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松のひとりごと

目次

鏡越しの顔

 おそらく、の話だ。

 私には父と言葉を交わしたことより、その姿をただ見ていた、という記憶の方が大きい。

 今でこそ、私も芝居を()り始めて、父と向き合うことも増えてきたが、幼い頃は生活のリズムも違うし、朝食を一緒に食べることなど、殆どと言っていいほどなかった。末っ子特有の性質なのか、環境のせいなのか、いつしか私は(自分で何とかしなきゃ)という感覚を身に着けた。甘えるのが下手になった。

 鏡に映った父の顔、それが私の中の大半を占める父の顔だ。

 鏡越しに見える、化粧をする前の顔、羽二重だけを付けた素顔、(びん)付け(油)を塗った顔とそれを塗る仕草、白粉(おしろい)を慣れた手つきで塗っていくあっという間の時間、微かに広がる粉の匂い……。すべてが私にとって夢のような時間だった。そしてそんな父の顔を眺めているのが大好きだった。素早く、そしてほんの少しけだるそうに顔を作っていく役者の静かな時間がカッコ良く見えて、憧れていたりもした。

 人間の顔は変わり続ける。その人がどんな出会いをし、どんなものを見て何を思い、どんな環境にその身を置くかによって、様々な変化を遂げていく。

 俳優にとって化粧は、時にその役の人生を浮き彫りにする、大切な「武器」なのかもしれないが、最終的には人間性だ、と私は思っている。そして皮肉なことに、何もかもに満たされた人の表情が素敵だとは限らず、困難に直面したときの厳しい表情に深い感動と魅力があることがある。きっとそれは、人として生きている(ヽヽヽヽ)証なのだと思う。

 しかし一度だけ、人がその命の灯を消してからも、こちらを捕らえて離さない力を持った表情を見せることを知った。

 一人の老婦人が、四年前のひな祭りに息を引き取った。入退院を繰り返していた私の祖母が、静かに一生を終えた。

 病院からお寺に運ばれた夜、祖母の安らかな顔を見て、私は思わず言葉を失った。病室で見た顔が、祖父も眠る場所に運ばれてきたとき、更に安らかな美しい表情となったからである。病気の苦しみからすべて解放された、その人そのものが浮き彫りとなったような、「生まれたまま」の顔、とでも言うべきだろうか。

 見つめていた私に、和尚様がこう声を掛けた。

「人は亡くなってからも顔が変わるんですよ」

 何故か、私は素直にその言葉を信じることが出来た。祖母は病気と闘い、すべてを乗り越えて、愛する夫のもとへやっと辿り着いたのである。心から幸せを感じていたのだろう。言葉で説明するよりも説得力のあるその顔に、しばし見とれたままだった。

 こんな話を聞いたことがある。

 ある役者が、死に顔を見せたくないという意志を貫き、遺言にも「死に顔を見せないこと」とのこして亡くなった、という話だ。何となくその気持ちが分かるような気がする。

 生きている間は、数々の役を自在に演じ、いくつもの人生を生き抜く役者も、死んだ後の自分の顔は、誰にも演出出来ない。そのことを恐れる役者がいても不思議ではないような気がする。役も化粧も味方をしてくれない、その人間ただ一人の舞台。どんな顔になっているか、美しくいられるか、不安でいっぱいになるのだろう。本質がむき出しになるのだから……。

 おそらく、の話だ。

 私が鏡越しに見ていた父の顔は、役者が孤独な仕事であることを秘かに教えてくれていたのかもしれない。

 役者は、自分の身体や心を土台に、あるときは犠牲にしたうえで、他人の人生を生きるのだから、その時間が終われば、また孤独に戻っていく。その繰り返しなのである。

 私はまだまだ自分の顔に自信が持てない。化粧前に座る、鏡越しの父の顔を見ながら、その華やかさの影に隠れた孤独を胸に刻みつけ、道の途中をただひたすら進んでいるだけなのである。

勝利の人

 またひとつ、ノンフィクションのドラマが生まれた。

 大リーグ・レッドソックス(当時)の野茂英雄投手が、五年ぶり二度目のノーヒット・ノーランを達成したのである。野球フアンならずとも祝福すべき素晴らしいニュースだと思う。

 生放送で見ていたわけではないのだが、その日のニュースを見て興奮した。最高の表情をしてチームメイトからの温かい祝福を受ける姿は感動的だった。選手達も心から野茂投手を祝い、そしてチームの勝利の喜びを分かち合っている、そんな様子が伝わってきた。

 国境を超えてコミュニケーションをとるのは、政治的な手法では難しいのではないかと思う。スポーツ・芸術……、つまり人間性を主張出来て初めて、人は人と向き合えるのではないだろうか。お腹の中に思惑を抱えたままでは新しいものは生まれない。そのことを野茂投手は、生身で闘って結果を出すことで証明してくれたのだ。

 同じチームのコーチは「彼はウォリアー(戦士)だ」とのコメントを寄せた。バッテリーを組んだキャッチャーは「キャッチャーとしての自分の夢が叶った」と話した。「ウォリアー」と呼ばれるほどの肉体的なたくましさを持ちながら、人の夢さえも叶えてしまうほどの、強い精神もあわせ持っている。そこに至るまでに努力の日々があったことは言うまでもないだろう。ただその内容は、経験した本人にしか分からないものだし、私には想像も出来ない。

 一度だけ、野茂投手とお会いしたことがある。以前、バラエティの生放送でご一緒した。

 そのときにとても印象的なことがあった。

 司会を務めていた方が野球好きで、色々なことを彼に質問した。その頃野茂投手はちょうどチームを移る時期で、次の球団が決まらず「宙に浮いた」状態だったのだが、司会の男性はその心境を彼に尋ねた。すると彼は、

「しょうがないですよ。自分の力がないだけです」

 というような返答をした。正確には違う言葉だったかもしれないけれど、そんなニュアンスだった。

 私はそれを聞いて、微かなショックを受けた。飾らず、ストレートかつ冷静に自分を見つめた言葉。僅かな言葉の中に、大リーグの厳しさすべてが注ぎ込まれているのを聞き、(何て強い人なんだろう)と思った。その冷静さと高い集中力、練習にひたすら打ち込む努力があったからこそ、今回の結果を生み出すに至ったのであろう。そしてきっと、チームに彼を大リーグの一員として認める愛情があったからこそ、堂々とマウンドに立てたのであろう。

 ピッチャーほど「小さくて大きい」ステージを持つ者はいない。自分の領域は狭いけれど、全方向から見られている、あれほど厳しい舞台はそうないはずだ。もちろんバッターボックスに立つ心境だって物凄い緊張感だろうが、九回という長時間、あの場所で投げ続けるのだから、やはり「()手」、()ばれた人にしか成し得ないことなのだろう。彼の偉業に、同じ日本人として誇りを持ち、心から敬意を表したい。

 野茂投手が勝利を収めたときの表情を見ていると、不思議に“安堵”の顔には思えなかった。もちろん幸福そうではあったけれど、それだけではない。むしろ、“楽しんでいる”、そんな表現がぴったりだった。自分が選んだものを楽しむ素晴らしさ、それを彼の表情から感じた。

 試合後のコメントで彼もこう語っている。

「このゲームで終わりじゃない」

 次の自分を見据えたプロの言葉だと思う。

 プライドを持つこと、楽しむこと、努力をすること。それは誰にも出来る。強さは誰の中にでもある。野茂投手の仕事を見て、こちらもパワーをもらったような気がするし、勇気もちょっとだけ湧いてきた。特別なこととしてでなく、頑張ること、ベストを尽くすよう努力をすること、それは人間のとてもシンプルな気持ちから生まれる行為なのだと思う。

 野茂投手の名前は英雄。文字通りヒーローだ。

 本当におめでとうございます、そしてありがとう! これからもご活躍をお祈りしています。

街と人と劇場

 二〇〇一年四月の終わりから約一カ月間、私は渋谷のパルコ劇場で『夏ホテル』という芝居に出演していた。

 岩松了さんが書いたオリジナルのストレートプレイで、私はマジシャンの助手という役だった。

 岩松さんの作品には、独特な雰囲気があり、登場する人間達は、どことなく憎めない、愛すべきキャラクターを持つ。人と人との間に起こる、どうしても分かり合えないことや、日常のささいな事柄が、さざ波のように繰り返される。

 三月の終わりから稽古を始めて、実に濃密な時間を過ごした。

 稽古場から劇場に移るとき……、期待と不安が入り交じる時間だ。でも今回は、初めての出演となるパルコ劇場ということで、どちらかと言えば楽しみな気持ちの方が大きかったかもしれない。

 パルコ劇場は、ビルの九階にある。

 階を間違えるとそこは、洋服屋さんだのレストランだのが並ぶ、普通のデパートである。楽屋へ上がるエレベーターに乗っても、それぞれの売り場の洋服に身を包んだ店員さん達や、何かのイベントに出演する着ぐるみのキャラクターと一緒になることがあったりして、何となく不思議な気分になる。でも、九階に着いたとたんに、そこは芝居小屋になるのだ。街の片隅で芝居をしているんだなぁ、という気分になれるのがパルコ劇場という所である。

 公演中、街はゴールデンウイークを迎えた。

 無論、やっと初日を開けた私達にとっては、まったく関係のないことであったが……。しかし、毎日劇場に通いながら、そんなお休みムード一色の街を眺めるのが、結構楽しかった。

 お休み、ということで、色々な場所から人が渋谷に集まってくる。渋谷は普段だってにぎやかな街だが、連休ともなるとそのパワーは確実にアップする。その風景はなかなか興味深く、渋滞で進まない車の中から、道行く人々を眺めていたものだった。

 地方から東京に来た子、もしくは、普段は制服しか着ていない女の子達が、精一杯のおしゃれをして歩いている姿が印象的だった。

 ちょっと古着っぽいジーンズのミニスカートを穿いて、ヒールの高い靴も履いて、アクセサリーなんかもつけてみたりして……。それでもバッチリお化粧するまでにはいかない感じが、何だか可愛く見えた。女友達と買い物袋を提げて歩くその顔は、どこか強がっているようで、それでも普段とは違う自分の行動にドキドキしているような……。その様子が微笑ましく思えたのである。

 正直に言えば、そんなに頑張らなくても……と、ちょっと思った。でも、彼女達にとってはスペシャルな一日だったのだと思う。

 並んで歩く女の子同士は、同じような格好をしている人が多く、(一緒じゃないと不安なのかなー?)とも思ったが、それでも一生懸命おしゃれをした女の子の健気さが伝わってくるような光景だった。

 そしてカップル達。手をつないで歩くカップルの後ろを、もう何年も付き合っているであろう二人が微妙な距離を保ちながら歩いていく光景……。何とも言えない気持ちで眺めていた。どちらがいいとか悪いとか、そういう問題ではなくて、人の姿ならでは、というか、切なくておかしい雰囲気を感じた。

 こんな街のざわめきを横目に、私は劇場に通っていたのである。

 渋谷の街の雑踏の中にあるパルコ劇場ならではの楽しみである。これが街が変わればまた印象が違うのが面白い。

 シアターコクーンもまた渋谷にある劇場だ。特に稽古場は以前、洋服屋さんの二階にあったので、まさに街中に_そっとある″という感じだった。

 一歩入ると数々の芝居を作り出した場所があり、ドアを開けると向こうには、若者が行き交う街が存在している。一瞬で違う世界を飛び越えたような気分を味わえる。私はその瞬間がすごく好きだった。ドアひとつでつながっている、日常ともうひとつの日常、その間を行き来出来る、そんな感じが好きだった。

 街の雑踏が、私を劇場へと導いてくれる——、そんな渋谷の『夏ホテル』であった。

マスクの心

 映像にはクローズアップという手法がある。舞台では観客一人ひとりが自分の興味惹かれるところをクローズアップする。

 どちらにしても、表情は、俳優にとって大切な要素だ。それを覆い隠すというのなら、それに代わる、何か他の力を生み出す必要があるのではないか。例えば、身体の動きであるとか、そういうもの。

 しかし、表情を隠しても、マスクを使うことで、人の心や表情を伝える“魔力”に似た何かを生じさせることができる。

 四年前、私は『セツアンの善人』という芝居に出会った。

 善人である娼婦シェン・テが、冷酷なシュイ・タという架空の従兄を作り上げ、その結果、自分を追いつめていく。「善人は存在するのか」を問いかけるB・ブレヒトの戯曲である。私はその二役を演じ、シュイ・タ役を演じるにあたっては、マスクを用いることになった。

 最初にこのことを聞いたとき、正直言って不安だった。表情が覆われることに、戸惑いを感じないわけにはいかなかった。シュイ・タとしての登場は一瞬ではない。マスクを付けて、いつもと変わりなく動けるものだろうか。そんな不安が頭をよぎった。

 実際、どのような顔のマスクにするか、最後まで大変な作業だった。

 最初にライフマスクを作った。完成品は私の骨格にぴったりのサイズになる。出来上がった私のライフマスクは、何だか能面のようで怖かった。

 そして芝居用のマスク。まず顔全体を覆うタイプ。上手くは出来ていたものの、やはり唄ったり大きな声を出すにはちょっと合わなかった。

 一時は、マスクを使わず素顔にひげだけペンシルか何かで描いて演じる、という案も出た。しかし、演出の串田和美さんは、マスクという方法を諦めようとしなかった。稽古は、串田さんが外国で手に入れたマスクで続けられた。そして結局、顔の半分だけを覆うタイプを作ってみよう、ということになった。

 そのマスクが完成したのは、稽古の終わり頃。つまり稽古場では試していないことになる。これに串田さんが肌の色を足したり、眉やひげを描いて仕上げたので、最終形は初日に完成したといっても大げさではない。

 その緑がかっ不気味な顔色のマスクを見ながら思った。

(よし、これをかぶっていくしかない!)

 このマスクには不思議な力があって、目の動きも非常に効果的に見えるらしい。

 私はただ無我夢中で演じ続けた。

 公演中、マスクを通して芝居をしながらドキッとさせられる瞬間が数多くあった。恋人ヤン・スンに見つめられるとき、シェン・テとしての自分を見透かされているような気分になったり、マスク付け忘れて舞台に出たかと思うほど、マスクが顔にぴったりと吸い付いたような感覚を味わったり……。

 公演が終わる頃には、私のマスクへのイメージはすっかり変わり、マスクはもはや何かを隠すものではなく、別の人格を作り出し、同時に本来の自分をさらけ出すものなのでは、と思い始めていた。

 そして、私は再びこのマスクと出会うことになる。

 初めてこのマスクを手にしたときの戸惑いと、何とも言い難いドキドキした気持ち、もう一度、そんな気持ちと向き合えるか。それが再演を迎える私の、自分自身へのプレッシャーである。

(写真は、日本舞踊で使われた面である。)

 舞踊では、それぞれ面の種類に応じたキャラクターが、踊り手=ダンサーの身体の動きによって作られる。しかしその場合にも、演じ手自身の心がなければ、面の表情が生きないのである。日本舞踊や京劇などでは、その独特な動きに、様式美ばかりが注目されがちだが、その様式美を支えるのもやはり心、人と人との関わりから生まれる何かなのだと思う。

 最初、私は、マスクをその様式美に当てはめて考えていた。表情が半分覆われては、身体の動きで見せるしかないと思い違いをしていた。

 しかし、人の表情は、つまり感情の表れは、そう簡単に隠し切れるものではない。

 初めて『セツアンの善人』シュイ・タのマスクを手にしたとき、(このマスクを生かすも殺すも私次第なのかもしれない)と思った。そんな気持ちを与えてくれた役がシェン・テ/シュイ・タだった。

 今、そのマスクは私の家に保管されている。初演から再演までのときと同じように、顔色ひとつ変えずに……。

心のやりとり

 串田和美さんと出会ったのは、私が中学生の頃、仕事を始める前のことだ。

 父のお弟子さんだった人が、串田さんが当時主宰していたオンシアター自由劇場の芝居に出るというので観に行った。そのとき観た『もっと泣いてよ、フラッパー』に感動して、自由劇場の芝居を観に行くようになった。

 俳優達による演奏、色鮮やかな照明や衣裳、夢の中から飛び出してきたような登場人物達……。すべてが刺激的で感動的だった。

 それ以来、劇場に行く度に、劇団員でもないのに打ち上げの席にいさせてもらったり、皆が食事に行くときに付いて行ったりしていた。

 串田さんには、私がそれまで足を運んだことのない下北沢の劇場に連れて行ってもらったり、沢山のものを見せてもらったりした。

 あの笑顔で「芝居やんなよっ!」なんて言われたこともあった。「そうですよねェ」などと答えるのが精一杯なくらいドキドキしたが、私が芝居を()りたいと思う気持ちを固めたのはあの頃かもしれない。

 串田さんと私には、幻の芝居がある。

 私が仕事を始めて二年目くらいの頃、串田さんが「ハムレットを演らないか」という話を持って来た。その構想はなかなか面白く、中学生の頃から串田さんの芝居を観てきて、やっとその舞台に立てる! と嬉しくてたまらなかった。しかしその芝居は、自由劇場の解散の時期と重なり、幻となった。

 その後、串田さんは、ロンドンへ放浪の旅に出た。幻となったことが悲しかったかどんな気持ちだったか……、そのときの自分を、私自身覚えていない。

 覚えているのは、手紙を書いたことである。ロンドンの串田さんへ、こんな言葉を届けた。

「一緒にお仕事が出来なかったことは残念ですが、またいつかそんな時がくるかもしれない。でも、結局一緒にお仕事をしないまま、ということもあり得る。たとえそうだとしても、お互いの芝居を見続けていったりして、そういう関係もありますね……」

 確かこんなことを書いた。そのとき十八歳くらいだった私の、精一杯の“ポジティブ・シンキング”だったかもしれない。

 そんな私に、串田さんは一通の手紙を送ってくれた。

「知り合いではあるけれど、一度も一緒に仕事をしたことがない。そんな関係もある。しかし、同じ芝居を志す者同士として、一緒に芝居が出来ないというのは淋しいことだね……」

 どんな人とも同じ目線で接する、串田さんらしい言葉だった。その言葉に励まされて、私は、(いつか……)という想いを持ち続けた。

 そして約四年後、私は再び串田さんと出会った。

 広尾の、とある喫茶店で、串田さんは一冊の本を私に渡した。『ブレヒト戯曲集』、これが『セツアンの善人』との出会いである。

 オープンカフェで、串田さんからあらすじを聞いて、即、やりたい! と思った。この想いは、戯曲を読んでみて確実なものになる。

 私は四年の間、串田さんと一緒に仕事をするために何かをしていたわけでも、また仕事が出来るならどんな作品でもいい、と思っていたわけでもない。しかし、再び串田さんと会い、作品を手渡されたとき、(一緒に仕事をするならこれかな)と直感した。この勘が正しければ、二年後に再演を迎えられた、ということに少し自信が持てる。

 何年かして串田さんと、(あんなことがあったね)と話すことがあるだろうか。思い出がよみがえる度、一緒に芝居が出来なくても精一杯な気持ちで(私は平気よ)と思っていた私と、そんな十代の女の子に優しい言葉を投げかけてくれた串田さんとの、心のやりとりを懐かしく思うんだろう。

 想いを持ち続けることが、希望を、夢を、つないでいくことになる。人は、そう出来る力を持っているはずだ。

苦行と歓び

 一人のミュージシャンを追っかけたドキュメントを見ていた夜のこと。その人がこんなことを言っていた。

「音楽家は音楽で呼吸しなくちゃならないんです」

 何故か心に残る言葉だった。

 音楽を生み出すのは楽しみではなく苦行に近いものがある、と。それでも作り続ける、奏で続けるのが音楽家なのだ、と。

 厳しさとプライドに満ちた言葉だと思った。

 二〇〇一年の秋、私は初めてコンサートツアーをした。

 音楽の仕事を始めて五年弱だったが、ライブというのは未知の世界であった。最初は、女優が片手間に()っているというイメージを持たれるような気がして、消極的に考えていた音楽活動。それがリハーサルを重ねてステージに立とうとしている不思議……。

 私を「その気」にさせたのは何なのだろう? ファンの人達の声、確かに。素晴らしいスタッフ達との出会い、まさに! 愛すべき魅力的なミュージシャン達との出会い、かなり大きい。どれもそれぞれに意味のある出来事である。どれが一番! なんて決められないくらい、かけがえのないものばかりだ。

 ファンの人達がコンサートの実現を希望してくれたこと。まず彼等の声がなければ始まらない。ただ、現場にいる人間にとって、どんな人達と出合い、共に仕事をするか、これはとても重要で、そして難しいことだ。

 テクニシャンを集めればいいかというと、そうではない。私という、初めてコンサートをする一人の人間に興味を持ってもらうこと、その新鮮さ、新しい何かが生まれることを求めていく気持ちがないと成立しないように思う。

 リハーサルから本番まで、ライブのステージと芝居を比べて、ここが違うとかここが共通しているとかを、考えたことは殆どなかった。違いや共通点が分かったからと言って何の役に立つだろう。キャリアのない私には、そういう「引き出し」を作ることよりも、今その瞬間を感じることが刺激的で面白い。もちろん、違いや共通点は突き詰めていけばいくらでも見つかる。しかし、ミュージシャン達の生み出す音楽の中で過ごしていると、理屈で考えて並べる言葉ではなく、そこにいることで感じられる力強さや優しさ、愛情に包まれたものが確かに、あるのだ。

 メロディは楽譜のうえではいつも同じだ。でも、それを奏でる人によって音楽は変わり続ける。新しい何かが生まれ続ける。私はこのことが大好きだ。ドレミ……は限られた音階だ。けれど、そこからは無数のメロディが生まれ、そしてさまざまな音色によって表情を変え、リズムが空気を作る……。とてもシンプルで豊かなもの、そして何よりも楽しいもの、音楽はそんな力を持っている。

 メロディを作り出すときは苦しい。いつもいつも素晴らしい発想が湧き出すのであれば、そんな楽なことはない。しかし、苦しくても、その人から生まれた何かには、きっと力が宿ることだろう。私はそう信じたい。

「音楽で呼吸する」音楽家達。私はその人達に出会えたという誇りを持っている。彼等のおかげで、「次は何を作ろう? 次は何が生まれる?」という心が動き出した。

 芝居をするとき、芝居の前では自由に、そして誠実でありたいという想いがある。音楽の前でも同じようにありたい、と思う。そんな気持ちにさせてくれた彼等に、音楽に、感謝している。

「苦行」。書くだけでも苦しい言葉だが、自分が選んだ道でのそれは、決して苦しみのまま終わらないと思う。あのドキュメントのミュージシャンが言っていた言葉が心に残ったのは、そんなふうに感じたからかもしれない。

 思えば子供の頃、ピアノの発表会で弾き間違えて恥ずかしい経験をした。あのときは、ステージに立つことが文字通り「苦行」だったかもしれない。

 時は移り、ステージの「怖さ」を微かに感じながらも、何かを求めるようにそこに立つ自分がいる。本当に不思議だ。そして……、素晴らしい!!

『嵐が丘』の幕開け

 世界は新しい年を迎え、私は、と言えば、新橋演舞場で芝居をしている。

 しかし、である。この文章を書いている今は、その芝居の稽古に入る少し前。どんな舞台になるか、誰にもその輪郭すら見えていない。

 原稿を書いてゆく中で、たまにその「時差」に悩まされることがある。取材でもそうだ。まだ半年近く残っているのに、今年一年の総決算みたいなことを聞かれたり……。仕方のないことだが、イメージだけで答えるわけにもいかないし、そのとき思うことを一生懸命話すことがある。

 で、その芝居。エミリー・ブロンテの『嵐が丘』である。

 純文学としてあまりにも有名な作品だ。この小説を、岩松了さんが脚色した。チェーホフの芝居を翻訳することはあっても、『嵐が丘』は初めて脚色する岩松さん。そして、お正月の演舞場で海外の作品を上演する……。これはある意味、挑戦的なことのように思う。私はスリリングで(面白い)と思った。原作がありながらオリジナル、という匂いが私を惹き付けたのである。

 岩松さんの演出を受けるのは『夏ホテル』という芝居に続いて二度目である。二度目にして演舞場で、というのは何だか凄い。一歩が大きい、そんな感じである。今までの岩松さんの芝居を観ていた観客だけでなく、劇場についている「演舞場の観客」も相手になる。何が生まれるか、怖くてそして楽しい、そんな「旅」の始まりなのだ。

 台本を渡されたとき、

「果たしてこの台詞(量)、覚えられるかっ!?」

 と気弱なメールを岩松さんに送った。すると、

「楽に作れる芝居なんてないぜ!」

 と激励の返信がきた。

 確かに。楽に出来ることなんてない。プロとして仕事している以上、「楽した〜い」なんて言っていても、いくつもの壁にぶちあたりながら進んでゆく。それを分かっていて「楽した〜い」なんて言うことがあったとしても、目の奥では別の方向を向いているのかもしれない。

 ひとつのものを作るとき、一緒に作り上げる人達と共に、闘っていけたら幸せだ。昨年、初めてコンサートを()ったときもそう感じた。皆それぞれマイペースを崩さないでいながら、同じ方向を見つめて作っていく楽しさ、面白さを、自分なりに感じていた。今度は、芝居というスタイルに場所を変え、その「闘い」がどんな瞬間を生み出せるか……。終わりのない旅を続けている。私の仕事にはこういう果てしなさがあるように思う。

 以前、演舞場で『天涯の花』という芝居に出たとき、「初座長」とか言われて何だかコメントしづらい気がしたけれど、その芝居の千秋楽の日にこんなことがあった。

 花道には役者が出てくる所に揚幕という幕がかかっている。その幕をスッと開けてくれたり下ろしてくれたりする人のことを「揚幕さん」なんて呼ぶのだが、その日、いつものようにスタンバイをしていた私に、揚幕さんがこんなことを言った。

「私、今日で定年退職なんですよ」

(……え)

「最後の仕事がこんなに大入りの仕事で良かったです」

「いえ、ありがとうございました。お疲れ様でした」

 ザワザワと客席で待つお客さん達の様子を覗きながら、彼は言った。

 その揚幕さんもまた、一カ月間芝居を見続け、闘ってきた「仲間」に思えた。大劇場でのささやかな会話だが、私はこんなときにも幸せを感じる。

 再び演舞場の舞台に立つとき、果たしてどんな瞬間が待っているのだろうか?

 人々に哀しみだけを焼き付けるニュースが飛び交う世の中で、芝居の世界では何もかもすべてが一夜の夢のように消えてゆく。

 でも、その芝居を観た、その空気を共有した人達が、ほんの少しでも心を動かして感動したりするなら……。そのことに突き動かされるように、私は動く。

 二〇〇二年。この年は私に何を見せ、感じさせ、どう刺激を与えるのだろう? いや、私は何を思い、見て、感じ、刺激を受けてゆくのだろう? そしてまた、辿り着くことのない道の途中で、自分の心の中に何を残してゆくのだろう?

『嵐が丘』で幕を開けるこの一年、どんな「嵐」が私を待ち構えているのか……。それをこの目でしっかりと見つめて、静かに闘っていきたい。

写ったものに映るもの

 趣味のない私が、写真を撮るということだけは気ままに続けている。自分でも少し意外だ。

 十九歳の誕生日に、仕事でご一緒した方からマニュアルカメラをいただいた。それから数年が経ち、ファンの方がプレゼントしてくださったり(!)、自分でもアンティークのカメラを買ったりして、台数が増えてきた。正直なところ、カメラはそれなりに高価なものでもあるので、ポンとプレゼントされると、少々戸惑ってしまう。

 それはさておき、数台持っているものの中で、一番使う頻度の高いカメラは、最初に手にした一台である。レンズも一本だけ、種類を増やすことなく、しつこく使っている。

 今でも覚えている。そのカメラで撮った最初の写真は、家に生けてあった花だった。

 フィルムが見あたらなくて、やっと見つけた一本がモノクロのフィルムだった。使用期限をとっくに過ぎた一本のフィルム……。撮れるかどうか分からない不安の中で、私はシャッターを切った。

 結果は……、ちゃんと写っていた。出来はともかく、初めて自分の意思で切り取ったもの、それをファインダーを通して夢中になって見つめ、現像された一枚を改めて見た。そのすべてにワクワクした経験だった。

 それから私は、仕事で旅した土地の風景、一緒に仕事をした人達の表情、現場の様子、家族、友人……、自分の心にとまる色々なものを撮り続けている。誰かに見せる「仕事」としてではなく撮っている。

 二枚の写真は、違う時期に撮ったものだ。何かの芝居中に、ふと外を見たときに私の心にとまった風景である。偶然どちらも、ビルの窓に映った空だ。

 空自身は、自分の姿を見ることは出来ない。でも、窓に映り込んだことで、その姿を確認出来るのだろう。この写真を撮ったときは、そんなこと考えもせず、ただシャッターを切った。

 目で見た風景を、改めて一枚の写真として見直すと、色々なイメージが広がる。物言わぬ写真が、私を刺激し、想像を膨らませる。そのとき自分が何を見ていたか、どんなふうに見つめていたか……。そのことと向き合うのが面白い。

 人もまた、一人で自分を知るのは困難なことかもしれない。人と関わり、その形に自分自身の姿が映し出され、自分を知っていく。

 写真を撮るとき、ファインダーを覗いていると、対象となるものと一対一の関係になる。その集中した感じが、個人的な空間の雰囲気が、好きなのかもしれない。或いは、そこにある微妙な距離感が好きなのかもしれない。

 私は今のところ、殆ど標準レンズを使っているのだが、知人のカメラマンがこう言ってくれた。「自分が動いてズームしたり引いたり、“標準”にはそういう面白さがあるから、大事にするといいよ」。

 ズーム、接写……、数多くあるレンズを揃えようと思ったら、いつでも買える。別にお金持ちぶるわけではないが、買えると思う。でも、今気に入っているレンズを、心ゆくまで使い続けるのも悪くはない。

 犬達や子供にレンズを向けると、自然にアップが多くなってしまう。可愛らしいものに対しては愛情に嘘をついたり、無理が出来なくなってしまう。困ったものだ。でも、趣味だと思えば、そんな感情にも素直に従ってしまうのである。

 風景や表情を切り取るということは、ある意味、衝撃的なことだし、写真には人を笑顔にする力も傷つける力もある。私も自分なりにそのことは分かっているっもりだ。だからこそなのかは分からないが、私は自分の心にとまる愛すべきもの達を、出来るだけの愛情をもって写真に収めていきたいと思う。他には趣味のない私の唯一と言っていいほどの趣味として。

「趣味」という言い方以外に何かふさわしい呼び名があるだろうか。「真剣な遊び」とでも言えばいいのだろうか。

 そこから生まれる、伝わる人間っぽさ……。その魅力を仕事以外にも見つけられたことを、私はちょっと嬉しく思っている。

 写真に写ったものは、そのときそこにいた自分も映し出す……。きっとそのはずだ。

あの子が私に言ったコト

 思いがけない言葉に、心が反応することがある。そしてそれは、その言葉を言った相手の年齢、性別に関係なく、という場合が殆どである。

『ラ・マンチャの男』の稽古中、私は自宅と稽古場との行き来が精一杯で、キャストの仲間達と食事に行ったりすることがなかった。ただ一度だけ、何人かと食事に行った。それは、東京での稽古最終日のこと、稽古場打ち上げと称して、近くの中華料理屋へ向かった。

 五月一日に幕を開ける博多座へ乗り込む前の、ささやかな集い……。稽古期間の疲れを癒し、これから始まる本番の成功を祈って、皆で食事をした。

『ラ・マンチャ』には、以前にアントニアという役で出演していた時期がある。今回はアルドンサという役、当然この舞台への関わり方も違う。ただ、このカンパニーには、私がアントニアで出ていた頃から、いや、私が小学生の子供の頃から出演している俳優さん達も少なくない。だから、気心の知れたメンバーの多い、非常に温かい現場である。

 しかし、彼等は、アットホームな雰囲気を持っているだけではなく、シビアにステージを見つめている俳優達なのである。私はそのことを感じながら、自分のやるべきことを必死に、まだまだ足りない自分の力と向き合う日々を送っていた。

 食堂のような雰囲気のその中華料理店には、仕事帰りのサラリーマン、中年女性が一人、工事現場の男性達などがボツポツと座っていて、小さいテレビにはお決まりのように野球中継がつけられていた。そしてお店のご主人の孫らしき子供達が元気に店内をうろうろしていた。とても素朴なその店の雰囲気は、くつろぐにふさわしく、我々俳優達も、長かった稽古の労をねぎらいつつ、この舞台や趣味の話などに花を咲かせていた。

 私も、お酒こそ飲まなかったものの、素敵な仲間達の楽しそうな表情を眺めているだけで、何だか嬉しくなってしまい、本番に向けての緊張も一瞬ほぐれ、リラックスしたひとときを過ごしていた。(この仲間達と初日を迎えるんだ)。改めて心の中でそう確認していたように思う。

 店内で遊ぶ子供達は、お菓子を食べたり、追いかけっこをしたり、元気いっぱいである。おじいちゃんは優しくその様子を眺め、お母さんには怒られたりして、微笑ましい光景だった。私達のことなど気にせず、楽しそうに遊んでいた。

 だからなのか、食事も終わり、そろそろ店を出ようとしたとき、「子供達と写真を撮ってくれませんか」と言われたのには、ちょっと驚いた。それまで走り回っていたやんちゃな子達は、カメラを前にして「整列——!」と言わんばかりにおとなしくなってしまった。その落差がとても可愛いらしく、純粋に感じられた。

 店を出ると、子供達も付いてきた。それまで、私のことなどお構いなしだったのに、近付いたり離れたり落ち着かない様子で、とてもチャーミングに思えた。

 子供の感情表現というのは、私達が思うよりずっと繊細だ。言葉では言い切れない沢山の想いが、彼等の心の中にはあふれているのだろう。

 七、八歳くらいの男の子が私にこう聞いた。

「いくつ?」

「いくつに見える?」

「……いくつ?」

 私は答えた。

「二十四歳だよ」

 彼はこう言った。

「ちっちぇー」

 生意気さも身に着けてくる頃なのだろうか。ほんの少し目をそらしながら「ちいせいなぁ」と言ったその子の言葉を聞き、私は一瞬立ち止まった。

「まだまだちっちぇー」という気持ちが、私を新たなスタート地点に押し出してくれたような気がする。

 大人は考え過ぎで、それでいて、感じなさ過ぎるのかもしれない。けれど、その子の言葉が私にほんの少し勇気をくれたことに変わりはない。

 あの子が少年になり青年になり、大人の男性になったとき、名も知らぬ子に「ちっちぇー」と言われる日が来るだろうか……。勝手にそんなことを思い巡らせながら、雨のちらつく街を、家に向かって歩き出した。

 二〇〇二年四月のとある晩の、ほんの小さな出来事である。

五月回想

 博多でミュージカル『ラ・マンチャの男』に出ていたとき、ふと思ったことがある。

 一カ月以上の稽古の間には考えもしなかったのだが、舞台に上がる直前、楽屋で支度をしていたときだろうか、私はひとつのことを思った。

「私もいつか、この役を()らなくなる日が来るんだろうな」

 初めてアルドンサという役をいただいて、初めてその役で舞台に立つとき、思いもよらない感情が私の中に生まれた。

 考えてみれば、共演者であり、主演俳優であり、演出も兼ねている父、幸四郎は、八月の東京・帝劇公演中に、主演千回を迎えようとしている。しかしそれまでの間、アルドンサは何人かの女優さん達によって演じられている。素晴らしい女優陣が、この役を生きてきたのである。しかしながら、キャストの変更があるごとに、その人にとって “最後のアルドンサ”がいたことに変わりないのである。

 隣を見れば、演じ続けて千回を迎えようとしている俳優。自分は初めて演じようとする一俳優。私自身が何回アルドンサを演じるかは分からないが、いつか必ず「これで最後」という日が来るのだろうと思う。そして誰かがまたアルドンサを演るのかもしれない。

 いつか来るその日まで、私に出来ること……。月並みで、硬くて、普段は殆ど使わない言葉だけれど、「精進する」ほかないのかもしれない。

 それからというもの、「いつか演らなくなるんだろうなぁ」と思わない日はなかった。博多での公演を終えた今だから言える、私の正直な気持ちである。

 こんなふうに書くと、読者の方の中には、ネガティブに受け取る人もおられるかもしれないが、一個人として、自分の気持ちを正直に書きとめておきたかった。

 ネガティブに受け取らないで欲しい。「これで最後」という日のために「今やるべきこと」をする前向きさは大切だと思うからだ。

 確かに、人生を先回りし過ぎても何だか哀しいし、二十五やそこらでそんなこと考えるな、と言われればそれまでなのだが、とにかく私はこんなことを感じたんだ、と、記しておきたかった。何年か経って、この文章を自分で読んで、くすぐったい気持ちになるのかもしれないけれど、私がこのエッセイで書いていこうと思ったのは、こうした私の心に生まれた感情なのである。

 もうひとつ、思ったことがある。

 先にも書いたように、私の演じたアルドンサは、今までに何人かの女優さんによって演じられてきた。今私が、自分のキャラクターで、自分のイメージを抱きながらこの役を出来るのは、その女優さん達の存在あってこそなのだ、ということである。

 どのアルドンサも真似しようとしたって出来るはずがない。それぞれのアルドンサ像があるからこそ、私は私のアルドンサを目指していける、そう思えてならない。

 これも、稽古中には考えもしなかったことで、むしろ、今までの女優さん達の存在が大きすぎて苦しいほどだった。自分が今までに観てきた記憶とその強列な印象、そして今自分が演じようとしている現実とに挟まれている、そんな感じだった。

 しかし、本番が始まると、彼女達の存在があってこそ、と思えるようになった。それがとても不思議だった。楽屋で支度をしているとき、ホテルに戻って一人ぼーっとしている時間、度々そんなことを思っていた。

『ラ・マンチャの男』はミュージカルであるが、芝居的な要素の非常に濃い作品である。新作ではないから、アッと驚くような仕掛けもないし、豪華な衣裳も、華やかなダンスシーンもない。でも、長く続けられてきたものにはそれなりの理由がある、ということを改めて感じさせる、感動的なドラマだと思う。

 こればかりは、劇場においでください、としか言えないのが申し訳ない。この時間にこのチャンネルを合わせてください、と言えないのが舞台なのである。

 八月には、東京で再びこの舞台に立つことになる。七月にもう一度稽古をするので、きっとまた充実した日々になることだろう。お客さん達も、博多から東京に変わることで、また違った反応になるだろう。その中で私達俳優は、ひたすら演じ続けるしかない。毎回毎回、新しいお客さん達を前に、ただひたすら舞台にいるのである。厳しくもあり、とても幸せでもある。

 何だか生意気なことばかり書いてしまったが、これは、確かに、二〇〇二年五月、私が思っていたことである。「いつか来る日」まで精進していく気持ち、そして先輩方への感謝、尊敬の気持ち……。今までも感じていたはずなのだが、ここまで自分の心に響いてきたのは初めてだった。

 ただ、現役で仕事をしている以上、謙虚でありたいとは思うけれど、遠慮ばかりもしてはいられない。(もっと頑張らなきゃ)という気持ちを持ち続けて、いつまでも必死こいて(失礼!)いたいなと思う。

 私に色々なことを考えさせてくれたこの作品に心から感謝しているし、それに関わっていられることに誇りを持っている。今、この時を生きる我々に大切な勇気を与えてくれる力が、この作品にはある。

 五月を回想しつつ、『ラ・マンチャ』の台詞の中から、夢を伝える、この言葉を、最後に……。

 人生自体が気狂いじみているとしたら、一体本当の狂気とは何だ、本当の狂気とは。

 夢に溺れてしまって現実をみないものも狂気かも知れぬ。

 現実のみを追って夢をもたぬものも狂気かもしれぬ。

 だが一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生にただ折合いをつけてしまって、あるべき姿の為に戦わない事だ。

(原作 DaleWasserman 森岩雄・高田蓉子訳)

窓から見上げて

 出演していた帝劇の楽屋の窓を開けると、こんな風景がある。

 そこには窓、窓、窓……。そして、それぞれの窓は出演者達の楽屋。

 だから窓が一斉に開くと、皆の顔を見ることが出来る。

 お互いに楽屋での過ごし方があるので、しょっちゅう顔を合わせることはないが、それでも、すぐそこに皆がいるという、そんな妙な安心感が得られるものだ。

 楽屋はある種、自分の家みたいなものだ。一カ月間ひたすら通う仮の住まいには、確実に“常”があふれている。現に今、この原稿も、その楽屋で書いている。静かなひととき、私の時間がここにある。

 誰かの楽屋に行くことは、結構緊張するものである。あまり長居しても悪いなぁ、とか色々と気を使ってしまって、そわそわしてしまうこともある。気心の知れた友人の部屋は楽しいものだが、それでも何処かで気を使っている自分がいる。

 そう言えば昔、まだ私が幼稚園か小学生の頃、こんなことがあった。

 五つ違いの兄と私は、ある「賭け」をした。兄が、故・中村勘三郎さんと舞台をご一緒していたとき、その楽屋にご挨拶に行って、「いつも兄がお世話になっております。よろしくお願いします」という一言を言えるか、というものだった。

 どうしてそんな流れになったのかは、記憶に定かではないが、とにかくそんな話になった。負けず嫌いだった私は、(どうせ言えないだろう)という、からかい半分の兄に対して、「言えるもん!」と強がり、楽屋へ伺うことになった。

 幼い頃は、他の方の楽屋に挨拶に行くことなどない時代、私はきっと緊張していたと思う。勘三郎のおじさまは、もはや関係なかった。私は兄との「賭け」のためだけに、楽屋にお邪魔した。

 勘三郎のおじさまは、確か、鏡台の前で、こちらを向いて座っていた。トコトコとお部屋に入っていき、私は言った。

「いつも兄がお世話になっております。よろしくお願い致します」

 おじさまは、おどけて「ハハァー」とお辞儀を返してくれたような気がする。子供心に、そのとき兄に対して(勝った……)と思った。

 ジュースもお菓子も、何も賭けていなかったと思う。でも私は、(言ったわよ)という歓びでいっぱいだった。他愛ない、兄妹同士の意地の張り合い……。懐かしい思い出である。

今、自分が舞台をしていて、たまに共演者の子供さん達が、私の部屋をたずねてくることがある。幼い頃を知っている子には、その成長に驚かされることがあるし、無邪気な子供を見つめる「親の顔」を見て、その人自身がとても新鮮に思えることもある。

 楽屋に入るまでは走り回っていた子が、一瞬緊張してキョロキョロ部屋を見回したり、お母さんに抱かれた赤ちゃんは、ただただ私の顔をじ一っと見つめていたり……。私をあったかい気持ちにさせてくれる素敵な時間である。

 その光景を目にするとき、ふと、幼い頃、緊張しながら兄との「賭け」に必死で一言挨拶をした自分を思い出す。自分の中の、自分だけの記憶……。ささやかではあるが、「勝利」を誇らしく思ったことを、何だかしみじみと思い出しているのである。楽屋の窓から空を見上げて……。

「ズレ」から生まれるもの

 違和感やズレ、という言葉はあまり良い意味では使われない。しかし私は、この言葉に惹かれる。

 アルバム『home grown』のジャケットの撮影場所も、そこに違和感を覚えるユニークな場所だ。現在生きている私と、かつてそこに生活があった建物、その間に微妙なズレが生まれそうな気がする。最初にその撮影場所を聞いたとき、自分のイメージ通りだなぁと思った。

音楽を始めて五年が過ぎ、六枚目のアルバムとして、こ『homegrown』を作ることになった。

 すべての作業が終わり、アルバムタイトルも決まり、あとはジャケットの撮影を残すのみとなったとき、私は何となく思った。このアルバムには、自然や生活感のあるイメージは合わないなあ、ということをである。だからジャケットに使う写真は、極端に言えば、風景のない風景というか、ポートレートに近いものがいい、と思った。しかも、写真を多くするのではなく、絞り込んで使いたい、ということだ。

 俳優でいながら歌手でいるということのズレ。

 松たか子でありながら藤間隆子である事実と周りの人が持つイメージとのズレ。

 私達の周りには様々なズレが沢山あって、その微妙な関係が不思議な力を生み出しているような気がする。

 音楽を()ってきて、色々なミュージシャンの人達と出会い、詩や曲もその都度違うタイプに挑戦したりしながら、自分の演りたいもの自分の考えるいいものを目指してきた。

 世間が思う私の音楽のイメージと実際に作ったものとの微妙なズレは、私の中では決してネガティブなものではない。アルバム『home

grown』では特にそう思う。人と人、人と物の間に生じる「ズレ」は私にとって興味深く、それは、作り手の好奇心が反応するべきものだと思っている。

 人が自然の中にたたずむ風景も素晴らしいと思う。しかし、アルバムのジャケットを撮影する場所は、かつてそこに生活の時間が流れていた所。そこに存在する私は、「今」を生きている存在。時間が止まった「かつての」場所と「今」の私。ふたつの間に生まれるズレ・違和感は、松たか子と藤間隆子として在る自分とどこか似ている。

 思えば、人は、何かしらズレや違和感を覚えながら、この世を生きているような気がする。その微妙な「相性」の中で生活しているように思えてならない。「違う」からこそ相性が一致する、そしてそこに新しいハーモニーが生まれる。こんな面白いことってあるだろうか。

 私の家では犬を飼っているけれど、犬と同居するのも、どこかに「ズレ」が感じられ、相性がある。人間と生活していても犬には犬のリズムがある。しかし、相手を見る力は犬達にもあって、彼等も私達を家族だと認識してくれているはずだ。

 東京という街に住んでいるが、たまに自然の中に行きたいなと思ったり、やはり我が家に落ち着きを感じたり、自然食品を食べたり、たまにはジャンクフードが食べたくなったり……、何だか勝手なものである。しかし、こんな正反対の欲求が私の中に存在しているのだ。皆さんにもそういうところってないだろうか? その欲求がどちらかに偏ると免疫力が弱まるような気がする。東京という場所で生きているゆえなのかもしれない。人がそれぞれの場所で生きている分だけ免疫の保ち方があるんだろうなぁ。

 写真の猫は、右側のカメラマン平間至氏の飼い猫なのだが、CDプレーヤーの上が温かく、お気に入りの場所らしい。この二人(? 一人と一匹?)の間にも微妙な距離間があり、どこかズレているように思えるが、そこには不思議な調和があり、愛がある。

 違いがあるからこそ生まれる何か。それは、この世界に山ほどあると思う。生活の中にも。モノ作りの中にも。人と人との間にも。

 相手が自分と同じだと思い込んでしまっていたら、それはちょっとコワイけど。「ズレ」や「違和感」を認めてこそ、前に進めるのかもしれない。

夢のあと

 今日もまた新しい一日が始まる。

 顔を洗って目を覚まして、服を着替えて、ドアを開けて、安らぎの我が家に鍵をかけて……。そんな日常が、生活している人の数だけ、毎日、繰り返されている。もちろんこの私にも。

「日々」というのは変わり続ける。どんなにパターン化された生活を送っている人達の「日々」も、微妙に変化し続けている。しかし、身体はひとつだ。時間と疲れ(?)の積み重ねが「経験」というものに姿を変えてその人自身に刻みつけられる。

 毎日毎日、何も経験したことのないゼロの状態に生まれ変わるなんて無理だ。ヒトは生まれてからというもの、何かを身に着け続けている。服も言葉も知識もずるさも……。身に着けることを先に覚えて、削ぎ落とすことを、後になって苦しみながら知る。

 しかし、ヒトの本質的な部分が変わらないというのは、ヒトが毎日生まれ変われる、変化に富んだ生き物ではない、ということなんじゃないだろうか。

 変われないヒトが、変わり続ける毎日に挑んでいくのは、ちょっとした闘いかもしれない。辛いことやしんどいこと、身体の疲れを翌日に引きずることも珍しくない。そんな自分のまま、何が待ち受けているかさえ知らない明日に出かけていくのは、とても勇敢に思える。

 そんな毎日が辛いのか、疲れている人達が多いのか、「癒し」という言葉が流行る。でも私は、何でもかんでも「癒し系」と名付ける傾向があるような気がして、ちょっと疑問だ。もちろん、科学や心理学的に証明されている「癒し系」もあるけれど、癒し=刺激の少ない穏やかなもの、とは限らないのではないだろうか。

 それぞれの好みによって、音楽や映像や舞台から、或いは、友人、知人、かけがえのない家族から、刺激を受けることが、その人自身を癒す力になることってないだろうか。

 毎日の疲れが積み重なると、ヒトはきっと、知らず知らずのうちに視野を狭くしていると思う。それを解消するのは、その人自身の人間関係やその人自身が観たり聴いたりするものなんじゃないかなぁ。

 私はお芝居を仕事としている。私を観る人は様々で、元気な人だけとは限らない。疲れている人、悩みを抱えている人だってきっといるだろう。自分を観る人が、皆自分のことを好きだなんて、こちらが思い込むわけにはいかない。私だって、皆に好かれようと思いながら、仕事をしているのではない。

 しかし、私の「何か」を観た人達が、ほんの少しでも刺激を受け、翌日出かけるときに、ほんの少しでも心が軽やかになっていてくれたら、と思う。元気を出して、また一日頑張ろうと思ってくれたら、と願う。

 出来れば、心が軽やかな理由が分からないくらいがいいな、と思う。何でだか分からないけど少し元気、少し楽、くらいがいいな。

 ヒトは生まれてからというもの、何かを身に着け続けている。家族、泣いたり笑ったり怒ったりする感情、言葉、知識、成功、失敗、挫折……。日々、学んでいかなければならない。二度とゼロに戻れることはなく、生まれた瞬間から、終わるまでの時間を生きていく。こんなふうに書くと、ヒトは何て不自由なんだろうと思えてくるが、少し見方を変えれば、その人次第でいかようにも生きられる、生き方は自分次第なのだと思う。

 私もまた、自分の人生を楽しみたい。生き抜いてみたい。

 今日もまた、私の知らない人達が、私の知らない所で、毎日を生きている。その人達が、ふとしたときに私を観て、少しでも元気になり、もしかしたら癒されて、また新しい一日を送れたら、私は幸せだ。

 私は私の好きなことをやり続ける。

 何処かで、私の知らない人達がほんの少し幸せになれる、私の仕事は、そんな瞬間を作り出すことなのかもしれない。そうなれるのだったら、何かを残したいとは思わない。やり遂げる実感や実績も要らない。

 誰かの夢のあとに消えていく存在で、充分だ。

『オイル』

『オイル』のことを書くのは難しい。

 あらすじを説明する、印象的な台詞を書き残す……、これらは自分の思うところではないような気がする。ただ、私にとって、稽古が始まってからのあの数カ月間は、濃密で充実していて、追いかけ追われ続けていたような、刺激的な時間であったことに違いはない。

『オイル』は、『古事記』=神話の中の世界、戦後の日本(島根=出雲)、古代の人々、戦後の日本人、日系アメリカ人などが出てくる芝居だった。

 私は、電話交換手の「富士」という女を演じた。“神の手”を持つ、と言われる私(富士ね)は、時々何かが乗りうつったように、「ひぃやぁ一っ!」と叫んで倒れたり、独裁者のように人々を従えて、“オイル”を掘らせたりするのだった(何が彼女をそうさせたかは、最後に一本の線でつながるのであるが……)。

 野田秀樹さんのダメ出しで印象的だったのは、「台詞が“泣き”にならないように」ということだった(特に、最初と最後を一本の線でつなげるその台詞に関して、そう言われた)。「無邪気に」、そんな表現もされたような気がする。

 何故か——。私は思った。台詞に泣きが入ると、哀しみを哀しく言うことに加えて、(どうして私の言うことを分かってくれないの!?)(分かってほしい)という欲求だけが強く伝わってしまうからではないだろうか。それに対して、無邪気に出る言葉は、心の底からそう思って発する言葉だったり、信じていることだったり、素朴な疑問だったりするのではないか。その真っすぐさは、決して押しつけがましいものにはならないと思う。

 野田さんの要望に応えられたかどうかは分からないけれど、あのときのダメ出しが、私の心の中に今も深く残っている。

『オイル』の稽古中、アメリカとイラクの戦争が始まった。

 その翌日、台詞の追加を知らされた。主に、「富士」が、「ナマコ」という人物に「復讐」を教えるところだったと思う。私達キャストは、野田さんが言う新しい台詞を、各自の台本に書き込んでいった。私は書きながら、

(この台詞を私が言うんだ、言うんだ)

 と、半ば自分に言い聞かせるように鉛筆を走らせていた。

(この芝居、本当に上演するんだ)

 という震えるような想いと、

(信じて()るんだ)

 という覚悟のような気持ちが混在していた。

 でも何処かで、とても意味のあることに関わっていられる誇らしい気持ちが、私の中に確実にあった。

 開戦翌日の台詞の追加を含め、台詞のカットやシーンの入れ替えなど、稽古中に様々な手直しが加えられた末、『オイル』は劇場へと乗り込んでいったのである。

 東京公演の初日、芝居が終わってからのカーテンコールは不思議な雰囲気だった。

 一瞬の()が空いて、拍手が起こった、そんな感じだった。

 ある日は、キャストが舞台前方に並ぶまで、客席はシーンとしていた。

 それは、お客さんの素直なリアクションだったのだと思う。

 実際、私も、カーテンコールにどんな顔をして出て行けばいいんだろう、カーテンコールがなくてもいいんじゃないかな? と真剣に思っていた。あの「間」は、きっと忘れられない。あんな経験、この先もあまりない、そう思う。

「富士」でいた頃は、強烈なコトバをまくしたてていたのに、すべてが終わった今、その説得力は、ここにいる私には何もない。いつもの、芝居が終わったときの私のように、空っぽな自分に戻ってしまった。

 ただひとつ違ったのは、芝居が終わった翌日、「喋っていたこと」だろうか? 体も疲れているし、声だって少し枯れているのに、口だけが動いてしまう。テンションが上がったままだったのか、その日、私はよく喋った。まるで、昨日までコトバをまくし立てていた身体が、日常に戻れないように。(あれ? 今日は動かないの?)と言わんばかりに……。

 世界は今日も動き続けている。征服する者される者が、各々の都合で動く世の中を、私たちは生きている。

 私だって戦争は反対だ。でも、自分の大切な人達を大切にすることが、かけがえのない愛なのではないだろうか? 神様とか宗教とか以前に、自分が大切にするべき人の存在を忘れないこと、それは立派な反戦だと思う。

 NODA・MAPの『オイル』をご覧になっていない方にはさっばり分からない文章を書いたかもしれない。『オイル』について書くのは本当に難しい。だから、これは私の覚え書きとして残しておこう。

十年後のために

 夢はなんですか?

 小さい頃から何度も聞かれる質問だ。大人になって、仕事をしている今も「夢はなんですか?」と聞かれる。

 子供の頃の私の夢、と言えば、とても単純なもので、「本が色々読めそうだから」本屋さん、「服が色々着られそうだから」洋服屋さん……など、自分の欲求に直結したものばかりだった。

 そんな夢とはまた別に、私はお芝居が好きだった。

 母の着物を引きずって、お姫様の真似事をしたり、昔あった鎌倉の祖父の家で芝居ごっこをしたり。あげくの果ては、親友が家に遊びに来たとき、「お芝居ごっこ、やろうよ」と言って、結局私一人がやっていたらしい。このことは覚えていないのだが、最近になって彼女から聞かされて、ホントぞっとした。

 劇場へ行くのも好きだった。プログラム売り場のおねえさんに、新しい写真集などが出たら見せてもらったり、歌舞伎座の二階席の後ろから芝居をそっと観たり、三階に行くと、大向こうの人の声が飛び交っているのが妙に怖かったり……。華やかな芝居の世界が、日常を超えた場所のようで好きだった。

 自分では気付かないうちに、私はお芝居の中に夢を見ていたのかもしれない。

 そして、今、私はその「芝居」を自分の仕事としている。

 それが私の夢だったんだとしたら、私の夢は叶ったのかもしれない。しかし私は、今もなお夢を探し続けている。仕事をしていることで、夢が叶ったと思えない私がいる。

 芝居は「嘘」の世界だ。

 しかし、その虚構の中で生きる私達俳優を見て、ちょっとだけ幸せになったり、心が動いたり、泣いたりする人達がいる。その感動は嘘ではないはずだ。そのことは不思議だし、特殊な世界であると改めて思う。

 でも、私は何処かで誰かが感動してくれることを幸福に思うし、その「嘘」の中に生まれた一瞬の真実を求めている、夢を見ている。

「夢」とは、見るものではなく、それを叶えようとする人の心意気。それがあれば、夢は「叶う」と、誰かが言っていた。

 私も、そうかなぁと思う。どんなに苦しい状況でも、哀しみにあふれた心でも、たったひとすじの光に手をのばせる勇気があれば、夢に届く。そんな気がする。

 夢はなんですか?

 ……愛かなぁ、と思う。

 悲しい事件、戦争、今なお絶えることのない争いの数々……。毎日流れるニュースを見ていて感じることだ。大切な人を大切にするシンプルな気持ち、愛することの尊さを思う。愛ある人生が、私の夢、かなぁ。

 十年後、二十年後の自分がこの文章を読んだら(あの頃はねぇ)なんて思うかもしれない。いつまでも大人になれぬまま、大人ぶっているかもしれない。でもいい。そんなふうに過去の自分を微笑ましく思えたらいい。

 自分の人生、この世界に夢を求め続けていたい。そのために、今を生きていこうと思う。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2007/05/11

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松 たか子

マツ タカコ
まつ たかこ エッセイスト、女優、歌手。1977(昭和52)年 東京都生まれ。讀賣演劇大賞他多数受賞。

掲載作は『松のひとりごと』(2003年、朝日新聞社)より自選。電子文藝館には父である九代目松本幸四郎氏の『役者幸四郎の俳遊俳談』、『句集 仙翁花』、母である藤間紀子氏の『高麗屋の女房』も掲載させていただいている。

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