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山本五十六の恋文

 せせらぎ荘

 

 地球温暖化という言葉を耳にして何年になるだろう。桜前線北上は年々早くなっている。

 沼津市は人口二十一万人、香貫山(かぬきやま)が平坦な市街地へせり出した地形で、麓を狩野川が曲がって駿河湾へそそぎ、海、山、川へ市民が歩いていける。富士山、南アルプス、箱根連山を遠く望み、気候温暖で首都圏に隣接し、東京人の保養に最も適した街でもある。

 午前の外来診療を終え、昼食をすませると、久しぶりに牛臥(うしぶせ)海岸へ車を駆った。

 市街の北の端辺りの私の病院から、市街南端の牛臥海岸まで六キロはあるから車で十分ほどかかる。牛臥海岸には塚田川がそそいでおり、その河口に、『せせらぎ荘 昭和三十年竣工』、と読める古い小さな橋がかかっている。

 車を河口近くの広場に置き、橋を渡ってせせらぎ荘の玄関前まで歩いた。

 木造瓦ぶきの大きな平屋は一見して元旅館とわかる。ガラス戸二枚の玄関は、来訪者をこばむように閉ざされている。無人と見えるほど建物全体がくすんでいて、あたりの老松や盛りをすぎたつつじがいかにもわびしい。

 家の中には、この日、仏壇の前で思いにふける女性がいるはずである。一瞬、呼鈴に手をかけようとしたが、思い返して海の方へ向かった。やはりそっとしておこう。

 海はすこし荒れていた。雲が低くたれこめ、駿河湾をへだてた内浦の山々の上半分をかくしている。左手に続く海岸線にそって、旧沼津御用邸の松林がこんもりと茂り、天城山まで緑が続いて見える。

 

 四十七年前(昭和十八年)のこの日、山本五十六聯合艦隊司令長官の乗る一式陸上攻撃機がロッキードP38戦闘機に撃墜されたのだ。

 山本元帥への追憶を支えに、沼津を終焉の地とした河合千代子さんのことを私は書き残しておきたいと思う。

 山本元帥の愛人だった女性が、沼津市内で料亭を経営しているという風評は、昭和四十年代前半、ときどき耳にした。当時私は、沼津市立病院産婦人科部長の職にあり、大学の医局から派遣される若い医師一、二名と、年間、七百の分娩と二百の開腹手術を行なうという激務で、噂の人と会う機会はなかった。

 昭和四十七年開業した頃も、その人の噂は消えなかった。愛人は隠居した、誰にも会わないというふうに噂は変わっていた。

 ある時、ロータリークラブで真珠湾奇襲の話題が出たので、噂を持ち出した。あとでO博士と二人になったとき、「私がその人の主治医です、紹介しましょうか」、と言われた。

 

 五十六の恋人

 

 河合千代子さんと初めて会ったのは昭和五十八年の初夏である。

 

 [元帥は、子供があると災いの元になる、という考えだったという。昭和三十年、後藤銀作さん(昭和五十八年没、八十四歳)と結婚、戸籍名は後藤ちよ。それより以前、戦後間もない頃、千代子さんは養子縁組をした。養子河合繁さんは昭和五十一年死去したが、配偶者ふき子さんとの間に生まれた女子は結婚して二児の母となり、沼津で幸せに暮らしている。さしさわりを避けるため、遺族にはなるべく触れない。文中の敬称は省略する]

 

 約束の日、秘書の運転で牛臥海岸へ車を走らせ、せせらぎ荘の車寄せに乗り入れた。玄関のガラス戸を引くと、品のよい和服の老女が式台のソファーに掛けている。正面に向けたまなざしから、瞬時に本人と察した。

 初対面の挨拶がすむと、山本元帥の話をお聞きしたいと切り出した。

 千代子は私を傍らの応接室に招じようとソファーから立ったとき、横を一ベつすると、「あなたは誰っ」、とかん高い声をあげた。ガラス戸が開いたままになっていたので、車のそばに立ってこちらを見ている秘書を誰何(すいか)したのだった。

 応接室は二十帖ほどの洋間で、古い藤製の応接セットが置かれ、唐紙やガラスの格子窓など、大正時代を思わせるたたずまい。「芝即寿 山本五書」の扁額が目立つ。

 中年の女性が茶菓を持って一度入ってきただけで、三十分ほど、千代子と二人になった。

 山本元帥の実像を尋ねた、いちばん知りたいところである。

 話相手に率直に話させる(すべ)を、私は職業上少しは身につけている。問診するとき、言いにくい秘密も聞き出さねば診療上不都合なこともあるのだ。

「姿勢がよく、心が安定していて、思考に柔軟性がありました。でも、一旦こうと思ったら、なかなか考えを変えません」と、ハキハキした口調で話し出した。面長で色白、みけんのすこし左に小さいほくろがある。話す表情に魅力があった。

 五十六は、研究熱心で決断力に富んでおり、不言実行型で、自信に満ち満ち、説得力は卓越していたという。

 ガラス窓に当たる五月の陽ざしは強く、広い室内に扇風機一つでは汗ばんでくる。

 予定の時間はたちまちすぎた。午後の診療は二時からだから戻らねばならない。

「七十八歳になる今日まで、元帥のことを考えない日はありません。考えながら眠ると夢を見ます。(くれ)の軍港で最後に別れた場面(昭和十七年五月)がいちばん多い」と、別れぎわの一言がたまらなかった。

「先生の病院へさとさんと一緒におうかがいしたい」と高い声で言ったあと、式台で握手を求め、「あたたかい手ですね」、と小さい声を出した。並んで立つと、身長は見た目ほど高くはなかった。

 玄関のガラス戸を開けると車がない。先刻の女性が浜の方を指して、「あちらで待っているそうです」、と言った。そして、「先生は来るのが遅すぎました。十五年ぐらい前、阿川(作家・阿川弘之)さんが来たときは奥さんも頭がはっきりしていていろいろ話されましたのに」と早口で言うのだった。

「話し足りませんでした、また、昼休みにおうかがいしたい」

「ご主人がすごい焼き餅焼きですから見つかったら大変です。別居していてもときどき急にあらわれます。週のなかばはまず来ませんから、来週の水曜日にいらしたらどうですか」

 小声の会話を、千代子の大きな声がさえぎった。

「いろいろ話しては駄目よ」

 翌週水曜日、同じ時刻の応接室、再び千代子と向き合った。

「冷静で、直感力と分析力はすばらしかった」と続きを語りはじめる。

「外国生活が長かったので英語は堪能、社交にたけ、国際感覚に富んでいた。貧しい人に恵むのが好きで、折りにふれては実行したが決して演出家ではない。誠意の人。雑学は豊かとはいえず、マナー、センスは特にすぐれているとは思わなかった。上司をたて、同僚と部下にやさしい心づかいをした。時間を守る」

 千代子から語り出されたことだけを聞き、私から質問をしなかった。二回にわたり、短い時間ながら五十六の人柄を聞いた。

 かねてから人柄の分折には私なりのスケールを持っている。リーダーの条件とは、先見性があって相手を説得でき、己の利害を超越していなければならないし、悪い事態におちいったときは正常に戻すという修復力を備えていることが必要と思う。

 千代子との二回目も、時間は早く経った。先週の女性のサービスも同じで、千代子とは主従関係のように見えた。

「また、こんな形でお目にかかりたい」と千代子に頼んだ。私の診療にさしさわりのない水曜日の昼休み、月に一、二回と約束した。初回とちがい、千代子の心がひらかれはじめたと感じた。

 

 元帥の遺品

 

 三回目の訪問は雨の日だった。

 千代子は応接室に目をやり、「電気をつけてちょうだい」と女性(芦沢さと)に声をかけた。広い家の住人は二人だけらしい。

「ご主人はケチだし、奥さんはきまじめなのでつとめて電気を消すのです」と、千代子が来る前にさとが言いわけをしながら蛍光燈をつけたので、ご主人のことを尋ねた。

「奥さんは昭和三十年、ボイラー製造工場を経営している後藤銀作さんと結婚し、この牛臥に千三十坪の土地を求めて〝せせらぎ荘〟をつくりました。

 ご主人は焼き餅がひどくて、立派な人物や国会議員が訪ねてきても、家内は不在です、と帰してしまいます。そればかりか、主治医のO先生にさえ嫉妬するのです。ご主人が上京したときは、六時になると必ず電話がかかってきて、塚田川を渡ってはいけない、家を一歩も出てはならぬ、と奥さんに言います。奥さんは言いつけをよく守ったので、牛臥に来てから街へ出たことはありません」

 さとの口調から、銀作に対する悪感情が汲みとれた。

 千代子は昭和二十五年、青木一男参議院議員の援助で沼津市八幡町に割烹〝せせらぎ〟を開店した。気前がよいうえ金銭感覚にとぼしく、気に入った客には採算を度外視してサービスするので、商売はあまりうまくいかなかったらしい。

「私が市立病院へ勤めていた頃、山本元帥の愛人が料亭を経営しているという噂を聞きました」

「先生が沼津にいらした昭和四十年は、八幡町でなくここで旅館をしていました。ここへ引っ越したとき、奥さんは元帥の遺品を行李一杯持っていました。ところがご主人は取引きを有利にするため、遺品を少しずつ持ち出したのです。

 某沼津市収入役が、山本元帥の掛け軸を二本持ってくれば市立病院のボイラーの仕事を斡旋(あっせん)してやる、と持ちかけているのを聞きました。でも、事業はだんだん駄目になり、今は何をしているのか知りません。週末にやって来て、すぐ帰ったり泊ったりしています。

 奥さんは気前がよく、手紙をひとにあげたりするので行李にはもう殆どありません」

 と口早に話すのだった。

 黙って聞いていた千代子は急に立ち上がり、

「元帥の手紙を二通大事にしまってあります。先生がそれほど元帥を好きなら一通あげましょう」と奥へ消えた。

 しばらくすると、元帥から千代子あての手紙と元帥へあてた米内光政の手紙の二通を手にあらわれた。行李からではないらしい。

 五十六の封書の上書きは、「東京市京橋区銀座七ノ三 河合千代子様」親展。赤で「検閲済福崎」、東郷元帥を描いた緑色の四銭切手の消印は16・12・8。裏は「呉局気付軍艦長門 山本五十六」。便箋三枚に墨書きされている。

 

 軍艦「長門」あて

 

 米内光政の手紙は、鳩居堂の便箋二枚に、墨の個性ある筆跡で、

 

 花墨拝誦御厚情平深謝候

 八日続き炎天下の真剣なる御訓練に対し遥ニ敬意を表すると共に自を顧みて誠に恆怩たるもの有之候、

 其後小生の生活ハ(一字難読)子燕居超然とでも可申か、時々例の方面に遊ぶこと有之候も話は自然ニ暗陰ニ陥る様にも有之正ニ斯界の新体制かと上存申し候

 御上京の際ハ一夕御割愛顧上度拝眉の上又何とか明るき話とも可申と上存候 萬禱御健勝擱筆

  九月二日 米内光政

  山本五十六様

 

 封筒は、「軍艦長門 聯合艦隊司令部 山本五十六閣下」親展。「東京都麹町区三年町 米内光政」。同じ四銭切手で、消印は、15・9・2の同日である。

 はからずも貴重な遺品を手にした私は、千代子の深い好意を感じた。

 千代子は、「元帥の手紙はたくさん持っていましたが事情があって二通となりました。米内さんのも大切にしていたものです」と言いながらも、「今日は遅いから心配しているでしょうね」と、広場で待つ秘書に心づかいをするのだった。

 帰るとき、千代子は「私からよろしくと伝えて下さい」とあらためてことづけた。

 話すとき、堂々と正面を向いて、威厳がある千代子の振る舞いは、元帥付きの武官への態度を想像させた。

 帰って手紙をひろげたが、読み取りにくい箇所が二、三あった。

 

 此たびはたった三日でしかもいろいろいそがしかったのでゆっくりも出来ず、それも一晩も泊れなかったのは残念ですがかんにんして下さい。それでも毎日寸時宛でも会えてよかったと思います出発のときハ折角心静かに落ちついた気分で立ちたいと思ったのに雄弁女子の来襲で一処に尾張町まで行く事も出来ず残念でした

 汽車は少し寒かったけれど風邪もひかず今朝六時数分かに宮島に着いてとても静かな黎明の景色を眺めながら迎いに来て居った汽艇で八時半に帰艦しました

 厳島の大鳥居の下で小鹿がクウクウといっとったからウ・ヨシヨシと言ってやりましたら後から大きな鹿が飛び出して頭で臀の処をグングン押して来ようとしたけれど艇まで一浬バかり距離があったので駄目だったよ

 薔薇はもう咲きましたか。其一ひらが散る頃は嗟呼、

 どうぞお大事に、みんなに宜しく、

 写真を送ってね。さようなら

 十二月五日夜     五

 

 話しかけるように綴られた文章だが、薔薇の一行はとってつけたようで、何かを意味している。第二次世界大戦のはじまる三日前に書かれたことを思えば、これは私見だが、検閲にわからぬように、千代子に開戦を知らせたものと推察する。

 消印が八日となっているが、なぜか。また、封筒の裏に、十六、十二、八と、16、12、8と、漢数字と算用数字で二か所鉛筆書きがある。誰かがあとで書いたにしても不自然である。手紙は検閲にかかって二、三日とめおかれたのではあるまいか。

 二通を翌日、表具店M堂に持っていった。あるじは職人肌で、黙って頼んで一年も放っておかれたことがある。「沼津でできる最高の表装をお願いする、なるべく早く」と依頼した。

 五十六の手紙をもらったころから、大きな家にひっそりと住む二人と急に親しくなっていった。二週間続けて訪問したこともある。

 

 あるとき、せせらぎ荘廃業の話を聞いた。塚田川の悪臭が直接原因という。

 本筋から外れるが、塚田川公害に触れる。

 沼津市の海岸線は、千本浜、牛臥海岸、静浦、江の浦、内浦、西浦、大瀬崎と、延べ四十七キロに及び、中都市でいちばん長い。海水浴場が多く、大瀬崎は数年前から連続、日本一の綺麗な海水浴場と折り紙つきである。

 昭和天皇をはじめ、皇室の方々が海水浴を楽しまれた牛臥海岸も、昭和三十年代まで水が綺麗だった。四十年代から塚田川の上流に干物業者の作業場が建ち、未処理の汚水と生活廃水が小さい川を汚しはじめた。二十年ほど前から海が汚れ、海水浴不適のらく印を押され今日に至っている。今年も、適否の検査から外された。

 市は、処理施設をつくったものの、いまでも、せせらぎ荘前の小さな橋の下の流れはまるでドブのようだ。

 廃業当時を千代子は回想する。

「昭和四十年代後半になると、塚田川の悪臭がひどくなり、料亭旅館として環境が不向きになりました。

 赤字の出ないうちに、半分の五百二十坪と端の三十坪を売却し、事業を閉鎖したのです」

 それからは職ももたず、さとと二人だけで暮らしてきたらしい。

 

 暑さが残っている頃だと思うが、千代子が自身の過去のことを話しはじめた。

「明治三十七年八月三十日名古屋の生まれです。タツ年なので梅龍(うめりゅう)の源氏名で新橋に出ていました」

「山本元帥に初めて出会ったときのことを話してくれませんか」

「お座敷でした。何かの送別会だったと思います。威張っていてむっつりしていました。しゃくにさわって、この男を誘惑してやろうときめました。同席していた軍務局長が、山本は堅物だから何とかしてやれ、と言いました」初印象をはっきり覚えていた。「ところが、三、四回会っているうちに、こっちが参ってしまったのです。元帥は私に、援助は出来ないから妹としてつき合いたい、と言いました」

 

 結ばれたとき

 

「深い関係になったときを覚えていますか」

「私が二十六のとき、明日ロンドンへ発つという前の晩(昭和五年ロンドン会議)初めて結ばれました。会ってから十回目です。深くなったあと、妹に手をつけて済まぬ、と畳に手をついて詫びました。ロンドンから帰り、それから十三年間、愛人関係にあったのです。妹のようにして可愛がってくれました。子供はあきらめてくれとも言いました」

 このときは、さとは話に加わらなかった。

 あるときは、さとのことから話し始めた。

「四十二歳のときからさとさんと暮らしています。三十数年間一緒におりますが、毎日ケンカばかりしています」

 さとも傍から口を添える。

「静浦の保養館にいらした奥さんを一目見て物凄い美人なのでびっくりしました。身辺のお世話をすることになりましたが、美貌に魅せられて、奥さんが松林を散歩するときもついてまわったので、腰巾着といわれたものでした」

 芦沢さとは、大正十三年生まれ、保養館に人ったとき、両親は既になくなっていたらしい。出身を尋ねると、せせらぎ荘が実家ですと冗談を言った。

 二通の手紙をいただいて一か月ほどたつと、表装が出来た。

 桐材の筒状の芯と共に巻くようになっているので、元帥の便箋三枚と封筒の裏表は、直径六センチの巻物に仕上がっていた。渋い模様で満足のゆく仕上げだった。光政のも同じ大きさである。

 二巻をおさめた桐箱は、風呂敷に包むと進物用のカステラみたいになった。早速次の水曜日、二人に見せ、来週伺うので箱書きの用意を願いますと依頼した。

 箱書きしてもらった日のことはよく覚えている。たしかその日、私の秘書を千代子に紹介したと思う。

「いつも表で待っていた秘書です」

 と言うと、やや暗い室内だからだろうか眼をこらすようにしたあと、すこし間を置いて、「美しい(ひと)ですね」、と褒めた。

 応接室で揮毫しようと蛍光燈をつけたがそれでも暗い。縁側に机と埼子を持ち出してということになった。

 私は、さとに、下書きはいらないか、と尋ねた。大丈夫です、奥さんは馴れています、字もお上手です、と答えた。

 墨をすっている千代子に、〝山本元帥の手紙〝と〝米内光政から山本元帥への手紙〟と頼んだ。

 「私は元帥をお兄さんと呼んでいました、お兄さんではいけませんか」、と千代子。

 すらすらと見事な筆で一息だった。『お兄さんの手紙』『米内さんからお兄さんへの手紙』、署名は『千代子』。

 箱書きが終わると、さとが奥から千代子の若い頃の写真を数葉出してきた。五十六が艦長室の壁に飾っておいたというセピア色の大きな顔写真は、夢二の描く大正美人の風情が濃い。いずれもプロの作品で、芸者姿のは次の訪問のときいただいた。

 箱書きのときから、秘書も同席するようになった。二人だけのときとちがい、世間話や身辺の話題が多くなり、五十六については少ししか聞けない。

「酒もたばこものみませんでした」

「万葉集の勉強をしていました」

「戦いを嫌っていた自分が、嫌いな戦いをせねばならぬ、とよく言っていました」

「習字を熱心にしていました」

「私と二人きりになると、勝つ見込みはさらさらなしと言い切っていました」

「銀座で置屋をやっていたころ、芝・神谷町に家を一軒もっていました。地下の六帖間で秘密会議が行われました」

 千代子からいろいろ話を聞いたが、これを書いている今、心に残るのは、千代子の口からご主人の名前が一度も出なかったことだ。考えてみると、私の描く銀作のイメージは、すベてさとの話にもとづいている。

 

 五十六と千代子の記事

 

 初めて訪ねてから一年ぐらいたったころだろうか。私の医院へ本が五冊届き電話が入った。

 「せせらぎ荘を営業しているとき、阿川さんが一日取材にみえました、私のことが書いてあります」

 阿川弘之著『新版山本五十六』(新潮社刊)、戸川幸夫著『人間山本五十六』(光文社刊)、雑誌「文芸朝日」の三冊など。

 戸川氏の本は、四六判三百九十七ページ、戦史にもとづき、フィクションを加えて五十六の人間像を描く伝記文学で、昭和五十一年発行。

 千代子は文中、芸者・菊路、本名相沢みよ子となっている。五十六との会話が五ページにわたってあり、他にも一ページずつ二か所出てくる。五十六と千代子が初めて会ったのは昭和九年で、きっかけは、宴会で吸物の蓋を取るのに難渋している海軍高官(五十六は事故により左手の指が三本)に、「おとりしましょう」と手をさしのべる、「自分のことは自分でする」とことわる、「せっかく好意で言っているのに」と菊路はしゃくにさわる、となっている。

 昭和四十四年に発行された『新版山本五十六』も四六判四百四ページで、伝記文学の白眉と思った。

 五十六の足跡をぼう大な史実に照らして忠実に追い、フィクションをできるだけおさえ、しかも、物語として興味深く読ませる。栄光と悲劇の日本海軍の記録文学でもある。資料談話提供者は、氏名を公表しない約束の数名を別として、後藤千代子を含め百名余り、参考文献は九十五にのぼる。

 千代子はこの本の中に、芸者・梅龍、本名河合千代子の名で三十か所近く登場し、五十六とのかかわりや、千代子あての手紙を合わせると約十ページとなる。

 二人の最初の出会いは、やはり吸物椀の蓋で似ている記述だが、昭和八年としてある。

 旧版にも千代子はしばしば登場しており、新版のための一日の取材分を加えたとしても、千代子に関する記述は多い。

 五十六の初恋人として、ごく一部の人に知られ、昭和四十三年死去するまで五十六を思慕し続けた九州の芸者・小太郎、本名・鶴島ツルの存在もあるというが、四百ページの本の十ぺージは四十分の一にすぎないというものの、五十六が千代子を知り戦死するまでの十三年間、愛情の大半は千代子に向けられていたにちがいない。

 私が千代子からもらった五十六の手紙も、新版二百六十四ページに中略で載っていた。

 本を読んで、千代子をよりよく知ったあとも、月一、二回の訪問は変わりなく続いた。

 そのころ、せせらぎ荘の近くに、養子の嫁・河合ふき子(昭和三年生まれ)が住んでいることを知った。二、三年後に、一、二度顔を合わせるようになるのだが、さとの話では、千代子は嫁の悪口を一度も言ったことがない。また、嫁から姑の悪口を只の一度も聞いたことはないという。

 あるとき、カメラを持って行った。千代子が普段着でよいというのをさとは着替えさせ、縁側の藤製の椅子に腰かけさせた。また、日をあらためて、カメラを持参したときはさとがいなかったので、奥の部屋でありのままの姿を撮影できた。ファインダーでのぞいた顔は、髪が白く、花柳界出身とは思えぬ気品があった。

 またあるときは、自決を迫られる話をしてくれた。

 

 「自決しろ!」と

 

 五十六が戦死したその日か翌日、軍務局長を含む三、四人の海軍省の軍人が来て、元帥にあなたのような女がいると恥辱だからすぐ自決してくれ、と言われた。しかし、三十九歳の若さではとても死ねなかった(五十六の戦死は五月十一日の大本営発表で一般国民に知られた)。その後しばらくして海軍省から、元帥から来た手紙を全部提出せよ、命令に従わないなら家宅捜索をして取り上げる、という通達が来た。仕方なしに、五、六通を隠し、六十通ほどの来信を提出した。

 扁額の説明をしてくれたこともある。応接室には、五十六がロンドン滞在中に描いたノートルダム寺院の油絵と並んで『芝即寿』の揮毫があるが、芝は神谷町のことで、銀座の梅野島では多いときには八人の芸妓をかかえて商売をしていたので、神谷町を忍んで逢う家としており、一時期は一緒に暮らしているも同様だったらしい。神谷町の家はすなわちことぶき(ヽヽヽヽ)だったの意味という。

 防空壕もかねた地下の六帖では、スパイの心配もなく密議がこらされたようだ。

 梅野島の話のとき、さとは、「奥さんは気前がよかったんですよ、昭和十七年に置屋を廃業するとき、抱えていた芸者の借金の証文を全部破いたんです」と聞きかじりを加えた。

 私が牛臥を訪ねる度に、必ず千代子と会ったのではない。奥さんはお休みです、と言われすぐ帰ることもあった。

 ある日、千代子に会えず帰ろうとすると、さとが引き止めた。

「先生にお願いがあります」と緊張した面持ちで言った、「奥さんの万一が心配です、死亡診断書を書いていただけますか」と。

 急死して医師が立ち会えなかったとき、司法解剖にまわされるのを心配しているのである。

「会ったこともない人の死んだ姿を見せられて死亡診断書を書く医師はいません。そういう場合は法に従って警察が介入しますが、かかりつけの医師なら、死亡時に立ち会わなくても不審な点がなければ書いてくれます。殆どの医師がそのような経験をもっています。私は産婦人科医ですから、いつでも居所はわかるようにしています。私でよければみとってあげましょう」と安心させた。

 

 『いろをとこ』

 

 初の訪問から二年ほどたったころ、私が主宰する随筆の結社『随筆春秋』の同人Tさんから長岡温泉に招待された。

 Tさんは、昭和五十八年、九十四歳で死去した作家・里見(とん)が没するまでの三十年以上、身辺の世話をした女性である。

 席上、偶然、五十六の愛人の話になった。

 「昭和三十年ごろ、里見先生と静浦の保養館に泊まった際、愛人を訪ねようとした記憶があります。先生は二人をモデルにした短編『いろをとこ』を発表しています。元帥やHさんの通った待合、中村家のあるじから聞いた話をもとに小説に仕立てたのです」とTさんは言い、後日里見_全集を貸してくださった。

『いろをとこ』の舞台は三浦半島の海に近い温泉宿、一万坪近い庭園のあちこちに数寄屋風離れが散在しているというその一室。

 登場人物は(あから)顔で高く広い額、半白の坊主頭、髭の剃りあとの濃い大兵肥満の六十男と、旦那の目を盗んで同行した四十近い芸者の二人。

 短編のはじめの五分の四は、新派の芝居をほうふつさせる情景を描き、男女の会話が大半をしめる。昼間の男は、両膝をかかえこむようにしたり、居ずまいを正したり、片あぐらをかいたりして沈思黙考。鋭く光る目を半眼に閉ざし、唇を一文字にかたく引きむすんでいる。夜半(よなか)は雄々しくも逞しい性欲で女を圧倒する。一節を引用する。

 

 翌日は天気が崩れ、急に秋風だって、時をり、バラバラと、時雨模様の雨が落ちて来たりした。それでも、障子はあけはなしのまま、揺れ動く萩などに、(まじろ)がない眼を置き据えて、昨日に変らぬ男の(よく)(だんまり)が続いた。三日目の朝は早起きをし、旅装もとゝのへてから、

 「あゝあ、今度こそあたし、天徳(てんとく)をしくじるわ」

 「いくらでもあと釜が控へているくせに。けち(ヽヽ)なことを言ふな」

けち(ヽヽ)で言ふんぢゃァなくってよ。いくら、相手があんただって、ちっとはすまないやうな気もするわ。一昨日(をととひ)の晩の電話で聞いたんだけど、あんたと一緒だってことがわかって、大悶着(おほもんちゃく)らしいわよ」

 「別に驚くほどのことぢゃなかろう」

 「それアさうだけど、……あんたは、知らん顔して逃げる気ね?」

 「いろをとこ、金と力はなかりけり、だ」

 と、平然と笑ひ飛ばすのを、いくぶんか怨めしげに、

 「あなたみたいな人って(はじめ)てだわ」

 「あたりまへさ」

 「ほんとにこれンばかりも可愛げなんてない、いやないろをとこ!」

 

 おわりの五分の一は、打ってかわってドラマチックな展開をみせる。

 要約すれば、宿の場面から二か月あと、突如、男の名が日本はおろか世界中にまでも響きわたる。

 翌々年の早春、瀬戸内海のM島で会ったのが最後で、四月、島の密林に飛行機が落とされ、登場していた提督が戦死した。ほどなく国葬が行われたが、遺族でもない女は、特に設けられた席で泣き崩れる。

 以上があらすじで、小説の中には山本五十六の名は出てこないが、提督と国葬から主人公は五十六とわかるし、文中の〝男の名が世界中に〟とは、真珠湾奇襲の聯合艦隊司令長官を示唆している。

 作品が発表された昭和二十二年には、五十六にそのような女性がいたとは一般に知られていなかった。

 後年、Tさんから聞いたのだが、Hは五十六と海軍兵学校の同期生、海軍中将で退役し、その後も親交を重ねていた。里見_に私淑しておりよく遊びに来たから、小説とはいえ事実に近く書いているはずで、温泉宿のモデルは大仁ホテルだろうという。

『いろをとこ』に登場する女性は海千山千の芸者で複数のパトロンを踏み台にして水商売の世界を生き抜いており、主人公に身も心も捧げる、しかも、主人公とパトロンは互いに存在を承知している。

『いろをとこ』のことは、千代子やさとに話さなかった。

 

 二人がマスコミ嫌いであるのは、言葉の端ばしからわかっていた。

 ある時、さとが「いまでも何かあると、マスコミから二十本ぐらい電話がかかってきます。誰かが教えたのでしょうか私専用の番号にかかります。私は『奥様は病気でふせっておりますので面会できません』と全部断ってしまいます」と言うので、嫌う理由を尋ねてみた。

「あることないこと、嘘ばっかり書くからです」とさとは言う。「牛臥へ来る少し前〝せせらぎ〟で新聞記者に元帥の手紙を見せたら大騒ぎになりました」。

 昭和二十九年四月十八日号『週刊朝日』が、写真入りで千代子の存在を報じた。軍神の艶っぽい過去の初公開とあって、他のマスコミが追ったのは言うまでもない。千代子は広く世間の目にさらされることになる。

 面白く読ませるために、記者のペンが興味本位に曲げられたのだろう。元芸者であればなおさらである。千代子の心を傷つけるケースが多かったようだ。

 八幡町で〝せせらぎ〟を経営していたころ、千代子は際立って美しかったらしい。かつて〝せせらぎ〟のあった敷地は、いま倉庫が建っているが、三軒隣で小児科医院を開業しているH医師の母堂から、当時の千代子について聞いたことがある。

「話をしたことはありませんが、九条武子に似た美しい方でした。澄ましていて庶民的ではありませんが、みるからによい方だと感じました」

 九条武子は(ろう)たけた、明治の代表的美人である。

 牛臥に移ってからも、ことあるごとに記者が訪ねてきたが、さとのガードはかたかった。

 さとから、位牌を焼いた話を聞いたことがある。

「ご主人は元帥の話が嫌いで、訪ねてきた人が元帥の名を出すといやがりました。趣味がなくて、今テレビではやりの徳川家康も面白くないっていう人です。奥さんは位牌を大切にしているので、ご主人は嫉妬して、ある時位牌を焼くように奥さんに命じたんです。

 ご主人に知られぬように本物そっくりの位牌を作り、うまくすりかえて、目の前で焼きました。本物は今でも清水町徳倉の普光寺にあります。にせの位牌を焼いてすこしたつとご主人の前の奥さんが死に、天罰と思いました」

 千代子は黙って聞いていた。

 八十歳を過ぎるころから、気力も体力も、初めて会った時にくらベると衰えてきた。

 

 千代子、怒る

 

 しばらく訪ねなかったからだろうか、ある日、電話をもらったので早速訪ねた。

 応接室で待っていると、さとに支えられるようにして入ってきた千代子が、

「先生に貰っていただきたいものがあります」

 と一通の封書を差し出した。何枚もの便箋に墨書きした五十六の手紙だった。最後の一通と直感し、千代子に済まないような気持ちになった。

 私は重いものを貰ってしまった。

 午後の診療が一段落して書斎に入り、便箋十二枚にびっしり埋められた二千字を読んだ。この稿の最後に掲げるが、前の手紙より達筆で、昭和十七年五月二十五、二十六、二十七日間の、すこしの時間をさいてていねいに書かれたものである。

 封筒の上書きは、『京橋区銀座七の三 河合千代子様』裏は山本五十六だけで、切手、消印、検閲印はないから、人伝てに千代子にわたった私信である。

 なお、この私信を託した同じ日に、もう一通千代子に手紙を投函している。

 いただいた私信の読後感はここに書かない。千代子の病身を気づかっている部分が多いが、阿川氏の著書を参考に、当時の千代子の病状を書かないと五十六の気持ちを理解しにくいだろう。

『新版山本五十六』によれば、五月十三日から六日間、戦艦「大和」は呉軍港に投錨した。入港時の慣例で、乗員の希望者はみな、細君を呼び寄せ別れの夜を過ごした。五十六もその日のうちに千代子に電話をかけた。千代子は三月から肋膜炎にかかり、一時は重体で絶対安静を命ぜられていたが、その晩、医師につきそわれて下関行きの夜行列車に乗った。翌日午後、呉駅のプラットホームに、背広に眼鏡とマスクをした五十六が待っていた。病弱の千代子は注射をうけながら、旅館で五十六と四晩をすごした。五十六の五月二十七日付の手紙、

 

――あの身体で精根を傾けて会いに来てくれた千代子の帰る思ひはどんなだったか(中略)私の厄を皆引き受て戦ってくれている千代子に対しても、私は国家のため、最後の御奉公に精根を傾けます。その上は ――万事を放擲(ほうてき)して世の中から逃れたった二人きりになりたいと思います(後略)――

 

 同じ二十七日に秘書官に託した私信、つまり、私がもらった手紙は、阿川氏の著書にはない。

 千代子と知り合って三年ぐらいたったころだろうか、訪ねた私にさとが、「奥さんは先月入院されました」と言った。驚いてO博士に電話を入れると、「どうということはありません、近いうちに退院します」と言われる一幕があった。

 退院後の千代子は、寝たり起きたりの生活になった。訪ねても休んでいることが多く、起きていればテレビばかりの生活だったようだ。

 こんなことを思い出す。

 さとに手を引かれて応接室に入ってきた千代子がすこし興奮している。

 さとが説明した、「きのう山本元帥のテレビがあったのですが、奥さんがおこり出してテレビ局を訴えたいと言い、今もその続きを話していたところです。以前にも、訴訟をおこしたいと言ったことが何回かありました」

 私は日頃、テレビを見ないので、その番組を知らないが、千代子をモデルにした芸者が、酔って元帥宅へ乗り込んでいったり、しどけなく座敷着を脱ぐシーンが千代子のカンにさわったらしい。

 元帥を描いた映画は多いだろう。原作者や脚本家は、視聴者の興味をそそるために千代子を憤慨させるような場面を挿入したのだろうか。芸者は、本妻の家へどなりこんだりは決してしないものだ。

 親族以外でせせらぎ荘へ出入りするのは私だけだったせいか、起きている限り千代子は必ず出てきた。しかし、初対面の時とちがい、歩行はゆっくりとなり、さとに手を引かれてということが多くなった。回想を話しても正確度が次第に失われてゆくのを感じた。

 夢の話は当初から何度も聞いた。

 一番多くみるのは、呉の軍港での最後の別れ、次が宮島から厳島に渡って一泊した旅行、ほかにも、様ざまな場面で、ちがった服装で出てくる。夢の話も、最初話したときと年がちがっていたりして、そばからさとが、奥さんちがいますよ、と言っても訂正できないでいる。

 初訪問から四、五年がたつと、訪ねる間隔は長くなったが、牛臥を忘れはしなかった。

 玄関のガラス戸を引き、静まりかえった奥へ向かって大声をかけるのだが、さとにつきそわれて、手で壁を伝うように歩く姿はあまりに痛々しい。訪問してさとが出てきても、安否を尋ね、手土産を置いて帰るケースが多くなり、声もかけずに、ということもすくなくなかった。

 

 五十六の遺髪

 

 平成元年八月三日、肺炎のため、千代子はせせらぎ荘で八十五歳の生涯を閉じた。

 三日前から容体は変わったが入院させず、医師の往診により点滴が続けられ、さととふき子にみとられながら、大きな息を二つ、安らかな最後だったという。ふき子は、三年前からせせらぎ荘に住み込み、さとと共に介護したのだった。さとが、五十六の遺髪を懐に入れた。

 訃報は、千代子ゆかりの人びとと、さととふき子の親類に限られた。

 五日、せせらぎ荘の応接室で葬儀が営まれ、参列者で埋まった。五十ほどの盛花が飾られ、阿川氏からは、千代子の好きな胡蝶らんとばらだった。

 千代子の墓は、東京・六本木の妙善寺だが、分骨は清水町普光寺にある。

 千代子の死去はマスコミにキャッチされなかった。私の知る限り死の報道はされていない。五十六の戦死から四十七年もの長い年月、想い続けながら消光した女性の存在を、マスコミにかわって、戦前・戦中派の人びとに知らせたい。

 私が託された恋文には、病む千代子への気づかいが行間にもあふれている。

 

 恋文

 

 けふ廿五日東京へよりし参謀が中村勝平君よりの手紙とかねて御依頼せし萬葉集小註を持って段取りしてくれたので千代子がその後経過順調で先月末より本月はじめまで静浦へ静養に出かけ其後は立花で来月になればどこへでも行けると先生に言われたとの事を承知して本当に安心しました。

 私もことによったら今月は横須賀方面へ行き東京へ打合せに行くかもしれぬ(此前手紙に書いた)と話したのでしたが後其方(横ス賀へ回航しないことになり)は都合で必要がなくなり從って当分上京の機会もなくなりましたそれに此頃いろいろの事が世間や外国へまで漏れるので艦隊の乗員や徴用船の船員の手紙などを検閲するといろいろの軍機のことがかいてあるので之では将来の作戦に不都合の事があってはいけないから当分手紙は出さぬ事にするという事になったのでした。それで私など誠にこまるのですが封書は控え居る次第です。

 此手紙は二十九日頃の幸便にたのむつもりなのです(秘書官に)

 其後引きつづき経過もよいとすればもう注射も大体予定の回数が終わった頃であとは体力の恢復だけで段々全快なのでしょうと想像して嬉しくてたまりませんどうか此夏のあつさだけを充分に気をつけて夏まけしない様にして下さい。

 東京からは先日君梅さんからとけふ中村武官の外一切手紙が来ず様子もわかりませんが外に萬々かはった事はないでしょうか。

 戦争も追々本格の長期戦になり船や飛行機や油やいろいろ入るものばかりになりますが懦座の方はどんなものかそれにつれて花柳界などの影響はどうです結局うちの様子はどんなかなと思い出して居ます追々暑くなると二階もたまらなくなるでしょうと心配です私も出来れば千代子の箱根への転地前にもう一度あって元気のところを見たいのですが次の大きな作戦のことでいろいろ心肝をくだいたり練ったりして居るので当分其機会が得られませんからどうぞ我慢して涼しくなる頃まで待って下さい、そうしてその間に充分からだを丈夫にして元気一杯の千代子になっとって下さいどうぞお願いします。

 また明日にでも書きたします御機嫌よふ(写真の千代子がジーッとこっちを見てるよ何とか言ってよ)

      二十五日午後五時

 

 あすは大臣がこちらへ見える相だから東京の話なども出ると思ふけれど千代子は其後島田さんには会ふ機会もなかったでしょうね

 昨晩澤本さんからの手紙で「河合氏のお見舞いに羊かんを少々送ったらおすしを沢山に貰って恐縮でした丁度よい機会だから御依頼の手紙は直接届けるつもりだ」とかいてあったので自分で中村家へ行ったかそれともうちへ直接行ったかとにかく自分で訪ねていっただろうと思っています。

 此手紙は丁度返事もかかなければならぬので中村武官に届けて貰ふ様に頼むつもりですから中村さんも御見舞がてら来る事でしょうがそうなるとうちは海軍省の出張所の様になりますね大臣には秘書官か誰かついて来るのか此頃秘書官は代ったのかどうかちっともわかりません島田さんは明日朝ついて一泊して徳山あたりの工場を廻って二十九日頃は東京へ帰るらしいから今月中には此手紙が届くと思います

 今度又何時手紙が出せるかわからぬからお中元の分、少々ばかりわけてあげて下さい入れといたから

 此手紙のつく頃は或は強羅あたりへ転地して居るのではないかなどとも思いますが来月からかとも思って居りますそれとも他にしましたかおひささんの話の御殿場あたりの田舎もよいかも知れないねともかくこちらからははがきや名刺でも出しますからこれからさきの行動予定など知らせて下さいねどうぞお大事に

 うつし絵に口づけしつゝ幾たびか千代子とよびてけふも暮しつ

      五月二十六日夜

 

 けふはとてもむし暑くやがて降って来そうの空模様ですあと暫くで島田さんが着くのでついてからの話なども聞いてからもっと書きたいけれどひまがないかもしれぬから一応封をしておく事にします

 それではどうぞ気をつけて充分に養生をしてお乳も腕も背中もお尻もいやになったという程丸々と肥って下さいそれから又しまって来るのはわけないからね、駒さんはおかあさんになってからやって来ましたか、もう一月以上になったでしょうね、みんなによろしく、それではお大事に御機嫌よふ左様なら。

  五月二十七日朝九時 五十六

  千代子様

  萬葉集小註はとても面白く読んでいますありがたふ

 

(引用の手紙三通はすベて原文のまま。)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/06/06

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望月 良夫

モチヅキ ヨシオ
もちづき よしお エッセイスト 1929年 東京都に生まれる。2005年没。

掲載作は、1990(平成2)年11月「医家芸術」34巻11号に初出。

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