだけが響いて、かえってあたりの静寂を深くしている。十一月の空は飽くまで澄み、午後の日ざしが明るく座敷の中まで射しこんでいる。こういう柔かくしかも澄んだ明るさはフランスにはない。ここはもう奥湯河原のはずれで家もほかには余りなく、廊下からは小さい庭と向う側の谷のみどりが見えるだけである。谷は東に向って下るので、空は東の方に大きく拡がっている。ときどき四十雀らしい小鳥が鳴き交すのがきこえて来る。伊豆のこの土地では紅葉はやっと始まったばかりだ。庭前の小さいもみじの木も、心もち黄ばんだばかりである。番頭さんに聞くと、「本当の紅葉は十二月になってからで、山の上の方から染って、だんだん降りて来ます。春は、花が下からだんだん上へ開いてゆきます」と言っていた。十年ほど前のある年の秋、私は南仏のニームとモンペリエの間の小さい町に一カ月ほどいたことがあった。素晴らしい青天が毎日続き、私はモーター附の自転車で何十キロと走り廻った。丘という丘は赤紫に紅葉した葡萄畑に覆われ、どこまでもどこまでも続いていた。何キロ走っても人の影も見えなかった。サン・マルタン・ド・ロンドルとかサン・ギエム・ル・デゼールとかいう古いロマネスクの教会を訪れたのも、そういう散歩の途中だった。エローの流れは激しくモンペリエの方へ下っていた。秋、晴れた空、紅葉、古寺、谷川、これだけ言えば、フランスの秋も日本の秋も変りはないように見える。しかし実際にそこにいてみると、何という大きい違いだろう。それはよい、悪いの問題ではない。自然までがちがう。それはどういうことだろう。一度だけ来日中のサルトルに会ったことがあるが、日本では自然までが違う、と言っていた。そしてサルトルは、自然は一つの筈だが、とつけ加えた。だからかれは、そう言った時、風土のちがいを決して忘れているわけではないのだ。そういうものを考慮に入れても、日本の自然はいかにも特殊だ、と言いたかったのだと思う。私にとっては、それは日本の自然は人を孤独にしない、という点に要約できると思う。人間の感情が余りにも深く自然に浸透している。そういう感じである。どういう風景を見ても、それと直接触れることができない。そこには先人によって詠まれた和歌や俳句がすでに入りこんで来る。日本の自然は余りにも人によって見られており、また日本人は、そういう温か味のある自然を求めているようである。そしてこれは人間と人間との関係がそこに投影されているのだと思う。だからそれは人を孤独にしない。フランスではその逆のようである。自然はあくまで自然としてそこに在る。そういう自然の中に入る時、人は孤独になる。そしてこの関係は、人間同士の間にも投影される。人間はあくまで自然存在を強く帯びており、その孤独の中から人間経験が生れてくるのである。

 この違いを私はどうすることもできない。サルトルが、日本人である私にこのように映る日本の自然をどう感じたか、かれがどういう意味で日本の自然はほかとちがうと言ったのか、何時かきいてみたいと思っている。いずれにしても、人間は、人間同士の間にあってさえも、いつも激しい自然にかこまれている。孤独とそして死がそれをたえず脅かしている。リールケは、人は死ぬためにパリにやって来る、と言ったが、それはあるいはこういう点に関係しているかもしれないと思う。パリでは、非常にしばしば葬列に出あう。私が長いこといた安宿のそばのサン・ジャック街には、峠のサン・ジャックという古い教会があって、私は何度も葬式の黒幕が教会の入口に垂れ下っているのを見た。黒服を着た孤独らしい老人がいつも教会堂を出入していた。こういう感覚を私はどう表現すべきか知らない。ただそれはそういうものとして、一つの人間の状態を定義しているのだ。そうしてこういう感覚は生活のあらゆる領域に拡がっていくのだ。孤独と死とが本質的に人間生活に浸透している世界、そういうよりほかはない。

 私は、経験について書いた時、それはもうフランスでも日本でもないと言い、両者を比較したり、よしあしを言うことを拒否し、両者が私の経験の序列の中に入って来る、と言った時、こういうことを忘れているのではなかった。ただそれが比較や評価の対象にならないものであり、そのいずれもが私の中に堆積されて私の経験を形成していることを言いたかったのである。

 今こうして日本にいると、ノートル・ダムはいかにも遠い遥かなところに在るという感がする。それは必ずしも距離だけのことではないであろう。ヨーロッパは一世紀前に日本を覚醒させ、そうして日本の近代化が始まった。日本は実に多くのものを欧米に学び、幾多の優れたものを生み出した。しかし日本がその学んだところによって真のエキリーブルのある新しい文化を創り出したとはまだ言えないようである。一九四五年の敗戦と新憲法とは新しい日本の第一期であったと言えるであろう。そして日本の欧米摂取はまだある意味で決して終ってはいない。しかもその摂取はこれまでのものとは内容も方法も変らなければならないであろう。それは余りにも膨張しすぎてアモルフになった現代日本文化を規律し、それに秩序をあたえうる何ものかである。これは第一期の摂取に比べて格段に困難であると思われる。それはこれからの我々一人一人に課せられた問題であり、何を学ぶかも我々が自ら努力して極めなければならないのであり、それはもうこれまでのように知識の問題ではなく、その知識を操作する精神の問題であり、そのためには我々自身の中に責任ある生活と経験の蓄積とが始まらなければならないのである。

 遥かなノートル・ダムを想いながら、こういうことを考えた。

(一九六六年十一月十八日)

 遠ざかるノートル・ダム

 パリへ来てから二十五年の間、私はいつもノートル・ダムのかたわらに在った。かたわらに在った、とは言っても、いつも同じようにというわけではなかった。

 一九五〇年九月末、暗いそぼ降る雨の朝、パリのリオン駅に着いて、タクシーで宿舎の大学都市へ向う途中、車がオウステルリッツ橋を渡る時、遙か右手、雨に(けぶ)るシテ島に立つノートル・ダムの淡くかすむ影絵のような姿を望見した。誰に言われなくても、それがノートル・ダムであることははっきりと判った。これがノートル・ダムとの最初の出会いであると共に、パリとの邂逅(かいこう)でもあった。

 何回か書いたように、私は多くのためらいとおそれとの果てに、マルセイユからパリに上ったのであった。パリに着いた私の心は空無状態であった。それは、その日の空模様のように暗く定かでなかったし、冷たい雨を吹きつける風のように荒んでいた。

 日本から来たという意識は更になかったし、パリにこれからの生活があるのだ、という期待も心構えもなかった。それは自分が忽然(こつぜん)とパリに出現したようなものであった。凡ては、かなり時が経ってから、追々に意識の中に出現して来たのであった。

 雨に烟るノートル・ダムの望見は、パリが私の意識にそれとして、生きた情感をもって現れて来た最初であった。しかしそれは、一瞬の後には意識下の霧の中に消えてしまった。

 こうして一瞬現れて消えてしまったノートル・ダムは、その後しばらくは現れて来なかった。しかし客観的に言うと、実際はノートル・ダムは屡々(しばしば)見ていたのであるけれども。はじめ、大学都市に住むようになって、人なみにパリ見物にも出るようになったのであるから、何度もノートル・ダムを見た筈であるが、それらは一切記憶に残っていない。こうして霧に烟るノートル・ダムは私には遠い存在であった。

 その間私はパリ生活への定着に忙殺されていた。フランス政府留学生としての大学都市への入居手続き、マルセイユから到着する荷物の整理、大学への登録、指導教授との連絡、滞在許可証の取得、そういうことで、目に入った筈のパリの景観は一切記憶に残らなかった。教授の自宅の応接間、大学や警視庁の窓口、そういうものが断片的に意識に明滅するだけである。

 二十五年になるパリ滞在中、この最初の一年ほど長く感ぜられたことはなかった。それにも拘らず、ノートル・ダムは私の意識の下に睡っていたのであった。

 ある初冬の夜、もう寒い風が吹く七時頃、照明されたノートル・ダムの正面は、私共の眼前に立ち塞がるように(そび)え立っていた。私はこれほど繊細でニュアンスに富むノートル・ダムを見たことはなかった。上部のアルカテュールの細い石の列柱、その下の諸王の列像、それは見る人の心の感動と肉体の戦慄に答えるかのように、強い光と暗い影との規則正しい交錯の中に空間の中に高く浮んでいた。

 中世の人々の神への信仰の熱情、現代人はすでにそれを喪った。しかしこの石の大伽藍は、その構成の中に、我々の別の感動と熱情を増幅し無限に拡大する質的空間を意味している。それは殆ど肉体的な強制力をもって我々に働きかける。それを安易に許してはいけないかも知れない。それは頭では判っていても、この不思議な交感は肉体に拡がる戦慄が増幅されるのをどうすることも出来なかった。私共はセイヌの左岸を少し上流に向い、そこからノートル・ダムの美しい外陣部を眺めた。そこで私共は互いの感動に身を委ねた。トリスタンとイソルデの、中世の暗黒のさ中に生れた近代的恋愛に対する、清純な処女マリアへの崇敬をもってするカトリシスムの巨大な抗議と否定を意味するノートル・ダムは、一つの感性によるいま一つの感性の否定にも拘らず、あるいは正にそれ故にこそ、深く大きい感性の炉なのである。どんな偉大な感性の拡大にも禁欲と秩序との制約を欠くことが出来ない、ということを教えることによって。

 私共はそこからベルジュと呼ばれるケー[河岸]より一段下の、流れに沿って構築された、石畳の道をノートル・ダムを仰ぎながら、流れに沿って下流の方へ向った。突然カリヨンの鐘が一せいに鳴り始めた。その響きは黒い夜のセイヌが流れる大きい石の溝に充ち溢れ、その充溢(じゅういつ)の中に、意識そのものが自己を忘失するような巨大な感動の中に我々を()き入れてしまった。

 これがノートル・ダムが私の中に入って来た始めであった。果してそうであったか、今でも私は自問自答しているが、何れにせよ、この夜をもって、ノートル・ダムは私にとってエヴォカシオン〔喚び起し〕の一つの源泉になったのである。むしろ一つの感情的な事件がノートル・ダムと同じ場所で起ったということであろうか。真相はそういうことであっても、そのエヴォカシオンには、ノートル・ダムがいつも現れて来ることには変りはない。

 パリは疲れることの多い都である。何ごとをするにも手間がかかる。訪問は半日に一回以上は事実上不可能である。それでよくカフェーで休んだり、公園のベンチで休んだりすることが多くなり、食事にも十分時間を取ることになる。カフェーやレストラン(これも、もとの意味は疲れから回復する場所という意味である)の外に、私は何カ所か憩いの場所をもつようになった。勿論、その日の用件の地理的条件によって異るが、第五区にある植物園、リュクサンブールの公園、サン=スュルピスの広場、などであるが、特に私が好んで屡々行ったのは、ノートル・ダムの外陣部を囲む小さい公園である。今は小さい菩提樹の植っている、明るい公園であるが、二十年も前は亭々(ていてい)たる大マロニエが昼でも薄暗いほど密生して繁っていた。東の隅にはブランコなどがあって、日曜日などは親に連れられた子供達が大勢来ていて、番人が出て整理をしていた。私はよくノートル・ダムに入り、そのあとで、この公園へ出て休んだ。緑色に塗ったベンチがマロニエの根もとに幾つも置いてあって、休むのには都合がよかった。

 私は町中で疲れるといつもそこへ行った。疲れると悲しくなった。春や秋でマロニエが繁ってうすぐらい大きい木陰を作っている時は殊にそうであった。だんだんエスカルゴと呼ぶ街頭の便所が減って来ていたので、いつもこの公園片隅にある便所で用を足した。公園の東側に南北に広い道路があって、その東側にはセイヌの本流が流れ、そこに鉄橋があって、サン=ルイ島に通じていた。道路の南端にはアルシュヴェシュ〔大司教館〕という名の石橋がセイヌ河の支流に掛っていて、第五区のカルティエ・ラタンに通じていた。その橋の手前の東の方が突出していて、セイヌの本流と支流との間に突き出ていた。私はそこに行って長いことセイヌが渦をまいて、左手に行く本流と、右手に行く支流とに分れて流れるのを眺めていた。右手の対岸は古いカルティエで、頽れそうになった小さい塔や窓の小さい、十六、七世紀に出来た家が、屋根の上に増築した部分を載せて、所狭しと建てこんでいるピトレスクな場末のカルティエであった。その一劃はいかにもヴィユ・パリ〔旧いパリ〕といった塩梅で、トゥーリストや外人とは関係もない、パリ人のパリのように思って眺めていた。十年後には自分がそこの住人になり、小さいアパートの所有者になるとは夢にも予想していなかった。

 そして十年後には、こうして眺めていたこの一劃の中の旧い建物の一つに住むようになり、朝に夕にノートル・ダムを眺めるようになった。アパートの窓が二つノートル・ダムの外陣部に向って開いているので、朝夕はおろか、四六時中ノートル・ダムを眼の前に見て暮すようになった。それについては先の方で述べるが、その前に一つの出来ごとを述べて置かなければならない。

 そこのアパートに移って間もない頃であったから、今から十数年も前のことである。ある朝ふと外陣部の公園を眺めると、あの鬱蒼(うっそう)としたマロニエの大樹林が忽焉(こつえん)と消えてしまっているではないか。パリの町ではこういう種類の変化は夜間に行われるので、朝になってみんなびっくりするのである。私にとってはびっくり以上であった。長い間なれ親しんだマロニエの樹林のすぐ近くに住むようになり、これで毎日でもそこに散歩に行けると思っていた矢先なので、ひどくがっかりしてしまった。何がそこに建つか、あるいはかねて噂に聞いていたパリ南北貫通の高速道路でもそこを通るのではあるまいか、と想像するとひどく不安になってしまった。しかし、それは杞憂(きゆう)であった。

 数日経って、現場へ行って見ると、マロニエを引き抜いたあとに菩提樹の苗木が一本ずつ藁を巻いて植えてあった。これで心配が一掃されると、公園が明るくなったのが嬉しく、殊に昔のように一人悲しみを噛みしめるという気分もなく、気持も安定して来たので、暗い林などは必要がなくなり、新しく植えられた若木の成長を毎日のように見に行くのが楽しみになってきたのである。今日ではもう直径十五センチほどの中位の木になり、かなり広い木陰を下すようになって来ている。こういう目に立たない、しかし中断しない木の成長は、私に自分の生活についての喜びを与えてくれる。所詮私共も、こういう木々のように成長して行かなければならないのではなかろうか。

 パリに来て、一年過ぎたあとで、私は日本へすぐは帰らないことにして、日本の先生方に大学を止めさせて頂きたい旨手紙を出した。これは記憶がはっきりしていないので、もし事実に間違いがあったら許して戴きたいが、最初の手紙を出したのはその頃であったように記憶している。勿論、私は自分の願いがすぐきき届けられようとは考えていなかった。しかし私は、もっとパリに止まっていたいと考えた。その手紙を出した夜おそく、サン=ジャック街と左岸の河岸の角にあるカフェーの風の吹きさらすテラスに坐って、ノートル・ダムを眺めていた。時間がおそかったせいか、あるいは外の理由によってか、ノートル・ダムは照明されていなかった。しかしその晩の記憶は今もはっきりと残っている。もう大分寒くなっていたので、十一月かあるいはもう十二月になっていたかも知れなかった。今では一番意識するのが苦しい記憶であり、これには時効はないとその時から考えていた。

 暗いノートル・ダムは私の中に容赦なくのめり込んで来た。前途には明るいものは少しも見えなかった。また私も、少しもそれを予想も予期もしていなかった。給費は一年で切れた。フランス外務省留学掛りのところへ、帰途の旅費を受取りに来るようにとの知らせで出向いたところが、掛りの女の人が、「あなたはこのお金できっと帰りの船には乗りませんよ」と笑いながら言ってくれた。そういう人が私の外にも沢山いるのだろうか。私はその頃は大学都市を出て、七区のエッフェル塔の近くに下宿し、やがて間もなくカルティエ・ラタンの安宿に移っていた。しかし船賃を使っても数カ月しかいられないに決っている。現在のようには、日本人には殆ど内職はなかった。私は生来臆病で要心深い方なのに、どうしてこういう決心をしてしまったのかよく判らない。何か自分の心のどこかが狂っていて、そういうことになったのだと思っている。そうより外には解釈出来ない。私の師事していたフーレー先生もワール先生も、反対はされなかったが激励もされなかった。私は暗い風に吹かれながら、ノートル・ダムを見つめていた。まとまったことは何も考えてはいなかったように思う。ただノートル・ダムは私の存在に沁み透った。

 こうした気違いのような決心のあと、どうして私は今日在ることが出来たのであろうか。私が思うのに、先生方や何人かの友人が私を憐んで、私の知らないところで、私のため心配し、私のために計って下さったからであろう。それ以外に考えようはない。日本の大学から私は追放にならず、依願免官になり、また数年して日本の先生方のところからパリへ帰って来られた或るフランス人の先生の手によって、パリの国立東洋語学校で職に就けることになった。そしてそれは今日でも続けている。もう殆ど二十年にもなる。

 このことについてはこれ以上書くことは出来ないし、また書くこともない。ただその晩の光のない暗いノートル・ダムの重みだけは、私の中に深い跡を刻みつけている。あるいはこの瞬間が、私がノートル・ダムにもっとも近づいた時かも知れない。

 パリで私は数回転居した。最初は留学生として大学都市へ入り、その翌年、エッフェル塔のすぐ近くの第七区のベルグラード街に移り、ほんの数カ月でカルティエ・ラタンのアベ・ド・レペ街の安ホテルに移って数年いた。それから一九五八年正月に娘が来たので、第十三区ヴィトリー門の近くに在るアパートに移った。二年して、友人の手引きで、左岸第五区のノートル・ダムに面する小さいアパートに正規の居住者として入居することが出来、私の住居問題はパリへ来て十年目に解決した。

 とにかくノートル・ダムの隣りへ来た喜びは大きかった。この十三世紀の伽藍の周囲や内部を何度散歩したことであろう。ド・ゴール将軍の葬儀の時は、拡声器がカテドラルにつけられたので、オルガニスト、ピエール・コシュローが演奏する聖ベルナルドの聖歌に基くバッハのコラール「血潮流るる御頭(みかしら)」(SALVE CAPUT CRUENTATUM)の演奏をアパートに居ながらにして聴くことが出来た。

 しかし、私は、主観的には、あの夜風に吹かれた暗いノートル・ダムが私に一番近かったのだと思っている。カトリックではない私には、それ以上には、つまり主観的以外には、ノートル・ダムに近づく道はないと思っている。もちろんノートル・ダムに関する書物も色々読んだが、それは知識の上でのことで、この文章の主題には関係ないことである。

 しかしいくらノートル・ダムに近く住んでも、私もだんだん年をとり、色々責任や用事が多くなって来た。すぐ近くにノートル・ダムが在るのにその存在を意識せず、何週間もそれを考えずに過すことがますます多くなって来た。そういう時でも、季節や天候の変化で、石の壁の色彩や目で見た感触が変ると、はっと気がついて眺めることがある。そういう時の幸福感は何に(たと)えようもない。こうして生活の忙しさの中に、ノートル・ダムは意識下に沈んで行く、あるいは忘れられて行く。

 こういうこともあった。それはノートル・ダムの近くに住むようになる前のことであったが、また近くへ移転してからも同じである。私はノートル・ダムとかルーヴルとかいう芸術的に作られたものの特別な美しさではなく、平凡な町角に美しさを感じ始めるようになった。マレー地区やサン=ルイ島のような、十七、八世紀の建物が多く遺っているところはもとよりであるが、それより新しいところでも、極くなんでもない建物でも、窓の形、窓(かまち)、その排列、とびらの作り方、その装飾、凡ゆる細部に美しさを見出して行った。そういう或る日、不図(ふと)ノートル・ダムを見ると、それがいかに美しいものであるか、外のものと桁違いに優れたものであるか、が沁々(しみじみ)と感ぜられたのである。こうして自然、外界、天候、季節、またパリの町全体の小さいまた大きい美しさ、そういうものとの接触からノートル・ダムが輝き出すようになって来る。パリという歴史ある町の一定の地理的位置と風土との中の生活感情とが一つに融合して、その関連からノートル・ダムの美しさが見えるようになって来るのである。こうして、ノートル・ダムはパリに住む者の伴侶になって来るのである。

 こうしてノートル・ダムはパリと融合して来る。始めはこの融合とその美しさは仲々見えて来ない。それは勿論、客観的に始めからそういうものとして在り、また私共の感覚の中にまで入ってしまっているのである。しかしその美しさが本当に私共の感覚に露われるようになるのは、その全体をすでに含んでいる感覚が成熟を遂げなければならないのである。それは写真と絵画の間と同じだけの距離が我々の感覚内部に存在しているのである。これが判るのは非常にむつかしい。我々の感覚は見ていても、見えていないのである。ノートル・ダム正面玄関のロザース〔薔薇窓〕辺の石の壁面の美しさは、見ていても多くの場合我々には見えていないのである。窓の間の壁面の美しさを何十何百とある建物の中に気がつくようになって、或る日不図ノートル・ダムを眺める時、今まで見えていなかったものが、突然見えるようになって来るのである。内部のよさにしても、それは建築学的、あるいは美学的にどうこう言う前に、あるいはそれ以上に、パリの空間感覚、多くの教会や公共建築物の空間の特殊な、豊かで自由な感覚から離れてそれに気がつくことはむつかしいのである。こうしてノートル・ダムは、パリの町の内側から見えて来るのである。そしてパリの町の内側は、そこに住む人の生活感情を離れてはありえない。ノートル・ダムの外側がパリの内側から見えて来るのである。それ以外のところからは容易に見えがたいのである。

 私には、シャルトルのカテドラルやランスのカテドラルを何度見ても、それらよりどうしてもパリのノートル・ダムが一番好きなのはこういうところに原因があるように思われる。シャルトルとランスのカテドラルは、私が非常に好きなカテドラルであるけれども、またシャルトルにはあの比類のないヴィトロー〔焼絵ガラス〕があり、ランスにはあの素晴らしいファサード〔正面〕とロザースがあるけれども、パリのあの繊細さ、首都的なエキリーブルにおよばないのではあるまいか。どんな一つの伽藍や教会が一つの町に融合し、町全体の内側からしか本当に理解出来ないかを、二十五年間ノートル・ダムに親近して見て更めて感ずるのである。一つのものは、それが有機的にあるものの中にある時、それ自体よりも、むしろそれを包み、定位しているもの、それがいかに審美的に劣っているものであっても、そういうものの内側からしか感じ、理解することが出来ない、ということ、こういう鉄則が私に少しずつ判るようになって来たようである。町町の間においてさえこういうことがある。まして国を異にする場合、それは非常に大きい問題になる筈である。

 私は昨年から大学都市日本館長に任命せられ、教授以外の地位を兼ねることになった。館内居住の義務があるため、館内のアパートにこの二、三年住むことになった。ノートル・ダムの傍を離れて、来仏した時と同じ建物に住むことになった。そこに私は偶然以上のものを感じている。

 偶然以上と言ったが、その点を若干説明してみたいと思う。一人の人間がある国にその国民として存在するというのは、任意ではない或る必然性をもっている。この必然性は、自然的生物学的以上に、歴史的社会的性質のものであると考えられる。しかもそれは簡単に外側から分析できるものよりも、もう少し複雑であり、ノートル・ダムと共に在った二十五年間は私にそれを教えてくれた。ノートル・ダムは美術史的、更に美学的な分析をこえて、もう少し外のところにその美の根拠をもっている。民衆の生活形態と造形はそこにささやかではあるが、否定することの出来ない美の源泉を構成している。これは民衆の生活の主体面に関するものであって、外側から把握するのは仲々むつかしいが、全く不可能でもない。そういうものが抗うすべもなく結晶しているノートル・ダムは、その直接的美観の下に、こういう民衆の生活の内側から、その主体面からのみ近づき得る美をもっている。私はそれをまだ明確な形に再構成してはいない。あるいはそれは永遠に不可能かも知れない。何となれば、その過程の中には私の触知し難い部分が含まれているからである。

 しかし唯一、確かなことがある。それは、ノートル・ダムの傍らに在った四半世紀のパリ生活が私を決定的に内面へと向わせたことである。同時にそれは私を表現へと向わせるものでもある。というのは内省は、それがいかに深遠に見えるものであっても、表現の中に定着しない限りは、永遠に漠然たるものに終るからである。フランスの思想文芸の立ち入った研究は私にそれを教えてくれた。またノートル・ダムという大造形が、その揺がし難いその巨大な存在性によって、そのことを私に教えてくれるのである。

 こうしてノートル・ダムは私から、あるいは私はノートル・ダムから遠ざかり始める。或る時、或る場所で邂逅し、接近し、抱擁し、交接を遂げた男女が離れて行くように。私は今後も永くパリあるいはフランスにいるかも知れない。あるいは東京へ戻るかも知れない。しかし、私の今後の仕事は、日本の中に決定的に定位されることになるであろう。ただそれは世上言われる「日本への回帰」という種類のものではないであろう。それはむしろ再び出発の機に臨むと言う方が適切であるかも知れないのである。とにかく一つのサイクルが終結しようとしているのである。しかし私自身に即して言えば、私は出発なぞ少しもしていなかったのかも知れないのである。ただ出発の準備は、今度こそ終ったのである。

 どこへ向ってであろうか。それはもうノートル・ダムもない国へ、法隆寺もない国へ向ってである。私の内面は今激しくそこへと私を促しているのである。もうこれからは、パリについて直接更めて書くことはあるまいと思う。

(一九七四・十二月「展望」)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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森 有正

モリ アリマサ
もり ありまさ 仏文学者・哲学者 1911・11・30~1976・10・18 東京生まれ。祖父は森有礼、東京帝国大学仏文科(1938)卒。1950(昭和25)年東大助教授の時、フランスに留学。1953(昭和28)年東大を退職し、パリに定住。国立東洋語学校、パリ大東洋学部での教鞭、後にパリ日本館館長を務めながら、ヨーロッパ文明の象徴というべきノートル・ダムと対峙し、思索生活の結晶としての珠玉の文章を日本に送った。

掲載作は、『遥かなノートル・ダム』(筑摩書房)と『遠ざかるノートル・ダム』(筑摩書房)より収録。作者は、後者の出版を見ることなくパリで客死した。絶筆といっていい。

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