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白い鯉

「滝雅志って、憶えていますか? たしか、あなたがA高校にいらっしゃった頃の、生徒会長だったと思いますがね」

私が郷里のA高校に勤めていたのは、もうずいぶん以前のことである。が、同じ学校の教師仲間だった内村にそう言われると、滝の面影はすぐに思い出された。私は、A高校からこちらの大学に移る年、そこで生徒会の顧問をやっていたから、滝とは親しみを密にしたほうだ。

「滝ばかりじゃない。そのころ大学を出たての君の、燃えるような教育熱もよく憶えている」

 私の揶揄に、内村はふんというように肩を動かした。が、次に、内村が静かな悲しみを目にみせて言った言葉は、私を唖然とさせた。

「その滝は死にましたよ。それもあの秀才が、生まれもつかぬ白痴になって──」

 以下は、学会で上京し、ついでに私を訪ねた内村の話である。

 

 あれは、もう十年余りも前になりますか。

 ぼくが、家で原稿の整理をしていると、久しぶりに滝がやって来て、大宰府に行かないかと言うのです。それが、あまりに籔から棒の誘いなので理由をきくと、何でも彼の勤めている博物館を訪ねたフランス人を案内するのだが、その人が車を運転しているので、出不精のぼくを連れ出すには好都合だと思って寄ったということでした。

 ぼくは、ご承知のように専門が電気のほうで、無風流な上に研究室にばかり閉じこもっていますから気がつかずにいましたが、そう聞くと、成程梅の花の時期です。ちょうど原稿の整理も大方すんでいるので、梅の花をみて気ばらしをするのも良かろうとも思い、家の前に停まっている大型の外車にも、心がひかれました。あれなら、たとい大宰府でなくてもいい、あまりやったことのないドライブという気分も味あわれようという、情ない心が大いに動きました。

 

 そこで、ぼくは、外人が、それも令嬢(マドモアゼル)が一緒だというので、少々念入りに身仕度をして出掛けました。

 道のり一時間半ばかりのドライブというものがどんなものだったかは、もう大方忘れてしまいました。ただ、車は期待通りの乗り心地のものだったのに、その車の中で交される滝と令嬢とのフランス語の会話がぼくにはまるでわからず、すると、誘われた同行者であるのに、自分だけが除け者にされているような僻みを、覚えないこともない道中だったようです。

 ですから、目的地の大宰府に着いて、車という密室から、春まだ寒い外界に出たときには、正直、ほっとした気になりました。

 ところが、それからが大へんでした。

 初めにも言ったように、ぼくは、滝から誘われた時、花見のつもりでいたのです。ところが、滝が案内するのは花里遠く離れた所ばかりで、やれここが総門址だの、あの大石の並びが本殿址だの、これが道真公謫所の地だのといった工合。

 その時分には、まだ現在のようには、庁舎跡の観光風的な整備はすすんでいませんでした。ですから、梅の花どころか、寺院はまあいいとしても、なかにはただ石瓦が転っているだけの、いや、それらしい何も残っていない所さえあって、畑ちがいのぼくには、まるで感興の湧かないところばかりでした。

 そのうえ、滝は説明をほとんどフランス語でやるし、たまにぼくに説明をしてくれるときには、日本人ならその歴史は知っているはずと思っているせいか、ぼくにはフランス語同様に一向に理解のできない文脈のものです。が、滝の案内は時のたつにつれてますます専門化し、水城(みずき)の跡までも足をのばしそうな形勢を見せ、時には、説明を放って、そこいらの石ころや粘土に一人で興がる風も出てきました。

 こうした古跡めぐりが、彼等の最初からの計画だったのか、あるいは、滝の古代文化への研究熱が自然とそうしたのか、それはわかりません。

 ところが、妙だったのは、連れの外人令嬢が、いっこうに辟易のそぶりを見せずにいることでした。それどころか、次第に光を帯びてくる滝の瞳から目を離さずについてくる。どんなに日本通だとしても、安楽寺跡まで興味を持つなんて普通ではありません。ぼくは、ひょっとするとこの令嬢、滝の日本人ばなれした容貌に参っているんじゃないか──と思いました。すると、ぼくはここについて来たことが途端につまらなくなってきて、多少、意地悪な気持ちから

 

「滝君、昌代さんは誘わなかったの?」

 とたずねました。

 すると彼は、初めはぼくの質問に当惑したような表情をとりましたが、それから視線を遠くにやると

「いま稽古に入っています。五月に何か発表するらしいのです」

 と、短く答えました。

 昌代さんというのは、ぼくが高校のとき、クラス担任だった藤波という先生のお嬢さんです。

 ぼくは、クラス会や同窓会の幹事をしている関係で、いまも藤波先生にご交際をいただいていますが、そのお嬢さんと滝は、大学の頃からの親交が続いていました。

 もし、滝が博物館での研究生活でなく、普通の会社勤めを選んでおれば、あるいは、昌代さんのほうに現代舞踊という創作活動がなかったのなら、二人はとうに結婚していたでしょう。もっとも、昌代さんのその現代舞踊というものがどんな意味のものか、ぼくには、滝の古代文化研究以上に理解できない代物ではありますがね。しかし、求むれば果てしない道が続くのは、どんな仕事でも同じことのようです。

 ところで、ぼくは、藤波先生を訪ねるのに、そこで昌代さんに会えるのが心ひそかな愉しみでもありました。

 玄関での挨拶や、先生の部屋で茶をととのえるわずかな間だけれども、昌代さんの目くばりや唇の艶、かしげる首すじや手指のつくるしなが、いつもぼくに、彼女の親しみをしぶきのように感じさせてくるのです。もっとも、それは、昌代さんのなかで、滝という(ふるい)()かれたものではあったでしょうが、それでも、女性との交際に縁うすいぼくにはひどく快いものでした。

 あるとき、玄関の扉を開けた昌代さんが、ぼくを見るなり

「あらッ」

 と、思わず小さな声をたてたことがありました。そして、みるみる頬を紅潮させ、把手に添えていた手指に、すばやく狼狽をかくしました。

 昌代さんは、客を間違えたのです。滝を待っていたのかも知れない。しかし、その日、ぼくは自分が招かれざる客だとわかってからも、昌代さんの頬からうなじに流れていった羞恥の色のあざやかさに、口を渇かされて立っていました。あのときほど、昌代さんを美しいと思ったことはありません。ぼくは、藤波先生を訪うたびの帰りの道、やや嫉妬めく慶ばしさを滝に感じていたものでした。

 

 その昌代さんが、稽古に入ると全く人が変わってしまうのです。

 ぼくは一度だけ、そんな時期に行き遇ったことがあります。

 そのとき、ぼくは、昌代さんを病み上がりの人かとあやしみました。

 いつもの、ぼくをたのしませるあのきらきらした親しみの動きが、うそのようになくなってしまっていて、目につくものは、短く笑う後の乾いた唇の鎮まりや、動作の区切りごとに、動きを停めた体のその部分に露われる、よそよそしさばかりです。よそよそしさならばとにかく、例えば、膝に揃えておかれる指先や、伏し顔のうしろにのぞくうなじの白さには、相手を無縁の者とする、ほとんど敵意に近いものさえが感じられるのです。

 ぼくは、茶を注ぐ昌代さんの手の表情が与える異和感を、何故と怪しまずにはいられまぜんでした。それは、しなやかではあるが、その底に己れのみを恃する冷酷さと強靱さとをひそめた、ちょうど、爬虫類から受ける感じのものに似ていました。

 ひとつひとつの仕草に長い時間がすぎる気がし、その間、藤波先生もぼくも黙っていました。

 もし、そのまま過ぎていれば、ぼくは、女性生理へのいわれなき忌み心や、稚い自恃に対する反撥心で、自分を焦ら立たせていったかもしれません。

「からだのぐあいでも──」

わるいのですかと、ぼくが()かずもがなのことを言ったのは、自分のそんな感じようを拒もうとするつもりのものでした。

「え?」

 そのとき、昌代さんは、その日初めてぼくを直視したと思います。

 鋭い耀きの目差(まなざし)でした。

 が、昌代さんは、すぐにその瞳を伏せ

「いいえ」

 と、唇に心外な笑みを浮かべ、小さくかぶりをふりました。

 昌代さんが部屋を出ていくと、藤波先生は、非礼を詫びるような表情を作ってみせました。が、ぼくは、それに気がつかないふうをして話に入りました。

 

 しかし、それからの話の途中で、言葉をとぎらせるのはぼくのほうでした。

「え?」

 と、ぼくに向けた耀きの瞳が伏さったとき、そのあとに、昌代さんの眉から鼻にかけての、あの削ったような線が、蒼い二本の孤条(こすじ)でぼくの前に在りました。それが、昌代さんが去った後もぼくの言葉の間にわり込んできて、気がつくと、ぼくは口を閉ざしてそれに見入っているのです。

 何か狂暴な力のものが、昌代さんのそこを掃いていったことが、ぼくにさえ、はっきりと感じられました。昌代さんを、いやおうなしに異邦人に変えてしまう力のもの──。

 そして、昌代さんのその眉の線は、他人には近よれない、彼女だけが耐えねばならない孤独さを、くっきりとしめしていました。

「稽古に入ると、きまって──」

 藤波先生のつぶやきを、ぼくは遠くからの声のように聞いていました。

 

 何か新しい舞踊の稽古に入るとき、昌代さんの体にみちてくるこうした情念と孤独とは、もちろん滝にだってどうなるものではありません。ただ、彼はぼくと違って、昌代さんのそうしたものに焦ら立たされることはないのですが、それでも、ふとした鬱屈の心が動かないでもないらしいのです。

「いま稽古に入っています」

 と答えたとき、ぼくは彼の表情にその翳が浮かび去るのを見ました。

 だからぼくは、そういう滝をみると、意地悪な仕方をしたという反省にかられましたが、そのためか、ぼくは、滝の顔が普段とは違っているのに、初めて気がつきました。

 少し顔がむくんでいる──

 といっても、顔色は別に悪くもないので、ぼくはその日、何も言わずにいました。

 思えば、ぼくの心は、春は名のみの筑紫の風に、寒々として在ったようです。

 

 滝の危篤を報らせる電報を受けとったのは、それから一ヶ月の後でした。

 ぼくは、すぐにかけつけました。というのは、もちろん滝との交際にもよりますが、同時に、電報をうったのが昌代さんではないかと思ったからです。そして、彼女からの報らせならば、どんなことを措いても行かねばならないという気がしました。

 しかし、これはぼくの考え違いで、電報をうったのは滝の親爺さんでした。あの親爺さん、大学に勤めているといえば、何でもできるように思っているのですから。息子の苦しみように肝をつぶし、ぼくにまで報らせたわけです。

「先生よウ。どうにかしてつかあされ」

 と、あの土のしみたひび割れの手に掌をとられたとき、ぼくは自分が医者でないことが苦しかった。が次に、ぼくは自分が医者でなくて良かったと思いました。医者にだって、どうにもできなかったのですから。

 滝は腎臓をやられていて、ぼくと大宰府にいってから間もなく、床についたらしいのです。

 驚きました。水分を排泄できないので、滝とは思えないほどふくれ上がっている。瞼までが気味悪く部厚く腫れていて、全体がまるでゴム人形の感じです。そして、排泄されない尿の毒素が、その日、ついに脳を冒したわけです。

 尿毒症っていうやつで、ひどいものですね。

 ちょっとここで断っておきますが、滝が病院に入院せずにいたのを、ぼくは非常識にすぎると思います。しかし、それは、豊かでなかった長い間の家庭経済の習慣や、それにもまして、ある宗教への家庭総ぐるみの帰依心によることのようで、それには、病人を外に出さぬ戒律でもがあるのでしょうか。もっともその日は、滝が家に臥すことを訝しんだり責めたりするには、あまりに緊迫した部屋の様子でした。

 ぼくが行ったとき、滝は、もう三時間ほど前からの痙攣で、その苦しみようったらありません。七転八倒とはあのことでしょうし、断末魔とはあの(すがた)をいうのでしょう。それに、舌を噛まないように二本の箸を口にはさみこんであるのが、いちだんと残酷な感じをかもし出していました。

 医者にもどうにもできなかったと言いましたが、事実、主治医らしい老医師も、立ち合いの若い医師と二人で、いまはさじを投げた形で黙念と坐ったきり。ただ、おびただしい注射のアンプルの破片が、そのわきに冷めたく光っているだけです。

 あとで聞いたことですが、そのころには滝の兄姉と医師の間に、安楽死をにおわせる言葉が、他人には聞きとれない低さの声で交わされていたといいます。

 

 何しろ、医師もさじを投げています。助からぬ命を永らえさせ、苦しめておくより──と希ったわけです。また、もし万が一に助かったとしても、脳を冒されているので白痴になるだろうことは、それまでの例で医師が断言しています。白痴になって人の笑い物にさらされるよりは──と考えたのです。

 ただ、それが実行に移されなかったのは、滝のおふくろさんのせいでした。

 

 滝のおふくろさんは、隣室で滝よりもひどく苦しんでいました。何しろ滝は末っ子で、目に入れても痛くない四十っ子。しかも、子どもの中でただ一人、最高学府を了えさせた自慢の息子です。それが、唇を破ってもがき始めたものですから、たまりません。部屋を転ろげ、あるときは失神し、あるときは蒼白な顔に乱れかかってくる髪の間に、異様に光るまなこをのぞかせ、帰依する仏に称名を唱えるその姿は、凄惨そのものというか──ぼくは、母性愛のつくる夜叉像の一つをみる気がしました。

 滝がもし息を引きとっていたら、確かにおふくろさんも同時に息絶えていたでしょう。いや、ふだん体の弱いおふくろさんの方が先に参りはせぬかと、医者もそちらの方に気を配る有様。だから、みなが心の中では滝の安楽死を思っていても、その実行を口にすることはできずにいたのです。

 苦しみ続ける滝。その痙攣する肉のくねり。ゆがんでくる体をおさえつける兄姉の骨っぽい手と指。おふくろさんの呻き声と、香のにおい。他室に集った近所の人々の話し合う葬儀の手はず──そういうものがひとつの塊となって、しめきった家の中に、どこという落ちつき場もなく、不気味に震えとまどっています。

 ぼくは、いたたまれない気がしてきました。実際、人間が苦しんでいるというのに、何もされないでいるということは、いたたまらないことです。

 しかし、ぼくは、そこに居つづけておりました。

 いたたまれないのに、ぼくをそこに留めたのは、ぼくの全身に拡がった激しい怒りでした。

 怒り──。

 昌代さんなんです。

 ぼくは、電報をもらったとき、昌代さんをすぐに思い出したのですから、昌代さんがそこにいることに、一番に気がついて良かったはずです。が、ぼくは、周りの者の一番最後に彼女に気がつきました。それは、滝とそのおふくろさんの苦しみに、小心者のぼくが心を転倒させたことにもよりましょうが、それよりも、昌代さんの姿勢がぼくをよせつけなかったのです。いや、ぼくをばかりではない。他の人も、昌代さんがそこにいることに気を留めていたかどうか──。

 昌代さんは、滝の枕もとに坐っていました。

 そして、その表情をみたとき、ぼくは冷水を浴びた気がしました。

 蒼白な顔の色と、するどい瞳と、みがかれた鋼鉄のようなかたい姿勢──ぼくは、昌代さんのその形相に、周りのすべての者と全く異った残酷な艶光りを感じました。滝とそのおふくろさんを中心に、周りの人々が息づまるような祈り──とはならないまでにも、その緊張を続けているのに、昌代さんは、そんなこころには全く無関心に──ぼくは、直観的に思いました。昌代さんは、死の形を、人間が死んでゆくおりの(すがた)をつかもうとしているのではないか──。

 そう思ったとき、ぼくは慄然とした怒りに襲われたのです。

 世に芸術家を僭称する人種を、このときほど憎悪したことはありません。

 

 それから二時間、都合五時間あまり脳を冒された滝の痙攣は続きました。そして、午後十一時ごろ、それがやみました。そして、奇蹟が──科学者のぼくが奇蹟と言うのが変だったら、ひとつの事実がおきた、と言いましょう。現代医学がそれを説明し得ないからといって、ぼくが実際にこの目で見た事実が否定されることはないでしょうから。

 激しい痙攣がしだいに力を失うようにやみ、みんなが、最期かと滝に見入った時です。滝の瞼が糸のように細く開かれ、瞳が静かな動きをみせました。と同時に、あれが生気というものでしょうか、柔らかな光のものが、その奥から耀いてきたのです。

「どうしたんです。みんな集まって?」

 滝が言った最初の言葉でした。いま蘇った世界をあやしむ、静かな声でした。

 

 ぼくたちは、何も応えることができませんでした。

 静寂な、そして崇高な時間がゆっくりと過ぎました。ぼくは、滝の瞳のいろに、常に変わらぬ、あの聰明な光を感じとりました。それは不思議なことでした。

 突然、滝のおふくろさんが部屋に裾を乱してとびこんで来ました。

「雅志、よかったね」

 と手を握り、それから、足音をたてずそこを離れて隣室に行くと、そこの仏壇の前で狂ったように喜びの経を唱え始めました。

 あなたは笑うかもしれないが、ぼくは再び、いたたまれない気持ちになりました。

 そして、部屋を出ようとした時でした。

 誰かを呼んだような鋭い人の声に、ぼくは思わず振り返りました。そして、滝の兄の腕に倒れている昌代さんを見たのです。

 直ちに注射がうたれ、応急の処置がとられました。

 ぼくは、立ったままでそれを眺めていました。昌代さんが、滝の死の枕辺で何を考え、何を感じていたか、ぼくは知らない。しかし、気を失った昌代さんの蒼白な瞼の下から、青い静脈をすかせてみせるこめかみに、つっつっとひとすじの涙が流れていくのをみた時、ぼくの体から、昌代さんに対して湧いていたあの怒りは、洗われるように消えていきました。そして、ぼくは、何かを祝福したいような、何かを懺悔するような──とにかく、何かしらんが涙がにじんできたのでした。

 

 それから、滝の病気は嘘のように恢復していったらしいのです。

 ぼくは広島の方の研究室に行く事になっていたので仕事に追われ、ついその後の見舞状を失礼していた有様でしたが、出発を二三日後にひかえた秋の終わり、滝から病気全快の報らせと、いつかの見舞を謝する便りがつきました。かつて脳を病んだ人間とは思えぬ達者さの、あなたも知っているでしょう、まったく、いい字を書きますからね。それも若い者には珍しい毛筆ですからね。

 手紙によると、奇蹟は続いたらしい。もっとも、奇蹟とは書いてはありませんでしたが。というのは、普通、腎臓炎をやった者は、いくら恢復したからといっても、やはり、蛋白質が排泄されていくらしいのです。ところが彼の場合、大学での検尿の結果は、この医学界の常識すらも破ったということでした。

『母の念ずる仏が私を救ったのだと、母が言います。私はそれに反対しようとは思わず、それが私の胸にひびいてくるままに、素直に受け入れようと思っています』

 と書いてある彼の言葉は、如何に無神論者のぼくにも、それをどうとあげつらう気をおこさせぬひびきのものでした。

 

 広島から帰ったのは、冬がすぎた──いいですか、これは大事なことだけれども、ひと冬すぎた、翌年の八月中旬でした。そして、それから二週間ばかり経ったころだったと思います。

 何しろ、暑い日でした。

 九州の暑さを、あなたはまだ憶えていますか。東京の、うだるように湿度の高い暑さとはまるで違う。空気が金属的にキラキラ光って、太陽は、九州の表現を用いると『ヤキヤキ』と照る。すみきって遠くまでみえるような暑さです。それに、ぼくの庭の樹々では、熊蝉が暑さにたぎるような鳴き声をたてていました。

 ぼくは、広島での研究の整理に大童でしたが、その日、予期もしない昌代さんの訪問を受けました。滝ならまだしも、昌代さんです。ところが、それまでにない、まったく意外な昌代さん来訪だったのに、何故か、ぼくにはこの日の記憶が、不思議に鮮明ではないのです。昌代さんがどんな服装だったのかはもとより、ぼくがどんな接待をし、どんなことを話し合い、どの位の時間であったのか──これは、このあとあとに出遇う出来事の印象の強烈さが、この日の色彩をうすめてしまったのかもしれません。が、もとはと言えば、この日、昌代さんが訪ねてきた訳がいっこうにつかめず、妙にちぐはぐにその時間をすごしたことによるようです。別に用があってのことではなく、ただ、訪ねたく思ったから来ましたと言うが、二人に共通する話題のものといえば、滝についてのことしかありません。しかし、滝への親しみは、ぼくと昌代さんでは性質のちがったものですから、たがいに慎しむものがあって、話をはずませることもなく、短く終わってしまいます。昌代さんに疲れが見えている気がしましたから、何か創作の緊張から気分を変えるためのものかとも思いました。が、それなら、ぼくよりは滝を訪ねるほうが辻棲が合う。滝に、昌代さんに会えぬ忙しさがあるのかとさぐってもみましたが、それは、昌代さんにもはっきりしていないふうでした。

 訪ねたくなったから来たという相手を、そのまま迎えていればいいのだろうけれども、ぼくにはそんな、人との在りようの覚えがなく、相手が女性だけに落ちつけないのです。が、そのうち、昌代さんは、来たときと同じように、つまり、気まぐれな寄り道の家から帰るようにして、帰っていきました。

 どうしたというのだろう──仕事を続ける気を失って、ぼくは、昌代さんの来訪のわけをぼんやりと考えました。そして、その思案にようやく倦むころ、ぼくは、ぼくの心に沈んでいる短い言葉に気がつきました。

 尿毒症って、こわい病気ですわね──

 昌代さんが、話のどこかでもらしたそのつぶやきを、ぼくは、すぎた日の一夜の怖さをしのぶものと聞いていたようです。

 が、ちがう──

 昌代さんが居なくなってみると、胸底に残されたそれは、過ぎた日を偲ぶものではなく、いまを(いた)む言葉となって、ぼくに不気味にひびいていました。そういえば、それをつぶやいたとき、昌代さんの眉辺を、何かを耐えようとするうす青さのものが、一瞬の翳をつくっていったと思う。

 滝に何かがおきている。

 昌代さんは、そのためにぼくを訪ねてきた──。

 翌日、ぼくは、あたふたと滝を訪ねていきました。

 

 しかし、彼の異様な変身をまのあたりに見るまでには、なお五ヶ月の月日を経た、厳寒のひと日を待たねばなりません。昌代さんに示唆されて訪ねていった日は、熊蝉と油蝉との鳴き声の聞こえる彼の部屋で、彼とわずかな時間をすごすだけで終わりました。

 (てら)った言い方を許してもらえるなら、ぼくは、倦怠というものがどんなに怖しいものであるかを、この日に知ったようです。

 その日、ぼくは、滝に起きたにちがいない何かの異常さを気遣って出掛けたのでした。そして、その異常さは、まず形態に現れるものと思っていたのです。助かった後の白痴を予言した医師たち──あなただって、白痴ときいてまず連想するのは、そうした形態のもの、たとえば唇がだらしなくゆるんでいるとか、着物の襟の合わせようが妙だとかといったものでしょう。

 ところが

「やあ先生、いらっしゃい」

 と迎えてくれた彼は、秀いでた眉の下に聰明な瞳を光らせた、あの滝雅志です。ぼくは、まず最初に少々の失望を覚え、それから、ほっと安堵しました。

 

「どう? すっかりいいの」

「はい。そのせつはどうも」

「勉強はすすんでいる?」

「勉強ですか──すっかり怠けぐせがついて」

「論文のほうは?」

「はあ──でも」

「うん、まあ、ぼつぼつやるさね」

「ええ」

「このあいだ、昌代さんが訪ねてくれたよ」

「はあ、そうですか」

「仲良くやっているの」

「ええ、まあ」

 以前からそうでしたが、仕事の内容はお互に話し合うものでもないので、話の種といえばこれ位のものです。しかし、ぼくはいつも、こうした、とりたてれば味気もない話から、若い研究生のぴちぴちした皮膚を感じとっていました。

 

 ところがこの日は、話が文字通りそれだけで終わってしまい、何の余韻も残しませんでした。ぼくには、家に残してきた研究の整理ばかりが思われて来、滝と話す時間が惜しまれてならなくなったのです。滝に異常はないのだから、訪ねてきた意味はなくなってしまった──と思うのです。

 これは、ぼくの好奇心があまり大きく、それが満たされるのが殆んどなかったことによる心情のものでしたろう。少くとも、その日は、そう考えました。しまいには、昌代さんの来訪に、何か滝の緊迫した変化を予期した自分がにがにがしく思われ、それがあまりにひどいものでしたから、帰りの電車の中では、滝だって昌代さんだって、あるいは二人の間のことだって、ぼくには関係のないことだから、もう何も構わないぞというあさましい気持ちにさえなりました。

 

 だが、ぼくが今すこし人生に冷静であり謙虚であったのなら、ぼくは滝の内部におきていた、あの異様な変化に気がついていたかもしれないと、悔むのです。

 滝は、それらの日々、彼の聰明さを以ってしても、どうするこもできない倦怠に襲われていたのです。彼をして、古代文化への情熱と昌代さんへの愛情を棄て去らせ、ついに彼を死に導いていった、あの不可思議な快楽──そう、それは生命とさえとり代えられる快楽でした──その快楽への欲求が満たされないまま、彼の中に倦怠を産んでいたのです。彼の部屋でぼくを退屈させたのは、彼の内部のその倦怠でした。

 しかし、ぼくは彼のそれに気がつくよりも先に、そのためにすっかり退屈させられてしまったのでした。

 

 それからまる一年間、ぼくと滝との交遊は中絶します。もちろん、それまでにも何の接触もなくすぎた長い期間もありましたが、この時ほどに、中絶した友情のしらじらしい気分を味わったことはありません。

 察しのいいあなたには、もうわかってしまっているかもしれません。ぼくは、いつしか昌代さんに心惹かれていたのです。といって、小心者の常で、滝と昌代さんとの間をどうしようという気持ちも持てず、また、かつて滝の教師であったということも、ぼくにある種の抵抗を感じさせました。だからぼくは、いちばん無難なやり方、すなわち、滝への友情を通して昌代さんに近づこう、近づこうというほど積極的な言葉はぴったりしないが、昌代さんと同じ思いのものを頒ち持とうと希っていたようです。それには滝の変化──、それも、滝の健康の変化がいちばん効果的に、同じ思いをつくりあげると思われました。滝の病床を見舞い、あるいは、夏の午後彼を訪ねたのも、こうしたぼくの、ひそかな意識の表われでしたろう。

 ところが、こんなぼくのひそかな期待が、熊蝉の鳴く夏の午後、彼の平常に変わらない容姿と瞳とによって否定されたものですから、友情もたちまち萎えていったというわけです。いや、待ってください。なるほど、こうしたぼくの心情分析は当を得てないかもしれません。そうしたものから独立した友情を、ぼくが滝に持っていることは確かだし、反対に、分析をもっと密にすれば、もっといやしいものが出てくるかもしれません。

 だが、いまはその論議をしばらく措きましょう。何もごまかすわけではありませんが、そんな論議などどうでもいいような、たとえ、ぼくが滝の異常化をなおも希んでいたとしても、そんなぼくの希みとは桁の違う彼の異常さに、すぐその年の冬、ぼくはゆき当たるのですから。

 

 新年の挨拶を交したから、一月の末か二月の初めだったと思います。

 ぼくは、福岡市で遇然、昌代さんの父上の藤波先生に会って、河豚をご馳走になりました。博多の河豚のおいしさを、まだ憶えていますか。それはまあそれとして、気にしておればそれだけ片意地になるぼくが、滝と昌代さんのその後のことをたずねたのは、河豚の美味(うま)さに盃を重ねすぎた酔いのせいでした。

 しかし、その酔いも、先生の話が終わるころには完全に醒め果て、ぼくは、酒酔いとは別な興奮にかられていました。

 その夜、ぼくは、すすめに従って先生の家に泊まりました。いつもなら姿をみせる昌代さんが、挨拶にも出ませんでしたが、それにもぼくは気分を乱されず、ただ、夜の明けるのを待ちかねていました。

 

 翌朝六時半、ぼくは、先生から聞いた筑後川の川辺に出掛けました。

 空にはまだ二三の星が光を凍らせたままで、足もとの道には、霜がガラス粉のように光っていました。風はありませんでしたが、それだけ空気の粒子が細かいようで、外套を通してくる寒さは、寒いというより痛いほどでした。朝のうすあかりを背にした耳納山塊の山稜は、冬空につったつ刃物の鋭さを感じさせ、道のくぼみに張りつめた氷は、あまりに凍てついているので、ぼくが不用意に足をついても、ひびけるどころか滑りもしません。鳥も飛ばず、何の物音もにおいもありません。両耳がひきちぎれたように感覚を失い、危くすれば、体全体も麻痺しそうに思えました。心も寒さに居すくめられて、何を考えることもできませんでした。

 部落の出口の所で、ひょっくり滝と出会いましたが、あらかじめ時間をみはからって来ていたぼくには、それほど偶然なことではありませんでした。ただ、その時、滝がみせた態度は、藤波先生に話を聞いていたとはいえ、ぼくにはやはり異様なものでした。

 滝は、ぼくを一瞥しました。

 ほんとうに、彼がぼくを見た仕方は、一瞥という言葉の表わすそれで、彼にとっては、全く偶然な、あり得ないぼくとの逢会であったはずなのに、眉ひとつ動かさず、吐く息の白さを乱すわけでもありませんでした。ぼくに向けた燃えるような眼は、決してぼくを見ているのでも、あるいはまた、世の習慣を見る眼でもありません。そこには、欲望に飢えるけものの、あたりを無視する激しさだけがありました。

 彼と出遇って、ぼくの唇は自然と笑みを浮かべていたようです。しかし、その笑みは、彼の瞳の前では迎合的な卑屈さをぼく自身に感じさせました。

 ぼくは、そのまますたすたと歩いてゆく滝の後について行きながら

「お早よう」

 と、極めて快活に声をかけました。彼が、挨拶を返さなかったのはもちろんです。

 滝は、綿の厚いどてらを着、手拭で頬かむりをしていましたが、素足にはいた草履の真新しさが、彼の姿を不潔には感じさせずにいました。

 目指す川辺についたとき、ぼくを驚かしたのは、そこに昌代さんがいたことです。ぼくは、もういちど前の夜の藤波先生の話を思い出し、その驚きをしずめました。

 ぼくと昌代さんは目礼を交し、滝が杭の綱を解いている間に、そこに浮かぶ舟に乗りました。滝は、それを拒みはしませんでしたが、もし、ぼくたちが乗るのに遅れていたら、待ちもしなかったろうとわかりました。

 川には、対岸がはっきり見えないほど、川靄がたちこめていました。川面は、さすがに凍ってはいませんでしたが、冷めたくよどんでいて、どちらの方向に流れているのか、ただ、折れて水面についた枯葦の葉先が、それを示すだけです。

 滝の操る棹からの雫が、小さな音をたてていました。

 滝、昌代さん、それにぼく──もしこのとき、誰か岸辺に立つ者がいたとすれば、川霧のなかを遠ざかっていく舟上の三人を、どう見たことでしょう。

 ぼくの体は、おさえようもなく震えていましたが、それほどの寒さはもう感じていませんでした。

 靄を川面の左右に分けながら、舟が五百メートルも川を上ったときでした。急に、ポチャポチャと丸味を帯びた水音が、岸の方から聞こえました。気がつくと、すぐ左手、竹の生えた岸の川堤が、波にけずられて中腹から空洞になり、舟から拡がっていく波が、その空洞の天井をうつ度に、丸い反響音をたてているのです。

 滝は、そこで棹を上げ、舟底から覗き箱をとりました。蓋のない木箱の底に硝子をはめこんだもので、これを水におしあてると、波や光の反射にわずらわされず、水中をみることができます。舟の底には、その覗き箱が二、三個ころがっていました。

 ぼくは、その一つをとって、滝から少し離れた(ふなべり)で水をのぞきこみました。

 水は、うす緑色に重くにごっていました。川底にうちこまれている棒ぐいでしょう、黒いかげが五、六本ぼんやり見えていました。それ以外、ぼくには何も見えませんでした。

 だが、滝は──

 ぼくは、滝の動くけはいに顔を上げました。滝は、その時にはもう肩からどてらを舟底に滑り落としていました。どてらの下に、滝は、下着一枚もつけていませんでした。

 彼の皮膚は、たちまち漂白されてゆくように、白く鳥肌だっていきました。ぼくは息をのみ、寒いというおもいが風のようにすぎました。

 滝は、(ふなべり)で大きく息を吸いこみましたが、そのとき、彼の表情に不思議な悦びが耀いているのを見ました。が、それも束の間のことで、滝はそこから、憑かれた者のように、水音をひとつたてず、足から真冬の川に体を沈めてゆきました。

 ぼくは、剃刀の刃に膚を裂かれていくような、動くことのできない痛さを覚えました。ぐっぐっと、体のどこかがへし折られた感じもしました。

 が、ぼくは、すぐに覗き箱を水にあて、滝を追いました。

 滝の足はすでに川底につき、濁った水煙が袋につつまれた形で揺れていました。両腕を胸の前に浮かすようにさし出した滝の格好は、川底に流れがあれば、そのまま流されて行きそうに見えました。

 やがて、岸から返してくる波紋が、まだ舟底にとどかないころ、ぼくの覗き箱を(はす)にきって、紡錘状の大きな影が静かに動き、滝の腕の前で停まりました。

 かすかに、ためらいを見せて動く胸びれ──その動きに合わせるように、今度は、滝の体が静かにその影に傾いていきます。

 厳冬の鯉は、人の体温をまでしたうとか──。

 その冬の鯉が動いたのか、滝の体がなおも傾いていったのか──いつしか鯉は、滝の胸と両腕にひしと抱かれています。

 どれだけの時間がすぎていったのか──滝は息づまる苦痛に──いや、ぼくはあの滝の表情を、人が恍惚な極限にみせる表情と区別することができない。むしろ、滝は、苦痛に顔をふり上げたというより、恍惚に首をそらせたのかもしれない。が、彼のその顔がぼくの覗き箱に真向かったと思うと、次には、滝は頬をすりよせるようにして、鯉の背をがっと噛みました。同時に、吐き出された息の泡が、荒々しく水面に浮かんでくると、それを追うように、川底をけった滝が舷に姿をみせ、鯉を投げ入れました。

 ぼくは、舷を這い上がってくる滝に、精魂つき果てた()うけの表情をみました。

 

 滝は、唇を紫色にして、舟のまわりにさざ波をたてるほど震えながら棹を操っていましたが、とある淵にくると、再び三度、あの精悍な容姿に変わっていきました。

 ぼくは、こうして話していると、ぼくの頭の中にあのうす緑の冬の川水が満ちて来て、たくましい彼の裸体が、その底に立っている気がします。ただ、ぼくの頭の中には、滝の体温をしたう鯉が翳をみせません。いえ、ぼくばかりではありますまい。あの冬の鯉は、人の観念の中には生き得ない代物のようです。

 

「恍惚な苦悩に仰向ける滝君の表情をごらんなさい。冬の鯉とする抱擁──それは、滝君が死病の底から探ぐってきた悦楽、滝君だけに許されたオルガスムスと言っていいものです。そして、それはもう人の子の昌代の手のとどかない世界のものになったのです。婚約を解いて、あれは今、滝君のそうした(すがた)を、せめて自分の舞踊にうつしとってしまおうとしているらしいのですが、そうなるといつものように、あれはもう私の手のとどかないところで生き始めるのですよ」

 福岡の街で河豚を食べながら、ぼくは藤波先生にそんな話を聞いていました。

 

 村から研究室に帰ってからも、ぼくは、滝の姿と共に、水中をのぞいていた昌代さんの姿も忘れ得ませんでした。

 一すじの髪も乱さずに後ろにたばね、肉うすい頬を朝の空気にさらしながら、水面におしあてる覗き箱を支える指に、陶器のような美しさをみせ、じっと水中のものを見つめる彼女の姿には、声をかけることを許さないきびしい孤独のいろがありましたが、同時にそこには、掠奪者の表情にみる、あの傲慢なふうも感じとられました。

 あのとき、水のあおさに映えた彼女の額のいろと、燃えるような瞳の光とは、嫉妬のそれだったのか、それとも、もっと冷酷な、彼女の意志のものでしたか──。

 研究室に帰ってからのぼくには、もう昌代さんへの(やま)しい愛着は、きれいになくなっていました。そして、ぼくは、滝のあの無駄のない水中での美しい姿態が、昌代さんの体にみごとに昇華していくことを祈らずにはいられませんでした。

 

 そのままに春が去り、夏も秋もすぎて、次にきた冬の半ば、ぼくは、突然滝の訪問を受けました。

 彼は部屋に入ってきたまま、一時間近くも口をききませんでした。

 初めはぼくも、手をかえ品をかえて彼から何かを聞き出そうと声をかけていましたが、しまいにはそれにも飽きて、といって仕事も続けられないので、炬燵に入ったまま、新聞のすみずみ、広告から尋ね人の欄まで、二回も三回も読みました。

 手をかえ品をかえと言いましたが、まったく滝の容貌は一変してしまっています。どこか、かんじんなところが空ろになったように、話の焦点をどこにおき、彼のどこに向かって話しかけたらいいかわからないほど、彼の表情にはしまりがありません。唇が濡れ、頬には気味悪な艶が光り──それは、熊蝉の鳴く夏の午後、ぼくがひそかに描いた滝の容姿そのままのものでした。ぼくは、彼と同じ部屋にいることが息苦しくさえ感じましたが、それを誇張していえば、何か汚物をつけている者と向かい合っているような、肉体的な嫌悪のものでした。

 ぼくは、とうとう我慢ができなくなり

「どうだね、家の者も心配しているだろうよ。別に用がないのなら、そろそろ帰っては」

 と、帰りを促そうと思いました。

 そのときです。滝が声もなく泣いているのに気がついたのは。

「どうした?」

 ぼくは、そうたずねました。

 すると、涙が彼の気分をときほぐしたのでしょうか、しばらくの間をおくと、滝は、もどかしげに言葉を並べ始めました。

 しかし、それはいっこうに要を得ないものでした。同じ言葉を何回ともなく繰り返しているかと思うと、突然、関係もない言葉に飛躍していくというふうで、さらには、脳神経の異常からくるらしい言語障害がありましたし、話の途中で、幾度も呼吸につまるのです。興奮のあまり、頬の筋肉が硬直し、ぼくが思わず体をそらせるほど、眼を見ひらくこともありました。

 それは、まるで脳裡の妖しげな幻影に操られる、本能のうごめきのようなものでした。

 しまいに彼は、自分の仕様に絶望したかのように言葉と動きを停めると、ボタンをとばす勢いで上衣とシャツを脱ぎ、それから、くるりと裸の背をぼくに向けました。

 そのとき、ぼくには理解できなかったそれまでの彼の切れぎれの言葉が、電光のような速さで結びつき、ひとつの意味を現わしてきました。

 滝の右肩、そこに巨大な手術の跡がくぼみを作っているのです。

 話によると、傷は夏の腫れ物の手術跡らしく、その傷跡のくぼみのため、この冬、まだ一尾の鯉もとらえられないのです。冬の鯉が、彼に近づいてくるのに変わりはないのですが、彼の腕がわずかでも動くと、鯉は、はじかれたように逃げていくらしいのです。

 滝は、ぼくの向こうで炬燵にも入らず、ある時は狂ほしく、あるときは放心した表情で、そのことをぼくに訴えました。

 しかし、ぼくに何ができましょう。

 ぼくはその話を聞きながら、動物の体内に起きる電気のはかり知れぬ微妙さと、それに鋭く反応する生き物の本能の不思議さとを、こみ上げる悲しみを抑えながら考えているだけでした。

 

 この冬の終わり、三月の初めでした。

 ぼくは、一通の電報をうけとり、本郷村に急ぎました。

 

 その日も、舟は霜のきびしい岸に沿って川を上って行ったと思います。

 滝が、その日もどてらを着ていたかどうか──おそらく彼は、川靄も凍る朝の空気の中で、初めから裸だったのではないでしょうか。思いつめた彼の感覚は、真冬の寒さも受けつけなかったに違いありません。

 滝は、次々に鯉の逃げて行く日々の終わりにあたって、その日にすべてを賭けていたのです。彼の本能が、いまや失われんとする悦楽を求めて、はげしくあえいでいたのです。

 白く乾いた木舟の上には、昌代さんの姿もありました。

 昌代さんが、ただ外套だけをしか着ていなかったことについては、いろいろの推察がなされました。

 滝の(すがた)をうつすためには、滝の感覚した冬を感覚する必要があったからだとか、そういう芸事のことからでなく、滝と同じ冬の寒さを自分の肌にも受けようとする、彼女のたち難い滝への恋情によるとか、いや彼女は、日を追うて乱れていく滝によって、彼女自身少しおかしくなっていたためだとか──。

 舟は、やはり、あの、水のうす緑によどんだ、竹のある淵で、静かに停まったのでしょう。

 昌代さんは、覗き箱を水面にあてて、滝の姿が水に降りてくるのを待っていました。

 やがて、滝の体が川底にとまる。たくましい筋肉が体の表面につくるうす翳のしま模様。

 やがて、黒い丸味の影が斜に動き、滝の体が静かな傾きをみせ始める。

 鯉はいま、冬の水の中で滝の胸と両腕の中に囲まれ、川の面を漣がとおりすぎていきました。

 そのとき、滝の胸廓に映る縞かげがわずかに揺れ、腕が──とみるその刹那、鯉の影はつと滝の腕から離れ去ります。

 絶望に首をそらせた滝の苦悩の表情が、覗き箱と真向かい、さしのばされたままの両腕は、舟上の人に愁訴(うれ)え、その人をよびました──。そして滝の体は、わずかな時もおかずに川に沈んできた白い体に、また傾いていったのです

 獲物に気どられまいとしながら輪をちぢめていく滝の腕の動きは、呼吸の苦しさを無視して、静かでゆるやかでした。

 やがて、滝の腕は白い体にくい入り、白い腕は滝の首をしめていきました──。

 靄の這う川面を、赤い外套だけが残された木舟が静かに流れて行き、川下の高い橋には人影もありません。わずかに、遠くの村落の森から、二三条の炊煙が夜明けの空にたちのぼっていました。

 

「聞いていますか」

 と、内村は話を続けた。

 ──といっても、ぼくの話はもう終わりですがね。もちろん、最後の部分はぼくの想像にすぎません。

 マサシシス。マサヨシス。

 という一通の電報を受けたぼくは、すぐに村へ急ぎました。

 相擁した二人の水死体は、狭い村の人々に数々の話題をよんでいました。

 ぼくは、研究室に帰る日の夕暮、かつて滝と昌代さんとぼくとで行った川の堤に行きました。そしてそこで、いま話したようなことをぼんやり空想しました。

 その日も、寒い日でした。

 陽が沈んだ西の空高く、飛行機が二機とんでいました。それは、銀の粒のように小さく光り、そこからひかれてゆく飛行機雲は、山かげの夕陽に茜色(あかね)に染んでいました。     ─了─

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/06/20

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三原 誠

ミハラ マコト
みはら まこと 小説家 1930~1990・10・21 福岡県三井郡に生まれる。毅然と野にあり、最期まで同人誌「季節風」に優れた作品を次々発表していた。

掲載作は、1955(昭和30)年8月「季節風」8号に初出、3番目に若い時期の印象深い秀作で、作者が終生抱いた故国の自然と季節とへのデーモニッシュな共感と哀情とが、一種凄絶の文学的表現を産んだ。作者は生涯に3冊の単行本を出して逝った。この作には厳しかった批評家平野謙が注目したのである。3冊目の本は昭和62年書き下ろしの長編『汝等きりしたんニ非ズ』で、郷土の隠れキリシタンを書いた迫力溢れる力作であった。

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