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池のほとり

 父は鉄砲を肩にかけ、俊助は父と並んで歩いて行った。遥か前方に山があり、その麓に池があった。山の背後には鈴懸連峰が遠く連なり、池の土手は錆色の肌を陽に晒して耀いている。藁塚が集落をつくって囁きあうように散在し、時折り、巨大な雲が墨色の影を大地に投げては走って行った。冬の田圃は人影もなくまるで荒涼と荒れ狂う海のようだった。

 犬が彼らのまえを、転げる恰好で駈けていた。草叢に立ち止っては、生きものに挑む姿で飛びかかっている。鎖の桎梏(しっこく)から解き放たれた、軽快で快い行動だった。その行動が無抵抗に終ると、また次の行動へと自己をかり立てていた。時には、幼なじみた姿で彼ら二人のもとに駈け戻ると、彼らの足に絡まっては、また前方に向って宙を躍りながら飛んで行った。

 風もない暖かさだった。雲が巨きな影を大地に落して通過すると、酷しい冬が舞いもどった。皮膚を八つ裂きにする冷たさであった。それは紛れもない季節の苛酷な感覚だった。犬だけに暖かい野放図な体液が隅々まで充溢していて、犬だけに快い生気が無際限に与えられている感じだった。それは荒涼とした冬の野に点じられた、一つの天の恵みにも映った。

 父も俊助もあまり喋らなかった。互いに黙々と溝を飛び越え、来る春の息吹きのまだ感じられない色褪せた草を踏んで進んで行った。地の底にある春はまだ動いていなかった。

 池の土手に着くと、二人は斜めに走る小径を登って行った。足の下で凍てた土が歯切れのいい音を立てていた。スタカットの乱れもない力の籠った音であった。

 池は暗緑色の光を湛えて静かに生きていた。波もなかった。池を取り囲む樹々は囁きを秘めあって孤独な人のようだった。

 父は椎の大木の茂みに蔽われた家に這入って行った。やがて男の人と一緒に戻って来た。

「この間の雉子(きじ)は、実に立派だった」と男は(ともづな)を解きながら、独言のように云った。

「どうしました、あの雉子」

進上物(しんじょうもつ)にしたよ」

 父は舟に飛乗り、俊助も乗った。舟が大きく不安定に傾いたので、男は俊助の胴に手を廻して支えた。男の腕は角の尖った岩のように頑丈だった。ものを云いながらも、胴に手を廻しただけで、俊助の安定を欠いて揺らぐ躰はぴたりと木の葉のように静止した。俊助は父と並んで舳先(へさき)の横板に腰をおろした。二人の間に前肢を揃えて犬が坐り、前方に澄んだ勇みがちな眸を向けていた。

 (さざなみ)が波紋を描いて拡がり、舟は櫓の音とともに進んで行った。池の面は、太陽の耀きと雲の翳りに敏感だった。敏感に感応しては、さまざまな色調を展げたり、収めたりしていた。陽の光を()ねながら、風に乗って游泳する鳥の大きな翼にも似ていた。

「あれは何だね?」

 と父は対岸が見えるようになったとき、対岸に動いている人影を見て云った。対岸の日溜まりに二人の人がいて、一人は小屋の後ろに廻ったり、現れたりしていた。一人は枯草の上に腰をおろしている様子だった。

「巡査です」と男は櫓を動かしながら云った。「心中らしいんです」

「うん?」と父は聞き返した。

「心中らしいんです。今朝方、樵夫(きこり)が見付けましてね、それで憲兵が来るのを待っているんです」

「憲兵?」と父は聞き返した。

「そうです、脱走兵らしいんです」

「うむ」と父は喉を鳴らした。

 舟はゆっくり進んで行った。揺れることも無かった。漕ぎ手が上手なためか、進んでいるとも解らない程であった。

「脱走兵の心中――」と父は前方に眼をやりながら云った。

「樵夫がすぐさま駐在所に届けたんです、するとあの二人がやって来たんです」

「新兵かね?」と父が訊ねた。

「そのようです、それも、入隊後間もない男のようです」

「脱走兵って、なに?」――俊助は父を眺めた。

「うん?」と父が聞き返した。

 俊助は同じことを訊ねた。

「軍隊を逃げだした男のことを云うんだよ」と父が云った。

「どうして逃げ出したの?」

「そんなことは解らない」

「じゃ、エイソウか、ジュウサツにされるんじゃないの? 脱走すると」

「そうだ、営倉か、事情によっては銃殺にされる――」と父は云った。それから顎を対岸に向けてしゃくった。「でも、あの男はもう死んでいるんだ」

「銃殺される前に、死んじまったんですよ、坊ちゃん――」と男は櫓を器用に操りながら云った。「軍隊の鉄砲で心臓を抉られるまえにね、それも女と一緒にね」

「女と一緒に死ぬことを、シンジュウって云うの?」俊助は男を振り返った。

「そう、まあそうだ」と父は答えた。

 前方に眼をやっていた犬が、突然、俊助を見上げ、それから首を擦りよせて来た。俊助は犬の頭を叩き、顎の下を撫でてやった。

「いい犬ですね、そのセッターは」と男が云った。

「いい犬だ、年をとったけどね」と父は答えた。「前の犬もよかったけど、これは焦るようなことをしないよ、決して――」

「それで何疋目です、犬は?」

「さあ、何疋目になるかな」と父は犬に眼を移した。父の眼は犬をこのうえもなく愛している眼差しだった。

「泳ぎもうまいですね」と男が云った。

「泳ぎもうまい」と父はそれに応えた。「それに嗅覚もいいし、勇敢だね。――落着いているのが何よりいい。尾を地面にぴたりと静止させて、こちらが合図するまで動かない。――こちらがへまをして撃ち損じる位のものだ」

「ほんとうに、いい犬だ」と男は櫓を動かしながら云った。

「ぼく、この犬に引き摺られたことがあるんだよ、小父さん」と俊助は振り返って云った。

「もう、だいぶ前の話だな」と父が云った。

「腰に鎖を巻いてもらったら、途端に倒れて、五メートルぐらい引き摺られていった」

「それは面白い」と男は云った。

「もう、大分昔の話だ」と父が云った。

 滑らかに()しむ櫓の音が、澄んだ空気を鋭く裂いていた。一瞬、巨きな雲の影がまた水面を闇のように昏く蔽って(かす)めて行った。舐めて行くような低く速い掠め方だった。掠めて行ったあとまでも、その余韻が水面に(まと)いついて漂っているようだった。水の面は深い鉄色をしていた。

 対岸の人影が次第にはっきりして来た。

「うん、巡査だ」と父が云った。

「一人は隣り村の巡査で、一人はこの村の巡査です」と男は答えた。

「そうらしい」と父が云った。

「樵夫の連絡でやって来たんですが」と男はまた同じようなことを繰返した。「一人じゃ心細いんでしょうね」

「どれぐらい前のことかね」と父が訊ねた。

「もう、三時間にもなります」と男は云った。「見付けたのが十時頃でしたから――」

 対岸に舟が着くと、男は纜を杭に縛りつけ、舟を静止させた。

 俊助がまず降り、犬に続いて父が降り立った。

 父は降り立った姿勢のまま、巡査たちの方を見ていた。それから、ゆっくりそちらの方へ歩いて行った。

 枯草に腰をおろしているのがこの村の巡査であり、小屋の後ろに廻ったりしていたのが、隣り村の巡査だった。

「大変なことてすね――」と父はこの村の巡査に声をかけた。

「いやいや」と巡査は答えた。「――この間もこれに似たことがありましてね」と巡査は続けた。「他所の村のことで――。もっとも、それは脱走兵じゃなくて工場の男と女でしたが。そうして、その二人は――」

 そう云って巡査は、右手の人差指で、左側の耳から顎の下へと弧を描き、更に右側の耳へと弧を描いて見せた。

「二人共?」と父が訊ねた。

「そう、二人共――」

 巡査はそう云って、もう一度、顎の下を通る弧を描いて見せた。

「だが、これは脱走兵ですからね」と巡査は溜息まじりに云った。

「私達の手ではどうにもなりません」

 腰をおろしている巡査のすこし向うの水際に、池に向った恰好で男が俯伏(うつぶ)せになっていた。それより少し向うの小屋の前には、女が倒れている。女は仰向けの姿だった。その二つの屍体は目の荒い(むしろ)で蔽ってあった。莚は一枚のを二つに裂いて使用したらしく、小さくて申訳け程度の蔽い方だった。男の屍体はその背中のあたりが蔽ってあり、女の方は下半身が蔽ってあった。

 男は左の顔半分を泥にめり込ませ、左手を水際へと伸ばし、こちらを向いていた。力いっぱい水に向って這い、そして力尽きた姿だった。池の水が時折り、伸ばした血まみれな指のさきを洗っていた。

「ところでね――」と巡査は云って腰をあげ、男の屍体へと歩み寄っていった。「――もっとも、この村の男ではないだろうし、そのうち憲兵が来て調べるだろうが、あんたはこの男を識りませんか?」

 そう云って巡査は莚の端を(つま)んで、莚を取った。俯伏せになった男は、まるで凍えて息絶えた獣のように、孤独な姿だった。とつぜん、犬が地面に鼻をつけて屍体に向いだしたので、父は犬の首輪に鎖をかけると、鎖を短く握って犬を引き締めていた。俊助はぴんと張った鎖に手を添え、父に寄り添い、父たちと一緒に俯伏せになった男に眼をやっていた。

 男は左脚を真直ぐ伸ばし、右脚はそれを抱えこむ恰好に曲げていた。左脚の爪先は泥に深々と喰いこみ、上半身は右の胸がすこし見える程度に持ちあげられていた。その胸の下には血が溜り、その血が泥を黒々と染めている。左側から噴き出て来た様子だった。

 父たちはみな(かが)みこんで男の顔を覗いていた。男は眼を半分開いたままであった。黒眼はすでに石のように乾いて、皺を漂わせている。

「さあ、見たこともありません」と父が云った。「でも、この村の地形を識っている者でしょうね、きっと――」と父は続けた。

「そうに違いない」と巡査は考え込む表情で云った。「だとすると、近隣の者か?――どちらかが、この地形を識っていたんだね」

 そうして巡査は隣り村の巡査を振り返った。隣り村の巡査は半歩後ろに退がった所から俯伏せになった男の顔を覗いていた。隣り村の巡査は、この村の巡査に較べると可成り年をとっている風だった。「赴任して来て間もないのでね、わしは――」隣り村の巡査は遠慮気味に云った。そして尚も入念に眺めていた。窃盗品でも識別する隙のない眼差(まなざ)しだった。

 父は更に跼み込んで、血が噴き出ている胸の辺りに眼を凝らし始めた。

「銃剣で突いたんですよ、心臓を――」とこの村の巡査が説明した。「だが、うまく突ききれずに、ここまでやって来たんでしょう」それから巡査は躰を起した。「あれを見なさい、血が落ちています」

 見ると、俯伏せになった男の足元あたりから、小屋に向って葡萄色をした血痕が所々に光っていた。それは大きい塊りのものもあったが、ほとんど眼に止まらない程のものだった。小屋に近い枯草の上に銃剣が陽の光を反射させながら転がっている。握る所が重く下になり、剣先が斜め上に向って浮いている。

「突き所がわるく、死に切れなかったんでしょう」と巡査が云った。「相手のはうまくいったんだが、自分の方は急所がはずれて――」

 そう云って巡査は屍体を莚で元通り蔽った。そして、小屋の方に足を運んだ。

 重そうに垂れ落ちた血があると、そこに皆は足をとめて眺めた。垂れ落ちた血を撥ね返したまま伸びている蒼い草もあった。それから下半身を莚で蔽ってある女の屍体の傍らに立った。女は右の脚を膝のところで軽く外側に向けて曲げ、左脚は真直ぐ伸ばしていた。着物の裾は乱れ、莚からはみ出した脚は透ける紙の白さで柔らかく弾んで見えた。若さを殊更、内に閉じ込めたような弾みだった。

「この女はどうです」巡査は跼んで、また莚を取った。

 女の胸もとは広く大きくはだけられ、乳房が二つ、生きた丘を作って盛りあがっていた。左の乳房の下に血の塊りで覆われた傷があった。銃剣で刺したらしい傷であった。

 一瞬、俊助は眼をつむり、鎖を引締めている父の腕にすがった。そうして、やおら眼を明けると、父は少しばかり躰を曲げて女の顔を見ていた。

「さあねえ」と父の声がひびいた。

 俊助はもう一度、左の乳房の下の傷を眺めた。傷は正確に左の乳房の下にあった。白く柔らかく隆起した乳房の丘の流れが、肋骨の平坦部に移行する所にその傷はあった。血の塊りがその一部を覆い、余った血は左の腋の下とみぞおちに向って夥しく流出していた。みぞおちは、すこしばかり着物でその下の方は隠れていたが、そこの着物は可成りの血を吸っているようだった。

「やっぱり、解らないか――」と巡査は自分に云い聞かす風に云った。「でも、どっちかが、この地形を識っていたに違いない」――巡査はまた、反復するかのように云った。

「でも、よく反抗しなかったもんだ」と隣り村の巡査が声を出した。

「双方、ある程度納得し合ったんだな」と父が云った。

「納得し合ったか、どうか――」と隣り村の巡査が云った。

「無理心中か――」とこの村の巡査が云った。

「考えられることです」と隣り村の巡査が続けた。

「無理心中ね――」と父が云った。父は水際に俯伏せになっている男の屍体に眼をやり、それからまた女の屍体に眼を移した。

 女は少しばかり眼を明けていた。暗い世界から、つい先程までの明るく生気に充ちた世界を垣間見ている眼付きだった。女の躰は風の中の若木みたいに乾いていたが、軽く開いた眼にはまだ生前の活力が(みなぎ)り残っていて、生きている感じだった。生きていると云えば、水際に俯伏せになっている男も、本当は死んでいるのではなくて、生きている――。例えば、かりそめに、あのような死の姿を、あの男も装っているだけなのだ。そして夢から醒めた恰好で、やがて、そのうちに、むっくり起きあがって来る。そうして、次の外出の許される日の約束をする。約束のあとはその日までの(わか)れの言葉を互いにそれぞれ交し合い、男は兵営に、女は家に、帰って行く――。そのように想えるほど、二人の屍体は、尚まだ生々しく生の息吹きが漂っていた。

 蝿が乳房の下の傷や、すこし開けた唇を舐めはじめたので、隣り村の巡査が掌を団扇の代りにして追い払った。だが、効果のない行為だった。

「ひと突きで終ったんだな」と隣り村の巡査が云った。

「狙いは的確だった」とこの村の巡査がそれに応えた。「だとすれば、本当に合意か――」

 そう云えば、左手の指は躰から少し離れた所で、僅かばかりの枯草を握りしめた恰好に曲げられていた。堰を切って雪崩れ込む苦しみに、独り、じっと堪えつづけた静かな指の姿だった。

 俊助はぴんと張った鎖に手を添えたまま、一瞬、また眼をつむった。そうして再び眼を明けると、隣り村の巡査は、掌を団扇代りに使って、蝿に向い効果のない動作を繰返していた。

 俊助は始めて、〈男〉と〈女〉を観たように想った。これまでのことは、みんな観たことにはならなかった。どうしてこの世にはしか居ないのだろう、と彼は想った。男と女以外に、別のものがどうして存在しないのか? 彼はまた考えた。例えば、立って歩いたり、喋ったり、笑ったりする、以外の別のものが――。そんな人間も居てもよい筈であった。そんな人間も存在してよい筈だった。だが、そんな人間はこの世には居なかった。ただ、という二種類の人間しか居ないのだ。人間とは怖ろしいものだ――、と俊助は想い、震えた。

「いずれにしろ、憲兵を待つより我々にはどうしようもない」とこの村の巡査が云った。

「それにしても遅い」と隣り村の巡査は懐中時計をポケットから引き出して眺めていた。

 父はねぎらいの言葉を二人に掛けておいて、その場を離れた。犬は鎖が切れんばかりの勢いで、舟着場から山へ通じる道に向った。その時、俊助は、屍体に莚をかける暗く重い音を聞いたように思った。

 舟は岸を離れて、今は池の中ほどを向う岸へと向っていた。

 父は鎖を解いて、犬を放った。すると真っしぐらに、舟着場から山へと通じる小径を犬は駈け登っていった。父は鉄砲を肩にし、俊助はその後に従った。山苺の枝や枯れた(すすき)が二人の躰をこすっては撥ねていた。()みついた癖みたいに、てらてら光った小径には陽の光と影の匂いが混りあって、二人に絡まって来る。

 小径を登りきると、径は着物の縫目ほど広くなった。柿の木が一本、熟れた渋柿を五つ六つ残して雑木林のなかに四股を踏んだ恰好に太い枝を力強く伸ばしていた。

 草叢から犬が飛び出てきた。だがふたたび、嗅覚を集中させた姿で別の茂みへと飛びこんで行った。

「どうしてあんなことを仕合わなければならなかったの? あの人たち――」と俊助は二つの屍体に想いを絡ませながら云った。

「解らないんだ、そのことは――」と父は云った。枯葉を踏む父の足音が響いた。

「兵隊のことが苦しかったの?」

「それもあるかも知れない」と父は云った。「でも、それ以外のこともあるんだよ、人間には――」と父は続けた。

「それ、どんなこと?」

「喜びとか、憎しみとか――」と父は云った。「その他いろんなことが星屑みたいに混り合って――。結局、誰にも解りゃしない、人間の心の中は――、真暗な迷路みたいなものさ――、解ったと思ったって、それはそう思えるだけのことだ。闇の中で、闇色をした蝶が眼に映ったと思う瞬間、蝶は消えている。それは本当に蝶がいたのか、それとも、居るように頭が錯覚しただけか――。本当のところ、人間の心のことは誰にも解らない――」

「何時まで経ってもそうなの?」

「そう、何時まで経っても謎――、解決の出来ない暗闇のようなものだよ――」

 父は足を停めた。犬が草叢に向って身を構えたからだ。日蔭になった草叢は、なだらかな傾斜をつくって、暗く深い巨大な杉の森へと連なっていた。犬は身を伏せて静止していた。躰の隅々まで、神経が(とげ)のように軽い躍動をしているようだった。父は銃を二つに折って、腰に巻いていた弾帯から散弾を選んで装填(そうてん)した。父は犬に向って合図を送った。犬は素早く飛んだ。かなり離れた灌木の向う側から、灰色をした鳥が不意をつかれた姿で飛び立った。低い角度を持った飛翔だった。父は銃を構えた。父は撃たなかった。鳥は一瞬姿を見せただけで、空中高く羽撃(はばた)かなかった。そのまま視界から姿を消した。

 父と俊助は陽と枯葉の匂いを躰に纒わせながら、歩いた。陽はいくらか傾いたようだった。が、それでも日溜りには動かぬ山の匂いがむせていた。

「あの場所ではいつも失敗する」と父は先程の鳥のことを云った。

 細い径を上ったり下ったりしながら、少しばかり展けた台地に出た。壊れかけた小屋が置き忘れられた恰好に傾いていて、土で築いた饅頭型の窯が三分の一ほど覗いていた。その(かたわ)らで半纏(はんてん)を着た男が腰をおろしていた。男は煙管(きせる)を持っていた。刻み煙草の灰が石の窪みにたまっている。男は親しげに父を見上げた。汚れた唇から、汚れた歯が覗いている。

「どうです」と男が云った。

「駄目だね」と父は答えた。

「二、三日前、後ろの谷で雉子を見ましたがね――」男は煙管に刻み煙草を詰めながら父を見ていた。

 父は小屋の左後ろに、深く展けて波を打つ谷に眼をやっていた。

(おす)のようでしたよ、それは――」

 一瞬、俊助は冬山の空に向って、斜めに高く飛び立つ雉子を頭に浮べた。力強く張った羽根が陽の光を躍らせて明るい海色に耀き、同時に銃声がとどろき、羽根が散った。羽根はゆるやかに静かに舞いながら、その羽根を離れて雉子はほとんど垂直に、灌木の茂みに向って落ちていった。

「今日はどうだね」と父が訊ねた。

「ぜんぜん」と男は云った。「昨日も――」

 二人は彼と別れて、小径を縫ってまた歩き始めた。

 犬の姿が見えないので、父は口笛を吹き鳴らした。間もなく犬は戻って来たが、ふたたび草叢へと駈け込んで行った。

「あんなこと、これまでにも見たことあるの?」と俊助はまた池のほとりに横たわった二人のことに想いを馳せて訊ねた。

「うむ――」と父が云った。「あの二人のことか――」

「そう」と俊助は云った。

「あれにそっくりなのは無いけどね」と父は云った。

「どんなの見たことあるの?」

「首を吊ったのに出喰わしたことがある」と父は云った。

「何処で見たの?」

「やっぱり山の小屋だったが、この村の山じゃない」と父は云った。

他所(よそ)の村の山の小屋でね」父は続けた。「犬が小屋の前で吠えるもんだから、行って見ると、首を吊っていたんだ、女だったよ。――でも、後で解ったんだが、それは見せ掛けだった」

「それ、どういうこと?」

「ある男がね」と父は云った。「その女を締め殺しておいて、首を吊ったように見せ掛けるため、縄の輪につるしたんだ、そしてその男は締め殺した後、自分も死ぬつもりだったがそれが出来なかった。で、ほうぼう彷徨(さまよ)っていた」

「それで、その男の人どうしたの?」

「もちろん、監獄に行った」

「そんなことも時々あるの?」と俊助は心の中で絹のように震えるものを感じながら云った。

「あるんだよ、やっばり」と父は答えた。

「どうしてそんなことを仕合わなければならないの?」と俊助はまた同じようなことを訊ねた。

「解らないよ、それも」と父は繰返した。「解ったようで、結局、最後は闇の中の谷を覗くようなもんだ」

 二人は、小一時間程またその辺りを歩き廻った。だが獲物らしいものには出逢わなかった。

 二人は山を降り始めた。近道を通って舟着場に戻った。

 舟は池の中ほどを、向う岸へと向って進んでいた。人が数人乗っている様子だった。

 二人は並んで枯草のうえに腰をおろした。水際に俯伏せになっていた男の屍体も、小屋の前で仰向けになっていた女の屍体も、今は無かった。男の屍体の跡には、夥しい数の大きな靴の跡が、入り乱れていた。深いのや浅いのや、踵のところに力の入った恰好のや、さまざまであった。水際の泥の所に、円く深く掘られた恰好の窪みが残っていた。それは、男が顔をのめり込ませていた所だった。多分、足を持って引き摺ったのだろう、その円い窪みは、樋状の溝をつくって足の方に少しばかり伸びていた。

 俊助は仰向けになっていた女の屍体の跡に眼を移した。小屋の横に莚が二枚、ちぐはぐに重ねられてあった。その辺りにも、大きな靴の跡が、見分けがつかぬほど多く入り乱れていた。

 やがて、舟が戻って来た。

 男は舟を、舟着場に静かに着けながら云った。

「どうでした?」

「さっぱりさ、駄目だったよ」

「鉄砲の音も聞えた風でもなかった」男は云った。

「最初から、なんだか、ひっ掛かったみたいだったよ、今日は――」

「やっと済みましたよ」と男は云った。

「憲兵かね? あの連中は――」

「二人やって来てね、何だかんだとやっていました」

 男が舟を動かぬように櫓で支えている間に、父は犬を舟に乗せ、俊助も乗った。二人は最初乗った時とおなじ横板に腰をおろした。犬は舌を伸ばして、荒い呼吸に身を委せていた。草じらみが重く垂れた大きな耳にも躰にも、砂のように飛び散っていた。

「――で、やっぱり、何処の者とも解らなかったの?」と父が訊ねた。

「男の所属連隊は、むろん直ぐに解ったようです。が、女のことは矢張なにも――」

 男は櫓を滑らかに操作しながら、舟を広い池の芯へと運んで行った。

 父は煙草に火を点け、マッチを池に捨てた。夕べの雲が空に飛んで、池の面を桜色に染めていた。

「男は三日前の日曜に、隊を出たまま戻らない兵隊のようでした」と男が云った。

「脱走兵か、やはり――」と父は自分に云い聞かすように云った。

「そうです」と男は答えた。「何れにしろ、営倉は間違いのない新兵のようでした」

 父は煙草をくゆらせていた。

ごぼう剣は、あの女の背中まで届いていましたよ」と男が突然、ゆっくり話しはじめた。

「うむ?」と父が問いただした。

 男は続けて云った。「胸を刺した剣は、心臓を貫いて背中まで届いていたんです」男は息をのんだようだった。「裸にして、憲兵がひっくり返したんです。すると、剣は胸板を通って、丁度その後ろの所に突き抜けた(あと)があったんです」

「うむ」と父は絞るような声を出した。

「剣に体重をもろに掛けて、やったようです――」

「もろに掛けて――」

「そうです、もろに掛けて――」と男は云った。

 俊助は水に手を浸していたが、手を引いた。水は皮膚を裂く冷たさだった。彼は、女の胸を突き抜いた剣とその男のことを考え、枯草を握りしめた恰好のまま静かに(こら)えた姿の女のことをまた考え始めた。そして更に、左手を長ながと伸ばし、水際に力尽きた姿で俯伏せに倒れていた血まみれの男のことに想いを走らせていると、また男が声を出した。

「剣のうえに、乗っかる風にして、やったんです」

 父が煙草を水に捨てる音が響いた。

 男は静かに櫓を操っていたが、もう喋らなかった。父も喋らなかった。喋ろうとしないのだ。夕暮の静けさの中を、櫓の音だけがその静けさを裂き、舟は対岸に向って、池の中ほどを、平らに、揺れることもなく滑って行く。

 

――了――

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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村山 暁生

ムラヤマ アケオ
むらやま あけお 作家 1921年 三重県に生まれる。

掲載作は、1973(昭和48)年12月刊「青銅時代」第16号に初出。

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