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戦後文学と編集者(抄)

目次

花田清輝

『ボレロ』のように――追悼

 花田清輝さんの死がまだ余りにもなまなましく、わたしは平静な気持で花田さんについて何かを書くことができない。いや、花田さんがもはやこの世にいないということで、これから以後、わたしは決して平静ではいられないだろう。わたしのなかで何かが崩れ、何かが消え、そして確実に何かが死んだ。花田さんは決して死んではいない、一冊として欠けることのない花田さんの全著作が、わたしのすぐかたわらに存在しているではないか、佐々木基一さんが弔辞のなかで引用した『復興期の精神』のなかの言葉――「すでに魂は関係それ自身になり、肉体は物それ自身になり、心臓は犬にくれてやった私ではないか。(否、もはや『私』という『人間』はいないのである。)」――のとおり、花田さんは生きたのだと、なんどみずからに言い聞かせても、わたしは慰まない。お前さんは、何ひとつ俺のことなど理解してはいないのだと、生前のように花田さんにどんなに叱られようとも。

 花田さんなどと馴れ馴れしい呼び方をしているが、わたしは、一編集者として花田さんと関係したに過ぎないし、ある時期には、『爆裂弾記』『泥棒論語』などの戯曲上演の制作者として関係したに過ぎない。しかし、一度も、花田さんを「先生」と呼んだことはなかった。花田さんはそういう人であったということで、この馴れ馴れしさを許していただくほかないが、だからといって、花田さんは、わたしにとって優しい心安まる存在であったわけではない。逆に、厳しい心ゆらぐ存在であった。その原因は、もっぱらわたし自身の側にあったのだが。『アヴァンギャルド芸術』の初版が一九五四年十月だから、その半年ぐらい前にいきなり花田さんの家に飛びこんで以来、二十年以上、花田さんの家を訪れ、単行本十一冊、著作集七冊を刊行させていただいたとはいえ、わたしは一度として花田さんと気楽に接したことがなかったような気がする。花田さんの家ヘ向う白山下からの坂道、逆に小石川植物園からの坂道、そのどちらかの急な坂道をのろのろとのぼりながら、今日もまた、花田さんに批判されることをひそかに予想し、どうしたものかと心を悩ませながら、冬でも汗をかきかき花田宅を訪れたものである。

 花田さんは、そういう人であった。花田さんは、いかなる場合も、日常的・習慣的に他と接することはあり得なかった。わたしのような一編集者といえども、である。それは、花田さんの平等感覚のあらわれであって、花田さんは、みずからで抱いた芸術運動のプログラムにおいてのみ、どのような人とも関係したのだ。従って、花田さんが、たった今柔和な微笑をうかべて同感したからといって、次の瞬間にも同じであるとは限らず、その一瞬一瞬が、わたしにとってはたえず花田さんとの対決を迫られる緊張の時であった。そこには、いささかも自然主義的連続感がなく、仕事のきれ目が縁のきれ目、運動のきれ目が縁のきれ目という、確乎とした「関係それ自身」しかなかった。このような文章それ自体が、花田さんにとってはお笑い草以外のなにものでもない。これを読む花田さんがいないから助かるようなものだけれども。

 花田さんが果たした仕事の内容について書くのは、わたしの任ではない。それはその道の専門家にまかせるほかない。しかしまた、本紙(「図書新聞」)から頼まれたように、一編集者から見た花田さん、それにまつわるいくつかのエピソードを書く気もしない。いまはただ、本紙への約束を果たすために、空しい思いで文字を埋めているに過ぎない。そういえば、花田さんに、エピソードなどと呼べるシロモノはなかったような気がする。ほんとに稀にアルコールを飲んでも、時折メシを食っても、またしばしばコーヒーを飲んでも、そこにあったのは、花田さんの芸術創造に関する話のかずかずであった。もしわたしがすぐれた記録者であったならば、それらを細大もらさず記録することもできたであろうのに、愚かな編集者であったがために、いつも顔赤らむ思いに襲われながら、みずからでみずからの不勉強をののしり、花田さんの本をくりかえし読むのがせきの山であった。最初と最後の挨拶以外、花田さんと日常的な会話をかわしたことは、ただの一度もなかったのではないか。

 かつて花田さんは、ラヴェルの『ボレロ』が好きだと言ったことがある。その理由は聞かなかったが、花田さんが亡くなったあと、わたしは『ボレロ』のレコードを買ってきて、深夜、一人で聞いた。決して感傷的になって、追悼曲をかけたわけではない。しかし、このポピュラーで聞きなれた『ボレロ』をあらためて聞いてみると、いかにもこの曲は、花田さんにふさわしいような気がした。いうまでもなく『ボレロ』は、小太鼓が終始一貫打ちつづけるリズムを基調にして、さまざまな楽器が二つの旋律をくりかえし反復する、単純といえば単純な曲である。だが、それぞれの楽器の特色を生かし、それを組みあわせ、次第に全楽器が綜合されて高まって行く『ボレロ』は、決して容易な曲ではない。花田さんは『近代の超克』を刊行したさい、その巻頭に、「ある思想が、単純な言葉で表現できないほど薄弱であるならば、それはその思想をしりぞけてよいことを示す。」という、ヴォーヴナルグの言葉をかかげたことがあるが、そういう意味でも、『ボレロ』は、花田さんにふさわしい。と同時に、『ボレロ』は、オーケストラの構成メンバーにとっては、ある意味で難曲中の難曲でもある。なぜなら、各楽器の奏者は同じ主題によってその力量をためされるからである。一人一人が最高の腕をふるってそのパートの任務を果たし、そして協同して主題を高めていく曲だからだ。

「生涯を賭けて、ただひとつの歌を、――それは、はたして愚劣なことであろうか。」という、花田さんの有名な言葉がある。花田さんは、いかなる時代、いかなる場所を対象としても、ただひたすら、現代の「転形期をいかに生きるか」という「ただひとつの歌」に生きた。そして、一人一人の力量をそれぞれの立場で発揮させつつ、それらを結集してひとつの芸術運動に高めようと、生涯を賭した。くりかえし主題を反復しつつ、それぞれの芸術家が遠くからきたり、やがて結集して緊張感を高める『ボレロ』のように。花田さんのレトリックや豊富な知識が、難解なのではない。素朴に花田さんの主題を読みとれない、わたしの側にあるさまざまな夾雑(きょうざつ)物が、問題なのだ。面と向って花田さんにそう言うこともできず、結局は、花田さんの寛容な相手に対する激励や期待に、何ひとつ報いることができないうちに、花田さんは死んでしまった。あの『ボレロ』が、あっという間に一挙に曲を閉じるように。

 一九七四年九月二十三日午前零時二十五分――これを限りに、花田さんは、もはやこの世にいなくなった。ある時、わたしは、友人に向って、「もし花田さんが一人いなければ、相当気が楽なんだがなあ」と、実に不遜な冗談を言ったことがある。それほど、わたしは絶えず花田さんを気にし、縛られていたように思う。花田さんは絶えず、相手を呪縛から、あらゆる意味での呪縛から解放しようと腐心していたにもかかわらず。そうだ、もはや、花田さんを過ぎ去った思い出のなかに閉じこめる時ではない。いつまでも喪家の犬のように、首うなだれている時ではない。灰色の夜明けが窓にしのび寄っているいま、『復興期の精神』から『日本のルネッサンス人』に至る花田さんの全仕事の意味を、明日に向って生かさなければならない。花田さんが教えたのは、勇気をもって「時代のオリジナリティ」にこそ献身せよということではなかったか。

平野 謙

“命運”を担って――追悼

 平野謙さんの近代文学社葬が行なわれた四月十二日(一九七八年)は、朝から風をまじえた細い雨が降っていた。その前日あたりには、ほぼ桜が満開だったのだが、冬に逆戻りしたかのような冷えびえとした雨に打たれて、桜の花びらはあっという間に舗道に散り敷いていた。

 東京・青山葬儀場内の祭壇中央には、鋭さと優しさとが同時併存する平野謙さんの、あの張りのある凛々しい顔写真が飾られてあった。“ロマンスグレイ”になってからも、男にはふつう使わない表現だが、わたしは、平野さんの顔を役者にしてもおかしくない、“美貌”とすら思ったものである。平野さん自身若き日のみずからを「白(はくせき)痩身の美青年」と書いているほどだ。その写真のほかは、一個の骨壷と一個の位牌と、それらが二本の燭台で守られ、そして白い花々が祭壇を埋めつくしていた。簡素だったが、いかにも平野さんらしい、いや、『近代文学』の同人の方たちらしい葬送の仕方と思えた。

 一九五六年十一月、平野さんの評論集『政治と文学の間』が未来社から刊行されたが、その「あとがき」に、「本書の出版予告が未来社の刊行物にかかげられたのは、もう三年ちかくも前のこと」とあり、「爾来ジンセンとして三年ちかくの歳月がとびさってしまった」とあるから、わたしが平野さんにお会いしたのは、すでに四半世紀も前、未来社に入社した年の一九五三年ということになる。その年の七月には、『現代日本文学入門』(要書房)と『島崎藤村』(河出書房市民文庫)の二冊が相次いで刊行され、後者には、平野さんが寄贈してくださった署名があるから、未来社に入社した四月以後、まもなく平野さんのお宅にうかがったことになる。その家は、小田急線柿生駅からほど遠からぬ小高い丘のあたりにあった。年譜によれば、平野さんは、前年の一九五二年に藤沢市から川崎市上麻生に転居している。

「いやあ、雨が降らねえんで、井戸水がでなくてねえ」と、平野さんが、独特の苦笑いをうかべながらべらんめえ口調でいったことを覚えている。とするとその借家は、水道がなかったか、あるいは、高台のためにポンプの力が弱くて水を吸いあげられなかったか、いずれにしても水飢饉に悩まされたホコリっぽい家であった。『政治と文学の間』が刊行された年に、平野さんは終焉の地となった世田谷区喜多見に移転しているが、その家は、未来社に入社する前、夜間高校の講師をしていた頃に知りあった、当時は一匹狼のタタキ大工で、いまは小さいながら建設会社の社長となった庄幸司郎こと、庄さんが手がけたものである。水もロクに出ない平野さんの家難儀を見るに見かねて、庄さんに一臂(いっぴ)の労を仮してもらったのだった。

 つまり、一九五三年から、評論集『組織のなかの人間』を刊行した一九五七年までの足かけ五年間が、平野謙さんと駆けだしの一編集者としてのわたしとの、一種の蜜月時代であった。小田切秀雄・山本健吉両氏との共編になる『現代日本文学論争史』全三巻も、この間にまとまった。平野さんの本づくりと家づくりに、この五年間ほど夢中になったことはなかったのである。わたしは、平野さんの書いた雑誌や新聞をキリ抜き、それらを粗末な厚手のハトロン紙にはり、やがてまとまるであろう評論集のために、せっせと届けた。わたしも若かったが、平野さんは今のわたしより若い四十代後半であった。そうしながら平野さん庄さんと、安い月賦ばらいの土地をさがした。建前の夜、一升びんをぶらさげて行くと、若いタタキ大工数人に囲まれて、一滴も飲めない平野さんは律儀につきあい、顔をほころばせていた。木屑やカンナ屑を燃やしたその夜の篝火(かがりび)は、今もわたしの目の前であかあかと?をあげている。

 当時、わたしは、どんなに夢中になって、平野さんの文章の一つ一つを読んだろうか。『現代日本文学入門』における、かの有名なプロレタリア文学と新感覚派文学と私小説を中心とする既成のリアリズム文学との三派鼎立論、その延長線上における歴史的必然としての、民主主義文学と戦後文学と風俗小説との三派鼎立論、これは恐らく、「封建的な生活感情と、資本主義的な生活様式と、社会主義的な生活志向とが重層的に存在し得る、わが国の特異な社会構造の文学的反映」と断じた平野テーゼに、わたしは仰天した。こんな“昭和文学史論”を、いまだかつて読んだことがなかったのである。これが、『現代日本文学論争史』を企画するパン種にもなった。また『島崎藤村』のような本が一冊書けたら、人間もって瞑すべしと思ったものである。市民文庫版の前身ともいうべき、筑摩書房北海道支社(札幌市南一条西四丁目十二)という奇妙な奥付のある、一九四七年八月に刊行された平野さんの処女出版・ウル『島崎藤村』をわたしは大事に保存しているが、その「あとがき」に、平野さんは『新生』論を「書きながら乏しいインキ壺のインキの減ってゆくのが眼にみえる経験に励まされた」と書いている。わたしはといえば、平野さんの文章を読みながら眼のウロコが一枚一枚はがれて行く経験に驚き、ある快感をすら覚えていたのではなかろうか。一九四八年に刊行された『戦後文藝評論』(真 善美社)とともに、この時期の平野さんの文章群のそれぞれは、わたしに文芸批評というものの確乎とした存在理由を示したのである。

 ところで、わたしは一編集者として、しかもある時期に限って特に深く平野さんと関係したに過ぎない。とても口はばったいことはいえないが、平野さんの死に直面して、二十数年ぶりにウル『島崎藤村』の「あとがき」を再読し、あらためてある感動を覚えた。ここには、次第に戦争が苛烈化し、末期的症状を呈しはじめた日本に寄りそうようにして、同じく崩壊して行く平野さんのファミリー・ヒストリーが描かれているのだ。弟の戦死、父と妹の病死……。「日本の運命と折り重なって土崩瓦壊(どほうがかい)するわが家の命運をまのあたり見る思いがした」と平野さんは書いている。しかし、いや、それ故にというべきか、「歯をくいしばって『新生』論のノオト」を平野さんはとっていったのだ。日本の瓦壊とファミリーの瓦壊、それは、あらゆる家庭的・個人的不幸、犠牲にも堪えて作品を書きつづけた島崎藤村とも重なり合うものではなかったろうか。平野さんの最高傑作ともいうべき『島崎藤村』にみなぎる緊迫した批評精神は、時代と批評対象と個人的経験との見事な綜合から生まれたものであることを、わたしは、おくればせながら再認識したのである。

 平野さんは“ナニナニとナニナニの間”に身を置くことを好んだ人と、一般にいわれている。みずからもそう書いている。『政治と文学の間』という書名も、確かに平野さんがいわれるとおり、わたしが仮題としてつけたものがそのまま決定したものだが、すでにして平野さんは、文芸評論家が、実作者でもなければ学者でもない中途半端な場所に位置する“命運”を担ったものであることを、戦争中、みずからに深く体していたのだ。それは中途半端な地点に身を置き、どちらにもかかわることなく安全圏でぬくもろうとしたわけではなく、かえって一方に身を置いたものの無残な“土崩瓦壊”ぶりをまのあたりにみることによって、みずからの道すじをあきらめと積極性の織りあわさった決意で選択したというべきではなかろうか。それはそのまま、封建的な残滓(ざんし)と資本主義的な発展と社会主義的運動とが三派鼎立する日本的現実から身をそらすことのできなかった平野さんにとって、必然の選択であった。芸術と実生活、本格小説と私小説等、平野さんは対立する緊張した二極間に危うく立つことによって、かえって両極を見すえることができた。平野さんが、いわゆる伝統的な文壇文学のみならず、新しい作家や作品の出現にもいち早くすぐれた評価を加えたゆえんであろう。

 その頃、というのは、平野さんの本づくりと家づくりにせっせと動きまわっていた頃、わたしは同時に、花田清輝・埴谷雄高氏の評論集づくりにも血道をあげていた。埴谷さんは、平野さんとは戦争中の『構想』から戦後の『近代文学』にかけての同人仲間であり、またたとえ主義・主張が異なろうとも、それぞれが所有する思考方法や性癖なりに無限に寛容であった。しかし花田さんはそうではなかった。“ナニナニとナニナニの間”とは何ごとか、そういうアイマイなところに関心を示すのが、君なんか(わたしのこと)のダメなところなんだと、花田さんは目をむいてわたしを批判した。その通りだと思った。

「上梓するとなると、さきにかかげた『政治と文学の間』という仮題は、ヨワクもあり、曖昧でもあるから、もうすこしマシな標題を考えてもらいたいと松本君の方でいいだしたが、私の方はまた反対に、松本君が命名してくれたらしいこの『政治と文学の間』という標題がだんだん気に入りはじめたのである。この分かったようで分からぬ標題こそ、私の批評的発想を簡潔にいいあてている、と思わぬわけにはゆかなかった」と、平野さんが『政治と文学の間』の「あとがき」に書いたのは、このようなイキサツがあったからである。まことに編集者稼業はつらいものであった。冗談をいえば、花田さんの“芸術革命”、埴谷さんの“架空凝視”、平野さんの“現実密着”という三派鼎立のはざまに立って、駆けだし編集者は、それぞれに心奪われつつ、いかにせんかとみずからを嘆くばかりだった。しかし、どれ一つも捨てることはできないのであった。

 平野さんの『文藝時評』『文壇時評』『新刊時評』(各上下巻、河出書房新社)という、前人未踏の目くばり十分の“時評”は、三派鼎立、二極間対立の困難な“命運”に徹することなくして、どうして果たし得たろうか。「めんどうくさくて、誰がこんなのにいちいちつきあっていられるかい」という平野さんの一方の声も聞こえるような気がしないでもない。このごろは新聞の文芸時評など、単行本をとりあげたり一篇の作品にマトをしぼったりする傾向が強くなったが、これは一面では逃げの一手でもある。そんなに月々生産されるものにつきあいきれないのである。または、みずからのマナイタに相手をのせて料理するか乃至は挨拶するのが大方なのである。しかし平野さんは、想像を絶する忍耐力でそれぞれを読みこみ、料理もしなければ挨拶もしなかった。ただひたすら、昭和文学、主として戦後文学のインデックスを作成したともいえる。誰がどの時期に何を書いて平野さんがどう評価したかということは、後世の人たちは一つの規準として索引するだろう。また、『新刊時評』を見れば明らかなように、平野さんは、外国文学の作品に対する発言はほとんど稀であった。対象をこれほど徹底して日本の近・現代文学にしぼった批評家もいない。さらに、異なったジャンルに対しても発言をひかえた。映画や演劇やテレビなど、いわゆる視聴覚文化に対して、「てんでわからねえや」とテレながら発言しようとしなかった。活字となった日本の小説や評論にのみ、みずからの批評家としての対象を限定したのである。そのことの是非は別にして、平野さんはそういう人であったし、またそうしなければ、あれだけの“時評”の金字塔をたてることはできなかったろう。

 かつてのある日、平野さんは、わたしに向っていった。――「君ねえ、はじめは、立場のはっきりした小さな出版社から本を出すのがいいんだ。それは、主張がはっきりするからね。しかしあとは、大出版社がいいんだ。経済的にも安定するからねえ」と。まことに率直な意見であり、おっしゃる通りですとわたしは思った。一九五三年から五七年にかけてのわずか五年ほどの平野さんとの蜜月時代だけで、しがない一編集者としては十分であった。『作家論』(一九七〇年)と、平野謙対話集『藝術と実生活篇』『政治と文学篇』(一九七一年)の三冊は、いわば附録のようなものである。しかしこれだけの仕事を通して、わたしは、文学について平野さんからどれだけ多くを学んだろうか、計り難い。「いやあ君、実につまらねえ小説なんだけどね、なんとか解説をでっちあげたところさ」と、つやつやした額のあたりを手でたたき、にやりと笑う平野さんは、わたしの回想のなかから永遠に消えない。

 弔辞は、中野重治氏からはじまった。当然である。しかし、中野さんが何をいおうとしているのか、はじめ、わたしにはわからなかった。耳をすますと、わたしもかつて愛読した、かの有名な中野さんの『「暗夜行路」雑談』の原稿か書きこみのゲラかが、平野さんの手もとにどういうわけかあって、『全集』の校訂に必要になりそれをさがしてもらったことが、平野さんのからだにきつかったのではないか、そのことが気にかかり、すまないことだったと思っているというようなことを中野さんは、いかにも中野さんらしく、うねうねと語りかけているのであった。ふつうの弔辞の常識からすれば、いかにもケタはずれのそれは弔辞であって、まるで一篇のエッセイか小説を聞いているようであった。中野さんと平野さんの長い、そして深い作家と批評家の関係を思い、胸に重いものが落ちた。弔辞は、山本健吉氏、藤枝静男氏、埴谷雄高氏、大江健三郎氏とつづいた。大江氏は、広津和郎氏の『散文精神について』の一節を引いた。あの何もかもが一方の極に傾いて“土崩瓦壊”する苛烈な戦争期に、「どんな事があってもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通して行く精神」としての散文精神を説いた広津和郎氏の姿勢は、まさに平野さんの批評精神を支えるものであった。葬儀委員長の本多秋五氏が平野さんの病状報告と会葬者に挨拶をした。平静に、正確に本多さんは話しはじめたが、途中で絶句して涙をのんだ。本多さんと平野さんの五十年余の友情を知る者の一人としてまことにつらい一瞬であり、わたしは顔をあげることができなかった。平野さんの写真に向って一輪の花を献げた時、日本の文学にとって最も大事な柱の一本が倒れたと、わたしは思った。

武田泰淳

『汝の母を!』――追悼

 武田泰淳氏が亡くなった夜、わたしは、一つの短篇を読みかえして、氏を追悼した。いま(一九七六年)からほぼ二十年前に書かれた、二十枚ほどの短篇『汝の母を!』である。わたしは、この作品が好きだ。いや、好きというより、武田氏の文学を考える時、おのずとわたしの胸にこの一篇は突き刺さってくる。何回読みかえしたか知れないその作品を読みながら、不覚にもわたしは深夜、一人涙を流した。自殺とさえ思えるほど急速な死を死んだ武田氏は、死んで、『汝の母を!』のなかで日本軍兵士たちによって生きながら最大の屈辱を受け、焼き殺された中国の母と子に出会ったのだと思う。その母と子に代表される無数の中国民衆の死のなかに帰ったのだと思う。

 『汝の母を!』は、日本軍兵士たちが、密偵として捕らえた中国人の母と息子に性行為をやらせて見物し、あげくに彼等を焼き殺す小説である。なんということだろうか。その中国人の母子をとり巻く者は、農村で役場の書記をしていた隊長であり、「赤ん坊を生んで、まだ三日とたっていない母親を強姦した」強姦好きの肉屋の上等兵であり、炭焼出身、人夫出身、自作農出身の兵士たちであり、その他、「私」をふくめての見物人、立会人である。「私」を武田氏自身と考えていいと思う。息子に母を犯させるという上等兵の「面白い考え」に、「毛虫でも払いおとすように首を振っ」た「私」は、「あんたもダメね、インテリだから」と上等兵にからかわれ、ついにその光景を目撃しなかった。しかし「私」は、その二人の犠牲者が、お互いの命を助けあおうとして、どういう行為を日本軍兵士のニタニタ笑いの前でしなければならなかったか、そのすべての光景を魂に焼きつけ、背負ったのだ。

「汝の母を!」=「他媽的!(タアマフデ)「ツオ・リ・マア!」という中国特有の「国罵」は、「汝の母を性的に犯してやるぞ!」という、最大の侮辱的言辞である。その罵言(ばり)を、こともあろうに、加害者である強姦好きの上等兵が、「実演させられる母子二人」に向って投げかけるのである。背すじに、冷たいもの、熱いものが走りぬけた「私」は思う。――「彼ら母子こそ、日本兵の祖先代々の母たちを、汚してやる権利があったのではないか」と。小説の最後の数ページは、「天のテエプレコオダア」「神のレエダア」で記録された母と子の美しい対話、「私」の魂にのみ聞こえた中国民衆の母と子の苦悩の対話となる。母はいう。「お前は今こそ、私の肉の肉、私の骨の骨だよ。今こそ、お前は私から離れ去ることができないのだ」――子は叫ぶ。「ツオ・リ・マア!」と。そして思う。「……いつか誰かが、どこかで叫んでくれる声が、今かすかに、私の肉にきこえてきたのだ……」

 この一篇にこめられた武田氏の中国民衆の犠牲者たちに対する愛と、人間に対する悲しみは、そのまま、氏の「生き恥」と化した。この場面に立ち会った人間として、以後の生涯を、たえず、「ツオ・リ・マア!」という罵倒をみずからに投げかけ、聞きながら生きたのが武田氏である。おなじ民衆――肉屋や炭焼や人夫や農民でありながら、日本の民衆は、中国の民衆になんということをしたのだろうか。天にも恥じよ!祖先代々だけではない、その末裔としての日本人一人一人に向って、中国民衆こそ、「ツオ・リ・マア!」と叫ぶ権利を持っているのだ。それは、単なる不幸な過去の事実ではない。武田氏が、いつも恥じらい、うつむき加減に、悲哀をこめて、ひたすら「滅亡」することへの志向を秘めて生きた道すじは、そのまま、この作品のなかに描かれた母子への回帰、つまりこの母子によって代表される中国民衆の犠牲者たちへの限りない同一化、埋没にあったと思う。

 いま、武田氏は、この母子の前に立って、どうぞ思いきり、わたしに向って「ツオ・リ・マア!」と罵って下さいといっているかも知れない。罵られるのは、武田氏でないにもかかわらず、あらゆる過去の日本の罪障を一身にひき受け、氏は、「厖大(ぼうだい)にして計量不可能」といわれる、日本人によって殺戮(さつりく)された中国民衆の前に、同じように、シャイな面貌で立っていることだろう。

 『汝の母を!』一篇を、わたしは武田泰淳氏の文学の記念と、同時に、中国と日本の民衆の未来への記念として、決して忘れはしないであろう。

竹内 好

近代化の質の問題――追悼

 一九四九年に刊行された竹内好氏の『魯迅雑記』(世界評論社)の巻頭の一文、「魯迅と日本文学」がわたしは好きだ。(これは一九五一年に刊行された『現代中国論』《河出書房市民文庫》に「文化移入の方法」と題されて再録された。)去る(一九七七年)二月三日急逝した竹内好氏には、戦後三十年余、わたしはどれだけ多くのことを学んだか、ありきたりだがまさに筆舌につくし難い。いまあらためて、「魯迅と日本文学」を読むと、二十代に入ったばかりのわたしが、傍線を引き引きどんなにこの一文に感動したかの痕跡がある。竹内好氏の生涯を賭した仕事の全容を一言でつくすことは不可能だが、誤解を恐れずにいえば、氏は、結局、日本の近代のありようを疑い、批判し、否定し、あるべき真の近代を魯迅をとおしてわたしたちの前に提示しつづけたのではなかったか。しかし無論、日本の近代はとりかえしようのない道を歩んだ。氏の絶望の深さは、近代の名のもとに押しひしがれた日本に限らぬアジア民衆の苦悩の全体と重ねあわざるを得なかった。

 上の一文において、氏は、「日本文学は、自分の貧しさを、いつも外ヘ新しいものを求めることによってまぎらしてきた。自分が壁にぶつからないのを、自分の進歩のせいだと思っている。」と書いた。そしてさらに「魯迅の目に、日本文学は、ドレイの主人にあこがれるドレイの文学とみえていたのではないかという気がする。」と書いた。いうまでもなく、ことは、日本文学にのみ限らず、文化一般の移入の仕方にかかわっている。日本の近代の形成の仕方の根本にかかわっている。氏は、日本の近代文学がヨーロッパの第一流のものを次から次へと漁ったことと、魯迅がヨーロッパの近代文学からすれば二流か三流の、主流でない傍系からとり入れたことを対比する。魯迅はおくれていたのか、まわり道をしたのか。否である。ヨーロッパの文化に近づこう、近づこうという態度で自分を近代化した日本の「近代」とはいったい何だったのか。すでに四半世紀以上も前、敗戦直後の氏の指摘が、いまなお、日本の文化を根底的に問いなおすことになっていない現状を、わたしは心から無念に思う。『魯迅文集』(筑摩書房)全七巻の業なかばにして竹内好氏が(たお)れたことが口惜しいのではない。決して長くはない生涯において、氏は十分すぎるほどわたしたちに問題のありかを示しつづけた。わたしが口惜しいのは、魯迅を手がかりとして、日本の「近代化の質の問題、ひいては近代のあとに何が来るかの問題」(『魯迅文集』第一巻解説)を、氏がこれほどわたしたちに問いかけたにもかかわらず、いまだにドレイ根性によりかかって成り立った日本の「近代」にあぐらをかく、文化・思想一般の寒々とした風景である。氏は死んでも死にきれない思いであろうと思う。しかし、魯迅の『藤野先生』のごとく、氏の仕事を思うと、わたしは「たちまち良心がよびもどされ、勇気も加わる。そこで一服たばこを吸って」、氏の死を深く哀惜しつつ、遺志をつごうと決意する。

富士正晴

酒大いにのみ のたれ死にがよいとのんで…――追悼

 富士正晴さんの自室には、(ぬし)はいなかったが、その他のものはそのままあった。煙草のヤニで背が赤茶けた自著のかずかず、それよりもっともっと多い他著のかずかず、それらが古びて傾きかかった本棚に無雑作に並んで、昼なお暗い四畳半の大部分の壁を占め、畳の上にも本や雑誌が横一列に並んだり放り出されていたり、テーマ別と思われる新聞切り抜きのスクラップ帖も何冊か。ふすまが開きぱなしの押入れには、竹内勝太郎の資料ということがマジックで書かれたダンボール函が五、六個、そして小さなちゃぶ台のような机、さまざまなガラクタ、絵の描きかけ、吸いガラ・灰皿、ゴミ屑……。そこにいないのは、富士さんだけであった。

 部屋につづく板の間に足を踏みだすと相変らず床はしなって沈みこむ。奥の方の部屋や台所では、親族の方々や『VIKING』のメンバーの人たちが、通夜の仕度で忙しく立ち働き、富士さんの孫らしい赤ん坊の泣き声やそれをなだめる娘さんの声も聞こえた。しかし、火葬場に行ってしまった富士さんだけはどこをさがしても姿も見えず声も聞こえず、奥の部屋の壁に、富士さんは一枚の写真――自筆の屏風絵の前にあぐらをかき、片手を高く天にのばし、おおらかな笑顔を見せた写真――となって立てかけられていた。

 富士正晴さん死去の知らせを受けた(一九八七年七月十五日夜)翌日の午後、わたしは富士さんの大嫌いな新幹線に飛びのった。車中、未来社の編集者時代の一九六四年に作った小説集『帝国軍隊に於ける学習・序』を読みなおした。実に粗末な本を作ったものだなとみずからにあきれながら。しかし、この一冊を作りたい一念が、以後、四半世紀に近い富士さんとの得難い出会いの一瞬一瞬を生んだのだと思うと、この粗末な本を褒めて上げたい思いに駆られた。そして巻頭の『童貞』を戦後文学の代表的傑作とつねづね人に語っている根拠は、ますますゆるがなかった。小説は、主人公の増原伍長の戦死、「それでわたしは少し泣いた。」の一行で終るのだが、ここに至って、わたしも少し泣いた。富士さんはもういない……。

 かつてわたしは、名著のホマレ高い本多秋五氏の『物語戦後文学史』にイチャモンをつけたことがある。なぜなら、富士さんについては、あの大著の中で、野間宏氏の『真空地帯』評と、梅崎春生氏を論じた箇所で名前をひきあいに出しているに過ぎないからである。長篇『贋・久坂葉子伝』と『小ヴィヨン』は、昭和三十年代、『近代文学』に連載されたにも拘らず、である。勢い余ってわたしは、あまた「文学全集」が編まれ刊行されるにも拘らず、「富士正晴集」が一本で出たためしがないことを嘆き、「それほど、富士正晴さんの文学はダメか。ダメなのは、文学全集の編者やそれらと同じ眼しか持たぬ編集者の方である。」と書いた。十年以上も前に書いたものだが、事態は何一つ変らず、わたしの思いも変らない。いくら嘆いても富士さんはもういない……。

 かぼそい一つの慰めは、せんだって、大嫌いな新幹線に乗って、大嫌いな東京に来て、娘さんの家に富士さんが滞在した時、何人かが寄り集って例によって飲んだり、人をこきおろしたり、大きくは日本を慨嘆したりすることができたことである。そして、写真集『作家の肖像』(影書房)にも、あの独特の文字で“近況”を書いてもらった。そこにはこうある――「酒やめてたばこやめて長生を志すかといえば わしや少々生きすぎて 酒大いにのみ のたれ死にがよいとのんで ねていたら孝行むすこに酔っているうちに東京へはこばれて気にくわぬうちに半年也」

 気にくう自室に戻って、富士さんは一人で斃れた。気にくわぬ東京に住むわたしたちにも、優しい別れの挨拶をして……。酔っぱらった富士さんを抱きかかえて歩いた数カ月前のぬくもりを思いおこしつつ、もう一度、主のいない富士さんの自室に別れを告げた。しかし、「お前、起きとったんかい」と、今晩の夜中にでも、富士さんから例の激励の電話がかかってくるかも知れないと、チラリと思った。

丸岡秀子

“川の流れのように”――追悼

 丸岡秀子さんは、スメタナの交響詩『モルダウ』が好きだと、『ある戦後精神』(一ツ橋書房)の中で書いている。「チェコ国境の山々を出て、ボヘミヤのゆるやかな平原をすぎ、聖ヨハネの急流となり、そしてエルベ川となって北海に注ぐ。」モルダウ川を、みずからの生まれ育った故郷を貫流する千曲川に重ね合わせてのことである。丸岡さんは、千曲川の「川の姿を、自分の人生になぞらえたり、世の移り変わりに見たりして育った。」とも書いている。

 有名な歌謡曲のセリフではないが、丸岡さんは、“川の流れのように”その生涯を生き抜いた人である。「一滴、一滴のしずくを集め、沢の水を呼び、支流を合わせて、勢いを増そうとしている。」川の流れの“一滴”に心を寄せ、その流れに身をゆだねた人である。川には、民衆の生活の喜びや悲しみ、そして嘆きや怒りが、ゆるやかに、あるいは激しく流れこみ、しかもその流れは絶えることがない。

 丸岡さんが、八十七年の生涯を賭して後世のわたしたちに遺した精神の遺産のかずかずはまた、まさに豊かな水量を湛えて流れる川のように、深く多岐にわたっている。晩年、『日本婦人問題資料集成』全十巻(ドメス出版)の編集(共同)・解説に集中的に結晶した女性史研究のみならず、農村・教育問題をはじめ、社会・思想等にわたっての仕事の総体が現在に語りかける大きさは計り難い。しかも『ひとすじの道』(借成社)という、日本の近代文学史上、屈指の自伝文学もわたしたちの手元にある。

 いうまでもないが、川が低きに向って流れるように、丸岡さんは、日本社会の最も低い地帯で生きる人びとと常に共にいて、その立場から人間のあるべき姿を考えることを終生貫いた。幼少にして、貧しい農村地帯に育った丸岡さんは、農民が日々受けなければならない苦難・労働、そして封建的遺制のもとでの女性に対する差別を、成長・勉学の過程でからだに刻みこんだのである。どのように政治の世界が転変しようとも、貧困・差別という社会の矛盾が集中した低い位置からものを見、変革する道をわたしたちに示しつづけた。

 川の水が大地にしみ通り、沃野を開くように、丸岡さんは、近代における女性解放運動の先達たちの輝かしい伝統と、戦後における民主主義運動、平和憲法・非戦の誓いを、生活のすみずみに惨透させるため、小さなかぼそいからだに鞭打って全国を駆けまわり、無数の集会で訴えつづけた。どのような高邁な理想も、日常の中で“生活化”しなければならないというのが、丸岡さんの信念であった。丸岡さんを育てた祖母が、「苦労を泣かせるな」とよくいったという。平和憲法ひとつをわたしたちが手にするまで、どれだけの民衆の日々の苦労が堆積したことだろうか。川は、それらの苦労をのせて、今日も流れつづける……。

 未来社在籍中の一九七〇年代後半、『丸岡秀子評論集』全十巻(未来社)等の企画・編集で丸岡さんと直接出会えたことは、わたしの編集者人生にとってかけがえのない経験であった。丸岡さんと直接お目にかかったのは、従って十数年間に過ぎなかったが、その対話での一瞬一瞬の記憶は、今もわたしの怠惰を鞭打ってやまない。といっても、丸岡さんは、決して緊張しっぱなしの堅い方だったわけではない。友人数人と何回かもった丸岡さんを囲む小さな集まりも楽しかったが、そういう席でのユーモアや若々しく華やいだ仕種、そして相手を想いやる優しい言葉は、陽の光にきらめきながらゆったりと流れる川のように温かかった。しかし、愛娘・明子さんの死(一九八六年一月)という逆縁は、まさに荒れ狂う川のように悲嘆の限りを思わせて傍目にも耐えがたいことだったが、『声は無けれど』『いのち、(ひびき)あり』(ともに岩波書店)の二冊が、わたしたちに「遺書めいた想い」とともに託されたのである。

 いま、交響詩『モルダウ』が、わたしの胸の中で響いている。

井上光晴

ある追悼文のこと

 井上光晴さんがいなくなって、この世は一段と静かに、つまらなくなったようだ。それは単に、日常的に井上さんの“大音声”による社会批判や、あることないこととり混ぜての話題や、周囲を楽しませる突飛なパフォーマンスに、もはや接することができないという寂しさだけではない。井上さんという存在が消えることによって、現代日本の文学界や思想界などのタガが、またひとつゆるんだということなのである。逆に言えば、ある一個の時代に対する批判的存在が斃れることによって、その批判にさらされていたものたちは、安心して堕落することができるということだ。むろん井上さんだけではないが、そういう存在を一人一人失うことによって、戦後日本は、一歩一歩、つまらなくなってきたといえるだろう。

 井上光晴さんの死については、新聞・文芸雑誌・テレビ等で数多くの追悼があった。それはそれで構わないが、『新日本文学』(一九九二年夏号)の針生一郎さんの「追悼 井上光晴」という文章には驚いた。これこそがタガがゆるんだひとつの見本だろう。文壇の文芸雑誌ならいざ知らず、少なくとも新日本文学会の機関誌である。井上さんは、一九六九年に新日本文学会を退会したが、それまでの井上さんと“会”とのかかわりについての重要な一ページにはいささかも触れず、井上さんが本当に“港湾人夫”をしたことがあるかどうか、ソ連や中国で酒をのんでどうだったかなど、それはゴシップをつなぎあわせたフ抜けた文章以外のなにものでもない。これで果たして、瀬戸内寂聴さんや谷川雁さんの弔辞を「キレイゴト」とか「こけおどかしの名調子」といえるかどうか。「会に対するもっとも仮借ない批判者」が消えたことで、ホッとしたあまり、面と向って言えなかったことを思い出すままに羅列したに過ぎない文章である。

 いうまでもなく、井上さんの処女作といってもいい『書かれざる一章』と、島尾敏雄さんの『ちっぽけなアヴァンチュール』の『新日本文学』誌上での発表経緯(一九五〇年)は、単に新日本文学会にのみにかかわらない、戦後文学史上、無視することのできない文学的・思想的一事件であった。そして、針生さんも触れている、井上さんの“退会”のキッカケとなった“ソ連軍のチェコ占領”(一九六八年)という政治的事件とをつなぎあわせると、現在の社会主義国の頽廃・解体現象に対する井上さんの先駆的な危惧・批判がどのように大事なものであったかが、深く思い返されるはずである。そればかりではない。『ガダルカナル戦詩集』等の短篇のみならず『死者の時』や『荒廃の夏』等の長篇をタダ原稿でも『新日本文学』に連載しつづけた(一九五九~六四年)貢献も大きい。しかし針生さんはこれらにはほとんど触れず、どちらかといえば、死者をゴシップで矮小化することに腐心し、みずからはきちんと身を処していたことを示そうとするかのようなフシさえみえる。日本共産党の機関紙「赤旗」のように、中野重治さんや古在由重さんが亡くなろうがどこ吹く風、かつての同志・僚友でも離党(退会)し道を異にしたものには非難・攻撃こそすれ、その功績どころか死の事実にすら一切触れないという恐るべき新聞もあるが、死者を正当に評価せず、かえって貶しめるような追悼をするよりは、まだしもという気さえする。

 わたしはなにも、井上光晴さんの文学と生涯をほめたたえよといっているのではない。井上さんに対する文壇的諸関係にも批判はある。それやこれやで、生前、井上さんとずいぶん議論もしてきた。ただ、わたしも会員である新日本文学会が、このような、喫茶店の片隅ででっち上げたような、死者に対する痛恨の思いのひとかけらもない、精神的緊張感を欠いた追悼文で、井上さんを“追悼”したつもりでいることに唖然とするだけである。井上さんの著書の表題すら正確に書かない文章をチェックもせず、“編集委員”“編集部”“事務局”は本当にこの文章が井上さんへの“追悼”にふさわしいと思っているのだろうか。

 まあ、こんなことはいくらいっても仕方のないことだ。わたしには、一編集者として『ガダルカナル戦詩集』(一九五九年)を刊行して以来の、三十数年にわたる井上さんとの文学的なかかわりと、酒を酌みかわしての楽しくも学ぶことばかりだった多くの日々の記憶があればいい。いまは、なにものにもかえがたい喪失感があるのみだ。井上光晴という一個の存在は、楽しく刺戟的で、決して精神の低い地点で妥協せず、貧しい人間の側に立ち、時代の不正に向って正面きって屹立したといえる。ただひたすら、ほとんどの人がそうであるような、安定した作家の個人生活を守ったわけではない。そのことは、三次にわたる雑誌『辺境』の編集・刊行や、文学伝習所の運動でも明らかだ。しかし、相当に騒々しく批判の矢を現実と人間に放ったことも事実だ。その井上さんは、もう、いない。かくしてタガはゆるみ、批判にさらされていた現実と人間は、堕落への道を加速するだけだろう。もはや、それはどうしようもない。ひとり、針生さんや新日本文学会のみならず、わたしも含めての日本全体なのだから。ただ、そのことを自覚して生きるかどうかに、すべてはかかっている。

渡辺 清

ヤスラカニネムラズ…――追悼

 北緯一二度五〇分、東経一二二度三五分、水深一三〇〇米の海底に、いまもなおその残骸をとどめているものがある。戦艦武蔵である。かの太平洋戦争末期、戦艦大和とともに偉容を誇った武蔵は、一九四四年十月二十四日、日本の連合艦隊最後の日ともいうべきレイテ沖海戦で、米軍艦載機の文字どおりの猛攻撃を受けて海底の藻屑と化したのである。いや、海底深く消え、三十七年間たったいまも眠りつづけているのは、武蔵と運命をともにした乗組員約二千三百名のうち、ほぼ三分の二にあたる人命である。『私の天皇観』(辺境社発行・勁草書房発売)の著者・渡辺清氏は、その数少ない生存者の一人として、戦後の「復員休暇」を、ただひたすら天皇の戦争責任追及に捧げたといっていい。戦没者三百十万余は、どうして死んだのか。いうまでもなく天皇の命令によってである。十六歳で志願兵として海軍に入った渡辺氏は、天皇を信じ侵略戦争のなんたるかを知らなかったみずからの責任も問いつつ、天皇を告発し、戦争で斃れた死者たちと「共生」する「拠点」を、「一センチ」も動かなかった人である。

 魚雷・爆弾を雨あられとくった沈没寸前の武蔵の甲板で、頭を砕かれてあおむけにひっくり返った友、腹が裂け飛びだした臓物をもう一度腹につめこもうとする友、傾いた旗竿にしがみついて「母ちゃん、母ちゃん」と黄色い声で叫んでいた十六歳の少年兵、彼等死者たちのいまわのきわの姿が、戦後の渡辺氏の生を決定する。戦後もまた、渡辺氏にとっては「天皇にならって国民的規模で無責任の大衆化」と見える。本書の後半に収められた“天皇に関する日録”は、戦争責任に口をぬぐい、退位もせず生きのびた天皇にかかわる「生活的・物質的側面」からの批判である。一例―― 一九六一年、天皇の新居・吹上御苑の総工費約一億七千万円。一九六八年、新宮殿落成総工費約百三十億円……。

 今年(一九八一年)の四月二十九日、天皇八十歳の誕生日。悪性の胆管ガンの疑いもあって、手術は八時間ぐらいかかると医者から告げられた渡辺氏は、覚悟を決めつつ、病床で日記をつづる。「もし、だめだった場合は、そこでぼくの三十七年間の『復員休暇』は終わる。そのときは静かに海へ還ろう。/戦友の眠る南の海ヘ。/だがその前に、結果はどうあろうとも、/ここまできて、八十歳の天皇より先に死ぬわけにいかぬ。/生き残りの意地にかけても、どうしても先に死ぬわけにいかぬ。」本書はここで閉じられる。一九八一年七月二十三日午後五時二分、渡辺氏は、「天皇を頂点とするこの国の腐れた横ッつらに一打ちくらい喰らわしてから死にたい」という無念の思いを残して、「戦友の眠る南の海ヘ」力つきて逝った。五十六歳。『私の天皇観』の刊行(八月十五日〉を見ることもなく。でき上った本の帯には「壮烈な戦死」とあった。葬儀に参列できなかったわたしは、その非を深く詫びつつ、弔電を打った。――「ワダツミノ彼方ニ散ッタ魂トトモニ生キ、スグレタ作品ノ創造ニ全力ヲカケタ渡辺サンノ壮烈ナ死ヲ痛恨ノオモイデ悼ミツツ、決シテ安ラカニ眠ラズニナオモタタカウアナタヲ忘レマセン」――これからも、決して安らかに眠ることのできない無数の死者たちの「氷のような沈黙」のの声を、聞きとっていきたいと願う。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2008/09/08

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松本 昌次

マツモト マサツグ
まつもと まさつぐ 編集者 1927(昭和2)年東京生まれ 東北大学文学部英文科卒。高校教師などを勤めた後、1953(昭和28)年に未来社入社。戦後の日本を代表する文学者ならびに思想家と深く関係し、多くの書籍を誕生させた伝説的な編集者の一人。未来社退職後、「影書房」創業。

掲載作は、『戦後文学と編集者』(1994年11月一葉社刊)から、追悼文を中心に選び、収録した。

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