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「城の崎にて」試論―〈事実〉と〈表現〉の果てに―

   一 前提 ―〈経験〉と〈言葉〉

 

 日常の納得できる論理に従えば、物事は実際に〈経験〉しなくてはわからないし、また本当に〈経験〉した人の〈言葉〉だからこそ重さも厚みも感ぜられる。それに比べて〈言葉〉は何と軽佻なことか。思ってもいないお為ごかしの〈言葉〉が、心配そうに顔を曇らせながら、赤い舌をちらりと見せて素通りしていく。

 生活者が肌で感じとり、信ずるに価するものとは、年季の入った"たたき上げ"であり、〈経験〉の裏打ちである。机の上の書物でいくら〈知識〉を貯蓄して来たところで、現場の一つひとつの具体的対応と処理には間に合わない。〈知識〉などという言わば紙の刀を振り回してみたって所詮たかがしれている。確かに日々の生活においてのリアリティーとは、〈経験〉の重さであり、〈経験〉者によってこそ語られる〈言葉〉である。

 あるいはまた、例えばこんなことがある。自分に最も近しい者の死。それはどうあっても認められないものであり、〈言葉〉などではとうてい言い表すことのできない事態であるはずだ。それに比べれば、たかが一匹の蜂や鼠の死など、比較以前の問題であろう。仮にどちらの死の方が深刻か、というつまらぬ問いの前に立たされたならば、年端のいかぬ子供でさえも、事の軽重を判断できよう。

 正に〈経験〉は〈言葉〉などよりも遥かに重く、また切実な〈実体験〉は"ぬるま湯"のような〈経験〉よりも勝れて深いものだ。これが生活者たる僕らの素直な生活信条であり、またその〈言葉〉のリアリティーの保証でもある。

 しかし、これがひとたび〈表現〉の世界に入るや否や、情況は一変する。例えばテレビのミステリー番組をみるがよい。連続殺人がリズミカルに運ばれ、二時間の中で三人もの人が死ぬ。だがその死の何と軽いことか。事情は一文一段落の余白の方が多い一山いくらの推理小説とて同じことである。殺人事件が多ければ多いほど、内容が面白くないのは何故だろうか。

 それとは逆に、一匹の犬の生長と、飼い主の愛情と、彷徨の末の死を克明に撮った映像〈表現〉があったとする。雪の日、犬はかつての飼い主の胸に抱かれた夢をみながら、力尽き、白いものに包まれつつ、静かに息絶える。

 三人の人の死とたかが一匹の犬の死。〈現実〉の論理に従えば、人の死の方が比較にならぬ程重いはずであった。しかし、それは〈現実〉において通用する感じ方なのであり、一旦〈表現〉の世界に入っては、人の死よりも、たかが一匹の蠑螈(いもり)の死の方が深い場合もあるのだ。

 また〈経験〉についても同様である。実際に〈経験〉したことを書いたから重い手応えがある、というのも十分すぎる程疑わしいことだ。一度もその場所へ行ったことがなかったとしても、現地での生活のマニュアルになるような作品があったならば、それはどう説明したらいいのだろうか(三好徹『風塵地帯』参照)。むろん、そこには余人には窺えない孤独な勉強があるはずだが、〈経験〉の有無が作品のリアリティーを支えているわけではない。

 想像することもできない〈経験〉をし、それを書き綴った多くの戦争文学がある中で、依然として大岡文学が読まれている理由は何か。もし〈経験〉を問うのであれば、作者の〈経験〉など"ぬるま湯"にしかすぎない、という人もいるであろう。では氏より重い体験をした人が、それ以上の作品を生み出せたのか。日常の論理からすれば、〈体験〉が切実であればあるほど、〈言葉〉の重みは増すはずである。とすれば、数十年も密林で帝国軍人として"戦争"を続けていた人が、その〈体験〉を書くと、『俘虜記』や『野火』以上の作品となるのであろうか。しかし残念ながら、これらの作品の持つ現実感は、〈実体験〉にあるのではない。それは作者の〈体験〉の意味を追求する強靱な意志力と、作品ととりくむ構想力、そして苦しい〈言葉〉との闘いが、作品世界のリアリティーを保証しているのだ。

 つまり作品という〈表現〉の世界にあっては、一匹の虫の方が人間の死よりも哀しい場合があり、半死の重傷を負うよりも、一本の指の傷の方が切実な場合がいくらでもありうるのである。

 ところで何故、かかる〈経験〉と〈言葉〉、〈事実〉と〈表現〉のねじれた関係など、今更の如くに取り出して見せねばならぬのか。それは、志賀文学を論ずるからに他ならない。つまり、まず"予洗い"をして、ほこりまみれの表面を洗い落とさなければならないからである。

 ではその〈ねじれた関係〉とは何か。

 

   二 発端 ―〈事実〉と〈表現〉

 

 この作品を言挙げする際、いつも決まって引き合いに出されるのは、お定まりの「創作余談」(1)(『改造』、1928〔昭3〕・1)である。

 「『城の崎にて』これも事実ありのままの小説である。鼠の死、蜂の死、ゐもりの死、皆その時数日間に実際目撃した事だつた。そしてそれから受けた感じは素直に且つ正直に書けたつもりである。所謂心境小説といふものでも余裕から生れた心境ではなかつた。」

 そもそも「事実ありのまま」という概念と「小説」というものは重なるものなのだろうか。ともあれ、この「創作余談」、よく読んでみると、いくつか不思議な点に気づく。作品においては「蜂」「鼠」「蠑螈(いもり)」の順に並んでいるにもかかわらず、なぜ「鼠の死」を先に持って来ているのだろうか。またそれと関連するが、草稿「いのち」では蜂からすぐ蠑螈(いもり)に移り、鼠がないのはなぜか。あるいは「数日間」というのであるから、普通に読めば、3~4日、長くても4~5日程度を意味しているように受け取らざるを得ないのだが、草稿の時間はこの「数日間」をはるかにはみだしてしまうのはどうしてなのか。つまり、「蜂の死」だけでも既に4~5日かかっているからだ。更に「事実」を「素直に且つ正直に書」いた際の「心境」とは、執筆時点のそれを言うのであろうが、それは「事実ありのまま」から「受けた感じ」と同じと考えていいのか、どうか。例えば「蠑螈(いもり)」を「十年程前」に「蘆の湖(あしのこ)」で見た時の感想が思い起こされているが、この「十年程前」とはいつを起点にした「十年程前」なのか。『年譜』によれば、「蘆の湖」に滞在したのは明治40年(1907)である。ここから10年程のちとは大正6年(1917)である。志賀が城崎に赴いたのは日記からも確認できるように大正2年の10月であり、大正6年とは草稿「いのち」を改稿し『白樺』に「城の崎にて」として発表した年であった。すなわち、「十年程前」に「蘆の湖」で「蠑螈(いもり)」を見たのは新たに稿を起こした、初出「城の崎にて」執筆時点から目算した「十年程前」なのではなかったのか。

 「創作余談」だけを眺めてみても、疑問は次から次に沸き起こってくる。何かある"出発点"、いわばそもそもの"前提"からもう一度問い直さない限り、これらの疑問は「事実ありのまま」に書いたというどの作品においてもつきまとい続けるのではなかろうか。従ってまずは「事実ありのまま」について検討を試みよう。

 

 「自分」は「致命傷になりかねない」傷を負い、その「後養生」をするという明確な目的を持って、「一人で」「静かな」「淋しい」温泉へやって来ているはずだった。しかし残されている大正2年の『日記』(2)とのはなはだしい落差はどう考えるべきなのだろうか。

 10月14日(火)夜8時発の汽車に乗り、途中小田原近くの国府津(こうづ)から里見_といっしょになり、翌15日10時頃大阪着。それから3日間「後養生(あとようじょう)」に行く人間とは思えない程、実に「よくもよくも遊むでまた夜になつた」(10月16日)生活をしている。この間の経緯については、本多秋五氏の『志賀直哉』(上)(3)が詳しく言及しているので、ここでは省く。が氏もあきれているように、

 「一五日に大阪についてから三日間の不眠不休の遊びぶりを見ると、これが大怪我をして後養生のために温泉へ行く人とは思えない。」 

という〈事実〉はどう考えたらいいのであろうか。

 さらに奇妙なのは、10月17日、すなわち城崎へ行く前日の記事である。

 「十時頃起きた。京都行きの計画をしてゐたが、イヤになり、又九里を呼ぶ。夕方柴藤といふ川魚の船料理屋へ行く、而して、七時半の汽車で二人に送られて、福知山へ出発、疲れ切つて、汽車でねむつた。もう少しで乗り越す所だつた。」

 文中「柴藤」とは、1713年(正徳3)創業、時の将軍家へ獲れた魚を献上したという川魚商であり、現在も大阪市の中央区高麗橋で営業している老舗「柴藤(しばとう)」を指しているかと思われる。また「九里」とは学習院初等科からの友人、画家の「九里四郎」のことであり、「二人」とはその九里と、志賀といっしょにきた里見のことであろう。小説世界においては、あたかも「一人で」しかも直接「後養生」にでかけたかのようにしか書かれていないが、〈事実〉はかくのごとくである。

 が、問題は「京都行きの計画をしてゐたが」気が変わり、福知山泊りで城崎へ行ったことである。つまり、この旅は行き当たりばったりなのであって、「後養生」という明確な目的をもって、怪我の後、「一人で」城崎に直行して来たわけではないのだった(4)

 「城の崎にて」の世界は、「静か」で「落ちついた」「淋しい(4)秋の山峡」の町が舞台となっている。しかし、志賀が城崎に着いた時は『日記』によると次のようであった。

 「十月十八日(土)

起きぬけに出発 七時半の汽車にのる、

沿道水害、城崎も水害かなりに烈しく町の中央を流れてゐる、川の橋大方流れてゐた。ゆとう屋といふ家を断はられて三木屋に行く、」

「町の中央を流れてゐる」のは運河のような大渓川(おおたにがわ)であり、城崎駅近くの川下で、大きく広い円山川(まるやまがわ)に合流しているのだが、一体この時の「水害」とはどのようなものであったのか。

 『神戸新聞』(5)(最終版、1913〔大2〕・10・18付)によれば、下の如き有様だった(適宜、句読点を補う。また総ルビをパラルビに改めた)。

  ●亦も山陰線不通

     ▲開通の見込立たず

十六日夜来の豪雨は、鉄道各所の被害浸水等、少からざる由なるが、殊に山陰線方面に於て甚だしく、同線久谷(くたに)浜阪(はまさか)間の筑堤崩壊三ケ所五十坪に及び、其間三十(チエーン)は十七日正午より列車不通となり、又、居組(ゐぐみ)岩美(いはみ)間も切取崩壊し、附近の浸水激しく、此れまた列車不通となり、上り列車は何れも鳥取より引返し、鳥取岩美間に小運転を行ひつゝあるが、一方、円山川の増水激しく、沿川の田畑至る処、泥海と化し、惨憺たる光景を呈しつゝあり。右に就き神管当局にては、夫々(それぞれ)課員技師を派遣して、応急工事を急ぎつゝあるも、夜に亘るも降雨止まず、従つて開通の見込立たざるも、不通区間の徒歩連絡等に付き、種々手配(てくば)り中なりと(豊岡電報)

「鉄道各所の被害浸水」は「殊に山陰線方面に於て甚だしく」「列車不通となり」、「一方円山川の増水激しく沿川の田畑至る処泥海と化し惨憺たる光景を呈しつゝあり」という車窓の眺めだったようだ。

 また同じ日付の『神戸又新(ゆうしん)日報』(6)もやはり「▼山陰線不通」という小見出で、城崎手前の「豊岡付近も山崩れの為め、直通困難となりしも、其後天候恢復し、間もなく開通すべく観測されたり」と伝えている。

 どうやら志賀が「京都行き」をやめ、山陰方面の福知山(ふくちやま)へと向かった大正2年10月17日という日は、前日夜来の豪雨の結果、山陰線はひどい被害をこうむっていたようである。

 では志賀が福知山から城崎へ行った翌18日、汽車は動いていたのか。あるいはまた、城崎はどうだったのか。『大阪朝日新聞』(神戸附録)(7)(大2・10・21付)に次のような記事が出ている。これによれば、

 「城崎町の被害最も甚だしく、浴槽は(こう)の湯を除くの外悉く浸水、家屋も全町の八分通り迄浸水、中には床上(ゆかうへ)尺余に及びたるもあり」

というほぼ全滅に近い有様であった。さらに

 「油筒屋(ゆとうや)前街上は、水、臍下(ほぞした)に及び、(しか)も急流なるが為、これより前進する能はず」

とまで言っている。志賀の『日記』に「ゆとう屋といふ家を断はられて」とあるのも当然で、この日「油筒屋」は客を泊めるどころの騒ぎではなかったろう。記事は続けて次のように述べている。

 「諸橋殆ど流失し、一消防夫の、橋上に警戒中、其儘流失せんとするを救はんとして、一巡査が(かへつ)て水中に落ち、流失橋梁に挟まれて、(まさ)に圧死せんとして、(はづ)かに免れたる奇劇(きげき)もあり」

この「諸橋殆ど流失」の事実は志賀『日記』の「町の中央を流れてゐる、川の橋大方流れてゐた」という記述を裏付けている。さて、では汽車はどうなっていたのだろうか。

 「十七日下り列車、城崎下車客は、尽く豊岡(とよおか)に下車宿泊したり。列車は十八日、城崎竹の浜間応急修繕を施し、午前十時香住(かすみ)発上り列車より開通したり」

文中「竹の浜」とは城崎から一つ下った「竹野駅」近くの"信号所"か、あるいは駅付近の通称の地点かと思われる(8)。ともあれ、17日、志賀は大阪を発って福知山に下車する。仮にそのまま城崎に行こうとしても豊岡までしか乗ることはできなかったのだった。更にこの記事は列車の動き出したのが「午前十時香住発」の「上り」からであることを告げている。福知山を「七時半の汽車」で出てどうにかその日城崎に着くことはできたのだろうが、しかし危ないところだったようだ。

 このように見てくると、〈小説〉「城の崎にて」の「稲の穫入れの始まる頃で、気候もよかつた」、「静か」な「淋しい秋の山峡」の町のイメージといかにかけ離れているかがわかってくる。なぜ、洪水の爪痕生々しく、おそらくその復興におおわらわであるはずの町の表情を消し去らねばならなかったのか。例えば、「鼠の死」のエピソードで、「橋だの岸だのに人が立つて」鼠を見ているのだが、「諸橋殆ど流失」(前掲『大阪朝日』)した中で、「橋」は一体どうしたのだろうか。むろんそれ程大きな川ではないので、急場しのぎの板ぐらいはどうにか架けられていたかもしれない。が作品の世界においては、洪水があったことはおろか、「橋」の流出などは少しも感じさせないようにしている。なぜか。それはこの世界が静謐を必要としているからであり、洪水の跡で騒然となっている〈現実〉の温泉町はふさわしくなかったからではなかろうか。

 

 この短編〈小説〉を、残された草稿「いのち」(推定大正3年執筆)や初出『白樺』(1917〔大6〕・5)とわずかに見比べてみても、如何に〈事実〉と異なっているかがわかる。

 既に指摘されているように、玄関近くの「八つ手の花」も次の如くである。

 「白い薬玉のやうな花を一杯つけてゐる」 ―(草稿「いのち」大3)

 「植込みの八つ手の花が丁度満開で」   ―(初出『白樺』大6)

 「植込みの八つ手の花が丁度咲きかけで」 ―(初版『夜の光』大7)

 まず「白い」色を消した。そして次に「満開」のイメージを「咲きかけ」に変えた。それはなぜか。おそらく、「草稿」ならびに「初出」の「満開」が〈事実〉だったかと思われる。が、「八つ手の花」は一般的に晩秋から初冬にかけて咲く(9)。しかし、この作品での時間は「稲の穫入れの始まる頃で、気候もよかつた」、そんな秋の季節として設定されている。とすれば、時折凩が吹き、そろそろ寒さの感ぜられる日本海近くの町の晩秋や初冬であってはならなかった。つまり、まだ寒さの来ない前の秋の〈時間〉に戻して〈設定〉し直さなければならなかったように思われる。もし冬近い晩秋であれば、「蜂」の活動にも影響するであろうし、また桑の木にも枯葉がぶらさがっているかもしれない。実際草稿には「黄く(ママ)なつたもろい葉」も出て来ている。しかし季節は「気候」のいい「秋」であり、暑さの残る初秋でもなければ、散歩には不向きな晩秋でもないのだ。

 このように〈事実〉であるがゆえに、かえって作品という〈表現〉世界の、いわば〈体系性〉をこわし、不自然になることは応々としてあるものだ。それを避けるための改変はこの「城の崎にて」においても例外ではなかった。

 では次の箇所の改変はどうであろうか。すなわち蠑螈(いもり)に石を投げるエピソードにおいてである。

 「からだからたれた水が白く乾いた石へ一寸程流れてゐる」 ――(初出『白樺』)

 「体から滴れた水が黒く乾いた石へ一寸程流れてゐる」   ――(初版『夜の光』)

草稿では色については何も言っていないが、「いもりは坂になつた岩の途中に尾を上に流れの方を向いて」いることになっている。ごつごつした「岩」から、なめらかな語感の「石」に変えていることがわかる。それはいいとしても、なぜ初出の「白」から初版の「黒」へと「ありのまま」であるはずの「事実」を"改竄"しなければならなかったのだろうか。恐らく理由は次のようではなかったのか。初出にあるように「白」い「石」の上に「真黒な」「いもり」がいるとしたら、いくら「薄暗くなつて来た」中で「ねらわなかつた」としても、まるで的の真ん中に向かって投げたかのようになってしまう。つまりその目立ちやすさは、「偶然」にあたったというシチュエーションを効果の薄いものにしてしまう。したがって、ここでは「薄暗」い中に「黒」い「石」があり、そこに「黒い」生き物がいなければならなかった。すなわちそれは「偶然」に当たったことを〈表現〉として、より納得させるための"改竄"と考えるべきであろう。

 また「蜂」は草稿では死んでから、「四日も五日も左うして其所に落ちてゐた」と言われている。おそらくはそれが実際の「ありのまま」だったのかもしれない。しかし時には風も吹くかもしれないのだから、死んだ蜂がそんなに長い間そこにそのままであることは少し不自然になるかもしれなかった。そこで、初出では「三日程」という適度な日数に縮めることにした。そう〈設定〉し直すことによって「創作余談」の「皆その時数日間に実際目撃した事だつた」という時間幅とどうにか重なることになる。しかし、草稿においては、「四日も五日も」蜂はそのままであり、なおかつそれから「二三日した或夕方」「いもり」を見つけることになっているのだから、先述したようにどうしても「創作余談」の「数日間」をはみ出さざるをえなくなってしまっている。

 

 以上のわずかな例を通してみても、〈表現〉としての「城の崎にて」の世界は、〈現実〉の〈事実〉と異なった点が認められる。これはどう考えるべきなのだろうか。――作品を読むという時、そして感動を覚えたという時、それは作者の〈体験〉の故にリアリティーがあると見るのではなく、作品の〈表現空間〉をより効果的にならしむるために、一つひとつのエピソードが、そして一つひとつの言葉が〈設定〉として置かれていると読むべきなのではなかろうか。こうした、作品に接する態度を〈表現読み〉(10)と仮に呼ぶとする。と、この〈表現読み〉から改めて「城の崎にて」を見た場合、どのような世界が拓けてくるのだろうか。

 

   三 展開 ―〈表現〉の構造

 

 先に述べた〈表現読み〉、すなわち〈設定〉された世界として読んでみると、この作品に付与された〈構成〉は、きわめて意図的であることがわかる。

 まず「蜂の死」は宿の、「或朝の事」として提示される。そして「泥にまみれて何処かで凝然としてゐる」、「死骸は凝然と其処にしてゐる」と重ねて述べられ、それは「如何にも静か」であり「その静かさに親しみを感じ」てもいるのである。さらに「范の犯罪」に言及し、その妻が「殺されて墓の下ゐる」というイメージも付け加えている。これらの言葉は、遠藤祐氏(11)も述べているように、

 「この地面に転がって『凝然と』動かぬ蜂のイメージは、もちろん単独なものではあるまい。その下には前の場面の死んだ自分、土のなかに『青い冷たい堅い顔をして』何ものともかかわりなしに横たわる姿が伏在しているはずである。」

という指摘は間違っていない。ただ、もう少し詳しく見れば、「自分」が「今頃は青山の土の下に」横たわるだけでなく、「祖父や母の死骸」と言うように、蜂の「死骸」と同じレベルの言葉を使っている点も一つあげることがきよう。また最後の場面でも「死んだ蜂」は「土の下に入つて了つたらう」と再度重ね合わせの確認を行ってもいる。すなわち、この「蜂の死」のエピソードは「自分」の〈死後の安らぎ〉を蜂の死によって表象していると考えられる。そして大事なことは、何が原因で、またどういうプロセスを経て死んだかは一切書かれず、まず〈死後〉のイメージが語られている点であると思われる。

 次に「鼠の死」は人の出歩いている「ある午前」の、宿からそう遠くない場所に〈設定〉されている。そして「鼠」の「一生懸命」に「助からう」と「努力を続ける」姿を、「自分」の「助からう」と「鼠と同じ努力」をした「自分」にオーバーラップさせている。ここでは〈死の直前のもがき〉が語られている。つまり城崎滞在当時の『日記』(大2・10・30)にあるように捕まった鼠が「竹クシ(初出『白樺』では「魚串」)をさゝれて」それから「川へなげ込まれた話」ではなく、また死んだ後の姿でもなく、「自分」が見た時には既に鼠は、「どうかして助からう」とあがいている、そのような〈死の直前の姿〉である。

 さらに三つ目が「蠑螈(いもり)の死」である。それは「或夕方」、宿から遠く離れた小川の上流で起こっている。むろんここでも「如何にも偶然」の「蠑螈(いもり)にとつては全く不意な死」を前にして、偶然の事故により「跳飛ばされた」「自分」と重ね合わせているのは前の鼠の場合と同じである。しかしそれは「蠑螈(いもり)の身に自分がなつてその心持を感じ」「生き物の淋しさを一緒に感じ」てまでいるのである。このエピソードでは、死の直前の長いもがきでもなく、死後の安らぎでもなく、〈死の原因〉そのものがクローズアップして描かれている。

 ところで、蠑螈(いもり)との一体化をより効果的にならしむるため、わざわざ、「十年程前によく蘆の湖で蠑螈(いもり)が宿屋の流し水の出る所に集つてゐるのを見て、自分が蠑螈(いもり)だつたら堪らないといふ気をよく起した。」

ことを記し、「蠑螈(いもり)に若し生れ変つたら」どうするかと考え、「蠑螈(いもり)を見る事を嫌つ」ているという一節を挿入している。

 この点について服部達氏は『われらにとって美は存在するか』(12)の中で、「作者イコール主人公」とした上で、

 「いもりは、それが現在の感覚の働きによって認識の視野に入ってくる瞬間にさきだって、ある意味ですでに認識せられたものなのである。(…)もしそんなふうに解釈しないとすれば、現在の進行を着実にたどっているこの文章のなかで、いきなり十年前の認識の叙述が挿入される部分は、きわめて唐突な、むりな書き方のような印象をあたえるだろう、という仮定は、おそらくわたしのそうした解釈を証明してくれよう。」

と述べ、「むろん、これは必ずしも作者が意識してそのような配慮を行った、ということを意味しない」と但し書きをつけている。

 「同一化」する前に「すでに認識せられたもの」というのは優れた見方ではあるが、はたして作者の無意識であったかどうか。

 続いて紅野敏郎氏は『現代文学講座 小説4』(13)の脚注で、

 「前後の脈絡からみて、この部分はいささか唐突である。しかし、一○年前の芦の湖での体験が、突然作者の心に浮かび、それを忠実に書いたものと思われる。」

と読んでいる。本当に「唐突」なのだろうか。

 また、須藤松雄氏も『近代文学鑑賞講座 第10巻 志賀直哉』(14)で、

 「蠑螈(いもり)を発見したところ。その死ぬところ。これらの描写が見事なので、中間の、蠑螈(いもり)に対する好悪を述べた箇所が邪魔のように感じられる。しかし、すべてのものに、まず好悪の感じを起こす根本的な傾向から、作者としては、ごく自然にこの一条をしるしたのであろう。」

という。何故かくも〈事実〉にこれほど引きずられなければならないのか。ここでこの小論があえてこだわっているのは、ただ単なる数行の解釈を巡ってではない。もっと本質的な、何か、である。

 

 さて、以上の先行論を受け、遠藤祐氏は『日本近代文学大系31 志賀直哉集』(15)の「頭注」で「文脈からいって、前後とつながらない点がもんだいになる」といい、さらに「補注」でも

 「直哉が自己の実際に感じたとおりを書こうとする傾向をもつことは、他の例に徴して明らかだから、紅野注に従いたい。」

と述べている。

 しかし果たしてそうであろうか。ここは、以前蠑螈(いもり)をどれだけ「嫌つ」ていたか、例えば「自分が蠑螈(いもり)だつたら」隣の蠑螈(いもり)と肌を触れ合わなくてならないその嫌悪感を語ることによって、蠑螈(いもり)と自分の距離が如何に大きく離れていたか、を確認しておかなければならなかった、大事な一節のはずなのだ。そのため、わざわざ執筆時の大正6年(1917)からちょうど「十年前」の明治40年(1907)の箱根行(『日記』明40・8・4~20(16)の項、および「手帳8」(17)、参照)での思い出を挿入しておく必要があったのだと思われる。志賀の城崎での体験は大正2年(1913)の10月だったことは『日記』により、すでに確認したことである。「創作余談」に言う「実際に感じたとおりを書」いたとしたのならば、それは城崎で遭遇した体験ではなく、執筆時の時点における「一○年前の芦の湖での体験が、突然作者の心に浮かび」あがったと考えるべきであろう。つまりは何も「創作余談」の「それから受けた感じ」をそのまま「素直に且つ正直に書」いていると読む必要はどこにもないのである。

 

 さて、以上三つの死の在り方を眺めてみると、不思議な配列に気づく。これら三つのエピソードの順序は緻密な計算の下に置かれているようなのだ。 

 一つには、三匹の小動物の死について、それぞれ投影させている「自分」の姿とは、「蜂」は〈土の下の死後の安らぎ〉であり、「鼠」は〈死の直前のもがき〉であり、また最後の「蠑螈(いもり)」は〈死の原因としての偶然の事故〉である。それは「自分」が多分にありえたであろう「死」のプロセスが時間を遡らせる形で置かれているのではないか。つまり、「死後」から「直前」、「直前」から「原因」、と時間のフィルムを逆に回していると考えられる。

 またその場所も「蜂」は「宿」、「鼠」は「宿近く」、そして「蠑螈(いもり)」は「遠く」へと、その空間的距離を次第に遠方へと伸ばしている点も注目されよう(18)

 さらに、この空間的距離に反比例して、三匹の小さな生き物に観念的に接近する距離が徐々に縮まり、最後には全く同一化してしまうことも見逃すべきではなかろう。「蜂」の時にはただ「土」や「死骸」のイメージでぼんやりと関係付けていた。「鼠」では「同じやうな」「そう変らない」という言葉で結びつける。それが「蠑螈(いもり)」となると「蠑螈(いもり)の身に自分がなつて」同一化している。ここでは距離は全くない。

 では物語にそっての時間はどう変化するのか。これも「或朝」から、人の出歩く「ある午前」へ、そして「或夕方」へと見事に推移するように布置されている(19)

 

 ところで、そもそもこの物語は「夕方」から始まり、「夕方」で終わる枠組みを取っていはしないか。草稿「いのち」で「いもり」を見つける散歩の場面に次のような箇所がある。

 「二三日した或夕方自分は温泉寺といふ寺のある方に散歩に出た。町を出端づれると自分は寺の山門を左手に見て、細い清い流れに添ふて、平らな路を北の方に歩いていつた。丁度かり入れ時で、田で働いてゐた男や女が稔つた稲藁を山に背負つて帰つて来るのに出会つた。山は紅葉し始めた。流れはさゝやかな響を立てゝゐる。自分は静かな心持で、所々に立留つた。流れの潭をなす所には山魚(やまめ)の群がゐた。其あるものは快活に而して軽快に泳ぎ回つた。水底には大きな水蟹がうづくまつてゐた。」

改めて読み返してみると、これは殆どそのまま定稿「城の崎にて」冒頭の散歩の部分に使われていることがわかる。ただし、定稿の「一人きりで誰も話相手はない」孤独な状況に置くために、働く人々に「出会つた」り、華やかな「紅葉」やうれしそうに「快活に而して軽快に泳ぎ回つ」ている「山魚」を出してきてはならなかったと思われる。問題は先の引用にすぐ次の一節が接続していることである。

 「自分は何所でゞも此所から引返え(ママ)さうといふ気にならなかつた。流れを逆上つて十二三町も来ると其所が汽車の踏切りで、直ぐワキにトンネルの入口があつた。踏切りを越えると凸凹に石の顕はれた山路になつた。流れは急になつて所々で小さい滝を作つてゐた。青白い薄暮と冷々とした山の気が身にせまつて来た。家もなく人もゐなかつたが、それでも僅かな平地には何所にも畑が作つてあつた。畑のふちには、大きな桑の木が必ず何本か立つてゐる。風の吹く度に其黄くなつたもろい葉は枝を離れてパラパラと落ちた。然し青い葉もマバラには残つてゐた。」

そしてこのあと、「一疋のいもり」を見つける場面へと続いている。このように草稿と比べてみると、草稿の上流へと遡っていくある夕方の散歩の部分を切り取り、初出「城の崎にて」の前と後に分けて持って来ていることがわかる。そのことにより、この作品は「夕方」から始まり、「夕方」で閉じられる構造を持つことになった。

 なぜ、夕方、しかも、秋の夕方、でなければならなかったのか。「好人物の夫婦」(大6・8)にしても「深い秋の静かな晩」が冒頭におかれ、「小僧の神様」(大9・1)も「秋らしい柔らかな澄んだ陽ざし」から始まり、「日暮間もない時」に「A」を登場させている。また『暗夜行路』の「序詞」(大10・1)においても「ある夕方」に祖父に出会い、さらに屋根に上って母に叱られる時間も「秋の夕方の事」とされ、「第一部」(同)もそれを引継ぎ「秋」から話を進めている。とすれば、「城の崎にて」で、秋の夕方、から始め、同じく夕方に終わるという〈時間設定〉は、たまたまなされたのではなく、ひとつの必然性の結果選び取られたと考えていいのではなかろうか。むろんその必然性とは、「淋しい」「静かな」「薄暗」さを作品世界が要求した結果である。

 そしてこのことは、同時に「自分」を「一人で但馬の城崎温泉へ出掛け」させ、「ひとりきりで誰も話相手はない」という場所に置かざるを得なかった。『日記』に窺えるように、殆ど毎日「玉突き」に出かけ(10月19日、21日、22日、23日、24日、27日、11月5日、6日)、「義太夫」を聴き(10月25日、26)、また「茶屋」で、「芸者」をあげている。

 「十月二十八日 火

午后、何とかいふ茶屋にいつて芸者を呼むんで唄をきいた、思つたより上手に何でもやつた。そのかはりカナリ我流らしかつた。師匠がなくて、姉さんといふのから段々に習ひ伝へて来るので壊れて来るらしい」

しかしこれらは切り捨てておく必要があった。つまり、ここでは、町の人との接触や玉突き屋での会話、ましてや「芸者」を呼んで遊んでいたことなどは一切省かれねばならなかったのだ。そうすることによって始めて、孤独な「自分」、「一人きり」の「自分」が形象化されることになる。このことと関連し、この作品の中にある〈一〉対〈多〉という関係のあることも指摘されよう。つまり、「一疋の蜂」対「他の蜂」、すなわち「一つ残つた死骸」対「巣の蜂共」といった対比である。それはまた次の場面でも「一生懸命」の一匹の「鼠」対石を投げる「見物人」たちという図式であり、桑の葉のエピソードにおいても「或一つの葉だけが」「その葉だけが」取り出され、〈一〉あることが強調されている。蠑螈(いもり)もそうなのだが、これらの小さな生き物たちは、いずれも「一匹」で死んでいくのであり、そこに孤独な一人だけの「自分」の影が投げかけられているのは確かなことだ。

 

 このように見てくると、この作品は、勝れて緻密に計算された〈構成〉を持ち、創作は可能なまでに意図的であることがわかる。もしかしたら、「創作余談」で図らずも「鼠の死、蜂の死、ゐもりの死」と言ってしまったように、「鼠の死」の方が先だったかもしれないのだ。むろん作品に述べられているとおりの順に〈事実〉があったとしてもそれはそれでいい。しかしその〈偶然の事実〉を、〈表現の必然〉にまで構成し直し、形象化するのは作家の努力と才能とそして感性である。もうそろそろ、「事実ありのまま」の「小説」などという"迷信"の呪縛から解き放たれてもいいのではなかろうか。

 

 

   四 収斂 「死の国」にて

 

 志賀直哉という作家は一字一句も無駄にしない作家と言われている。もしそれが本当だとすれば、「三週間以上―我慢できたら五週間位居たいものだ」という心づもりが、なぜ、

「三週間ゐて、自分は此処を去つた。それから、もう三年以上になる。自分は脊椎カリエスになるだけは助かつた。」

と記さなければならなかったのか。つまり、「五週間」は「我慢」できなかったことになるのだが、なぜそんな一節を冒頭に入れる必要があったのだろうか。さらに末尾に来て、突然今までの話は「三年以上」前のこと、と語りの現時点を明示する必要はどこから来るのだろうか。この末尾の一句は、まるで"生還"した報告のようにも見えてくる。

 ところで今村太平氏の『志賀直哉との対話』(20)は「桑の葉」の箇所に着目し、「黄泉の風景」という面白い読み方を暗示している。これに対して重友毅氏は、反論にならぬ反論(21)をしているが、しかし今村氏のサジェスチョンの意味するところは奥深い。

 そんな印象を受けるのは、多分いくつかの連想がそうさせているのに違いない。例えば、

「土の下に仰向けになつて寝てゐる」「自分」、あるいは「祖父や母の死骸」という描写から、かつて土の中の石棺に横たわる遺体のイメージを媒介として、多分「黄泉(よも)つ国」にいる伊耶那美を連想してしまうかららしい。また「小川に沿うて一人段々上へ歩いて」行く所からは、「根の国」(黄泉国)へ行った須佐之男が川を上っていくエピソードと二重写しとなって沸いてくる。桑の葉の挿話の部分も、「路も急になる」という"坂"においてであり、しかもその"坂"に、草稿にあった「何本か立つてゐる」「大きな桑の木」を一本に絞って、立たせているのも、いかにも象徴的な感じを起こさせる。全くの偶合なのであろうが、大国主が「根の国」で遭う試練の中に登場する「蛇」「呉公(むかで)」「蜂」「鼠」という小さな生き物たちの何と思わせぶりのことか。そう言えば、垂仁天皇の世に常世の国(「黄泉国」)に遣わされた人物が多遅摩毛理(「但馬の国守の意であろう」(22))だったことは御愛敬か。

 むろんこれは、自由な連想がたまたまかもしだした想像にしかすぎない。しかしそうした神話的な結び付きは取り除いたとしても、この作品に描き込められている「死」のイメージは抜き去りがたい。

 「城の崎」とは何か。おそらくそこは〈現実〉の兵庫県城崎郡城崎町ではない。それは作家自らが創り出した、心象の「死の国」だったのではなかろうか。この静寂の世界。具体的に音を表す言葉は、蜂の飛ぶ音や、鼠に投げられる石の音、そして蠑螈(いもり)の場面でのかすかな石のあたる音ぐらいでしかない。「ひどい雨」も耳には訴えない。たしかに鼠のシーンで見物人は「大声で」笑い、近くにいる「家鴨」も「鳴きながら」泳いで行くのであるが、その擬声語は省かれ、むしろ視覚を頼りに描かれている。

 この作品を〈死の国彷徨譚〉ととらえ直す時、新しい世界が見えてきはしまいか。「城の崎」という〈死の国〉にあって、事故の後遺症としての「物忘れが烈しくなつた」主人公は、しかし記憶の時間を過去へとさかのぼっていく。いわば空間の遠近がとりもなおさず時間の暗喩(メタファ)として機能し、時間は空間に変換されて、ここにある。

 その〈国〉の一番奥深い所に位置しているのが「蠑螈(いもり)の死」である。「山の手線の電車に跳飛ばされ」た「自分」がもう一度「山陰線の隧道(トンネル)の前で線路を越す」。まさに事故は再現されなければならない。草稿にあるように人が渡るための「踏切り」ではなく、「線路」である必要があった(23)。そこを「越す」と「道幅が狭く」なり、「路も急に」かつ流れも「急に」なり、「人家も全く見えなく」なってしまう。やはり草稿のように「僅かな平地には何所にも畑が作つてあつた」りする風景では、まだ人の匂いが感ぜられてしまうだろう。「自分」はまるで何ものかにおいでおいでをされているかのように、「角を一つ一つ先へ先へ」と歩いて行く。そしてこの「物静か」な中で、何かの異変が起こりそうな気配から「自分」は「そわそわ」する。するとその異変の起こる「大きな桑の木が路傍にある」のが見える。だがこの坂道を登ってくる途中に、すでに「畑のふちには、大きな桑の木が必ず何本か立つてゐる」(草稿)のを見ていてはならない。はじめて一本の桑の木が目の前に出現するのでなければ、次の「或一つの葉だけ」が動く、"神秘"的な〈表現〉の有効性は薄れてしまう。この「不思議」で「怖い」現象があってこそ、蠑螈(いもり)が偶然に死ぬ、その必然性が〈表現〉として保証されるのだ。だから草稿での説明的叙述や、「続々創作余談」(24)での解説のように「人体には感じられない程度の風」が「微かに吹いて」いて、その中で一枚だけがたまたま「真直ぐに風の来る方に向つて」いた、などという奇術の種明かしは不要だったのだ。「蠑螈(いもり)の死」のあと、「自分」はあたかも幽界の人であるかのように「足の踏む感覚も視覚を離れて、如何にも不確」に帰ってくるのである。

この〈死の国〉の彷徨。それは措定された幅の中で、最少の時間で戻ることになる。それこそが、「三週間」で早々に切り上げられた理由だったのではなかろうか。そしてその〈国〉からの"生還"した報告が末尾の一節となって記されていると考えられはしないだろうか。

こうして「死」と向きあう「自分」がここにはいる。志賀の作品には珍しく、この世界には〈性〉が出てこない。これはこの作家の作品史の中でもきわだった特徴のように思われる。小さな生き物たちの雌雄は不問とされる。たとえば「小品五つ」と「城の崎にて」との関連(25)は重要なことではあるが、「小品五つ」(『白樺』大6・7)の「蜻蛉」は「二疋はもう一つになつて」いたり、「宿かり」も「木」も「嵐」もやはり男〈性〉を表していることが見てとれる。しかし、仮に「城の崎にて」の「自分」を"わたくし"に換え、「中学で習つたロードクライヴ」を"高等女学校で習つた"とでも置き換えてみたらどうなるだろうか。それでももし変わりなく読めるとしたら、それは一体何を意味しているのだろうか。おそらく、生き物たちが単体で死んでいくという〈設定〉とそれは無関係ではないように思われる。

 〈死〉はいつも〈個人〉にしかやってこない。〈死〉と向き合う時、人は〈性〉的ではありえない。なぜなら〈性〉の磁場はいつも一組の男・女の、観念的・肉体的交流によってしか形成されないからである。むろん、自分が死んだら残された者は、と考えることはできる。しかし、それは付随して起こる問題であって、〈死〉の当事者にとっては〈死〉はいつも「自分」だけを見舞ってくる。そのような〈死〉。そしてそこからの"生還"としての〈生〉。この、〈死〉と〈再生〉に関するテーマの追求は、次の『和解』において〈死〉の役割をになう「慧子(さとこ)」と〈再生〉の意味を象徴する「留女子(るめこ)」の対比としてもう一度なされるはずである。そしてその際の〈再生〉には、〈性〉を媒介とした家族という複数の人間が織りなす〈血の関係〉が重要な要素として認識されるはずである。「父」との"和解"はその副産物でしかなかったのだった。

(了)

(1)ただし引用は全15巻付別巻『志賀直哉全集』(岩波書店、昭48・7)の本文による。

(2)『全集』第10巻(昭48・11)

(3)「六 大正三年(一九一四年)という年」の項(岩波新書、平2・1)

(4)ただし、志賀の城崎行には長与善郎の父長与専斎の作った七言絶句の掲載されている『但馬城崎温泉案内記』(城崎温泉事務所編輯・発行、明33・8)が関与しているのではないか、という指摘が池内輝雄氏によってなされている(「城の崎にて」論、『〈新しい作品論〉へ、〈新しい教材論〉へ』所収、右文書院、平11・2)

(5)兵庫県立図書館(明石市)蔵マイクロフィルム

(6)同上図書館蔵

(7)同上図書館蔵

(8)交通科学館(大阪市港区)所蔵の『公認 汽車汽舩 旅行案内』第245号(大4・2、旅行案内社)の鉄道地図や時刻表の駅名によれば「玄武洞―城崎―竹野―左津―香住」の順に並んでいて、「竹の浜」という駅名はない。同館で聞いたところ、_信号所_か、通称の地点ではないか、と見ることもありうるとのことであった。たしかに竹野には「竹野浜」と呼ばれている所がある。

(9)『カラー図説 日本大歳時記 冬』(講談社、昭56・11)でも「初冬」に咲く花としている。

(10)むろんここで言う〈表現読み〉は国語教育での_作品を音声化することによって、その意味を理解する_ことではない。

(11)「城の崎にて」論(『国文学』昭51・3)

(12)審美社、昭43・9

(13)三省堂、昭37・3

(14)角川書店、昭42・3

(15)角川書店、昭46・2

(16)『全集』第10巻(昭48・11)

(17)『全集』第15巻(昭59・7)

(18)宮本静子「城の崎にて」(『志賀直哉の短篇』古今書院、昭43・2)にも「宿、川辺、流れ上流、と近くから遠くへの場所の移動、朝から夕暮れへの時刻の推移」という優れた指摘がある。しかしやはり〈事実〉という前提で立論していることには変わりがない。

(19)佐々木靖章「城の崎にて」(『一冊の講座 志賀直哉』有精堂、昭57・10)も「一日を単位とした日常生活の流れに沿った時間である」と重要な指摘をしている。が、「夕方」から始まり「夕方」で終わる、という読み方はしていないようである。

(20)筑摩書房、昭45・10

(21)『志賀直哉研究』(笠間書院、昭54・8)

(22)西宮一民『新潮日本古典集成 古事記』頭注(新潮社、昭54・6)

(23)高橋英夫氏も『志賀直哉―近代と神話』(文芸春秋、昭56・7)の「加速された精神」のなかで、この個所について「彼は踏切りを渡ったことにより、現実の識閾を踏み越したと言ってよい。勿論それは彼が経験した鉄道事故の変形された再現行為であり、『死』の神話化である。」と読んでいる。「再現」というのは卓見であると思われる。が、草稿の「踏切り」から「線路」に改めた点に関しては考えてみる必要があるように思われる。

(24)『世界』(岩波書店、昭30・6)

(25)紅野敏郎『鑑賞日本現代文7 志賀直哉』(角川書店、昭56・5)の「城の崎にて」の項参照。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/12/22

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三谷 憲正

ミタニ ノリマサ
みたに のりまさ 文芸評論家 1952年 静岡県に生まれる。

掲載作は、1990(平成2)年11月、筑波大学文芸・言語学系内平岡研究室編「稿本近代文学」第15集初出、2003(平成15)年10月、日本ペンクラブ電子文藝館掲載のため、改稿。

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