最初へ

無言の告発 ―芥川龍之介「地獄変」一面―

     一 はじめに

 

「地獄変」は、大正七年五月一日から同月二十二日まで(五日と十六日は休載)「大阪毎日新聞」夕刊に、一日遅れて五月二日から二十二日まで(十八日は休載)「東京日日新聞」夕刊に、それぞれ二十回にわたって連載された短篇である。四百字詰原稿用紙にして七十枚程度のものであるが、芥川の作品のなかでは比較的長い部類に属するといえるかも知れない。

 芥川は当初、〈地獄変はボムバスティックなので書いてゐても気がさして仕方ありません本来もう少し気の利いたものになる筈だつた〉(小島政二郎宛書簡、大7・5・16)とか、〈あの作品はあなたのやうな具眼者に褒めらる性質のものぢやありません〉(小島宛書簡、大7・6・18)と、いくぶん否定的であったものの、短篇集『傀儡師』に収めるときには、〈作そのものは唯今の所多少は自信があります 私としては好い方でせう〉(小島宛書簡、大9・4)に変化し、発表当時から自負していた「奉教人の死」(大7・9、「三田文学」)を巻頭に、そして「地獄変」を巻末に据えたのである。このことから当然、三好行雄氏も指摘したように、自信作「奉教人の死」と等しい比重が『傀儡師』の内部において「地獄変」に与えられ、その構成に照らしてみても、「地獄変」に対する芥川の自負が窺えよう(「地獄変について―芥川龍之介論へのアプローチII―」『國語と國文學』第39巻8号、昭37・7)。 

「地獄変」の書かれた大正七年は、生活的に安定していたからなのか、「世之助の話」(大7・4、「新小説」)、「蜘蛛の糸」(同・5、「赤い鳥」)、「開化の殺人」(同・10~12、「大阪毎日新聞」)等と、発表数も多い。そこから、この時期を歴史小説のもっとも特質的な時代として位置づけるのが、吉田精一氏の『芥川龍之介』(昭17・12、三省堂)以来、通説となっている。したがって、〈地獄変〉の屏風の完成と良秀の死との相関関係に言及したもの、いわゆる芥川における芸術至上主義の問題を、この作品の語りや、語りの構造の問題にからませた研究の多いのも、当然といえば当然であろう(1)

 これらの研究、評価の流れについては、海老井英次氏の、〈良秀の芸術至上主義と彼の自決との関連、其の意味づけが、「地獄変」論の核心であろう〉(「芥川龍之介事典」『別冊國文学學No2 芥川龍之介必携』)昭54・2)の言に集約される。しかし、それから二十年ほど経過した現時点においても、さまざまなアプローチがあるにもかかわらず、作品解釈のうえで不透明な部分が多く残されている。たとえば、最後のヤマ場である良秀の娘の焚死をめぐっても、その死因が、大殿張本人であるとする説(笹淵友一「芥川龍之介『地獄変』新釈」『文学』47巻12号、昭54・12)、そして、従来から言及されてきた、良秀が無意識の裡に死に追いやったとする説、さらには、大殿と良秀の共犯だとする説(中村完「『地獄変』論」『国文学ノート』13号、昭50・5、成城大学短期学部国文学研究室)等がそれである。どの説をとるかは、作品をどう解釈するかの問題と密接にかかわってくるのは言うを俟たない。ただ、これまでの言及は、大殿や良秀に重点が置かれ、そこから、芸術至上主義等の問題が導き出されてきたのである。しかしこの作品には、さまざまな意味において重要な役割を担っているもう一人の人物―娘が存在する。むろん、それぞれの論の中でも必ず娘については触れられているが、娘像そのものを明らかにし、それを切り口として論じたものは管見のかぎり見当たらないように思う。

 作品の中盤以後、大殿と良秀の対立―〈人間的情愛の欠落によって自己の存立の意味をたずねるふたつの強大な個性〉は、〈可憐ないけにえのうえでせめぎあう〉(三好、前掲)とまで、研究者をして言わしめるほどの娘について、より明らかにするのもそれほど無意味なことではあるまい。娘の存在をあらためて問い直すことによって、そこから良秀と絵の問題、さらに娘と良秀、娘と大殿との関連を見つめなおしたいというのが本稿の意図である。

 

    二 ひとりの親、人間として

 

 娘が、良秀と大殿との関係に、大きくかかわっていることについては、すでに看た三好氏の論や、さらに、〈娘をめぐって顕在化する大殿と良秀の対立とは、人間的な世界、秩序をいかなるものとして創り上げていくのかという点における対立〉(高橋博史「芥川龍之介『地獄変』を読むー現前する〈荘厳〉と〈歓喜〉の空間―」『国語国文論集』第20号、平3・3、学習院女子短期大学国語国文学会)、また、〈大殿に召しあげられる(中略)ことで両者の争点〉(吉岡由紀彦「芥川龍之介『地獄変』考・序説―良秀の『縊死』に対する多様な解釈成立の実態と背景―」『立命館文学』第515号、平2・3)になる、等がある。芥川が「昔」(大7・1、「東京日日新聞」)で述べた、小説の中であるテーマを考えるために必要とされる、〈或異常な事件〉をこの作品にあてはめるなら、その事件―娘が父に目前で火をかけられて死んでゆく―は、娘なしではあり得ない。良秀をよく思っていない語り手でさえも、火にかけられた娘を描く彼の様子を、

 

 まして私たちは仕丁までも、皆息をひそめながら、身の内も震へるばかり、異様な随喜の心に充ち満ちて、まるで開眼の仏でも見るやうに、眼を離さず、良秀を見つめました。空一面に鳴り渡る車の火と、それに魂を奪はれて立ちすくんでゐる良秀と―何と云ふ荘厳、何と云ふ歓喜でございませう。(十九)

 

と言わしめるほどのものであった。これがもし、良秀が大殿に対して要求したとおりの、〈あでやかな上臈〉(十五)であったならば、このような凄惨な場面が現出したかどうかはわからない(2)。換言すれば 、娘であったればこそ、いうにいわれぬ場面が現出したのであって、その意味では、良秀の描く地獄変相図は、当初から焚死する娘が必須条件だったのである。問題はストーリー上、どう展開さすかであって、そのためにも当時の娘たちのように、親や目上の人に対して盲目的に従順な、たんなる〈可憐ないけにえ〉的存在ではなく、強烈な個性の持ち主でなければならなかった。つまり、娘側にもドラマが存在し、結果として凄惨な場面に駆り立てられるのでなければ、小説そのものが、奥行きのない平板単調なものに陥る危険性をはらんでいたのである。

 娘については後に考えるとしても、完成した屏風に対して、〈良秀と申しますと、魔障にでも御遇ひになつたやうに、顔の色を変へて、御憎み遊ばし〉(三)、日頃、〈如何に一芸一能に秀でやうとも、人として五常を弁へねば、地獄に堕ちる外はない〉(二十)と言って憚らなかった横川の僧都さえも、〈出かし居つた〉(同)と賞賛するほどのものであった。否、横川の僧都だけでなく、〈誰でもあの屏風を見るものは、如何に日頃良秀を憎く思つてゐるにせよ、不思議に厳かな心もちに打たれ〉(同)たし、いまでは堀川家の〈御家の重宝になつて〉(一)いる。

 いずれにしても、良秀の描いた地獄変の屏風の出来栄えは見事だったようだが、それではそれ以前の作品(絵)はどうだったのだろうか。良秀が地獄変の屏風に取り掛かる前でも、語り手は、〈絵筆をとりましては、良秀の右に出るものは一人もあるまいと申された位、高名な絵師〉(同)と解説する。良秀自身も〈本朝第一の絵師〉であることを殆んど疑っている様子も見受けられない。

 良秀の経歴がどのようなものであったかは、これも語り手は明かしていないが、作品に登場したときにはすでに大殿のお気に入りであったようである。また、大殿が良秀を如何なる方法で見出したのかも語られていないし、良秀の芸術を真に理解していたかどうかも語られていない。この語り手の、大殿に対する語り口から察すると、芸術鑑賞眼などもちあわせておらず、せいぜい気に入るか入らないかという程度のものであったと思われる。もっとも良秀からすると、そのほうがむしろ好都合であったろうが、ともかく良秀にとっては、作品制作に関するかぎり、大殿の存在など思惑の外だったに違いない。

 良秀が、他の絵師と異なるのは、〈川成とか金岡とか、その外昔の名匠の筆になつた物〉は、〈やれ板戸の梅の花が、月の夜毎に匂つたの、やれ屏風の大宮人が、笛を吹く音さへ聞えた〉(四)とかいった、優美なものを競ったのに対して、彼はそういった伝統的な、いわば大衆受けするものに背を向け、〈醜いものゝ美しさ〉(同)を標榜していることであった。そのような彼の姿勢が、大殿の気をひいたらしいことは、〈その方は兎角醜いものが好きと見える。〉(四)との言からも窺えよう。また良秀も、〈かいなでの絵師には総じて醜いものゝ美しさなどと申す事は、わからう筈がございませぬ〉(同)と、自負をもって応じている。また良秀は、実人生においても〈習慣(ならはし)とか慣例(しきたり)とか申すやうなものまで、すべて莫迦〉(四)にしていたのである。

 このように、世の価値観を支配する大殿と、世の価値観に反逆する良秀という、二つの強大な個性の対立の構図が、この作品の根底にある(3)

 良秀を、〈本朝第一の絵師〉にまで押し上げたのには、当然それなりの裏づけがあったはずである。にもかかわらず、語り手は、〈福徳の大神に祈誓をかけたから〉〈良秀が画道で名を成した〉(七)といった風評を紹介するのみで、実際のところをいっさい語らない(4)。もしかすると良秀の名声は、その作風が他の絵師と異なっていたため、珍重されたにすぎないなのに、それを〈自分程の偉い人間はない〉(四)と錯覚していただけと考えられないこともないが(5)、それでも制作に関するかぎり、彼なりの芸術(内)的欲求に支えられたものであったことだけは疑う余地などない。ただ、この小説から芸術的価値を判断する道は、読み手には閉ざされている。この作品における地獄変相図の制作は、筆の費やされる量、そしてストーリーの展開からしても、かなりの位置を占めている。それは、良秀個人にとっても重要だったからだが、同時に作者にとっても、良秀の生をとおして自身の生き方を問うことを意図していたからだとも思われる。

〈娘の事から良秀の御覚えが大分悪くなつて来た〉(五)頃、大殿から地獄変の屏風絵を描けと下命された良秀は、制作にとりかかったまでは、いつもと変わらないように見える。ところが内面では、それまでの意識とかなり異なっていた。何故ならば、何としても大殿をよろこばせ、その見返りとして娘を下げてもらわなければならなかったからである。考えてみれば、彼が大殿に対して、娘を下げてくれるように願い出たきっかけは、これも大殿の下命で描いた、稚児文殊の絵の出来栄えが認められ、褒美をとらすと言われたときからであった。

 稚児文殊の絵に関しては、すでに松尾直昭氏の指摘もあるように、いつもの〈醜いものゝ美しさ〉を抉剔するものとは印象を異にしている(「芥川龍之介『地獄変』論(上)―権力と芸術の対立構造をめぐって―」『就實国文』6巻、昭57・12)。この時点である程度、大殿の絵に対する嗜好といったものを把握していたろうから、大殿の嗜好を念頭に置き、地獄変の屏風制作にとりかかったことは十分に考えられる。とはいうものの、制作が娘奪還の手段に化してしまうことは、良秀にとって、たとえひとりよがりであろうと、〈本朝第一の絵師〉として誇りをもって生きてきた、それまでの自己を葬り去るに等しいし、生そのものも虚妄となってしまう。当然のことながら、良秀もそのあたりを周知していたと思われるが、それでもなお、ひとりの親として、ひとりの人間として、芸術家として、大殿と向き合わなければならかったのである。おそらくここに、「地獄変」と題されたひとつの意味が存在していたのではなかろうか。

 この作品の登場人物の言動は、すべて語り手のフィルターをとおして読み手に提示される。したがって、どの人物について論じるにしても、語り手の問題は避けてとおれない。しかし、先にも触れたように、語りの構造や語り手の問題については多くの研究があり、本稿ではまた、そのこと自体を問うのを目的としていないため、敢えて深入りせずに、語り手が娘をどう捉えているかだけを問題にしたい。

 語り手を論ずる場合、小島政二郎宛書簡(大7・6・18)が必ずと言っていいほど引用される。例の〈日向〉と〈陰〉の二つの面、つまり、〈作者は語り手の物語をあくまでも一つの説明として指示し、語り手の否定を通してもう一つの説明を暗示〉(清水康次「『地獄変』の方法と意味―語りの構造―」、前掲注1)する方法をとっていることである。もっとも顕著な例は大殿について語るときである。大殿が良秀の娘への感情を、〈決して世間で兎や角申しますやうに、色を御好みになつた訳ではございません。〉(三)と否定しながらも、実際は懸想していることをほのめかし、また、〈あの方の御思召は、決してそのやうに御自分ばかり、栄耀栄華をなさらうと申すのではございません。〉(一)と、〈大腹中の御器量〉(同)であったと言いつつも、いっこうに本人がそれらしくないところに表れている。良秀に対しても、〈吝嗇で、慳貪で、恥知らずで、怠けもので、強欲〉(四)と言いながら、それを示す事実を語らずにいるので、口ほどに悪意をもっているかどうか疑わしい。

 この両者に対しては、〈日向〉と〈陰〉の二面的な語りをしているのに、ところが娘に対しての語り手は、〈親思ひの女〉(五)、〈悧巧な生まれつき〉(二)といった、いわば一面的な語りしかしていない。その理由は、語り手が大殿の側近くに仕える侍者として設定されていることや、また彼が、大殿や良秀に較べ、娘から離れた位置にいたからとも考えられる。さらには、語り手自身の個人的な理由によるものであったからかも知れない(このことについては後に触れる)。

 いずれにしても、娘に関しては語り手の語るとおりの読みを強いられるため、その存在が希薄になってしまう可能性は十分にある。ここでは敢えて、大殿と良秀のときと同じように二面的な読みを試みることにする。

 

    三 娘の屋敷奉公とその謎

 

 娘(十五歳)は、大殿と良秀との関係と同様に、物語がはじまる以前からすでに堀川の大殿の屋敷に、小女房として上がっている。語り手は、良秀の経歴を語らなかったように、娘についてもどういう経緯で、いつ頃から屋敷に上がったのかも秘したままである。それでも、〈大殿様の御声がゝり〉(五)であったことだけは間違いないようである。屋敷に上がることについては、当然、屋敷側(関係者)と娘の親、つまり良秀との話し合いがもたれていたはずなのに、ところが良秀のほうは、娘が屋敷に上がることについて〈大不服〉(五)であったらしく、屋敷に上がった後も〈始終娘の下るやうに祈つて〉(同)いた。何とも奇妙ですっきりしないが、まず、話し合いがあったことを前提とするなら、良秀の〈大不服〉は、当然屋敷に上がった後のことになる。そうでないと、はじめから〈大不服〉であったならば、大殿が強制的に召し上げたことになってしまい、作品の根底をなす〈ふたつの強大な個性〉(三好、前掲)のせめぎあい、という設定自体が曖昧になってくる。

 それにしても不可解なのは、大殿にとってたかだかひとりの小女房にすぎない良秀の娘を、屋敷に召し上げるのに、何故に直接大殿自らが口を出したのか、ということである。このようなことは通常では考えられないのではないか。したがって、そこに大殿の何らかの魂胆ないし思惑を読み取っても、それほど強引ではあるまい。なるほど、〈御声がゝり〉だけを抽出して思いめぐらすと、大殿と良秀との信頼関係のようなものが浮かび上がってこないこともないが、はたしてそうなのだろうか。

 この作での小女房とは、時代からして下臈を指すと思われる。下臈とは、〈御匣殿や御装束、裁縫のことや、その他種々の御用を勤めるもの〉(和田英松『官職要解』昭58・12、第5版、講談社学術文庫)にすぎないはずである。娘に関する直接の描写はあまり多くないが、それでも語り手によると、〈美し〉(三)くて〈愛嬌〉があり、そのうえ〈思ひやりの深い、年よりはませた、悧巧な生まれつきで、年の若いのにも似ず、何かとよく気がつく〉(二)らしい。殆んど理想的な女性といっていいだろう。しかし、この短い引用でも窺えるように、〈年よりもませた〉とか、〈年の若いのに似ず〉とか、何故か年齢に似つかわしくないことが強調されている。語り手自身は、〈絵師風情の娘など〉(三)と蔑むような語り口をしているものの、内心では娘の醸し出す年齢以上の性的なものに、魅せられていたらしいことをそれとなく暗示していて、語るに落ちるとはまさにこのことに相違ない。したがって、娘の紹介は一面的であっても、好意をもって語られていることだけは間違いない。良秀を語るときと比較すれば、違いは歴然とするはずである。たとえば、良秀が娘をかわいがる様子を、〈まるで気違ひのやうに〉〈唯可愛がるだけで、やがてよい聟をとらうなどと申す事は、夢にも考へて居〉(五)らず、ただ盲愛しているだけだと、語り手自らの想像を交えながら読み手に伝える。この語り手の説明から、〈娘は一個の人間であるというよりも、愛でるべきものでしかない〉(西村小百合「芥川龍之介『地獄変』の世界―死に魅せられし者―」『日本文藝研究』第39巻第2号、昭62・7)、ないしは、良秀の〈自己本位な愛し方〉(宮坂覺「芥川における二つの〈焚死〉―『地獄変』と『奉教人の死』をめぐって―」『玉藻』第24号、平1・3)といった読みが導き出されてくる。むろん、こういった読みが出てくる他の要素として、〈あれ程の子煩悩がいざ絵を描くと云ふ段になりますと、娘の顔を見る気もなくなる〉らしく、〈まるで狐でも憑いたやうに〉(七)熱中し、まったく他の価値の入り込むことのできない面を、良秀自身がもっていたからでもある。かりにそうだとしても、男やもめの良秀が一人娘を溺愛するのは何ら不自然ではなかろう。しかし、娘が〈思ひやりの深い〉こと、そして、〈年の若いのにも似ず何かとよく気がつく〉といった、育ちのよさの一面をのぞかせているところからすると、必ずしも溺愛だけではなかったことも容易に想像がつく。

 ただ、語り手は、娘の容貌については〈美しい〉(三)と言うのみで、あまり多くを語らない。これもやはり〈陰〉の部分で、〈色を御好みになつた〉(三)大殿のことと、先にも触れたように、語り手自身の好みを隠蔽するためのものであったに違いない。そうでなければ、〈大殿様の御声がゝり〉という語句を、わざわざ挿入した意味が生きてこなくなるし、後に語り手が、娘にとった行動も不自然になる。ともかく、美しくて器量よしの娘が近所で、そして、巷間で評判になるのも珍しいことではなかろう。

 娘のそういった評判が、良秀が屋敷に出入りしていたこともあって、屋敷の住人の口をとおしてそれとなく大殿の耳に届いたとしても、なんら不思議ではない。大殿のほうは、〈己の権威を芸術で飾るためと、信仰上、仏画を必要としたため〉(渡邊正彦「芥川龍之介『地獄変』覚書―その地獄への回転する構造―」『日本近代文学』第27集、昭55・10)に、良秀の芸術上のパトロンになったにすぎず、彼を〈日頃から格別御意に入つてゐた〉(十四)としても、その関係はあくまで限定かつ条件つきであった。

 ところが良秀は、ときとしてそういった関係から逸脱することがある。たとえば、先にあげたように大殿の下命によって稚児文殊を描き、その見事な出来栄えから、〈褒美には望みの物を取らせるぞ。遠慮なく望め。〉(五)と、大殿が仰せられたときである。良秀は即座に、〈何卒私の娘をば御下げ下さいまするやうに。〉(同)と申し出たのである。さすがにこれには大殿も機嫌を損じ、〈それはならぬ。〉と一蹴してしまった。かりに大殿が〈大腹中〉(一)であったとしても、自ら直接召し上げた娘を下げるということは、良秀に屈服したことを自ら認めたことを意味する、というより、この世の秩序そのものを自ら崩壊さすに等しいからだ。こう考えると、この作品における娘の存在は、ひとつには、大殿と良秀との対立をめぐる攻防を左右する、重要な役割を担わされていたのも容易に想像できよう。  

 良秀が娘を屋敷に上げることについては、〈大不服〉(五)であったことは先に触れた。男やもめとして、また、たったひとりの親として、娘をつねに傍に置いておきたいと願うのも自然なことである。しかし、これも考えてみれば、たとえ強制的に召し上げられたとしても、自分が出入りしている屋敷なのだから、その気になるといつでも会うことができたはずである。〈不承無承〉であっても、大殿の申し入れを拒否しなかったのは彼自身ではなかったか。にもかかわらず、娘を下げてもらうことに、何故それほどまでに固執しなければならなかったのだろうか。きっとそこには当初考えもしなかった、差し迫った事情が生じていたに違いない。日頃の接し方をとおして大殿という人物の本質(たとえば、寵愛していた童を人柱にするような人間であること)、そして、〈世間では兎や角申しますやうに、色を御好みにな〉(三)る実態を彼自ら確認したか、それとも、芸術家特有の感覚で嗅ぎ取り、娘の身の上にある危機が迫っていたことを感じ取っていた(7)か、さらには、娘自身の芯の強さ(後述)からして、相手がたとえ大殿であろうと、理不尽な要求に従わないことぐらいは漠然とながらも感じていたのかも知れない。またこの他にも、芸術家としての己れ、ないしは、父親としての己れのありかたを娘によって照らし出され、その結果、ひとりの人間としてどうあらねばならないかを知ったが故に、まず、己れの犠牲になっている娘を奪還しなければならない、と思ったからだとも考えられる。おそらく、これらすべての要素がからまっているのではないか。

 話の流れからすると、娘が屋敷に上がったのは、大殿と良秀との関係が生じた後であろう。ここでも疑問を禁じ得ないのは、〈大殿様の御声がゝり〉だったとしても、その時点ですでに〈大不服〉であったならば、抵抗してでも何故阻止しようとしなかったのか、ということである。良秀の性格からして不可能なことではあるまい。それをしなかったということは、やはり、ある程度の合意が成立していたと考えるのが自然である。大殿側からすると、巷間で伝えられる評判の娘を〈色好み〉の対象として、さらには、良秀の芸術活動以外の動きを封じる切り札として、そして良秀のほうは、大殿の〈御声がゝり〉である以上(そのことを知っていたかどうかを別にしても)、とにかく申し出を受け入れておきさえすれば、今後の己れの芸術活動がより保障されるとの思惑があったからではないのか。ただし、この合意の成立はいつであったかは判然としない。娘の年齢からすると一、二年前とも考えられなくもないが、〈大殿様の御声がゝり〉と、良秀の娘の〈年よりませた〉ということからすると、さらに一、二年遡ることも考えられる。

 ともかく、良秀の娘の〈年よりもませた〉との設定のひとつの意味として、大殿が如何に〈色好み〉であったかをいうためのものであったに違いない。こう考えると語り手の、〈如何に美しいにした所で、絵師風情の娘などに、思ひを御懸けになる方でない〉(三)との弁護もやはり、〈陰〉であったわけである。

 

    四 歳よりもませた娘

 

 それでは、当の娘のほうは屋敷に上がったことをどう思っていたのであろうか。

 若殿は、丹波の国から献上された人馴れした猿に、良秀という名をつけていた。ある時、その良秀という猿が柑子でも盗ったのであろうか、若殿は楚を振り上げて折檻しようとする気配であった。その様子を見た良秀の娘は、〈若殿様の御前に小腰をかゞめながら「恐れながら畜生でございます。どうか御勘弁遊ばしまし。」と、涼しい声で申し上げ〉(二)る。その時の状況は次のようなものである。

 

「何でかばふ。その猿は柑子盗人だぞ。」(若殿、筆者注)

「畜生でございますから、……」

 娘はもう一度かう繰返しましたがやがて寂しさうにほほ笑みますと、

「それに良秀と申しますと、父が御折檻を受けますやうで、どうも唯見ては居られませぬ。」

と思ひ切つたやうに申すのでございます。これには流石の若殿様も、我を御折りになつたのでございませう。(二)

 

 このやりとりからしても、若殿と接しているのが十五歳の娘、それも小女房の〈実際あの弱々しい、何事にも控へ目勝〉(十三)ちな娘とはとうてい思えない。〈寂しさうにほほ笑み〉ながらではあったが、〈思ひ切つたやうに申〉し上げる凛とした態度(8)、また、その機転の速さに若殿のほうが圧倒されている感さえ窺える。その証左に、若殿が〈さうか、父親の命乞いなら、枉げて赦してとらすとしよう。〉と、〈不承無承〉ながら引き下がってしまった。娘は〈涼しい声〉で言い、若殿は〈不承無承〉引き下がるのだから、立場がまるで逆転している。ここからでも娘が内面的にも、如何に強いものをもっていたかがわかろう。さらに次のような場面もある。

 父の良秀が、大殿から屏風に地獄変相図を描けとの下命を受け(9)、〈正気の人間とは思はれない程夢中になつて〉(十二)いた頃である。娘は〈何故かだんだん気鬱になつて〉、〈涙を湛へてゐる容子が、眼に立つて〉きた。そんなある時、語り手の侍者が廊下を通りかかると、例の猿が飛んできて、必死に何処かに導こうとするので遣り戸まで行く。すると〈部屋の中から、弾かれたやうに(ママ)駈け出〉(十三)してきたものがあった。それが良秀の娘であったのだが、その時の彼女の様子は、日頃とは打って変わって、〈眼は大きくかゞやいて〉いたし、〈頬も赤く燃え〉、〈そこへしどけなく乱れた袴や袿が、何時もの幼さとは〉ほど遠い、〈艶かしささへも添へて〉(同)いたのである。たしかに、語り手の娘を見る眼は、好機を窺う男性の眼であった(10)としても、逆に言えば、十五歳の娘にして早くも異性を惹きつけるものを、他の同年齢の娘よりも多くもっていたという証でもある。もともと〈年よりはませた〉と語り手に言わしめていた一面もここにあったろう。

 

 これが実際あの弱々しい、何事にも控へ目勝な良秀の娘でございませうか。――私は遣り戸に身を支へて、この月明かりの中にゐる美しい娘の姿を眺めながら、慌しく遠のいて行くもう一人の足音を、指させるものゝやうに指さして、誰ですと眼で静に尋ねました。

 すると娘は唇を噛みながら、黙つて首をふりました。その容子が如何にも亦、口惜しさうなのでございます。

 そこで私は身をかゞめながら、娘の耳へ口をつけるやうにして、今度は「誰です」と小声で尋ねました。が、娘はやはり首を振(ママ)ったばかりで、何とも返事を致しません。いや、それと同時に長い睫毛の先へ、涙を一ぱいためながら、前より緊く唇を噛みしめてゐるのでございます。(十三)(斜体、筆者)

 

 娘は大殿に襲われそうになり、そこから逃れてきたらしいことは容易に想像できる(11)が、性に対する考えがおおらかな時代であったことを思うと、小女房という身分からしても、そして、相手がいまをときめく大殿であってみると、彼女のとった態度は頑なといえば頑なにすぎるかも知れない。しかし、それほどに娘が矜持をもっていた、つまり、権力や身分に屈しない強い人間だったわけである。大殿からすると、そのような娘は反逆者以外の何者でもなかった(12)ことは容易に想像できる。娘は娘で、権力づくで女を犯そうとする大殿は言うに及ばず、そして、自己を生かすための手段として娘を利用(屋敷に上げること)するような父(13)もすべて、女として一個の人間として、何としても拒絶しなければならなかったのである。彼女には、大人たちの醜い面を見抜く眼はそなわっていた。それが〈悧巧な生まれつき〉、〈年よりはませた〉という設定のひとつの意味でもある。

 このような、彼女の大人を見る眼は、当然のことながら、語り手の侍者にも向けられている。彼女の〈口惜しさ〉を倍加させ、そして屈辱感をあたえたのは、彼女の〈艶しさ〉に目を奪われた語り手の侍者に他ならなかったからである。一見やさしそうに、そして親切そうに思える行為―〈耳へ口をつけるやうにして〉の尋ねかた(たとえ咄嗟の出来事であったとしても)は、異常な場面であることを差し引いてもやはり過度なものであったと言っていい。その証左に、娘も最初のうちは〈唇を噛みながら、黙つて首をふ〉っていただけなのに、語り手の侍者から〈耳へ口をつけるやうにして〉尋ねられたときは、〈涙を一ぱいためながら、前よりも緊く唇を噛みしめてゐ〉る。ここにはからずも、十五歳にしては成熟した肉体の持ち主の娘に、語り手の侍者が好意を寄せていたことが露呈している。娘に好意を寄せていることを、読み手に悟らせないために、容貌についてただ〈美しい〉としか語らなかったのも、そのためであったに違いない。先に、語り手の個人的な理由によるのではないか、と書いた所以である。

 またこの時、娘は自分を襲った相手の名を明かさなかった。しかしそれは、相手の立場を慮ったためでも、ましてや、父の立場を気遣ったためでもあるまい。名を明かさないことこそ、醜い大人たちへの抗議であるとともに無言の告発であったからだ。さらには、名を明かさないことでしか、自己の矜持を守れなかった彼女のいたいけな立場を表明したものに他ならない。たしかに、〈十五歳で肉体的には完全に成熟した女性でありつつも、その成熟の内に閉ざした、楚々たる娘〉(石割透「芥川龍之介―中期作品の位相(4)『地獄変』・その魔的なる暗渠」、前掲注11)に違いないが、実は、より強く〈内に閉ざし〉ていたのは、何ものにも汚されまいとする彼女の矜持であった。

 娘が屋敷に上がって、どのくらいの時間の経過があったかは不明だが、猿の良秀のような事件だけでなく、物語の中に直接現れてこないさまざまな出来事が起こっていたはずである。〈父の身が案じられるせゐでゞもございますか、曹司へ下がつてゐる時などは、しくしく泣いて〉(五)いたのは、父のためだけではなく、父の問題とからまって自分の身のうえにも、何かが起こることを予感していたからに違いない。そればかりか、すでに触れた(注8)ように、父が自分を屋敷に上げた意図を多分に知りながらも、ひとことの恨みや、泣きごとらしきものをいっさい洩らしておらず、何事につけても胸の裡に秘めて外に出さない、芯の強い人間だったことが窺える(14)

 他方、良秀はじっと耐えているであろう娘を思うにつけ、己れの生きざまそのものをみつめ直さざるを得ないところまで、追い詰められていったのである。

 稚児文殊を描いたときに、〈何卒私の娘をば御下げ下さいまするやうに。〉と願い出、大殿から一蹴されたことはすでに触れたが、しかし語り手は、〈かやうな事が前後四五遍もございましたらうか。〉(五)と、良秀が絵の報酬として娘の返還を望んだことを、それも度重なっていたと証言している。これもすでに触れたように、〈こういう彼にとって、絵を描くことは、娘を取り戻すための手段であった〉(寅岡真也「芥川龍之介『地獄変』論―良秀の死を中心に―」『愛文』第16号、昭55・7)のである。良秀が大殿から一蹴された場面は第五章であるから、作品の時間的流れからすると、プロローグに属すると言っていい。それまでに筆が費やされていたのは、当然のことながら、大殿と良秀の人となりであり、それに娘の表面的な紹介、他のエピソードである。これらはすべて、良秀が地獄変の屏風制作に向かう姿勢ないし意識をいうためのもの、つまり、良秀の内面に収斂されるべくものとしての説明に他ならない。また、残された「手帳二」に記されたメモによると、〈大殿は地獄変の屏風と共に娘を返す約束をす。〉の構想も作者にあったようだから、娘奪還のために良秀が渾身の力をこめて、地獄変の屏風完成に立ち向かっている姿を刻んでいたこともほぼ間違いはあるまい。

 芥川が最終的に、メモにあった〈約束をす。〉の構想を生かさなかったのは、作品の構造からしても、大殿の人物像からしても当然のことであった。大殿が良秀にそのような〈約束〉をしてしまったならば、作品の根底にある対立の構図が見えなくなるだけでなく、〈娘を返す約束〉をしなかったからこそ、良秀に、娘の救出は不可能であり、それは死によってしかあり得ないことを知らしめることができたからである。

 

     五 大殿の陰謀

 

 いずれにせよ、娘奪還が良秀の芸術(制作)の目標となり、動機となるのだが、そうすると《芸術》とは何か、それがまた、一個の人間としての生き方とどうかかわってくるのか、という問題が浮上してくる。

 元来、芸術家の創作欲は、自己の魂から湧き上がる私的なものと言えなくもない。しかし良秀のように、娘という肉親のためとならば、あまりにも自己以外の外圧が強く、不純物の多い取り組み方ではあるまいか。いくら、制作を始めてから、鬼気迫る勢いで部屋に閉じこもって仕事をしても、それが大殿をなだめすかし娘を取り戻そうとの意識である以上、芸術とよぶにふさわしい作品ができあがるかどうかは疑問である。

 良秀の実人生において、芸術(活動)を除くと何も残らない。彼の日常は芸術家としてか、親としてかのいずれしか語られておらず、それ以外の良秀像はいっさい秘められている。芸術家・良秀と、親・良秀との二つは並存し、バランスを保ちながら良秀という人格を築いていることは断るまでもない。彼が、語り手に代表される世間に、まがりなりにも認知されていたのは、この二つが並存していたからである。芸術家としてだけでは、その即物主義の方法から常軌を逸した〈横道者〉(四)とみられていたにもかかわらず、娘を〈気違ひのやうに可愛がつてゐた〉(五)という、親として一個の人間として血の通った面を有していた。ところが、娘が大殿に召し上げられて以降、いま述べた二つが良秀のなかで重ならざるを得なくなってしまったのである。娘を思うにつけ、それまでの芸術観が、親と芸術家の狭間で揺れはじめ、心中での葛藤も日増しに強くなっていく。彼のそういった苦悩の激しさは、第七章から第十一章にかけての夢見もわるくなり、そして、思うように絵筆がすすまなくなってくるところに、よくあらわれている。その意味では制作中の、屏風の中に繰り広げられる地獄絵は、良秀の苦しみそのものであると言っていい。この苦悩にピリオドが打たれたのは、物語のクライマックスをなす娘の焚死―雪解けの御所の場面である。

 

 ……身なりこそ違へ、小造りな体つきは、色の白い頸のあたりは、さうしてあの寂しい位つゝましやかな横顔は、良秀の娘に相違ございません。私は危うく叫び声を立てようと致しました。

 その時でございます。私と向かひあつてゐた侍は慌しく身を起して、柄頭を片手に抑へながら、屹と良秀の方を睨みました。それに驚いて眺めますと、あの男はこの景色に、半ば正気を失つたのでございませう。今まで下に蹲つてゐたのが、急に飛び立つたと思ひますと、両手を前へ伸した儘、車の方へ走りかゝらうと致しました。(中略)娘を乗せた檳榔毛の車が、この時、「火をかけい」と云ふ大殿様の御言と共に、仕丁たちが投げる松明の火を浴びて炎々と燃え上がつたのでございます。(十七)(圏点、筆者)

 

 語り手は、さらに第十八章でも、〈思はず知らず車の方へ駆(ママ)け寄らうとしたあの男は、火が燃え上がると同時に、足を止めて、やはり手をさし伸した儘、食ひ入るばかりの眼つきをして、車をつゝむ?煙を吸ひつけられたやうに眺めて〉いたとも語っているが、こういった入念な語りこそ、語り手自身が大殿に仕えている立場を忘れ、良秀の行為のなかに彼の人間性を見出したことの証であろう。良秀のほうは〈半ば正気を失〉いつつも、〈車の方へ駆け寄〉るが、その行為は芸術家としてのそれではなく、娘を何としても救出したいという親の本能から出たもの、いわば反射的な行為に他ならなかった。語り手は、それまで何事につけても大殿の行為行動を弁護ないし正当化し、反対に良秀をことごとく批判してきたにもかかわらず、この場面での良秀に寄り添った語りは、大殿に対する裏切り以外の何ものでもあるまい。

 また良秀が、娘の側に〈駆け寄〉ったところで、〈先年陸奥の戦ひに餓ゑて人の肉を食つて以来、鹿の角さへ裂くやうになつたと云ふ強力の侍〉(十六)が、〈柄頭を片手に抑へながら〉見張っている以上、どうすることもできないのはわかりきっている。しかしこの時点ではまだ、〈苦しむ娘を救うためには行為者としての父という存在〉(小野隆「『地獄変』論」、前掲注5)の域を出ていない。ところが、良秀の様子を見ていた大殿が、すぐさま仕丁たちに〈火をかけい〉と命じたことによって、いったん〈行為者としての父〉を封じることに成功したにもかかわらず、結果的には、〈行為者としての父という存在〉を突き抜けさせることになってしまった。

 火が〈見る見る中に、車蓋をつゝみ〉(十八)こんだ時、良秀にとって残された道は、〈焔の中から浮き立つて、髪を口に噛みながら、縛の鎖も切れるばかり身悶え〉(十八)する娘を、己れの作品のなかに封じ込めることによって娘と共に生き、そして、共に地獄に堕ちて行くことであった(15)。ここにいたってはじめて、絵師であることと娘の父であるという二つの価値が交錯することになる。

 しかし、〈縛の鎖も切れるばかり身悶え〉する娘を目の当たりにしての苦悩―〈大きく見開いた眼の中と云ひ、引き歪めた唇のあたりと云ひ、或は又絶えず引き攣つてゐる頬の肉の震へと云ひ〉、〈心に交々往来する恐れと悲しみと驚き〉(十八)そのものは、父親として人間としてまさしく〈地獄の責苦〉(十九)であったに違いない。そしてこの苦悩の果てに、〈今は云ひやうのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝き〉(十九)に到達し16、やっとのことで人間性の束縛から解放されたわけである。なお、彼の人間性は、〈鞠のやうに踊りながら、御所の屋根から火の燃えさかる車の中へ、一文字にとびこ〉(十八)んだ、例の良秀と名づけられた猿と共に没した、との言及がすでに多くの人によってなされている。

 その後、一ヶ月ほどかけて仕上げられた地獄変の屏風は、〈随分人の目を驚かす筆勢〉(六)であり、〈殊に一つ目立つて凄じく見えるのは、まるで獣の牙のやうな刀樹の頂きを半ばかすめて(中略)中空から落ちて来る一輛の牛車〉(同)であった。そこに描かれている娘のさまは、〈見るものゝ耳の底には、自然と物凄い叫喚の声が伝つて来るかと疑ふ程、入神の出来栄え〉(同)であったことを、語り手の印象ながら次のように伝える。

 

 地獄の風に吹き上げられた、その車の簾の中には、女御、更衣にもまがふばかり、綺羅びやかに装つた女房が、丈の黒髪を炎の中になびかせて、白い頸を反らせながら、悶え苦しんで居りますが、その女房と申し、又燃えしきつてゐる牛車と申し、何一つとして炎熱地獄の責苦を偲ばせないものはございません。云はゞ広い画面の恐ろしさが、この一人の人物に(かさな)つてゐるとでも申しませうか。(六)
 

 地獄変相図の本来のありかたからして、地獄が凄惨に描かれれば描かれるほど、見る者をして極楽への憧れを増幅させるのであるから、良秀が〈炎熱地獄の責苦〉を入念に描いたのも、むろんそのようなことを念頭にあったからであろう。しかし、見る人の魂を揺り動かしたのは、良秀が愛娘を失った哀しみ、いわばモチーフとしての個の問題が止揚されて、普遍的なものにまで昇華されていたからであり、また、そこには娘への、そして自己へのレクイエムが謳い上げられていたからである。

 とはいうものの、多くの人を感動にいざなう作品を生み出した良秀は、制作中から残余の人たちから孤立し、そして完成後は完成後で、自ら縊死(いし)しなければならなかった。それに対して、大殿の権力そのものは少しの揺らぎも生じていないし、また、大殿や語り手に象徴される現実社会の秩序も少しも崩れていない。しかし、大殿が如何に絶大な権力を有していようと、生あるものの定めとしていずれ命が絶えるし、現実社会もいずれ必ず変わっていく。ところが、良秀の描き残した《地獄変》の屏風は、そのかたちをとどめる限りにおいて、この世に存在し続けるのは断るまでもない。事実、いまでは堀川家の〈御家の重宝〉(一)となっている。

 良秀が縊死したのは、むろん娘と共に地獄に堕ちるしかなかったからであるが、そこにはまた別に意味がこめられていた。それは、良秀自身、地獄変相図の制作過程で、大殿との関係、さらには娘とのありかたと当然のことながら向き合わねばならず、そこにはからずも、現実社会に寄りかかり過ぎていた己れを見出したのである。

 つまり、良秀が選択した縊死は、そういった現実社会との関係を断ち切る手段であったのだ。したがって縊死のみを取り出し、現実社会に対する敗北だとするのは早計に過ぎるのではないか。すくなくとも芥川自身は、この作品において芸術と現実社会とのありよう―それは、決して相交わるものでなく、絶えず対峙しあう緊張関係にあるのだという認識を獲得し、それを表明したものと考えられるからである。

 

 

(1) 語り手や語りの構造、さらに芸術至上主義を論じたものを数編、アトランダムにあげておく。竹盛天雄「『地獄変』論―語りの影―」(『批評と研究芥川龍之介』昭47・11、芳賀書店)、佐々木雅発「『地獄変』論(上)―芸術の欺瞞」(『文学』第51巻5号、昭58・5)、清水康次「『地獄変』の方法と意味―語りの構造―」(『日本近代文学』第30集、昭58・12)、浅野洋「『地獄変』の限界―自足する語り―」(『文学』第56巻5号、昭63・5)、山形和美「『地獄変』―語り手の語らなかったもの―」(海老井英次・宮坂覺編『作品論芥川龍之介』平2・11)、桑原佳代「芥川龍之介『地獄変』における語り手の視点の問題」(『樟蔭国文学』第32号、平7・3)、三好行雄「地獄変について―芥川龍之介へのアプローチII―」(前掲)、高橋陽子「芥川龍之介諭―芸術至上主義という理解への疑問―」(『日本女子大学大学院会誌』3号、昭56・9)、吉岡由紀彦「芥川龍之介と芸術至上主義―芸術的価値をめぐって―」(『論究日本文学』51号、昭63・5)

(2) 大殿は寵愛していた童を人柱にするような人物だし、良秀は良秀で己れの作品のためなら、たとえ弟子であろうと平気で危険な目にあわせるような人物である。両者とも少々のことぐらいでは動じない。

(3) この対立構造は、色彩の面にもあらわれているとの指摘もすでにある(清水由佳里「芥川龍之介『地獄変』研究―芸術家の悲劇への一視点―」『広島女学院大学国語国文学誌』第1号、平3・12)。

(4) 風評として伝わっている具体的なものとは、次のようなものである。

 良秀の絵になりますと、何時でも気味の悪い、妙な評判だけしか伝はりません。譬へばあの男が龍蓋寺の門へ描きました、五趣生死の絵に致しましても、夜更けて門の下を通りますと、天人の嘆息をつく音や啜り泣きする声が、聞えたと申す事でございます。いや、中には死人の腐つて行く臭気を、嗅いだと申すものさへございます。(下略)(四)しかし、この噂は文脈からして、他の絵師の優美さを誇示するためのものであって、実際のところは確かでない。

(5) 小野隆氏は、佐々木雅発氏に論(前掲)に反論しながら、〈「実相を借りて虚相を写す」に至るのは地獄変相図においてである。これは良秀の言葉をどおりに言えば、《見たものでなければ描けませぬ》ということである。夢であろうと見たものなら描けるというのは拡大解釈ではあるまい〉。〈高名な絵師であっても、地獄変相図以前においてはその程度の絵師でしかなかった〉(「『地獄変』論」『専修国文』第48号、平3・2)と指摘する。

(6) たとえば、笹淵友一氏の〈陽性よりも陰性に近いやさしさというのがその個性であったと考えてよい〉(「芥川龍之介『地獄変』新釈」、前掲)との娘像は、語り手の説明から導き出されたものに近い。

(7) この時点では、良秀が、芸術のために大殿とまったく同じことをしている自分自身に気づいていない。つまり、人の傷みなどわかっていなかったわけだが、それを気づかせてくれたのが娘の焚死であったのではないか。

(8) この、〈寂しさうにほほ笑み〉という表情と、〈思ひ切つたやうに申す〉態度とは、かなり懸け離れているように思われる。〈思ひ切つたやうに申す〉には、意志の強さを窺わせ、何としても猿を助けたいとの気持ちからであったろうが、〈寂しさうにほほ笑み〉の〈ほほ笑み〉は、若殿に向けたものであったとしても、〈寂しさう〉は、彼女の内面を表したものと言っていい。その内面とは、この時すでに父がどうして自分を屋敷に上げたかを知っていたからではないか。しかし、それを父に話すのでもなく、密かに自分で噛みしめている彼女の孤独な姿を、浮き彫りにしたものではなかったろうか。

(9) 大殿の、地獄変相図を描かす意図は、〈見たものでなければ描けぬ〉(十四)という良秀を十分知っていた上で、〈描けぬ〉苦しみを味わわせるところにあった。笹淵友一氏は〈おそらく、大殿は地獄変の陰惨な光景を描くことは絵師にとって苦痛であろうと思い、その苦痛を良秀に味わわせようとする企てだったのだろう。もちろん意に従わない娘への焦立ちも加味されていたにちがいない〉(「『地獄変』再論」『学苑』557号、昭61・5)と言う。娘についての部分は再考の余地があると思う。なお、小野隆氏にも同様な指摘がある(前掲)。

(10) 平岡敏夫氏は、この場所について〈芥川がなぜこうした美しさを書き込んだのか〉と疑問を呈し、これを、第十六章に展開される娘焚死の〈「あでやかな上臈」のモデルに娘がならねばならぬ、その用意として読むべき〉(「『戯作三昧』から『地獄変』へ」『芥川龍之介抒情の美学』昭57・11、大修館書店)と言うが、少し飛躍しすぎているのではなかろうか。これは語り手のとらえた娘像であるはずである。

(11) 娘の曹司に忍び込んだのは、良秀その人ではないかとの説―中村完「『地獄変』論」(前掲)、東郷克美「『猿のやうな』人間の行方―『羅生門』『偸盗』から『地獄変』へ―」(『一冊の講座芥川龍之介』昭57・7、有精堂)、石割透「芥川龍之介―中期作品の位相(4)『地獄変』、その魔的なる暗渠」(『駒沢短大国文』18号、昭63・3)がある。しかし、〈大殿様の御がゝり〉で娘が屋敷に上がった経緯からすると、良秀との解釈はやはり無理ではないかと思う。

(12) たしかに、大殿にとって、反逆者以外の何者でもないが、それを即焚死に結びつけるのは早計であろう。この時点ではまだ良秀の要求はない。また、渡邊正彦氏には、〈その容子が如何にも亦、口惜しさうなのでございます。〉というところから、〈彼女が大殿の絶対的権力に決して自己の価値観を幻惑させられない人間だということを明示している。〉(「芥川龍之介『地獄変』覚書―その地獄へと回転する構造―」、前掲)との指摘がある。

(13) 娘は、自らの絵のために人の命をも顧みない父と、つねに向きあって暮らしてきたのである。たとえ親であっても芸術のためといえ、人間としてそういった冷酷な面をもっていることを十分に知っていたはずである。

(14) 娘をこのように把握すると、渡邊正彦氏に指摘(注12)にもあったように、明らかに父と対峙している。否、大人たちの権力社会そのものと対峙しているのであって、平岡敏夫氏が言う〈愛する父の画のために自己の過酷な運命を甘受する娘〉(前掲)と、言えないのではなかろうか。

(15) 細川正義氏は、「芥川『地獄変』の世界」(『人文論究』第24巻第2号、昭49・8)のなかで、次のように言う。

夢のお告げでは娘はすでに奈落にいるのである。そして、今良秀の手に再現させられた地獄の奈落を描いた屏風に中で生きている。地獄絵が完成して、今度は良秀自ら娘の待つ地獄絵の中へ降り立っていくことによって夢のお告げが実現するのであり、彼の地獄変屏風はここに於いて完成となる。         

(16) たしかに、この良秀の変容は、山形和美氏も指摘するように、〈余りにも唐突すぎて説得力がない。〉(「『地獄変』―語り手の語らなかったもの―」、前掲注1)のも、否定しようがない。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/12/18

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

萬田 務

マンダ ツトム
まんだ つとむ 評論家 1938年 大阪府富田林市に生まれる。

掲載作は、1996(平成8)年3月京都橘女子大学「女性歴史文化研究所紀要」第4号に初出、2001(平成13)年10月双文社出版刊『漱石と芥川を読む 愛・エゴイズム・文明』所収。

著者のその他の作品