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刻々(一)

 朝飯がすんで、雑役が監房の前を雑巾がけして居る。駒込署は古い建物で木造なのである。手拭を引さいた細紐を帯がはりにして、縞の着物を尻はし折りにした與太者の雑役が、ズブズブに濡らした雑巾で出来るだけゆつくり鐵格子のこま一つ一つを拭いたりして動いて居る。

 夜前、神明町辺の博士の家とかに強盗が入つたのがつかまつた。看守と雑役とが途切れ、途切れそのことについて話すのを、留置場ぢゆうが聞いてゐる。二つの監房に二十何人かの男が詰つて居るがそれらはスリ、かつぱらひ、無銭飲食、詐欺、ゆすりなどが主なのだ。

 看守は、雑役の働く手先につれて彼方此方しながら、

「この一二年、めつきり留置場の客種も下つたなア」

と、感慨ありげに云つた。

「もとは、滅多に留置場へなんか入つて来る者もなかつたが、その代り入つて来る位の奴は、どいつも娑婆(しやば)ぢや相当なことをやつて来たもんだ。それがこの頃ぢやどうだ! ラヂオ(無銭飲食)だ、ナマコ一枚だ、で留置場は満員だものなア。きんたまのあるやうな奴が一人でも居るかね?!」

 保護室でぶつくさ、暗く、反抗的に聲がした。

「ひつぱりやうが此頃と来ちやア無茶だもん。うかうか往来も歩けやしねえや」

 満洲で侵略戦争を開始し、戦争熱をラヂオや芝居で(あふ)るやうになつてから、皮肉なことにカーキ色の廃兵の(よそほひ)で國家のためと女ばかりの家を脅かす新手の押売りが流行(はや)り、現に保護室にそんなのが四五人引つばられて来て居るのであつた。

 そんな話を聞いてゐると、私は左翼の者を引つぱるために、警察が飲食店の女中たちを一人つかまへさせればいくらときめて買収してゐるといふことを思ひ出した。交番の巡査が、何でも引つぱつて来て一晩留置場へぶちこみさへすれば五十銭。共産党関係だつたら五圓。所謂「大物」だとそれ以上──藏原惟人(くらはらこれと)でいくらになつた? さう思ふと、体が熱くなるのであつた。

 暫くして、私は金網越しに云つた。

「──だけれども結局、いくら引つぱつて見たところではじまらないわけですね。世の中の土台がこのまんまぢや。二十九日が来た。ソラ出ろ。……やつぱり食ふ道はありやしない」

「ふむ……」

 監房の前の廊下はまだ濡雑巾のあとが春寒く光り、朝で、気がだるんで居ないので留置場ぢゆう(しん)と、私の低いがはつきりした言葉を聞いて居る。

 

 ガラガラと戸をあけて金モールをつけた背の高い司法主任が入つて来た。片手でテーブルの上に出してある巡邏表のケイ紙に印を押しながら、看守に小聲で何か云つて居る。顔の寸法も靴の寸法も長い看守は首を下げたまゝ、(それ)に答へてゐる。

「ハ。一名です。……承知しました。ハ」

 金モールが出て行くと、看守は物懶(ものう)さうな物ごしで、テーブルの裏の方へ手を突込み鍵束をとり出した。そして、私のゐる第一房の鐵扉をあけ、

「さア、出た」

 鍵の先で招き出すやうな風にした。私が立ち上つてそのまゝあつち向きにぬいであるアンペラ草履をはかうとしたら、

「その紙なんかも持って…………引越しだ」

と云った。

「引越し? どこへ?」

 よそへ廻されるのか。瞬間さう思った。が、看守はそれに答へず、

「あっちにゴザのあるのを持つて来て」

と命令した。便所へ曲つたところに二枚ゴザが巻いて立てかけてある。その一枚を持つて来ると、そこへ敷いた、と廊下の隅、三尺の小窓の下を顎で示した。

「さア、そこへ坐るんだ」

 何でも夜前つかまつた強盗を入れるために、一房をあけたらしい。

 自分が廊下を行き来するのをほかに見るもののない監房の男たちがじつと眺めてゐるのだが、(そわ)が大きな聲で、

「えらいところへ出ましたね、寒いゾ」

と、坐つたまゝ首だけのばして云つた。保護室を通りすがつたら、

「馬鹿にしてるね!」

 今野が立膝をしたなり腹立たしげに、白眼をはつきりさせて云つた。

「ふむ!」

 成程、かういふ風な人の動しかたを、萬事につけてやるものであるか。自分は強くさう思つた。何も説明せず、先はどうなるのか見当がつかないやうに小切つて命令し、行動の自主性を失はせる。弱い心を卑屈にするにはもつて来いのやりかたである。

 強盗が、カラーをとつたワイシャツの上に縞背広の上衣だけきて入れられて来たが、留置場は冷淡な空気であつた。何もとらずにつかまつた。それが強盗としてのその男に対する與太者たちの評価に影響してゐるのであつた。看守だけが、

「──つまらんことをやつたもんだな。顔を知られてるにはきまつてるでねか。今度やるなら、もつとうまいとこやるんだ! う?」

 監房の金網に顔をさしよせて内を覗きながら云つてゐる。その二十三四の八百屋だといふ男は、ガンコに頭をたれたきり腕組みをして身動きもしない。

 廊下の羽目からは鋭い隙間風が頸のうしろにあたつて、背中がゾーゾーする。自分は羽織の衿を外套の襟のやうに立てて坐つてゐる。昼になると、小使ひがゴザの外のぢかにペタリと廊下へ弁当を置き、白湯(さゆ)の椀を置いた。弁当から二尺と隔らないところに看守の泥靴がある。

 

 保護室があいた。見ると、今野大力が洋服のまゝ、体を左右にふるやうな歩きつきで出て来、こつちへ向つて色の悪い顔で頬笑み、それから流しの前へ股をひらいて立つて、ウガヒを始めた。風邪で喉が腫れ、熱が高いのである。

 頃合ひを見て自分はゴザから立ち上つた。そして彼の横をゆつくり通りすがつて便所へ曲りしな小聲で訊いた。

「ニュース――ない?」

「藏原、やつぱりひとりらしい」

「…………」

 留置場の便所には戸がない。流しから曲つたところが三尺に一間のコンクリで突当りに曇つた四角い鏡が吊つてある。看守が用便中のものを監視する為の仕かけである。窓のない暗い便所にかゞんでゐる間、自分の頭は細かくいろいろな方面に働いた。そして、聞いたばかりの短い言葉から推察されるあらゆる外の情勢を理解しようとして貪欲(どんよく)になつた。出て来て手を洗ひながら又訊いた。

「拘留ついた?」

「中川の奴、二十日だつて。……ブル新、(さかん)にコップをデマつて居るらしいよ」

「ほか、無事かしら」

「わかんない。……でも」

 一寸言葉を区切り、やゝ早口で、

「──無事らしいね」

 彼が誰のことを云つて居るか分つて、私は口に云へぬ感じに捕へられ、黙つて大きく深く合点をした。

 

 特高が留置場へ来た。

 自分を出させ、紺木綿の風呂敷でしばつた空弁当がつんであるごたごたした臭い廊下へ出るといきなり、

「女中さんが暇を貰ひたいらしい様子ですよ」

と云つた。いかにも気を引いて見ようとする抑揚だ。自分はむつつりして黙つて歩いた。

 二階の塵つぽい室へ入ると、

「ぢや、一寸これに返事を書いてやつて下さい」

と、半紙に書いたヤスの手紙を見せた。面会させてくれと来たが、会はされないから返事だけ書けといふのだ。警察備品らしい筆で、

「国の父から電報が参りまして、すぐかへれ。帰らなければこれきり家へ入れないといつてまゐりました。まことにすみませんがかへらしていたゞきます

      ヤス

  中條様 」

 紡績絣に赤い帯をしめた小娘のヤスの姿と、俄にガランとした家と、そこに絡んでゐるスパイの気配とをまざまざ実感させる文章であつた。仰々しい見出しで、恐らくは写真までをのせて書き立てた新聞記事によつて動乱したらしい外の様子も手にとるやうに察しられる。

 ヤスの生家は×縣の富農で、本気なところのある娘だがかういふ場合になると、何と云つても真のがんばりはきかない。階級性といふものはかういふ時かういふ具体的な形で現れて来る。ヤスについて自分は兼々さう思つてゐたことだし、同時に、僅か二ヶ月暮したばかりの動坂の家が空になつてもかまはないと思つた。特高は自分の横顔をしきりに注視してゐるが、自分は今度のことを機会に自分達の全生活が全くこれまでと違ふ基調の上に立てられるやうになるものだといふことは知つてゐるのだ。

 自分は、立つたまゝテーブルの上にあつた硯箱を引きよせ、墨をすりおろして筆先をほごしながら、

「御覧なさい、あなたがたのデマの効果がもうあらはれた」

と云ひ、短く返事を書いた。それを読みかへしてゐると、後から一人の男がスとよつて来るなり、私の手からその半紙をひつたくり、黒いむづかしい顔で(それ)を読み下した。

 グッと腕をのばして、私にはかへさずぢかに特高に渡す。特高はいやにお辞儀をしてガラス戸をしめて出て行く。──

 私は、謂はばそのときになつて初めてその男とその室の様子とに注意を向けたのであつた。

 髪をこつてりと櫛目だてて分け、安物だがズボンの折目はきつちり立つた荒い縞背広を着たその男は、黒い四角い顔で私を睨み、

「そこへかけて」

顎で椅子をしやくつた。自分は腰をおろした。縞背広は向ひ合ふ場所にかけ、

「警視庁から来た者だ、君を調べる!」

「──さうですか」

 それきり何も云はず、ポケットから巻煙草を出して唇の先へ(くは)へ、マッチをすり、火をつけると、一吹きフーと長く煙をはいた。その手がひどく震へて居る。煙草の灰がたまりもしないのに三白眼でこつちを睨みつめながら指先をパタパタやつて灰をおとす。その手も震へて居る。

 目をうつすと、テーブルの脚のところに何本もしごいた拷問(がうもん)用の手拭がくゝりつけてある。──いきなり、その一寸した隙に飛びかゝるやうな勢で、

「何だ! その椅子のかけやうは!」

と怒鳴つた。自分は、普通人間が椅子にかけるやうにゆつたり深く椅子の背にもたれてかけて居たばかりだ。

「こゝをどこだと思つてる! 生意気な! 警察へ来たら警察へ来たらしくするんだ」

 吸ひかけた煙草を床の上へすて、靴の先で揉み消し、縦に割れた一尺指しをテーブルの上からとり、それで机にかけてゐた私の(ひぢ)を小突いた。

「大体貴様は生意気だ。こつちが紳士的に調べてやつても一向云はんさうだから、今日は一つ腕にかけて云はしてやる! 君達ァ白テロ白テロつてデマるから、一つその白テロをくはしてやるんだ」

 ドズンと、竹刀(しなひ)で床を突いた。長い竹刀はちやんとさつきからその男の横の羽目に立てかけてある。

「共産党との関係を云ヘッ!!」

「──さういきなり呶鳴つたつて、何が何だか分りやしない」

 さう自分は云つた。

「それはどういふことなんです」

「フム。……ぢや一つ一つ行かう」

 特徴的に狭い額に、深い横皺のある賎しい顔つきをした男は警視庁と印刷のしてあるケイ紙を出し、そこへ、

 赤旗

 共青

 資金関係

 そんな風な項目を書き並べた。

「サア、いつから赤旗を読んでる!」

 自分はさういふものは知らない。さう答へるや、

「嘘オっけェ」

 狭い室でうしろの窓硝子がビリビリするやうな大声だ。呶鳴りながら、野蛮な顔の相好(さうがう)を二目と見られぬ有様に引歪め、

「貴様、宮本からもらつて読んでるぢやないかツ!!」

ドズン!

何といふこれは愚かな嘘であらう。

「知らない、そんなもの」

「知らないイ?」

「知らない」

「人をォ……どこまで馬鹿にするつもりだ」

「知らないんだから仕様がない」

「云はんか」

「…………」

「畜生! いゝ気になりやがつてェ!!」

竹刀が頭へ横なぐりに来た。

「どうだ! 云へ!!」

「…………」

「強情つつぱつたつて分つてるんだ」

 そして、(なぶ)るやうに脛を竹刀で、あつち側こつち側と、間をおいてぶつた。

「宮本がもうすつかり自白してゐるんだ。自分が読まして居たことさへ承認したら女のことでもあるし、早く帰してやつて貰ひたいと云つて居るんだ」

 侮蔑と憤りとで自分は唇が白くなるやうであつた。刺すやうに語気が(ほとばし)つた。

「──宮本が、どこにつかまつて居るんです!」

 さすがにためらつた。口のうちで、

「いつまでも勝手な真似はさせて置かないんだ」

 ガラス窓からは晴れた四月の空と横丁の長屋の物干とが見える。腰巻、赤い子供の着るもの。春らしい日光を照りかへしながらそんなものが高くほさつて居る。

 竹刀で床を突いては、テラテラ髪を分けた下の顔をつくつて呶鳴る縞背広の存在とガラス一重外のそのやうなあたり前の風景の対照はちぐはぐで自分の心に深く刻みつけられるのであつた。

 ケイ紙に書きつけた一項一項について、嘘を云つては、

「云はないつもりかァッ!!」

と竹刀を鳴らし、又、さげた一尺指しで顔を打たうとする。

 三時間ばかりしてケイ紙は白いまんま、自分は留置場へ追ひ下ろされた。

 

 その日の夕暮、今野が片手で痛む左の耳を押へたなり蒼い顔をして高等室から監房へかへつて来た。

「何ちつた?」

 さう云つて訊く看守におこつた声で今野は、

「あんな医者になんが分るもんか。道具ももつて来やしない。ひやして居ろと云つたヨ」

と、足をひきずるやうにして保護室に入つた。風邪で熱が出て扁桃腺が()れてゐたところをビンタをくつたので耳へ来て、二日ばかりひどく苦痛を訴へた。濡れ手拭がすぐあつくなる位熱があつて、もう何日か飯がとほらないのであつた。保護室には看護卒をしたといふかつ払ひが二人居て看守に、

「こりやきつと中耳炎だね、あぶないですよ旦那放つといちや」

などと云ひ、今野自身も医者に見せろと要求した。

「貴様らァわるいこつたら何でも知つてゐようが、医者のことまぢや知るまい。余計なこと云ふな」

 だが、今日は(うな)るやうに痛いので自分まで要求してやつと医者を呼ばせたのであつた。その医者が、ひやして居ろ、と、つまり()ても診ないでも大して変りのないことを云つたのだ。

 夜中に酔つぱらひが引つぱつて来られ、廊下の隅に眠つてゐた自分は鼻の穴がムズムズするやうな埃りをかぶつて目を醒した。

 酔つぱらひは保護室へぶちこまれてからも、

「僕ァ……ずつに、ずつに口惜しいです。僕ァこんなところで……僕ァダダ大学生です!」

 声を出して(むせ)び泣いてゐる。

五月蝿(うるせ)え野郎だナ。寝ねえか!」

 眼の大きい與太者がドス声でどやしつけてゐる。

「ねます! ねますッ。僕ァ……口惜しいです。僕ァ……ウ、ウ、ウ……」

 第二房でも眼をさまし、鈍い光に照らされ半裸体の男でつまつてゐる狭い檻の内部がざわつき出した。

「何だ、メソメソしてやがつて!のしちやえ、のしちやエ!」

 看守は騒ぎをよそに黒い外套を頭からすつぽり引きかぶつて、テーブルの上に突つぷして居る。

 物も云はず拳固(げんこ)で殴りつける音が続けざまにした。暫くしづまつたと思ふと、

「アッ! いけねえ!!」

 とび上るやうな声が保護室で起つた。

「仕様がねぢやねえか。オイ、オイ、そつち向いた、そつち向いた」

「旦那! 旦那! あけてやつて下さい!」

「旦那すんませんがあけて下さい。此奴、柄にもなく泡盛なんか喰ひやがつて……」

「フッ! 臭せェ!」

 誰かの上に吐いたのだ。

 

 自分は今野の体が心配で半分そつちへ注意を引かれた心持で朝十分間体操をやる。病気になつてはならない。益々さう思ふやうになつた。

 十時頃、冷えのしみとほつたうすら寒さと眠たさとでぼつとしてゐるところへ、紺服の陽にやけた労働係が一人の色の白い丸ぽちやな娘をつれて来た。

「しばらくここに居な」

「房外かね」

「さうだ」

「さ、ねえちやん、そこへ坐つてくれ、仲間があつて淋しくなくていいだらう」

 娘は、派手な銘仙の両袖をかき合はせるやうにして立つてゐたが、廊下のゴザの上へ自分と並んで坐り、小さい袋を横においた。むつちりしたきれいな手を膝の上においてうな垂れてゐる。中指に赤い玉の指環がささつてゐる。メリンスの長襦袢の袖口には白と赤とのレースがさつぱりとつけてある。──

 程たつてから自分は低い声でその娘に聞いた。

「つとめですか?」

「えゝ」

「会社?」

「地下鉄なんです」

「……ストアですか?」

「いゝえ。──出札」

「…………」

 自分は異常な注意をよびおこされてそれきり暫く黙つてゐた。地下鉄ではついこの三月二十日から三日間従業員約百名内出札の婦人四〇名が参加して地下の引込線を利用して車輌四台を占領し、全国的注意を喚起したストライキをやつた。原因は出征従業員を会社側で欠勤扱ひにしたことであつた。「触ルト死ぬゾ!!」と大書した紙をぶら下げた鉄條網に二百ボルトの電流を通じて警官の侵入を防いでゐる写真が新聞に出たりした。闘争基金千円を募集し食糧を一ヶ月分車輌の中に運び込んでゐること。婦人従業員をふくめた自衛団が組織され、全員十六歳から二十五歳といふ青年だがその統制が整然としてゐること。職場の特殊性をすべて争議団側に有利なやうに科学的に利用してゐる点とともに、革命的指導による極めて新しいストライキの型を示すものであつた。交通産業上に歴史的なばかりでなく、これまで日本にあつたストライキから見ても、溌剌とした闘争力、計画性、科学的なやりかたで、広い影響を与へた。

 信州でも、地下鉄のストライキとその婦人も勇敢に闘つたやりかたについては話に花が咲いたのであつた。

 ストライキは会社と警察を手古摺らせたが強制調停で終つた。出征兵士は欠勤とし軍隊の日給をさし引いた賃銀を支給すること、各駅にオゾン発生器をおくこと、宿直手当、便所設置、その他を獲得し、婦人従業員の有給生理休暇要求は拒絶されて女子の賜暇を男子と同じによこせ、事務服の夏二枚冬一枚の支給、その他を貫徹した。白鉢巻姿の、決意に燃える婦人争議員の写真が目にのこつてゐる。

 このストライキが起る前、地下鉄の従業員達は出征する従業員を品川駅へ見送りにやらされた。が、その連中は会社側が渡した日の丸の旗を振ることを大衆的に拒絶し、プラットフォームで戦争反対の演説をやつて、メーデー歌を合唱したといふ話がある。又、ストライキに入つた第一日に從業員出身の現役兵が籠城中の争議団員のところへやつて来て、一緒に「資本家と闘ひたい」と申し出た。ストライキ委員会は、それだけの熱意で兵営内闘争をやつてくれと云ひ、兵士と従業員は革命的挨拶を交して別れたといふことも聞いた。

 地下鉄、出札と聞いた瞬間、自分は一種の重圧をもつて稻妻のやうにそれらの闘争を思ひ起した。あのやうな顕著なストライキ後、敵は何かの形で、経営内を荒すであらう。この内気さうなぽつちやりした娘さんと敵の襲撃とはどのやうな関係にあるのだらう。……

 黙つていろいろ考へて居ると、今度は娘さんの方から口を利いた。

「……警視庁からはいつも何時頃来ますの?」

 自分は、それは全然むかふの風次第だと答へた。現に自分などは一ヶ月近く留置場にぶち込まれてゐるが、警視庁からはその間三四度来たか来ないかだ。娘さんは、うけ口の顎を掬ふやうに柱時計を見上げ、

「ひどいわ」

と云つた。

「八時頃来るから、さうしたらすぐ帰してやるつて云つた癖して!」

 朝の六時頃、いつものとほりに弁当をつめて何の気もなくいざ会社へ出かけようとしてゐるところへ、駒込署だとやつて来てそのままひつぱつて来てしまつたのださうだ。父親が、偽者かもしれないと心配して警察まで送つて来たのださうだ。

「なんて人馬鹿にしてるんでしよ」

 怒つて云つて、又(たもと)をかき合はせ下を向いた。

 昼になつても警視庁などからは来ない。小使が、ヒジキの入つた箱弁当を娘さんの分も(ゆか)へ置いてゆくと、それを見て急に泣き出した。

 自分は、

「泣くのやめなさいよ、ね。あなたの持つてるお弁当を食べたらいいのよ」

 娘さんは、やつと蓮根の煮つけが赤漬セウガとつけ合はせてあるアルミの弁当をひらいたが、ところどころ突ついたきり、湯ものまぬ。

 

 午後第一房の強盗が保護室へうつされ、数日ぶりで自分たちは監房へ入れられた。

 娘さんは、帯もしめたまゝなので段々気がおちつき、

「警察なんて人ばつかり(だま)してる!」

 そして、ひそめた声に力を入れ、

「ね、一寸! どうしませう、憎らしいわね。今朝みんな家でやられたのよ。さつき電話で、二十何人とか云つてたわ……皆をやつたんだワ。会社ぢやストライキのとき犠牲者は出さないつて要求を入れときながら、この間つからドンドン新しい人を入れてたんですもの。ぐるなのね。これでクビにするなんて、卑怯だわ!」

 会社は、ストライキをやつた従業員を職場からだと目だつし、それをきつかけに又他の従業員が結束するとこはいので、各住居地の所轄署を動員して今朝一斉に切りはなして引つぱらせたといふのが実際の情勢らしかつた。

 留置場の弁当では泣き出しながらも会社のやり口は見とほし、

「──一ヶ月ぐらゐたつてみんなの気がゆるんだ時があぶないつてそ云つて居たけれど……全くだわね」

とつくづく考へる風であつた。やがて坐りなほすやうに銘仙の膝を動かして娘さんは呟いた。

「でも、私何ていはれたつてかまやしない。本当に何も知らないんだから……」

 そして私に向ひ念を押すやうにきいた。

「──組合に入つてなければ大丈夫なんでしよ?」

「組合に入つてたつて悪かないぢやないの」

 しかし、自分は娘さんの調子が心もとなくなつて云つた。

「……組合に入つて居ないにしろ、ストライキのときはあなたの要求だつてみんなと同じだつたからこそ闘つたんだから、今更誰が組合に入つてたなんて余計なことは云ひつこなしだわね。いゝ?」

「さうね」

 合点をした。娘さんは××高等女学校出身で、ストライキのときは大衆選挙で交渉委員の一人であつたのださうだ。

 今日は駄目だらうと思つてゐると四時頃やつと労働係が来て娘さんを出した。暫くして今度は自分が高等によび出され、正面に黒板のある警官教室みたいなところを通りがゝると、沢山並んで居る床机(しようぎ)の一つに娘さんがうなだれて浅く腰かけ、わきに大島の折目だつた着物を着た小商人風の父親が落着かなげにそつぽを向きながらよそ行きらしく敷島をふかして居る。

 父と娘とがそれぞれ別の思ひにふけつてゐた様子が留置場へ戻つてからもありありと見え、自分は警察と家族制度といふものに就て深く憎悪をもつて感じた。

 留置場ではそろそろ寝仕度にかゝらうといふ時刻、特高が呼出したと思つたら、中川が来てゐる。当直だけのこつてゐるガランとした高等係室の奥の入口のところに膝を組んでかけ、煙草をふかしてゐたが、自分が緒のゆるいアンペラ草履をはいて入つて行くなり、

「──どウしたね」

 尖つた鬼歯を現してにやにやしながら顔を見た。つゞけて、

「いよいよ二三年だよ」

 自分はまだ椅子にもかけてゐない。メリンスの小布団のついた椅子にかけ乍ら、(主任の椅子の小布団は羽織裏の羽二重だが、他の連中の小布団は一様にメリンスなのだ)

「何なんです?」

と云つた。

「書いてるぢやないか」

「何を?」

「──非合法出版物へ書いてるぢやないか」

「知らない」

「だァつて」

 中川はさも確信ありげに顎でしやくふやうに笑つて、

「現に君から原稿を貰つた人間があるんだから仕様がないぢやないか」

「……そりや今の世の中には、いろんな種類の月給を貰つてゐる奴があるんだから、そんなことを云ふ人間があるかもしれない」

 蒼い中川の顔が変つた。

「そりやどういふ意味だ」

「…………」

「とにかく、君達の同志はどんな場合にでも決して関係のない人間の名を出すことはしないもんだ。──同志だぜ、それを云つてゐるのは……」

「……知らないものは知らないといふしかないぢやありませんか」

 監房に帰つて、誰でもさうであらうが、自分は対手の云つた言葉、目つき等を細かく思ひかへし、敵の陣形を観察し、自身を堅める。

 

 今野の容態は益々わるい。中耳炎ときまつた。自分は、永久に日光が射し込まない奥のゴザ一枚はいつもジットリ(よご)れてしめつぽい監房の中を歩きながら指を折つて日を数へた。こんな状態で二十七日までもつであらうか?

 夜になると保護室の格子の前に水を張つた洗面器が置かれた。夜なか誰かがそれで病人の濡手拭をしぼり直してやる。──

 四月二十四日の日暮がた、高等へ出された時、自分は岩手(なまり)の主任にしつこく今野を出して手当をさせろと云つた。

「あなたがたは、いつも家庭の平和とか親子の情とかやかましく云つてゐるのだから、見す見す中耳炎と分つてゐるのに放つといて、一家の主人を留置場で殺すことも出来ないでせう」

「ふむ」

 いがぐり頭を片手で後から撫であげ、唇をかむやうにし、

「──大分苦しいらしいね」

「脳膜炎を起しかけてると思ふ……調べることなんか無いんだもの、あゝやつて置くのは実際ひどい」

「いや、医者がもうぢき来ます、さつき電話をかけたから」

 暫くして、..

「もう来て居るかしらんて」

と独言のやうに云ひ、スリッパのうしろを鳴らしながら室を出て行つた。高等主任だけが机の下にスリッパをおいて居て、室にゐるときはそれと穿()きかへるのである。

 留置場へ戻され、扉があいたと同時に第一房の前の人だかりが目に映り、自分は、もう駄目か! と思はず手を握りつめた。第一房の鉄扉があけ放され、その外では主任、特高、部長、看守が首をのばして内をのぞいてゐるところへ、入るべき場所でないところへ入つたと云ふ風な表情と恰好をして中年の町医者が及び腰で出て来るところである。うしろの方に佇んでゐる自分に看守が、

「大分様子がわるいので……移した」

と囁いた。自分はうなづき、出て来た医者を、

「一寸!」

と呼びとめた。

「脳膜炎の徴候があるんぢやないでせうか」

「さァ」

 留置場ぢゆうの注目の前に止められて、照れくささうに、しかも狡く、言葉をにごした。

「頸のうしろを痛がるのはさうでせう?」

「……どっち道手術しなけりやなりませんな」

 明らかに責任回避の態度を示す医者をとりかこんで皆がドヤドヤ出て行つた。今晩が関所である。誰しもそれを感じた。監房の真中に布団を敷き、どうやら、思ひきり脚をのばして独り今野が寝かされてゐる。こんな扱ひを留置場でされることは、もう最後に近いと云ふことの証拠ではないか。枕元に、脱脂綿でこしらへた膿とりの棒が散乱し、元看護卒だつた若者が二人、改つた顔つきで坐つてゐる。

 今野は唸つて居る。唸りながら時々充血して痛さうな眼玉をドロリと動かしては、上眼をつかひ、何かさがすやうにしてゐる。自分は、廊下の外から枕元の金網に鼻をおしつけるやうにして見守つた。間もなく、今野は唸るのをやめ、力いつぱい血走つた眼で上眼をつかひハッ、ハッと息を切りながら、

「中條さん……切ないよゥ」

 自分はたまらなくなつた。錠をはづしてある鉄扉を押しあけ、房の内に入つた。高熱で留置場の穢れた布団が何とも云へぬ臭氣を放つて居る。自分は、垢と病気で蒼黒く焼けるやうな今野の手を確り握り、やつれ果てた頬を撫でた。

「何だか……ボーとなつて来たよ」

「頭、ひどく痛い?」

「頸の……こゝが(手をそろりと後へやつて)痛い……体ぢゆう何だか……」

 自分は、全く畜生!!と思ひ自分の体までむしられる思ひがした。

「──今野!」

 夢中になりさうになる、忠実で、強固で、謙遜な同志の(あぶら)のにじみ出た顔へぴつたり自分の顔をさしよせ、私は全身の力をこめて低く呼んだ。

「今野」

 その声で薄すり目をあけ、こつちを見た。

「まだ死んぢやいけないよ。いゝか? 口惜しいからね、死んぢやいけない! いゝか?」

「あゝ」

「しつかりして……」

「あァ……」かわいた唇をなめて微かに「わかつてるヨ」

 二人の若者は、きつちり坐つて居る膝頭に両手を突つぱり、

「俺たちのやうな、ヤクザとは違ふんだから全く気の毒です」

と云つた。自分は一寸でも脳の刺戟を少くするため、額をひやしてゐる手拭を両目の上まできつと下げて置くやうに頼んだ。

 いつもならとうに(いびき)がきこえてゐる時刻なのだが今夜はどの監房も目をさまして居る。それでゐて別に話し声もしない。自分は廊下に、窓の方を頭にして横になつた。

 

 翌朝、平常どほり八時に出勤して来て凡そ十時頃から、やつと今野を病院へ入れる評定にとりかゝつた。主任が両手をポケットに入れてやつて来て、

「どんな工合かね」

といふから、自分は待ちかねて居たと云ひ、若し病院が面倒なら、斯う斯ういふ病院へ紹介していゝからと、せき立てた。

「ふむ」

 未練さうにもう一度病人を見下し、出てゆく。次に部長が来て、同じことを繰返す。係りの特高が来る。困つたねェと金歯を出していふ。そして、その辺を歩いて、出て行く。丁度、じりじりと悪くなるのを番してゐて、とことんになるのを待つて居ると云ふやうである。

 午後一時頃やつと決心したらしく主任が来た。

「ぢやもうすぐ入院するやうにしるから」

 済生会病院へ行くことになつた。特高が、フラフラの目を瞑つてゐる今野を小脇に引つかたげて留置場から出て行つた。

(附記。後で分つたことであるがそこの済生会病院では軍医の玉子が治療をした。そんな命がけの手術をするのに、そこを切れ、あすこを切れと、指図されるやうな不熟練者が執刀した。手術後、ガーゼのつめかへの方法をいゝ加減にしたので、膿汁が切開したところから出きらず、内部へ内部へと病毒が侵入して、病勢は退院後悪化した。同志今野が、どうも頭は痛くなつて来たし変だと思ひ、苦痛を訴へたら、済生会の軍医は、却つてこれまで一日おきに通つてゐたのに、もう大分いゝから四五日おきに来いと云つた。どういふことかと思つてゐるとそれから三日目に極めて悪性の乳嘴突起炎を起し、脳膜炎を併発し、今度は慶應病院に入院大手術をした。危篤状態で一ヶ月経ち、命だけをやっととりとめた)。

   二

「ソラ見えるだらうが」

「見えやしませんよ」

 櫻のことを云つて居るのである。警察署の裏、北向きの留置場では花時でも薄暗く、演武場の竹刀の音、すぐ横の石炭置場の奥にある犬小舎でキャン、キャンけたゝましく啼き立てる野犬の声などがする。

 南京蟲が出て、おちおち眠られない。

「夏になつたらそれこそえらいもんだ。去年こゝのところへ」

と、腐れ布団の入つて居る戸棚わきの柱のわれ目を叩きながら看守が云つた。「イマヅをまいたら一どきに八十匹ばし出た」

 花曇りの期節が終ると、いつとなし日光の強さがちがつて来て、日がのびた。第一房の金網ばりの高窓からチョッピリ三角形に見える青空と、どこかの家の黄色つぽいペンキを塗つたトタンの羽目が落付かない光で反射するやうになつた。非人間的な無為と不潔さでしづまりかへつてゐる留置場の永い午後、表通りの電車のベルの音がひろく乾いて近づくにつれ波のやうに通りぬける。

 看守は多く居睡りをした。監房の中では男たちがシャツや襦袢を胡坐(あぐら)の上にひろげて、時々脇腹などを掻きながら、(しらみ)をとつて居る。

 目立つて自分の皮膚もきたなくなつた。艶がぬけ、腕などこするとポロポロ白いものがおちる。虱がわき出した。虱の独特なむづつき工合がわかるやうになつた。おや、と思つて襦袢を見ると、小さい小さい紅蜘蛛みたいな子虱までを入れると十五匹つかまへる。さういふ有様である。

 或日の午後二時ごろ。──一台の飛行機がやつて来た。低空飛行をやつて居ると見えて、プロペラの轟音は()りつけるやうに強く空気を顫はし、いかにも悠々その辺を旋回してゐる気勢だ。

 私は我知らず頭をあげ、文明の象徴である飛行機の爆音に耳を傾けた。快晴の天気を語るやうに、留置場入口のガラス戸にペンキ屋の看板の一部がクッキリ映り、相川と大きな左文字が読めてゐる。姿は見えず、飛行機の音だけを聞くのは特別な感じであつた。しかも留置場内は、いつもどほり薄らさむくしーんとして居る。鉄格子の中の板の間では半裸で、垢まびれの皮膚に拷問の傷をもつて、飛行機の爆音の下で虱狩りをして居る。

──

 帝国主義文明といふものの野蛮さ、偽瞞、抑圧がかくもまざまざとした絵で自分を打つたことはない。自分は覚えず心にインド! 印度だ、と叫んだ。インドでも、裸で裸足(はだし)の人民の上に、やはり飛行機がとんでゐる。人民の無権利の上に、かうやつて飛行機だけはとんでゐるのだ。革命的な労働者、農民、朝鮮、台湾人にとつて、飛行機は何をやつたか? (台湾霧社の土人は飛行機から陸軍最新製造の爆弾と毒ガスを撒かれ殺戮された)。

 猶も高く低く爆音の尾を引つぱつてとんでゐるわれわれのものでない飛行機。

──

 モスクワのメーデーの光景が思ひ出され、自分は(なみ)のやうに湧き起る歌を全身に感じた。

   立て 餓ゑたるものよ

   今ぞ日は近し

 これは歴史の羽音である。自分は臭い監房の真中に突立ち全く遠ざかつてしまふまで飛行機の爆音に耳を澄した。

 

 三畳足らずの監房に女が六人坐つてゐる。売淫。堕胎。三人の年とつた、ヒ

スヰの(かんざし)の脚で頭を掻いては絶えず喋つてゐる媒合。自分。

──以下・割愛──

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/10/31

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宮本 百合子

ミヤモト ユリコ
みやもと ゆりこ 小説家 1899・2・13~1951・1・21 東京小石川原町に生まれる。17歳の処女作「貧しき人々の群」以来明瞭に人道主義的な作風を堅持して戦前の統制と弾圧の時代にも一歩も譲らず転向せず、優れた民主主義のリアリズム文学を毅然と確立した一代の闘士であった。

掲載作は、政治的な思想弾圧がピークに向かう昭和八年(1933)六月に過酷な獄中体験に依拠して執筆され、1951(昭和26)年「中央公論」3月号に漸く発表された長編の歴史的証言で、此処には冒頭「一」だけを掲げる。平野謙は「ひとつの極限状況における作者の好悪感が思想上のそれに昇華され、そこから張りつめた表面張力のような勁いリアリズムが生まれている」としている。

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