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ぎしねらみ

 古賀の信行はどうなっただろう──。

 三年ばかりまえ、郷里の小学校同級生から届いたクラス会の通知が機縁になって、私は、ときおり、同級生だった古賀の信行のことを思い出すようになりました。

 古賀の信行。

 しかし、彼のことを話すまえに、私は、郷里の言葉で『ぎしねらみ』と呼んでいた、小さな闘魚に触れておこうと思います。なぜなら、古賀の信行のことを思い出すと、彼の面影よりも先に、その『ぎしねらみ』という魚の姿が浮かんできますし、するとそのとき、私の頭は水を満たしたうすいガラスのびんになって、その中心に、緑色の小さなその魚を住まわせてしまうからです。

『ぎしねらみ』とは、古賀の信行のあだ名でもありました。

 

 ところで、その『ぎしねらみ』という魚が、一般には『親睨み』という名でよばれることを、私はついこの間知りました。というのは、郷里にいる頃は『ぎしねらみ』という名で誰にも通用していましたし、郷里を遠く離れた街住まいでは、もう食用にもならないそんな川魚の名まえなど、思い出される暮しざまではありません。ただ、私は古賀の信行のことを思い出すようになってから、『ぎしねらみ』と区切りなしの一語(ひとこと)によんでいたそれが、『岸を睨む』という意味のものだったことに気がつきました。そして、子どもの頃、サイキロと符牒のようによんでいた料亭の名が、『再起楼』という意味のある屋号だとわかったり、村のはずれの部落を『黒本郷』と呼んでいたそのよび名が、歴史を秘めたものだと知れたりしたときと同じように、今度もひとりで深い息をついたものです。

『ぎしねらみ』は、川魚にはめずらしい闘魚でした。全身が棘と小骨ばかりの角ばった小魚でしたが、それが、周りに一尾の魚も近づけず、岸辺に近い清流の中で、いつもあたりをうかがうようにじっと静止している──その姿をみると『岸睨み』という名が、まことに自然なものと思われてきます。それに、この魚の鰓蓋(えらぶた)のふちのちょうど目のすぐ後ろにあたる部分には、金色で丸くふちどられたルビー色の斑点があって、それが水翳の揺れ加減では、威嚇を露わにした眼球に見えます。『親睨み』という名は、川魚族にしては鬼子ともいえる闘魚の性質と同時に、この反抗的な擬眼からつけられたものでしょう。

 

 ああ、柳河の雲よ水よ風よ、水くり清兵衛よ、南の魚族よ──

 これは、白秋の「水の構図」のはしがきの終節ですが、詩聖に「水くり清兵衛よ」と呼びかけられたこの魚は、実は『ぎしねらみ』こと『親睨み』のまたの名でもあります。私の郷里に近い柳河の『白秋生家』に行きますと、展示室の土間の片隅に、水槽に飼われた一尾の『水くり清兵衛』を見ることができます。彼は、捕われの身でありながら、その四角な水槽の中でまで、生まれもった(さが)のまま、あたりに目をむいているのです。

『ぎしねらみ』のこうした水中の孤独なたたずまいには、確かに、詩人の想念に住まうに似つかわしい、澄みきったかなしさときびしさとがあるのかもしれません。

 しかし、私たち郷里の子どもにとって、この『ぎしねらみ』は、どうにも手に負えない『根性の(わり)い』魚でした。この、小骨ばかりの魚が、文字通り「煮ても焼いても食えぬ」ことや、針にかかったそれをうっかり掌にとろうものなら、たちまち鋭い棘にさされることは承知のことで、腹も立たないのですが、我慢がならないのは、この小魚が私たちの「まほうびん漁」の邪魔をしてくることでした。

「魔法びん」といえば、今では(あるいは昔から)湯ざめを防ぐびんのことですが、私たちが郷里のことばで「まほうびん」とよんでいたのは、それとは違います。それは薄いガラス製の魚獲り器で、一升びんの周りを、そのまま二倍ぐらいに、ふとめた形のものでした。ただ、普通のびんと違って、底の部分が円錐形に内部にくぼみ、その先端が直径五センチぐらいの丸窓になっています。

 魚を獲るときには、このびんの上口の内側に、酒粕や味噌を混ぜた手作りの練り餌を程よい厚さにぬり当て、口を金網で塞ぎます。そして、くぼみ穴のある底の方を下流に向くようにして、流れに沈めます。すると、上流からの水が上口の練り餌を少しずつ融かしながら、その芳香を底の丸窓から下流に流してくれるのです。

 陽が落ちて間もない夕暮れのひとときをねらうのが「まほうびん」漁のこつでした。腹をすかしきった魚たちは、流れに()られてくる白い餌汁をたどって来て、びんの丸窓の後ろにぞくぞく群らがって来ます。そしてそこで、白い腹をひるがえしては、群舞の小さな輪をつぎつぎに作るのです。さきほど失せた陽ざしのために、びんの肌はガラスの艶を消し、岸から見たのでは水との区別がつきません。が、魚たちは「びん」にさえぎられる流れの変化をあやしむのでしょうか。勇気のある、あるいは食意地の張った一尾が、円舞の群れからとび出して、底の丸窓を通りぬけるまでには、しばらくの時間が要りました。が、一度、一尾が内部に入れば、あとの魚たちは先に入った一尾がつきほぐす餌の余汁におそれを忘れ、次々に「びん」に入ってきますから、私たちはわずかな時間の間に、それこそ「魔法」を使うように魚を獲ったものでした。

 しかし、どうかすると、魚たちが「びん」の入口に集まり始めるちょうどそのころ、『ぎしねらみ』が稲妻のように姿を現わしてきました。彼は、あっというまに魚の群れを追い散らすと、その向っ気強さのままに、つつっと「びん」の内部に入ってしまうのです。

 すると、「まほうびん漁」はそれで終わりです。

『ぎしねらみ』を嫌う魚たちはもう「びん」には近よろうとはせず、「びん」の底から流れてくる餌──外に出ようと大あばれする『ぎしねらみ』の棘につつかれて、白煙のような濁りで丸窓から吐き出される餌汁に腹を満たし、暮れ藻のかげに帰ってしまいます。そして、またたくまに餌を流し終わった「まほうびん」の澄みきった水の中には、煮ても焼いても食えぬ『ぎしねらみ』だけが、諦めともつかぬ落ちつきで、擬眼のふちを光らせているのでした。

 まったく『ぎしねらみ』は、子どもたちにとって憎んでも余りある、やっかいなものでありました。

 

 古賀の信行が『ぎしねらみ』というこの憎まれ魚の名でよばれていたことは初めにも触れました。が、それなら、信行が手のつけられない根性悪で、みんなに意地悪ばかりをする子どもだったかというと、そうではありません。反対に信行は、しょっちゅう友だちにいじめられ、それでいて何も仕返しのできない意気地なしでした。

 私は、雨の日の誰かの気紛れないたずらで、下駄箱からほうり出された信行の履物が、雨あしのつくる円い波紋の乱れの中で、片方はゆるんだ鼻緒と、一方はすりへった歯の跡をさらしながら、やむまなしの雨にうたれていたのを憶えています。そんなときでも信行は、それを先生に告げる勇気もなければ、誰の仕業かを(たず)ねるでもなく、気弱な表情で傘もささず、人目を避けてゆっくりと雨の中からそれを拾ってくるのでした。

「おれが投げ出しておいたのを、どうして拾ってくるのだ」

 と難題をつける悪童もいました。すると信行は、両手に下駄をさげたまま、背中をまだ雨に濡らしながら土間の入口につっ立ち、では、どうすればいいのですかと、困惑の目をじいっと相手に向けるだけの始末です。嫌がるのを無理やり女子組の教室へ押しこまれ

「やあい、豆男、まめ男」

 と囃したてられるときも、信行は、女の子たちがあわてて窓ぎわに散った教室の中にぽつんといて出口を塞いだ私達のほうへ、どうしたらいいかを質ねるような困惑の目を、いつまでも向けているだけでした。

 あるときは

「信行はムケチンポコだ」

 と言い触らされたこともあります。その日、信行はさすがによほど口惜しかったのでしょう。めずらしく

「おれ、むけちょらんもん、むけちょらんもん」

 と抗議してきましたが

「それなら見せてみろ」

 と言われるとたちまち困ってしまい、私たちを横目に見ながら、ゆっくりその場をはなれて行きました。

 そのほか、私たちは、信行をいろいろとからかったりいじめたりしました。点数の低い信行の試験答案を、廊下の手の届かぬ高い所に肩車を作って貼りつけたときには、私たちがねらったように、隣の女子組の子までが、私たちの囃の輪にまぎれこみ、おもしろがったほどです。その時も信行は、自分では手が届かぬと知ると、ふらりふらりと頭を振りながら、人のいない教室の隅の方へ、私たちを離れていってしまいました。

 こうして、人といればいじめられるだけの信行は、いつしか掛図置場の物置きや、校庭の隅の紙屑焼場のわきの、みんながあまり行かぬ所で、一人遊びをしていることが多くなりました。それもあたりに目を配り、誰かが近づいていくと、またいじめられるのではないかと警戒の目を向け、ゆっくりゆっくりと後ずさりに相手を避けていく──それが、岸辺に近い流れの中で、周りに仲間が近づくのを嫌いながら、ひとりいる『ぎしねらみ』のたたずまいを髣髴させるのです。

 もっとも信行は、みんなに教室や校庭の隅に追いやられる以前から、『ぎしねらみ』と呼ばれていました。それは信行の容貌のせいで、やせて細長い顔の両側につき出ている頬骨や顎の骨、尖がりをみせるおでこのふちは、『ぎしねらみ』の骨ばった頭部に似ていましたし、信行の両眼は、目と目の間が広くあいていて、その小さな瞳までが目尻寄りについていました。そのうえ、小柄な子どものくせに、いつもへの字に結んだ口もとの線も、正面から見た魚の口のように、左右に垂れて刻まれているのでした。

 昔から、子どもはあだ名をつけることでは.天才だといいます。そして、あだ名をつけられた当人が、そのあだ名に似合いの仕打ちを受けるようになるのも、昔とかわりはありません。

 しかも信行は、「古賀」部落の者でしたから、なおさらのことでした。

 

 私の郷里は筑紫平野の一隅にあって、本郷村といいますが、古賀部落とは、村をつくるいくつかの部落のうち、村はずれの三、四十戸ばかりの聚落でした。そしてそこはまた黒本郷とも呼ばれる、全戸が「平田」姓を名のる隠れ切支丹の部落だったのです。普通、隠れ切支丹といえば、長崎、天草の一帯が世にもてはやされていますが、そこを遠く離れた筑紫野の一隅に、どうして神の飛領地のような部落ができたのか、よくはわかりません。私が、昔からの言い伝えだと聞いていたのは、古賀部落が、島原の乱の残党平田右京を祖とする一族だということでした。そして右京は、キリシタン名をジョアン又右衛門といい、古賀部落の近くのハタモン場で処刑され、その屍を葬った場所に、現在西日本一の古さを誇る今村大天主堂が建てられたといいます。これは、戦いがすんだ後、小学校の先生たちが編んだ「郷土資料集」という薄いパンフレットの一頁に、あまり確証もなげに記されていることです。しかし、古賀の切支丹が確かな(?)隠れであることは、浦上切支丹史に、本郷村字古賀の名が、隠れ切支丹部落としてあげられていることでわかります。

 もっとも、こうした言い伝えや書物によらずとも、私の郷里の本郷村では、「キリシタン」とか「パーテル」とか、あるいは「ゼス様」とか「天主堂」とかいう古めかしい呼び名のことばが、村の子どもたちの普段の会話にも使われるあたりまえのものであることを思えば、部落の歴史の古さや信仰の強さは測れるというものです。実際、私たちは「キリシタン」の他にキリスト教徒を指す言葉を知らず、戦後になって「クリスチャン」という言葉を聞いたときには、それは古賀のキリシタンとはまるで結びつかず、それとは全く信仰の違った、しゃれてひどく都会的な、上流社会の華やぎのものとだけ聞こえたものでした。ジョアン又右衛門が処刑されたという「ハタモン場」という地名にしても、私たちはその言葉の由来も知らないまま、クスの大木が二三本あるだけで他に何の変哲もないその地域を、「ハタモン場」と符号のように呼んで何らの奇異も感ぜずにいました。しかし、辞書をめくってみると、「ハタモン」とは「機物」、すなわち布帛を織る機具のことで、その用材は、昔、人を(はりつけ)にする材に使ったことが記されています。「ハタモン場」とは、まさに、処刑場のことでした。それが、言葉の意味、由来を知ろうとする気も起こさせないほどに、普段のものとなっているのです。

 このように、古賀部落の発生は数百年の古さをもち、そこに集まり住む人々は、禁教のしきたりを長く隠れ守ってきていました。が、そのことはまた、同じように、まわりの人々の側にも、隠れ切支丹に対する古い人たちの、いわれない恐怖と侮蔑とが、根強く引きつがれていることでもありました。たとえば、「黒本郷」という呼び名の「黒」にしても、それは『クルス(十字架)から出たというが、切支丹の名の上に黒星をつける役所の慣例から、いつの間にか長崎では切支丹をそう呼ぶ風習ができていた』(大佛次郎著「天皇の世紀」)らしいのですが、長崎から遠い私たちの郷里の人々は、貧しい古賀の住人が着る衣服の、くすんだ色彩からそう呼ぶものだと思っていましたし、十二月の末になると、真夜中近いころ天主堂でいのると聞かされていることから、祈りの暗さを表すよび名だと思い、因縁話の(うし)(とき)参りを聞くような怖さを覚えていました。あるいは、それは古賀部落の湿った土の黒さからつけられたもので、土の黒さは、部落に長く続けられた土葬の、死体に肥えた土の色だという者もありました。これは、私が子どもだった頃ばかりでなく、現に、郷里にいる私の甥など、もう五人の子持ちなのに、今もその説を信じています。

 クリスチャンと呼ばれる街の教徒ですら、キリスト教徒だというだけで、以前には周りから白眼視されたそうですが、筑紫野の一隅の田舎のことです。私たちは「黒」という言葉にも、そこに秘められる歴史や由来をみるより、キリシタンに対する嫌悪の情を託していたのです。

 私は、学校帰りの「古賀ぞう」たちを、「ハタモン場」で待ち伏せていたのを思い出します。「古賀ぞう」というのは古賀部落の住人のことで、「キリシタンぞう」とも呼びましたが、このぞうという言葉にしても、おそらく正しくは「(ぞう)」を表していたのでしょうが、長い間にそれには「(ぞう)」という不純さを表す意味が加えられ、族のもつ排他的な性格といっしょに、相手を異端視する呼び名にされていたのです。

「古賀ぞう」たちは、学校へ来るにも帰るにも、仲間同士だけで行き来していました。そして「ハタモン場」にくるとそこで足を停め、クスの大木の方に向かって十字をきり、頭をたれていました。私たちは、その無防備な祈りのすきをねらって周りから一斉に飛礫をとばし、彼等をそこから追い払うのでした。別に、そこが私たちの遊び場だとか、友人の家の持ち畑だったとかではありません。ただ、古賀ぞうたちが、何の(ほこら)もないそこで「頭を下げる」のが目触りの、他に遊びのない日の「キリシタン」いじめでした。

 クラスで何か失くなりでもすると、まず一番に古賀ぞうに疑いが持たれますし、級長が占うコックリ様の占いでも、占い箸の先は、古賀ぞうの名をなぞっていくのです。冬の時期の暖房器には、彼等が弁当を入れるのを拒みました。きたないとか、異臭がするとかがその理由ですが、先生も、私たちのそんな仕業を、見て見ぬふりをしていました。

 信行は、こうした「古賀ぞう」の中の一人でした。しかも彼の母親は、子どもの世話にまでは手がまわらないのか、あるいはそれを大儀がる性質なのか、信行にはまるで構わないようでした。信行はいつもみすぼらしい(なり)で、学用品も不揃いでした。クラスには他にも古賀ぞうが二三人いましたが、私たちは、意気地なしで、だらしのない信行だけをねらいうちにいじめたものでした。

 もっとも、その他の「古賀ぞう」にしても、信行と遊ぶ子は一人もありませんでした。学校の行き帰りの彼等の中に信行の姿がないのは、信行がよくずる休みをし、休まない日でも毎日のように遅刻をしたり、ずる退()けをしたりしていたからのことでしょうが、学校での休み時間にも、クラスの古賀ぞうたちが信行と口をきいていた記憶は、まるでありません。信行が私たちにいじめられているとき、彼等はどうしていたのか──。彼等も私たちのキリシタンいじめに遇っています。たとえは「ハタモン場」の襲撃です。しかし、いま、私たちの飛礫で逃げまどうのがキリシタンの誰々で、どんな表情を作っていたかを考えていると、その場の映像がしだいにぼやけていき、かわりに、その場に居もしなかった信行の、魚に似た面影だけが、まるで機械仕掛けのようにくっきりと浮かんできます。キリシタンいじめ──といえば、信行。そして、その信行のまわりには、仲間であるキリシタンの一人もいない──これはどうしたことだったのでしょう。

 ある秋の運動会で二人三脚の競争をしたとき、仲間のキリシタンでさえ信行と足を結わえるのを嫌がり、信行はひとり、片足ケンケンで旗を廻ってきました。他の古賀ぞうたちは、信行と口をきくことで私たちの反感を増すことを怖れたのでしょうか。あるいは、信行の態や性質が、やはり、彼等の子どもらしい偏狭な潔癖さに拒まれたのか。もしかすると、同じキリシタンとはいえ、長い隠れ信仰の年月のうちには、キリシタン同士の諍いもあって、それが、幾重(いくえ)にも屈折したものとなっていまに引継がれているのかもしれませんし、または、もっと身近かなこと、たとえば信行の母親は「サイキロ」という、あいまい屋を兼ねた料亭で働いていましたから、キリシタンには、そのような場所で働くことを忌む教えがあったのかもしれません。

 私は、休み時間じゅう、遊び相手のない信行が、花壇のレンガ(ぶち)の上を、飽きもせず何回も歩き廻っているのをみた事がありますし、運動場の隅にある肋木(ろくぼく)のてっぺんに腰をかけ、足をぶらぶらさせながら歌を唱っているのに出会ったことも憶えています。肋木のわきの大木が、秋の高い空に、真っ赤な葉炎(ようえん)を燃えたたせていました。信行が唱っていたのは私の知らない曲でしたから、おそらくアーメンの歌だったのでしょう。が、それに声を合わせるキリタンの子は、そばに一人もいませんでした。

 

 ところが、誰一人友だちのいないはずの、こんな意気地なしの信行に、実は、誰も知らない一人の友だち──それも、その頃の誰もが持たない「女友だち」がいたのです。

「サイキロ」の悦ちゃん──です。

 

「サイキロ」というのが「再起楼」という屋号の、あいまい屋を兼ねた村の料亭ということは書きましたが、それは私の生家のすぐ裏手にありました。

 私は、生家のわきに建っていた黒塗りの高い木戸と、そこから私の家の板塀ぞいに続いていた二間(にけん)たらずの幅の露路(ろじ)を、今もはっきりと思い出すことができます。露路の奥には、私の家の裏庭から板塀を超えて枝をのばす金柑の葉群(はむら)が、道の片側に濃緑の厚い(ひさし)を作っていました。

 あれは幼な日のいつの夏でしたか。友だちとの学校帰り、露路のその葉庇(はびさし)の下がうす雪の白さに見えますから行ってみると、庇をつくる葉群れから、金柑の小さな固い花が(あられ)のようにこぼれ落ちていて、その糸を引く白い花の間を、洩れ陽の(えだ)に体をきらめかしながら、丸い蜜蜂たちが忙しく飛び交うているのでした。

 露路の片方は、低い焼板の柵で仕切られた狭い野菜畑で、畑のすぐそばに、端井川の流れがゆるいカーブをみせて近づいていました。六、七メートル幅の澄んだ流れは、あちこちに河骨(こうほね)の黄色い丸い花輪をゆらし、低い岸の向こうには、遠く耳納山塊のふもとまで拡がる筑紫の水田が見渡されました。

 露路は「サイキロ道」と呼ばれ、子どもたちは入ってはならぬとされていましたが、夕暮れどき、金柑の葉庇の所まで行くと、板塀の裏手に消える露路のすぐ奥から、「サイキロ」の炊事場のせわしい水音や足音、それに混って人を呼ぶ甲高い声が聞かれましたし、(たも)網を持った料理人が、ふいと露路の口に現われることもありました。サイキロでは、家の側に流れてくる端井川の岸を削り掘り、前庭のふちに生簀(いけす)をこしらえ、そこに料理用の鯉を飼っていました。その鯉たちが、すくわれて水を離れる際にたてる水音が聞えてくる深夜、私は

「今夜は、お客が混んどるんじゃね」

 と、子どもにはよけいなことを考え、それから生簀の面に浮いている桜の花びらの、白い揺れ模様を思いうかべながら、安心したようにまた深い眠りに入ったものです。

 桜の木は、サイキロの前庭の中央にありました。大人の腕で一抱えに余る老樹で、風が吹いてくると、庭に散ったいちめんの花びらが、あちこちで小さなさくら色の竜巻きをつくりました。

 サイキロには「ゲイシャさん」と私たちが呼んだ女性が四、五人いました。ゲイシャさんたちは、私たちがまだ遊び呆けている夕暮には、もう風呂あがりの化粧をにおわせて、前庭の床几(しょうぎ)に立ち坐りしながら客を待っていましたから、そこに行くと、村祭の宵か、お盆の精霊送りの日暮かに迷いこんだ気持ちになるのでした。

 もちろん、そんなゲイシャさんたちが、ただ、サイキロの二階で客の(にぎわい)の相手をするだけではないらしいことは、南国の子の早熟さで気がついてはいました。二階の広間のほかに、藤棚を添わせた廊下を伝っていく中庭の向こうの棟に、いくつかの小部屋が並んでいるのを私は知っていましたし、小部屋の障子は藤棚の花の翳をうす青く映して、いつもぴったりと閉められていました。

 私はいつか、二、三人の友だちを誘って、サイキロの裏にまわり、その焼杉板塀の節穴に目をつけて、奥の小部屋の様子をうかがおうとしたことがあります。そのとき、私の節穴は、庭に咲くつつじの花輪の一つに目の前を塞がれ、部屋をみることはできませんでしたが、その朱色の花輪にとんできた蜜蜂が、花粉に汚れた丸い体を、ゆっくりと花芯に埋めていくさまを見るだけで、妙に息苦しく、胸がどきどきしてきたものです。

「子どもは、サイキロなんかに行くもんじゃない」

 家人は、ときおり私に言っておりました。が、日が暮れると早々に(あか)りを消して寝静まってしまう村のくらがりの中で、サイキロという家は、子どもの中に、仔細のはっきりしない妖しい華やぎの記憶を、ぼんぼりのように残す場所でした。

 

「あなた、信行さんの、おともだち?」

 見知らぬ小さな女の子に、街のことばでゆっくりと(たず)ねられたのは、そのサイキロの川辺の庭で、私が信行と遊んでいる時でした。

 というのは──。

 古賀の信行に友だちがないことは書きましたが、実をいうと、私も友だちが多いほうではありませんでした。私は、両親が四十歳を過ぎてからの子で、その為か、母はことさらに私を溺愛したようです。私は、自分の小心と臆病とのすべてを母に帰するつもりはありませんが、蛇や猫の(たたり)を本気で怖れたり、川の淵に(ぬし)が住むのを信じたりしたのは、母の教えのせいといえましょう。しかし、近所の餓鬼大将は

「蛇が祟る? 祟るならデコに祟れ!」

 と、わざと私の目の前で蛇の生皮をはぎ、私と私の母とを嗤い、猫をみつけると、たちまち飼犬のシェパートの牙に噛ませては、私の表情の蒼さをおもしろがりました。釣餌にする蜂の巣落とし、隣村の悪童相手の石合戦、墓石の上を跳び歩く義経八艘とび──近所の子が夢中になるそんな遊びを、母は決して私に許しませんでしたし、私自身、できるはずもありません。私が「ハタモン場」のキリシタン襲撃に加わるのは、餓鬼大将の忌諱(きい)に触れまいとする気遣いの外に、それには、殺生も危険も含まないことの気楽さからのことでした。ですから、私は、年上ばかりの近所の子どもから、遊びに誘われない日が多くあって、そんなとき、私は退屈しのぎに、馬車や荷車の通らないサイキロ道で、ひとりでメンコやビー玉遊びをしながら、遊び相手が見つかるのを待っていました。が、そこでみつかる相手といえば、古賀の信行よりほかにはいません。古賀の信行は、母親がサイキロで働いていましたから、学校から帰った後やずる休みの日など、サイキロのあたりにちろちろと姿をみせているのです。それをつかまえ

「ぎしねらみ、来い」

 と呼び、信行にあれこれの用を言いつけては、自分がいっぱしの餓鬼大将になったような、いい気持ちになっていました。

 それに信行といっしょならば、サイキロの勝手口から川辺の庭に自由に出入りができました。川に沿った三角形のその庭は客に隠された場所で、料理の汚水が流れたり、ゲイシャさんの赤い湯もじが干してあったりして、遊びの場所としてはあまりいいとはいえませんでしたが、そこに居れば、普段興味がないとはいえないサイキロの様子がうかがえましたし、信行と遊んでいることが他の者に知れずにすみます。そのうえ、その庭の岸には種々の果樹が植わっていました。びわ、ざくろ、ぐみ、かき、ぶどう、なつめ、もも、そして南国ではめずらしい桜桃まで。その四季おりおりの果実を信行とならば気兼ねなく採って──というのは、叱られれば信行のせいにできますから──食べることもできました。

 学校では、みんなといっしょにいじめながら、家に帰ると、私は信行を家来のようにして遊んでいたのです。

 

「それならいいわ。だって、私、知らない男の子って嫌いですもの」

 私が信行の友だちで秀彦といい、すぐ前の家の子だと、信行が、まるで私を自分の手下のように紹介しました。そのとき、私は、信行のその仕方を気に留めるよりも、秀彦という自分の名が少し恥しい気がしました。私はでこが張っていたので、秀彦というのを縮めて「デコ」と呼ばれていたのです。ですが、そのときには、見知らぬ女の子の口から出た「信行さん」とか「あなた」とか「おともだち」とかいう街言葉の優しさに、頭のしんがぼんやりさせられていたのです。そんな言葉で、しかも、未知の少女から話しかけられたのは初めてのことでしたから、少女のことばは、ちょうど童話の中の、物を言うたびに口から花をとび出させる少女の、その口からの美しい花をみる気持ちのものでした。それに、三つ編みの髪を長く両肩から胸に垂らした、私より体の小さな子なのに、初めて会う異性をとがめるように

「あなた、信行さんの──」

 と素性(すじょう)を質ねたり

「それならいいわ。だって私──」

 と、自分の気持ちを言い渡したりする仕方にも、私はすっかり気圧(けお)されてしまっていました。

「なかで遊ばない? 秀彦さん、あなたもいらっしゃいな」

 それまでのきびしさとはちがった、急な笑顔に、私は真っ赤になってしまいました。

「行こッ」

 誘ったのは信行です。

「うん」

 隣の女の子と話すのさえ、「豆男」と囃されるのに、信行の後を追う私の足どりは、地面に散らばった花を避けて跳ぶような、はずんだ勢いのものでした。

 これが、信行の女ともだちの、サイキロの悦ちゃんと私との初めての出会いでした。

 

 私たちより二つ年下の悦ちゃんは、サイキロの親類の子で、春の時期になると里帰りの母に連れられて、本郷村にやってきました。そして、四五日するとまた街へ帰るのですが、いつ頃からそんな里帰りが始められていたのか。信行は、悦ちゃんたち一家が

「シャンハイから帰って()らっしゃってから」

 と言いましたが、それが何年ぐらい前で、信行が悦ちゃんと友だちになったのはいつのことか。悦ちゃんが来ると、信行は家の外に姿をちろちろさせることがなく、私は私で、わざわざ信行を誘いに行くこともなかったので、サイキロのなかのことがわからなかったのです。そしてこのことは、私が悦ちゃんと仲良しになってからも同じことで、信行をつかまえなければサイキロには行けず、悦ちゃんと遊ぶこともできませんでした。しかし、幸いなことには、信行は、自分が女ともだちを持っていることが知られてからは、悦ちゃんを私に自慢したいらしく、私がサイキロ道の金柑庇(きんかんびさし)のあたりをちろちろしていると、きまって嬉しそうな顔で勝手口に姿を現わし、私を手招いて言うのでした。

「悦ちゃんが来てござるよ。秀ちゃんも遊びたい?」

 

 悦ちゃんはどうしているのだろう──と思うと、午後の陽の映る障子の明るさを背に、色とりどりの綾糸が、鼓の締緒模様で浮かんできます。

 私たちが遊んだ部屋は、どういうわけかゲイシャさんたちの仕度部屋の隣で、いつもお風呂場のようなにおいがし、午後になると、広い桟組の障子の片隅に、八ツ手の影が映っていました。

「そこよ。そこに小指をかけるのよ。そいで、その上の糸に人さし指をくぐらせて──それじゃないわ。」

 ほら、それよ、それ、と言われるのに、急に強度の近視眼になったように目を近づけても、どの糸をとっていいかわからず、とまどいの目をそばの信行に向けると、信行は、両手に糸を張った悦ちゃんが、糸のどれそれを丸い顎で示す表情を、やはり信行の番に私がそうしていたように、うっとりと見入っています。

「だめねえ、男の子って」

 悦ちゃんは、そんなとき、ひどく姉さまぶった言い方をしました。しかし、そう言われても、それと同時にいままでぴんと張っていた赤い毛糸のすじがふいとゆるみ、その端が、悦ちゃんの白い指のつけ根の間をするすると滑るのが目に入りますから、だめねえと言われた恥しさが、くすぐったい嬉しさに変わってしまうのです。

 いつか私は同僚の女性に、男の無骨な指でひとり綾とりができるのをおかしがられた事がありますが、それは、八ツ手の葉影のある部屋で、悦ちゃんに習った名残りのものでした。

 いまは小学生の子どもなら誰でもが知っている誕生日の祝い歌も、私にはなつかしいものです。それは遠い昔の、まだ村の子どもの誰も知らない、そして、英語が敵性語といわれていた頃に、サイキロの黄色い光の部屋で、悦ちゃんから初めて聞かされたものでした。なにしろ誕生会の習慣もない田舎のことです。ハピバースディトゥユウと、悦ちゃんが大袈裟な唇の動かし方で唄い出すと、一度、悦ちゃんからそれを聞いたことがあるらしい信行が、わざわざ私の耳もとで

「英語の歌じゃけんねッ、英語のッ」

 と力をこめて言いました。そして、歌のことばの間に三人の名をかわるがわるに入れこみ、そこで悦ちゃんがするように膝をぴょこんと曲げると、もうおもしろさが口からキャッキャッとはじけ、自然と足踏みまでが始まるのでした。

 ハピ バースディ トゥ ユウ

 ハピ バースディ トゥ ユウ

 それがあまりに賑わしかったのでしょう、廊下を通りかかった風呂上りのゲイシャさんが障子を開け、長襦袢の紐を片手に抑えながら

「あんたたち、アーメンの歌がじょうずねえ」

 と、感心して言いました。

 それから、悦ちゃんは芝居が好きだったので、三人でいくつもの役を兼ねながら芝居ごっこに興じもしました。芝居ごっこといえば、私たちは村芝居でみた「旅鴉一人道中」とか「三度笠旅寝血祭」とかいうやくざ劇の真似ばかりでしたのを、悦ちゃんとの芝居は「七ひきの子やぎ」とか「眠り姫」とかいう西洋物です。いちど信行が、部屋の整理箪笥の上から尻もちをついて落ち、息をつまらせたのは、「三匹の子ぶた」の劇で煙突から落ちる狼をやったときだったでしょう。そのとき、目を白黒させながらころげ廻る信行に、悦ちゃんが大きく目をみはらせたのは、信行の演技に感心してのことか、あるいは、演技抜きの不器用な熱心さに呆れてのことか、いまは質ねるすべもありません。

 サイキロの裏木戸を出て、キャベツ畑に飛ぶモンシロ蝶の真白な群れを両手でかき乱しながら、気がちがったように走り廻っていただけの日もありますし、端井川の浅瀬を渡って向こう岸のレンゲ畑で寝ころんで遊んだこともありました。そのとき、悦ちゃんがつけているパンティの真っ白な色が見え、すると私はなぜか、もう目茶苦茶に花の上をころがり、いちめんのレンゲの紅色と空の青色とが、私の頭の周りをいつまでもぐるぐるとまわり続けるのでした。

 悦ちゃんが頒けてくれた飴玉を掌に置き、それが陽光につくる色翳(いろかげ)を三人で額をくっつけて見せ合っていた日の、気が遠くなるほど静かだった午後のひととき──悦ちゃんと遊んだ春の日がパステル画のような記憶の一枚いちまいとなって私の中に積み重ねられているのが、ひいやりとした重さで感じられるのです。それに、そのパステルにしても、悦ちゃんに初めて借りたもので、固いクレヨンしか知らなかった私には、絵の具というよりも、両端に丸い切り口をみせる西洋の菓子のように思われたものでした。

 

 しかし──。

 私は、悦ちゃんと遊んだ日のことを、少し身勝手に思い出しているようです。

 悦ちゃんは、たしかに私にとって初めての女友だちでした。だからこそ、悦ちゃんは私のおもいの中でたちまち小さな女王になってしまい、私はその親しみのまぶしさにめまいし、自分にできる献身のあれこれのみを思いわずらうようになるのですが、悦ちゃんと遊んだのは私だけでなく、古賀の信行もそうでした。いや、古賀の信行こそ私よりも先に悦ちゃんと仲良しになり、いつも、アレクサンドリヤ皇后に仕えるラスプーチンよろしく、悦ちゃんの側にいたのですから、信行をはずしての話ではまちがいが多くなります。それに私は、悦ちゃんと遊ぼうとしても、サイキロの家の前で呼ぶのは、信行という男の名で

「悦ちゃん、遊ぼう」

 と呼ぶ勇気は、おしまいまで持てなかったのですから、なおさらです。

 あるとき信行を呼ぶと、炊事場にいた信行の母親が窓に顔をはりつかせ

「信行はおりまッせん」

 と言ったまま、こちらが

「それなら、悦ちゃんは?」

 と質ねきれずにいるのを、部厚い唇に妙なうす笑いをのせて、いつまでも眺めていたことがあります。私は、その日に覚えた(はずか)しさが、いまも頬にほぬるい火照(ほて)りでよみがえってくるのを覚えます。ところが信行は、母親がサイキロにいましたから、こうした気兼ねもいらずにいつでも出入りができ、それだけでも、私より悦ちゃんに身近だったと言わねばなりません。信行は、私の声を聞きとると、悦ちゃんと居る部屋の方から

「秀ちゃんかァ、上がって来んしゃい」

 と、まるで自分の家にいるような返辞を送っていました。

 前に書いたように、信行は、友だちにいじめられても仕返しも口応えもできず、人の来ない廊下や運動場の隅で一人遊びをするだけの意気地なしです。ときおり、私とサイキロの庭で遊ぶとしても、信行は私の言いつけに従うだけで、腹痛の原因(もと)になる梅の青い実や、それとわかっている渋柿を噛まされても、そのにがさにしかめる顔のあとには、いつもの気弱な追従(ついしょう)の笑いを浮かべましたし、家の中から母親の呼ぶ声がしても、信行は私の顔色をうかがって、返辞をためらっているのでした。

 その信行が、悦ちゃんと遊ぶときには、私と同じように目を光らせ、声を弾ませていました。私と同じように、悦ちゃんが操る指人形のおもしろさに、二人並んで坐っているのを少しでも前に出ようとし、ついには悦ちゃんが体をかくしている応接台の際で、二人が顔を仰向かせている始末にもなりました。ジャンケンをするにも、負けまいと体を斜めに構え、相手に勝つと、私たちがするように無遠慮な歓声をあげました。悦ちゃんが唱う歌を

『英語の歌じゃけんねッ、英語のッ』

 と報らせた信行の得意満面な表情もさることながら、こちらが何も質ねないのに、自分のおもいを溢れさせてしまうなど、普段の信行には決してみられないことです。五目並べには傍目八目(おかめはちもく)の意見を吐き、トランプの婆ぬき遊びで、自分の持ち札からジョーカーが抜かれていくと、信行は私たちがするように首をすくめ、隠さねばならない喜びを故意にさとらせようともしました。

 私には、こうした日々の信行が、いつも、汗をきらきら光らせていたように思い出されてきます。が、考えるとそれは汗の為ではなく、信行が普段のようにはちぢこまらず、私たちと同じように生まれたままの少年にもどって、自由にふるまっていたせいだったようです。

 それにくらべ、私は、日を重ねるにつれて、悦ちゃんの気持ちを(はか)ることだけに汲々(きゅうきゅう)となり、しだいに自分のおもいとふるまいとに自由さを()くしていきました。

 信行が、たとえば、トカゲの尾を掌にのせ、そのピクピク動くさまを悦ちゃんに珍しがらせるのを、あるいは、草の穂先の輪で蛙を釣り上げてみせるのを、私は、どんなねたましさで眺めていたことか。信行は、その蛙のお尻から麦藁の茎を入れ、そこから息を吹きこんで蛙のお腹をふくらませ、悦ちゃんの眉を美しくひそめさせましたが、私は、そのように悦ちゃんの気持ちを曇らせるどころか、トカゲや蛙に手を触れることもできないのです。信行は、蛇の脱け殻を首に巻いて、嫌がる悦ちゃんの周りを囃し廻ったこともありますし、地表にとび出したモグラの屍を、どこかの畑から見つけてきたこともありました。そんなとき私は、悦ちゃんのそばで、私の小さな女王の気持ちに自分を似せようとし、こわごわとそれをのぞいているだけでした。かと思うと、隣の村で何かの催しがあるとみえ、その始まりを報らせる花火が空の高い所で合図の音を破裂させると、信行は、それが青空に残した白煙の流れを測り、たちまち猟犬のすばやさでかなたの麦畑に走り去ると、やがて、まだ火薬のにおいの残るその割れ殻を拾ってきては、要らないという悦ちゃんに無理にでも与えようとするのです。

 信行がするように、私も悦ちゃんの前で平気にふるまい、悦ちゃんを珍しがらせ嬉しがらせる何かをしてやれたら──私は、いつしかその事だけを思いつめるようになっていました。しかし、街の悦ちゃんが珍しがりそうなことは、信行がしてやっているようなことばかりで、信行がすることは、臆病な私にはできそうもないことばかりです。

「古賀ぞうのくせに!」

 私はその口惜しさの中で、自分が信行に退()けをとり続けているのを、はっきりと知りました。いえ、退けをとるというより、悦ちゃんと遊ぶとき、普段の私と信行との立場がまるで逆にされているのです。私が、教室の隅にちぢこまる信行のようにして悦ちゃんの気嫌をうかがっているのに、信行は、学校で一番の餓鬼大将のように勝手にふるまっています。このことは、私憤をはなれても許されぬ不道徳のものにさえ思われました。

「キリシタンのくせに!」

 しかし、学校での信行の有様が悦ちゃんにわかるはずはなく、キリシタンがどんなものかも悦ちゃんにはわかっていません。それどころか悦ちゃんは、信行に連れられて、今村の天主堂を見物にさえ行きました。そして、私がまだそこに行ったことがないとわかると

「どうして? へんな秀彦さん。きれいよ」

 と不思議がりました。私は、このときとばかり

「おれ、キリシタンじゃないけん、行くもんかッ」

 と、故意に(さげす)みを(あら)わにしたのですが、悦ちゃんは

「キリシタンってなあに?」

 とたずねて嫌がりもしません。

「キリシタンは──」

 私は、そのとき返事につまりました。キリシタンはキリシタンで、説明なんか要るものではないのですから。キリシタンの信行にだって説明できないものです。私が返事につまったとき信行は

「秀ちゃんは行きなさらぬ。ゼス様を知りなさらぬのじゃけん」

 と口出しをしましたが、その信行も

「ゼス様って、教会にいたお坊さん?」

 ときかれると

「ゼス様は──」

 と、やはり応えにつまってしまったのですから。

 ただ、私と信行とのちがいは、私が応えのできなかったことで恥しい無念さにさいなまれているのに、キリシタンの信行は、うまく応えができたように、悦ちゃんの前で顔を光らせていることでした。そして悦ちゃんも、キリシタンを普通の人間と違っては考えないふうでした。私はそのとき、信行と悦ちゃんの親しみに、はっきりと嫉妬を覚えました。

 

 何か──悦ちゃんを喜ばせ、信行の鼻をあかし、私と信行の立場を元に戻す何か──私は頭のしんを熱くしてそれを考えました。が、そんなことは、普段、過保護な母に遊びのあれこれまでも選ばされていた私に、考えつけるわけはありません。といって、悦ちゃんという女ともだちのことは、友人にはかくした私と信行二人の秘密のものですから、誰の智慧を借りることもできず、家人に相談するような事柄でもありません。すると、私はどこまで甘くできているのか、それを信行にたずねたらうまくいくと思う、妙に錯乱した気持ちにさえなるのでした。

 ところが、信行に相談しなくとも、悦ちゃんを確実に娯しませることのできるものが、すぐ身近にあったのです。しかもそれは、臆病な私にもでき、おそらく信行よりもうまくできると思われるものでした。

 まほうびん漁──。

 しかし、私がそれに気がついたのは、信行がサイキロの桜の花の下で、一心にその()を練っているのを見たときでした。信行のそばに、悦ちゃんが目を輝かせて坐っていました。

 

 かあっ──と(いか)りが体を走りました。

 それは、残されていたものに気がつかなかった自分のうかつさを口惜しがるというよりも、私にできる一つの献身のものを、信行がまた遠慮会釈もなしに自分のものにしているという恚りでした。

「それは、おれがするつもりのもんじゃ。なんでお前がするか」

 もし、悦ちゃんがそこにいなかったのなら、私は信行を古賀ぞう呼ばわりして、彼が練っている餌をとり上げるか、川に捨ててしまったかもしれません。が、悦ちゃんは信行の餌づくりにすっかり夢中になっていて

「おいしい?」

 と信行の口もとをのぞきこんでいます。信行は、台所に捨ててあったらしい古いブリキの器の中の餌を指先にとり、舌の上で味わってみせまでしているのです。私は、信行が悦ちゃんにその餌を食べさせるのではないかと心配しました。餌の色からすると、それは黴で変色した味噌と炒り糠、それに小蛆(こうじ)のわいた酒粕を混ぜたものにちがいありません。

「まだ、おいしゅうない。ひと晩、ねまらせんといけん」

「眠らせるの。どうして?」

「眠らせるとじゃない。ねまらせる」

「ねまらせるってなぁに」

「ねまらせるちゃ──」

「秀彦さん、どんなこと」

「──」

 ねまらせるとは、腐らせる──そして、もっと正確に言えば、ここで使う「ねまらせる」とは、腐らせることでなく発酵させる意味だったのですが、ふだん使いなれた言葉ですから、それを説明するのは「キリシタン」や「ゼス様」とかいう言葉と同じようにむずかしいことです。

 が、幸いなことに、悦ちゃんは私たちの返事を待たず、そして餌をなめることもなく、

「ほんとに()れるの?」

 と、もう何度も(たず)ねたにちがいない問題にかえっていきました。

「獲れる。ほら、ハヤはこれが好きじゃけん」

 信行は、蚕のさなぎをつぶした褐色の粉を餌に混ぜながら、自信たっぷりです。

「秀彦さん、ほんとう?」

「うん、とれる」

 信行が「まほうびん」を使うとわかったときから、私の頭を端井川の流れが横切っていました。川は、ちょうど二週間ばかり前に、彼岸の「川ざらえ」をしたばかりでした。「川ざらえ」とは、年に一度、春の彼岸近くに行う川掃除のことで、夏の間に繁茂した川藻を刈り、川底のごみをさらい、流れを整える部落の行事でした。まだ、水神祭を行っていた頃の事ですから、人々が故意に川を汚すこととてはありませんでしたが、部落のすぐ上流口に醸造家があり、冬の間そこから流される米の磨ぎ汁が(おり)となって、川の岸や藻を白く汚していました。ですから「川ざらえ」の後は、流れは川底に藻茎の白い切り口をいくつも残して、見ちがえるような清冽(せいれつ)さをみせました。そして、その流れの中では、刈り残された藻の間を魚たちがいそがしく行き来しています。彼等は、澄みきった水に生気をとりもどしながら、餌にしていた磨ぎ汁や川底の澱の欠亡に、腹を空かしています。これは「まほうびん漁」にはもってこいの時期です。それに、信行が作る餌は、その味噌や酒粕のいたみぐあい、さなぎ粉の分量などからして、私たちでも滅多にこしらえない上等のものです。口惜しくとも、獲れるか、ときかるれば

「うん、とれる」

 と応えるほかはありません。

 信行は、餌の表面をぺたぺたと掌で丁寧に叩き、満足しきっていました。

「もう、できたの」

「うん。あした、びんいっぱい獲るけんね」

「ほんと? びんいっぱい?」

 ブリキの器に桜の花びらが散り、餌に白い斑点をつくりました。信行はその一枚いちまいを指でとり除き、指についた餌をなめました。そばに置いた「まほうびん」にも花が散りかかり、肌をすべっていきます。私は、それを眺めながら、信行が「まほうびん」を使うという日を、真っ黒な大きな塊のものに感じていました。どうすることもできません。もう負けです。

 しかし、悦ちゃんにしてみれば、底に穴のあいたびんを川に沈めるだけで魚がとれるということは、どうしても不思議に思えるのでしょう。くどいほど念をおすのです。

「もし、獲れなかったらどうする?」

「とれなかったら、首ばやる」

「信行さんの首なんかいらないわ」

「百万円やる」

「お金なんかも要らない。そうね──」

 悦ちゃんは、ちらっと私の方を見ました。

「とれなかったら──」

「………」

「私、もう信行さんとは遊ばない。いい ?」

 信行が応えずにいるので、悦ちゃんはふいに私に目を向けました。そして私は、その目に、有無を言わせぬ共謀の誘いを見たのです。

 もちろん、私に異存のあるはずはありません。すると信行は

「いいもん──」

 と、私に同意をもとめてきました。

「いいもん。獲れるのじゃけん。ねえ、秀ちゃんッ」

 そのとき、私は信行の誘いには耳も貸さず、とつぜん痛いまでに胸をふくらませてきた、怒りとも喜びともつかぬ気持ちを、懸命に抑えていました。

 地面の桜の花びらが、丸いまほうびんのガラスの肌を通して、大きくゆがんだ形で見えていました。それが私に、少し吐気を覚えさせてくるのです。いや、花びらではなく、私は、胸にこみ上げてくる、正体のはっきりしない、黒光りのする情念に、吐気を覚えているのでした。

 

 獲れなかったら、もう、遊ばないから。ねッ、秀彦さん──悦ちゃんの声が次々に頭の中で眩しくはじけ、幾重にもこだまし合いました。

 が、魚は獲れるのです。

「川ざらえ」の後の澄みきった流れの中で、魚たちは腹をすかしきっていますし、信行が練り上げた餌は、一晩のうちにみごとな発酵をみせるでしょう。

 魚は獲れる──私は、魚群に内部を(くろ)ずませながら、流れの底に横たわっているまほうびんを、容易に想像することができました。

 しかし、それではなりません。信行に魚を獲らせてはならぬのです。

 獲れなかったら、もう信行さんとは遊ばないから。ねッ、秀彦さんッ──。

 そうです。私は「まほうびん」に映る花びらのゆがみに吐気を覚えながら、決心していました。

 信行に魚を獲らせてなるものか──と。

 それなら、私はそのためにどうすれば良かったか。信行が作った餌を盗む。信行のたった一個のまほうびんを割る。いえ、餌もびんもサイキロの内部にしまうのですから、そんなことはできません。そして、できたとしても、そのために「まほうびん漁」がだめになると、それは信行のせいではなくなります。大事なことは、悦ちゃんが愉しみにしている「まほうびん漁」を信行にやらせ、しかも、魚を獲らせないことです。それには、たった一つの方法しかありませんでした。

 

 端井川の岸辺沿いの部落の人々が、みな、この川を大切にしていたことには触れました。「川ざらえ」もそうですし「水神祭」もそうです。五月の初旬、近くの久留米市にある水天宮の祭の日には、川辺の家々が、みな、コップ一杯の清酒を端井川の水神に捧げます。

「水神様にあげます。河童さんにもあげます」

 コップ酒に笹の葉をひたし、その雫を川面に撤きながら水難からの無事を祈るのですが、その帰りには、一度も川を振り返ってはならぬとされていました。水神や河童が、神酒を含む姿を目にする無礼を(かしこ)んだのです。

 また川辺には、人々がそこで米を()ぎ、食器を浸し、下着を除いた洗濯物をすすぐ洗い場が、家々の裏庭からそこまでの道をつけて、いくつもこしらえてありました。それを私たちが「汲ン場」と呼んだのは、以前はそこから水を汲んでいたのでしょう。ひょっとすると、私が使った産湯の水も、そこから汲まれたものだったかもしれません。

 ところが、川辺の人々にこんなに親しいその流れが、おびただしい死魚を浮かべて川面を不吉な色に変え、臆病な子どもたちをおびえさせることが時おり起きました。川面に浮いた死魚の近くのあちこちには、小さな円い波紋がいくつもその輪を波だたせ、その中心には、死に際の魚が口をぱくつかせているのです。

「また誰かが毒を流したごとあるね」

(しも)のことも考えんで、まあ」

 大人たちのなぜか声低い言葉を聞きながら、私は、部落の女たちが、その魚をつかみどりするのを気味悪く眺めていたものです。

 しかし、そのうち、私にもそんな出来事を起こすもとのわけが知れてきました。小学校に入って間もなく、私は近所の上級生に連れられて筑後川へ注ぐ隣村の川に行き、そこで魚とりの手伝いをさせられました。そのとき、私たちは浅瀬に石を並べて堰を作り、流れをとめたのですが、すると餓鬼大将は、そこから一粁ばかり上流の狭い川幅の岸で、何本もの草の根を石でつぶしたのです。石につぶされる草の根からは白い汁がにじみ、すぐその色を流れにまぎれこませていきました。が、おどろいたことには、餓鬼大将の持つ一束の草の根がまだ終わらないうちに、流れをとめられた下流の広い水面のあちこちに、丸い波紋がいくつもたち現われました。

「死なぬうちに、早ようとれ!」

 私たちは、動きのにぶった鮎やハヤを次々と手づかみにしました。

「除虫菊を流したこと、言うな。言うとお前たちも駐在に引っぱられるぞ」

 餓鬼大将は私にも獲物の鮎を頒け、そして毒殺漁の跡をなくそうと、大急ぎで下流の石ころ堰をこわしにかかるのでした。

 相手にもらった鮎の、しだいに硬直していく固みを掌に覚えながら、こわさに泣き出したくなるのを、空を染める夕焼の色の変化を眺めることでまぎらしていたことを、私は忘れずにいました。

 端井川に死魚を浮かせるのは、そんな毒殺漁の、堰をはずされた川水にうす残るくすりのせいでした。もちろん、上流での仕業が誰のものかは分かりません。私たちがした毒流しも誰にもしられず、駐在もたずねては来ませんでした。

 それなら──。

 信行に魚をとらせない方法はこれしかありません。

 川の魚を毒でみな殺しにしてしまうこと──です。

 

 しかし、除虫菊の根から汁を川の水に混らせることは、思うほど容易ではありませんでした。石を持つ手の力が弱ければ、根はいっこうに輪郭を崩してくれませんし、力を強くすれば、石の当たるその部分からぷっつりと根茎を切らしてしまいます。そのうえ、手の震えがねらいを違えさせ、根を抑える指先にいくども石をうちおろさせてしまうのでした。

 私は、家並みを離れた夜の川辺で、毒草の根をつぶしながら、臆病な私がどんな気持ちでいたかを、つぶさには思い出せません。いま考えると、おそらくそれは、水を湛えた器を(ふところ)にしながらする作業のようなものでしたろう。なぜなら、家を出るときから、魚を殺すという、つきつめた思いの中にも、夜をおびえる生来の臆病が地下水のようににじみ、決心の(ふち)すれすれにまで盛りあがって来ていたのですから。その夜、私がたどった道筋や、草の根をつぶした川原のあたりの様子が、私の記憶にまるでないのは、私が故意に視野をせまくし、月を背にした自分の影だけをみつめていたからだと思います。道ばたの樹木が夜空に拡げる枝のふるえや、流れにゆらぐ川藻の翳にさえ私の心は動かされ、その底の小さな器でようようの平衡を保っている臆病さを、たちまち溢れさせようとするのです。もし、そこから一滴の臆病さがこぼれ落ちでもすれば、その一滴で私は全身を凍らせてしまうでしょう。私は、除虫菊の根を石打ちながらも、自分の臆病さから目をはなせませんでした。

「ちくしょう! ちくしょう!」

 石で指を打つ度に、まるで他人から受ける仕打ちのようにののしり声をあげたのも、そしてそのうち、夜の川辺で草の根をつぶさねばならぬことに、何か理不尽なめに遇わされているような怒りをおぼえたのも、そうした臆病さを心の底に閉じこめておくための、懸命な心動きのものだったようです。

 それでも、いつしか私が手にする石は草の根になじみ、毒草の根は、ほぐされた繊維の間から、白い血のような汁を月の光のある流れにまぎれこませ始めました。

 一本、二本、三本──すると私は、口笛でも吹き出しそうな、ひどく幸せな気持ちになって来ました。おそらくそれは、私の極度の緊張が生んだオーロラ模様の幻覚気分だったのでしょうが、それでもそうした気持ちのゆとりが、私の視野を少しずつ拡げていったのも事実です。そして私は、その視野の裾辺に、一尾の死魚が不意に現われ、その白い腹が流れにもまれて浮き沈みして行くのをとらえました。

 ハヤが死んだ──

 私はそれだけを思い、草の根を叩いていました。

 毒で死んだ──そのとき、なぜか薄荷(はっか)をなめたあとのような感じが舌の上に拡がりました。

 が、私が、その根を打ち終わろうとしたとき、私にもう一度、ハヤが死んだ、毒で死んだというおもいが、ふいに逆流してきました。あの、白い腹をみせた死魚をありありと浮かべて逆流してきました。それは、さっきまでは藻の蔭で休んでいながら、私が流す毒を飲んで死んだ魚です。白い除虫菊の汁を飲んで──すると、それまで耐えていた夜のこわさとはちがう別のこわさが、私を襲ってきました。私は震えました。

 まったくのところ、餓鬼大将のしたことを真似て魚を殺そうとしながら、私には、生き物の死にざまを見る勇気など無かったのです。

 ほかのものを魚に見違えたのではないかと、あわてて思い返してもみました。実際、草の根をつぶすそんな手近な所に、魚が近づくことなどあるはずはありません。それは、上流から流されてきた一葉の枯笹だったのかもしれません。しかし、恐怖に撫でられた臆病さは、もうそのおびえを鎮めることはできません。それどころか、今のが死魚だったのか枯笹だったのか、確かめようとして見やった下流の川面に、一面の死魚の幻影を白い斑点で映し出すのでした。

「ちくしょう!」

 私は、悲鳴をあげたくなりました。しかし、そうすればもっと恐しいものが一度に現われそうな気がします。こんなときにこそ、人には自分を支えはげます、たとえば労働歌のようなものが必要になるのです。

そりばってん(しかしながら)、そりばってん──」

 私は、そのとき私の口から出たことばを忘れることができずにいます。

「そりばってん、ゼス様、おひとりじゃけん、ゼス様、おひとりじゃけん」

 それは、自分にも思いがけぬ、そして魚を殺す場合、まことに奇妙な呪文のことばでした。

 

「ゼス様、おひとりじゃけん」

 というのは、古賀の信行がある月の神社朝礼で、先生の拳固で破られた唇から血を噴き出させながら、わめいた言葉でした。

 神社朝礼とは、昭和の十年代に小学生だった人たちには憶えのあることかもしれません。普段は校庭で行うものを、鎮守の社まで馳足行進で行き、その拝殿の前での戦捷祈願に続いて開く朝礼のことです。私たちの小学校では、石時という校長がこれを始め、毎月の一日(ついたち)がその日に定められていました。私たちは、神社までの往復と境内掃除とに費される時間だけ勉強が減りますから、毎月の一日を大そう愉しみにしていました。

 が、古賀の信行は、そのころからぼつぼつずる休みを始めていて、初めの頃の神社朝礼には出遇わせたことがなく、そんな新しいしきたりができた事も知らずにいたようです。ですから、その日も学校を出る時、信行は何が行なわれるのかもわからないまま、ただ、私たちのはしゃぎように、何か良い事があるように思っていたのでしょう。

 ところがその神社朝礼には、拝殿に向けての敬礼もあれば、校長の捧げる祝詞(のりと)(かしこ)む低頭もあります。もともと、キリシタンは日本の神様を忌むという噂はありましたが、クラスのキリシタンたちには、毎月の神社朝礼で私たちと異なるそぶりはありませんでした。それなのに、おどろいたことには、信行だけは、初めて加わったその朝礼で、教頭先生がかける最敬礼の号令にもお辞儀をせず、校長先生の祝詞の間も、頭を上げたままでした。もちろん、こんな信行は、列の後ろに並んだ者の告げ口で、先生たちに激しい叱責を受けました。が、信行は、受け持ちの先生が何を質ねてもうんともすんとも言わず、力づくで頭を膝におしつけられても、そこで首をねじって顔をそむけ、お辞儀のさまを崩してしまいました。信行が先生に平手打ちを喰らったのはいうまでもありません。それは、まるで狂ったような仕打ちのものでしたから、信行は、みるみる頬をミミズ(ばれ)に腫れあがらせ、そばにいた女子組の先生は顔を青くひきつらせると、お辞儀をせぬのなら、そのわけを言いんさいと助け舟さえ出したのです。しかし信行は、そんな先生たちに、あの魚のような目をじっと向けるだけでした。しまいには信行は、高等科の先生から唇を切るほど拳固でなぐられました。そして、自分がどうしても許されないとわかってくると、信行は、さっき理由(わけ)を言いんさいと言った女の先生の背に逃げこみ、その蔭で、私たちが初めてきく大きな泣き声を空に向けながら、とぎれとぎれにわめいたのです。

「そりばってん、神様はゼス様、おひとりじゃけん!」

 私たちは、信行の強情さに呆れながら、しかし、信行がとうとう吐いたその言葉を、なぜか、キリシタンの秘密を白状した者の、後に私たちが教科書で習う言い方をすれば、「転び者」の言葉のように聞きとり、その後しばらくは、信行をからかうのに、その言葉を囃したてたものでした。すると信行は、顔を真っ赤にして(はずか)しがっていました。

 その言葉が、月夜の川辺で恐怖(こわさ)に耐えきれなくなったとき、ふいと私の口を出てきたのです。しかもおかしなことに、それを手の動きに合わせて口にしていると、(それはまた、よく動きに合う調子のものでした)乱れていた石のねらいさえもがうまく定まってきたのです。

 ゼス様、ひとり、ゼス様、ひとり、それッ、ゼス様、ひとり──

 しかし、それは信行の場合、何百年もの間つぶやかれて来たものではあっても、私には所詮ひとときの借物(かりもの)にしかすぎませんでした。初めは手に合った拍子のそれも、やがて唇のわななきでとぎれとぎれのものになり、すると、その言葉の切れ目きれ目には、周りの静寂さが、氷のようなつめたさで、ぴたりと鼓膜にはりついているが感じられるのです。

 とぽん─と、何かが川に落ちる水音が、幾度か起きたような気もしました。その度に、私の網膜に浮かんでいる死魚の幻影がゆらりと一度に揺れました。そして、その死魚の群れに、サイキロの鯉がひときわ大きい白翳をみせていることに気がついたとき、私は、ゼス様も手の石も一気に投げ棄て、歯の根も合わず家に逃げ帰りました。

 

 翌朝、普段よりもいくらか早く目をさました私は、しばらく蒲団の中でじいっと耳を澄ませていました。

『誰かまた毒を使うたごとある』

(しも)のことも考えんで、まあ』

『水神様が祟らっしゃろうに』

 死魚が川を流れるたびに聞いた、あの、笹が鳴るようなささやきが、川辺の方から風のように聞えては来ぬかと思ったのです。が、いくら待っても聞えてくるのは、台所で朝餉(あさげ)を作る(あによめ)の物音と、裏庭で餌を探す鶏たちのつぶやきぐらいなものです。

 私は、心を決めると嫂のいる台所に行き、前日の残飯の入った笊を持って、鶏に餌をやりに行くふうをして、サイキロの生簀(いけす)に行きました。鶏のほかにも鯉に残飯を与えることもあったので、川辺に立っていても怪しまれることはありません。

 裏木戸を出るとき、きゅうっと胸が締めつけられました。道のわきの狭い野菜畑のすぐ向こうに、端井川の流れが朝の光を(うか)べていました。

 が、私は、自分の仕業(しわざ)の結果を徐々に知るよりも、一気に目にしたくて、前の夜と同じように、故意に視野を狭くし、しかし、ゆっくりと、生簀のふちまで歩きました。そして私は、生簀の鯉たちが──いつもと変わらず水底で鰭を動かしているのを見ました。

「──良かった」

 私はそう思いました。ほっとしました。そして私は、そこから初めて川の流れを見やることができました。

 何も変わりはありません

 向こう岸近くの浅瀬の水は、小さい細長い丘陵をいく筋もつくって滑り流れており、こちら岸のすぐ左手にある「汲ン場」の水は、川底に沈んだ割れ茶碗の青い図柄をみせています。目を川面にそわせて上下させてもみました。が、そこには、腹をみせる一尾の白い浮き魚の影もなければ、死に際の魚がつくる波紋の小さな輪ひとつすらありません。

 何も──すると、私は、サイキロの鯉が死ななかったことで覚えた安堵の気持ちが、ゆっくりと艶を消していくのに気がつきました。

 毒は効かなかったのだろうか──私は笊をそこに置いて「汲ン場」におりて行きました。前にも書いたように、そこは米をといだり食器を洗ったりする場所で、魚がよく集まる所です。ですから、もし、私が流した毒が効かなかったとすれば、そこには魚たちがいつものように姿を見せているはずでした。

 足音をたてぬようにして近づいて行きました。が、足音よりも先に水に映る人影に、いつもならぱっと輪をひろげる魚の影が、その日には見当たりませんでした。そして、そのかわりに、「汲ン場」をはなれた流れの中ほどを、つつっ、つつっと藻から藻の蔭へと鋭く移り動く魚影が、いくつも目につきました。それは、藻の外に一刻も身をさらすことをおびえるようにも、あるいは藻の蔭に瞬時も留まるのをおそれるようにもみえる、落ちつきのない、あわただしさのものでした。

 いつもは、上流の藻の間から流れに身を()かせて近づいてきたり、あるいは、ゆっくりと川を横切って向こうの藻蔭へかえって行ったりしている「汲ン場」近くの魚たちです。それにくらべると、この、黒い稲妻の動きをみせる魚影は他所(よそ)の魚のようにもみえ、そして、確かに異変をしらせる動きのものでした。

 私はつい最近、ある女性の友人に、夕焼けの空を見ていると、からだじゅうの皮膚がひどく敏感になってしまいます。まるで愛撫をうけようとする(きわ)のように、と聞いたことがあります。魚たちは、流れの水に夕焼けのように拡がっていった毒のために、その皮膚をひりひりと痛めているのでしょうか。実際、「汲ン場」から戻って鯉に餌を投げたとき、波立つ生簀の囲いのふちに、幾尾もの小魚が白い腹をみせて浮かんでいるのに気付きもしたのです。

 私の流した毒はそれなりの効きめをはたらかせ、それなりの死魚を夜のうちに流し去っています。おそらく下流のどこかで大人たちは

『誰かが毒を流したごとある』

(しも)のことも考えんで、まあ』

 と(くや)み、幼い子どもたちは、その白い浮き物におびえの目を向けていることでしょう。ただ、川を堰かなかったせいで、毒が早々と流れてしまったのか、それ以上に、私がつぶした除虫菊の根が足りなかったのか、死をまぬがれた魚たちもかなり残ってはいるようでした。しかし、このことは、考えるとそれほど都合の悪いことではありません。なぜなら、魚がわずかでも残っておれば、私がした毒流しが露見することはありませんし、しかも、その残った魚たちは神経を痛めつけられてしまっているのですから。そういえば、いつか、「まほうびん」を使っていた餓鬼大将が

『誰か(かみ)のほうで毒でも流しよるのじゃろうか』

 と、びんに集まる魚の少なさを(いぶか)しがってつぶやくのを聞いたことがありました。

 とはいえ、気になることが全くないわけでもありません。それは、夕方までに大部の時間があるということです。その間に、魚たちはすっかり元気をとりもどし、かえって食欲を強めてしまうかもしれません。

「ようし」

 私は、前の夜からの私の仕業の結果が、夕刻の信行の「まほうびん漁」にすべて賭けられたように思い、人しれぬ緊張を覚えました。

 

 その日、サイキロの前庭から聞える悦ちゃんと信行の声に、私はあわてて裏木戸から出て行った記憶がありますから、私には、それまで外に出れない、家人に言いつけられた用事でもあったのでしょう。そして私にも、常識からくる安心と油断もあったようです。「まほうびん」を使うのに、日が沈む前後の(とき)を選ぶのは、村の普通の子どもにとっては常識のものでした。

 しかし、それ以外の時間に「まほうびん」を使ってはならぬという法はないし、それに、悦ちゃんは外国帰りの街の子でした。

 まだ陽があるというのに、信行は悦ちゃんにせがまれて「びん」を使い、とれる魚の少なさを(なじ)られているふうでした。

「そげん事を言うても、まだ時間が早いけん、無理たい」

 私がそこに行ったとき、信行は、めずらしく少し(おこ)った表情を見せていました。

「して、そげん何回もしておると、魚が慣れてしまうけん、いよいよの時にいけんごとなるッ」

「でも、さっきからだいぶ時間がたったわよ。まだ、駄目なの?」

 悦ちゃんは、言葉の終わりに私を見ました。どうやら、信行は、悦ちゃんが二度めか三度めの漁を促すのを、頑として(うなず)かずにいるようでした。私も、まだ少し早いと思いました。

 が、桜の根方で花びらを浮かべているバケツの水底には、十数尾のハヤやタナゴが泳いでいます。魚たちは、やはり元気をとりもどしているのです。ですから、時機を(たが)えねば「びん」いっぱいの魚がとれるのはまちがいないでしょう。その時機を、私は自分の口から言うのが厭でした。それどころか、これならもっと毒を強くしておれば良かったと、(くや)まれさえしました。

「早かごともあるし、もう良かごともある」

 私は悦ちゃんにそう応えながら、「古賀ぞう」の信行に、その時機がわかっていないことを願いました。が、信行は私の言葉にはまどわされず

「まだ早かよ、秀ちゃん」

 と落ちついています。

「早くしないと、私、夕ごはんになるわ」

「まだ、ごはんにはならん」

 信行は、悦ちゃんの夕餉(ゆうげ)の時刻まで知っているのです。

「あと、どのくらい?」

「もうすぐ、ばってん、いまは早か」

「じゃ、私がいない間に()っちゃだめよ」

 悦ちゃんは、それからあわてて家の中にかけこみました。信行をせかせながら、自分は手洗いに行くのを我慢していたらしいのです。あるいは、時機がくるまでどうしても信行が動かぬとわかって、急にそれに気がついたのか──。

 悦ちゃんが戻ってきてしばらくして、私たちは出かけました。信行が

「行こッ」

 と「びん」を持ったのは、私が思わず

「うんッ」

 と応えたほど、ほどよい陽翳りの時機でした。

 悦ちゃんがいっしょですから、下流の浅瀬を渡って向こう岸に出ました。「まほうびん」を使うには、こちら岸の川水は少し深すぎ、流れも動かなすぎます。餌を()かしながら、それをゆっくり下流に届けていく、適度な流れが必要でした。

「ここでは、もう、しないの」

 川辺を(さか)のぼっていく途中で、悦ちゃんが信行に声をかけました。見るとそこの川底に、「びん」を据えた跡がありました。それで、信行が、気の乗らない時機の漁は、そんな下流ですませていたことがわかりました。上流ですれば、餌が広い範囲に流されて、いざというとき、魚の食欲を刺激する効果がうすめられることを、ちゃんと計算しているのです。

「ここに漬ける」

 信行が選んだのは、魚の集まりが多いサイキロの汲ン場の少し上流で、藻がまばらになった砂地でした。そしてそこは、私たちが「まほうびん」を使うとき、必ず「びん」を据える場所でした。

 信行は、膝までの流れの中で、「びん」を両手に抱え、ゆっくり足で砂を掘りました。そうすると「びん」の据わりがよくなって流れに動かされなくなるばかりか、「びん」の底の丸窓が、魚の泳ぐ高さと同じになって、「びん」に入る魚の気持ちを楽にするのです。

 信行は、砂のにごりをたてぬよう要心して足を動かしていましたが、私たちに向ける顔には、自信と期待とをありありと浮かべ、嬉しくてたまらぬ表情で、前歯が一本かけた歯並びを見せていました。

「つめたい?」

 悦ちゃんが緊張した小声で優しく(たず)ねるのに、信行は黙ってかぶりをふり、ゆっくりとびんを底の方から沈めました。「びん」の中には一粒の気泡も残してはいけません。

 それから信行は、水音をたてぬように、しかし、大急ぎで岸に上がって来ました。

「今度は、うまくいくわねッ」

「うん」

 悦ちゃんには構わず、真剣な表情で川を観ていた信行が私に顔を向け、にこっと、私に合図を送るようにしてみせました。そのときには私も気がついていました。二三匹の小魚が、もう、下流の藻蔭から姿を現わし、流れに混ってくる餌の小粒を追って、体をくるくる回し始めていることに。

 その場に据えた「まほうびん」の魚の獲れようは、川から岸に上がってくるまでの、このわずかな間にわかってしまうものです。この間に、どんな小魚でも構わないけれども、とにかく魚が姿を現わしてくれば成功ですし、そうでなければ、獲れ高はしれています。

「行こッ」

 信行は、そこにかがんでいる悦ちゃんに声をかけました。いくら魚が腹を空かしていても、岸に人影があれば「びん」には集まってきません。

「こんどは、びん、いっぱいねッ」

 悦ちゃんは、ゆっくりたち上がりながら、それでも川面(かわも)から目を放さず、声も緊張に低くかすれていました。

「うん」

 信行の声も、魚をおどろかすのをおそれるように、しずんだものでした。

 が、その時、信行の声が、私には、妙に()りを()くしたものに聞えました。しかも、信行は、悦ちゃんにそう答えながら、私の方をちらっと盗み見したのです。

 私は、その信行の目に、一瞬の狼狽が通りすぎるのを見ました。そして、同時に、その信行のおびえた目の光は、私の頭の中に一尾の「ぎしねらみ」の姿をくっきりと映し出しました。それは例うれば、信行の頭をよぎった勢いのあまり、私の中にまでとびこんできたような成り行きのものでした。

 たしかに、信行に悦ちゃんへの返辞を躊躇させ、表情に一瞬のゆがみをつくらせたのは、信行のおもいを横切った一尾の「ぎしねらみ」であったに相違ありません。

 そして、結果は、信行がおそれたその通りのものになったのでした。

 私たちは、岸を畑の方に降り、土手の蔭に並んで腰をおろしました。待つ時間はほぼ二十分ぐらいの長さです。それより早く「びん」を上げれば、獲れるはずの魚を残すようになりますし、それより長く流れに据えておけば、ガラスの壁に沿ってだけ泳いでいる内部の魚たちが、しだいに泳ぎに慣れて丸窓の場所をさとり、外へ出て行ってしまいます。時計など持つわけのない子どもたちでしたから、その間合いをはかるのも、まほうびん漁のこつの一つでした。

 しかし、慣れない子どもには、この二十分ばかりの時間は途方もない長さに感じられますし、魚の集まりぐあいや入りぐあいも気になり、息苦しいほどです。まして、めずらしさいっぱい、期待いっぱいの悦ちゃんには、しまいまでじっとしておれるわけも、黙っておれるわけもありません。三分もたたないうちに、もう、

「まだ? ねえ、まだ?」

と、ひっきりなしに質ね始めました。信行は、時間をはかるのに、指を折りながら懸命に数を数えているふうでした。

「ちょっとのぞいていい? ねえ、秀彦さん。いいでしょう? だって、私、もう夕ごはんになるんですもの」

 しかし、信行が漬けたものですから、さすがに私もいいとは応えかねるのです。

「つまんないわ」

 悦ちゃんは、そう言って肩を落としてみせますが、すぐにまた目を光らせて、私や信行の表情をうかがいます。

 が、そのうち、私は、ふと、数を数えているとばかり思っていた信行が、指をくんだ両手をしっかりと胸に当てているのに気がつきました。その唇が、声をたてずにいそがしく動いていました。

「ゼス様を拝んどるんじゃね」

 私は、そう思ったとき、なぜか信行がひどく勝手すぎるように思え、厭な気持ちになりました。そして、ちょうど悦ちゃんが、

「のぞいていい?」

と質ねたのに、はっきりと頷きかえしました。

悦ちゃんは、這うようにして土手を上がり、足さきを信行の頭の上に残しながら、俯伏せの恰好で川に首をのばしていました。が、すぐにずるずるすべるように信行の横に降りてくると、早口に告げました。

「いっぱいよ、信行さん。びんが真っ白になってるわよ!」

 びんが真ッ白になっている──私の方を見た信行の表情は、いつも学校でみせている、意気地なしで卑屈な、「古賀ぞう」のそれに変わっていました。

 びんを餌汁で真っ白にするのは、あのあばれものの「ぎしねらみ」の他にはいないです。

 岸にあがって、悦ちゃんは「びん」を上げてくるように、何度も信行をうながしました。が、そこにうずくまって膝を抱いた信行は、その都度(つど)、あの、どうすればいいかとたずねるような困惑の目を向けるだけで、一向に動こうともせず、体をちぢこまらせるばかりです。

 ああ、とうとう、信行は元の信行に、「古賀ぞう」の信行、「キリシタンぞう」の信行にもどったのです。その姿を見やりながら、私は

「日本の神様が勝った」

 と、胸のすく思いがしました。

 白濁したびんの中で、外に出ようとあばれる「ぎしねらみ」が、黒い影でガラスにつき当たっています。

「いじわる!」

 とうとう、悦ちゃんは怒り出しました。

「信行さんって大嫌い。田舎の男の子って、大嫌い!」

 そして、涙いっぱいの目で信行と私を睨むと、ひとりで下流の浅瀬の方へ歩いていきました。

 

「あげて来いや。もう、悦ちゃんはござらぬのじゃけん、(おか)しゅうはなかろうもん」

 私は、信行に親切まがいの声をかけました。が、信行は黙って私を眺め、また、川面に顔をもどすだけです。

「びん」の濁りがうすれ、内部(なか)の「ぎしねらみ」が形を見せ始めていました。水の澄みように安心したのか、あるいは、びんの外に出るのを諦めたのか、または、周りに一尾の魚もいないことに満足したのか、彼はそれまでの激しい動きを鎮め、「びん」の中心で静かに鰭を動かしています。

 春の川辺の夕冷えが、からだを包んできました。川向こうのサイキロの桜の花の周りの空気が艶を消しています。

「おれ、帰るけんね」

 私は、まるで反応を失った信行を残して家に帰りました。

 おれのせいじゃないもん──その日、家につくまで、川辺に残した信行と、それから自分自身とに、そう言いつづけてきた自分が、いま私に鮮やかによみがえってきます。

 おれのせいじゃないもん、おれは何もしてないもん──。

 

「信行ィ。のぶゥ──」

 日が暮れてしまって、サイキロの生簀のあたりで信行の母親の声が、二三度おきました。

 川から帰って、家の夕飯のまえに見たときは、うす暗い川辺にかがんだ信行は、墨絵の中の童像のように見えていましたが、そのままサイキロの母親のところには戻らずにいたのでしょうか。

 悦ちゃんが、次の春にもサイキロに来たかどうか、その後の悦ちゃんを私はよく憶えておりません。ただ、あの「再起楼」がその屋号にも似ず、戦争で商いを閉じたあと、今では人の住まない廃屋になっていることは、いつかの郷里からの便りで知りました。

 古賀の信行はどうしているだろう──と思います。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/06/07

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三原 誠

ミハラ マコト
みはら まこと 小説家 1930~1990・10・21 福岡県三井郡に生まれる。毅然と野にあり、最期まで同人誌「季節風」に優れた作品を次々発表していた。

掲載作は、1980(昭和45)年4月「季節風」70号に初出の生涯代表作の一つ。独特のコクと丸みで惹きつける物語りは、九州の一角に隠れキリシタンとして育った少年の哀歓をとらえ、一編の風土風景詩を奏でて間然するものがない。渋みと甘みのかかる秀作を野から摘んで招待できるのは「ペン電子文藝館」の喜びである。

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