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たたかい

 兵隊サンのことをはなそうと思います。

 兵隊サンのことは、戦争が終わって今までに、たくさんの人がたくさんの事を書いています。戦場のたたかいはもちろん、国内での二等兵、古参上等兵、下士官、将校などの、そんないろいろなヒ人間的な、ヒ民主的な出来事を読むと、ぼくは兵隊サンにならずによかった、本当によかったとおもうのです。

 それでも戦争に負ける──ぼくの中学四年生──までは、兵隊サンが好きでしたし、わるい仕組があるなどとは気がつきませんでした。

 小さい頃から、ずうっと兵隊さんになじんでいました。

 ぼくの村は師団のあった久留米から四里程はなれた農村ですから、秋のとり入れがすむと、はるか耳納山塊の麓までひろがるその刈田で、きまって連隊の演習があるのです。帽子に目じるしの白い布を巻いた兵隊サンが、パチパチと機関銃や小銃をうちあい、遠くで旗がふられ、あるときは戦車や、車にひかれた大砲も、部落の道を田の方に駆けていきました。そして、あれは戦いの終わりを告げるのでしょうか、タッタッタッタッタアとラッパの音がきこえてくるのは、これもきまって穀殻を焼く田の煙が、部落までひろがってくる夕暮で、すると屋根の棟瓦にまたがって見物していたぼくたちに、遠くからの軍歌の声が、何か奇妙になつかしい悲しさで聞こえてくるのでした。

 演習帰りの兵隊サンが部落に入り、家いえに分宿していくことはしばしばでした。もちろん、ぼくのうちは貧乏でしたから、泊るのはみな一等兵か二等兵かの兵隊サンでした。それでも兵隊サンが家に泊ると、あの皮革と汗と鉄とのいりまじったにおいが、あぶらのようにしーんと畳や壁や廊下の板にしみこんで、それがぼくたちの心を、祭のように刺激するのでした。

 もっとも、こうした兵隊サンたちの演習は、アメリカとの戦争が始まる少し前から、村では行なわれなくなったようです。

 不思議なのは、ぼくたち村の子供たちが〈兵隊サン〉という時、それはこうした野戦の兵隊サンだけをさしていたことです。村のすぐわきには、村の畑からそのままつづいて、当時日本一といわれた太刀洗飛行場があり、飛行第四連隊がいました。その連隊祭には、ぼくたちは弁当まで持って見物に行ったものです。が、それを兵隊サンという言葉の外においたのは、飛行兵というものがぼくたちにとって、空に見る飛行機よりもなじみがうすかったせいかも知れません。と同時に、時折見かける飛行兵は三々五々の人数で、隊列を組む集団ではなかった事も、大きく原因しているのでしょう。そして飛行連隊が飛行学校になると、飛行兵との接触は更になくなり、やがて戦いが激しくなって、特攻機がとびたつようになると、学徒動員で飛行場に通っていたぼくたちの目には、飛行兵は兵隊サンというより、もうそれを超えたものとなって見えました。

 ですから、戦争に負ける一年前の夏の頃、部落にきて、それぞれの家に分宿した七百人ばかりの部隊は、ほんとうに久し振りの〈兵隊サン〉たちでした。

 

 昼間も、うすぐらい四畳の部屋で寝ているより他に仕事のない祖母(ばあ)サマまでが、兵隊サンが泊ると聞いた日からは、(ちい)さくしなびた体を、ちょこなんと中庭の葉蔭の縁側にまるめておりました。

 何でも祖母サマのつれあいというのは、日露戦争で戦死したとかで、それからというものは祖母サマは、まるで自分が武士の嫁だったように思いこみ、気位ばかりを高くしていましたから、木の葉をもれる夏のあおい光の底に沈んだようにして、しかし膝に新聞を読みさしのように置いたところは、兵隊サンを待つ祖母サマなりのポーズだったのでしょう。その新聞には、東条内閣の総辞職の記事と共に、狂犬予防の徹底が防空対策として発表されてもいました。

 『最近また狂犬がふえ出した。空襲激化のこんにち、畜犬、野犬に対して断乎たる対策をたてないと空襲時の混乱と相まって、狂犬による被害が相当大きいものと予想される。野犬に対しては内務省が防空対策として徹底的に掃蕩するが、人間も疎開するこの際だから、愛犬家には気の毒だができるだけ飼犬も整理し、空の守りを……』

 祖母サマは新聞が読めませんでしたが、毎夜の空襲警報のサイレンで、戦争がおもわしくないとは、わかっているようでした。それだけに兵隊サンを待つ心は大きかったにちがいありません。

 ところがこの祖母サマが

「ふんになア、何チいうタ兵隊サン達じゃろうかねえ !」

 と、皺ばかりの唇を歯のない口の奥でへの字にむすんだのは、兵隊サンが来てまだ三日もたたぬうちでした。

 無理もありません。

 だいいち、この兵隊サン達には、前にも言ったあの兵隊サン特有のにおいが、全くなかったのです。兵隊サンならばたった一人ででも、そこからはあの汗のにじんだ皮革のにおい、油の光る銃身のにおい、埃と太陽の熱のにおい、それらがごっちゃになったにおいが伝わってくるものです。そしてそのにおいは、軍隊をおく国の国民ならば誰の心にも、その一部に、まるで麻薬をかがされたような痙攣をひきおこします。

 いや、たかがにおい、といっても馬鹿にはなりません。動物たちが雌雄をお互に知り合うのはお尻の部分のにおいですし、それでなくとも、アメリカなどにみる黒人差別は、皮膚の色からというよりも、黒人の体臭に原因するというじゃありませんか。

 ですから、兵隊サンのにおいのないものは兵隊サンではないわけで、祖母サマは、ねだった甘味をもらえなかったような不気嫌さをみせて、また、うす暗い四畳の部屋に戻ってしまいました。

 それならば、この兵隊サン達は、わざとそんなにおいを消した、ちょうど、人を斬る時も殺気をみせなかったという、むかしの忍者のような性格の部隊かというと、それともちがいます。

 ぼくが、動員で通勤していた飛行場から帰ったのは、もう兵隊サンが家に着いた時分でしたが、自転車を玄関に入れ、廊下をわたっていくと、つきあたりの階段を大男の兵隊サンが降りてきました。ぼくはその兵隊サンの面長な顔をみた時、すぐに、物置きの床にころがしてほしてある大きな馬鈴薯を髣髴しました。それは歪み加減や顔のつや色のせいからだったと思います。齢は、もう四十歳をすぎていることは確かで、とっくに将校の年頃ですが、草色のシャツの胸にとめられた赤い襟章には、布の星が黄色く一つ見えるだけです。

「おや、こりゃァ──大男の兵隊サンは腰をかがめ、うすいまばらな毛のある頭をさげました──坊ちゃんですかの。お邪魔になっちょります。はい、よろしゅう」

 部隊の命令で民家に泊まるのは当然なことと、泊まる方も泊める方も思っていた頃のことですからこんな挨拶は今までにかってなかった事でした。さらに、汗を流そうと、物置小舎の横を流れている川の方に行く途中、ぼくは裏庭で、ももひきの形をしたズボンをゆるめようとしている兵隊サンに出遇いました。

「ヒェッ !」

 これは小男の兵隊サンで、まんまるな小さな顔は、海ぞこのウニのように一面の鬚でした。

「あの、あなた、ここの家の方ですかァ。ああ、そうですか。どうですかなァ、センキョクは ?」

 ぼくは兵隊サンの言う意味がわかりませんでした。

「はあ ?」

 すると今度は兵隊サンは、急に落ちつきを失くしてたずね出しました。

「あのッ、セッチンは、セッチンはどこにあるでッしょうか」

 鬚の兵隊サンはやはり四十代で、襟章には黄色い星が二つ並んでいます。

「エッ。家の中にあるトですか、セッチンが」

 それから、少しガニ股でかけて行く姿には、隠密のような暗さは、少しも見当りません。

 話は別になりますが、便所が家の内部にあるということは、この兵隊サンばかりでなく、馬鈴薯の──吉野二等兵サンもあとでしみじみとこう言ったものでした。

「ベンジョが家の中にあるのは、ほんによかですのゥ。冬や雨の日は辛かァですケのう」

 便所を母屋から離して、裏庭や畑の一隅に建てるのは、ぼくたちの村よりもっと田舎の農家に共通したものだったのです。

 こんなふうに、はじめの出遇いから、どうもピンとこない兵隊サンたちでしたが、家に泊った四人の──吉野二等兵、ウニのような鬚づらの竹田一等兵、班長の、すきとおるような美声の持主で、しかし青白くやせた青年の緒方兵長、それから、いつも口に唾をためているように言葉がはっきりせず吉野二等兵よりもっと顔の長い、反り顎の桜木二等兵──この四人の兵隊サンに、銃が二挺しかないのには、どうにも驚いてしまいました。これを知ったのは、兵隊サンが来て一週間もすぎた頃で、そういえば、そのとき兵隊サン達は、家に来て初めて銃の手入れをしたようです。

 玄関を入ったちょうどそこの土間の前の部屋でした。ぼくがそこに行きあわせたとき、桜木二等兵サンが大きな目玉をむいて、銃を吉野二等兵サンに渡すところでした。何か懸命に頼んでいる様子で、吉野二等兵サンが銃を受けとってからも、その手もとを心配そうに──というのは反り顎の上で口を半開きにしてのぞきこんでいました。何しろ銃身のわずかなすき間に、挨一つあっても失神するまでに殴打される時代のことですから、ぼくも他人ごとながら気になりました。吉野二等兵サンも懸命になりました。首を傾け、銃を裏にしたり返したり、ガチャガチャと何度もためしたりするのですが、うまくいかぬらしいのです。ぼくは中学での教練で少しは銃の扱いも学んでいましたから、余程、手出しをしようかという気になりました。が、その時、吉野二等兵サンが呆れてしまったような声をあげました。

「こりゃ、あんた。安全装置バそのままにしたままじゃなかですか。このままで出来る(こつ)ですかァ」

 どうも、この目玉ばかり大きくて反り顎の桜木二等兵サンは、子供のぼくから見ても人並だとは思えぬことが、ままあるのです。特に、脚絆を巻く不器用さは目に余りました。先ず、脚絆を足首にあてがいます。そしてぐるりとひとまきするのですが、もうその折の、片手から他方の手に渡すときにすでに指がもつれるらしく、脚絆の束がコロコロと土間にころがって、長くのびてしまいます。ぼくは初めの頃は、桜木二等兵サンの脚絆だけが何か布地が厚く、片手の指にあまるのかとさえ思いました。うまく足首に巻きつけても、それからが大変です。足の太さが同じならば、一定の傾斜でそのまま螺線状にまきつけていけばいいのですが、御承知のようにふくらはぎの所までくると、急に傾斜が鋭くなって脚絆が重なり合わなくなります。そこで、脚絆を折りたたみながら間をふさぎ、脚をしめてまきあげていくのですが、この折りたたむ途端に脚絆の束が掌の内側にきて、するとたちまちコロコロと土間にのびていきます。それをようやく無事終わったとしても、その足で土間に立ったときにはもうゆるみ始めていて、道に並ぶときには、ふくらはぎのあたりの脚絆が足首のところにずりおちてしまっている始末です。

 脚絆まきですらそうですから、まして銃の手入れなど思いもよりません。が、本人は真剣なのですから、吉野二等兵サンの、安堵を交えた頓狂な呆れ声をきくと、ようやく体をおこし、口だけを大きくひらいて、まるで煙の輪を吐くように、ほっと息をはいて笑いました。

 しかし一方、吉野二等兵サンは、故障の原因はみつけたのですが、原因の発見がただちに解決になったかどうかは疑問です。他人事のように安堵のままの桜木二等兵サンの横で、しきりに銃の同じ箇所をいじりまわしていましたが、そのとき燕が土間に入ってきました。天井の巣には、近頃羽毛の揃った雛が四羽、大口で親鳥を迎え、大口で親鳥を送り出していました。すると、吉野二等兵サンは、今更のように、ほうという恰好で顔を上げ、腰を浮かせました。

「ほう、こりゃ、どうかァ」

 そして顔を天井の巣に向けたまま、手に持った銃をそうっと横にいた竹田一等兵サンに渡しました。

 有無を言わせぬ、しかしごく自然な形で渡された銃に、竹田二等兵サンはちらっと目をやりましたが、これも

「もう、巣立つ頃じゃなかトですかナ」

と言いながら立ちあがりました。銃は、これもまた自然に桜木二等兵サンに移ってしまいました。

 桜木二等兵サンはしばらく二人の後ろ姿と銃を見比べていましたが、やがて、そのままに銃を壁にたてかけると、ゆっくり、やはり燕の巣の下に歩いてきました。

 吉野二等兵サンのさし出す指先にも、巣の雛はぢゅうぢゅう声をたてています。ぼくはそのとき、壁にひっそりとたてかけられた三八式歩兵銃が、兵隊サンの人数よりも少ない、ただの二挺ということに気がついたのです。

「なァに、もやいで使いますケ、よかです」

 いつかそのわけを、竹田一等兵サンがそう説明してくれました。

 

 それでは、銃を使わぬ七百人あまりもの兵隊サンは、約二ケ月の間何をしたのかといいますと、工兵隊の仕事──といえばいいでしょう。そういえば、部落に来たこの部隊が、どこの、何連隊の、何部隊だったのかは、兵隊サンの方で秘密にしている風もないのに、村人の話題にもなりませんでした。どこから来たのかとたずねますと、

「わたしゃ熊本県の……」

 とか

「朝倉郡の三奈木村ですタイ」

 とかと、その出身地をこたえていました。

 工兵隊といえば、すぐに橋を架ける姿が浮かんでくるのですが、ここの兵隊サンたちの仕事は、壕を作る事でした。そしてこの壕も、人間用の地下壕ではなく飛行機のために地上に築くものでした。

 はじめに言いましたように、村のすぐわきには広い飛行場があり、数多くの練習機にまじって、その頃になると、隼や鍾馗、飛燕、それに名前は忘れましたが四式と呼ばれた戦闘機の類や、呑竜、飛竜などの重爆撃機などもかなり姿をみせていました。こうした実戦機を空襲から守る──直撃弾ならば仕方がありませんが、その爆風による被害から守るための壕で、土を馬蹄型に築いていくのです。そしてこれには、飛行機を敵の目からかくし、更に分散しておくという目的もありましたから、壕は飛行場の周辺、飛行場に接する四つの村の森に作られました。

 朝、部落の道に整列し行進して行く兵隊サンが手にしているのは、ですからシャベルと土を運ぶモッコと、それを担うための棒だけだったのです。そして、軍歌もうたわず目的地につくと、すぐ裸になり、土を掘り、土を運び、ある兵隊サン達は壕を作り、ある兵隊サン達は飛行場からそこまでの誘導路をつくるのでした。

 動員のぼくが五時に仕事を終わって帰るとき、兵隊サンたちはまだ働いていました。

 ギラギラする太陽の下でうごく兵隊サンたちは赤土にまみれ、汗がその皮膚のはね土を洗い流して、体に縞模様を描いていました。遠い森でうごく兵隊サンの姿は、何かキラッとした光のようにみえます。

 ぼくはその作業場を通る時は、夢中でペタルをふみました。泥と汗にまみれ、気合の声もなく、しかし、力をその筋肉の翳にみせながら、緩慢な動作でうごく、裸の、年とった兵隊サンの群れが、ニュース映画でみる中国の苦力の群れを思い出させようとするからです。するとずうっと以前、あの秋の末の田の煙のにおいにつつまれてきいた遠い軍歌とはちがった、別な悲しみ──いや、何かしら働くことのつまらなさがこみあげてくるのでした。ぼくの友人で少年航空兵から特攻隊員になった者がいます。その話によると、彼等もまた九州南端の基地で壕掘りを続けさせられたそうです。飛びたくとも、乗る飛行機が不足していました。ですから彼等は最後には、先ず優先灼に飛ぶ権利のあるあの自殺機への塔乗を、ぞくぞくと希望したといいます──。

 来る日も来る日も、油蝉の鳴きたてる暑さの日が続きました。

 しかし、ここの兵隊サンには特攻隊の友人や、動員通いのぼくたちのように、別にこれといった自棄も不満もみえませんでした。

「ふんにのウ。兵隊サンかチ思うたら、百姓ドンかのウ」

 祖母サマは四畳の部屋で憎たれ口をたたいていましたが、実際、ここの兵隊サンには、壕作りという仕事は手慣れた仕事だったかも知れません。そして、とまどい、困惑する事といえば、わずかに夜の点呼時に行なわれる、軍人勅諭の暗誦だけだったようです。

 

 ヒトツ 軍人ハ忠節ヲ尽スヲ本分トスベシ

 ヒトツ 軍人ハ礼儀ヲ正シクスベシ

 ヒトツ 軍人ハ……

 という軍人勅諭は、その頃の男性なら誰でもが憶え、いや一度は暗記させられたはずのものです。それは日本帝国軍人の精神でした。銃の代りにシャベルを持っていても、あるいは、赤トンボの練習機の燃料がガソリンからアルコールに変わっても、この軍人勅諭は、帝国陸海軍存在の厳とした証でした。

 ですから夜の点呼の折に、必ず、どの班かの誰かに暗誦の指名があるのは、軍隊である限り当然のことです。

 夜九時、部隊の兵隊サンはそれぞれ分宿している家の前に並び、その、人の列が暗い部落の道を長くつらぬきます。

 点呼は小隊毎に行なわれる風でした。小隊といっても、兵隊サンは家毎の距離をとって一列に並んでいますから、その先頭から終わりまでは二百米にもおよびます。ですから、道の辻に立っている小隊長の号令は、わずかにその語尾だけが、ケーッ、テーッときこえてくるだけでした。号令がすむと人員報告の第ナァンパーン、異常ゥナシィ、第ナンパァーン、異常ゥナシィという声が、色もにおいもない花火のように、暗がりの列を先頭の方から移っておきてきます。その次がいよいよ勅諭暗誦です。人員報告から適当な時間をおいて、途中幾人かの班長の中継で命令が伝えられます。

「第四パァン、平井二等へーイ、忠節の項」

「第八班、山本一等兵、礼儀の項」

 という工合です。ひとりひとり指名されるのは、隊長の手もとで隊員名簿がめくられているのでしょう。

 ある夜、ぼくの家の兵隊サンが指名されました。

「第七班、桜木二等へーィ、武勇の項」

そのとき、当の七班の兵隊サンと同様、見物のぼくの方にも動悸が高まりました。毎夜の点呼の見物で、この勅諭暗誦が兵隊サンの一番の苦手とわかっていましたし、しかも指名を受けたのが桜木二等兵サンです。

 案の定、声のない混乱がおきました。桜木二等兵サンは気オ付ケの姿勢のまま、目玉ばかりをぎょろつかせ、その大きな反り顎の上で唇を噛んだりつき出したりしており、その前に並んだ三人は、小学生のように桜木二等兵サンをふりかえっています。が、とうとう吉野二等兵サンは見てはいられぬという風に首をちぢめ、竹田一等兵サンは何かいそがしく胸もとをさぐり、「どうしまっしょうかのう」と、オロオロとひとり言をもらしました。

 その時、突然、美声を響かせたのは班長の緒方兵長サンでした。

「ひとつ、軍人は武勇を尚ぶべし。それ武勇は我国にては古よりいとも貴べる所なれば、我国の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまじ。まして軍人たらんものこの心の、この心の──もといッ !」

 勅諭や祝詞の特徴は、同じ語調、文句のくりかえしにあります。

『まして軍人たらんものはこの心のかたからでは、物の用に立ち得べしとも思われず』という文句は、指定された武勇の項ではなく、忠節の項の一部です。そしてこうした暗誦の途中で、間違いに気がつくということは、更に次の混乱をひきおこすことになりました。

「まして、まして」

 軍人ハ戦ニノゾミ……と、自信のない小声に変わると、進んで部下の任をかって出た班長は、そこで絶句してしまいました。

 ところが、とっさに大声で後をついだのは、さっきから胸ポケットを探り、ようやく勅諭集の頁をひらいた竹田一等兵サンです。

「まして軍人ハ戦にのソみ敵にあたるの職なれハ片時も武勇を忘れてよかるへきか」

 吉野二等兵サンがうしろからまわって、竹田一等兵サンをかくすようにして胸をはり、にんまりと微笑みました。指名されたとは別な誰が読んでいようと、隊長にわかる筈はないのです。しかし、竹田一等兵サンの朗読はそのままの棒読みで、勅諭集には省かれている濁音のにごりも、そのままにして読んでいました。

「さハあれ武勇にハ大勇あり小勇ありて同シからス。けっきにはやり粗暴のふるまヒなトせんハ武勇とハ、武勇とハ……」

 竹田一等兵サンがここでつまったのは、次の〈謂〉という字が読めなかったにちがいありません。前の吉野二等兵サンの脇をつついて、そこの頁を指さしていましたが、吉野二等兵サンは空を見上げたり、頁をすかしたりして、軒からもれるあかりのくらさを理由に首をひねるだけでした。竹田一等兵サンは構わずそこをとばして続けました。

「武勇とは……かたし。軍人たるものは常に、常に……義理を……力をねり……を……して……事を……るへし。小敵たるとも……大敵……おそれス……か武職を……さむこそ誠の……」

 懸命で読む竹田一等兵サンの声は、それでもつきあたる漢字の数の多さに力をそがれ、次第に弱まりました。うしろでは指名された当の桜木二等兵サンが、竹田一等兵サンの必死な暗誦には無関心に、見物のぼくたちに時折ぎょろりとした目玉を送っていました。

 気がつくと、天の川が、そんな部隊の長い列のはるか上空に、列とははすかいにふとぶとと南北に横たわっています。

「……さハあれ武勇を……ふものハ常ツね人に……ふには温和を第一とし……の……を得むと心掛けよ……なき勇を……」

 竹田一等兵サンのひくい声が天の川の下を流れていきます。そしてその(せつ)がまだ終わらないうちでした。テーッという号令が隊長サンの方からきこえ、竹田一等兵サンの声がひたとやみました。それは点呼の終わりの号令で、隊長サンには勅諭の一節を読み終わる、おおよその見当がついているのですから、その時間をすぎると、そのまま解散の号令を発したのです。

「いやァ、冷汗が流れましたノ」

 吉野二等兵サンが大きな体を小さくして入ってきました。

「班長ドノ。あんたが初めうまくやったからようございましたバイ」

 竹田一等兵サンが鬚の中で笑っていました。

「いやァ。忠節の項ならよう覚えとりますバッテン──」

 班長サンはてれ笑いをしています。

 みると三人とも家の下駄をつっかけ、桜木二等兵サンだけが、十三文もあろうかと思う軍靴をはいています。出て行く時、もう余分の下駄がみつからなかったのでしょう。その靴の紐がとけたままで二枚の甲皮が大口をあいていました。

 

 どうにもこの桜木二等兵サンは、一升にして一合程の不足があるようで、脚絆まきや銃の手入ればかりか、何事にもこうした緩慢さがつきまとうようでした。

 裏の物置小舎の横を流れる川は、そこから少し下流のところで、深い、広い淵を作っていました。そして淵には、沸騰する程に夏の太陽にあたためられた田の水も流れこんでいましたから、兵隊サン達は温泉、温泉とよび、作業から帰るとお互を誘って体を洗っていました。実際、時間どきになるとそこは銭湯なみに混みあい、その裸のにぎわいの声が風にのって家まで聞えてくるのですが、そんな折にでも、竹田一等兵サンや吉野二等兵サンに声をかけられて一緒に出かけた筈の桜木二等兵サンが、その上流の水汲み場で、念入りに褌を洗っているという工合でした。

 

 兵隊サン達は、作業を終わって帰ってくると、夜の点呼までこれといった軍事訓練があるわけではありませんので、夏の夕暮の明るさを、いくぶんかは、もてあまし気味にみえました。五六年前軽い中風にやられてから、すっかり人の好くなったぼくの父は、わざわざ兵隊サンのために、碁や将棋を揃えたのですが、竹田一等兵サンにも吉野二等兵サンにも、もちろん桜木二等兵サンにもそんな趣味はなかったようです。

 吉野二等兵サンは、夕食がすむと必ず物置小舎の前の庭に出て、そこの一画に植えてある南瓜の雌花に、古筆を使ってさかんに花粉をつけてやりました。

「南瓜にゃ男と女ゴがありますケの。ほんに南瓜というても馬鹿にゃ出来まッせんタイ」

 畑仕事に慣れぬ嫂にしきりに文句をつけるのは、水浴びの帰り、家の畑を見廻ってからです。

「オクさま。あそこには何を植えなさるノ ? え ? 大根ですかァ。そんならあなた。あんな(こつ)じゃいけまッせんタイ。もっとウーンと深こうして、土塊(つちくれ)のきざみようも、も少し考えてやらんト、可哀そうかトですよ。ほんに出来る(こつ)なら、わしがチョイとやってあげますがのう 」

 どんなに暇だといっても、民家への目のつくような手伝いは禁じられていたのでしょう。吉野二等兵サンはそれを舌打ちして口惜しむのです。大根が可哀そうだとは、初めてきく言葉でしたが、吉野二等兵サンは大根ばかりでなく、作業場で掘りかえされるさつま芋にも、憤然とした同情をしめしていました。

「むごかァですなァ。まだよう育ち切っておらんですよ。それを掘りくりかえすなんて、もう少し壕作りは待てんもんでッしょうかのう」

 かと思うと、裏庭で遊んでいる雌鶏を不意につかむこともよくありました。

「トウトウトウトウトウ」

 吉野二等兵サンはそうして雄鶏を呼びます。雄鶏は、吉野二等兵サンに捕まった雌鶏が首をさげ、お尻をあげてその手もとにうずくまされていますから、易やすとその上に乗っていけるのです。

「しんそこまで入ってなかト強かヒヨコは出来んですタイ。トウトウトウトウ」

 そんな折の吉野二等兵サンの言葉は、軍人勅諭を読むのとは比較にならぬ確信のものでした。

 吉野二等兵サンが小さなさつま芋を持ってくるのに対して、竹田一等兵サンは、いつも粘土をポケットにしのばせてきました。竹田一等兵サンは確かに左官屋さんだったと思います。彼は作業場から持ってくる──これには桜木二等兵サンのポケットも利用されましたが──粘土を使って、家の壁くずれをその滞在中にすっかり直してくれました。

「あそこの粘土は性質がよかですヨ」

 と御気嫌で、驚いたことには便所の汲みとり口あたりまでも直してしまいました。ぼくが風呂場にいますと、すぐ横の便所の内と外で話し声がするのです。相手は父でした。

「……いやァ塗り鏝がありますなら、もう少しうまくやれますがの」

 父が礼を言っているようでした。

「……いやァ、どうも……。それで旦那サン、戦局はどうでッしょかの」

 戦局はどうだろうというのが竹田一等兵サンの口癖で、初めての挨拶でぼくがまごついたのもこれでした。実際、軍人が戦況をぼくたちにたずねるとは、奇妙なことです。

「今度は、いつか、かまどを塗りまッしょうかなァ」

父が何と内部(なか)から応えたかわかりません。

 このように吉野二等兵サンが畑に気を配り、竹田一等兵サンが壁ぬりをしていたのは、二人のそれまでの生活が、軍人生活のすきまをぬって息吹いてくるからだったのでしょう。と同時に、父と家人への幾分の感謝もまじっていたようでもありました。

 父は中風を病んでからも、いつしかまた晩酌を始めていました。お酒はその頃もちろん配給制でしたが、ぼくの兄は村の醸造家と組んで、軍需工場の役人相手に大量の酒の横流しをやっていましたから、家人の晩酌に事欠くようなことはありませんでした。その晩酌の相手に、父は、庭や廊下で出遇う兵隊サンをえらびました。

「いやァ、そんな(こつ)したら、旦那サンの分が少くのうなって、ハイ、すみまッせんタイ」

「酒なんか飲みおったら、班長サンからお目玉ですタイ」

 初めは遠慮していた竹田一等兵サンや吉野二等兵サンも、根が好きなうえに、緒方兵長サンは、どうも年上ばかりの部下のなかには居づらいらしく、作業場から帰るときまって班長会議とかで、ぼくの家の裏手にある、炊事班の泊った家に出掛けていくものですから、しまいには、結構二人が交代に父の相手をたのしむようになりました。そしてこうなると、父と二人の誰が考えついたのでしょうか、晩酌のはじめには、縁側から眺められる庭の植木に、横の川から汲んできては、水を撤くのです。なるほど、そうすればときならぬ夕立のあとのように、一段と涼がましてくるのでした。

 桜木二等兵サンには父の相手はつとまりません。初めの頃、一度父の前に坐りましたが、たった盃一ぱいだけでもう真赤になり、その大目玉と反り顎でたちまち達磨大師になりました。しかしその桜木二等兵サンも、二階の柱にもたれながら、雫のしたたる庭木を見下して、まんざらでもない夕涼みの顔つきでした。

 お酒の外に、母や姉は兵隊サンたちの食事を時折見舞っていました。その頃の食糧不足は言うまでもありません。

 

『おいしい粉食。栄養があって満腹感』

 食糧自給の建前からはもちろん、完全に栄養を摂取して満腹感を与え、しかも非常用の便によいという粉食が近頃しきりに問題になっている。翼政会代議士道山治郎氏もこの粉食の提唱者で、道山家では一日一回は必ず粉食を常用している。粉食の材料は粉になるものなら、桑の葉、いものつるいもの葉、南瓜の葉、茶殻、みかんの皮、とうもろこしの毛などと、手近かなもので十指にあまるのである。

 

 これは当時の新聞による『粉食のすすめ』です。ぼくの家でも、とうもろこしの毛とまではいきませんが、夕食はうどんですますという日をまじえていました。しかし、それでも量は、兵隊サンの飯盒盛りきりとはちがって豊かだったものですから、そのうどんを頒けるのです。

「兵隊サン、うどん.要りまッせんか」

 二階にこう声をかけるのはぼくの役目でした。すると

「ハッ頂戴いたしますッ」

 と珍しく吉野二等兵サンの軍隊言葉がかえってきます。しかし、実際に降りてくるのはきまって桜木二等兵サンで、桜木二等兵サンが階段をおりるのに音をたてないのは、一段いちだんに両手をついておりる臆病な仕方のせいでした。

それから桜木二等兵サンは台所にぬうっとたち、うどんをひたした水の器を、後生大事に波もたてずに運んでいきます。

 こうした家からの食糧補給の外に、ぼくの家に泊った兵隊サンは、今一つその恩恵を蒙る事がありました。それは中隊の炊事班が、ぼくの家の裏手にある、昔の料理屋におかれたことです。時間になると、それぞれ三四個の飯盒をさげた兵隊サンが、この家の前庭に集まって食事の分配を受けます。そして、最後の班の当番兵が帰った後でも、食糧がまだ大釜に残ることが時たまあるのでした。

「おーい」

 炊事兵の声が、ぼくの家を中心にした両隣りの兵隊サンにきこえるのは、こんな日です。

「めしがあるぞうォ」

 するとその声が終わらぬうちに、もう階段に足音がおき、鬚一杯の竹田一等兵サンが、ねずみのようなすばやさで家を出ます。そのすばやさは、手にした飯盒のふれ合う音が、そこから振り落されまいとしがみついている風にきこえるほどでした。

「あの役は、桜木サンじゃ務まらんじゃろ」

 うどんを取りにくる桜木二等兵サンのもっそりした姿を思って、家の者は笑っていました。

 

 こうした食事取りのせわしさと、毎夜の軍人勅諭暗誦を除けば、部落の兵隊サンたちは、村人と何のかわりもありません。いやその軍人勅諭にしても、中学生のぼくの方がそらんじていました。

 国民皆兵という言葉がありましたが、まさしく兵隊というものが国民と重なりあった形です。そしてこの国民皆兵の兵隊サンは、どうしても前線の壮烈な兵隊サンには結びついていきません。嫂が、あの人はきっと肺病もちヨ、肌があんなに白かろうがネ、といった班長の緒方兵長サンは、前にも言ったように暇さえあれば──という事は始終、裏手の家の班長会議に出掛けて、赤い顔になって帰りますし、部下を呼ぶにも

「タケダ !」

「ヨシノ !」

「サクラギ !」

 と歯切れよくは行かず、竹田アア、吉野オオ、桜木イイとぐずついて、その時ポンと後頭部を叩いてやれば「──サン」という敬語がとび出してくるようで、命令一下の班統制には、部下の年齢か父親のそれにあまりに近すぎるといった恰好でした。竹田一等兵サン、吉野二等兵サンも、自分の姿を前線の塹壕の中において考えることは出来なかったでしょうし、桜木サンは戦況を伝える新聞が読めたかどうか──文字が書けないのは確かです。

「達者にしちょるかチ書いてつかァさい」

 ある日、桜木二等兵サンが畳に四ツ這いになって首をのばし、姉に代筆をたのんでいるのをきいていたことがあります。

「はい。……次は」

 姉は笑いながら筆を使っていました。

「秀さん所に銭は払うたかチ書いてつかァさい」

「──はい」

「ヨシ坊の腫物(できもん)は直ったかチ書いてつかァさい」

「はい──書きました」

「……牛の種つけはしたかチ書いてつかアさい」

「はい」

 姉がくすりと笑い、少し顔を赤らめたようでした。が、桜木二等兵サンの大真面目な目玉はピクリともしません。

「──書きました」

「それから、キュウおんじのとこに法事があったろうが、法事のおかえしは何だったかチ書いてつかァさい」

 きいていると、桜木二等兵サンの便りは質問ばかりが並んできます。姉もこれに気がついて、少しは自分の事も知らせておあげになったら、と言いました。

「──今、テツ公の世話は誰がしちょるかチ書いてつかァさい」

「──はい。次は ?」

 すると桜木二等兵サンは、姉の注意もあったからでしょう、しばらく考えこむ風でしたが:

「そン次に」

 と続けた言葉は、ぼくたちを驚かせました。

「そン次に──戦争にゃもうすぐ負けるから、じきに帰ってくるぞチ書いてつかァさい」

「はあ ?」

「もうすぐ戦争にゃ負けるから、帰ってくる、待っちょれチ書いてつかァさい」

 その時、班長会議から帰ってきた緒方兵長サンが、廊下の上り口から声をかけました。

「おうッ、桜木イイ、うまい事やっちょるのう」

 姉はその声をきくと、今書いたばかりの最後の文句をとっさにぬりつぶし、桜木二等兵サンは別に不満もみせずそれを受けとると、のっそりたちあがって二階へ引きげました。その顔が、あろうことか赫らんでみえたのは、灯の関係からだったでしょう。

 緒方兵長サンは、珍しく姉の前に腰を下し、酔いの軽口も交えて水をたのみました。

 

 桜木二等兵サンが、戦争には負けるぞと断言したそれには、実はわけがあったのです。

 姉が手紙を代筆した日の一週間程前でした。ちょうどその日は村の夏祭にあたっておりましたから、父は二階の兵隊サンを夕食に招きました。緒方兵長サンはあいかわらず班長会議に出ていましたから、残りの三人、それにぼくの兄も加わっていました。兄は兵隊サン達と同年配、あるいはやや若かったのですが、徴用検査の折、二時間も便所で力んで痔をひりだしたおかげで徴発をのがれ、のうのうとして酒の横流しで暮らしていました。

 兵隊サンたちは、次から次と姉の運ぶ銚子の数に驚き、酒の飲めぬ桜木二等兵サンは、煮物の鶏を骨までカリカリ噛み砕いていました。話は自然と兄を中心に竹田一等兵サン、吉野二等兵サンの間に活溌になります。そして当然、竹田一等兵サンの

「戦局はどうでッしょかの」

 が出たのです。

「負けますネ」

 兄はひとことで言い切りました。

「負けるでありますか」

 これは吉野二等兵サンで、さすがに意外だったのでしょう、軍隊言葉が出ました。

「負けます」

「ほほう」

 兵隊サンよりも、闇屋の方が戦の見通しに明るいとは妙です。が、竹田一等兵サンは、初めてこんな明解な答に出遇ったせいでしょう、もうそのわけもたずねようとせず、しきりに感心ばかりしているのです。

「──となると、どうなりまツしょうかの」

「どうって、どうにもなりまツせん」

「そうですかァ。いやあ、そげん事はなかでッしょう? 戦争に負けるトですバイ、若旦那サン」

「そりゃ──まあ──まず軍隊は武装解除ですタイね」

「武装解除 ?」

「そんなら──この時、吉野一等兵サンが、不安な表情でのり出し、声をひそめてたずねました──そんなら、まあ、ないないには聞いておりましたが、いよいよキンを抜かれますのですかァ」

「え ?」

「ほら、キンですタイ。日本人はみな種ギレになるごと、キンは抜くチきいちょりましたが──」

 吉野二等兵サンのその質問に、竹田一等兵サンも兄の顔に見入り、盃の手をそうっと食卓の蔭におろしました。

「はあ── ? いやぁ、そんな(こつ)はなかです。そんな馬鹿な(こつ)はなかです」

 兄は笑いながら大声を出し、銚子をとりあげて二人に酒をすすめました。

「そうですかノ。いや、安心しました」

「ほんに !」

どうもこの兵隊サンには、負けることよりもその方が大切だったのです。

 そのとき、それまで黙っていた桜木二等兵サンが、突然、

「ケッケッケッ   ケー」

 と鋭い声の笑いをたて、すると、竹田一等兵サンも吉野二等兵サンもこれに安堵の声をあわせるのでした。

 

 こうして、平和ではないがまことに平穏な日日が、部落と部落の兵隊サンに続きました。

 祖母サマは四畳の部屋にいち日中おり、父は晩酌を続けています。

 兵隊サンの仕上げる壕は次第に数を増し、複葉の練習機がその中にちょこんと据わっているのも見かけました。

 緒方兵長サンは日日の班長会議をたのしみ、竹田一等兵サンはかまども塗り、吉野二等兵サンは鶏の雌雄を媒酌し、桜木二等兵サンは反り顎の上で唇をもぐつかせていました。

 そんな日の、もう作業もおわりに近い日でした。

 珍らしく緒方兵長サンが、酒気なしで班長会議から帰ってきました。そして竹田一等兵サンを呼び、吉野二等兵サンを呼ぶと、桜木二等兵サンだけが残っていた二階へ行き、すると、そのまま畳をふむ音も、蚊を追う団扇の音もせぬ、しーんとした時間がはじまりました。

 それは長い滞在にもかってなかったことで、何か事件がおき、あるいはおきかかっているとは、家人がみな灯を消してしまった後にも、二階の灯が庭の樹の葉にいつまでも映っていることでもしれました。ぼくは夜中、誰かが便所におりてくるひそかな階段のきしみをききながら、しかし二階の灯が消える前に眠ってしまいました。

 翌朝、ぼくが洗面しているとき、台所で嫂と話をする緒方兵長サンの声がきこえました。

 

「──ええ、突然じゃったです」

「そうですかァ。して、どちらです」

「さあ、わからんです、私にも」

「……みんなで見送りまっしょ。ほんに可哀そうに」

「はあ、仕方なかです」

「もう、時間ですか」

「ええ、もうそろそろ来る頃チ思います」

 ぼくはあわてて表へ出ました。

 道路の両側に部落の人と、それからいつもとかわらぬ作業衣をきた兵隊サンたちが出ていました。

「何かあったトですか」

 ぼくはそこにいた吉野二等兵サンにたずねました。

「はあ」

 吉野二等兵サンは体を小さくして元気がなく、ぼくの質問にオロオロし、竹田一等兵サンも、ぼくの視線にあうと、するすると場所をかえるのです。ぼくは嫂にたずねました。

「動員令が来たそうな。班に一人の割当で出せって命令だったそうな」

「──すると……」

「行先はわからんが、南方じゃろうって」

「そんなら(うち)からは」

「そう、桜木二等兵サンが……」

 来たッ、と誰かの低い鋭い声がしました。

 部隊の本隊に集って、そこから行進してきたのでしょう、完全武装をした兵隊サンの列が、いつも夜の点呼で小隊長の立つ道の辻を曲って近づいてきました。世話になった部落への感謝の為でしょうか、隊長を先頭にした歩調トレの行進です。しかし、両側の家の前に並んで兵士を送る村人からは、バンザイの声はおきませんでした。ただ自分の家に泊っていた一等兵サンや二等兵サンを、列の中に見出そうと、喰いいるような目を向けているだけです。

 桜木二等兵サンがいました。

 銃と、外被をまいた(はい)のうだけが列の上に見えました。そして桜木二等兵サンは家の前をすぎる時、歩調トレの窮屈な歩みのまま、あの大きな目玉をぎょろりとぼくたちの方に向け、二三度、あの反り顎で頷き、その上の唇を微笑ませました。

「かんにんナ」

 ぼくの隣で、吉野二等兵サンのつぶやきが、そのとき聞こえました。

 考えると、兵隊サンたち──緒方兵長、竹田一等兵、吉野二等兵、それに桜木二等兵は、前夜のあの静けさの中で、はじめてタタカイを経験していたのです。誰を班の中からその一人としてえらぶか──それは前線のタタカイに比べても、誰一人としての友軍もない、孤独な、激しい、冷酷な、ひとりひとりが自分だけでせねばならぬタタカイでした。

 そしてそんな兵隊サンにとって、桜木という、確かに人並みにはおいつかぬ二等兵の存在は、タタカイの苦しさを果して緩めてくれるものだったでしょうか──あるいは、桜木二等兵サンのその白痴さ加減は、かえって一人ひとりのタタカイを傷多いものとしたのでしょうか──。

 出陣の部隊が部落を出た後には、静けさが──しかし前夜のあの沈黙から何かが脱落してしまった静けさが家にひろがり、その静けさの中で、一挺になってしまった三八式歩兵銃が、ひっそりと壁にたてかけられていました。

 気がつくと、天井の燕の雛はもうとっくに巣立った後です。

「兵隊サンはどこ行った ? 兵隊サンはどこ行った ?」

 四畳の部屋から祖母(ばあ)サマの声がしていました。    ─了─

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/03/25

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三原 誠

ミハラ マコト
みはら まこと 小説家 1930~1990・10・21 福岡県三井郡に生まれる。毅然と野にあり、最期まで同人誌「季節風」に優れた作品を次々発表していた。

掲載作は、「季節風」36に初出、久保田正文の激賞を得て「文学界」1963(昭和38)年3月号に転載され芥川賞候補作となる。ユニークな視点と視野から反戦の思いを盛り込んだ戦争文学の傑作である。いわば在野の、こういう渋みの利いた名品を招待できたのは「ペン電子文藝館」の喜びであり、広く読まれたい。

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